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1巻
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しおりを挟む第一章 プリンの田中さん
1
ここは、文房具メーカー最大手・NINKの商品管理課。普段は和気藹々としているその一室は、現在ものすごくピリピリしている。
その空気を作っているのは――名越千尋。いつもはにこやかな彼女は今、怒りに満ちていた。
千尋は大きな瞳と丸顔、そして小柄な体が相まって、二十三歳という年齢よりも幼く見られることがある。せめて髪型くらいは大人っぽくしようと考えて最近ショートボブにしたのだが、それもあまり効果を感じられないのが悲しい。
そんな千尋が目を吊り上げて、課長の机の前に立ち、彼を睨みつけながら呟いた。
「異動……?」
商品管理課長は、気まずそうに視線を彷徨わせて周囲に助けを求めようとする。しかし、誰もが課長から目をそらし、助け舟を出そうとしない。
普段は癒し系とも評される千尋の形相に、課内の人間は驚き、おののいていた。下手に関わると大変なことになる……みんなの本能がそう叫んでいたのだろう。
周りに味方がいないと悟った課長は、仕方ない――と小さく呟いて、薄くなってきた頭皮に手を当てつつ、ため息をついた。
「そう、名越には、営業一課に営業事務として異動してもらう」
「なぜですかっ!?」
バンッと課長の机に両手を叩きつけ、千尋は悲鳴のような声を上げる。
「私は商品管理課で、ものすごく充実した毎日を送っており、異動希望など出そうと思ったことはありません! 営業なんて花形じゃないですか。他に行きたがる人はいるでしょう!?」
食ってかかる千尋を、両手を広げて制しながら課長は叫び返した。
「落ち着いてくれ!」
千尋はいったん体を引いたものの、なおも課長を睨んだ。
課長は椅子を引き、そんな千尋と距離を取ってから、もう一度ため息をつく。そうして落ち着いたところで、千尋に異動辞令が出るに至った経緯を説明し始めた。
「営業一課は、即戦力が必要なんだそうだ。名越はうちの商品のことをよくわかっているだろう」
「もちろんです。愛してますから」
千尋は、自社で扱う商品――文房具を、この上なく愛している。
幼い頃から、文房具が大好きだった。何気なく使っている文房具たちに施された、あらゆる工夫の数々。色も形もすべて計算し尽くされた結果、あのペンや消しゴムになっているのだ。千尋もそんな、素晴らしい商品に携わる人間になりたかった。
その希望を胸に就職活動を頑張った結果、なんとその夢が叶い、短大卒業後この会社に入社できた。……まあ、第一希望だった開発部には、残念ながら入れなかったのだが。
それでも、この商品管理課に配属されたことが、千尋はとても嬉しかった。なにせ、すべての商品を把握し、管理するのが仕事である夢の部署。毎日が楽しくて仕方がない。
文房具が好きで好きでどうしようもなくて、千尋がこの会社に入ってきたことは、課長だって十分承知しているはずなのに。
営業事務の仕事はおそらく経費精算や見積もりの作成がメイン。商品に関わる機会はぐっと減るだろう。
自分の知識を課長に評価されていることはとても誇らしい。
だけど、なぜ、その対価が営業一課への異動なの?
