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2巻
2-2
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だがカイドははっきりと、キャル以外は必要ないと態度で示してくれる。
キャルも、それに応えたいと思う。
どんなに魔力がある人でも、キャルの持つ大量の薬にはかなわないだろう。病気や怪我はもちろん、毒にも対応できる自信がある。
だから、キャルはカイドの横に立っていてもいいのだと、自分を鼓舞していた。
そうでもしないと、蔑んだ視線を浴びせられて、滅入ってしまいそうだった。
「薬師なんて、ただ薬を作っているだけでしょ。楽なものね」
「彼をどんな理由で縛りつけているの? 可哀想だわ」
「ああ、薬草くさいわ。しかも所帯じみているし」
毎日毎日、こうして女性が寄ってきては、こぞってキャルを邪魔者扱いする。
自分は役に立っている。彼女たちにできないことができる。
そう思えば、最初は平気だった。そもそも、カイドになびく様子が全くないので、彼が別の人を選んでしまうことは心配しなくてもいい。
だが中には、大胆な発言をしてくる女性もいた。
「私は、戦いでも役に立つわ。もちろん、望まれれば、心も体も癒して差し上げる」
その時、ふと気が付いたのだ。
――彼女たちも、キャルにできないことができる。
最初は強がって胸を張っていたが、多くの人に否定され、睨まれ続けて、心が折れそうだった。
カイドが選んでくれたから!
そう大声で言いたくても、自信を失いかけたキャルにはできなかった。
「キャル、行くぞ」
キャルの返事を待たずに、カイドはキャルの肩を引き寄せたまま歩き出してしまう。
カイドに引きずられるようにして歩くキャルの耳に届いたのは、憎々しげな女性の言葉。
「足手まといのクズが」
そんな小さな呟きを拾ってしまう自分の耳が悲しい。
そして、それを否定できない自分の心も悲しい。
カイドを見上げて謝りたくなる。だけど、謝ってどうなるのだろう。謝ったって、カイドはその言葉を否定して、慰めてくれるのだ。
カイドが彼女たちの味方をするはずないと信じているけれど、辛い。
絶対ないと思っていたのに、他の人に乗り換えられることを想像してしまう。
一度、グランたちにもされたことだ。
カイドとグランは全く違うのに、そんな最低な想像をしてしまって、キャルの目から涙がこぼれそうになる。
周りの人からすれば、SランクであるカイドのそばにEランクの薬師がいること自体が、あり得ない話なのだ。彼らにとって、キャルは目障りなのだろう。
誰も彼もが、自分を邪魔者扱いしている気がした。周りの目が気になり始め、そんな自分が嫌にもなる。
本当だったらカイドとこうして街を歩くことは、とても嬉しいはずだ。
最初は楽しかった。だが、今は周りが気になって、自分がここにいるのは間違っていると言われているような気がして、いたたまれない。
カイドに促されるままに歩き続けて、ふと気が付くと、誰もいない場所にいた。
肩を離されて顔を上げると、カイドが苦しそうな顔をしていた。
「あんな女の戯言を聞く必要はない。キャルが何もできないなんて、そんなわけがないと言っているだろう?」
薄闇に包まれた空き地で、キャルはカイドの腕に包まれた。
「周りなんて気にするな。誰も、キャルの実力を知らないんだ」
カイドは優しい。キャルが何に対して傷ついているのかを、すぐに分かってくれる。キャルのランクなんか気にしない。一緒にいることに、資格なんて必要ないと笑い飛ばしてくれる。
しかし、キャルは気になって仕方がないのだ。
ランク……その大きな壁が、彼とキャルの間を隔てているという思いが、どんどん大きくなってきていた。
次の日、城から早めに戻ってきたカイドが言った。
「悪い、キャル。ギルドへの報告を忘れていた。いつも城への報告だけで済ませていたから」
キャルが目をぱちくりさせていたら、彼はしっかりと詳しく説明してくれた。
カイドとキャルは今回、国からの依頼でノース山を調査した。『魔物の群れがいる』という噂が流れたからだ。
その噂の真相を突き止めるため、ノース山に入り、山猿に襲われたことは、もう思い出したくもない。その後も魔物の群れなど見つけられず、近くの街に話を聞きに行ったところで、グランと再会したのだ。
結局、噂はグランたちが流した嘘だった。国をいたずらに混乱させたとして、グランたちは逮捕され、それはカイドとキャルの功績になるという。
「俺は今までギルドに報告する必要がなかったから、行かなかったんだ。けどキャル、お前は行けばランクが上がる」
「ランクが、上がる……」
キャルは、カイドに言われた言葉に呆然とした。
カイドはすでに最高ランクのSだ。報告しようがどうしようが、ランクに変わりはない。
それに報酬もすでにもらっている。金額を聞いて、キャルが立ちくらみを起こしたのはご愛嬌だ。その報酬のおかげで、王都で売られている高価な薬草にも手が出せるのだ。
