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愛とはなんぞや、問いかける

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「だからさぁ、この生活おかしいんだって」

「何が?」

 ベッドに腰掛け、ふかふかの心地良いクッションを胸に抱いて文句を言うのは南方みなかたあかね
 二十六才、独身、現在無職だ。
 セミロングの癖のない黒髪を無造作に束ね、キャミソールに短パン、カーディガンといったラフな服装のまま困惑した表情を浮かべている。

 そんな彼女の足元に跪き、丁寧に茜の足にペディキュアを施す青年が一人。
 彼の名前は浜中はまなか修一しゅういち
 茜と高校の同級生で、とある大企業の御曹司であった。高校時代のあだ名は『王子』である。
 鍛えた体躯に美貌、成績優秀でなおかつ出自も素晴らしいと来ればそれも当然のことだったかもしれない。

 彼らは別に当時から親しかったわけではない。
 同じクラスになったこともなければ、委員会で顔を合わせたことがあるだろうか程度である。
 言ってしまえば平々凡々な茜とヒエラルキーの頂点にいる修一では接点そのものがなかったのだ。そして本人たちもそれを気にしたことすらない。

 なんだったら茜は当時バイト先の大学生に憧れを抱く恋に恋する乙女であった。
 いかに美形であろうとも同い年の修一は茜からして見れば首尾範囲外、むしろ同級生たちが彼に熱を上げればあげるほど、それに巻き込まれてはたまらないというくらいの気持ちだったのだ。

 では何故、今彼らは共にいるのか。
 それは茜が無職になったからであった。

「確かにさあ、ブラック企業で碌に貯金もできず体とメンタルぼろぼろになって退職して挙げ句に住んでたアパートが火災に遭って全財産なくしてあわや公園暮らしになるところではあったんだけど」

「そうだね」

「でもさあ、もう半年も浜中クンちにお邪魔しっぱなしってのもさあ。ってことで服買って」

「そこで強請るぐらい何も持ってないんだから、このままでいいじゃないか」

「良くないから言ってるんだよなあ」

 そう、茜は絶望の淵に立たされたのだ。
 大手を振って家を飛び出し上京、就職を果たしたまでは良かったもののそこはブラック企業で、高卒の茜はそれこそきっと飛んで火に入る夏の虫、物を知らない彼女は襤褸雑巾のようになるまで働かされ、体と心を壊したところで会社からクビ宣告を受けたのである。

 そんな状況で住んでいるアパートまで失ってしまった彼女は実家に帰るという選択肢すら思い出せずしゃがみ込んでいた……ところを修一に拾われたのが今の生活の始まりであった。

「いいじゃん、俺ペット買ってみたかったんだしちょうどいいと思う。大事にしてるだろう?」

「同級生をペットにしようって考えは普通の人しないんだよなあ」

「ここペット禁止物件だし、人間なら文句も言われない」

「そもそもの倫理観」

「何が不満?」

 こてんと首を傾げて上目使いで見てくる美形男子を前に、茜はグッと言葉に詰まる。

 家事の大半は修一が行い、なんなら週二でハウスキーパーもやってくる。
 一人暮らしだった彼の住まいは二十畳以上の広さを誇るリビングをがある広めの4LDK、ウォークインクローゼットやらシューズクローゼット、マルチクローゼットやら茜がよくわからないような用語がずらずら並ぶとにかく世界が違う部屋だ。
 コンシェルジュとやらまでいて、彼が不在の際に不便なことがあったらお気軽に声をかけろと言われた日には『何が……?』としか言えなかったものである。

 築四十年の格安ワンルーム物件に寝に帰るだけな生活をしていた頃に比べたら、天と地ほどの差がある暮らしだ。
 茜に不満なんぞあるわけがない。

 まさしく食っちゃ寝しては帰ってきた修一の手によって磨かれ、愛でられる。
 そう、今のように。

 修一は茜のことをそれはそれは拾ったその日から大事にしてくれている。
 着心地の良いルームウェアを与え、医師を呼び診察させ治療を施した。
 日々美味しい食事を準備し健康の管理もしている。
 仕事から帰る際には二回に一度、高名なパティスリーでデザートも買って帰る。

 ただ、出ていきたいという要望だけが叶わない。

(……このままじゃ、ダメ人間になるだけなんだよなあ)

 今は修一の気まぐれによって生かされているからいいが、彼の気まぐれが終わる時がおそろしい。
 それが一年、二年程度ならまだやり直せるかもしれないが、一度どん底まで落ちた人間が贅沢を覚えてしまったら立ち直るまでいかほど時間が必要だろうか。
 茜には想像もつかない。
 だけれど、とてもこんなんであろうということくらいは想像できた。

 だから、強くは出られない。
 あと少しくらいは良いんじゃないか、そう思ってしまうから。

 拾われた当時はもう何も考えられなかったので本当に助かったが、今はもう健康を取り戻し、精神状態も安定した。
 だからこそこの状況がいかにおかしいか、彼女にだってわかっている。

(ペット、ペットねえ……)

