アークティカの商人(AP版)

半道海豚

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第4章 内乱

第40話 トルボルグ号

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 話しは少し遡る。

 麦が実り、穂が頭を垂れる季節が近付いていた。
 スコルは、アリアンから厳命された季節より少し早いが、アークティカに戻る決意を固めていた。
 西方まで長駆の旅をして、神聖マムルーク帝国の首都も偵察した。
 各国の文物にも触れ、政情や人々の暮らしも調べた。
 白い海の南岸は物資が溢れ、人々の顔は明るい。だが、帝国の本拠地である北岸は、貧富の差が激しく、奴隷は酷使され、国は富んでも多くの民は極貧に苦しんでいる。
 白い海の南岸諸国・諸都市は、連携を欠き、その命運は帝国の意思次第に思えた。
 これらの報告を一刻も早く持ち帰りたいが、それ以上にアークティカに戻らなければならない理由があった。
 リケルが病気なのだ。
 微熱が続き、徐々に体力を失いつつある。まだ歩けるが、四、五日で寝たきりになりそうだ。
 街医者では原因がわからず、一刻も早くエミール医師に診て貰いたい。
 だが、この土地からアークティカまで、直線でも一八〇〇キロ離れている。簡単に戻れる距離ではない。

 ジャベリンは、今回の旅で一度も剣を抜かなかった。それは、リケルとスコルも同じだ。隠密に動き、不審な行動はせず、官憲の誰何〈すいか〉には一切抵抗しなかった。
 だが、リケルを大きな街の医師に診せれば、何かを感じて通報される恐れがある。
 この土地は、帝国の支配地なのだ。
 それでもジャベリンは、リケルを医師に診せたかった。

 三人は、白い海北西部沿岸の小さな街の小さな旅人宿にいた。
 この土地は最近まで、帝国の版図の外であったが、一年前に無血で組み入れられた。
 船を持つ漁民は脱出できたが、陸で生活する人々は帝国の領民となり、三分の一が奴隷となって他国に売られていった。

 白い海の北岸は、赤い海沿岸と比べて、蒸気車が少ない。馬車はあるが、馬の絶対数は多くない。
 スコルとジャベリンは、帰還のための車輌の入手を真剣に考え始めていた。
 彼らが泊まる宿はコテージ風の五棟の戸建てで、車庫はない。管理棟の若い夫婦がリケルを案じてくれていたが、彼らにはどうすることもできない。
 この夫婦は、三人の奴隷を買うように行政府から命じられていたが、その金を工面することができなかった。
 金が工面できなければ、彼らが奴隷にされる。それが、帝国の法だ。
 この夫婦の苦境は村人すべてが知っており、一〇日ほど前から逗留していたスコルたちの耳にも入っていた。
 ついに帝国の官憲が訪れ、一〇日以内に代金を用意しなければ、夫婦二人の身柄を拘束すると通達した。
 夫婦は、管理棟の前で通達を聞きながら抱き合って泣いた。
 妻は妊娠しており、彼らが奴隷になれば、彼らの子は生まれながらに奴隷となる。
 夫は妻だけでも逃がしたかった。

 その夜、夫はスコルたちが泊まっている棟を尋ねた。リケルは寝ている。
 かいつまんで、自分たちが奴隷になる事情を説明し、そして話を切り出した。
「もし、お連れを医者のところに連れていったら、妻を連れて逃げていただけますか?」
 スコルが問う。
「店主殿はどうされるのだ?」
「私は残ります。奴隷にされるか、妻を逃がした罪で殺されるか、どちらかはわかりませんが……」
「なぜ、残る」
「私も逃げれば山狩りが始まります。私が残れば、私から行方を聞き出そうとします。時間が稼げます。
 それに、生かされるにしても、殺されるにしても、どちらでも拷問されます。
 私の弱い心では、皆さんのことを話してしまうでしょう。
 そのときは嘘を言います」
「医者は腕はいいのか?」
「村の子が死の病にかかりましたが、助かっています」
「その医者はどこにいる」
「それは、誰も知りません。ですが、私には心当たりがあります」
 彼は、一年前まで船の病院が村の近くにいたことを告げた。
 帝国がこの地を征服すると、その船はどこかに消えたという。だが、遠くへは行けないらしく、ある場所に隠れたらしい。
 宿の店主は、魚を捕りに深い入り江に小舟で入ったところ、その船を見つけたという。

 確実性のない話だが、スコルとジャベリンは信じてみることにした。
 スコルは宿の店主に同意したと言ったが、彼を置いていくつもりはさらさらなかった。
 店主が去った後、ジャベリンが「いよいよ剣を振るうときが来たようですね」と言った。
 スコルは「そうならないようにしますが、どうでしょうね」と応じた。
 店主は妻を伴いスコルたちの部屋を再度訪れた。
 リケルは起きており、真夏というのに厚着をしている。ジャベリンが自分の荷を背負い、リケルの荷物を手に持っている。スコルがリケルを支えている。