「今からでも報告に行こうか」
キャルは声も出せずに頷いた。
ランクを上げることなんて、もうほとんど諦めていた。グランたちに騙されていたとはいえ、冒険者として活動を始めて数年経っているのに、ずっと変わらずEランクだったのだ。
もしも……ランクが上がったなら。
キャルは期待する気持ちを抑えることができなかった。
報酬は高額だった。ならば、それに相応するランクは……
キャルの表情を見たカイドは、微笑んで彼女の手を握った。
王都のギルドは、城のすぐそばにある。貴族の屋敷よりも大きな建物と広い敷地は、この国における冒険者の地位を表しているかのようだ。
冒険者として活動する人間は、危険な行動を要求される代わりに、人々の尊敬を集める。
魔物が出た時に助けてくれるのは冒険者だし、貴重な薬草などを集めてくるのも冒険者だ。
ランクが高くなればなるほど地位が上がっていくし、それがSランクともなれば、国王から直々に声をかけられ、貴族と同じような扱いを受ける。
――いや、財産に関しては貴族以上かもしれない。
王都のギルドは、そんな冒険者たちを統括する場所なのだ。
キャルは、王都のギルドには初めて入った。元々依頼を受けるのも報告するのもグランたちが行い、キャルは外で待っていたので、ギルドに入ったこと自体が少ないのだが。
大きなガラス張りの扉が、キャルが近づいただけで左右に割れる。
驚いて思わず足を止めると、カイドが笑って手を差し出してくれた。
「魔力石を無駄遣いした扉だよ。大丈夫だ。キャルを挟むことはないから」
近くを歩く人たちにも微笑ましげに見られて、キャルは少し顔を熱くした。
入った先は、ピカピカの床が続く贅沢な空間だった。半円形のカウンターに女性が二人座っている。カイドは勝手知ったるように、彼女たちに近づいて、「完了報告だ」と言った。
受付の女性たちは、カイドを一目見るなり立ち上がり、大きく頭を下げた。
「リーティアス様! ああ、わざわざお越しいただくなんて。こちらからお伺いしましたのに!」
一人が両手の指を組んでカイドを見上げれば、もう一人は体をくねらせてカイドに近づいてきた。
「ご案内しますわ! すぐに所長室へお通しします」
その大きな声に、カイドはしかめっ面を作り、舌打ちをする。
「いらない。報告に来ただけだ。何度も言わせるな」
途端に、彼女たちは満面の笑みを消し、慌てて頭を下げた。
「も、申し訳ありません……この札をお持ちになり、五番窓口へお願いします」
二人は上目づかいでカイドを見ながら、番号札を差し出した。カイドが札をもらって足を向ける先へ、キャルもついていく。
そこでようやくキャルの存在に気が付いた彼女たちは、驚愕の表情を浮かべる。
そして、なぜこんなところにネズミが迷い込んだのか……というような目でキャルを見てきた。今すぐに掃き出したいと思っているような目だ。
王都に着いて以来、カイドと一緒にいると、常にそんな視線にさらされてきた。
もうそんな目を見たくなくて俯いたまま、キャルはカイドの後に続いた。
いくつも並んだ窓口は、依頼を引き受けるためのもの、依頼を出すためのもの、報告をするためのものなど、用件ごとに分かれていた。
カイドは言われた通り五番窓口に向かい、一枚の書面を差し出した。
国からもらってきたという成功証明書だ。
グランたちが持っていたものとは違い、淡く光っている。
「光ってる?」
思わず声に出すと、カイドがキャルを見下ろして頷く。
「ああ。王室魔法使いが偽造防止のために魔法をかけてるんだ」
国からの成功証明書は、報酬もランク上げのための経験値も段違いだ。だからこそ、偽造された時の被害が大きいため、そのような措置をとっているのだという。
そんな成功証明書に、自分の名前がある……!
キャルは、どきどきと心臓が痛いほど脈打ち始めたことを自覚した。
「リーティアス様。成功報告ですね。受理いたします」
窓口の男性がにこやかにその証明書を受け取った。
「少々お待ちください」と言われ、窓口の前にいくつか並んだソファーの一つに座る。
キャルは両手を膝に乗せて、体中に力を入れて座っていた。
「すごい緊張してるな」
隣に座ったカイドは、こぶしを口にあてて、くっくっと堪えるような笑い声をあげている。
緊張するのは当たり前だ。初めて、ランクが上がるかもしれない。
キャルは、書類を読んでいると思しき係の男性を見つめ続けた。
十分と少し経っただろうか。時計を見ればそれくらいだったが、もっと長いこと待った気がする。
「リーティアス様」
名前を呼ばれて、カイドが立ち上がる。
キャルも飛び跳ねるように立ち上がってカイドに続く。
「成功報告を受け付けました。すでに報酬は受け取られているご様子。お二人のランク等に変化はありません。お疲れ様でした」
淡々と告げられた言葉の意味を、キャルは理解できなかった。
「なんだって?」
キャルが声を発する前に、カイドが係の男性に詰め寄る。
「なぜ、彼女のランクが上がらない? 国からの依頼だぞ?」
