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異世界編

01-001 嶺林家の秘密

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 世界は狂っていた。
 その中でも気象の異常さは、素人でもわかるほど。
 干ばつ、異常降雨、移動性の熱帯と温帯低気圧、蝗害。
 結果、世界は飢えていた。
 日本列島は、降雨と降雪にやられっぱなし。梅雨時から晩秋までは台風が頻発し、晩秋から入梅直前までは爆弾低気圧が頻発する。
 台風の発生場所も変わってきた。今年は小笠原諸島沖で超大型台風が発生。首都を直撃した。
 この年、台風は4月に初上陸、最後の上陸は12月だった。以後は爆弾低気圧と関東に大雪を降らせる南岸低気圧の連続攻撃で、日本列島は水害に飲み込まれた。
 梅雨前線や秋雨前線が活発になると、線状降水帯ができて何日も豪雨が続く。
 日照時間が短く、農作物は不作が続く。

 温暖化が原因であることは素人にも明白なのだが、一度入ったスイッチは連鎖していく。もう、ヒトの力では異常気象を止めることはできない。
 温暖化は氷河や永久凍土を溶かし、未知の細菌やウイルスを解き放った。
 このまま温暖化が進めば、数年で海底のメタンハイドレートが溶け出し、二酸化炭素よりも温室効果の高いメタンが大気中にあふれ出る。
 そうなったら、地球温暖化を止める術は完全になくなる。
 そして、そうなりつつある。

 世界には、飢餓に陥っている国や地域が多くある。だが、日本はどうにか踏みとどまっている。
 確かに食料は減った。だが、国民の多くはまだ、飢えてはいない。
 しかし、いつまで保つかはわからない。
 政府・与党は、完全に無策。
 政府は食糧配給の実効性を高めるために、都道府県に属さない特区を創設する。つまり、政府直轄市を実験的に作る。
 だが、この政府直轄市は野党から“天領”などと嘲笑・批判される通り、与党の利権をかき集めたいかがわしい行政区だった。
 名は、三代王特別市。
 しかも、自治体ではない。市長は政府が選出し、議員は政府が任命する。
 三代王特別市に自治はない。行政組織と警察は民間委託。行政は民間の事務代行会社が、警察は自治警察ではなく、民間軍事会社が請け負っている。
 このどちらも相当に怪しい会社だ。
 噂では、与党幹事長の利権と直結している。
 誰もが知る政商が関わる会社とつながっている。この政商が諸悪の根源だ。
 三代王特別市は、日本で一番住みにくい街。それどころか、住んではいけない街とさえ言われている。
 実際、実勢の地価は暴落していて、周辺地域の半分以下とさえ報道されている。

 食糧危機が現実のものとなり始めている現在、三代王特別市に住む一般住民は市外に転居するか否かの判断を迫られていた。
 三代王特別市には、福祉なんてものはない。すべてが、自己責任。だが、意外と治安はいい。理由は簡単で、民間委託の警察が極めて粗暴だからだ。
 万引きをした中学生が、警察官に殴り殺されて以来、子供による万引きはない。毎日、どこかで、例えば交通トラブルなど犯罪ではないことで、誰かが警察官に殺されている。
 だから、治安がいい。
 ……が、犯罪組織はある。偶然でも一般市民が犯罪組織と関われば、市外に逃げるしか生き残る術はない。
 犯罪組織と警察は直結していて、警察は与党を後ろ盾にしている。民間軍事会社の体裁だが、事実上、与党の軍事組織でもある。
 そして、事実上のトップは与党幹事長だ。その与党幹事長に、例の政商は多額の政治献金をしている。
 国税が合法的に与党に環流する仕組みが完成している。

 温暖化による気候変動は、社会をも壊し始めていた。

 嶺林家の家系は、戦国時代末期にまで遡る。戦はめっぽう強かったらしいが、政治的センスはからっきしで、戦国大名とは名ばかりの独立系小領主だった。だが、それ以前のことは何もわからない。
 いいや、口伝はある。
 別の世界からやって来た武将だったらしい。金髪・碧眼だったとも。どこぞの武士の娘と恋に落ちたらしい。そして、婿入りし、領地を継承した。
 だが、数百年後の翔太は、茶髪・黒眼で顔立ちはやや彫りが深い。何度か、警察官に職務質問されたことがある。何となく怪しいらしい。薬物販売を疑われたり、下着泥に間違われたり。

