【続篇完結】第四皇子のつがい婚―年下皇子は白百合の香に惑う―

熾月あおい

文字の大きさ
上 下
10 / 60
二章 第四皇子、白百合に陰謀を聴く。

2-2 妃殿下の呼称

しおりを挟む
「だいだい……まだ正式には、これは妃殿下ではないぞ」

 燎琉りょうりゅう皓義こうぎの言葉尻をとらえてこう言ったのは、もしかすると半分は、からかわれて口惜くやしいがゆえの負け惜しみのようなものだったかもしれない。

 そして、もう半分の原因は――……たぶん、戸惑いだ。

 妃殿下という響きは、燎琉の胸を、ひどくざわつかせる。くすぐったいような、どうもわりが悪いような、言明しがたい奇妙な感情が湧いてくるのだ。

 たしかに、瓔偲はもうひと月もすれば、紛れもなく燎琉の妃という立場になる相手だった。それは間違いないことだ。

 けれども、いま目の前にいる、この凛としたたたずまいのうつくしい人が、自分のつがいであり、伴侶つまになるのだとは――……どうしたって、実感が湧かない。

 それよりも、考えるだけで、どうも頭が、ぼう、と、してきてしまうのだ。

 妃殿下、と、そう呼ばれて何も言わなかった当の瓔偲は、いったい、燎琉との婚姻のことを、どう受け止めているのだろうか。ちらりと相手をうかがい見ると、彼は燎琉の視線に気がついて、すこし不思議そうに、ことりと首を傾けてみせた。

「どうかなさいましたか、殿下……?」

「っ、なんでもない……! とりあえずいつまでもこんなところで突っ立ってないで、さっさと正房へやへ行くぞ」

 燎琉はわめくような声で瓔偲を促した。瓔偲はまだすこしばかり黙ったままで燎琉を見返していたが、やがて、はい、と、静かに応じた。

「皓義、茶を持て」

 従者に短く命じておいて、燎琉は正堂おもやへ続くきざはしへと歩を進めた。

桂花けいかのような、いい香りがいたしますね」

  燎琉が居室としている正房に足を踏み入れた相手は、開口一番、そんなことを言った。

「そうか?」

 燎琉はややぶっきらぼうに応じる。すると瓔偲は、燎琉を見詰めたままに、じっと黙り込んでしまった。

「っ、なんだよ」

 燎琉は瓔偲の反応にややたじろいでしまう。気まずくなって、む、と、くちびるを引き結び、鼻頭に皺を寄せていた。

「ここはしょうけい殿でんだからな」

 それでもすぐに、そんなことを口にしている。

「名に違わず、院子なかにわには桂花の木があったろう。桂花の香りがするというなら、その香が殿舎に染みついているのかもな」

 早口に告げたのは、多分に、場に落ちた沈黙もだに堪えかねたためだった。

 とはいえ、言った内容は、まるで適当というのでもない。

 三大香木ともいわれる桂花――金木犀――の木が二本、この椒桂殿の院子には、象徴のように植えられていた。秋になれば、橙色のちいさな愛らしい花をたくさんつけて、かぐわしい芳香を辺りいっぱいに漂わせることだろう。

 今春、椒桂殿を与えられて越してきたばかりの燎琉は、この殿舎で桂花が咲く時期をまだ過ごしてはいなかった。が、院子にわの東西に植えられた桂花木はそれなりに立派なものだったから、きっと時期になればすばらしい香りを楽しむことができるようになるはずだ。

 燎琉の言葉を受けて、瓔偲は、いま通り過ぎてきたばかりの院子のほうを軽く振り向くようにした。納得したのかどうなのか、ふ、と、口許くちもとをやさしくゆるめる。

 その表情に、どきりとする。

 なぜか気恥ずかしくて、燎琉は相手からあからさまに顔を背けてしまった。

「……座ったらどうだ」

 相手にそう椅子だけ勧めておいて、燎琉自身は窓辺のほうまでつかつかと歩いていた。瓔偲は燎琉に言われたままに、卓子たくしの傍の椅子いしにおとなしく腰掛けている。

 ふいに、いま房間へやにふたりきりなのだと意識してしまって、どうしたものか――己もまた卓子を挟んで向かいの椅子に座るべきかどうか――燎琉は困り果てた。なんともたまれない、落ち着かない気分で、しばらく窓辺をうろうろと歩き回る。

