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第七夜 暗雲に月翳り
六十三 信を得るには
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話し声が途切れた庵の中に、ただ二人の息遣いが満ちる。
息を整えた十兵衛は、胴体の上ですっかり脱力してしまった篤実を抱え直そうと身体を起こした。捲れ上がった着物を下ろして、手探りで肩を抱き寄せると、十兵衛の袖が引っ張られた。
「じゅう……べ……つかれた」
「……すまんかった……若君」
着物の乱れた十兵衛が胡座を掻く膝の上で身体を丸めながら、篤実は首を横に振った。
「…………」
「………………」
「何をしているのだろうな、己は……」
ぽつねんと自嘲の色濃く漏らす篤実の頭を、大きな手が包む。「爪牙」の名に違わぬ鋭い爪を備えた手が、宝玉を扱うかのように。
十兵衛も、己の股座のものが御しきれない不甲斐なさを感じながら篤実を抱き締めていた。二人共、頭の芯がじんわりと痺れたような、淫欲の熱が引いたあとの怠さを互いの存在感で紛らわす。
「喉、乾いてねえか」
「…ああ。そうだな…水を……汲んできてくれ、十兵衛」
十兵衛の体温に後ろ髪を引かれながら、鈍々と膝の上から降りる篤実。十兵衛も、空になった己の手を見えもしないのにじっと見つめるかのように俯いた後、重たそうに腰を上げた。
庵の裏に出ると、十兵衛はゆっくり、しかし深く深く息を吐いた。
井戸から汲み上げた水で口を漱ぎ、次に顔を洗い、再び桶を下ろした。縄は湿り気を帯びて冷たく毛羽立っている。褥で触れる、火照って滑らかな篤実の肌とは雲泥の差であった。
「くそっ…何を余計なことを考えとるんじゃ、儂は……」
――――篤実の淫靡な毒に中てられているのでは、と思うほどに、日々己の獣欲が熱を増しているのを自覚する。
なみなみと桶に汲み上げられた水は、揺れれば溢れ、ぱしゃりと地面を濡らす。十兵衛のつま先が溢れた水で濡れた。
周囲は、日の光を受けた緑の匂いに満ちていた。
しかし、その中でもハッキリと輪郭を感じ取れるほどの篤実のにおいが存在している。数日離れ、戻って、尚更に十兵衛の五感は篤実の気配を鋭敏に感じ取っていた。
「……――十兵衛」
裏に出る戸の辺りから、篤実の声がした。
十兵衛は耳をぴるると震わせると同時に「若君」と返し、九分目まで水で満ちた桶を手に振り返った。
「……そなたが中々戻らぬので、な。様子を見にまいった」
「ついこの間、似たような事を若君に言われたような」
と、己の記憶を探るため天を仰いだ十兵衛はそのまま固まった。
「ッ……! お…思い出さなくてよい! 早く水を、ほら、その桶だろう」
――――そう、淫らな夢に中てられて、自慰に耽ったところを目撃されたときに似たような事を、やはり庵の裏で言われた。冬の雪がまだ溶けきらぬ春の始め。
固まってしまった儘の十兵衛の手から桶を奪い取り、篤実は口をすすいだ。はっとした十兵衛の前で、ぱしゃっと水の音がひびく。
「なぁ……十兵衛。そなた達爪牙族にとって、信頼に足る男とはどのような者を言うのだ。己、いや余は…どう、したら」
「ん? そりゃ、若君は――――」
「十兵衛、そなた以外のこの里の者達にとって、余は四ノ宮でも将でもない。…見よ。この里に、余よりも小柄な大人の男はいない」
篤実が一息つくと、今度は桶をひっくり返したような水の音が響いた。
「ぷはっ」
「……若君? 水は要らんかったか」
十兵衛は、てっきり篤実が水を捨てたのだと思ったが、そうではなかった。