 父親が死んで、3カ月が過ぎた。妻子が死んでから3年。これで、天涯孤独だ。知る限り、血縁はいない。
 嶺林家は翔太の代で終わる。
 それはいいが、確認したいことがあった。先祖代々の敷地、唯一の無価値な財産、山の中の荒れ地にある岩屋の伝説だ。
 岩と岩の隙間から、ご先祖様はこの世界にやって来たそうだ。その岩屋がある、巨大な崖が山中に残る。
 山全体が嶺林家の持ち物だが、重要なのはこの岩屋のみ。林業が廃れて以降、手入れをしていない山は荒れ放題。

 岩屋の入口には鉄製の格子扉があり、施錠されている。簡単には入れないし、岩屋の奥に洞窟があることは家族の一部以外誰も知らない。いまでは翔太が知るのみ。
 翔太を基点として4代前の高祖父は、祖先が異世界から来たと信じていた。幕末の不穏な世情の中で、そう思いたかったのだろう。戦国大名から転げ落ち、高祖父は普通の農民だった。
 高祖父は戊辰戦争で、箱館まで行き、死にかけて、逃げ帰ってきたと伝えられる。
 それ以降、異世界征服の夢に取り憑かれたとか。
 2代前の祖父は、異世界云々は信じていなかったが、ソ連が攻めてくると病的に案じていた。
 彼は華中・華南を転戦した旧陸軍の下士官から昇進した下級士官だったが、対ソ戦の経験はない、と父から聞いている。
 祖父は第二次世界大戦後、外車専門の整備会社を興した。軍でクルマの運転と整備を学んだことと、戦車兵だったことから終戦時に大型特殊の免許を得ていた。
 いわゆるポツダム免許だ。
「陸を走る機械なら鉄道以外何でも運転できる」とよく自慢していたとか。
 翔太の父親は祖父が興した会社を継いだが、祖父が死ぬとすぐに会社を人手に渡して、サラリーマンになる。
 翔太もサラリーマンだった。妻子を交通事故で失い、生きる気力が失せ、嶺林家に残った唯一の山にやって来た。
 山の中のポツンと一軒家だ。
 この家は父親が建てた。小さい家だが、1人には広すぎる。
 巨大な3棟のテント倉庫と、その中のガラクタがなければ、住みやすいのだが……。
 敷地が広いので、テント倉庫を見なければ気にならない……。見たくなくても見えるが……。

 毎日、朝から酒を飲むのも疲れるし、貯金もつきかけているので、父親が残したガラクタを売ることにする。
 父親は祖父から受け継いだ自動車整備会社を躊躇うことなく、同業他社に譲渡したが、クルマは好きだった。
 無類の四駆マニアで、乗るよりは、いじるほうが好き。その四駆がテント倉庫に保管されている。ナンバーはないが、廃車証明は残っている。
 それと、テント倉庫を設置した際に使ったミニショベルとミニホイールローダが残されている。
 いまの翔太は、父親が残したものを売って、生活費にしている。建機はポンコツだが、売り物にはなる。
 実に怠惰で、親不孝者だ。父親はサラリーマンとしては成功したが、個人としての幸せには恵まれなかった。
 翔太の母は翔太が2歳の時に病死。後妻は若い男にハマって失踪。
 翔太と父親は、父と子の2人だけで生きてきた。

 テント倉庫に向かって歩いていると、かすかに人の声が聞こえる。耳を澄ますと、女性と子供の声だ。ここは山の中。隣家まで8キロ、一番近い街まで12キロある。
 道はあるが、細い未舗装路のどん詰まりで、人が迷い込むことはない。

 声を追う。動機は気味が悪いから。気になってしょうがないし、自分でも正気でなくなったように感じることがある。
 そういう生活をしているから。

 声は岩屋の中からする。格子の鉄扉に耳を近付けると、わずかだが声が大きくなる。だが、会話の内容はわからない。しかし、2人ではなく3人だ。
 鉄の格子扉を開けるため、住居に戻る。荒れ地に建つおしゃれなログハウスだ。
 父親が45歳で建て、10年間、休みの日をここで過ごした。
 翔太は大学に進学するまで付き合ったが、以後は時々。妻子は、ここが好きだった。妻子の部屋もある。荒れてしまったが、美しい植栽の名残がある。
 翔太は、そうでもない。田舎は苦手だ。人付き合いは、もっと苦手。
 ここに来たのは、住処を失ったからもあるし、広い土地だから畑を作って農業でもやるか、と。
 食い物に困る時代は目前だ。
 実際、小型の中古農業トラクターを買った。買っただけだが……。にわか農業従事者が激増している時代だから、中古農機は価格が上がっている。

