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お品書き【二】 どら焼き ~居場所を失くした者~

どら焼き ~居場所を失くした者~【3】

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「たぁた、きまっし」


 誰にも聞こえないような小さな声が口をついたのは、すっかり疲れ切ってしまった頃のこと。足が棒になりそうだった私は、自然とそんなことを口にしていた。
 その直後、どこからともなく甘い香りが漂ってきて、それに吸い寄せられるように再び足を踏み出した。


 あんなに疲れていたはずなのに、そんなことは忘れてしまったかのように足取りが軽くなっていた。
 ふわりと鼻先をくすぐるような、優しい香り。微かな手がかりを見失わないように、無意識のうちに神経を研ぎ澄ませてしまう。


「あった……」


 立派な格子造りの門に、古びた瓦屋根。
 昼の空の下で見るお屋敷は、昨夜見たような気がするものとは雰囲気が全然違う。
 それなのに、ここだ……という確信がある。そして、記憶はより鮮明になっていた。


「……お邪魔します」


 インターホンも、家人を呼び出せそうなものもない。
 控えめに言いながらゆっくりと門を開ければ、見覚えのある景色が現れた。


 夢にしては、あまりにもそっくり。やっぱり、自分で見ていたとしか思えない。
 そんなことを思いながら歩みを進める足は、どこか慎重だった。


 緊張しているのか、鼓動がやけに大きく鳴っているような気がする。
 玄関に辿り着いても誰にも会うことはなく、少しの間ためらった末におもむろに手を伸ばした。ガラガラと音を立てながら、戸が開いていく。


「お邪魔します……。あの~……誰かいませんか?」


 誰の名前も呼ばなかったのは、ここに来て急に不安になってきたから。
 記憶は現実のものだと確信はあるはずなのに、もしかしたら不法侵入になるんじゃないかと脳裏に過って、尻込みしそうになっていた。


 靴を脱いで廊下を進み、見覚えのある襖に手をかける。音を立てないようにそっと引けば、開いた襖の隙間から灰色の着物を身に纏った背中が見えた。


「……雨天様?」


 恐る恐る口にしたのは、昨夜聞かされた名前。
 その瞬間、バッと勢いよく振り返った男性の顔は、私の記憶の中の男性とまったく同じだった。


「ひかり……! なぜここに⁉」


 目をまん丸にした雨天様は、縁側に腰かけていた体をこちらに向け、驚嘆の声を上げた。
 自分の名前を呼ばれた直後、私は曖昧だった部分を含めた昨夜のことをすべて思い出した。


「なぜだ? どうやって来たのだ?」

「えっと、バスで橋場町まで来て、あとは普通に歩いて……」

「普通に歩いて? そんなわけがなかろう……」


立ち上がって私の傍にやって来た雨天様は、信じられないと言わんばかりの顔つきだったけれど。


「いや……どうやら本当のようだな」


 程なくして、ひとりで納得したように呟き、困惑の表情でため息をついた。


「まったく……。コンの奴め、ちゃんと記憶が消えたのか確認しなかったのか」


 そして、呆れ混じりの声を落としたあと、「帰りなさい」と告げられてしまった。


「どうして……?」

「私たちのことは、話しただろう? ここに来られたということは、記憶に残っているはずだ。ひかりと私たちは、本来なら一緒にいられるはずがないのだ」

「でも……私、昨日のことが気になって……」

「それでも、帰りなさい。ここは、普通の人間が長居できるような場所ではない」


 雨天様は、言い終わるとすぐに私の肩に手を添え、「外まで送ろう」と困ったように笑った。
 優しい笑みも、やっぱりちゃんと覚えている。


 あんみつやお茶とは違う、優しい温もり。それが雨天様の手や表情や言葉だったことを思い出し、私が求めていたものだったということも確信した。


「あの、雨天様! 私……!」

「あ、雨天様! ……って、ひかり様⁉」


 廊下に出ると、コンくんと鉢合わせた。コンくんも、私を見た途端に目を丸くして、私と雨天様を交互に見た。


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