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第6章

06-154 200万年後

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 井澤貞之は、気象や電離層の影響で、途絶しやすいヨーロッパとの短波無線によって、200万年後の地球の状態を知ろうと、昼夜逆転の活動を続けていた。
 高知市とヨーロッパの最大拠点であるジュネーブとでは、7時間の時差がある。
 衛星通信やインターネットが失われた現在、遠距離通信の手段はレガシーとなっていた短波無線しかないのだ。
 彼は長宗が始めた“バンド活動”に加わりたいのだが、役割の関係上、それはできなかった。

 成人男性のうち、井澤や長宗は“かっこいいお父さん”的存在として親しまれていて、香野木恵一郎は“どんくさいおじさん”で不人気だった。

 井澤の調査は、日を経ても成果がなかった。200万年後の状態が皆目わからないのだ。

 現在、メンバーのほとんどがベルーガの調査にあたっている。農地の開発は、まったく行っていない。
 結果として、食料が不安になる。食料に関しては直近が不安だし、この先も不安だ。高知市内に残置されていた食料は、臨時政府が組織的に回収した。
 独自の食糧確保策は、子供たちによる釣り以外は行っていなかった。

 海上保安官であった里崎杏は、徐々に食事の量が増え、見た目の変化が現れ始めている。
 夜のミーティングで、食糧の確保をどうするか、それを話し合っていたが、彼女が重要な発言を行った。
「中土佐町の廃止されたトンネルに、コンテナに収められた米がある……はず」
 全員の目が里崎に注がれる。彼女は、居住まいを正して、話し始めた。
「大災厄から2年後、四国はまだ全島避難をするほど切羽詰まっていなかった……。
 姶良カルデラと阿蘇山の噴火の影響は、中国地方に比べたら限定的だったし、特に太平洋側の被害は大きくなかったので、自宅に留まるヒトは少なくありませんでした。
 東日本の混乱に比べたら、高知はのどかでした。
 でも、地震が頻発していて、南海トラフを震源とする巨大地震が現実味を帯びてきた……。
 それ以前から行政は東日本への避難を呼びかけていたけど、頻発する地震で住民が浮き足立ったことは事実。
 そんな状況で、8月8日に巨大地震があるという噂が広がって、実体としての全島避難が始まるんです。
 大型客船からプレジャーボートまで動員して、大勢が東日本を目指しました。
 その際、確保している食糧を供出するよう行政が命令を出すんです。緊急に条例を作って……。
 だけど、素直に従うヒトばかりじゃないわけで……。
 中土佐町のヒトたちは、いざというときのために廃道にある放棄されたトンネルに米を隠した……。
 米は上ノ加江隧道に隠してあり、場所は県道15号笹場トンネルの近く。
 トンネルの開口部は、土嚢を積んで塞いであり、トンネルのほぼ中央に40フィートコンテナに詰め込まれた玄米があるはず。
 誰かが持ち出していなければ……」
 香野木は、食糧の確保は喫緊の問題だと判断していて、自由に行動できる各務原に向かうことを考えていた。各務原周辺のトンネルにも、物資が残っているはずだから……。
 だが、四国の中で確保できるなら、それが最善の策だ。
「里崎さん、そこにはどうやったら行ける?」
「香野木さんの質問は、答えが難しいかな。
 道がないから……。
 確実なのは船だけど……。港がないから、ビーチングができる船でないと……。
 そんなものはないでしょ」
 香野木は、船舶についての知識がなかった。
「ビーチングって?」
「砂浜に乗り上げて、船体前方のランプドアを下げると、ヒトや車輌の積み卸しが簡単にできるタイプの船かな。
 上陸用舟艇みたいな……」
 奥宮要介が「LCUがあればいいわけか」と言い、畠野史子が「そんな昔の船、絶対に残ってないでしょ」と。
 長宗が提案する。
「近くの造船所に50総トン級の小型フェリーがある。喫水の浅い双胴船だから、浜辺に接近することはできるだろう。
 都合のいい場所があれば、ビーチングとやらができるかもしれない。
 だが、浸水しているかもしれない。
 船で見に行こう」