 鉄格子扉の鍵を開けるが、鍵の他に鎖と南京錠で2カ所を閉めている。父親から聞いた話では、内部の一部が酸欠なのだそうだ。
 岩屋の内部に入り、10メートルほどで洞窟になる。まだ、呼吸に異常はない。
 声は少しだけ大きくなる。
 日本語でないことがわかるが、不思議なことに意味がわかるような気がする。だが、はっきりとは解せない。洞内で声が反響し、不思議なほど不気味だ。
 さらに90メートル進むと、江戸期の土蔵のような重厚な観音開きの扉がある。鉄製のかんぬきは3重、不思議なことにあまり腐食していない。
 直径10センチほどの空気穴が天井に近い壁に3個ある。小型のLEDライトでは、それ以上のことはわからないが、声はその穴を通って聞こえてくる。
 3本のかんぬきを外そうと、扉に近付くと、急に呼吸が苦しくなる。
 すぐに酸欠と気付き、後退る。ほんの数メートルで、空気の成分が変わる。
 酸欠だから、錆びないのだ。
 声が聞こえなくなる。
 翔太は数分間、壁の穴を見詰めていたが、いったん戻ることにする。

 その日のうちに、通販で酸素のスプレー缶を購入し、納品日数がかかるスキューバダイビング用のボンベと機材一式を別途注文する。空気を圧縮・充填するためのコンプレッサーはテント倉庫にある。

 翌々日、朝から洞窟内に入り、扉のかんぬきを外す作業を始める。3本買ったスプレー缶は3本のかんぬきを外して使い切った。
 その2日後から、スキューバ用のボンベを背負い、扉を開ける作業に入る。
 すると、また声が聞こえてきた。
 重い扉が、意外なほど簡単に開く。蝶番が錆びていないからだ。軋む音さえしない。
 扉が開いても、声が反響し、何を言っているのかまではわからない。

 翔太は目を疑った。概算50メートル四方、高さ10メートルもの空間が広がっている。人工的に感じる立方体の地下空間だ。
 それだけではない。壁に沿って、大量の長銃が並んでいる。
 翔太は、その1挺を手にする。
「ミニエー銃か?」
 ライフルのあるパーカッションロック式前装銃だ。
 隣の銃を手にする。
「スナイドル銃?」
 こちらは、金属製薬莢を使う後装式単発銃。
 1挺だけ目に付く銃がある。
「種子島……」
 滑腔銃身のマッチロック式。火縄銃だ。
 ライトの光の中に数挺の種子島がある。幕末の最末期から明治初頭に集めたものなのだろうが、種子島は何のために、と疑問に思う。
 4代前の高祖父は明治10年(1877年)に死んでいるのだから、それ以前に集めたものだ。
 刀もある。打ち刀だ。無造作に壁に立てかけられている。
 銃や刀は、壁一面にあるわけではない。所々にまとまって置かれている。

 この空間に入った扉とは、完全に正対している位置に別の洞窟が口を開けている。
 また声が聞こえる。
 不気味ではないが、心地よくはない。ライトを地面付近に向ける。埃を被っているが、レミントンM1858リボルバーが4挺、木箱の上に置かれている。パーカッションロック式の6連発リボルバーだ。
 銃をどかし、木箱を開けると、6挺の銃床付きM1858カービンがある。
 右の小さい木箱を開ける。45口径クラスの金属薬莢弾だ。銃と弾が合っていない。

 やはり人の声が聞こえる。何となく恐怖を感じるが、惹かれてもいる。
 刀を手に取り、鞘から少し抜くと簡単に刀身が見えた。錆びていない。持っていくことを考えたが、やめた。武器は、暴力を誘発する。彼は経験上、それをよく知っていた。
 それに声の主は、女性が2人と子供1人だ。怖がらせたくない。

 正対する洞窟に入り、10メートル進むとまた土蔵扉があった。
 かんぬきも3本。
 そのかんぬきを外し、観音扉を押す。
 扉が開く。

 扉の向こうに3人がいた。

 ゴーグルを着け、マウスピースを咥えた男を見て、少女が怯える。
 だが、2人の女性、1人は20歳代前半、もう1人は15歳前後はまったく気付かない。
 6歳くらいの黒髪の少女が、翔太を指差し、20歳代女性の服の裾を引く。女性は振り返るが、翔太を視認していない。
 翔太は3メートルほど前進する。
 すると、2人の女性が驚き慌てる。
 翔太は両手を身体の前で振り、危害を加えるつもりがないことを示そうとする。
 慌てて、マウスピースを外し、「何もしないから」と言うと、女性2人が抱き合った。

