獣人公爵のエスコート

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1巻

1-3

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「さあ、帰ろうか」

 優しく促す父を見上げて、フィディアは頷いた。
 さて、いざ帰ろうと馬車へ足を向けると、遠目に分かるほど、そこは多くの人が馬車を出すのを待っていた。
 どうにもタイミングが悪い。
 また、昨夜のような渋滞に巻き込まれて、無駄に数時間を費やすのか。
 フィディアは歩いて帰ってもよかった。御者にチップを渡してここで終わりにしてはどうかと思う。どうしようかと父と目を見合わせていると、案内をしてくれていた衛兵が声をかけてきた。

「今は薔薇ばらが美しい季節です。少々遠回りになりますがお急ぎでなければ、そちらの庭園を通って、馬車までご案内いたしますが」

 この衛兵は、どこまでフィディアの感情を理解してくれているのか。
 王都の庭は、社交シーズンに合わせて薔薇ばらが満開になるのだという。舞踏会は夜に行われるから、ライトアップされた薔薇ばら以外が鑑賞されることは少ないのだとか。

「ああ、それはありがたい。こちらこそお願いいたします」

 父は仮にも貴族だが、衛兵に対してもぞんざいな態度を見せることは決してない。父の丁寧な言葉遣いに、衛兵は微笑みながら頷いた。
 昼間はほとんど人がいないという庭園を、フィディアは感嘆のため息をこぼしながら歩いた。
 アーチ状に咲き誇る薔薇ばらのトンネルを抜けた先には、大きな噴水が陽光を反射しながら水を噴き上げていた。
 薔薇ばらの他にも小さな花が美しく咲き誇り、全てが調和して薔薇ばら園を彩っている。
 鮮やかな色に見惚れながら歩くフィディアに、衛兵が手を差し出してくる。

「お手をどうぞ」

 驚いて見上げると、衛兵がはにかんだ。
 フィディアが存分に鑑賞できるように、腕を彼に預けたらいいということなのだろう。
 しかし、さすがにそれは恥ずかしい。
 頬を染めながら、フィディアは小さく頭を下げる。

「お気遣いありがとうございます。大丈夫です。真っ直ぐに歩きます」

 花に目を奪われて、随分ずいぶんとふらふら歩いていたのかもしれない。
 心配されて手を差し出されるほどだとは、どれほどぼんやりしていたのだろうか。

「そうですか?」

 演習場だけでなく薔薇ばら園にも案内してもらい、随分ずいぶんと彼には時間を取らせてしまっている。これ以上迷惑をかけるわけにはいかない。
 フィディアがにっこりと笑って頷くと、どこか残念そうに彼は腕を下げた。
 父を見ると、妙に嬉しそうだ。
 彼の気遣いに感心しているのだろうと、フィディアも微笑みを返す。それに対する父の表情が残念そうで、フィディアは首を傾げた。いまひとつ意思疎通がうまくできなかったようだ。
 薔薇ばらが一層鮮やかに咲き誇っている場所まで来て、彼は手を胸にあてて父に頭を下げた。

「申し遅れました。私は、アドラ・ステンと申します。男爵家の次男ですが、現在は騎士のくらいを拝命しております」

 なんと、ただの衛兵かと思っていたら、騎士だったのか。どうりで気遣いも完璧だし、物腰も洗練されていると思った。突然の自己紹介にフィディアは目をしばたたいた。

「丁寧なご挨拶ありがとうございます。ライ・カランストンと申します」

 父が挨拶をしたのを横目で確認してフィディアも慌てて腰を折る。

「フィディア・カランストンと申します」

 もう馬車に乗って早々に帰るつもりで、ここで挨拶が始まるとは思っていなかったため、少々早口になってしまった。
 そんな態度も気にせず、彼は膝を折り、フィディアに手を差し伸べる。