「いや、頭を冷やすのに使わせてもらった。こうでもしないと…その、また……」
ぽたぽたぽた、と水が滴る。桶を井戸へと戻した篤実が、着物の裾を絞って水を切っているのだ。
「……しかし、びしょ濡れで皆の前に出ても、頭がおかしいと思われるだけだな」
「そんな事ぁ、わかぎ…みっ⁉」
――ぴとっ。
濡れた何かに鼻を押されて十兵衛はブワリと全身の毛を逆立てた。においで其れが篤実の指だとはわかるのだが、十兵衛は硬直した。
「あ……」
「今のは笑うところだぞ。十兵衛」
「そいつは……その、すまねぇ」
十兵衛の鼻先から、篤実の指が離れてしまう。無意識に手を伸ばし、細い手首を掴んでいた。
「十兵衛?」
「儂は――――……」
言葉の着地点を見失った十兵衛を揶揄うように、木々の間を栗鼠が微かな物音を立てて走り去っていった。
「賊の件……あまり、猶予は無いと思うのだ、十兵衛」
十兵衛の代わりに篤実が切り出し、手を下ろす。そして、十兵衛の大きな手を包み返した。
「しかし、焦って下手な芝居は打たん方が良い、と儂は思います」
「ああ、無論だ。芝居では本当の信頼は得られぬであろう。――十兵衛、其方だったら、どうしたら……余所者を信用する」
感じた。
真っ直ぐに向けられる視線を。
翡翠色の凛とした双眸が、盲の十兵衛に正面から向かい合い訊ねている。
――十兵衛は、しかし、答えを出せなかった。
「わか……ら……ねぇ」
腰の下から、尾が重たく垂れる。ぐるるる……と喉を鳴らし、肩を落とした。自然と鼻先も下を向いてしまう。
「この村の者は、殆どが爪牙族の者じゃ。若君のような人間族は、滅多に……儂が知っとるのも、竜比古兄の母殿ぐらいで」
「――そうか」
ゔぅるる、と唸る十兵衛とは違い、篤実は暫し無言であった。
「そうか。……そうだ、余とそなたが夫婦になれば良い、十兵衛」
「それは………できん。儂の嫁は……おトキだけだ」
息を整えた十兵衛は、胴体の上ですっかり脱力してしまった篤実を抱え直そうと身体を起こした。捲れ上がった着物を下ろして、手探りで肩を抱き寄せると、十兵衛の袖が引っ張られた。
「じゅう……べ……つかれた」
「……すまんかった……若君」
着物の乱れた十兵衛が胡座を掻く膝の上で身体を丸めながら、篤実は首を横に振った。
「…………」
「………………」
「何をしているのだろうな、己は……」
ぽつねんと自嘲の色濃く漏らす篤実の頭を、大きな手が包む。「爪牙」の名に違わぬ鋭い爪を備えた手が、宝玉を扱うかのように。
十兵衛も、己の股座のものが御しきれない不甲斐なさを感じながら篤実を抱き締めていた。二人共、頭の芯がじんわりと痺れたような、淫欲の熱が引いたあとの怠さを互いの存在感で紛らわす。
「喉、乾いてねえか」
「…ああ。そうだな…水を……汲んできてくれ、十兵衛」
十兵衛の体温に後ろ髪を引かれながら、鈍々と膝の上から降りる篤実。十兵衛も、空になった己の手を見えもしないのにじっと見つめるかのように俯いた後、重たそうに腰を上げた。
庵の裏に出ると、十兵衛はゆっくり、しかし深く深く息を吐いた。
井戸から汲み上げた水で口を漱ぎ、次に顔を洗い、再び桶を下ろした。縄は湿り気を帯びて冷たく毛羽立っている。褥で触れる、火照って滑らかな篤実の肌とは雲泥の差であった。
「くそっ…何を余計なことを考えとるんじゃ、儂は……」
――――篤実の淫靡な毒に中てられているのでは、と思うほどに、日々己の獣欲が熱を増しているのを自覚する。
なみなみと桶に汲み上げられた水は、揺れれば溢れ、ぱしゃりと地面を濡らす。十兵衛のつま先が溢れた水で濡れた。