 翔太は驚いていた。
 彼が発した言葉は、日本語ではなかった。彼がまったく知らない言語だ。
 彼は呆然となった。

「伝説の異界人だ」
 アネルマ・レイリンは、黒髪の男を見てそう呟いた。
 異界人伝説は、真実だった。

 翔太は「俺は、嶺林翔太。きみたちは、誰……?」と尋ねる。
 10歳代の少女が答える。
「私は、アネルマ・レイリン。レイリン家の長女だ。
 あなたはレイリン家ゆかりの方か?」
 翔太は当惑する。
「嶺林家の最後の1人だ。
 俺が死ねば、嶺林家は絶える」
 少女が否定する。
「それは違う。
 私とイルメリがいる。姉上はエスコラ家から嫁いできたが、レイリンの家族だ。
 だが、あなたがレイリンならば、最後のレイリンの男だ」

 翔太は、20歳代の女性を見詰めていた。まったく意外だった。彼は彼女を見た瞬間、レベッカ・エスコラに長らく感じていない心のさざ波を感じていた。

 3人は重厚な木製扉の内側にいた。そして、扉の外には何人かの男がいる。男たちの声が聞こえる。
「出てこい」
「かわいがってやるぞ」
「涙を拭いてやる」
「ババァに用はない。若いほうだけでいい」
 下卑た笑い声が続く。
 だが、3人は意外なほど、怯えてはいない。翔太はそれを、いぶかしく見る。
「いつものことだし、ここには入ってこれない。この扉を破壊するには大砲がいるから」
 アネルマの言葉は、翔太には安易な判断だと感じた。木製扉の厚さは最大でも20ミリほどだろう。軍用小銃弾なら貫通する。

 30分ほど待ち、3人は外に出るという。翔太は危険だと判断するが、女性2人は「大丈夫」と意に介さない。
「いつも、しばらく騒いで、立ち去るの」
 レベッカが寂しそうに呟く。
 翔太は、ゴーグルを着け直し、「10分待って」と言ってマウスピースを咥える。
 10分の意味が理解できたかどうか、1分ほどで不安になる。

 150年前の銃器が使えるのか?
 答えは使えない。常識では……。だが、この場合は違う。
 翔太は無酸素地下空間の木箱に置かれていた。中折れ式拳銃を手にしたとき、回転弾倉を調べ、銃身を覗いている。銃身内部が光っていた。銃には150年分の埃はない。
 無酸素なだけではないのだ。時間の経過が遅いか、止まっているか……。
 それとも、単に埃がないのか。
「S&W No.3か。
 さすがに、こいつを撃ったことはないぞ」
 金属薬莢の弾もある。
「44口径のウインチェスター」
 紙箱に入っていた.44-40弾は新品同様だ。紙箱自体、まったく劣化していない。拳銃を半分に折り、回転弾倉後部を露出させて、5発を装填する。撃鉄のあたる部分には暴発を恐れて、弾を入れなかった。
 翔太は装弾し終わると、もし弾が出なかったら、との不安が急速に増大する。大型の拳銃はミリタリージャケットの内ポケットに入れた。
 そして、骨董品の拳銃に対する不安から手にしたのが刃渡り70センチもある打ち刀だ。少しだけ、鞘から抜くと錆はない。

 3人は待っていた。
 アネルマが翔太が背負うボンベを下ろすのを手伝ってくれ、その間、レベッカが刀を預かった。

 洞窟を出ると、5人の男がいる。男たちも驚いたようだが、女性3人も足が止まる。
 用心しながら洞窟を出たのだが、5人は無言で、死角にいた。それは、偶然だったらしい。3人を待ち構えていた様子はない。
 5人の男は翔太を見ている。ちょうど、ささやかな畑を荒らし終えたところらしい。ウマに乗って帰ろうとしていた。

 5人が一斉に腰から短銃を抜いて構え、フリントロックのハンマーを上げようとする。
 翔太は躊躇わなかった。行動を躊躇ったがために、妻子を失っている。それ以来、命がかかる危機に際して躊躇わないことにしている。
 フリントロックの短銃の銃口が翔太を狙う前に、翔太は5発を発射していた。
 レベッカは、一切の躊躇いなく刀を抜くと、撃たれて倒れゆく2人に斬撃を加える。相当な手練れだ。
 一瞬の卓越した剣技とは真逆に、彼女がその場にへたり込む。
 アネルマはナイフではなく、尖った金属で倒れ込んだ1人を滅多刺しにする。
 1人は顔が半分吹き飛んでいて、もう1人は胸を撃たれたが生きていた。よよよろと立ち上がったレベッカが胸を突き刺す。
 彼女が微笑む。
「お腹がへっているのに、よく戦ったね」