これまで誠実に骨身を惜しまず頑張ってきたことが商品管理課から引き離される原因なのか、そう考えた千尋はやり切れない思いで唇を噛みしめた。
千尋のそんな表情を見て、課長の眉がハの字に変わる。
しかし、申し訳なさそうな表情が垣間見えたのは、ほんの一瞬のことだった。課長はすぐに表情を切り替えて、千尋への説得を続けた。
「名越、だからこそ、だ。今度は営業部で、その力を思う存分に発揮してくれ」
表情を歪め、今にも泣き出しそうな千尋に向かって、課長は熱心に言葉を続ける。
「なあ、この文房具について、君の思いを語ってみたくはないか?」
予想外の課長の言葉に、千尋の眉がピクリと動いた。
――営業事務は、裏方仕事ばかりで自分が直接商品に携われることはないと思っていたが、そうではないのだろうか。
「お客様にうちの商品を売り込むことが営業一課の主な仕事だ。お客様に直接、この文房具のよさを語ることを仕事としている彼らに、このボールペンの機能を説明してみたくはないか?」
「それは……」
千尋は抵抗しながらも、心の片隅で自分の気持ちが揺れ始めていることに気がついた。
文房具を世界中のどんなものよりも愛している。
NINKに入社して三年。千尋は、自分がここに来てから発売された商品のことはすべて事細かに記憶している。それがどんなに些細なことであっても。
新発売の商品が市場に出回ってからも、さらに改良を重ねて生まれ変わっていく様子だって、すべてこの頭の中に入っている。
「名越、営業事務とは、そういう知識も必要とする仕事だ。君以上に、この役に適任な人間はいるかな?」
そう問いかけられた千尋は、キュッと唇を噛んだ。
――そんなの、いるわけがない!
というわけで、千尋は来月から営業一課に異動することになった。
そんなある日の昼休み、千尋は同期の真紀と待ち合わせて、社員食堂で昼食を一緒にとっていた。
社員食堂は安くてボリュームもあって、しかも『本日のランチ』にはデザートまで付いているのだ! だからわざわざ社屋から出て外食する人間なんて、この会社にはほとんどいない。
ランチセットのデザートのプリンを片手にした千尋は、課長から最初に異動を聞かされた時とは打って変わって、今では異動する来月が待ち遠しいくらいだった。
異動を聞かされた後、さらに詳しく課長と話したところ、千尋の中に熱い気持ちが湧き上がってきたのだ。そして千尋は確信した。
――語れる! 文房具の素晴らしさを朝まで!
その時の感動を思い出し、興奮のあまり、気がつかないうちに声に出してしまっていたようだ。
「さすがに朝までは嫌でしょ」
隣に座る真紀から、呆れた声が飛んできた。
彼女、楠木真紀は四大を卒業しているため、千尋と同期といっても二つ年上の二十五歳。
さらりと長い黒髪をかき上げながら千尋を見る真紀は、女の千尋でもどきりとするくらいのとびきりの美人だ。
この見た目に加えて入社試験の成績も抜群に優秀だったと聞く。会社側としては最終的に女性社員の花形部署・秘書課への配属を考えているらしく、その準備期間として総務課行きになったのだと同期の間ではもっぱらの評判である。
男性社員からも女性社員からも羨望の眼差しを浴びている彼女は、入社当時、文房具について熱く語りすぎて孤立しそうだった千尋の相手をしてくれた唯一の人間なのだ。その理由を真紀は『なんか役に立ちそうだから』と言っていたけれど、それはそれでよしとする。合理主義者で毒舌家で、飾らないところも真紀の魅力の一つである。
『資料を見なくても手近に説明してくれる人間がいるのは便利だわ』
真紀はたいていそんな言い方をするけれど、千尋は自分の語りを聞いてくれる相手ができて嬉しかった。
今も興奮している千尋を横目に、いかにも総務課っぽいことを言う。
「さっき朝まで語るとか言ってたけど、無駄な残業はできないわよ」
高飛車に笑う姿すら絵になる美人って本当にすごいなと改めて感心しながら、千尋は声を上げた。
「え、営業って真夜中や、時には朝まで仕事してるって聞いたけど?」
首をかしげる千尋に向かって、真紀は眉をひそめた。
「どこのブラック企業よ、それ。確かに決算前は忙しいでしょうけどね。でもうちの社は人数もいるし、そんなことはないわよ」
ということは、……商品を売り込むためにありとあらゆる資料を熟読し、データを事細かく分析し、そして気づいてみたら朝だったなんて、妄想していたような日々は訪れないの?