 店主は村人の目を避けて、村を大きく迂回して徒歩で海岸に出た。船が一隻もない漁港の外れに小さなヨットが係留されている。五人も乗れるような船ではないが、沖には出ないという説明を信じて乗り込んだ。
 ヨットは帆を使わず、オールで進んだ。
 入口の狭い入り江があり、その中に入るとやや広くなり、内陸に向かって深く切れ込んでいる。まるで、川のようだ。
 三〇分以上漕いでいくと、周囲は断崖になった。
 その場で日の出を待つ。
 日が昇り、周囲に光が差すと、両岸は一〇〇メートルに達する断崖、水深はかなり深いらしく透明度が高いのに海底がまったく見えない。
 また、岸には樹木が生い茂っている。
 日の出とともに、再び船を先に進める。
 しばらくして、宿の店主が指さす方向を見ると、船体に錆が出ている白と赤に塗り分けられた大きな船が、隠されるように絶壁の隙間に停泊している。
 その船に向かってゆっくりと漕いでいくと、船上に手に武器を持った人影が現れた。
 その武器は棒きれや斧で、とても戦い慣れした人々には見えない。
 それに、船は鋼鉄船で見たことのない形をしている。
 リケルは朦朧とした意識の中で、異界物かもしれない、と感じた。それは、スコルとジャベリンも同じだった。
 スコルとジャベリンは、剣を腰から外し船上に置いた。船底の木板に座ったまま、両手を挙げた。リケルを店主の妻が支えている。
 スコルが「病人がいます。どうか診てください!」と接舷の瞬間に問いかけた。
 店主が「この船の人たちは、言葉がわかりません」とスコルに言った。
 スコルは、異界人だと確信した。
 突如ジャベリンが「アルゼンチン、ドイッチェラント、ジャパン、シップ、エンジン、ガソリン、プレーン」と叫び始めた。
 彼が知っているすべての異界の単語を並べたのだ。
 ジャベリンの単語は、最初、相手は理解しなかった。だが、ジャベリンの気持ちは、やがて相手に届いた。
 船上の人々は、明らかに動揺している。
 船の左舷船首側には大きな跳ね上げ扉があり、そこが開いて、縄梯子が降ろされた。
 リケルは自力で登れず、まずジャベリンが、次に店主の妻、そして店主、最後にリケルを背負ったスコルが登った。
 跳ね上げ扉はすぐに閉められ、ヨットは船に係留された。
 変色した白衣の医師らしい男が、スコルが背負うリケルの目を見て、連れてくるように手招きした。
 スコルはリケルから預かっていたスマートホンをジャベリンに渡す。
 スマホを見た船員が驚いた様子で、何かを言っているがジャベリンには意味がわからない。
 店主夫婦は抱き合い、かなり怯えている。
 ジャベリンはスマホを必死で操作し、私の英語のメッセージビデオを再生した。
「この映像をご覧の方にお願いします。
 私は、二〇一三年の日本からこの世界に来たシュンと言います。
 もし、私の言葉が理解できたら、このスマートフォンを持つ私の同胞〈どうほう〉に力を貸してください。
 私はアークティカという国にいます」
 ジャベリンは、全員が理解したわけではないようだが、様子から推察して少なくとも五人は完全に私のメッセージを理解したと思った。
 大柄の筋肉質な体躯の持ち主が、ジャベリンの肩をポンと叩いた。

 リケルは出航前よりも、明らかに容態が悪化していた。
 ベッドに寝かされると、すぐに薬が打たれた。
 スコルが「モルヒネ」というと、医師は驚いた様子で手を左右に振った。
 スコルは違うという意味だと感じた。
 彼は心配のあまり、少し狼狽している。医師に「ペニシリン」というと、さらに驚かれ、「ペニシリン」と言って手で×を作り、手を握って力こぶを見せた。
 スコルは、ペニシリンよりも強力な薬だと伝えようとしていると感じた。