 翔太は太陽光下で、3人を見る。
 明らかに痩せている。

 翔太は1人で5人の死体を岩陰に移動する。アネルマたちは力仕事ができるような状態ではないのだ。わずかな食料の多くを、幼いイルメリに与えていたらしい。

 翔太は人を殺した動揺から立ち直ってはいなかった。個人的に銃器史を研究しているが、銃口を人に向けたことはないし、動物を撃ったこともない。
 子供の頃からの趣味で渓流釣りはするが、それ以外で動物を捕らえたこともない。
 残酷なことは大っ嫌いだ。矛盾しているようだが、翔太の中では矛盾はない。
 それよりも、3人の健康状態のほうが心配だ。
「もう一度戻る。
 木の扉の内側にいるんだ。
 今度は少し時間がかかるが、必ず戻る」

 3人は木製扉の内側に立つ。アネルマが不安な目をし、レベッカは翔太の手を離さない。
 イルメリが唐突に「母上様、私も扉の向こうに行っていい?」と言い出す。
 彼女には、土蔵扉が見えるのだ。アネルマが「あなたは岩の壁を通り抜けてきた」と言い、レベッカも同様だが、イルメリは「扉が開いたんだよ」と。
 翔太は翔太に見えるものと、同じものがイルメリにも見えるのだと感じた。
 だが、それと連れていくかどうかは、別問題。無酸素の空間を越えるには、装備が必要だ。今回は無理だ。

 翔太が食料庫に入るのは3年ぶり。父親は死の直前まで、ここを維持し続けた。息子の妻が顕在化しつつある食料難に備えて、そして年々悪化している天候を心配して「何かあったときに」と、備蓄していた食料だ。
 5キロの米が6袋、大量のパスタ、缶詰類多数。卓上ガスコンロとカセットボンベなど。カセットコンロに載せて使うのストーブもある。
 スイスアーミーナイフ2つを布製バッグに入れる。
 パスタと缶詰をダンボール箱に放り込む。ダンボール箱2箱を台車に載せ、トンネルに戻る。
 土の上で台車を押すことは結構難儀で、トンネル内も平坦ではない。ダンボール箱を、自転車の荷台紐で留めたことは正解だった。
 ボンベを背負い。土蔵扉を潜り抜け、地下空間を進み、そして異世界側の土蔵扉を出た。
 3人は、ホッとした顔をする。
 アネルマに渡した腕時計と、実際に要した時間に大きな差はない。仮に、無酸素の空間が時間の経過が遅いとしても、たかだか50メートルだ。歩いても、数十秒。精密な計測でなければ、誤差は現れない。

 パスタの食べ方から教えなければならなかった。彼女たちが麺をまったく知らないからだ。
 ただ、8分茹でて、温めた缶入りパスタソースと和えるだけで食べられるので、空腹の極にある3人には好都合だった。
 おそらく、飢餓の直前だ。翔太は、飢餓をよく知っていた。

 レベッカ・エスコラは、レイリン家の次期当主である嫡男の元に嫁いだエスコラ家の次女。
 アネルマ・レイリンは、レイリン家の長女。イルメリ・レイリンは、嫡男の子。母は、レベッカ・エスコラ。
 3人は、明らかに飢えていた。
 荒らされた畑を見たイルメリの悲しそうな目は、翔太が内在していた怒りに火を着けた。
 5人を躊躇いなく撃った理由は、イルメリの目と無関係ではなかった。

 5人の死体をどうするかが問題になる。翔太が深く埋めることを提案。だが、深い穴を掘る道具がないという。

 土蔵扉の幅は170センチ。幅170センチ以下、高さ220センチ以下のものなら通過できる。
 車重500キロ強の軽トラならボンベを背負った状態で、無酸素の空間を手押ししていける。この空間の床は、わずかな凹凸はあるが、傾斜はない。
 まず、軽トラをアネルマたちの世界に移動する。続いて、軽トラでエンジンウィンチ付きのランクル40を牽引して移動する。
 エンジンウィンチがあれば、何でも牽引できる。ミニショベルを持ってくれば、深い穴は掘り放題だ。

 翔太は、すぐにその準備に取りかかる。なぜか、イルメリが翔太にくっついている。
 アネルマとレベッカは、5人の男から剣と銃を奪った。両刃の短剣5振、両刃の長剣5振、短銃5挺、騎兵銃5挺。
 銃はライフルのない滑腔銃身、銃弾は鉛の球体、発射薬は黒色火薬。前装式マスケットだ。18世紀のイギリス陸軍制式ブラウン・ベスによく似ている。