 長宗の陽気な声とは正反対に、井澤貞之は展望が見えていなかった。
「少し陰気な話をさせてくれ。
 200万年後がどんな世界なのか、まったくわからない。
 香野木さんとムーさんは覚悟の上なのだろうが、戻る術のない片道切符だ。
 私は“自殺行為”とまでは言わないが、成功の確率が低い任務になる」
 長宗の懸念は、来栖早希にはなかった。
「オークなんて、どうでもいいじゃない。
 化石で知られている限り、最も初期のヒト科ヒト属の動物は、ホモ・ハビリスよ。
 240万年前から140万年前まで、アフリカに生息していたの。
 直立二足歩行するチンパンジーみたいな風貌だったけど、140万年でヒトの姿になっちゃうわけ」
 花山千夏が反応する。
「先生、ヒトの祖先なの?」
 来栖は絶好調だ。
「う~ん。
 ホモ・サピエンスの直接の祖先ではないかも。でも、ご先祖様とは近縁種ね。
 で、200万年後のヒトは、どうなっていると思う!
 私は、絶対に見てみたい。
 しっかり研究するわよ~。
 私は、ムーさん、香野木さんと一緒に行く」
 井澤貞之が呆れる。
「来栖さん、研究どころか、生きていける可能性だってあやふやなんですよ」
 来栖は井澤の発言を否定する。
「たかだか200万年後よ。
 2億年後に旅立ったおバカちゃんたちは、死んじゃったでしょうけど、200万年後であれば、生存可能性はかなり高いはず。
 まず、大気中の酸素の量は、現在と大きく違わないでしょ。酸素の割合は、35から10パーセントの範囲で動くけど、200万年後なら現在の20パーセント強と変わらない。
 大陸移動だって、大きな変化はないのよ。
 寒冷化していればベーリンジアやスンダランドが現れているかもしれないし、温暖化していれば縄文海進のような海洋の拡大が起きているかもしれない。
 でも、地球全体が凍結するスノーボールアースは、絶対にあり得ない。
 とりあえず、住みやすそうな土地を探せばいいでしょ」
 花山真弓が意地悪そうな目をしている。
「2佐殿、話を矮小化しすぎていませんか」
「何言ってんの元1尉。
 ただの引っ越しよ。
 場所を移動するか、時間を移動するかの違いだけよ」
 畠野史子は、来栖が若干だが苦手だった。
「来栖2佐。
 現在の高知よりも200万年後のほうが、快適だと思っているんですか?」
 来栖は、畠野の疑問に即答する。
「当然でしょ。
 200万年あれば、地球の環境は完全に再生されている。
 大消滅でこんな世界になっちゃったけど、200万年あれば大森林だってあるはずよ」
 畠野は、不安を追加する。
「遠い未来に行くんです。
 恐竜がいたらどうします?」
 恐竜大好きの夏見一希が即反応する。
「トリケラトプス!」
 来栖は、一希を抱き上げ膝に載せる。
「ごめんね~。
 トリケラトプスはいないと思う。
 恐竜が栄えていたのは、6500万年前まで。哺乳類と爬虫類が生まれたのは、古生代の終わり頃、ペルム紀のこと。2億5000万年前ね。
 哺乳類が生態系の主役になるのは、中生代白亜紀が終わってから。つまり、恐竜が絶滅してからなわけ。
 たった200万年では、現在の動物相から大きく変わることはないでしょう。
 十分な物資があれば、一定の生活環境は確保できると思う。
 暖かい地域の穏やかな入り江を見つけて、そこを拠点に活動すればいいの。
 それと、200万年後に向かったヒトは2万人もいるのよ。
 彼らだって、海の近くに進出しているはず。
 それと、ホモ・サピエンスから進化した新しいヒト属がいるかもしれないし、ヒト属から進化した別の属がいるかもしれないでしょ。
 楽しみよね~」
 香野木の心配は、来栖の“楽しみ”と同じだった。
「2億年後は、ヒトが存在する可能性はない。ヒトに代わり文明を築く生物もいない。
 その意味で、白紙なんだ。大陸は移動し、新たな超大陸が生まれ、生物は進化し、植物相と動物相は激変しているだろう。
 だけど、ヒトのように大規模に環境を変更して生息域を拡大する動物はいない。
 ならば、ガウゼの法則は成立しない。
 競争排除則が働かないならば、ヒトは生息域を拡大できる。
 この意味で、2億年後への時渡りは合理的な判断だった。
 だが、200万年後は違う。
 オークだけではなく、ヒトに似た他の動物とも生存をかけた競争をしなくてはならなくなる、かもしれない。
 私とムーさんだけが行くのならば、それで終わりだ。人数が増えれば、そういうわけにはいかなくなる。
 200万年後のヒトは、オークの存在を知らない。それを知らせる義務がある、と思う。同時に、200万年後にヒトが生き残っていない可能性もある。
 どんな可能性だってあるんだ」
 花山が彼女らしくないことを言う。
「私が判断する生存可能性は、香野木さんがいれば高くなり、いなければ低くなる。
 香野木さんが200万年後に義務としていくならば、私と健昭、千夏ちゃん、由衣ちゃんは一緒に行くことになる。
 これが、私の合理的判断」
 畠野史子が花山に賛成する。
「私と綾乃も一緒に行く。
 ガソリンや軽油は、そう遠くない時期に枯渇してしまう。
 そうしたら、身動きできなくなる。
 その前に動いたほうがいいと思う」
 加賀谷真理は逡巡していた。
「200万年後が楽園とは思えないよ。
 だけど、この世界も楽園じゃない。
 もしかすると、オークはこの世界から逃げだそうとしているのかもしれない。
 私は迷っている。
 一希と沙英にとって、どちらがいいのか判断できない……」
 夏見智子は決めていた。
「私は、200万年後にかけてみたい。
 もう限界。
 地震や津波が怖いし……」
 若年者は総じて、200万年後に行きたがった。態度が明確でないのは、経験と年齢を重ねた男性のほとんど。判断を保留にしているのではなく、優柔不断なのだ。
 長宗と里崎は、かなり投げやり。

