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一章 溺れる人魚姫
二 太陽みたいな金色【1】
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プールから離れた私は、必死に歩を進めていた。
走ることもできない左足が憎い。
その上、筋トレや走り込みでつけた体力はこの半年ですっかり衰え、早歩きをするだけでも呼吸が乱れる。
はぁはぁと肩でする息は、ひどく耳障りだった。
じっとりと纏わりつく蒸し暑さに嫌悪感が募り、五感のすべてが行き場のない怒りや焦燥を感じ、それを持て余していた。
誰かに怒りをぶつけることも、なにかを恨むことも、できない。
現状を受け止めるしかないとわかっているのに、頭では理解していても心は未だに追いつく気配がないままで、まるでどこかを彷徨っているようだった。
「……っ、ふっ……」
こらえていた嗚咽が漏れ、とうとう涙が零れ落ちた。
せめて学校を出るまで我慢するつもりだった。
それなのに、私の意思に反して生ぬるい雫が頬を伝って流れていく。
生徒たちがまだ多く残っている校内では、きっと注目を浴びてしまう。
もう早歩きをする気力は残っていなかったけれど、鈍い痛みを抱える左足を引きずるようにして人目のない場所を探し求め、人がいない方へと足を向けた。
直後、ドンッと肩がぶつかり、バランスを崩した体がよろめく。
反射的に顔を上げれば、ひまわりのように明るい金髪が視界に入ってきた。
「ごめん、大丈――」
私の顔を覗き込んだその男子は、目が合った瞬間に涼しげな二重瞼の目を丸くした。
「東緑が丘の人魚姫……?」
「っ……」
胸の奥がえぐられる。
(やめて……そんな風に呼ばないで……)
独り言のように呟いた彼から顔を逸らせるようにしたものの、肩でする息のせいで声が上手く出せない。
「こっち」
すると、男子が私の手を引き、一瞬戸惑ったせいで反応が遅れた私を校舎の裏へと引っ張っていった。
思考が追いつかなくて、言葉がなにも出てこない。
泣き顔を見られたくないのに、私の手を引く彼の骨ばった手を振り解けない。
だけど、上手く動かない足が縺れてしまい、それに気づいた男子が止まった。
「ごめん……! 足、怪我してるんだよな?」
「なん、で……っ」
名前も知らない彼の言葉に、目を見開く。
直後、気まずそうな顔をされて、すべてを悟った。
私のこともこうなった事情も、同じ学校の生徒なら知っている人の方が多い。
昨夏のインターハイで二位に入賞したとき、全校集会で校長先生から表彰された。
そんな私が事故に遭った当時は、それこそクラスメイトだけじゃなく、学年を超えて校内で噂になっていたみたいだった。
手術と入院を終え、しばらく休んで久しぶりに登校したあの日は、生徒たちからの注目の視線を浴び、まるで針の筵のようだった。
目の前にいる男子だって、事情を知っていてもおかしくはない。
「あー、えっと……俺さ……」
「放して……」
「え?」
「ひとりになりたい……」
ぶっきらぼうな私の声に、彼が困ったように眉を下げる。
「いや、でも……すぐそこに人がいるし……」
運悪く、ここからそう離れていない場所で話し声がする。
すぐ傍でたむろしているのか、声が遠のく様子はない。
たぶん、校門に行くまでにはその人たちの傍を通らなければいけなくて……。まだ涙を止められない私には、他の選択肢がなかった。
「大丈夫、誰にも見えないから」
「え……?」
「人が来たら俺が壁になるし、俺も見ない。だから――」
彼の声が、私の鼓膜をそっと撫でる。
「つらさも悔しさも歯がゆさも……どうしようもない思いも、我慢しなくていいよ」
その言葉は、まるで私の心の中を見透かすようで……。知らない人の前で泣きたくなんてないのに、弱い私の涙腺は勝手に崩壊してしまう。
「……っ!」
嗚咽が漏れるまでは、あっという間だった。
(なんで……どうして……)
もう数え切れないほど繰り返した疑問が、また私の心を責め立てる。
どうしようもないことだとわかっているのに、『あのときああしていれば』『こうしていれば』という〝たられば〟が消えてくれない。
こんなことばかり考えていたって、なにも解決しない。
前にも進めないというのも、よくわかっている。
それでも、私はもうずっと一年前の夏から動けないままだった。
しゃがみこんで泣いていた私に、ふと影がかかっていることに気づく。
そろりと顔を上げると、金色の髪が初夏の風に揺れていた。
太陽の光に透ける明るい色が私には眩しすぎて、直視できなかった。
名前も知らない男子は、最初の約束を守るように私に背を向けている。
初対面なのに、与えられる優しさはありがたいはずなのに……。今は、そんなものすらなんだか痛くてたまらなかった。
夢を失ったあの日から、散々泣いた。
子どものように泣きじゃくった朝も、家族に八つ当たりしながら泣き叫んだ昼も、ひとり静かに枕を濡らした夜も……。幾度となく積み重ねてきた。
一生分泣いた……と言っても、過言じゃないかもしれない。
苦しいだけだった日々を経て、ようやく下手な笑顔でも笑えるようになったと思っていた。
だけど、ほんの一瞬で、必死に張っていた虚勢は崩れてしまった。
「ひっ……ぅ、くっ……ふっ……」
嗚咽をこらえようと唇を噛みしめても、その隙間を縫うように声が漏れる。