じわじわと、覚えのある絶望が忍び寄ってくる。
そう、ランクは上がらない。キャルは、どんなに頑張っても、やっぱり――
「報告書を確認させていただいての結果でございます。そもそも、報告書を見ても彼女の功績とは思えないのですよ。山猿のボスを見つけたとありますが……本当に? その後リーティアス様が、広範囲を爆破されていますね? 見つけたのが本当であったとしても、結局はあなたが倒したのでしょう」
男性の声が、やけに遠くから聞こえる。もう、聞き飽きた言葉がその裏に隠れていた。
『なんの役にも立たない』
頑張って、頑張って、一生懸命役に立っていると思っていた。
「勝手な解釈を許した覚えはない。提出した報告書通りに判断しろ」
カイドの言葉に、男性は困った顔をして首を横に振る。
「私だけの判断ではありません。上の方からも、こういう報告があるかもしれないので気を付けるよう指示があったのです」
「――上? ギルドの?」
カイドのこぶしに、ぐっと力が入ったことに気付いた。
キャルは、上手く頭が働かず呆然としていた。
だがどこか冷静な部分で、自分がランクを上げられるはずがなかったのだと考えている。
係の人は、さらに続けた。
「SランクとEランクが組むこと自体に無理があるんですよ。Sランクの仕事をEランクの者が共に行ったとすれば、次から次にランクが上がっていきます。それこそ、Sランクのあなたはもうランクを上げる必要がないので、全ての功績を彼女に受け渡すことができる」
彼は報告書を示しながら、カイドを見上げる。そして、ちらりとキャルに視線を投げかけた。
キャルは、びくりと体を震わせる。
「それはただ、Sランクと一緒にいるだけでランクが上がっているように思えませんか? ……何もしていないのに」
何もしていないなんてことはない。だけど、山猿との戦いで、キャルは逃げていただけだ。カイドに抱きかかえられて、逃げて逃げて逃げて……
キャルに、どんな功績があったというのだろう。
「何が言いたい?」
カイドが低い声を出して、男性に詰め寄る。
しかし、彼はカイドの言葉に返事をせず、挑むように視線を返した。
「少々調べさせていただきました。リーティアス様とアメンダさんは、恋仲とのこと」
「ああ。もちろんだ」
キャルが赤面するよりも先に、カイドは平然と答えてしまう。
「ちょっとは照れようよ!」
間髪を容れずに返したカイドに、思わずキャルが突っ込みを入れた。
カイドの堂々とした受け答えに目を瞬かせた男性は、すぐに気を取り直したように続ける。
「あ~……とにかく、それもあって、リーティアス様がアメンダさんに便宜を図ったということが考えられるのです」
彼の言い分に、キャルはなるほどと思ってしまった。
それができるならば、Sランクの人は仲間のランクを上げ放題だ。
Sランクの人にはなんのメリットもない。しかし、相手が大切な人だったら……? たとえば恋人に、ランクをプレゼントするなんてことも……
「つまり……俺が、全く役に立っていないキャルを、役に立ったように書いて報告していると?」
カイドの強い視線を正面から受け止めて、男性は頷く。
「その可能性が捨てきれないのです」
――ダメだ。彼に反論する言葉が見当たらない。
このパーティは、キャルにとっていいことだらけだ。むしろキャルにしか、メリットがない。
このままキャルがランクを上げていけば、当然、周りは訝しむだろう。
「お前が心配する必要はない。規定に基づき判断しろ」
キャルは絶望しつつも納得しているというのに、カイドは男性にさらに詰め寄っていく。
だけど、そんな威嚇には屈しないとばかりに彼は顔を上げていた。
「もちろんです。しかしSランクとEランクが組んだ時の対処法など、どこにも書いてはいないのです。ならば、私が経験に基づき判断しなければいけません」
「……てめえ」
カイドの怒りに震える低い声が響く。揉めていることが伝わったのだろう。周りの人たちがどうしたんだとこちらに顔を向ける。
キャルは、カイドの腕をぐっと掴んで首を横に振った。
ここで押し問答しても、キャルのランクは上がらない。――これ以上、恥をさらしたくない。
キャルの表情を見たカイドが、ぐっと言葉を呑み込むのが分かった。
「――分かった」
それは、係の男性に向けた言葉か、キャルに向けた言葉か。
カイドは踵を返し、建物から外に出た。
キャルは、カイドの一歩後ろを歩いていた。
――やっぱり私のランクは上がらない。
グランに騙されていたのもあるが、カイドと組んでもそうなのだ。
これから、キャルのランクが上がることは一生ないのかもしれない。ギルドに拒否されて、どうやってランクを上げることができるのか。
ずっと、ずっとEランク。
「……ごめん」
いろいろなことに、キャルは謝った。
カイドがキャルを少し振り返る。その表情は、悔しそうで、悲しそうだった。
「私のために怒ってくれてたのに、止めちゃって、ごめん。力に――なれそうになくて、ごめん」
「力になれないなんてことはないと、何度も言っているだろう。まだ言っているのか」
