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一章 溺れる人魚姫

三 唯一の共感者【1】

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 手を引かれるがまま歩くだけだった私は、しばらくしてハッとした。


「あのっ……!」

「誰にも見られたくないならここ。第三倉庫は廃材置き場みたいなもんだからさ」

「え……?」


 連れて行かれたのは、昨日いた場所よりもさらに奥。
 校舎の裏側ではなく、第三体育倉庫の裏だった。


「昨日の場所は、よくたむろってる連中がいるからやめておいた方がいい。第一第二倉庫は部活で使うやつが多いからダメ。でも、ここなら基本的には人が来ない」


 にっこりと笑われて、唖然としてしまう。
 毒気のない柔らかい笑顔を前に、ようやく自然と呼吸ができた気がした。


夏川輝なつかわひかる……?」


 金色の髪が、そよ風で小さく揺れる。
 太陽の光を浴びた金髪は、まるで自由だと言いたげに輝いていた。


「俺のこと、知ってるんだ。東緑が丘の人魚姫に知ってもらえてたなんて光栄だな」

「その呼び方はしないで!」


 今一番、呼ばれたくない言い方に、反射的に食ってかかってしまう。


「……ごめん。無神経だった」


 途端、彼は申し訳なさそうに眉を寄せ、頭を下げた。
 あまりに素直に謝られて面食らってしまう。
 これだと、私の方が悪いことをしたみたいに思えた。


「わかってくれたなら……いいです」

「うん。もう呼ばない」


 ホッとしたように微笑まれて、なんだか身の置き場がないような気持ちになる。


「じゃあ、美波でいい?」

「え?」

「名前、牧野美波だろ?」


 私が彼のフルネームを知っていたように、彼も知っているようだった。
 だけど、私たちはお互いに校内ではそれなりに有名だから、名前くらい知っていてもおかしくはない。


「俺のことは輝でいいよ」

「輝、先輩……?」

「ちゃんと先輩ってつけてくれるんだ」


 輝先輩がハハッと笑う。
 八重歯が覗いて、ヤンキーみたいな金髪に反して人懐っこくも見えた。


(あれ……?)


 あんなに苦しかったのに、ちゃんと息ができる。
 空気を吸って吐いて、普通に呼吸ができている。
 そのことに気づいた時、不思議な気持ちとともに安堵感が芽生えた。


「涙は引っ込んだ?」

「たぶん……」


 私が小さく頷くと、彼はおもむろに地面に腰を下ろした。
 下から私を見上げて、少し迷ったような素振りを見せたかと思うと、控えめな笑みを浮かべた。


「話、聞く?」


 決して強引ではなく、どこか私の心を慮るような言い方に聞こえた。
 一瞬ためらいながらも、首を小さく横に振る。


 輝先輩は苦笑したあとで、真剣な眼差しを寄越した。


「でもたぶん、俺には美波の気持ちがわかると思うよ」


 確信めいた言い方だった。
 そして、その理由はすぐにわかった。


 夏川輝――私より一学年先輩の彼は、中学時代から将来を期待されていた陸上選手だった。
 うちの学校には私と同じでスポーツ推薦入学し、短距離走者だったはずだ。


 一年生の時に、インターハイで優勝したと聞いたことがある。
 それが過去形なのは、輝先輩はもう選手として走っていないから。


 右膝を傷めて選手生命を絶たれた……という噂だった。
 それが本当なら、彼は私と同じような状況の中にいるのかもしれない。


「でも、別に無理強いはしない。聞いてほしくても言えないことはあるし、聞いてほしいタイミングが今じゃないってこともあるだろ」


 きっと、しつこくされていたらこの場から逃げていた。
 だけど、輝先輩はあくまで私に判断を委ねてくれた。


 それ以外にも、昨日すでに泣いているところを見られていたとか、彼はもしかしたら私と同じなのかもしれない……とか。
 色々な気持ちや事情が重なったのもあったとは思う。


 私は、静かに輝先輩の隣に腰を下ろした。


「美波はさー」

「美波って……呼び捨てですか?」

「いいだろ、さっきも呼んだし。美波も敬語じゃなくていいからさ」


 ニカッと笑われて、拍子抜けしてしまう。


 人懐っこい人だと思った。
 屈託のない笑顔と、毒気のない話し方で、人を寄せつけやすい。
 そんな風に感じた。


 二重瞼の瞳と、意志の強そうな眉。
 女子に囲まれていたところを見たことがあるけれど、綺麗な顔立ちを間近で見れば納得したような気持ちになった。
 黒かった髪は金色になっているのに、それもよく似合っている。


「で、美波はさ……もう泳げないの?」

「っ……」


 いきなり傷口をえぐられるような問いに、胸の奥がひどく痛む。
 ただ、未恵に無邪気に話しかけられた時のような感情は芽生えなかった。


 だから、一瞬だけためらいながらも口を開いていた。

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