Eランクの薬師

ざっく

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3巻

3-1

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   プロローグ


 太陽が輝き、心地いい風が流れる。
 キャル・アメンダは、薬草園に咲き誇る花々を見て笑みを深めた。この調子でいけば、暑さが薄らいで涼しくなってきた頃に、花たちはになる。
 このピンクの花はカスタリンという植物で、葉は苦く虫さえも寄ってこないので、防虫剤として使われることが多い。
 しかし、はとてもいい香りがするのだ。殻をむいて中の柔らかな果肉を取り出し、丁寧に灰汁あくを抜けば、紅茶にしたりお菓子の香りづけに使ったり、乾燥させればポプリにもなる。
 とても使い勝手のいい植物だった。
 そんなカスタリンを横目で見ながら、近くに植えてあるハーブを採集する。
 今日は少し暑い。ミントティーをれよう。
 キャルは台所でお茶の準備を済ませ、トレーニング以外は書斎にこもりきりになっているパートナーのもとに運んだ。


 キャルは、冒険者として活動している。
 元々はここ、辺境の町コロンで薬屋をする普通の女の子だった。
 だがグランという自称勇者の青年に魅了の術をかけられて、冒険者として旅に出ることになった。グランのサポート役として、ひどい扱いを受けながらも、彼のために必死で薬を作っていた。
 それなのに、キャルのランクが上がらないことに苛立いらだち、グランはキャルを捨てた。
 そこで助けてくれたのが、今のパートナーであるカイド・リーティアスだ。
 彼は、冒険者の中でも最高ランクであるSランクの魔法剣士。
 対してキャルは、最弱とされるEランクの薬師くすしだった。
 釣り合うはずもないのに、カイドはキャルと一緒に行動し、彼女の力を認めてくれた。キャルはカイドの力を借りながら、Bランクにまでなることができたのだ。
 その後、彼と共に国からの依頼で、ある違法薬物の流通経路を調べた。マムシと呼ばれる、依存性と副作用のある非常に厄介な薬だった。その原料となるコダマという植物を法律で規制し、マムシの流通も止めることができた。
 今は、精力剤としてのコダマの薬効をどうにか生かせないかと、キャルが改良を加えているところだ。
 そして、カイドはといえば、キャルの父の書斎にこもりきりになっている。
 キャルの父であるサタル・アメンダは、すでに亡くなっているが、キャルが幼い頃は王城で働いていた。
 しかも医術士局長という高い地位についていたらしい。
 カイドだけでなく、この国の筆頭魔法使いであるオーレリアン・シャルパンティでさえも、サタルの書斎に並んでいる本たちを宝の山だと称する。
 コココンッ。
 軽くノックをして扉を開け、キャルはお茶とお菓子を載せたワゴンを室内に入れた。

「カイドー。休憩しよう」
「ああ、ありがとう」

 カイドは読んでいた本から顔を上げて、少しまぶしそうに目を細める。
 先日まで、この本だらけの狭い書斎では、男三人が窮屈きゅうくつそうに過ごしていた。違法薬物の取り締まりの後、キャルの家までくっついてきたオーレリアンと、その従者であるサシャも、ここで本を読んでいたのだ。
 だが先週、筆頭魔法使いが城にいないことに困り切った官僚たちが、王に泣きついたらしい。それを受けて、王が戻ってこいと命令を出したのだ。
 オーレリアンは渋りながらも、ようやく王都に帰っていった。
 仕事を放棄して、王に命令まで出させるって、筆頭魔法使いとしてどうなのだろうか。裏を返せば、それだけ必要とされているということだけど、この国は大丈夫なのだろうか。
 ともかく、そんなこんなでカイドと二人だけの、のんびりした生活になって一週間。
 そうは言っても、彼は書斎にこもりきりで、キャルも薬の研究ばかりなので、オーレリアンたちがいる時と、あまり変わりはしないのだが。
 さっきキャルの声に顔を上げたカイドは、また本に視線を戻してしまっている。

「何か面白いのがあった?」

 キャルはテーブルに茶器を並べながら、父の机で本を読むカイドに声をかける。
 いつもだったらキャルがお茶を運んでくると、すぐに本を閉じて脇に置くカイドだが、今日は本を手放そうとしない。
 あと少しだけと言うように、本を読み続けていた。

