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一章 千年の邂逅

一、導く声【2】

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翌日も気が重かったが、会社に行かないわけにはいかなかった。
休みたくても人手不足のせいで有給は簡単にもらえない。
しかも、五歳で両親を亡くした凜花は、その後は児童養護施設で過ごし、十八歳で施設を出たのと同時に就職している。
つまり、最終学歴は高卒だ。


ハヤブサ便への就職は、高校と施設が連携を取って斡旋してくれたもの。
採用条件はいいとは言えなかったが、十八歳だった少女が今日までひとりでなんとか生きてこられたくらいの待遇ではある。


夜勤もあるものの、寮が完備されているため、家賃も安価だ。
身寄りもなく最終学歴が高卒の凜花を、今と同じかそれ以上の条件で雇ってくれる会社など、恐らくそうそうないだろう。


けれど、現状よりも給料が下がれば、生活はいっそう苦しくなる。
つらくても苦しくても、今の仕事を辞めるわけにはいかない。いつもと同じように出勤するしかないのだ。


幸い、仕事はシフト制のため、今日を乗り切れば明日と明後日は休みだ。
今日は茗子と同じシフトだが、来週はあまり被っていない。
そう思うとわずかに心が軽くなり、なんとか出社して黙々と業務をこなした。


今日は制服が破かれていることも、お弁当がコーヒー漬けにされることもなく、不気味なくらい平和だった。
茗子や彼女の取り巻きに業務のことで話しかけたときには無視されたが、それくらいのことならもうどうでもいい。
自分が業務の負担を被るだけで済むのなら、まだマシな方だ。


残業をするはめになると、所長には顔をしかめられたが、先にタイムカードを押してサービス残業にしておいた。
もちろん悔しいが、他に被害がなかっただけよかったと思うしかない。


「ちょっとさすがにやばくない?」

「これくらい平気だって。あいつ、絶対に辞めないし。どうせ上司にも報告できないから。制服のときも取り合ってもらえなくて、すぐに諦めたみたいだし」


ようやく仕事を終えた凜花が更衣室の前に着いたとき、不穏な声が聞こえてきた。
またなにかされていることは安易に想像がつき、ドアを開けるのは怖かったが、万が一にもロッカーからなにか盗まれるようなことがあればシャレにならない。


意を決してドアを開けると、茗子を含めた三人が凜花のロッカーの前にいた。
あろうことか、凜花のロッカーが開いている。彼女たちが鍵を持っているはずがないのに……。


「なにしてるんですか? そこ、私のロッカーですよね?」

「別に~。勝手に開いてたし、バッグも落ちてただけなんだけど」


しらばっくれる茗子たちの足元には、凜花のバッグが落ちている。
貴重品は社内でも持ち歩いているが、なにかなくなったものはないかと不安になった直後、手帳の傍に落ちているものに目を留めた。


グチャグチャに丸められた紙のような物体。
震えそうな手でそれを取り、恐る恐る開いていく。
嫌な予感が当たり、凜花の中に怒りが沸き上がった。


「な、んで……こんなこと……」


凜花にとって大切な、たった一枚の写真。
凜花と両親が写っているそれは、凜花が肌身離さず持っていたもの。
眠る前には枕元に置き、出かけるときには必ず手帳に挟んでいた。


茗子だって、それを知っていたはずだ。
怒りで震えるこぶしを握り、涙で歪む視界に彼女を映す。


「あんたが悪いんじゃない」


その言葉を聞いた瞬間、勢いよく立ち上がって右手を振り上げていた。
パンッ!と乾いた音が鳴り響き、茗子の顔が右側に向く。一拍置いて左頬を押さえた彼女が、凜花に掴みかかった。


「なにするのよっ!」


ロッカーに凜花の肩がぶつかり、髪を引っ張られる。抵抗する間もなく茗子の左手が顔に届き、凜花が上げた音よりも遥かに大きな音が響いた。
凜花の脳がぐらぐらと揺れるが、必死に抵抗する。


「それはこっちのセリフです! なんでこんなことできるんですか……! 私がなによりも大切にしてた写真だって知ってて、こんな……っ」

「あんたが悪いんでしょ! 人の彼氏を取っておいて、平然としてさ!」

「知りません……! 何度も言ってますが、私は大谷さんの彼氏なんて……」

「はぁ? 彼氏が『凜花ちゃんを好きになったから別れたい』って言ったのよ! よりにもよって、なんであんたなの? 友達も家族もいない、地味でみすぼらしいあんたみたいな女に、どうして私が……!」