 アネルマが剣を佩き、銃を手に出かけようとしている。
 翔太が心配する。
「アネルマ、どこに行く?」
「叔父上、森の獣道を抜けて隣の家に行く。エイラもお腹をすかせているはずだから……」
「気を付けて」
「連中は森には入ってこないよ。
 少人数では。オオカミがいるから。
 森を通れば、見つからずに連れてこられる」

 翔太の妻は身長が168センチあった。彼女は長身を気にしていた。だが、レベッカもそのくらい。アネルマは10センチほど低い。
 3人の服装は、ひどい状態だ。
 家もひどかった。何度も室内を荒らされ、椅子とテーブルはかなり以前に壊されていた。寝具はなく、干し草で代用していた。その干し草さえ多くはない。

 軽トラは自走して岩屋を潜り、トンネルも自走する。土蔵扉の直前でエンジンを止め、惰性で無酸素の地下空間に進入する。ヘッドライトは点灯。ハイビームにしても、地下空間の内部がよく見えない。光は拡散せず、収束してしまうのだ。
 それでも視界が広がる。大きなシートが被せられた“物体”が複数。いままでまったく気付かなかった。それが何かを確かめる時間はない。
 翔太は動いている軽トラの運転席から降りると、惰性を使って、木製扉の外まで手押しする。
 エンジンを始動し、自走して洞窟から出ると、レベッカが驚嘆する。
「それは何?」
「軽トラだ。荷車だよ」
「ウマがいなくても動くの?」
「そうだよ」
 イルメリは「乗りたい!」と大騒ぎで、助手席に乗せて周囲を走る。
 この軽トラは、翔太の父親がオフロード走行用に改造してあり、車高をかさ上げしているし、荷台にはロールバーが付いている。ライトは、ルーフに4灯。それなりに格好いい。
 こいつは、次の売り物になるはずだった。

 エンジンウィンチ付きのランクルは、車幅が広いので、用心深く土蔵扉を惰性で越える。車速が遅いので、すぐに止まる。
 牽引フックにワイヤーをつなぎ、洞窟外の軽トラにつなぐ。ワイヤーの長さは30メートルを超える。難しい作業だ。
 軽トラでゆっくりと引く。土蔵扉と木製扉が難関だったが、接触せずに通過させた。
 ロングボディのFJ40ランクルは、通過できるギリギリの車幅だった。
 イルメリは、ランクルには興味がないらしい。軽トラがお気に入りだ。この軽トラは、翔太の娘もお気に入りだった。
 レベッカは、ランクルの車内を珍しそうに覗いている。

 ミニショベルの移動は、1時間以上を要した。履帯と車輪では、ずいぶんと勝手が違う。直進性はいいが、微妙な方向の変更が難しい。

 ミニショベルの移動作業中に、アネルマが戻ってきた。彼女と同じくらいの年齢の少女を連れているが、ひどい状態だ。顔をひどく殴られていて、衣服はボロ布のようになっている。
 何があったのかすぐにわかった。

「エイラ、叔父上だ」
 エイラはかなり動揺する。だが、挨拶は毅然としていた。
「アルミラ家の次女エイラにございます。
 レイリン家のご当主様とお見受けいたします。以後、お見知りおきを。
 ご当主様の指揮の下、この身を投げ打って戦います」
 翔太には意味がわからない。
 戦うとは?
 戦う相手は、あの5人の仲間か?
 それに、レイリン家の当主とは?

 ミニショベルで穴を掘り始めると、4人の目は驚嘆に変わる。深い穴を短時間で掘り、5人の遺体を放り込み、簡単に埋め戻す。
 エイラは「魔法だ!」と言った。
 レベッカは「魔法以上よ!」と答えた。

 日没になったが、翔太は今夜はここに残ることにする。その前に、いったん自宅に戻る。
 家にあった毛布のすべてと、少しの家庭薬、それと残っていた妻の衣類をかき集めた。
 翔太は、アネルマたちを放ってはおけなかった。

 アネルマ、レベッカ、エイラの3人は、衣服を改めたが、イルメリにはサイズに合うものがなかった。彼女の涙目は、とても辛い。

 エイラはレベッカたちと一緒に住むことになったが、周辺には危機的状況の女性がまだいるという。危機とは、暴力と飢えだ。
 毎夜、3人は夜遅くまで、今後どうするかを話し合うようになった。
 そして、3人は翔太に「食料はどれくらい手に入るか?」と何度も尋ねる。
 何度も尋ねられるので「何がほしいのか?」と問い返すと、レベッカが震える声で「小麦は?」と尋ねた。
 翔太には答えようがなく、ネットで小麦粉25キロを10袋注文するが、驚くことに2日後に届いた。
 世界的には食糧事情が逼迫しているが、日本はまだ量的な影響を受けてはいない。価格は高騰していて、食糧事情が悪くなかった時期から比べれば、10倍にも跳ね上がっているが……。
 250キロの小麦粉をどう運べばいいのか思案するが、名案が思い浮かばない。運ぶ方法を考えずに注文したことを悔やむが、結局、台車で3袋ずつ運ぶことにする。