「……ああ。ごめん。キリが良いところまで読ませてくれ」
「うん」

 キャルは素直にうなずいた。気に入った本を読み始めると、なかなか区切りがつかないのはキャルだって同じだ。
 カイドの手の中にあるのは、キャルの亡き母がのこした魔法書だった。キャルにとってはあまり興味がないジャンルなので、どんな内容かは分からない。
 キャルは一人テーブルについて、ミントティーを口に運ぶ。さわやかな香りが口いっぱいに広がった。
 本に没頭するカイドを見て微笑む。母の本も彼に読んでもらえて嬉しいだろう。キャルにはほとんど魔力がなく、魔法書は理解できないので、ほぼ開いたことさえない。
 父は薬師だったが、母は魔法使いだった。
 魔法使いと言っても、他の人より少し魔力が強いというだけで、仕事にしていたわけではないようだけれど。少なくともキャルは、母が仕事をしているところを見たことがなかった。
 母の名前は、エリー・アメンダ。旧姓は知らない。
 結婚する前のことは『忘れちゃった』と言って、教えてくれなかったのだ。
 その母が持っていた魔法書が、カイドの興味をきつけてやまないらしい。父が書いた本も読みふけっていたが、ここまで一生懸命なのは珍しい。余程よほど気に入ったのだろう。
 魔法書を読みながら、小さく手を動かしている様子が可愛い。呪文でも覚えているのかもしれない。
 開け放った窓からは、さわやかな風が舞い込んできて、カイドの短い髪を揺らす。
 こんなふうに穏やかで幸せな日々を、ずっと望んでいた。
 キャルは目を閉じて、この空気を楽しんだ。


 しばらく待ったが、カイドは一向に読書をやめない。
 ポットの中のお湯も、入れ替えなければいけないだろう。
 そもそもお茶は必要なかったのかもしれないと思いながら、キャルは念のために確認を取る。

「カイド。クッキーいらない? もう片付けちゃうよ」

 普段はキャルよりもずっと多く食べるのに、今は本の方がいいようだ。このクッキーは明日のおやつに残しておこう。
 そう思って、クッキーをお皿から保存容器に移そうとした途端、

「え? それはいる」

 カイドが、ぱっと顔を上げて立ち上がる。
 お茶とクッキーが片付けられようとしていることに、ようやく気が付いたようで、彼はテーブルのそばまでやってくる。

「お茶飲む? お湯、入れ替えようか?」

 キャルはお湯を沸かしてこようと、椅子から立ち上がる。すると、カイドはその椅子にすべり込むようにして座った。
 お茶が入ったカップを持ち上げ、別の手でキャルを捕まえる。

「いや、これがいい」

 そう言って、お茶を飲むのはいいのだけれど……
 キャルの腰を抱いて、ひざの上に座らせるのはどうなのか。

「カイド! お茶がこぼれるでしょ!」
「キャルが暴れなければこぼれない」

 なんて言い草だ。まるでキャルが悪いみたいじゃないか。
 キャルをひざにのせて、美味おいしそうにクッキーを食べるカイド。キャルは振り向いてにらみ付けるけれど、本当に怒っているわけではないことを、彼は知っている。
 カイドは幸せそうに目を細めて、キャルのこめかみにキスをした。

美味おいしい」

 そう言ってにっこりと笑えば、キャルがおとなしくカイドの胸に頭を預けることも、彼は知っているのだ。


「奥の方に、古びた箱があってな。その中が魔法書だらけだった」

 カイドがそう教えてくれた。今読んでいるものも、その中に入っていたらしい。
 父の書斎は雑然としている。本人は何がどこにあるか分かっていたようだが、キャルは興味があるもの以外は全く分からなかった。
 見ただけでは判別できない薬品や、生物のホルマリン漬けなども置いてあって、価値があるものかどうかもいまいち分からない。
 さらには様々な日用品までもが雑多に置いてあって、片付けるのに苦労しそうな部屋なのだ。
 父の死後、キャルは冒険者として旅に出た。そして戻ってきたと思ったら、すぐにまたカイドと旅に出ていたのだ。
 だからこの部屋は、父が生きていた頃とほぼ変わらない状態だ。いろいろ落ち着いてから片付けようと思っていたので、奥の方に魔法書の箱があることすら知らなかった。
 書斎の奥、しかも上に他の本などが置かれていたら、箱があることにも気が付かない。
 もし箱を見つけたとしても、中に本が入っているとは思わなかっただろう。父はあまり物事に頓着とんちゃくする人ではなかったので、野菜を入れていた木箱が使われていたりする。
 さすがに、食べ物が中で腐っていたりはしない……と思いたい。