カイドが足を止めて、キャルをきちんと振り返った。
「俺も、目立つことをしてしまったからな。悪い。恥をかかせるつもりじゃなかったんだ」
じわりと涙が出てきて、キャルは慌てて顔を俯けた。
声が出せなくて、ぷるぷると小さく首を横に振る。
「俺としては、ランクはどうでもいいんだ。ただ、キャルがだんだんと落ち込んでいってるみたいだから連れていっただけだ。……逆効果だったんだから、最悪だけどな」
カイドはキャルを抱き上げ、背中をあやすように撫でる。
キャルはカイドの首に抱きついて、涙をこぼした。
周りの人たちの視線と言葉に、キャルが傷ついていたことを、カイドも気にしていた。それなのに、彼に気遣わせないように振る舞うことさえできなかった自分が情けない。
さっきのギルド職員の言い方からすると、カイドと行動する限り、キャルにランクアップの道はない。ランクを上げたいなら、キャルはもう一度一人で旅に出る必要があるのかもしれない。
「キャル、このままでいいから、コロンに帰ろう」
だけど、カイドがそうやってキャルを甘やかす。このままで充分だと。コロンに行けば、キャルを蔑む人はいなくなる。
「コロンで薬屋をするんだろう? 別にランクなんて必要ないじゃないか」
「……ん」
冒険者になる前は、コロンで薬屋をしていた。
近くの森に入って、薬草を採集する。カイドがいれば、もっと珍しい薬草がある場所まで行けるし、魔物の素材も手に入るかもしれない。
薬草の研究だって今よりもっとできるし、新しい薬も開発していけるだろう。
亡くなった父のように、薬の第一人者だと言われるようになるかもしれない。
「ありがとう」
キャルはカイドの言葉に甘えてしまう。
コロンで、キャルが薬屋になる。その傍らにカイドがいてくれるということは、彼が冒険者ではなくなるということなのに。
このまま、ここに――彼の腕の中にいたい。
だから、キャルは何にも気が付かないふりをして逃げることにした。
「もうすぐ、ここでの仕事が終わる。そうしたら、コロンに帰ろう」
カイドの甘くて優しい言葉に、全てのものから目をそらして――キャルは頷いた。
2
次の日、珍しいことに来客があった。王都に滞在して初めてのことだ。
玄関のドアがノックされた途端、カイドは顔をしかめる。嫌そうにゆっくりと立ち上がり、玄関へと向かう。まるで、相手がその間に帰ってくれればいいと思っているかのような遅さだ。
カイドがドアを開けると、そこにはキャルが見たことのない綺麗な男性が立っていた。
グランも綺麗な顔立ちをしていたが、今目の前に立っている人は、次元が違う。
透けるような白い肌、長い睫に縁取られた切れ長の瞳。まっすぐで艶やかな黒髪は光を放っているかのようで、どこをとっても美しい。見惚れてしまいそうだ。
仏頂面のカイドとは正反対に、にこやかに微笑むと、彼は挨拶をする。
「やあ。ちょっとお話がしたくてさ」
カイドはさらに嫌そうに口をひん曲げたが、くいっと顎で室内を示した。
どんなに嫌だと思っていても、中へ招かなければいけないほどの相手なのだろう。
おもてなしが必要かと、キャルはお茶とお菓子を準備するため台所に行こうとした。すると客の男性がじろじろと眺め回してきた。
「……ふうん」
そう言って、ふいっと興味を失ったようにカイドへ笑顔を向ける。
「ああ、さすがカイドだ。長いこと留守にしていても、家の様子は全く変わらないね」
――とっても感じの悪い人だ。
だけど、カイドが居間に案内していたので、キャルは黙ってお茶を準備する。
お盆を持って居間に入っていくと、カイドと客がソファーから立ち上がった。
「失礼します」
いろいろと思うところはあるが、お茶とお菓子をテーブルの上に並べようとする。
並べ終えたら、さっさと退散しようと思っていたのに、またも客に顔を覗き込まれた。
「これが?」
さっきと同じように、頭の上からつま先まで、じろじろと検分されている。しかも、『これ』ってなんだ。カイドの客に怒ってもいいのか戸惑っていると、急に腕を引かれた。
「これとか言うな。そして、近づくな」
カイドに肩を抱かれて立つキャルを、客はじろりと睨みつけた。
「そうだね。僕もそうしたかったさ」
意味深に呟いて、彼は大きなため息を吐く。
「だけど、そうできない理由があるのだよ」
腕を組んで嘆かわしいというように、首をゆっくりと横に振った。
彼が言うには、『自分は、見極めに来た』そうなのだ。
「君は女に溺れて、正常な判断ができていないようだから」
客がカイドに向かって言い放つ。その言葉に、キャルは非常に驚いた。
――女に溺れて!? いつ!? カイドにそんな相手が!?
目を丸くしてカイドを見るキャルの頭を、カイドがはたく。
「お前の誤解が一瞬で伝わってきた。馬鹿か」
「ええ? だって、溺れてるって……」
軽くはたかれただけなのに、意外と痛かった頭を押さえて、キャルは抗議する。
「相手はお前だ」
「ああ、なるほど。私……? はっ?」
まさか、カイドがキャルに溺れて正常な判断ができなくなっていると?
