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一章 溺れる人魚姫
三 唯一の共感者【3】
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選手だった時、練習がつらくて苦しくてたまらなかった。
どんなに練習を頑張ってもレースで結果を残せなかった時は、言葉にできないくらい悔しくてたまらなくて、そんな夜はいつもひとりで泣いた。
苦しい日々から逃げ出したいと思ったことは、一度や二度じゃない。
プールに向かう足が止まった日もあった。
辞めたいと思い続けた時期もあった。
それでも、逃げようとする自分自身と戦い、必死に苦しみ抜いてきた。
一レースでたったひとりしか手に入れられない勝利の瞬間のために。
「遊びに行く奴らを見ながら練習するのが嫌になったこともあるし、我慢ばかりしてつらかったはずなのに……今はあの日々に戻れることを望んでるんだよなぁ」
「うん……」
放課後に遊びに行く友人たちが羨ましかった。
スイーツや肉まんを買い食いする高校生の姿を見るたび、羨ましかった。
それでも、遊びに行くよりも練習に励み、食べたいものを食べるよりも食事をコントロールする生活を選んできたのは、水泳選手として実績を残したかったから。
ほんの少しの気の緩みが大きな後悔に繋がらないように、練習も食生活も決して妥協しなかった。
何年も何年も、そんな生活を送ってきた。
すべては、インターハイでの優勝とオリンピックを目指して……。
「俺たちみたいにそうやって生きてきた人間は、ある日突然『はいどうぞ』って自由時間を与えられてもどうすればいいのかわからないんだよ」
輝先輩の言葉ひとつひとつが、私の心の内を吐き出してくれているようだった。
選手生命を絶たれたあの日から、こんなにも私に共感してくれた人はいなかった。
苦しいのに嬉しくて、悲しいのに心はほんの少しだけ救われた気がして……。
「……ッ、ふっ……っ」
泣きたくないのに、とうとう涙が零れ落ちた。
「涙も……もう出ないって思うほど散々泣いたはずなのに、不思議なくらい出るんだよな」
それは独り言だったのかもしれない。
だけど、私には彼が共感してくれたようにしか思えなかった。
胸の奥が痛い。
もう痛くないはずの足が痛い。
周囲の同情や哀れみ交じりの視線が痛い。
心も体ももうずっと鉛を埋め込まれたように重くて、ただ普通に呼吸をするのも苦しくて……。なによりも、生きていることがつらかった。
「これから……どうすればいいのかわからないの……」
気づけば、誰にも言ったことがなかった本音を吐き出していた。
輝先輩なら共感してくれると思ったのかもしれない。
そうじゃなくても、彼にだけは本心を零しても許される気がした。
「わかるよ。俺も同じだったから」
程なくして返ってきた言葉に、私は安堵する。
共感してもらえたことにも、同じ気持ちを知ってくれていることにも、ただただ安心した。
仲良くなんてない。
昨日知り合ったばかりで、まともに話したのなんて今日が初めて。
名前と学年以外は、元陸上選手だってことしか知らない。
だけど……それでも今は、輝先輩だけが私の唯一の共感者のように思えた。
世界でたったひとり、彼とだけはこの痛みを分かち合える気がしたのだ。
「大人はずるいよな」
ぽつりと呟かれた声に、思わず顔を上げる。
涙で濡れた私の顔を見た輝先輩は、眉を下げて泣きそうな表情で微笑んだ。
「散々練習させて、努力するように叱咤激励して……。努力の仕方は教えたくせに、誰も選手生命を取り戻す方法も立ち直り方も教えてくれないんだから……」
「……っ、うん……」
コーチも、顧問も、両親でさえも……誰ひとりとして、一番知りたいことを教えてくれなかった。
これまで私の道標だった人たちは、励まして慰めて同情はしてくれたけれど。選手として戻る方法だけは、一度も教えてくれなかった。
それが無理だと言うのなら、せめて立ち直り方だけでも教えてくれればよかったのに……。
『時間はかかっても、きっと笑える日が来るから』
両親は、無責任にもそう言っただけだった。
時間はかかっても、ってなに?
きっと笑える日が来る、っていつ?