「今日は本当に楽しかった。後日、またお会いしていただけないでしょうか」

 案内をしてもらっただけなのに、そんなに楽しかったのだろうか。
 首を傾げながら、父の返事を待つが……二人共、視線はフィディアに向いている。
 フィディアへのお誘いの言葉だったようだ。
 もう一度、フィディアは首を傾げる。
 ……なんのために?
 目的がさっぱり理解できない。しかも、後日となれば、フィディアたちは領地に戻っており、そこに訪問してくるということだろうか。結構な重労働だ。
 謁見えっけんの理由は申請時に提出しているので、今日の目的が領地に戻るための挨拶だということを、彼は知っているだろう。それなのに、また会いに来るという。

「そうですね。娘に理解させておきましょう」

 笑いを含んだ声で父が言うと、彼はもう一度頭を下げた。
 ――それで、ようやく理解した。
 にぶいと言われても仕方がない流れだ。
 しかし、誰が思うだろうか。特に着飾ったわけでもなく、今日が初対面で、ただ案内してもらっただけの男性がフィディアに好意を寄せるなど。
 そう考えて、遠目に一目見ただけで恋に落ちた自分を思い出す。
 顔を熱くするフィディアを見て、彼は微笑んで馬車の傍まで案内してくれる。
 どこでそういう流れになったのかさっぱり分からないが、このまま流されるわけにはいかない。
 フィディアの胸には、会ったこともない人が、苦しいほど鮮明に居座ってしまっているのだ。彼がフィディアに好意を寄せているとしても、その想いを受け入れることはできない。
 馬車へ乗るために手を差し出されるが、フィディアは首を横に振って拒んだ。

「申しわけありません」

 彼を見ることができずに、背後にいる父に視線を向ける。
 それだけで理解した父が、フィディアの横に来て彼女の手を取る。

「お世話になりました」

 父が言う横で、フィディアももう一度頭を下げた。ちらりと見えた彼の横顔は、悲しそうだった。
 初めて明確に好意を表してくれた人。きっと、今日でなかったら、浮かれて彼の手を取っていたかもしれない。
 でも、今日、フィディアは初めて恋をして、恋を失った。
 そんな日に、すぐに別の人の手を取ろうという気には決してならない。
 どんな顔をしていいのか分からなくて、俯いたまま、父の手を借りて馬車に乗り込もうと一歩踏み出した。


   ◇


 平和な今の時代でも、いざとなれば、優秀な軍隊がいるのだと周辺国にも国内にも示さなければならない。そのため、定期的に、軍の公開演習が行われる。
 軍の演習日は、暇な貴族たちや、将来兵になることを志望する平民など、毎回それなりに人が集まる。
 ただ、社交界シーズンが始まったこの時期に行う演習は、通常より華やかになるため、より多くの見物人が集まる。

「分かりますか? 閣下は旗印です。主人公ですよ」
「主人公とはなんだ。……自分の立場は分かっていると言っているだろう」

 ジェミールは何度も言い聞かせてくるクインに渋い顔を向けた。

「お分かりでないから言っているのです! そんな覇気はきのない顔をして。愛想が良ければ最高ですが、無理でしょうから。せめて凛々りりしい顔をなさってください」

 上司に対する言葉遣いを教え込んだ方がいいだろうか。
 ジェミールはため息をこらえて、胸を張ってみせる。

「俺はいつも通りだ」
「耳はもっと立ちませんか? 尻尾も、もっと揺らしてください」
「……」

 獣人の目印になる耳と尻尾は、どうにも感情に左右される。
 これまでジェミールは軍人として、感情を制御できていた――はずだったのだが。
 意識してみると、耳はへにょりと曲がり、尻尾もだらんと垂れていた。

「会場に入れば、そう見せる」

 今から、そんな状態を保つのはしんどい。
 本音を言えば、今日だって休みたいのだ。記憶の中にある彼女の笑顔にすがって生きていきたい。
 この一週間、彼女の笑顔ばかり思い浮かべていた。
 同時に、『嫌がって』帰ってしまったという言葉が心臓をえぐる。
 演習が始まるから、引きこもっていた自室から出てきたが、失恋の傷はそう簡単に治らない。治る見込みもないしきざしもないし、治そうという気もない。
 いっそのこと、一目見た彼女の姿を思い出に、隠居老人のようになってしまいたい。