 修一が冗談を言っているとは思わない。
 彼は茜の世話を何くれとなく焼いてくれるが、性的触れ合いや情愛といったものはそこに一つも含まれていない。
 
 本当にただ、気まぐれにペットを飼った、そんな程度の愛情だ。

「できた」

「……ありがと」

「まだ乾いてないから動かすなよ」
 
「うん」
 
 はみ出すこともなく綺麗に塗られた足の爪。
 どこぞのブランドの限定色とか言っていたなと茜は思いながら足をぶらりと揺らした。

 彼が選んだその色はなかなか綺麗だ。
 社会人になってから身なりと言えばスーツかジャージ、化粧なんてプチプラを使い倒す勢いで新色なんて手が出せる状況ではなかった。
 気持ちに余裕がなかったこともそうだが、なにより金銭的に厳しかったから。

「南方はなんで上京したんだっけ」

「……なんでもいいから、人と違うことしたかっただけだよ」

 親はよくあるうだつの上がらないサラリーマンとスーパーでパートをする主婦。
 妹がいて、狭いアパートで毎日騒がしく暮らしていた。

 別にそれがふまんだったわけではない。
 彼らは娘を愛してくれていたし、茜も大切に育ててもらったという自覚はある。
 妹と差別されたなんてことは一つもないし、嫉妬をしたこともない。
 むしろ仲が良くてあちこち一緒に行くのが楽しかった。

 バイトをして、一人暮らしをしているという人や夢を追う人。
 そういう人たちに感化されたのだと思うが、結局茜は平々凡々な茜だったから、一部の人が掴み取るような夢など夢のまた夢。

(むしろ夢がないのになんで飛び出したんだろ)

 無謀というのはまさにこのことなんだろうと、会社と自宅を往復する間に気づいた。
 だけどそこから抜け出す方法がわからないままに気力を失い、体力を失い、そして今に至るのだ。

 足を投げ出したままぽすりとベッドに横たわる。
 なんだか面倒くさくなってしまった。
 そういうところが良くないのだろうと思うが、今すぐ出て行けるわけでも、出ていきたいわけでもない茜は現実逃避を決め込む。

「じゃあいーじゃん、このままで」

「え?」

「俺のペットって、なかなか人と違う人生だと思うけど」

 ベッドが揺れる。
 二人分の大人の体重を受けても軋む音がしなかったのはそれだけ優れているベッドだからだろうかなんて変なことを思いながら茜は自分の上にのしかかる男を見上げた。

「そりゃペットって……普通は人間をペットになんかしないんだって」

「じゃあ愛人?」

「ええ……? いや、言い方変えられてもそれはそれでいやだなあ」

 愛人というより飼われているという方がしっくりくる。
 さすがに茜もその台詞は呑み込んだ。

 修一が笑った。
 くつくつ、楽しげに。

「そろそろ、抜け出せないだろう?」

「……え?」

「公式な立場ってのがいいなら結婚しようか。いいじゃん、ここで俺に可愛がられて、お世話されてよ」

 茜は目を瞬かせる。

 まるでそれは、感情さえ伴えばいわゆる〝ヤンデレ〟な人の愛の告白みたいだなと。
 だけど残念ながらそこに愛情があるのかはわからないくらい、修一の目はいつも通り冷めていた。

「……不釣り合いだなあと思うんで遠慮したいかな」

「そう? でも俺は捨てないよ。ペットの面倒は拾ったんなら最後まで見るって決めてたからさ」

「本物のペットを飼うことをお勧めするかなあ」

「うち、両親に反対されてペット飼えなかったんだよね」

「聞けよ」

「だから茜が今ここにいてくれて嬉しいよ」

「……」

 美形男子にそう言われたら普通なら喜べるものだろうと茜は思う。
 それが〝ペット〟扱いでなければ。

 だが修一の言う通り、今の生活から抜け出してまたあの働く日々に戻れるのかと聞かれたら、正直茜には自信がなかった。

 好きな時に寝て起きることができて広くて綺麗な部屋で自由に過ごせるこの日々。
 勿論、暇を持て余しているような気持ちにはなっているのでこのまま自堕落な生活を送り続けることは良くないのだろうと思う。

 でもじゃあ、今何もしなくても食事が出て好きなことができてなんなら身なりも整えてくれるイケメンがいる暮らしを捨てて、親元に戻ってまた自立するまで働けるのかというと別問題なのだ。

 元手がない以上実家に戻ればきっと両親は受け入れてくれると茜も理解している。
 だが『いつから働くのか』『結婚しないのか』『同級生のだれそれは』みたいな話を聞かされながら、また満員電車に乗って上司に叱られて得意先やお客様からの電話にぺこぺこするのかと思うと吐き気がする。

「なーぁ、どう?」

「どう、って」

「いいじゃん、このまま俺に飼われて一生を終えれば」

「いやだよ、そんな……これでも愛し愛される恋愛結婚に憧れはあるし」

 とは言ってみたものの、高校の時に清いオツキアイをした初彼以来、なし崩しで会社の先輩にヤられて以降恋愛なんてものに憧れは持てなくなった茜にとってみたら夢のまた夢のような話だ。