電気代やら残業手当やらを管理している総務課にいる真紀が言うのだから、きっとそうなのだろう。
「そっかあ」
千尋だって別に徹夜をしたいわけではない。でも文房具については語りたい。データをまとめながら一晩中語りたい。でも、それはどうやら異動先でも無理らしい。
だったらこの文房具への愛についてはいつ語ればいいんだろうかとぼんやり考えていると、突然腕をグイッと引っ張られた。
「それより!」
愛する文房具を『それ』よばわりしないでくれと千尋は思わず反論しかけたが、真紀が真面目な顔を近づけてきたので、開きかけた口を慌てて閉じた。
こういう時の真紀の邪魔をすると怖いのだ。
「営業一課には、イケメン御三家がいるのよ」
すでにランチを食べ終えていた真紀が、トレーを押し退けて千尋に迫ってきた。
会社の花形部署といえば、やはり実際に物を売り込んで仕事を取ってくる営業部だ。
NINKの営業部は企業を担当する営業一課、小規模店舗を担当する営業二課、各種団体などを担当する営業三課から成る。その中でも、大口の取引先である企業を相手にしている一課はエリート中のエリートといえる。
そして、そのエリートの中にあって、ひときわ頭脳明晰でしかも容姿端麗な男性社員三人のことを他の社員たちは『イケメン御三家』と呼んでいる。
――と、いうことは千尋も知っていた。
だが、これまで千尋が所属していた商品管理課は、在庫を保管している倉庫に近い地下にある。営業部は五階にあるので、千尋が営業部の人間と顔を合わせる機会はほとんどなかった。ちなみに真紀が所属する総務課は受付を兼ねるため一階にある。真紀は受付の順番の時に、その噂の『御三家』を見かけたのかもしれない。
そんなわけで千尋が、たとえ営業部の人間に会っていたとしても、廊下ですれ違う程度。数百人を収容する社屋の中では、誰がどの課に所属しているかなんていちいち考えていない。
しかも千尋は人の顔を覚えるのがそもそも苦手なので、「知っている人」以外の人の顔はみんなへのへのもへじに見えるのだ。
だから『イケメン御三家』とか言われても、千尋には顔が思い浮かばないし、ほとんど興味も持てなかった。
千尋がそう考えていたら、気持ちを読んだらしい真紀が呆れ声を上げる。
「そんなだから彼氏の一人もできたことがないのよ」
――それはちょっとひどいんじゃないのか? なんてことを言うんだ。
別に恋愛に興味がなかったわけではない。ただ、告白しようと思うほど好きになった人もいないし、趣味の雑貨屋巡り以上に恋愛に気持ちを傾けることがなかっただけ。もちろん、告白されたこともない。
……という、千尋の恋愛遍歴(?)についてはさておき。とにもかくにも、千尋はそのエリート集団、営業一課に配属されたのだ。
「ねえ、プリンなんか食べてないで、もっと真剣に聞きなさいよ!」
でも、こっちがプリンを味わっている最中に話し出したのは真紀のほうだし、その言い方はちょっと勝手すぎるのではないか。そんなことを思いつつ、千尋はのんびりとプリンを口へ運んで堪能していた。すると真紀はそんな千尋を睨みつけながら、ぽつりと呟いた。
「情報がほしいのよ」
「は?」
千尋は、真面目に驚いてしまった。
「情報って、そのイケメン御三家の?」
「そうよ」
深々とうなずいた真紀を、千尋はまじまじと見つめてしまった。
真紀はこれまで、社内の噂の的になるようなものと積極的に関わろうとはしてこなかった。むしろ噂になる類のことや、そういう意味で目立つような人と関わるのを嫌がるタイプなのだ。
「へえ……。たとえば、とくに誰の情報がほしいの?」
「誰でもいいわ。私の部署だと、住所とか生年月日は簡単にわかるけど、ほしいのはそういう情報じゃないのよ」
――総務課員にかかれば、どんな個人情報もダダ漏れってこと? ……怖いことを言うな。万が一にも、真紀には逆らわないようにしよう。
千尋は固く心に誓った。
「好きな食べ物とか、趣味とか。あとは、女性の好みがわかれば最高よ」