「魔法書だったら、お母さんのだよ」

 母は魔法を頻繁ひんぱんに使っていたわけではないが、時々ふらりと薬草採集に行ってしまう父と連絡を取るために使っているのは、キャルも見たことがある。
 けれど持っていた魔法書は『もう読まないのよね~』と言って、父の書斎に押し込んでいた。

「この魔法書もそうだが、どれも非常に高度な魔法がしるされている」

 そう言いながら、クッキーの食べかすが付いた指をぺろりと舐めて、その指をくるりと回すカイド。
 彼が聞き取れない言葉を発すると、指の軌跡きせきに光の輪が現れた。
 キラキラと輝いて、すぐに消えるかと思ったら、その場で回り続けている。

「例えばこれは、伝言の魔法だ。メッセージを入れておけば、ここに誰かが来た時、この輪に触れるとメッセージを受け取ることができる」
「へえぇ」

 これがどれだけ高度なのかは分からないが、光の輪が綺麗なので、キャルは思わず手を伸ばす。

「メッセージを入れていないから、ただの光だぞ」

 カイドの言う通り、その輪に触れても、ほんのりと指先が温かくなるだけで、光は消えてしまった。

「メッセージを伝えた後はこうやって消える。伝える人数を増やしたり、すぐに消えないようにしたりもできるようだが、条件を増やせば増やすほど、呪文が面倒くさくなる」

 光の輪があった場所を名残惜なごりおしく思いながら見ていると、キャルの頭の上で笑う声がした。

「気に入ったのか? キャルが愛の言葉を入れてくれるなら、ほぼ永遠に回り続ける光を作るが」
「…………っ!」

 どうやって入れるの? なんて聞いた日には、無理矢理にでも入れさせられそうだ。
 しかも、ほぼ永遠に回り続ける? 作ったら最後、毎日メッセージを聞かれそうで、絶対に嫌だ。
 キャルは、赤くなってしまったであろう顔を隠すために、目の前の茶器を慌てて片付け始める。

「じゃ、じゃあ、ゆっくりしてて! 私はこれ片付けちゃうから!」

 カイドのひざからひょいっと飛び降りて、彼の顔を見ないままトレーをワゴンに下げた。
 背後から「してくれないのか?」という不満げな声が聞こえたような気がしたが……いいや、決して聞こえていない。
 部屋を出る時に、ちらりと振り返ると、彼はもう本に視線を戻していた。
 何度も聞き返すことができる伝言の魔法に、自分の声を入れるなんて、絶対に無理だ。
 でも、例えばだけれど、カイドが愛の言葉を入れてくれたとしたら――
 そんなことを考えて、さらに顔が熱くなる。
 カイドは周りの人には堂々と『恋人宣言』するものの、キャルに向かって『好き』だの『愛してる』だの言うことはほぼない。抱きしめたりキスしたりはするのに、そういう言葉を発するのは恥ずかしがる、妙に照れ屋なところがあるのだ。
 だから、彼が入れた愛の言葉を何度も聞けるだなんて、そんな、そんなものがあったら……

「毎日聞いちゃう」

 自分で考えたことに自分で驚き、キャルはうずくまって一人身悶みもだえたのだった。


 ティータイムの後は、妙に気恥ずかしくて書斎に入れなかったが、もう夕食の時間だ。
 キャルは大きく深呼吸をして、書斎の扉を開く。

「カイド、ご飯の準備ができたよ」

 そう呼びかけて、彼の表情のけわしさに思わず足を止める。
 机の上には、見たことがない本が山積みになっていた。
 背表紙に金色の文字がつらなっている。その下には、巻数を表す数字とおぼしきものが、一冊ごとに振ってある。
 キャルには読めない文字……多分、魔法使いだけが使う魔法語だろう。
 その横にも、辞書のような分厚ぶあつい本が数冊積み重なっていた。
 魔法剣士であるカイドにとっては嬉しいはずの本が山になっているのに、彼の表情は嬉しさとは対極のものだった。