 ジャベリンは、店主夫婦と引き離された。だが、二人に危害が加えられることはないだろう。
 魚の形をした大きなテーブルと椅子がある小さな部屋で、何人かの乗組員に囲まれている。
 地図を描き、現在位置とアークティカの場所を指し示した。白い海の出口とアークティカとの距離は、二〇〇〇キロと聞いていたので、地図に「2000km」と書いた。
 そこにいる人々がざわついた。
 ジャベリンが渡したスマホは、彼の眼前で徹底的に調べられている。
 ジャベリンは、彼の妻の父親がこの世界にやって来たときも、必死で自分の意思を伝えようとしたのだろうと思うと、亡き義父に対する気持ちがこみ上げてきた。
 どうやったら、自分の伝えたいことが、伝わるのか知りたかった。
 そして、彼の必死さは、唐突にあることに思い至った。
 無線だ。これほど大きな異界船なら無線があるはずだ。
 ジャベリンは、無線での交信のまねをした。そして、「ラジオ」と言った。
 通じた。
 船長らしい男が、ジャベリンを船橋に連れて行った。
 船内は灯りが消え、非常に暗かった。必要最小限の電力で、船は維持されているようだ。無線も通電していなかったが、バッテリーから電力が供給され、機能を回復する。
 ジャベリンが「ショートウエーブ」と言うと、船長は短波に切り替えた。
 決められた周波数で、アークティカを呼び出す。

 短波無線機は、イファの飛行場とアレナスの造船所にある。
 どちらかが応答してくれれば、エミール医師に話をして貰うつもりだ。
「アレナス、イファ、どちらでもいい応答してくれ。
 こちらジャベリン」
 ジャベリンが何度も呼びかけるが、応答がない。それでも呼び続けた。
 船長たちがじっと見ている。
 応答は意外な人物からあった。
「ジャベリン司令官?
 え、ジャベリン様ですか?
 こちらキッカ。午前の訓練飛行中です」
 応答があり、船長たちがざわつく。
「キッカか。
 よかった。
 リケルが病気で、異界物らしい船で治療を受けている。
 船の連中はまったく言葉が通じない。
 エミール先生に、船の連中と話をして貰ってくれ。
 了解。これより帰投し、エミール先生に通信をお願いします。
 今日の一二時にこちらから、この周波数で呼びかけます」
「了解した。以上」
「通信終わり」

 船の中は大騒ぎになった。この世界の人間が無線を使い、応答があったのだ。

 リケルは眠り続け、スコルとジャベリンは、厳しく監視されている。
 この船の乗員は二〇~二五人程度らしく、銃器の類いは持っていない。
 スコルとジャベリンの二人で、十分に制圧できるが、それをするつもりはない。彼らはヨットに剣を残置していたが、膂力で十分に対応できる相手だ。

 この船に乗る者すべてにとって、一二時までの四時間は非常に長く感じられた。
 船橋で無線を待っていると、一二時ちょうどにキッカが呼びかけてきた。
「ジャベリン様、応答してください。
 キッカです」
 船長がジャベリンにマイクを渡す。
「ジャベリンだ」
 すると別な声が応答した。
「おい、ジャベリン、リケルは無事か!」
「フェイトか。リケルは寝ている。容体はわからぬ。
 先生に代わってくれ」
 ジャベリンは、エミールに状況を説明した。また、リケルの状態が不明であることも伝えた。
 そして、マイクを船長に渡す。
「巡回病院船トルボルグ号船長のカール・ビルトだ」
「アレナスという街で医師をしているエミールです」
 二人は英語で話し始めたが、エミールはすでにドイツ語でさえ滅多に使わない。
 エミールは、まず自分の話をした。
「私は一九四三年にこの世界に来ました。一〇年以上前のことです。
 英語は苦手で、母国語のドイツ語さえ滅多に使いません。
 ゆっくりと話してください」
「ここは、どういう世界なんですか?」
「はっきりしませんが、日本人のシュンは未来ではないか、と考えているようです」
「タイムトラベルしたというのか!
 バカな」
「空腹を感じ、銃で撃たれれば死にます。
 どうであれ、現実です。
 受け入れてください。
 さもなくば死にます」
「……」
「船長は、いつの時代からこちらへ」
「二〇二一年の冬、三年前に……」
「患者の容体は?」
「こっちの医者に代わる」
 少し間が開く。
「医師のハインツ・ファイマンだ。
 オーストリア人、ドイツ語が話せる」
「よかった。英語は不得手で」
 エミールはドイツ語に変えた。
「リケルの容体は?」
「感染症だ。細菌性かウイルス性かはわからないが、抗生剤を投与したので回復してくると思うが、いい状態ではない」
「リケルはアークティカという国の指導者で、絶対に失ってはならない重要人物です。
 どうか助けてください」
「あの、ペニシリンやモルヒネを持っているのですか」
「えぇ、少量ですが製造しています」
 船長が耐えきれなくなったようで、ファイマン医師と代わった。
「エミール先生。
 そちらには日本人もいるのですか」
「はい、いまは不在ですが。
 二〇一三年のトーキョーから来たそうです」
「貴方たちは、そこで何を……」
「この地で普通に生活しています」

