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第4章 内乱

第41話 アークティカの行方

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 現在のアークティカは、疲弊しきっている。人々は完全には飢餓の恐怖から解放されていない。わずかな政策のミスで、飢餓は現実となる。人々はそれを知っており、団結してこの難局を乗り切らなくてはならないことを理解している。

 アークティカの強さは、この団結だけだ。

 アークティカは小国である。神聖マムルーク帝国との国力差は歴然としている。
 特に軍事力は、帝国が圧倒的に勝る。アークティカ側が性能に優れた武器を使ったとしても、その差を埋められるものではない。

 私の戦略は明確で、アークティカ人の生産性を向上させ、輸出によって利益を得て、国民と国が富み、盤石の経済基盤を確立する。その上で強力な軍事力を保有し、帝国に対して〝迂闊に手を出せば傷を負う〟ことを理解させる。

 アークティカは、神聖マムルーク帝国には軍事力で勝てない。
 ならば、経済力で勝つしかない。経済力を背景に、近隣諸国と同盟を結び、集団の力で対抗する。

 集団的自衛権だ。

 個人・国家には個別的自衛権は生存するための本質的条件として存在するが、これを発動することは危険を伴う。
 神聖マムルーク帝国が自国の存続のために他国を攻め、攻略した国家の国民を奴隷とすることも、それが帝国の生存にとって絶対的に必要なことならば個別的自衛権の範囲なのだ。
 個別的自衛権は、自国民の保護と自国の権益保護の名目さえ整えば〝正当な権利である〟と主張できる。

 個別的自衛権の行使は、開戦の理由は何でもよく、いったん開戦すれば戦争を無制限に拡大させてしまう危険が潜んでいる。

 アークティカは、今後三年間、一切の対外戦争を行ってはならない。帝国のいかなる挑発にも耐え、国内の団結と安定を第一にしなければならない。
 そのためには、利害の一致する周辺諸国と経済および軍事の同盟関係を築き、それを強固にし、来たるべき非常時に備えなくてはならない。

 アークティカ一国では、神聖マムルーク帝国には対抗できないのだ。

 だが、疲弊しきっているアークティカと同盟を結びたいという酔狂な国は、いまのところ一国しかない。
 ルカーン南方の内陸の都市国家セムナだけだ。
 北のパノリアと南のルカーンは、非友好的ではない。アークティカには同情的だし、パノリアとは民族的に、ルカーンとは文化的な結びつきがあるから、何とか関係を深めたい。

 アークティカ国内も混沌としている。今後は、マルマ行政府とアレナス行政府とで、主導権争いが始まるだろうし、一歩間違えば内乱の危険だってある。
 この国の舵取りは難しい。

 しかし、悪いことばかりではない。
 ルカナ包囲戦以後、アークティカの領土を侵そうという国は、神聖マムルーク帝国以外にはなくなった。
 帝国はアークティカの首都チュレンを確保しているし、第二の都市バルカナもその勢力圏にある。
 さらに、現時点においてアークティカという統一された国家は存在していない。ルカナ一帯とマルマ一帯が他国の勢力圏にないだけで、これから国家としての体裁を整えていかなくてはならないのだ。
 マルマの行政長官スピノラとアレナス行政長官チルルは、各行政府を地方政府とし、新たに中央政府を樹立することに同意しているが、ただそれだけでもある。
 マルマとアレナスでは体制と体質が大きく異なり、総論賛成、各論反対は目に見えている。何をするにも多大な労力と努力・忍耐が必要だ。
 それを怠れば、内乱となる。

 我々が得たエリス金貨五〇〇万枚という莫大な資金の使い道だが、マルマとアレナス間に上下各二車線、計四車線の舗装路を建設することにした。
 これはマルマからの一切の資金提供を当てにせず、アレナス単独で行う。
 その目的は、マルマとアレナスの時間距離を縮め、両地域の一体感、連帯感を醸成することにある。
 この道は、古い間道を拡張することで、早期に完成させるつもりだ。両地域の人々の往来が盛んになれば、何かの化学反応が起きそうな気がする。