「なわけないじゃない!」
「まあ、そういうこともあるかもな」
キャルがしっかり否定したというのに、カイドはけろっと肯定してしまう。
「カイド!?」
目を剥くキャルを横目に、カイドは客に向き直った。
「で? それは仕事とどうかかわる?」
カイドが真剣に聞いているというのに、客は飄々とした態度で、別の疑問を口にする。
「カイドが落とされたいきさつが知りたいんだ。この堅物のカイドのどこをどうして骨抜きにしたのかを」
――骨抜きにはしていない。
キャルが少し頬を熱くすると、彼は首を傾げる。
「その表情は可愛く見えないこともない。カイド、これか?」
「お前、帰れ」
ソファーに座ったカイドがお茶をすすりながら、しかめっ面で告げた。カイドの他の人への対応は冷たいと思うことが多いが、今ばかりは大賛成だ。
「ダメだよ。僕に分からないことは一つもないし、あってはならない。僕はこの世界の英知の結晶なんだ。君、名前は?」
この人の扱いをどうすればいいか分からなくて、キャルは素直に答える。
「キャル・アメンダです」
しかし、彼はキャルの答えを鼻で笑い、顎をそらした。
「知っていたよ。もちろんね!」
――だったらなぜ聞いたのだ。
キャルも、それに応えたいと思う。
どんなに魔力がある人でも、キャルの持つ大量の薬にはかなわないだろう。病気や怪我はもちろん、毒にも対応できる自信がある。
だから、キャルはカイドの横に立っていてもいいのだと、自分を鼓舞していた。
そうでもしないと、蔑んだ視線を浴びせられて、滅入ってしまいそうだった。
「薬師なんて、ただ薬を作っているだけでしょ。楽なものね」
「彼をどんな理由で縛りつけているの? 可哀想だわ」
「ああ、薬草くさいわ。しかも所帯じみているし」
毎日毎日、こうして女性が寄ってきては、こぞってキャルを邪魔者扱いする。
自分は役に立っている。彼女たちにできないことができる。
そう思えば、最初は平気だった。そもそも、カイドになびく様子が全くないので、彼が別の人を選んでしまうことは心配しなくてもいい。
だが中には、大胆な発言をしてくる女性もいた。
「私は、戦いでも役に立つわ。もちろん、望まれれば、心も体も癒して差し上げる」
その時、ふと気が付いたのだ。
――彼女たちも、キャルにできないことができる。
最初は強がって胸を張っていたが、多くの人に否定され、睨まれ続けて、心が折れそうだった。
カイドが選んでくれたから!
そう大声で言いたくても、自信を失いかけたキャルにはできなかった。
「キャル、行くぞ」
キャルの返事を待たずに、カイドはキャルの肩を引き寄せたまま歩き出してしまう。
カイドに引きずられるようにして歩くキャルの耳に届いたのは、憎々しげな女性の言葉。
「足手まといのクズが」
そんな小さな呟きを拾ってしまう自分の耳が悲しい。
そして、それを否定できない自分の心も悲しい。
カイドを見上げて謝りたくなる。だけど、謝ってどうなるのだろう。謝ったって、カイドはその言葉を否定して、慰めてくれるのだ。
カイドが彼女たちの味方をするはずないと信じているけれど、辛い。
絶対ないと思っていたのに、他の人に乗り換えられることを想像してしまう。
一度、グランたちにもされたことだ。
カイドとグランは全く違うのに、そんな最低な想像をしてしまって、キャルの目から涙がこぼれそうになる。
周りの人からすれば、SランクであるカイドのそばにEランクの薬師がいること自体が、あり得ない話なのだ。彼らにとって、キャルは目障りなのだろう。
誰も彼もが、自分を邪魔者扱いしている気がした。周りの目が気になり始め、そんな自分が嫌にもなる。
本当だったらカイドとこうして街を歩くことは、とても嬉しいはずだ。
最初は楽しかった。だが、今は周りが気になって、自分がここにいるのは間違っていると言われているような気がして、いたたまれない。
カイドに促されるままに歩き続けて、ふと気が付くと、誰もいない場所にいた。
肩を離されて顔を上げると、カイドが苦しそうな顔をしていた。
「あんな女の戯言を聞く必要はない。キャルが何もできないなんて、そんなわけがないと言っているだろう?」
薄闇に包まれた空き地で、キャルはカイドの腕に包まれた。
「周りなんて気にするな。誰も、キャルの実力を知らないんだ」
カイドは優しい。キャルが何に対して傷ついているのかを、すぐに分かってくれる。キャルのランクなんか気にしない。一緒にいることに、資格なんて必要ないと笑い飛ばしてくれる。
しかし、キャルは気になって仕方がないのだ。
ランク……その大きな壁が、彼とキャルの間を隔てているという思いが、どんどん大きくなってきていた。
次の日、城から早めに戻ってきたカイドが言った。
「悪い、キャル。ギルドへの報告を忘れていた。いつも城への報告だけで済ませていたから」
キャルが目をぱちくりさせていたら、彼はしっかりと詳しく説明してくれた。
カイドとキャルは今回、国からの依頼でノース山を調査した。『魔物の群れがいる』という噂が流れたからだ。
その噂の真相を突き止めるため、ノース山に入り、山猿に襲われたことは、もう思い出したくもない。その後も魔物の群れなど見つけられず、近くの街に話を聞きに行ったところで、グランと再会したのだ。
結局、噂はグランたちが流した嘘だった。国をいたずらに混乱させたとして、グランたちは逮捕され、それはカイドとキャルの功績になるという。
「俺は今までギルドに報告する必要がなかったから、行かなかったんだ。けどキャル、お前は行けばランクが上がる」
「ランクが、上がる……」