 そんなこちらを無言で眺めていた瓔偲が、やがてふと、口を開いた。

きさき、と……わたしがそう呼ばれたのが、殿下には、お気に召しませんでしたか?」

 使われた妃殿下という呼称が気に喰わなかったのか、と、彼は静かにそんなことを問うてきた。

 はっとして立ち止まり、燎琉は瓔偲のほうを見る。相手は苦笑めいた、なんとも複雑な笑みを口許に浮かべていた。

「殿下のご気分を害してしまったのなら、あやまります。申し訳ございませんでした」

「いや……べつに、そんなのじゃないが」

 燎琉は眉を寄せつつ、曖昧あいまいに答えた。

 だいたい、もしもその呼称が原因で燎琉が不機嫌になったのだとすれば、責められるべきは、それを使った皓義のはずである。瓔偲には何のとがもないことだった。

 それなのになぜ、彼は詫びるのだろう。

 加えていうなら、燎琉は別に、瓔偲に対する妃の呼称が気に食わなかったわけでもなかったのだ。先程、まだ妃ではないと言ってみせたのは、揶揄やゆに対して悔し紛れに張った意地みたいなものである。

 それでももしいまの自分が、瓔偲から不機嫌に見えているというのなら、その原因は、きっと燎琉の中にある大きな困惑である。

 そのことを、いったいどう説明したものだろう。

 自分の中でぐちゃぐちゃになっている感情にとにかくいらついて、燎琉は、継ぐべき言葉を探しあぐんだ。

 そのままむっと黙り込み、窓の傍のながいすにどかりと腰掛ける。

 そんな燎琉の態度をどう受け取ったのか、今度、瓔偲はすこしだけ困ったような表情を見せた。

「ご婚約が、破談になったとか」

 控え目な声が、そんなことを言う。

「……正確には、婚約に至る前に、白紙になったんだがな」

 燎琉は顔を背けつつ訂正した。

「さようですか……ほんとうに、申し訳ありませんでした」

 燎琉の言葉を受けて、瓔偲が深々と頭を下げる。その静かな声音にはっとして相手のほうを見ると、顔を上げた瓔偲は、また困ったような表情を見せていた。

 整った美貌の浮かべるその困惑を目にすると、それまで苛ついてどこか尖った燎琉の感情は、ふと、その先端を折られてしまっていた。

「べつに……いい。だってそれは、お前のせいじゃないだろう?」

 素っ気ないながらも、結局、そんなふうに答えいる。燎琉は、ふう、と、ひとつ大きく息をついた。

 異を決して立ち上がり、瓔偲の傍へと歩み寄る。相手の向かいの椅子に座って、けれどもまだ相手を真正面から見ることはできずに目は逸らしたまま、もう一度、ふう、と、息を吐き出した。

「正直言って……戸惑ってる」

 気付けば、ややうつむき加減に、そんなふうに吐露とろしていた。

 たしかにいらついてはいるが、たぶん燎琉は、瓔偲を含め、何かに対して怒っているわけではなかった。だからこれは単なる困惑ゆえのことだ。あまりにも突然の事態に、頭も、心も、ついていっていないというだけのことに過ぎない。

 ちら、と、瓔偲を見る。

 瓔偲は燎琉の言葉を受けとめて、一拍黙ったが、当然です、と、やがてそんないらえを寄越した。

員外郎いんがいろう……鵬明さまから、おうかがいいたしました。殿下と宋家のお嬢さまとは、傍目はためにも、似合いのむつまじいご夫婦におなりだろうと、そう思わせるご様子だったと……年齢としもふさわしく、家柄も申し分のないお相手とのご縁組みの話が順調に進んでいたところに、突然、わたしのような者を望まずめとる羽目になってしまったのです。殿下のご困惑は、もっとものことと存じます」

 そう言う瓔偲の声はあまりにも冷静だ。まるで他人事ひとごとを語るかのような平坦さからは、彼が燎琉との婚姻をどう思っているのか、彼自身の抱く感情については、まるで読み取ることが出来なかった。
しおりを挟む
感想 4

あなたにおすすめの小説

秘花~王太子の秘密と宿命の皇女~

めぐみ
BL
☆俺はお前を何度も抱き、俺なしではいられぬ淫らな身体にする。宿命という名の数奇な運命に翻弄される王子達☆ ―俺はそなたを玩具だと思ったことはなかった。ただ、そなたの身体は俺のものだ。俺はそなたを何度でも抱き、俺なしではいられないような淫らな身体にする。抱き潰すくらいに抱けば、そなたもあの宦官のことなど思い出しもしなくなる。― モンゴル大帝国の皇帝を祖父に持ちモンゴル帝国直系の皇女を生母として生まれた彼は、生まれながらの高麗の王太子だった。 だが、そんな王太子の運命を激変させる出来事が起こった。 そう、あの「秘密」が表に出るまでは。

運命の息吹

梅川 ノン
BL
ルシアは、国王とオメガの番の間に生まれるが、オメガのため王子とは認められず、密やかに育つ。 美しく育ったルシアは、父王亡きあと国王になった兄王の番になる。 兄王に溺愛されたルシアは、兄王の庇護のもと穏やかに暮らしていたが、運命のアルファと出会う。 ルシアの運命のアルファとは……。 西洋の中世を想定とした、オメガバースですが、かなりの独自視点、想定が入ります。あくまでも私独自の創作オメガバースと思ってください。楽しんでいただければ幸いです。