「噂話とかで、そのあたりの情報って手に入るんじゃないの?」
千尋の純粋な疑問に、真紀は悔しそうに首をかしげる。
「出るんだけどね、あーだこーだと、いろいろな説があるのよ。どれが本当かわからないの」
――歴史の文献か。邪馬台国がどこにあったのか諸説あります、みたいなやつか。
千尋は思わずツッコミを入れそうになった。
だが、真紀の珍しく真剣な表情を目にした千尋はコックリとうなずく。
「ふうん。それじゃとりあえず、まあ、頑張ってみるよ」
同じ課内にいれば、食の好みくらいはそのうちわかるだろうと考えながら、千尋はぼんやりと返事をした。
それに対して真紀は、「絶対よ」と念を押した。
2
一ヶ月後、千尋は入社して初めて五階に足を踏み入れた。
これまでは会議室がある四階までしか来たことがなかったのだ。
しかし、今日からは営業一課の人間となり、毎日ここへ来る。
「おはようございまーす」
元気に課内に入った途端、視線がざっと突き刺さる。
明らかに『誰だこいつ?』的な不信感だらけの冷たい視線が。
――うわ、なんだこの空気。
その視線に驚いて、入口のドアの近くで固まっていた千尋を営業一課の課長が呼んだ。
「ああ、名越。こっちだ」
課長から声がかかっても緩まない冷たい視線を浴びつつ、千尋は首をかしげながら課長の席に近づいた。
「今日からお世話になります。営業事務として配属された名越千尋です」
頭を下げて自己紹介をすると、優しそうな課長はにっこりと笑った。
「ああ。即戦力になる人材だと聞いている。よろしく頼む」
「はい!」
即戦力! その言葉を聞き、思わずにやけそうになる顔を引き締めて、千尋は返事をした。
「こっちが前任者の片瀬だ。彼女は新しい異動先の経理課ですでに仕事を始めている。今日は引き継ぎのために来てもらったんだ。名越は異動初日で申し訳ないが、今日一日で引き継ぎを終わらせてくれ」
千尋と同じように課長の前に立っていた片瀬さんが、綺麗にウェーブのかかった髪を払いのけながら軽く頭を下げた。
「よろしくおねがいします」
千尋が頭を下げても、片瀬さんは小さく返事をするだけでなにも喋らず、ムスッとした表情を浮かべている。
――その態度はいかがなものか? 社会人としてその愛想の悪さはどうかと思うが。
異動初日から文句は言いたくないので、千尋も黙ったまま、不機嫌そうな顔で引き継ぎの説明を始めた彼女の後についていった。
営業一課は総勢二十人。彼らを補佐する営業事務は千尋一人のようだ。
経費の計算などは総務がやるので、千尋は領収書をまとめて持っていくだけ。見積書や請求書の作成、会議室の確保などの雑用が主な仕事らしい。そしてお茶汲みはしない。
「自分で飲みたい時に淹れるから、持ってこないでほしいって」
片瀬さんは、そう吐き捨てるように言った。なにやらそれが気に入らなかったような口ぶりだ。
――でも、それはお茶の時間に気を取られないですむし、逆にありがたいことなのでは?
彼女の不機嫌な様子ときつい物言いの原因を考えてみたが、千尋にはどうも理解できず、考えすぎて眉間にシワが寄りそうになってしまった。
だいたい引き継ぎ関係の書類がないのはなぜだろう。
片瀬さんは思いついたことをその場その場で説明していて、文書の類を全然持っていない。千尋は一生懸命メモをとった。
「まあ、パソコンに保存してある書類を見たらわかるから」
千尋が突っ込んだ質問をしても彼女は軽く説明するだけで、だいたいはこんな発言で終わらせてしまった。
もう少し詳しい説明がほしい。保存書類を見ればわかると言うけれど、日常業務についていちいち書類を探して開いて読んで、みたいなそんな悠長なことをしている時間なんてあるのだろうか。
商品管理課では結構綿密な引き継ぎをしたのだが、それに比べて差が激しい。
ここへ来てみて『即戦力がほしい』という言葉に、なるほどと思う。見積書や請求書、サンプルのことはわかるので、顧客の情報を覚えればなんとかなりそうだとも思う。思うが――即戦力を求めすぎだ!