「兵たちの士気に関わります。観客だけでなく、兵たちの視線も気にしてください」

 感傷に浸るジェミールに構わず、クインがそう詰め寄ってくる。本当に、口うるさい。
 返事をする代わりに、じろりと睨み付けて、ジェミールはあごを上げて演習場へ向かう。
 もちろん、耳はピンと立てて。
 これが終わったら、旅に出ようと決心しながら。
 暗い通路を抜けて演習場に立つと、歓声が湧き起こる。それらに応えながら中心に立ち、腕を振り上げる。兵士たちは一糸乱れぬ動きで、隊形を変え、行進を始める。
 兵士一人一人に厳しい目を向けながら、自分の姿を気にするのも忘れない。気を抜くと、耳がぺちゃんと頭にくっついてしまいそうなのだ。
 それが億劫おっくうで、イライラする。
 ――何故、俺は今この場にいなければならないのか。部屋に引きこもっていたいのに。
 そう考えれば、さらに苛立いらだちが募って、そのままの感情で睥睨へいげいすると、兵士たちの動きがさらに良くなる。
 動きに反して、心なしか兵たちの顔色が悪い。何故だか、涙目になっているやつもいるようだ。
 訓練中に泣くとは、なんと気概に欠けることか。
 ジェミールだってしくしく泣きながら引きこもっていたいと思いながら、ここに立っているのに。
 さらに目つきを鋭くして、兵士たちを眺めるジェミール。それに恐れをなして、さらにおびえる兵士たち。
 どう見ても悪循環だった。
 クインはジェミールの補佐をしながら、どうにかこの場はまともに終わってくれと願っていた。
 その時、ジェミールの全神経が一人の女性を捉えた。
 視線を向けなくても分かる。観客席、自分の後方に立っている。
 ――彼女だ。唯一無二のつがい
 彼女に、見られている。途端、体の奥底から歓喜が湧き上がる。
 しかし、彼女の存在を感じられるだけで、彼女に視線を向けることができない。

「……閣下?」

 クインがいぶかしげにジェミールに小さく声をかけてきた。
 クインの声に、ハッとして目の前の兵士たちにも少し意識を向ける。
 彼女がそこにいるのに、この状態で仕事に集中などできるわけがない。彼女にも、仕事にも集中できない、なんとも中途半端な状態になってしまう。
 止まっていた腕を動かして、脇から剣を引き抜く。
 それを合図に、この場にいる全員が同じ動きで剣を抜き、空へ掲げる。
 ここからが見せ場だ。
 舞うように剣をふるい、隣にいるクインに斬りかかる。クインは決められた動きで受け止め、次は――

「素敵……」

 歓声の中、聞こえた一つの呟き。
 瞬間、クインの剣を叩き落として、彼女の方を振り向いてしまっていた。

「ちょっ……!? あぶっ……!」

 背後から文句を言っている声も聞こえているが、そんなものはどうでもいい。
 彼女が何を見てそんな言葉を発したのかが重要だ。
 そして、振り向いた先で、彼女と視線が交わる。しっかりと。
 あの日、舞踏会で目を奪われた彼女が、確かにそこにいてジェミールを見ていた。
 ――俺を見て、素敵と言ったのか?
 ほんのりと頬を赤らめて、目を丸くしてジェミールを見るその瞳には、嫌悪など浮かんでいない。むしろジェミールに恋をしているかのような表情だ。
 遠くからだから、ジェミールに嫌悪感を抱かずに済んでいるのかもしれないが……しれないがっ!
 彼女は、少なくともジェミールの姿を見るためにここに来てくれたのだ。
 どくどくと心臓が暴れ始める音がする。この姿を、あなたは少しでも好ましいと思ってくれるのだろうか。ほんの少し期待が芽生える。

