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一章 第四皇子、白百合との婚姻を命じらる。
1-4 椒桂殿にて
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皇族男子は、十八歳を迎えるまでは後宮に――母たる后、あるいは妃に与えられた殿舎に、共に――住まうが、成人と同時に、楽楼宮内にある殿舎のうちのひとつを賜って独立するのが慣例だ。燎琉が成人した際に与えられたのは、皇帝が起居する正殿の東側に立ち並ぶ殿舎群のうちのひとつ、椒桂殿と呼ばれる場所だった。
朝堂で父帝に謁見し、不本意な婚姻の勅命を授けられた燎琉は、いま、父帝のもとを辞して居宮である椒桂殿への帰途にあった。
楽楼宮の中を縦横に走る、壁と壁の間の路を抜けた先、虎と牡丹の図柄が彫り込まれた影塀の向こうが椒桂殿の表門だ。それを越すと横に細長い前院があり、そこから更に華垂門を越えたところには、院子が広がっていた。
そして、院子を抜けた北正面、短い階を上ったところに建つのが正堂である。中央に居房、その左右の並びには耳房と呼ばれる小房が附属し、それぞれが臥房と書房となっていた。
さらに、院子を東西に挟むようにして、東廂房と西廂房とが建っている。四合院と称されるつくりで、楽楼宮内の殿舎は基本的にどれも――堂宇の規模の大小こそはあれ――同様のものであった。
燎琉がちょうど椒桂殿の院子へと足を踏み入れかけたときである。御座房――表門の並びにある南側の堂宇で、侍者や下男・下女など、側仕えの者たちの房間となっている――から、一人の青年が姿を見せた。
「殿下、おもどりなさいませ」
そう呼びかけてきたのは、幼い頃から燎琉に仕える侍者の李皓義である。
李家は、由緒ある武門の家柄だ。皓義は現当主の孫――二男坊――にあたるが、燎琉にとっては乳母子でもあった。皓義の母が、燎琉の母に乳母として使えた縁で、幼い頃から兄弟のように生い立った相手である。
形の上では侍者とはいえ、燎琉にとって、誰よりも気安く接することのできる存在だった。相手もまた――燎琉自身がそう望んだのもあって――変に隔てを置いたりせず、良い意味で、遠慮会釈なく付き合ってくれていた。
「殿下、それで……陛下からは、何と?」
皓義に訊ねられ、正堂へ向かって院子を抜けながら、燎琉は眉根を寄せる。
「どうもこうもない」
振り返ると、くちびるを引き結びつつ、相手を軽く睨めつけるような視線で見た。
燎琉に仕える者として、いまの皓義の質問は当然のそれではある。が、なにしろこちらは機嫌がよくない。もちろん、不愉快、不機嫌の原因は、先程父皇帝から命じられたばかりの意に染まぬ婚姻にあった。
「郭瓔偲を娶れ、と……ちなみに婚儀はひと月後だ」
燎琉が吐き捨てるように言うと、皓義は一瞬、目を瞠る。
「それはまた随分と急なことで……えらいことになりましたね、殿下」
苦笑するように言った。
「笑いごとじゃない」
扉を押し開けて、居間である正房へと足を踏み入れつつ、燎琉は言う。
「まあ、そうでしょうね」
後ろに続く皓義は軽く肩を竦めた。
「それで、宋家の御令嬢とのお話は?」
「白紙だ」
「ああ、それは残念でしたね……宋家のお嬢さまでしたら、殿下のお相手として、家柄も申し分ない。それよりなにより、殿下もお嬢さまをお気に召しておられるようでしたのに」
皓義の言葉に、まったくだ、と、燎琉は眉間に皺を寄せた。
そんな燎琉を見ながらふと沈黙した皓義だったが、やがて、ふう、と、しずかな溜め息をついた。
「皇族ならば、もとより想う相手と娶えるとは思わない。ならばせめて愛を紡げそうな相手との婚姻を、と……それが夢見がちな殿下の常からの口癖でしたし、叶いそうだっただけに、誠に以て、ほんとうに、遺憾」