キャルは、カイドに言われた言葉に呆然とした。
カイドはすでに最高ランクのSだ。報告しようがどうしようが、ランクに変わりはない。
それに報酬もすでにもらっている。金額を聞いて、キャルが立ちくらみを起こしたのはご愛嬌だ。その報酬のおかげで、王都で売られている高価な薬草にも手が出せるのだ。
「今からでも報告に行こうか」
キャルは声も出せずに頷いた。
ランクを上げることなんて、もうほとんど諦めていた。グランたちに騙されていたとはいえ、冒険者として活動を始めて数年経っているのに、ずっと変わらずEランクだったのだ。
もしも……ランクが上がったなら。
キャルは期待する気持ちを抑えることができなかった。
報酬は高額だった。ならば、それに相応するランクは……
キャルの表情を見たカイドは、微笑んで彼女の手を握った。
王都のギルドは、城のすぐそばにある。貴族の屋敷よりも大きな建物と広い敷地は、この国における冒険者の地位を表しているかのようだ。
冒険者として活動する人間は、危険な行動を要求される代わりに、人々の尊敬を集める。
魔物が出た時に助けてくれるのは冒険者だし、貴重な薬草などを集めてくるのも冒険者だ。
ランクが高くなればなるほど地位が上がっていくし、それがSランクともなれば、国王から直々に声をかけられ、貴族と同じような扱いを受ける。
――いや、財産に関しては貴族以上かもしれない。
王都のギルドは、そんな冒険者たちを統括する場所なのだ。
キャルは、王都のギルドには初めて入った。元々依頼を受けるのも報告するのもグランたちが行い、キャルは外で待っていたので、ギルドに入ったこと自体が少ないのだが。
大きなガラス張りの扉が、キャルが近づいただけで左右に割れる。
驚いて思わず足を止めると、カイドが笑って手を差し出してくれた。
「魔力石を無駄遣いした扉だよ。大丈夫だ。キャルを挟むことはないから」
近くを歩く人たちにも微笑ましげに見られて、キャルは少し顔を熱くした。
入った先は、ピカピカの床が続く贅沢な空間だった。半円形のカウンターに女性が二人座っている。カイドは勝手知ったるように、彼女たちに近づいて、「完了報告だ」と言った。
受付の女性たちは、カイドを一目見るなり立ち上がり、大きく頭を下げた。
「リーティアス様! ああ、わざわざお越しいただくなんて。こちらからお伺いしましたのに!」
一人が両手の指を組んでカイドを見上げれば、もう一人は体をくねらせてカイドに近づいてきた。
「ご案内しますわ! すぐに所長室へお通しします」
その大きな声に、カイドはしかめっ面を作り、舌打ちをする。
「いらない。報告に来ただけだ。何度も言わせるな」
途端に、彼女たちは満面の笑みを消し、慌てて頭を下げた。
「も、申し訳ありません……この札をお持ちになり、五番窓口へお願いします」
二人は上目づかいでカイドを見ながら、番号札を差し出した。カイドが札をもらって足を向ける先へ、キャルもついていく。
そこでようやくキャルの存在に気が付いた彼女たちは、驚愕の表情を浮かべる。
そして、なぜこんなところにネズミが迷い込んだのか……というような目でキャルを見てきた。今すぐに掃き出したいと思っているような目だ。
王都に着いて以来、カイドと一緒にいると、常にそんな視線にさらされてきた。
もうそんな目を見たくなくて俯いたまま、キャルはカイドの後に続いた。
いくつも並んだ窓口は、依頼を引き受けるためのもの、依頼を出すためのもの、報告をするためのものなど、用件ごとに分かれていた。
カイドは言われた通り五番窓口に向かい、一枚の書面を差し出した。
国からもらってきたという成功証明書だ。
グランたちが持っていたものとは違い、淡く光っている。
「光ってる?」
思わず声に出すと、カイドがキャルを見下ろして頷く。
「ああ。王室魔法使いが偽造防止のために魔法をかけてるんだ」
国からの成功証明書は、報酬もランク上げのための経験値も段違いだ。だからこそ、偽造された時の被害が大きいため、そのような措置をとっているのだという。
そんな成功証明書に、自分の名前がある……!
キャルは、どきどきと心臓が痛いほど脈打ち始めたことを自覚した。
「リーティアス様。成功報告ですね。受理いたします」
窓口の男性がにこやかにその証明書を受け取った。
「少々お待ちください」と言われ、窓口の前にいくつか並んだソファーの一つに座る。
キャルは両手を膝に乗せて、体中に力を入れて座っていた。
「すごい緊張してるな」
隣に座ったカイドは、こぶしを口にあてて、くっくっと堪えるような笑い声をあげている。
緊張するのは当たり前だ。初めて、ランクが上がるかもしれない。
キャルは、書類を読んでいると思しき係の男性を見つめ続けた。
十分と少し経っただろうか。時計を見ればそれくらいだったが、もっと長いこと待った気がする。
「リーティアス様」
名前を呼ばれて、カイドが立ち上がる。
キャルも飛び跳ねるように立ち上がってカイドに続く。
「成功報告を受け付けました。すでに報酬は受け取られているご様子。お二人のランク等に変化はありません。お疲れ様でした」
淡々と告げられた言葉の意味を、キャルは理解できなかった。
「なんだって?」
キャルが声を発する前に、カイドが係の男性に詰め寄る。
「なぜ、彼女のランクが上がらない? 国からの依頼だぞ?」
じわじわと、覚えのある絶望が忍び寄ってくる。
そう、ランクは上がらない。キャルは、どんなに頑張っても、やっぱり――