激高する茗子を止めるように、ノック音が響く。


「なにかあった? 着替えてる子はいない? 開けるよ?」

「茗子、やばいって!」


所長の声が聞こえてくると、彼女の取り巻きふたりが焦り出す。
茗子だけは落ち着き払っていた。


「……おい、なにかあった? すごい音がしたけど……」


程なくしてドアが開き、所長が控えめに顔を覗かせる。
直後、ギョッとしたような表情になった。


「なんでもないでーす。ちょっとぶつかっちゃって」


凜花の髪はグチャグチャで、制服も乱れている。
いつも外見を綺麗に整えている茗子も、明らかになにかがあったとわかる井出立ちだった。


「そうか。仕事が終わったなら早く帰りなさい」


にもかかわらず、所長はそれだけしか言わず、彼女に意味深な視線を向けてからドアを閉めた。


「……あんたの味方になってくれるとでも思った?」


茗子が嘲笑うと、取り巻きのふたりも安堵したように笑い出す。


自分の味方なんていない。
そうわかっていたが、凜花は悔しさで顔を歪ませる。心の中は憎悪でいっぱいだった。


けれど、三対一では勝ち目はなく、この現場を見た所長もやっぱり頼れない。
悔しさを押し込めてバッグの中身を拾い、制服を脱ぎ捨てるようにして着替える。
その間にまたなにかされるかと思ったが、三人は凜花の様子を見ているだけだった。


悔しさとやるせなさで胸がいっぱいで、涙が止まらない。
職場を飛び出してすぐに自転車を忘れてきたことに気づいたが、取りに戻る気力もなかった。


行く場所なんてない。頼れる人もいない。家に帰ってもひとり。
冷たく厳しい現実が、凜花をさらに追い詰める。
帰宅してすぐ、枕元に置いてある両親の写真を手に取った。


「私……どうしてひとりぼっちなの……」


呟いた声とともに涙が零れ、ちっとも止まらない。
もう生きていくのも嫌で、いっそのこと両親と同じ場所に行きたい……と思う。


そんなことを考えてはいけないと思っても、心が悲鳴を上げていた。
その後押しをしたのは、ふと顔を上げたときに視界に入ったカレンダーだった。


「……そっか。私、明日が誕生日だ……」


祝ってくれる人も、一緒にいてくれる人もいない。
自分自身ですら、おめでたいと思えない。


行くあてもないのに家にいたくなくて、着の身着のまま貴重品が入ったバッグと二枚の写真を手に、なんとなく駅に向かった。
そのまま改札を抜けて、最初にやってきた電車に乗った。


涙を流す凜花を乗客たちは一瞬驚いたように見るが、すぐに興味がなさそうに視線を逸らす。
帰宅ラッシュには少し早い時間だったため、座席はちらほら空いていた。


適当に腰を下ろし、皺塗れの写真を優しく丁寧に伸ばしていく。けれど、もう元に戻らないことはわかっていた。


こんなことになるのなら、ラミネート加工でもしておけばよかった。
失敗するのが怖くてずっとできず、普段は大切に手帳に挟んでいたが、上手くいかなくても皺塗れになるよりはずっとよかったかもしれない。
そんな後悔が押し寄せてくる。


「あら……その写真、京都きょうと嵐山あらしやまね?」


呆然としていた凜花の耳に、不意に柔らかい声が届いた。
右隣を見れば、優しそうな老齢の女性が写真を見て瞳を緩めている。


「ああ、間違いないわ。きっと龍神社りゅうじんじゃの池ね」


女性と目が合うと、彼女はさらに優しい笑顔になった。


「二十年以上前に夫と行ったのよ。今はもうなくなったみたいだけど、懐かしいわ」

「ここ、嵐山なんですか……?」

「ええ。この池とご神木が綺麗に収まるここは撮影スポットで、私も夫と撮ったの。それにほら、ご神木の傍にある看板に『龍神』って書いてあるでしょ?」


この写真では辛うじて文字が判別できる程度だが、凜花もそれには気づいていた。
ただ、肝心の場所はわからなかった。
写真の裏には日付が書いてあるが、場所までは記されていなかったからである。


「ここ、どうすれば行けますか……?」

「え? えっと……嵐山駅から歩いて三十分くらいだったかしら? 確か山奥で、とても不便なところでね……。でも、もうなくなったはずよ?」

「……いいんです」


なくなったのは、きっと事実なのだろう。
けれど、〝最後に〟見ておきたかった。


凜花はできる限り詳細を聞いてからお礼を言うと、着いたばかりの駅で降り、構内のATMでなけなしの全財産を下ろして静岡駅に向かった。
新幹線の切符を調達し、京都駅に向かう。その間にスマホで調べてみると、京都駅に着く頃には終電が出てしまうようだった。


誰が見てもボロボロの格好だったが、もうなにもかもがどうでもよかった。
ただ、最後に両親と行ったであろう場所に行きたかった。


凜花と両親を繋ぐものは、もうなにも残っていないからこそ、唯一の思い出を見に行きたかった。
そしたらきっと、もう思い残すことはない。


車窓から見える景色は、藍色に染まった空と街の灯り。民家や街から離れると光もあまりなく、まるで今の凜花の心の中のようだった。


(なんだか疲れたな……)


生まれて初めて、人に暴力をふるった。こらえられないほどの怒りを感じた。
慣れない行動と感情は、凜花をひどく疲弊させた。


泣き疲れたせいもあり、一気に疲労感に包まれる。
ゆっくり、ゆっくりと瞼が落ちていった。


『おいで、凜花』


夢か現か、凜花の名前を優しく呼ぶ声が聞こえた気がした。


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