周囲は、日の光を受けた緑の匂いに満ちていた。
しかし、その中でもハッキリと輪郭を感じ取れるほどの篤実のにおいが存在している。数日離れ、戻って、尚更に十兵衛の五感は篤実の気配を鋭敏に感じ取っていた。
「……――十兵衛」
裏に出る戸の辺りから、篤実の声がした。
十兵衛は耳をぴるると震わせると同時に「若君」と返し、九分目まで水で満ちた桶を手に振り返った。
「……そなたが中々戻らぬので、な。様子を見にまいった」
「ついこの間、似たような事を若君に言われたような」
と、己の記憶を探るため天を仰いだ十兵衛はそのまま固まった。
「ッ……! お…思い出さなくてよい! 早く水を、ほら、その桶だろう」
――――そう、淫らな夢に中てられて、自慰に耽ったところを目撃されたときに似たような事を、やはり庵の裏で言われた。冬の雪がまだ溶けきらぬ春の始め。
固まってしまった儘の十兵衛の手から桶を奪い取り、篤実は口をすすいだ。はっとした十兵衛の前で、ぱしゃっと水の音がひびく。
「なぁ……十兵衛。そなた達爪牙族にとって、信頼に足る男とはどのような者を言うのだ。己、いや余は…どう、したら」
「ん? そりゃ、若君は――――」
「十兵衛、そなた以外のこの里の者達にとって、余は四ノ宮でも将でもない。…見よ。この里に、余よりも小柄な大人の男はいない」
篤実が一息つくと、今度は桶をひっくり返したような水の音が響いた。
「ぷはっ」
「……若君? 水は要らんかったか」
十兵衛は、てっきり篤実が水を捨てたのだと思ったが、そうではなかった。
「いや、頭を冷やすのに使わせてもらった。こうでもしないと…その、また……」
ぽたぽたぽた、と水が滴る。桶を井戸へと戻した篤実が、着物の裾を絞って水を切っているのだ。
「……しかし、びしょ濡れで皆の前に出ても、頭がおかしいと思われるだけだな」
「そんな事ぁ、わかぎ…みっ⁉」
――ぴとっ。
濡れた何かに鼻を押されて十兵衛はブワリと全身の毛を逆立てた。においで其れが篤実の指だとはわかるのだが、十兵衛は硬直した。
「あ……」
「今のは笑うところだぞ。十兵衛」
「そいつは……その、すまねぇ」
十兵衛の鼻先から、篤実の指が離れてしまう。無意識に手を伸ばし、細い手首を掴んでいた。
「十兵衛?」
「儂は――――……」
言葉の着地点を見失った十兵衛を揶揄うように、木々の間を栗鼠が微かな物音を立てて走り去っていった。
「賊の件……あまり、猶予は無いと思うのだ、十兵衛」
十兵衛の代わりに篤実が切り出し、手を下ろす。そして、十兵衛の大きな手を包み返した。
「しかし、焦って下手な芝居は打たん方が良い、と儂は思います」
「ああ、無論だ。芝居では本当の信頼は得られぬであろう。――十兵衛、其方だったら、どうしたら……余所者を信用する」
感じた。
真っ直ぐに向けられる視線を。
翡翠色の凛とした双眸が、盲の十兵衛に正面から向かい合い訊ねている。
――十兵衛は、しかし、答えを出せなかった。
「わか……ら……ねぇ」
腰の下から、尾が重たく垂れる。ぐるるる……と喉を鳴らし、肩を落とした。自然と鼻先も下を向いてしまう。
「この村の者は、殆どが爪牙族の者じゃ。若君のような人間族は、滅多に……儂が知っとるのも、竜比古兄の母殿ぐらいで」
「――そうか」
ゔぅるる、と唸る十兵衛とは違い、篤実は暫し無言であった。
「そうか。……そうだ、余とそなたが夫婦になれば良い、十兵衛」
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