 トルボルグ号は、整備のためにアレナスの乾ドックに入渠する予定であったが、マルマ戦役の負傷者、特に重傷者の治療のためにルドゥ川を遡ってイファの桟橋に停泊していた。
 トルボルグ号の医療レベルは、この世界の水準からすれば神のごとき技だ。
 重傷者は、軍歴にあるものも、民間人も、イファで治療を受けることを切望した。この希望にトルボルグ号は応え、イファでは患者の家族が宿泊できる施設を急造した。
 また、医学を志す多くの若者、そして現役の医師もトルボルグ号を目指した。トルボルグ号は臨時の医学校でもあった。
 トルボルグ号は、救急車、マイクロバス、大型四駆の三輌をマルマに派遣し、マルマと赤い海のルカーン国境付近まで患者を運んだ。ここからは、エルプスのテンダーボートが可能な限りの船速でイファに運んだ。
 マルマは赤い海に至るルートを整備し、迅速な輸送を可能にしようと努力を続けた。
 マルマ街人による行政府への突き上げが激しかったし、行政府は今戦役初動の不手際を挽回する意味においても、街人の要求は飲まざるを得なかった。
 この世界には石畳の道はあるが、車輌が高速で走るための舗装路はない。その理由には敵国の進軍を遅らせるための間接的防衛があるが、実際は街間交通は互いに接続する街間が費用を負担するルールがあり、費用がかかる舗装は敬遠されるのだ。
 マルマ行政府は、片側上下各一車線の天然アスファルトを使った簡易舗装道路一七〇キロを短期間で完成させ、街人の要求に応えた。
 イファの車輌工場は、蒸気レシプロエンジンのブルドーザーとロードローラー各一〇輌ずつをマルマに販売し、ちょっとした特需に沸いた。

 マルマからアレナスやイファを訪れる人々は増え続け、その逆も増加の一途をたどった。ルカーン国境付近からアレナスまでの道路整備が急務となり、アレナスの行政府はやむなくルカナ包囲戦の益金を充当して緊急の舗装路整備が始まった。
 同時に、ルカナからマルマへと最短で至る上下四車線舗装道路の建設も始まっている。
 アークティカでは、各地で大規模な公共工事が始まった。

 ルカナを奪還したことから、我々メハナト穀物商会が再管理に成功した施設がある。
 地下空間だ。
 ルカナを包囲する前に、すべての異界物をイファに運んだが、この地下空間自体が異界物である可能性が高い。
 地下空間の一番奥は土砂で埋もれているが、我々はこの土砂を取り除き、この先に何があるのか、を突き止めるための作業を開始した。
 地下空間はトンネルの一部で、青い海までつながっている、という説がある。また、地下空間の延長線上と考えられる地点から、異界物が発見された、という伝説もある。
 どうであれ、調査は必要だ。
 蒸気レシプロエンジンが動力の機械式ホイールローダーを投入して、掘削を開始している。

 アークティカの平和は、最低三年は守り通さなければならない。赤い海の西に神聖マムルーク帝国がある限り、アークティカの恒久平和はあり得ない。だが、アークティカには帝国を消滅させるほどの国力はない。
 微妙なパワーバランスを保って、生き抜く以外ないのだ。
 そのためには、強力な軍事力が必要だ。総人口の八割から九割が失われたこの国ができることは、団結することと科学技術を発展させること。
 これしか生き残る術はない。

 私は次期戦争において、雌雄を決する鍵は通信技術だと確信していた。
 このことは、異界人である我々以外では、リシュリン、リケル、スコル、ジャベリン、フェイト、その他数人しか理解していない。マーリンやヴェルンドでさえ、よくわからないようだ。
 電灯が灯ったばかりのこの国で、真空管はおろか配線ケーブルさえない。どうやって無線通信を実現すればいいのか?
 私が密かに期待していたトルボルグ号の通信士は、何年も前に船を降りてしまったそうだ。トルボルグ号には無線を使えるものはいるが、無線の技術を知るものはいない。
 だが、トルボルグ号にはたくさんのパソコンとサーバーが積まれていて、船内にはLANケーブルが敷設されている。無線LANもある。
 これらの機材に触れたアークティカの人々から、少しずつだが通信の概念が醸成されつつあることも事実だ。
 何人かの若者が、私を訪ね「電気通信の基本を教えてほしい」と請われたが、私も知らないのだ。私が大学で学んだことは、機械工学であり、電気や電子ではない。