遥か遠い未来の話なんてしてくれなくていい。
だって……私は、今どうすればいいのかわからないのに……。
「時間が経っても、きっと今抱えてる傷は綺麗には消えない。自分のすべてだったものを失ったんだ……。簡単に立ち直れる日が来ることなんて、想像もできない」
輝先輩の言葉に、絶望感を抱く。
それなのに、その場しのぎの綺麗事を言う大人たちよりも、ずっと信用できた。
「もしかしたら、俺たちはお互いの気持ちが一番わかるかもしれないな」
視線の先にいる彼が、ため息交じりに苦笑を漏らす。
私は涙を拭い、小さく頷いた。
第三倉庫の裏に隠れたふたつの影が、静かに揺れる。
それからはお互いになにも言わなくて、ただただ隣で座っているだけだった。
だけど、なにも言わなくてもよかった。
自分の気持ちをわかってくれる人がいたこと。
その相手が隣にいてくれること。
ふたつの事実が、私をほんの少しだけ救ってくれた。
どす黒い感情で包まれていた心が、ゆっくりともとの色を取り戻していく気がする。
未恵の言動はまだ許せないけれど、それでもさっきみたいに殴りかかりそうな衝動はもうなかった。
いつの間にか、空は厚い雲に覆われていた。
今にも雨が降り出しそうだったけれど、今はまだここにいたかった。
だって、縋る場所も逃げる場所もなかった私に、輝先輩だけが居場所を与えてくれた気がしたから……。
どんなに練習を頑張ってもレースで結果を残せなかった時は、言葉にできないくらい悔しくてたまらなくて、そんな夜はいつもひとりで泣いた。
苦しい日々から逃げ出したいと思ったことは、一度や二度じゃない。
プールに向かう足が止まった日もあった。
辞めたいと思い続けた時期もあった。
それでも、逃げようとする自分自身と戦い、必死に苦しみ抜いてきた。
一レースでたったひとりしか手に入れられない勝利の瞬間のために。
「遊びに行く奴らを見ながら練習するのが嫌になったこともあるし、我慢ばかりしてつらかったはずなのに……今はあの日々に戻れることを望んでるんだよなぁ」
「うん……」
放課後に遊びに行く友人たちが羨ましかった。
スイーツや肉まんを買い食いする高校生の姿を見るたび、羨ましかった。
それでも、遊びに行くよりも練習に励み、食べたいものを食べるよりも食事をコントロールする生活を選んできたのは、水泳選手として実績を残したかったから。
ほんの少しの気の緩みが大きな後悔に繋がらないように、練習も食生活も決して妥協しなかった。
何年も何年も、そんな生活を送ってきた。
すべては、インターハイでの優勝とオリンピックを目指して……。
「俺たちみたいにそうやって生きてきた人間は、ある日突然『はいどうぞ』って自由時間を与えられてもどうすればいいのかわからないんだよ」
輝先輩の言葉ひとつひとつが、私の心の内を吐き出してくれているようだった。
選手生命を絶たれたあの日から、こんなにも私に共感してくれた人はいなかった。
苦しいのに嬉しくて、悲しいのに心はほんの少しだけ救われた気がして……。
「……ッ、ふっ……っ」
泣きたくないのに、とうとう涙が零れ落ちた。
「涙も……もう出ないって思うほど散々泣いたはずなのに、不思議なくらい出るんだよな」
それは独り言だったのかもしれない。
だけど、私には彼が共感してくれたようにしか思えなかった。
胸の奥が痛い。
もう痛くないはずの足が痛い。
周囲の同情や哀れみ交じりの視線が痛い。
心も体ももうずっと鉛を埋め込まれたように重くて、ただ普通に呼吸をするのも苦しくて……。なによりも、生きていることがつらかった。
「これから……どうすればいいのかわからないの……」
気づけば、誰にも言ったことがなかった本音を吐き出していた。
輝先輩なら共感してくれると思ったのかもしれない。
そうじゃなくても、彼にだけは本心を零しても許される気がした。
「わかるよ。俺も同じだったから」
程なくして返ってきた言葉に、私は安堵する。
共感してもらえたことにも、同じ気持ちを知ってくれていることにも、ただただ安心した。
仲良くなんてない。
昨日知り合ったばかりで、まともに話したのなんて今日が初めて。
名前と学年以外は、元陸上選手だってことしか知らない。
だけど……それでも今は、輝先輩だけが私の唯一の共感者のように思えた。
世界でたったひとり、彼とだけはこの痛みを分かち合える気がしたのだ。
「大人はずるいよな」
ぽつりと呟かれた声に、思わず顔を上げる。
涙で濡れた私の顔を見た輝先輩は、眉を下げて泣きそうな表情で微笑んだ。
「散々練習させて、努力するように叱咤激励して……。努力の仕方は教えたくせに、誰も選手生命を取り戻す方法も立ち直り方も教えてくれないんだから……」
「……っ、うん……」
コーチも、顧問も、両親でさえも……誰ひとりとして、一番知りたいことを教えてくれなかった。
これまで私の道標だった人たちは、励まして慰めて同情はしてくれたけれど。選手として戻る方法だけは、一度も教えてくれなかった。
それが無理だと言うのなら、せめて立ち直り方だけでも教えてくれればよかったのに……。
『時間はかかっても、きっと笑える日が来るから』
両親は、無責任にもそう言っただけだった。
時間はかかっても、ってなに?
きっと笑える日が来る、っていつ?
遥か遠い未来の話なんてしてくれなくていい。
だって……私は、今どうすればいいのかわからないのに……。
「時間が経っても、きっと今抱えてる傷は綺麗には消えない。自分のすべてだったものを失ったんだ……。簡単に立ち直れる日が来ることなんて、想像もできない」
輝先輩の言葉に、絶望感を抱く。
それなのに、その場しのぎの綺麗事を言う大人たちよりも、ずっと信用できた。
「もしかしたら、俺たちはお互いの気持ちが一番わかるかもしれないな」
視線の先にいる彼が、ため息交じりに苦笑を漏らす。
私は涙を拭い、小さく頷いた。
第三倉庫の裏に隠れたふたつの影が、静かに揺れる。
それからはお互いになにも言わなくて、ただただ隣で座っているだけだった。
だけど、なにも言わなくてもよかった。
自分の気持ちをわかってくれる人がいたこと。
その相手が隣にいてくれること。
ふたつの事実が、私をほんの少しだけ救ってくれた。
どす黒い感情で包まれていた心が、ゆっくりともとの色を取り戻していく気がする。
未恵の言動はまだ許せないけれど、それでもさっきみたいに殴りかかりそうな衝動はもうなかった。
いつの間にか、空は厚い雲に覆われていた。
今にも雨が降り出しそうだったけれど、今はまだここにいたかった。
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