 レベッカたちは、純白の小麦粉に驚き、その量に驚喜する。
「パンを焼くの!」
 喜ぶエイラが幼く見える。

 アネルマとエイラは、周辺にいる人たちに「パンを配る」との知らせを届ける。
 奪った5頭のウマは使わず、森を抜けて徒歩で移動する。
 近隣の数軒に伝えただけだったが、配給の日には40人も集まった。口伝で広まったのだ。
 即席のパン釜が壊れるほど、パンを焼く。

 前日、レベッカは彼女が懸念していることを翔太に伝えた。
「アネルマとエイラは、奪った剣と銃を使っているけど、もし捕まったら、問答無用で殺されてしまう。
 あれは、新しい領主の兵のものだから。
 やめさせたいけど、武器がなければ、危険だし……」
 レベッカは、暗に「武器はないか?」と問うている。武器があることは知っている。
 人よりも危険な動物はいないが、オオカミやクマも危険だし、レベッカたちは魔物や精霊を信じている。翔太は魔物よりも人のほうが圧倒的に危険だと思っているが……。

 彼女たちは、フリントロック式の銃は使い慣れている。ならば、パーカッションロックを使いこなすだろう。
 ミニエー銃と6連発レミントンM1856リボルバー各3挺選ぶ。

「武器は木箱に入れて深く埋め、ウマは遠くまで連れていき放す」
 レベッカの考えだが、翔太の命令として伝える。翔太自身、命令する立場であることが理解できない。
 しかし、アネルマとエイラはレベッカの指示に従う。レベッカには有無を言わせぬ何かがある。エスコラ家は名門なのだそうだが、レベッカ個人の資質のように感じる。
「アネルマとエイラが口を尖らす」
「また、武器もウマもなくなった」
 アネルマの不安はわかる。
 屋外は少し風が冷たい。秋に入っている。武器とウマがなく、食料もない。厳しい冬が近付いている。
「武器は、提供する。
 ウマは、無理だ」
 すると、アネルマが軽トラを指差す。
「あれの使い方を教えて!」

 深夜に自宅へ戻る。つまり、元世界に戻ってきた。いつもと違うことは、イルメリが一緒なこと。
「一緒に行くの、一緒に行くの、一緒に行くの!」と駄々をこね、ついに無酸素空間を越えたのだ。酸素スプレー缶を口にあてて。

 翔太は、イルメリを風呂に入れ、Tシャツを着せてベッドに寝かせた。湯船は初めてだったようで、はしゃいでいた。
 イルメリが寝てから、翔太は父親の道楽と向き合うことにする。
「200ccのATVか……。
 これで、納得してくれよ。
 トレールとどっちがいいか、決めさせよう」

 イルメリは、彼女にとって最初の異世界の朝を迎える。
「もう一度、お風呂に入りたい」
 彼女の願いはささやかだった。
 朝食は、トースト、目玉焼き、コーンポタージュにした。
 イルメリは嬉しそうだ。通販で買った、彼女の服は少し大きかったが、それも気に入ったようだ。
 彼女が寝たのは、翔太の娘の部屋だった。
 翔太の心は乱れた。娘にできなかったことを、イルメリにしてあげたかった。イルメリを苦しめるものは、何者でも排除する思いに陥りそうだった。
 自然とそう決心していた。
 だから、この夜は飲まなかった。
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SF
200万年後の姉妹編です。2億年後への移住は、誰もが思いもよらない結果になってしまいました。推定2億人の移住者は、1年2カ月の間に2億年後へと旅立ちました。移住者2億人は11万6666年という長い期間にばらまかれてしまいます。結果、移住者個々が独自に生き残りを目指さなくてはならなくなります。本稿は、移住最終期に2億年後へと旅だった5人の少年少女の奮闘を描きます。彼らはなんと、2億年後の移動手段に原付を選びます。

高校生とUFO

廣瀬純一
SF
UFOと遭遇した高校生の男女の体が入れ替わる話

ちょいダン? ~仕事帰り、ちょいとダンジョンに寄っていかない?~

テツみン
SF
東京、大手町の地下に突如現れたダンジョン。通称、『ちょいダン』。そこは、仕事帰りに『ちょい』と冒険を楽しむ場所。 大手町周辺の企業で働く若手サラリーマンたちが『ダンジョン』という娯楽を手に入れ、新たなライフスタイルを生み出していく―― これは、そんな日々を綴った物語。