 よく晴れた秋風が心地よいある休日、トルボルグ号の便乗者であるリューリ・フィルップラが娘のティニアを連れて私の自宅を尋ねてきた。
 マーリンとリシュリン、ミーナとリリィが家におり、メグとボブ、ルキナが遊びに来ていた。
 トルボルグ号関係者以外で、リューリの言葉を解すものは、私とエミール医師しかいない。
 リューリはひどく緊張していたが、ティニアはすぐにミーナたちと遊び始めた。
 無邪気に遊ぶティニアを見詰めながら、リューリは話し始めた。
「私はこの世界の言葉がわかりません。でも、いつまでも船にいることもできません。
 私はトルボルグ号では役目が何もないのです。
 リューリを育てるためにも仕事を探さないと……」
 マーリンとリシュリンは、リューリが発する解せぬ言葉をじっと聞いていた。
 メグが唐突に英語で話し始めた。
「お前は、剣を振るえるか?
 銃はどうだ」
 私とリューリは驚いた。私が質する前に、リューリが尋ねた。
「あの、英語が話せるのですか?」
「当然だ。我が祖父母と父はアメリカ国の民であった。だから、家の中ではアメリカ国の言葉を使っていた。
 夫はジャパンという国の民だったそうだが、その国では幼き頃よりアメリカ国の言葉を教えるそうだ。
 夫は祖父と出会ったとき、アメリカ国の言葉で会話した。
 祖父はアメリカ国の西の果て、海の近くの街にいた頃、チャイナなる国の民を何度か見たことがあるそうだ。
 彼らは奇妙な文字を使うそうで、祖父はそのうちの一字だけは覚えた、と言っていた」
 メグはそう言ってからコップの水をテーブルに少しこぼし、〝酒〟に似た図形を描いた。
「この字は、ワインやビールを意味する文字だそうだ。夫から聞いた。
 我が夫がこの世界に迷い込みトラックの燃料を使い果たして、路傍で呆然としていたところ、偶然祖父と私が蒸気車で通りかかった。
 祖父が急に蒸気車を止めアメリカ国の言葉で、『あんたチャイニーズかね』と尋ねたのだ。
 我が夫は泣きそうな声で『ジャパニーズだ』と答えた。
 祖父は我が夫が乗っていたトラックの荷台に書かれていた〝酒〟の字を見て、声をかけたのだそうだ。
 祖父は相当な酒好きだったから、〝酒〟という文字を覚えていたのだろう。
 我が夫は剣と銃は全くダメであったが、化学の知識が豊富で、機械加工にも精通していた。
 リューリ殿は何が得意か?」
「私は大学を出た後、通信機器のメーカーに勤めていました。スマートホンという通信機器の開発をしていたんです。
 しばらく努めた後、大学に戻り研究をしていました」
 スマートホンという単語を聞いて、ミーナがリューリの前に私のガラケーを置いた。
 リューリはかなり驚いていた。
 私がリューリに尋ねた。
「我々は無線を作りたいと思っているのだが、真空管の作り方さえわからない。
 リューリさんは、その辺の知識はありますか?」
「真空管ですか。二〇世紀の初頭にフレミングが二極管を作ったとか歴史的なことくらいしか……。
 でも、トランジスタの作り方なら知っていますが。私の専門なので。
 ゲルマニウムラジオなら、時間をかけずに開発できるかもしれません」
「!」
 アークティカという国は、どれほど幸運なのか!
「リューリさん。
 この国には、電気や電子の技術はほとんどありません。
 配線ケーブルから作らなくてはならないのです。
 この状況から三年で、無線通信機を開発するだけでなく、一定数を配備し、実用化する必要に迫られています。
 困難であることは承知しています。
 でも、それができるのは貴女しかいない。
 引き受けていただけませんか?」
「ティニアと二人で生きていけるのなら、どんなことでもします」
 私はリシュリンに向かって、「リューリさんが無線機を開発してくださる」と伝えた。
 リシュリンは笑顔になり、「さっそくジャベリン殿に知らせなければ、私は明日、アレナスに向かう。
 スコルやチルルにも会わなければ!」

 リューリとティニアの母娘は、メグの家の向かいに住むことになった。
 リューリの職場は、当面の間、発電機工場の一角に設けることになった。

 私は、これからの三年、アークティカに穏やかな日々が続くよう、最大限の努力をする。だが、この穏やかな日々は熾烈な外交戦によって生み出され、いずれ平和の代価を血で購う時がやってくることを覚悟しなければならない。

 神聖マムルーク帝国初代皇帝タンムースは、自国民と周辺諸国に向けて声明を発した。「大国の意思に抗う小国は、神に刃を向けるごときこと。大国の意志に従わぬ小国は、神の裁きを受けるごとく、その罪を血で償うことになる」そうだ。

 私は、この大馬鹿者の横っ面を張り倒したくなってきた。
 だが、三年間は我慢しよう。
 アークティカの勝利のために。

第一部完
※第二部 同盟編に続きます。
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