「閣下!!」

 クインがさっきよりも、もう少し大きな声をあげる。その声に、またも現実に引き戻される。

『彼女は嫌がられて、帰ってしまわれました』

 記憶の中の衛兵が叫ぶ。名前さえ、教えてくれずに去ってしまった彼女。
 期待して、失われた時の絶望感がよみがえる。
 嫌がる理由など、考えれば考えるほどに溢れ出てくる。
 公爵という立場、将軍位にある獣人であること。耳が、尻尾が嫌なのかもしれない。銀色の髪が悪いのだろうか。体の大きさ。顔立ち。声。しゃべり方。
 どれがダメなのだろうか。彼女のためならば、全てを彼女好みに変えてもいい。地位も権力も姿形も努力次第で変化させてみよう。
 ただ、獣人であることが嫌だと言われたら……どうしようもない。
 ――もう一度、あの絶望を味わう勇気があるか?
 頭の中にそんな言葉が浮かび、足元から深い沼に沈んでいくような錯覚さっかくを覚える。そして、ジェミールは、逃げた。
 無理矢理彼女から視線をはがし、兵士へと移す。
 今、目に焼き付けた彼女の表情を胸に抱くだけでも生きていけるような気がする。至高の情けなさだが、彼女から直接拒絶されることへの恐怖がまさる。
 彼女のうっとりとした表情を、嫌悪の表情に上書きしたくはない。
 クインが眉間にしわを寄せて、説明しろと表情で訴えかけてきていた。
 ジェミールは小さく頷いて、何度か不自然な間が開いてしまった兵をまとめるために腕を上げた。
 その直後、彼女の気配が遠ざかる。途端に喪失感を覚え、胸が苦しくなった。
 恐怖で逃げたくせに。一瞬だけ見た彼女の思い出だけで生きていけるなんて思っていたくせに。
 今にも死んでしまいそうだ。
 やはり、無理だ。彼女が欲しい。
 彼女なしでは、生きていけない――
 もう一度、彼女がここに現れてくれたら、その時は正面から見つめて手を差し出そうと思う。
 拒否されるかもしれないが、少なくとも軍の演習を見に来てくれているのだ。嫌われているわけではないかもしれないではないか。
 よし、声をかける!
 ……そう決意したというのに、彼女は現れなかった。
 二日間続く演習は、ボロボロだった。
 顔は体裁をつくろい続けた。耳も大丈夫だったように思う。
 しかし、もう動きたくなかった。指揮をクインに任せて、銅像のように腕組みをして突っ立っていた。
 演習終了後、執務室に戻り、ため息を吐く。
 部屋の隅っこに行き、座り込んで膝を抱えてみる。落ち着く。もうこの場所から動きたくない。
 その時、カツカツカツと強い足音と共に、誰かがジェミールの執務室に入ってきて、彼のすぐそばで立ち止まった。見上げると、目の前には、腕組みをして怒り心頭の副官が。
 ……実に面倒くさい。

「今回のあれは、どうされたのですか」

 何がだ……などと、シラを切れるような状態ではない。
 指揮さえもしなかったのだ。全面的にジェミールが悪いことは分かっている。……本当は、引きこもっていたかったのに、無理矢理引っ張っていったクインのことも少しは悪いと思っている。

「……悪かったと思っている。つがいを捜していた」
「……捜していたって」

 クインが呆れた表情を見せる。
 舞踏会の日の詳しいことは教えていないが、うまくいかなかったことは気が付いているだろう。

「昨日は来てくれていたんだ。だから……もし、今日来てくれたら、会いたいと思った」

 彼女は恥ずかしがるかもしれない。だから、演習が終わった後、こっそりと呼び出して会えるのではないかと思った。

つがい……」

 クインが眉間にしわを刻んだまま、ぽつりと呟いて、黙り込む。
 情けないジェミールの姿に、何もかける言葉が出てこないようだ。

「会いたい」

 表情を見せたくなくて、部屋の隅から立ち上がり、執務机に向かいながら、呟く。
 一言口にしてしまったら、もうダメだ。

「会いたい! 会いたいんだ!! 一度だけでいい。彼女と近くで会いたい!!!」

 ダンッ!
 執務机を力任せに殴った……ら、穴が開いてしまった。ちらりとクインを見上げると、眉間のしわが深くなっていた。うん、無視しよう。

「やはり、直接彼女と話がしたい」

 どう見られるかなどどうでもいい、彼女の瞳に映りたい。
 彼女の瞳の中に、ジェミールの姿が浮かぶことを想像すると、それだけで生きていけるような気がしてきた。
 さっきから少々欲張りになっているが、仕方がない。彼女が愛らしすぎるのがいけない。