「これらは……希少価値のあるものだ」

 カイドがキャルの方を見て言う。

「何か……悪いものなの?」

 彼の表情を見て、キャルは強い不安を感じる。
 どうして希少価値のある魔法書だと言われて、こんなに不安になるのだろう。

「分からない」

 カイドは見ていた本を机の上に置いて、さらに別の本を箱から取り出す。

「キャル、君のお母さんは、高位の魔法使いだったのか?」

 キャルは、両手をぎゅっと握りしめて……悩みながらも、首を横に振った。
 こんなことで嘘をいても仕方がない。
 ただ、母が高位の魔法使いであったら良かったのにと、なぜかそう思ったのだ。
 カイドも答えが分かっていて聞いたのだろう。アメンダ元医術士局長の妻が、名のある魔法使いでなかったということは、彼も知っているはずだ。

「これらの書物がどれだけ貴重なものかは、俺でも判断がつかない。ただ……個人の蔵書としては、あまりにも大きな魔法が多くしるされている」

 カイドがたまらずというように、大きなため息をいた。

「オーレリアンに報告する」

 彼の言葉に、湧き上がってくる不安を抑え込んで、キャルは小さくうなずいた。






   第一章 犯罪者の娘


     1


 魔法で作られた青い鳥が、カイドの報告書をたずさえて飛び立った次の日。
 唐突に豪華な鏡が書斎の真ん中に出現した。

『やあ! 久しぶりだね』

 見覚えのある魔法使いが鏡の中から、満面の笑みでこちらを見返している。
 キャルは突然のことに驚いて固まるが、カイドは反応したら負けだと思っているのか、視線さえも鏡に向けることはしない。

『ああ、感激のあまり言葉も出ないのだね。大丈夫、分かっているよ。僕も自分の美しさは、そろそろ罪悪ざいあくの部類に入るのではないかと日々恐れているところさ。そんな僕の美しさを再びこうして見ることができ、そこに望外ぼうがいの喜びを見出みいだしているというわけだろう? ふふっ。安心してくれていい。僕は――』
「キャル、散歩に行こう」

 いつまでも続きそうなオーレリアンの口上を無視して、カイドは鏡に背を向ける。

『待ちたまえ! 今のは挨拶あいさつだよ? しっかりと聞いてくれなくては! 本題はこの後なんだ』
「本題が始まったら教えてくれ」

 カイドは取りつく島もない。
 オーレリアンはなげかわしいというように両手を大きく広げる。

『なんてせっかちさんなんだ。僕の言葉が聞けるだけで眩暈めまいを起こす人までいるというのに、君は――』

 キャルは何も反応できずにいたが、カイドに背中を押されて部屋の外に向かった。

『いや、出ていかないでくれ! 王都とコロンの距離で魔法鏡を出すのは難しい! 別の場所でもう一度展開するのはさすがに疲れるんだ!』

 というか、国の端と端で映像付きの通信を、こちらの補助もなくできるところはさすがと言わざるを得ない。
 別に映像付きじゃなくてもいいとか、鏡のような無駄な小道具は必要ないとか、いろいろ突っ込みどころ満載ではあるけれど。

「お前が余計な話ばかりするからだろう」
『余計なことは一言も話していないよ!』

 いや、余計なことしか言ってなかったと思う。脳内で突っ込みながら、キャルはオーレリアンを振り返る。
 彼は、キャルとカイドが自分の方を向いたことを確認して、ふっと笑う。

『では、本題に入ろうではないか』

 黒く真っ直ぐな髪を後ろに払って斜めに構える。この角度が良いとか、きっと思っているんだろう。
 今度はキャルもカイドと同じく、反応したら負けだと思った。
 二人の反応がないのを残念そうにしながら、オーレリアンは書類のたばを示す。

『カイドから、魔法書についての報告を受けた。本の題名と内容の抜粋ばっすいも確認し、調査した結果、それらの書物が盗品であることが発覚した』

 さっきまでくだらないことを長々としゃべっていた人が、突然、真面目なことを簡潔に話すと、何を言っているのか分からなくなるものらしい。
 彼が話した内容を、キャルは理解できなかった。

「全部か」

 カイドはオーレリアンが言うことを、ある程度予想していたのか、すぐに質問を返す。

『君から送られてきた書物の一覧と、盗難届を照合した。書名は全て一致している』

 オーレリアンは眉間みけんにしわを寄せ、ちらりとキャルを見た。

『アルスターク伯爵という人が、盗まれたと言って被害届を出していた本なのだよ。もう二十年前になるかな。それだけの年月をかけて探し続けてきたものだ。非常に貴重な書物と言える』

 その貴重な書物が、キャルの家の書斎のすみっこで、ほこりをかぶったまま放っておかれていた。いや、それ以上に信じられないのは――
 母の遺品が、盗品……?