「じゃ、私、仕事あるから」
「は?」
片瀬さんは、一日どころか半日もたたないうちに引き継ぎ終了を宣言した。
「お世話になりました」
「え、ちょ……!?」
お昼の時間になったのを見計らったように彼女は課長に挨拶し、あっさりと千尋を置いて異動先の経理課へと戻っていった。
「名越、そんなわけで徐々に慣れて、守備範囲を少しずつ広げていってくれ。それからとりあえず昼飯行ってこい」
いったいなにをどうすればいいんだ……
あまりの状況に呆然として佇んでいると、課長からそう優しく言葉をかけられて、千尋は休憩をとった。
ようやく周囲を見渡す余裕ができて気づいたが、営業一課には、なんと女性が千尋一人だけだった。
――いきなり男性社員に話しかける勇気はなく、初日から一人寂しく昼食を食べて、午後。
一課の全員に対して簡単な自己紹介をしたあと、本格的な業務を開始したのだった。
まあ、なんとかなるさ! ――と思って三日。
商品のことはわかるので大丈夫。会議室の予約方法も覚えたし、仕事内容もなんとなくわかってきた。
ただ一つ、大きな問題が。
「名越さん、見積もりがほしいんだけど、お願いできる?」
「はい!」
返事をしたのはいいけれど、ところであなたは誰ですか?
みんな、最初の自己紹介をして以降、自分の名前を名乗らないのだ。話し始める前にいちいち名乗らないのは当然といえばそうだが、千尋にとっては死活問題である。
――そっちは一人覚えればいいだろうけど、こっちが一度の自己紹介だけで二十人全員を覚えるのは不可能なのだと気がついてほしい。
そう、異動してきて三日たった今も、千尋は一人も名前と顔が一致していない。
見積もりを作ること自体はできても、誰から頼まれたのかさっぱりわからないのだ。
とりあえず頼んだ人を目で追っていって、着いた席を見た後に席順表で名前を確認する。
――安藤さんか。
しかし、これで「安藤さん」を覚えたと思わないでほしい。甘い。
その瞬間はわかっても、彼が視界から消えると他の人の顔が上書きされて、どれが「安藤さん」だかわからなくなるという状態を、千尋はずっと繰り返していた。
先ほどの人はタレ目の爽やか系で、普通だったら一度見たら忘れられないと思う。だが、同じようなイケメンが何人もいる。千尋には、彼らを爽やか系で~、優しげで~、仕事ができそう~みたいにしか認識できない。営業一課は、そんな印象の人で溢れていた。
しかも、みんなビジネス仕様の似たようなスーツを着ている。髪型も決められているのかもしれないと思わせるほど、横分けのほどよく清潔感のある黒髪。背も、小柄な千尋から見ればみんな高く、同じようにしか見えない。
あだ名をつけて覚えようと試みてはみたものの、ぱっと見、あだ名が全然思いつかない。さっきの「安藤さん」だって、仮にタレ目と名付けても、他のタレ目を見たら、もうどっちがどっちなんだか。
並べて見れば、違う顔だということくらいはわかるのだが、もっと強烈な特徴がほしい。マッチョだとかデブだとか、それぞれ個性を出してほしいものだと、千尋はブツブツと勝手な文句を心の中で言い続けていた。
千尋からしてみると、一課の面々はあまりに特徴のない、人当たりのいい好青年たちばかりだった。
――これはマズい。ただでさえ人の顔と名前を覚えるのが苦手だというのに、どう覚えていけばいいのだろう。
「名越さん」
困ったなあと途方に暮れていると、また声をかけられた。
さっきの人は笑顔だったが、こっちの人は無表情だ。でも、当然のようにイケメン。
明るい髪色で、背が高い。キリッとした眉毛に細く通った鼻筋。意地悪く笑うのが似合いそうな顔立ちである。
千尋は目の前の顔を見て、どうやったら名前と顔が一致するだろうかと考えていた。
「これできる? 明日までにほしいんだけど」
そう言って渡されたのは、商品データだった。在庫数や金額欄が空白だから、ここに数字を入れろということだろう。