性転換マッサージ

廣瀬純一
SF
性転換マッサージに通う人々の話

日本新世紀ー日本の変革から星間連合の中の地球へー

黄昏人
SF
現在の日本、ある地方大学の大学院生のPCが化けた! あらゆる質問に出してくるとんでもなくスマートで完璧な答え。この化けたPC“マドンナ”を使って、彼、誠司は核融合発電、超バッテリーとモーターによるあらゆるエンジンの電動化への変換、重力エンジン・レールガンの開発・実用化などを通じて日本の経済・政治状況及び国際的な立場を変革していく。 さらに、こうしたさまざまな変革を通じて、日本が主導する地球防衛軍は、巨大な星間帝国の侵略を跳ね返すことに成功する。その結果、地球人類はその星間帝国の圧政にあえいでいた多数の歴史ある星間国家の指導的立場になっていくことになる。 この中で、自らの進化の必要性を悟った人類は、地球連邦を成立させ、知能の向上、他星系への植民を含む地球人類全体の経済の底上げと格差の是正を進める。 さらには、マドンナと誠司を擁する地球連邦は、銀河全体の生物に迫る危機の解明、撃退法の構築、撃退を主導し、銀河のなかに確固たる地位を築いていくことになる。

性転換ウイルス

廣瀬純一
SF
感染すると性転換するウイルスの話

忘却の艦隊

KeyBow
SF
新設された超弩級砲艦を旗艦とし新造艦と老朽艦の入れ替え任務に就いていたが、駐留基地に入るには数が多く、月の1つにて物資と人員の入れ替えを行っていた。 大型輸送艦は工作艦を兼ねた。 総勢250艦の航宙艦は退役艦が110艦、入れ替え用が同数。 残り30艦は増強に伴い新規配備される艦だった。 輸送任務の最先任士官は大佐。 新造砲艦の設計にも関わり、旗艦の引き渡しのついでに他の艦の指揮も執り行っていた。 本来艦隊の指揮は少将以上だが、輸送任務の為、設計に関わった大佐が任命された。    他に星系防衛の指揮官として少将と、退役間近の大将とその副官や副長が視察の為便乗していた。 公安に近い監査だった。 しかし、この2名とその側近はこの艦隊及び駐留艦隊の指揮系統から外れている。 そんな人員の載せ替えが半分ほど行われた時に中緊急警報が鳴り、ライナン星系第3惑星より緊急の救援要請が入る。 機転を利かせ砲艦で敵の大半を仕留めるも、苦し紛れに敵は主系列星を人口ブラックホールにしてしまった。 完全にブラックホールに成長し、その重力から逃れられないようになるまで数分しか猶予が無かった。 意図しない戦闘の影響から士気はだだ下がり。そのブラックホールから逃れる為、禁止されている重力ジャンプを敢行する。 恒星から近い距離では禁止されているし、システム的にも不可だった。 なんとか制限内に解除し、重力ジャンプを敢行した。 しかし、禁止されているその理由通りの状況に陥った。 艦隊ごとセットした座標からズレ、恒星から数光年離れた所にジャンプし【ワープのような架空の移動方法】、再び重力ジャンプ可能な所まで移動するのに33年程掛かる。 そんな中忘れ去られた艦隊が33年の月日の後、本星へと帰還を目指す。 果たして彼らは帰還できるのか? 帰還出来たとして彼らに待ち受ける運命は?

ゲート0 -zero- 自衛隊 銀座にて、斯く戦えり

柳内たくみ
ファンタジー
20XX年、うだるような暑さの8月某日―― 東京・銀座四丁目交差点中央に、突如巨大な『門(ゲート)』が現れた。 中からなだれ込んできたのは、見目醜悪な怪異の群れ、そして剣や弓を携えた謎の軍勢。 彼らは何の躊躇いもなく、奇声と雄叫びを上げながら、そこで戸惑う人々を殺戮しはじめる。 無慈悲で凄惨な殺戮劇によって、瞬く間に血の海と化した銀座。 政府も警察もマスコミも、誰もがこの状況になすすべもなく混乱するばかりだった。 「皇居だ! 皇居に逃げるんだ!」 ただ、一人を除いて―― これは、たまたま現場に居合わせたオタク自衛官が、 たまたま人々を救い出し、たまたま英雄になっちゃうまでを描いた、7日間の壮絶な物語。

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