『現物を確認させてくれ』

 オーレリアンの言葉を聞いて、カイドがキャルに視線を向ける。
 どうすればいいか分からない。でも、ここで拒否することはできないと、キャルは小さくうなずいた。
 カイドが木箱に入った本たちを持ってくる。箱はほこりにまみれて白くなってしまっていた。
 その中から、本を一冊ずつ取り出し、テーブルに並べていく。
 オーレリアンの視線が、テーブルの上の本たちに注がれる。新しい本が置かれるごとに、その目がどんどん輝いていくのが分かった。

『一体どこにあったんだい? それらの本を、僕がそちらにいる間に見つけられなかったことは、人生最大の失敗だよ! 僕の失敗だと言っているんだ。この意味が分かるかい? この僕が、失敗したということは、世界の損失だと言っていい!』

 世界の損失、ちっさいな!
 キャルが脳内で突っ込んだ時、また関係ない口上を述べそうだったオーレリアンを、カイドが止める。

「それで? どうしろと言うんだ?」

 低い声で言い、強く、オーレリアンを見据みすえた。
 オーレリアンは小さく肩をすくめる。

『それらは盗品だ。それを所有していたキャル・アメンダ。君に出頭命令が出ている』

 急に厳しい声で言われて、キャルの頭は真っ白になった。
 出頭命令って……なんだっけ?

「キャルが、これらを盗んだと?」

 カイドの言葉に、キャルの体が意思とは関係なくびくりと震えた。
 彼の背中が目の前にある。いつの間にか、キャルの姿がオーレリアンから見えないように、カイドが立ち位置を変えてくれていた。

『そうは言ってない。そもそも、二十年以上前に盗まれたものだ。アメンダ嬢が犯人などとはさすがに思っていないよ』

 後半の言葉は、キャルに投げかけられたものだろう。
 声音こわねに少しだけ柔らかさが加わっていた。

『アルスターク伯爵からは、犯人とおぼしき人物の名を聞いている。今、そのエリーという名の女性を探しているところで……』
「母、です……」

 エリーという人物ならば、知っている。エリー・アメンダ。母の名前だ。
 だがキャルは、母が昔どこで何をしていたのかは知らない。

『なんだって? ……おい、アメンダ元医術士局長の妻に関する記録を持ってこい! ――ない? なぜだ!』

 鏡の向こうで、オーレリアンが誰かと会話をしている。近くに部下がいて、資料を探させているのだろうか。

「母の名前はエリーでした。でも……」

 エリーなんて、ごくありふれた名前だ。この国には何万人ものエリーがいるだろう。
 しかし、盗まれた書物を持っていたのはエリー。そしてアルスターク伯爵が犯人だと言っている女性の名前もエリー。これはどう考えても偶然ではない。

『なんと、アメンダ元医術士局長の妻が犯人だったとは。彼のような大物に寄生していたから見つからなかったのか』

 悪意のこもった言葉に、怒りの感情が湧き上がる。

「寄生なんてしていません。父と母は、仲が良い夫婦でした。それに、犯人でもありません。母は何かを盗むような人ではありません」

 言われたことを全て否定したくて、キャルは思いつくままに言った。
 オーレリアンがわざとらしいほど優しげな笑顔を作る。

『もちろんそうだろう! 家族なら大体そう言うものだよ。そんなことをするわけがないってね。素晴らしい家族愛だと思うよ』

 オーレリアンはキャルをいたわるような声で言う。
 しかし彼は、キャルの言葉を真摯しんしに受け止める気などないのだ。

『ただ、僕たちはそれらを正当な持ち主に返還しなければならない。そのためにも、犯人は捕まえなければならない。……ああ、すでに亡くなっているのだったね。では残念だが、書物だけを返してもらおうか』

 正当な持ち主……
 テーブルの上の本を、キャルはぼんやりと眺めた。
 これらの本が家にあったことを、キャルは知らなかった。書斎のすみに置かれて、ほこりをかぶっていた本だ。

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