 この時期、各務原には結城光二と葉村正哉の2人が常駐していた。
 早朝、2人が高知市に戻るという無線連絡が入る。土井将馬を連れてくるという。
 3人はMD500ですでに離陸しており、香野木が高知空港に迎えに行った。各務原と高知市は350キロ強あり、MD500だと航続距離の限界に近い。
 高知空港は物部川河口右岸にあり、香野木たちが拠点にしている造船所からは、10キロ強離れている。
 高知市周辺の非消滅地域は、東は物部川右岸から西は仁淀川左岸までの東西20キロほど。内陸側は海岸線から8キロほど。
 香野木たちは、日常の“脚”に軽自動車を使い、多人数の移動ではワンボックスワゴンを用いていた。
 造船所の社員が通勤に使っていたクルマや、造船所の社用車、造船所構内での工事に使われていたトラックなど、車種と数にはまったく困らない。
 臨時政府から“車輌の無許可占有禁止”の通達が出ているが、長宗が「当社の管理下にある」と突っぱねてくれる。
 船舶についても「敷地内に流れ着いている漁船は、すべてうちの所有物だ」と言い張っている。

 3人は、車内ではほぼ無言だった。
 香野木が「各務原の状況はどうか?」と話題を振っても、曖昧な答えしかない。
 グループ間の対立など、もめ事があるのかとも感じたが、そうではないらしい。北関東由来の各グループが送り込んでいる面々は、相互に協力して事を進めている。
 幸運なことに、穀物を中心に食糧の確保にも成功している。家畜の飼料として輸入されたトウモロコシを大量に発見していたし、大豆も確保している。

 宿舎にしている造船所の独身寮には、誰も残っていなかった。
 10歳代前半の子供たちは食糧確保のために釣りに行き、幼い何人かは夏見智子と一緒に公園に遊びに行っていた。
 小さな公園だが、滑り台などの遊具がある。
 10歳代後半以上は、それぞれの仕事をしている。