「……ん? 話をされたのではないのですか? あの舞踏会の日に」

 ジェミールの決意表明に、クインは首を傾げる。
 言いたくはないが、舞踏会の日に、彼女には会えなかったことを伝えた。

「行った時にはもう帰った後だった。衛兵が、私が来ると伝えた途端に嫌がって帰ったと」

 口にするだけで辛い。やはり、彼女に会うのはやめた方がいいだろうか。目の前で拒否されたら号泣してしまうかもしれない。
 ハンカチを準備しようかと思っていると、クインがさらに首を傾げる。

「何故、閣下が行くと分かったのです? 閣下が来るとなったら、緊張で気疲れするだろうと思い、私はエスコート役が来るとしか伝えていませんが」
「……なんだと?」
「エスコート役が来るから、待っていてほしいと伝えはしましたが、それが誰かまでは伝えておりません」

 クインが、斜め下の床を見ながら考え込む。ジェミールはすぐにドアに向かいながら問うた。

「伝えた相手は」
「クラフ・クインティール。第一隊に配属されたばかりです。平民ですが、真面目で優秀な人材です」

 端的に問うと、すぐに聞きたい答えが返ってきた。

「今日の配属は」
「少々お待ちください」

 そう言いながら、クインは資料を取り出して小さく頷いてから答える。

「本日は公開演習の警備だったようですね。ちょうど今は休憩室で休憩している頃ではないでしょうか」

 それを聞いた途端、ジェミールはドアを開けて、衛兵の控室へ向かって歩き始める。

「閣下が直接向かうのですか? 呼べば済む話だと思いますが」

 クインがとがめるように言うが、この行動は想定していたことなのだろう。慌てずにジェミールの後ろをついてくる。

「私が行く方が早い」

 兵を呼びつけるには、使いをやったりと手間と時間がかかる。もちろんジェミールの言うことが正しいのは分かっている。立場上、このような行動は本来よろしくない。
 そもそも、軍を全て束ねる将軍といえど、衛兵は管轄外かんかつがいだ。そんな場所に将軍が来れば現場は混乱する。普段だったら配慮するが、今のジェミールには余裕がない。
 ジェミールは歩きながら、後ろをついてくるクインへ問う。

「直属の上司は」

 広義ではジェミールの配下ではあるだろうが、彼らの名前を覚えておくほどの記憶力はない。

「アーダム・ベルリンティ。こちらも、クインティールが入ったことによってくらいが上がったばかりです。会場外廊下から控室の警護の責任者です」

 そして、そんな数百人……千人に渡るかもしれない人員を全て覚えているのが、副官のクインだ。本人は、「ひょいひょいとは出てきませんよ」とは言うが、こんな風に問えばすぐに名前を出してくる。

「さすがだ」

 少し振り向いて笑ってみせると、クインは軽く肩をすくめてみせた。

「たまたまです。配置換えがあったばかりだったのと、舞踏会の警備はさすがに確認しましたから」

 彼女は、本当にジェミールの名前を聞いて嫌がったのか。
 それとも、誰が来るか分からずにおびえるような状況だったのか。
 もっと詳しく聞いておけばよかった。そうすれば、その場で矛盾に気が付けたかもしれない。
 ――衛兵に嘘をつかれた? 何故?
 彼らがジェミールに、虚偽の報告をする理由がない。
 彼女が父親以外のエスコートを嫌がったのなら、そう伝えればいい。わざわざジェミールを嫌がったのだと伝えてきた理由が知りたい。
 もしも、本当にジェミールが来るとなんらかの方法で知って、それを彼女に伝えたのならば、その方法も確認しておかなければならない。