「……夢見がちは余計だ」
従者の要らぬ付け足しに、燎琉はますます表情を険しくして、低い声で言った。
燎琉とて曲がりなりにも皇族だ。しかも現皇帝と皇后の間の唯一の男子である。己が置かれている立場が――望むと望まざるとに関わらず――重いものであることだって自覚していた。
だから、いずれ自分が誰かと婚姻を結ぶ折には、それはかなりの確率で当人同士の意思とはまるで関わらない、所謂政略によるそれになるだろうことは想定の上である。
想いを寄せる相手と、そうそううまく婚姻が叶うなどとは、最初から期待してはいない――……皇族に生まれたものの、それは宿命ともいうべきものだ。
仕方がない。
だが、それでも、だからこそせめて、愛し、愛されることができそうな相手との縁があれば、と、そう願っていたのは確かだった。
妃に迎える相手を、燎琉は、出来れば愛し、大切にしたいと望んでいた。そして、母皇后が燎琉の相手として白羽の矢を立てたらしい宋家の娘は、おっとりと可愛らしく、この少女が妻ならば互いに情愛を交わせそうだ、と、そう思える相手だった。
それだけに、今度のことで、彼女との縁が切れてしまったのには、正直言って残念だ。腹だって立っている――……誰に向けるべき業腹かは、わからないが。
燎琉は、はあ、と、これみよがしに大きく溜め息を吐いた。
苛立ちにまかせて、がしがし、と、頭を掻く。それを見た皓義はまた、ちらり、と、苦笑していた。
「お茶でもご用意しましょうか。一服して落ち着かれては?」
そう提案されたが、燎琉は首を振った。
「いや……これから叔父上のところへ行かなければならないんだ」
この燎琉の言葉に、皓義は軽く目を瞬いた。
「鵬明皇弟殿下のところですか? それは、えっと、鵬明殿下に、陛下へのお取り成しを頼みに行かれるとか?」
燎琉には意中の相手がいる。しかし、今度のことで、それとは別の人物との婚姻を皇帝その人から命じられてしまった。
その婚姻について、たとえば、皇帝に近く、力のある人物に頼めば、再考を願うこととてかなうかもしれない。だから皇帝の弟に会うつもりなのか、と、皓義は燎琉の意図をそう読んだようだった。
「いや……」
けれども燎琉は、皓義の問いかけに静かに頭を振った。
朝堂で父帝に謁見し、不本意な婚姻の勅命を授けられた燎琉は、いま、父帝のもとを辞して居宮である椒桂殿への帰途にあった。
楽楼宮の中を縦横に走る、壁と壁の間の路を抜けた先、虎と牡丹の図柄が彫り込まれた影塀の向こうが椒桂殿の表門だ。それを越すと横に細長い前院があり、そこから更に華垂門を越えたところには、院子が広がっていた。
そして、院子を抜けた北正面、短い階を上ったところに建つのが正堂である。中央に居房、その左右の並びには耳房と呼ばれる小房が附属し、それぞれが臥房と書房となっていた。
さらに、院子を東西に挟むようにして、東廂房と西廂房とが建っている。四合院と称されるつくりで、楽楼宮内の殿舎は基本的にどれも――堂宇の規模の大小こそはあれ――同様のものであった。
燎琉がちょうど椒桂殿の院子へと足を踏み入れかけたときである。御座房――表門の並びにある南側の堂宇で、侍者や下男・下女など、側仕えの者たちの房間となっている――から、一人の青年が姿を見せた。
「殿下、おもどりなさいませ」
そう呼びかけてきたのは、幼い頃から燎琉に仕える侍者の李皓義である。
李家は、由緒ある武門の家柄だ。皓義は現当主の孫――二男坊――にあたるが、燎琉にとっては乳母子でもあった。皓義の母が、燎琉の母に乳母として使えた縁で、幼い頃から兄弟のように生い立った相手である。
形の上では侍者とはいえ、燎琉にとって、誰よりも気安く接することのできる存在だった。相手もまた――燎琉自身がそう望んだのもあって――変に隔てを置いたりせず、良い意味で、遠慮会釈なく付き合ってくれていた。