「報告書を確認させていただいての結果でございます。そもそも、報告書を見ても彼女の功績とは思えないのですよ。山猿のボスを見つけたとありますが……本当に? その後リーティアス様が、広範囲を爆破されていますね? 見つけたのが本当であったとしても、結局はあなたが倒したのでしょう」
男性の声が、やけに遠くから聞こえる。もう、聞き飽きた言葉がその裏に隠れていた。
『なんの役にも立たない』
頑張って、頑張って、一生懸命役に立っていると思っていた。
「勝手な解釈を許した覚えはない。提出した報告書通りに判断しろ」
カイドの言葉に、男性は困った顔をして首を横に振る。
「私だけの判断ではありません。上の方からも、こういう報告があるかもしれないので気を付けるよう指示があったのです」
「――上? ギルドの?」
カイドのこぶしに、ぐっと力が入ったことに気付いた。
キャルは、上手く頭が働かず呆然としていた。
だがどこか冷静な部分で、自分がランクを上げられるはずがなかったのだと考えている。
係の人は、さらに続けた。
「SランクとEランクが組むこと自体に無理があるんですよ。Sランクの仕事をEランクの者が共に行ったとすれば、次から次にランクが上がっていきます。それこそ、Sランクのあなたはもうランクを上げる必要がないので、全ての功績を彼女に受け渡すことができる」
彼は報告書を示しながら、カイドを見上げる。そして、ちらりとキャルに視線を投げかけた。
キャルは、びくりと体を震わせる。
「それはただ、Sランクと一緒にいるだけでランクが上がっているように思えませんか? ……何もしていないのに」
何もしていないなんてことはない。だけど、山猿との戦いで、キャルは逃げていただけだ。カイドに抱きかかえられて、逃げて逃げて逃げて……
キャルに、どんな功績があったというのだろう。
「何が言いたい?」
カイドが低い声を出して、男性に詰め寄る。
しかし、彼はカイドの言葉に返事をせず、挑むように視線を返した。
「少々調べさせていただきました。リーティアス様とアメンダさんは、恋仲とのこと」
「ああ。もちろんだ」
キャルが赤面するよりも先に、カイドは平然と答えてしまう。
「ちょっとは照れようよ!」
間髪を容れずに返したカイドに、思わずキャルが突っ込みを入れた。
カイドの堂々とした受け答えに目を瞬かせた男性は、すぐに気を取り直したように続ける。
「あ~……とにかく、それもあって、リーティアス様がアメンダさんに便宜を図ったということが考えられるのです」
彼の言い分に、キャルはなるほどと思ってしまった。
それができるならば、Sランクの人は仲間のランクを上げ放題だ。
Sランクの人にはなんのメリットもない。しかし、相手が大切な人だったら……? たとえば恋人に、ランクをプレゼントするなんてことも……
「つまり……俺が、全く役に立っていないキャルを、役に立ったように書いて報告していると?」
カイドの強い視線を正面から受け止めて、男性は頷く。
「その可能性が捨てきれないのです」
――ダメだ。彼に反論する言葉が見当たらない。
このパーティは、キャルにとっていいことだらけだ。むしろキャルにしか、メリットがない。
このままキャルがランクを上げていけば、当然、周りは訝しむだろう。
「お前が心配する必要はない。規定に基づき判断しろ」
キャルは絶望しつつも納得しているというのに、カイドは男性にさらに詰め寄っていく。
だけど、そんな威嚇には屈しないとばかりに彼は顔を上げていた。
「もちろんです。しかしSランクとEランクが組んだ時の対処法など、どこにも書いてはいないのです。ならば、私が経験に基づき判断しなければいけません」
「……てめえ」
カイドの怒りに震える低い声が響く。揉めていることが伝わったのだろう。周りの人たちがどうしたんだとこちらに顔を向ける。
キャルは、カイドの腕をぐっと掴んで首を横に振った。
ここで押し問答しても、キャルのランクは上がらない。――これ以上、恥をさらしたくない。
キャルの表情を見たカイドが、ぐっと言葉を呑み込むのが分かった。
「――分かった」
それは、係の男性に向けた言葉か、キャルに向けた言葉か。
カイドは踵を返し、建物から外に出た。
キャルは、カイドの一歩後ろを歩いていた。
――やっぱり私のランクは上がらない。
グランに騙されていたのもあるが、カイドと組んでもそうなのだ。
これから、キャルのランクが上がることは一生ないのかもしれない。ギルドに拒否されて、どうやってランクを上げることができるのか。
ずっと、ずっとEランク。
「……ごめん」
いろいろなことに、キャルは謝った。
カイドがキャルを少し振り返る。その表情は、悔しそうで、悲しそうだった。
「私のために怒ってくれてたのに、止めちゃって、ごめん。力に――なれそうになくて、ごめん」
「力になれないなんてことはないと、何度も言っているだろう。まだ言っているのか」
カイドが足を止めて、キャルをきちんと振り返った。
「俺も、目立つことをしてしまったからな。悪い。恥をかかせるつもりじゃなかったんだ」
じわりと涙が出てきて、キャルは慌てて顔を俯けた。
声が出せなくて、ぷるぷると小さく首を横に振る。
「俺としては、ランクはどうでもいいんだ。ただ、キャルがだんだんと落ち込んでいってるみたいだから連れていっただけだ。……逆効果だったんだから、最悪だけどな」
カイドはキャルを抱き上げ、背中をあやすように撫でる。
キャルはカイドの首に抱きついて、涙をこぼした。
周りの人たちの視線と言葉に、キャルが傷ついていたことを、カイドも気にしていた。それなのに、彼に気遣わせないように振る舞うことさえできなかった自分が情けない。