「……どう考える?」

 彼らに確認してから考えればいいのだが、気が急いて、クインに尋ねてしまう。
 彼女が、ジェミールを嫌がったわけではないかもしれないという可能性が出てきたのだ。興奮しない方がおかしい。期待しすぎてはダメだと思いながら、歩く速度がどんどん上がっていく。
 もうすぐ衛兵が待機する建物だ。

「そうですね。私は……」

 クインが何かを言おうとした時、ジェミールの耳に、誰かが悲痛を訴える声が聞こえてきた。

「お願いです。私は、こんな罪を背負いたくない」

 ジェミールは、まだ声に気が付いていないクインを手で制して、耳をすます。
 声が聞こえてくるのは、衛兵が待機する建物の中からではない。裏にいるようだ。
 きっと、誰にも聞かれていないつもりでいるのだろう。小声で、訴えるような声が響いている。

「昨日、あの時の令嬢が謁見えっけんに向かわれました。案内をしたアドラに聞きました。彼女は……領地へ戻るために陛下に挨拶に見えられたそうです」
「――何が問題だ? 私には関係ないことだろう」

 もう一人、もう少し低い、年配に聞こえる声が不満げに応える。
 二人の声に聞き覚えがある気がする。あの舞踏会の日に聞いた声の気もするが、今は当時のことばかり考えていたところだから、そのせいかもしれない。

「デビューもされていない令嬢が、社交をせずに領地へお戻りになられるのですよ!? 私が……彼女のデビューの機会を潰してしまった」

 もう一人と違って、彼は興奮しているのか、少しずつ声が大きくなっている。

「貴族の令嬢が社交界デビューできないということが、どういうことなのか、私は分かっています。私は――一人の女性の運命を、保身のためだけに潰そうとしているのです!」
「あまり大きな声を出すな。罪だの運命だの、大げさに言いすぎではないか」

 必死の訴えに答える声は冷たく、ぞんざいだ。そんなことを言い出す相手が、わずらわしくてならないというのが伝わってくる。

「大げさなどではありません! 本来なら、あの方は公爵夫人となるかもしれなかったというのに……!」

 公爵夫人という言葉に、ジェミールは確信する。
 やはりこの声の主はあの日の衛兵二人だ。そして、二人が話題にあげている女性がジェミールのつがい

「はっ! 公爵夫人? あんなみすぼらしい娘が、そんなわけがないだろう」

 あざけるような声が、令嬢をさげすむ。
 みすぼらしい……そう表現されたところで、ジェミールの思考が別の方向へ変わる。
 ……衛兵たちが話しているのは、彼女ではないかもしれない。あの日見た彼女は、みすぼらしいと表現されるような人ではなかった。
 それどころか、この世の何よりも美しく、彼女ほど光り輝く存在があるものかと驚愕した。彼女は世界の神秘。奇跡の結晶である。
 関係ない話だったかと、ジェミールが結論づけようとしたところで、また若い衛兵が叫ぶ。

「あの日、閣下が令嬢をお迎えに来られたではありませんか!! そもそもあの時私に下された命令は、決して令嬢をさげすんだものではありませんでした……!」

 閣下と呼ばれる人間は多くない。現在、城にいる中では宰相とジェミールくらいだ。

「ちょ……閣下!?」

 クインの慌てた声が聞こえたが、何を慌てているのか理解できない。
 ジェミールは全身の毛を逆立てながら、静かに建物の裏に回る。

「私の落ち度だと言うのか!? お前だって、私の傍にいたのだぞ! 同罪だ!」
「分かっております。それでも、私は、あのように悲しげに微笑む令嬢を傷つけたままでいるなど……」


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一旦、これで終わりです!舞踏会の様子とか書こうかなと思ったんですが、ストックがなくなって、時間がかかりそうなので、完結にしました。読んでいただいてありがとうございました。
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