「殿下、それで……陛下からは、何と?」
皓義に訊ねられ、正堂へ向かって院子を抜けながら、燎琉は眉根を寄せる。
「どうもこうもない」
振り返ると、くちびるを引き結びつつ、相手を軽く睨めつけるような視線で見た。
燎琉に仕える者として、いまの皓義の質問は当然のそれではある。が、なにしろこちらは機嫌がよくない。もちろん、不愉快、不機嫌の原因は、先程父皇帝から命じられたばかりの意に染まぬ婚姻にあった。
「郭瓔偲を娶れ、と……ちなみに婚儀はひと月後だ」
燎琉が吐き捨てるように言うと、皓義は一瞬、目を瞠る。
「それはまた随分と急なことで……えらいことになりましたね、殿下」
苦笑するように言った。
「笑いごとじゃない」
扉を押し開けて、居間である正房へと足を踏み入れつつ、燎琉は言う。
「まあ、そうでしょうね」
後ろに続く皓義は軽く肩を竦めた。
「それで、宋家の御令嬢とのお話は?」
「白紙だ」
「ああ、それは残念でしたね……宋家のお嬢さまでしたら、殿下のお相手として、家柄も申し分ない。それよりなにより、殿下もお嬢さまをお気に召しておられるようでしたのに」
皓義の言葉に、まったくだ、と、燎琉は眉間に皺を寄せた。
そんな燎琉を見ながらふと沈黙した皓義だったが、やがて、ふう、と、しずかな溜め息をついた。
「皇族ならば、もとより想う相手と娶えるとは思わない。ならばせめて愛を紡げそうな相手との婚姻を、と……それが夢見がちな殿下の常からの口癖でしたし、叶いそうだっただけに、誠に以て、ほんとうに、遺憾」
「……夢見がちは余計だ」
従者の要らぬ付け足しに、燎琉はますます表情を険しくして、低い声で言った。
燎琉とて曲がりなりにも皇族だ。しかも現皇帝と皇后の間の唯一の男子である。己が置かれている立場が――望むと望まざるとに関わらず――重いものであることだって自覚していた。
だから、いずれ自分が誰かと婚姻を結ぶ折には、それはかなりの確率で当人同士の意思とはまるで関わらない、所謂政略によるそれになるだろうことは想定の上である。
想いを寄せる相手と、そうそううまく婚姻が叶うなどとは、最初から期待してはいない――……皇族に生まれたものの、それは宿命ともいうべきものだ。
仕方がない。
だが、それでも、だからこそせめて、愛し、愛されることができそうな相手との縁があれば、と、そう願っていたのは確かだった。
妃に迎える相手を、燎琉は、出来れば愛し、大切にしたいと望んでいた。そして、母皇后が燎琉の相手として白羽の矢を立てたらしい宋家の娘は、おっとりと可愛らしく、この少女が妻ならば互いに情愛を交わせそうだ、と、そう思える相手だった。
それだけに、今度のことで、彼女との縁が切れてしまったのには、正直言って残念だ。腹だって立っている――……誰に向けるべき業腹かは、わからないが。
燎琉は、はあ、と、これみよがしに大きく溜め息を吐いた。
苛立ちにまかせて、がしがし、と、頭を掻く。それを見た皓義はまた、ちらり、と、苦笑していた。
「お茶でもご用意しましょうか。一服して落ち着かれては?」
そう提案されたが、燎琉は首を振った。
「いや……これから叔父上のところへ行かなければならないんだ」
この燎琉の言葉に、皓義は軽く目を瞬いた。
「鵬明皇弟殿下のところですか? それは、えっと、鵬明殿下に、陛下へのお取り成しを頼みに行かれるとか?」
燎琉には意中の相手がいる。しかし、今度のことで、それとは別の人物との婚姻を皇帝その人から命じられてしまった。
その婚姻について、たとえば、皇帝に近く、力のある人物に頼めば、再考を願うこととてかなうかもしれない。だから皇帝の弟に会うつもりなのか、と、皓義は燎琉の意図をそう読んだようだった。
「いや……」
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