 今だって人に飼われてやっと生きているのに、恋愛結婚なんてできるわけがないと彼女だってわかっている。
 何を始めるにも、まずはこの極上の場から抜け出して自立することが前提なのだ。

「愛情、愛情ねえ」

「……なによ、笑いたければ笑えば?」

「お世話をして、好きなもんたくさん食わせて可愛がって、養って……これって愛だと思うんだけど、何が不満?」

 修一のその問いに、また茜はグッと言葉に詰まった。
 確かにその通りだ。
 今も押し倒されている状態で頭を撫でられるその手の温かさが心地良い。

「動くなよ、まだ乾いてないんだから」

 それでもこのままだといろいろ危うい気がして身じろぎすると、修一にそう注意されてしまって大人しくなってしまう。
 せっかく綺麗に塗ってくれたペディキュアが崩れるのは、茜としてもいやだった。それだけだ。

「……ペット扱いが、いやかな」

「へえ、今以上のことがお望みなんだ」

「そういうわけじゃないんだけど……」

 望めばデートにだって連れて行ってくれる修一は、おそらく理想の彼氏というやつにほど近い存在だ。
 美形で、高身長高収入。スポーツジムに通っているとのことで体格も良く、家事全般もできる。完璧人間だ。
 その上、茜が生きていくことに対して尽くしてくれている。

 そこに愛情さえあれば、誰もが羨む……いや、今でもかなり人が羨む生活をしていると思うが、妬まれるほど恋人だと言える。
 でもそれはあくまで〝ペット〟に対して尽くす飼い主というやつに過ぎない。

 茜が求めるのは、人であること。
 だがその人であることが今の茜に難しく、彼の甘い甘い提案はひどく魅惑的だ。
 けれど受け入れたら受け入れたでそれは彼女にとって〝負け〟な気もするし、ペットで良いと認めるのはとてもとても癪なことであった。

 確かに修一は社会的地位も、名誉も、財産も、ありとあらゆる面で茜を凌駕している。
 もし彼との年齢差がもっとあったなら、茜も素直に受け入れられたかもしれない。

 同級生で、微かな記憶として少年だった彼を知らなかったら、まだしも。

(なんだろうなあ、この気持ち)

 上手にそれを言い表すことができず茜はただ口を噤むことしかできない。
 もし修一に体の関係を求められたとしても、それはこの生活の代償として仕方がない。そうなったら晴れてペットから愛人に昇格(?)だと納得もできる。

「愛し愛され、ねえ……」

「ね、いいからそこどいてよ。いい加減ペディキュアも乾いたでしょ。今日買ってきてくれたデザート食べようよ」

「んー……じゃあ茜がキスしてくれたらどいてあげるよ」

「はあ?」

「確かに俺はペットがほしくて茜を拾った・・・けど、愛着はある。それは茜がほしい愛情じゃないんだろうけど、お互いすりあわせていくことはできるだろう? 幸い人間同士だ、コミュニケーションはとりやすい」

「いや、なんか論点おかしい」

 にっこにっこと笑いながらとんでもないことを言い出した修一に、茜は目を瞬かせてから大きなため息を吐いた。
 どうやらこの厄介な飼い主は、可愛い可愛いペットを逃がす気もなければ本気で一生面倒を見るつもりらしい。

 ……今のところは。

「ペットも恋人も似たようなものだろう? 大事にするし、結婚も、子供も、喜んで受け入れる。ただ茜は俺のためにいてくれればそれでいいさ」

「……浮気するかもよ」

「それはだめだなあ」

「愛してくれなきゃ、愛せない女なんだよね」

「それは楽々クリアだと思うね」

 余裕綽々な修一に、茜はただため息を吐く。
 今のところこの男を言い負かせるだけのカードは、茜の手持ちにはない。

「……わかった、じゃあ契約書作ってくれたら良いよ」

「ええ? 恋人になるのに契約書って随分事務的だなあ」

「愛情違いの愛を押し付ける人と、恋愛を求める私の妥協点でしょ」

 ゆるりとした動きでまた頭を撫でられて、茜は心地よさに目を細める。
 絆されてなんかやるものか。
 そう思う茜は、それでも楽しげに目を細める修一の姿をジッと見つめる。

 この男は今、イタズラをするペットを愛でているだけなのだ。
 南方茜という一人の人間を愛でているが、それは恋しい気持ちからではない。

 だが、確実に執着されている。

(なんで私なんだか、ね)

 顔見知りでさえなかったら。
 ずたぼろでさえなかったら。
 縋る相手が修一だけしかいないなんて状況でなかったら。

 何か違ったのだろうかと、茜はそんなことを思いながら手を伸ばして男の首に絡め、引き寄せる。

「茜?」
 
「私、ハンコ持ってないから契約書の押印はこれで勘弁して」

 せめてもの意趣返し。
 ペットの反乱? それでもいい。まずは一歩。
 
(この男は、きっと私を『人間』と認識したら捨てるに違いない)

 でも傷痕一つくらい、残してやりたいなと茜はそう思うのだ。
 ペットとして甘やかされた結果が泥濘のような愛情を作ってしまったのだから。
 
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