情けなくて恥ずかしくたまらない。
それなのに、さっき見た光景が頭から離れなくて、涙が止まらなかった。
走ることもできない左足が憎い。
その上、筋トレや走り込みでつけた体力はこの半年ですっかり衰え、早歩きをするだけでも呼吸が乱れる。
はぁはぁと肩でする息は、ひどく耳障りだった。
じっとりと纏わりつく蒸し暑さに嫌悪感が募り、五感のすべてが行き場のない怒りや焦燥を感じ、それを持て余していた。
誰かに怒りをぶつけることも、なにかを恨むことも、できない。
現状を受け止めるしかないとわかっているのに、頭では理解していても心は未だに追いつく気配がないままで、まるでどこかを彷徨っているようだった。
「……っ、ふっ……」
こらえていた嗚咽が漏れ、とうとう涙が零れ落ちた。
せめて学校を出るまで我慢するつもりだった。
それなのに、私の意思に反して生ぬるい雫が頬を伝って流れていく。
生徒たちがまだ多く残っている校内では、きっと注目を浴びてしまう。
もう早歩きをする気力は残っていなかったけれど、鈍い痛みを抱える左足を引きずるようにして人目のない場所を探し求め、人がいない方へと足を向けた。
直後、ドンッと肩がぶつかり、バランスを崩した体がよろめく。
反射的に顔を上げれば、ひまわりのように明るい金髪が視界に入ってきた。
「ごめん、大丈――」
私の顔を覗き込んだその男子は、目が合った瞬間に涼しげな二重瞼の目を丸くした。
「東緑が丘の人魚姫……?」
「っ……」
胸の奥がえぐられる。
(やめて……そんな風に呼ばないで……)
独り言のように呟いた彼から顔を逸らせるようにしたものの、肩でする息のせいで声が上手く出せない。
「こっち」
すると、男子が私の手を引き、一瞬戸惑ったせいで反応が遅れた私を校舎の裏へと引っ張っていった。
思考が追いつかなくて、言葉がなにも出てこない。
泣き顔を見られたくないのに、私の手を引く彼の骨ばった手を振り解けない。
だけど、上手く動かない足が縺れてしまい、それに気づいた男子が止まった。
「ごめん……! 足、怪我してるんだよな?」
「なん、で……っ」
名前も知らない彼の言葉に、目を見開く。
直後、気まずそうな顔をされて、すべてを悟った。
私のこともこうなった事情も、同じ学校の生徒なら知っている人の方が多い。
昨夏のインターハイで二位に入賞したとき、全校集会で校長先生から表彰された。
そんな私が事故に遭った当時は、それこそクラスメイトだけじゃなく、学年を超えて校内で噂になっていたみたいだった。
手術と入院を終え、しばらく休んで久しぶりに登校したあの日は、生徒たちからの注目の視線を浴び、まるで針の筵のようだった。
目の前にいる男子だって、事情を知っていてもおかしくはない。
「あー、えっと……俺さ……」
「放して……」
「え?」
「ひとりになりたい……」
ぶっきらぼうな私の声に、彼が困ったように眉を下げる。
「いや、でも……すぐそこに人がいるし……」
運悪く、ここからそう離れていない場所で話し声がする。
すぐ傍でたむろしているのか、声が遠のく様子はない。
たぶん、校門に行くまでにはその人たちの傍を通らなければいけなくて……。まだ涙を止められない私には、他の選択肢がなかった。
「大丈夫、誰にも見えないから」
「え……?」
「人が来たら俺が壁になるし、俺も見ない。だから――」
彼の声が、私の鼓膜をそっと撫でる。
「つらさも悔しさも歯がゆさも……どうしようもない思いも、我慢しなくていいよ」
その言葉は、まるで私の心の中を見透かすようで……。知らない人の前で泣きたくなんてないのに、弱い私の涙腺は勝手に崩壊してしまう。
「……っ!」
嗚咽が漏れるまでは、あっという間だった。
(なんで……どうして……)
もう数え切れないほど繰り返した疑問が、また私の心を責め立てる。
どうしようもないことだとわかっているのに、『あのときああしていれば』『こうしていれば』という〝たられば〟が消えてくれない。
こんなことばかり考えていたって、なにも解決しない。
前にも進めないというのも、よくわかっている。
それでも、私はもうずっと一年前の夏から動けないままだった。
しゃがみこんで泣いていた私に、ふと影がかかっていることに気づく。
そろりと顔を上げると、金色の髪が初夏の風に揺れていた。
太陽の光に透ける明るい色が私には眩しすぎて、直視できなかった。
名前も知らない男子は、最初の約束を守るように私に背を向けている。
初対面なのに、与えられる優しさはありがたいはずなのに……。今は、そんなものすらなんだか痛くてたまらなかった。
夢を失ったあの日から、散々泣いた。
子どものように泣きじゃくった朝も、家族に八つ当たりしながら泣き叫んだ昼も、ひとり静かに枕を濡らした夜も……。幾度となく積み重ねてきた。
一生分泣いた……と言っても、過言じゃないかもしれない。
苦しいだけだった日々を経て、ようやく下手な笑顔でも笑えるようになったと思っていた。
だけど、ほんの一瞬で、必死に張っていた虚勢は崩れてしまった。
「ひっ……ぅ、くっ……ふっ……」
嗚咽をこらえようと唇を噛みしめても、その隙間を縫うように声が漏れる。
情けなくて恥ずかしくたまらない。
それなのに、さっき見た光景が頭から離れなくて、涙が止まらなかった。
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