「あ、大丈夫です」
書類を見て反射的に答えた。
「じゃ、よろしく」
そう言って彼は千尋が声をかける間もなく、離れていってしまった。
――マズい。名前がわからなければ、席もわからない。呼び止めて「お名前を教えてください」ときちんと尋ねればよかったのだろうが、それも失礼だろうとためらっている間に彼は外に出かけてしまった。
その背中を無言で見送った後に書類に視線を落とす。これは商品管理課でしていたような仕事なので、すぐ終わらせることができる。
まあ、終わらせとけば、明日には「できてる?」くらいは聞いてきてくれるだろう。
机の空き状況から判断して……今の人は『鈴木』さんということにしよう。
千尋は、周りに気づかれないように小さくため息をついた。
とりあえず、顔と名前を覚えるのが一番の課題だ。
次の日。
「ちょっと、名越さん」
いきなり朝からイラついた声で名前を呼ばれた。
振り返ると、腰に手を当てて眉間にシワを寄せた男性が立っていた。
「昨日の書類はまだ?」
「――ああ!」
思わず手を叩きそうになった。うん、この人は見覚えがある。暫定『鈴木さん』だ。
「できてます。どうぞ。あの……」
「次からは机の上に置いといてくれればいいから」
「お名前を教えてください」と尋ねようとした千尋が口を開く前に、彼は踵を返してしまった。そしてまた、昨日と同じくフロアを出ていく。
――だからその机がわからないんですってば! そのまま机に戻って座ってくれませんかね!?
当たり前だが、そんな千尋の心の叫びはまったく無視して『鈴木さん』は行ってしまった。
千尋は理不尽さを感じながら課内を見回してから、『まあでも、鈴木さんでいいか』と思うことにした。
それから二週間が経った。千尋は困り果てていた。
今のところ席に座っていない状態で区別がつく人は課長しかいない。
――絶望的だ。なぜだ。なぜあの人たちは名前を名乗ってくれないんだ。
異動してからすでに二週間も経っている以上、この期に及んで名前が聞けない。頼まれた仕事を渡すことができず、まさに処理済みの書類の山に埋もれている状態だった。
そんな時に真紀から昼食のお誘いがあった。自己嫌悪に陥りすぎて話を聞いてほしかった千尋は、喜んで応じた。
約束の昼休みを迎え、喜び勇んで社食に向かう。
「どう? 仕事は順調?」
千尋の落ち込んだ様子を見て、真紀がニヤニヤしながら聞いてきた。
「うん。仕事は大丈夫」
「でしょうね」
真紀は含み笑いをしていた。千尋が人の顔を覚えるのが苦手なことを知っているのだ。
もちろん、仕事だって覚えなきゃいけないことは多くて大変だった。
電話はたくさんかかってくるし、言葉遣いも気をつけないといけない。商品だけを相手にしている商品管理課とは、仕事の質が大きく違う。
しかしそんな苦労を上回る、同じ印象の顔、顔、顔……
「社内にいる時は、名札をちゃんとつけてくれないかなあ」
事務員は名札をつけているが、外回りが多い営業は、基本的に名札をスーツのポケットにしまい込んでいる。帰ってきても、外に行った状態のままになってしまっているのだ。
千尋は、深いため息を吐いた。
「ねえねえ、そんなことより!」
――そんなことって! こっちは結構深刻なんだけどなあ。
いつもと同じようなやり取りにがっくりして、千尋は情けない顔を真紀に向けた。
「私の愚痴を聞いてくれるんじゃなかったの?」
「仕事がなんとかなってるんなら大丈夫でしょ。それよりさ」
「なに?」
「御三家、いた?」
真紀が目をキラキラさせて聞いてくる。
そんなことを異動前に聞いた覚えもあったが、すっかり忘れていた。
しかも、理解してもらえたと思っていたのだが。今現在、一課の人たちの名前と顔が全然一致していないと。
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