さっきのギルド職員の言い方からすると、カイドと行動する限り、キャルにランクアップの道はない。ランクを上げたいなら、キャルはもう一度一人で旅に出る必要があるのかもしれない。
「キャル、このままでいいから、コロンに帰ろう」
だけど、カイドがそうやってキャルを甘やかす。このままで充分だと。コロンに行けば、キャルを蔑む人はいなくなる。
「コロンで薬屋をするんだろう? 別にランクなんて必要ないじゃないか」
「……ん」
冒険者になる前は、コロンで薬屋をしていた。
近くの森に入って、薬草を採集する。カイドがいれば、もっと珍しい薬草がある場所まで行けるし、魔物の素材も手に入るかもしれない。
薬草の研究だって今よりもっとできるし、新しい薬も開発していけるだろう。
亡くなった父のように、薬の第一人者だと言われるようになるかもしれない。
「ありがとう」
キャルはカイドの言葉に甘えてしまう。
コロンで、キャルが薬屋になる。その傍らにカイドがいてくれるということは、彼が冒険者ではなくなるということなのに。
このまま、ここに――彼の腕の中にいたい。
だから、キャルは何にも気が付かないふりをして逃げることにした。
「もうすぐ、ここでの仕事が終わる。そうしたら、コロンに帰ろう」
カイドの甘くて優しい言葉に、全てのものから目をそらして――キャルは頷いた。
2
次の日、珍しいことに来客があった。王都に滞在して初めてのことだ。
玄関のドアがノックされた途端、カイドは顔をしかめる。嫌そうにゆっくりと立ち上がり、玄関へと向かう。まるで、相手がその間に帰ってくれればいいと思っているかのような遅さだ。
カイドがドアを開けると、そこにはキャルが見たことのない綺麗な男性が立っていた。
グランも綺麗な顔立ちをしていたが、今目の前に立っている人は、次元が違う。
透けるような白い肌、長い睫に縁取られた切れ長の瞳。まっすぐで艶やかな黒髪は光を放っているかのようで、どこをとっても美しい。見惚れてしまいそうだ。
仏頂面のカイドとは正反対に、にこやかに微笑むと、彼は挨拶をする。
「やあ。ちょっとお話がしたくてさ」
カイドはさらに嫌そうに口をひん曲げたが、くいっと顎で室内を示した。
どんなに嫌だと思っていても、中へ招かなければいけないほどの相手なのだろう。
おもてなしが必要かと、キャルはお茶とお菓子を準備するため台所に行こうとした。すると客の男性がじろじろと眺め回してきた。
「……ふうん」
そう言って、ふいっと興味を失ったようにカイドへ笑顔を向ける。
「ああ、さすがカイドだ。長いこと留守にしていても、家の様子は全く変わらないね」
――とっても感じの悪い人だ。
だけど、カイドが居間に案内していたので、キャルは黙ってお茶を準備する。
お盆を持って居間に入っていくと、カイドと客がソファーから立ち上がった。
「失礼します」
いろいろと思うところはあるが、お茶とお菓子をテーブルの上に並べようとする。
並べ終えたら、さっさと退散しようと思っていたのに、またも客に顔を覗き込まれた。
「これが?」
さっきと同じように、頭の上からつま先まで、じろじろと検分されている。しかも、『これ』ってなんだ。カイドの客に怒ってもいいのか戸惑っていると、急に腕を引かれた。
「これとか言うな。そして、近づくな」
カイドに肩を抱かれて立つキャルを、客はじろりと睨みつけた。
「そうだね。僕もそうしたかったさ」
意味深に呟いて、彼は大きなため息を吐く。
「だけど、そうできない理由があるのだよ」
腕を組んで嘆かわしいというように、首をゆっくりと横に振った。
彼が言うには、『自分は、見極めに来た』そうなのだ。
「君は女に溺れて、正常な判断ができていないようだから」
客がカイドに向かって言い放つ。その言葉に、キャルは非常に驚いた。
――女に溺れて!? いつ!? カイドにそんな相手が!?
目を丸くしてカイドを見るキャルの頭を、カイドがはたく。
「お前の誤解が一瞬で伝わってきた。馬鹿か」
「ええ? だって、溺れてるって……」
軽くはたかれただけなのに、意外と痛かった頭を押さえて、キャルは抗議する。
「相手はお前だ」
「ああ、なるほど。私……? はっ?」
まさか、カイドがキャルに溺れて正常な判断ができなくなっていると?
「なわけないじゃない!」
「まあ、そういうこともあるかもな」
キャルがしっかり否定したというのに、カイドはけろっと肯定してしまう。
「カイド!?」
目を剥くキャルを横目に、カイドは客に向き直った。
「で? それは仕事とどうかかわる?」
カイドが真剣に聞いているというのに、客は飄々とした態度で、別の疑問を口にする。
「カイドが落とされたいきさつが知りたいんだ。この堅物のカイドのどこをどうして骨抜きにしたのかを」
――骨抜きにはしていない。
キャルが少し頬を熱くすると、彼は首を傾げる。
「その表情は可愛く見えないこともない。カイド、これか?」
「お前、帰れ」
ソファーに座ったカイドがお茶をすすりながら、しかめっ面で告げた。カイドの他の人への対応は冷たいと思うことが多いが、今ばかりは大賛成だ。
「ダメだよ。僕に分からないことは一つもないし、あってはならない。僕はこの世界の英知の結晶なんだ。君、名前は?」
この人の扱いをどうすればいいか分からなくて、キャルは素直に答える。
「キャル・アメンダです」
しかし、彼はキャルの答えを鼻で笑い、顎をそらした。
「知っていたよ。もちろんね!」
――だったらなぜ聞いたのだ。
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