【完結・ルート分岐あり】オメガ皇后の死に戻り〜二度と思い通りにはなりません〜

ivy
BL
魔術師の家門に生まれながら能力の発現が遅く家族から虐げられて暮らしていたオメガのアリス。 そんな彼を国王陛下であるルドルフが妻にと望み生活は一変する。 幸せになれると思っていたのに生まれた子供共々ルドルフに殺されたアリスは目が覚めると子供の頃に戻っていた。 もう二度と同じ轍は踏まない。 そう決心したアリスの戦いが始まる。

春風の香

梅川 ノン
BL
 名門西園寺家の庶子として生まれた蒼は、病弱なオメガ。  母を早くに亡くし、父に顧みられない蒼は孤独だった。  そんな蒼に手を差し伸べたのが、北畠総合病院の医師北畠雪哉だった。  雪哉もオメガであり自力で医師になり、今は院長子息の夫になっていた。  自身の昔の姿を重ねて蒼を可愛がる雪哉は、自宅にも蒼を誘う。  雪哉の息子彰久は、蒼に一心に懐いた。蒼もそんな彰久を心から可愛がった。  3歳と15歳で出会う、受が12歳年上の歳の差オメガバースです。  オメガバースですが、独自の設定があります。ご了承ください。    番外編は二人の結婚直後と、4年後の甘い生活の二話です。それぞれ短いお話ですがお楽しみいただけると嬉しいです!

この噛み痕は、無効。

ことわ子
BL
執着強めのαで高校一年生の茜トキ×αアレルギーのβで高校三年生の品野千秋 α、β、Ωの三つの性が存在する現代で、品野千秋(しなのちあき)は一番人口が多いとされる平凡なβで、これまた平凡な高校三年生として暮らしていた。 いや、正しくは"平凡に暮らしたい"高校生として、自らを『αアレルギー』と自称するほど日々αを憎みながら生活していた。 千秋がαアレルギーになったのは幼少期のトラウマが原因だった。その時から千秋はαに対し強い拒否反応を示すようになり、わざわざαのいない高校へ進学するなど、徹底してαを避け続けた。 そんなある日、千秋は体育の授業中に熱中症で倒れてしまう。保健室で目を覚ますと、そこには親友の向田翔(むこうだかける)ともう一人、初めて見る下級生の男がいた。 その男と、トラウマの原因となった人物の顔が重なり千秋は混乱するが、男は千秋の混乱をよそに急に距離を詰めてくる。 「やっと見つけた」 男は誰もが見惚れる顔でそう言った。

【完結】守護霊さん、それは余計なお世話です。

N2O
BL
番のことが好きすぎる第二王子(熊の獣人/実は割と可愛い) × 期間限定で心の声が聞こえるようになった黒髪青年(人間/番/実は割と逞しい) Special thanks illustration by 白鯨堂こち ※ご都合主義です。 ※素人作品です。温かな目で見ていただけると助かります。

【完結】僕はキミ専属の魔力付与能力者

みやこ嬢
BL
【2025/01/24 完結、ファンタジーBL】 リアンはウラガヌス伯爵家の養い子。魔力がないという理由で貴族教育を受けさせてもらえないまま18の成人を迎えた。伯爵家の兄妹に良いように使われてきたリアンにとって唯一安らげる場所は月に数度訪れる孤児院だけ。その孤児院でたまに会う友人『サイ』と一緒に子どもたちと遊んでいる間は嫌なことを全て忘れられた。 ある日、リアンに魔力付与能力があることが判明する。能力を見抜いた魔法省職員ドロテアがウラガヌス伯爵家にリアンの今後について話に行くが、何故か軟禁されてしまう。ウラガヌス伯爵はリアンの能力を利用して高位貴族に娘を嫁がせようと画策していた。 そして見合いの日、リアンは初めて孤児院以外の場所で友人『サイ』に出会う。彼はレイディエーレ侯爵家の跡取り息子サイラスだったのだ。明らかな身分の違いや彼を騙す片棒を担いだ負い目からサイラスを拒絶してしまうリアン。 「君とは対等な友人だと思っていた」 素直になれない魔力付与能力者リアンと、無自覚なままリアンをそばに置こうとするサイラス。両片想い状態の二人が様々な障害を乗り越えて幸せを掴むまでの物語です。 【独占欲強め侯爵家跡取り×ワケあり魔力付与能力者】 * * * 2024/11/15 一瞬ホトラン入ってました。感謝!

【完結】ここで会ったが、十年目。

N2O
BL
帝国の第二皇子×不思議な力を持つ一族の長の息子(治癒術特化) 我が道を突き進む攻めに、ぶん回される受けのはなし。 (追記5/14 : お互いぶん回してますね。) Special thanks illustration by おのつく 様 X(旧Twitter) @__oc_t ※ご都合主義です。あしからず。 ※素人作品です。ゆっくりと、温かな目でご覧ください。 ※◎は視点が変わります。

処理中です...