 独身寮の狭い食堂で、土井将馬の発言から会話が始まる。
「香野木さん、結城さんと葉村さんによれば、オークと呼ばれている化け物を追って、時渡りを計画しているとか……」
 香野木は答え方を逡巡した。
「それは、我々の問題で、他のグループとは無関係だ。
 仮にそのような計画があったとしても、独自に判断してのことだ」
 土井は目をそらし、少しの間、窓の外を眺めていた。
「では、仲間にしていただけませんか?」
 正直、香野木は慌てた。
 その隙を突いて、土井が彼の考えを披瀝する。
「私は、結城さんと葉村さんに飛行機の操縦を教えています。もちろん、無償ではありません。然るべき対価が欲しい……。
 ですが、対価をどうするかの交渉はしていません」
 香野木が結城と葉村を見ると、2人がうなだれる。2人の若者は親切なおじさんの罠にはまったのだ。
「私は親切で飛行機の操縦を2人に教えたわけではありません。
 2人がどんな対価を持っているのか知らなかったので、この点を保留にしていただけです。
 大災厄の直前、C-2輸送機の充足に伴って用途廃止になったC-1を会社が購入したんです。
 目的は、エンジンの換装と燃料タンクの増設の実証でした。余剰となったC-1の機体をオーバーホールした上で、操縦席のグラスコクピット化などの近代化改修を施し、輸送機として販売しようと考えたのだと思います。
 その改修試作機を私が管理しています。
 実質的に私の飛行機です。
 時渡りを飛行機でするつもりとか。
 私は飛行機を持っているし、操縦もできます。仲間にして、損はないかと……」
 香野木は悪い話ではないと感じたが、核心となる疑問があった。
「土井さん、なぜ、200万年後に行きたいの?」
 土井は予想外の表情になった。嗚咽を漏らし、泣き出したのだ。
「大消滅が、オークとギガスの戦争の結果だなんて知らなかった……。
 私は空前の天変地異だと考えていた。
 婚約者を励ましながら、1年頑張ったけど、彼女は絶望に取り憑かれて死んでしまった。
 彼女の仇を討たなければ、死ねないんだ!
 俺は!」

 土井は食堂のテーブルに突っ伏して、泣き続けた。

 北関東のヒトは、ギガスはともかく、オークを見たことくらいはある。壮絶な戦いを経験したヒトも多い。
 オークやギガスは、物語の中の怪物ではない。そこにある脅威なのだ。
 だが、市ヶ谷台の領域内にいたヒトの多くはオークとギガスを見ていない。
 恐ろしい生き物のことは“聞いた話”でしかない。
 それでもその生き物は近くにいて、戦いの銃砲声を聞いた。現実離れした、夢のような物語ではなかった。
 しかし、高知市や各務原の生き残りは、オークやギガスのことをまったく知らなかった。
 いくつかのグループがAMラジオ向けに中波放送を行っていたが、関東から各務原や高知市までは届かなかった。
 そして、彼らは大消滅の原因を知り、衝撃を受ける。
 天災ならどうにか諦められる。
 だが、見たこともない2種類の動物が争って、そのとばっちりで愛するヒトを失ったならば……。
 土井の心理状態は、長宗に似ていた。
 長宗は家族よりも造船所を優先した。妻子の生死を知らず。死んだのなら、その場所を知らない。
 長宗は土井を自分の鏡像だと思った。

 香野木は、迷っていた。
 臨時政権は、オークの時渡りを阻止する意思があるだろうか。今湊正一臨時代表にはあるだろう。
 しかし、彼のスタッフ全員がそう思っているか、と問われればそうではない。未来に移住したヒトに対しては、全体的に無関心だ。
 阻止するならば、潜水艦が積んでいる対艦ミサイル数発で可能だろう。
 だが、燃料を含む物資は限られている。それに、時渡りしてしまえば、オークの個体数が減る。阻止する理由がない。
 偵察までは同意がある。オークは脅威であり、何をしているのか、を調べることは意味がある。
 時渡りを画策しているならば、勝手にどうぞ、との思いがヒトには働く。
 今湊臨時代表が脅威の減少に結びつくオークの時渡りを「阻止する」と、決断するとは思えない。合理的な利益がヒト側にないからだ。
 香野木は、200万年後のヒトにオークの存在を知らせる義務があるとする考えは揺らいでいない。
 その方法が問題なのだ。
 作戦成功の確率を高めるには、船を選ぶか、飛行機を選ぶか、香野木はそれを逡巡していた。
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