 その後、延々と両者の会話があり、話題はこの世界の情勢にも及んだ。
 船長は最後に「我々はどうしたら……」と尋ねた。
 エミールは率直に「医師不足でね。ファイマン先生に協力していただけると助かります」と答えた。
 船長は、乗組員全員と相談した上で決めるとして、明日同時刻の通信を希望した。
 最後にジャベリンとエミールが交信し、異界船側の状況とリケルの容体を伝えた。

 翌日一二時、最初に船長がエミールに伝えたことは、トルボルグ号乗組員全員の総意として、アークティカに一時身を寄せることに決定したというものだった。
 しかし、航海距離が二〇〇〇キロに達すること、燃料が乏しいことが問題だ。
 ただ、二〇〇〇キロならば、何とか到達できるという。
 エミールからは、白い海の南岸を東に向かえば、総じて安全であることが伝えられた。

 巡回病院船トルボルグ号は、その夜、抜錨し、密かに白い海の南岸を目指した。

 春小麦の収穫が始まる九月初旬。
 私とカラカンダは、そんな季節のアークティカに戻ってきた。
 マルマ一帯の麦畑は、神聖マムルーク帝国との戦闘で荒らされてしまい、ルドゥ川以北の穀倉地帯はローリア軍の進駐で手入れが行き届いてはいなかったが、それでもアークティカの必要量は最低限確保できそうだ。
 ただ、少しは期待していた、小麦の輸出再開は無理な状況だ。
 我々は、戦争は国を疲弊させる、という現実を突きつけられていた。

 私がリケルを見舞ったとき、トルボルグ号はイファの桟橋に係留されていた。
 その船体は全長九一メートル、全幅一四メートル、一九一二総トンのフェリーであった。
 この世界では巨船であるが、全長一〇〇メートルに達する貨物船や軍艦は存在する。船形は変わっているが、この世界における驚異の巨船ではない。
 実際、私がイファの桟橋に行ったとき、蒸気車を積み込み中のウルリアの二〇〇〇トン級貨物船が入港していた。
 そのような事情もあって、トルボルグ号は意外なほど注目を集めてはいなかった。
 唯一、シビルスとアレナス造船所が執拗な興味を示し、その勢いを逃れてイファに寄港していたようだ。
 シビルスは、ようやく軍用蒸気タービン艇の試作建造に取りかかったばかりなのに、船舶ディーゼルにも触手を伸ばしているようだ。

 トルボルグ号は、バルト海、北海、ノルウェー海沿岸の僻地を巡回し、医療活動を行っていた病院船であった。アイスランドやグリーンランド、果てはデービス海峡を渡ってカナダまで出向くこともあった。
 船員、医療関係の乗組員を合わせて、通常は一二〇人以上が乗り込んでいた。

 トルボルグ号がこの世界にやってきたとき、定期点検のためにフィンランドのヘルシンキからドイツのキールに向けて航海中で、医療従事者はほとんど乗船していなかった。
 医師は四人いたが、内一人はキールまでの便乗者で、看護師二人、検査技師二人の計八人以外は、すべて船員であった。もちろん、患者は一人もいない。
 この船は、フェリーとして建造されたが、新造時から病院船として運用されてきた。この世界にやってきたときの船齢は五年。
 設備は最新で、診療科目は一通り揃っており、外科は手術も可能。
 車輌デッキは一層で、大型トラックなら二一輌、乗用車なら六〇輌を搭載できる。
 もちろん、フェリーとしては運用されていないので、車輌デッキには少数のクルマが積まれているだけだった。
 ベンツの大型救急車、フォルクスワーゲンのワンボックス、トヨタの大型四駆、ベンツのマイクロバス、BMWのミニ・カントリーマン、二トンのパネルトラックが各一輌。
 ここまでは、まぁ想像の範囲だったが、イギリス製のアルビスFV4333ストーマー装甲車とMD500ヘリコプターには驚かされた。
 ストーマー装甲車は救急車に改造されており、全長五・二七メートル、全幅二・七六メートルで、小型の装甲兵員輸送車を改造した全装軌式の救急車になっている。泥濘の悪路や極寒期に内陸に向かう際に使用していたそうだ。
 MD500は、OH‐6カイユース軍用偵察ヘリの民間型だ。
 トルボルグ号にはヘリパッドはなく、ヘリコプターを運用する能力はない。このヘリは、彼らの活動拠点で使用していた機体で、船と同様に整備のために輸送中であった。

 トルボルグ号がバルト海を航行中、突如この世界にやってきたとき、この船には五〇数人が乗り込んでいた。
 二五人は船員、残りは医療関係と便乗者であった。
 彼らがこの世界にやってきたとき、私と同様に元の世界に戻れるのではないか、あるいは戻ろうと考えた。
 私はたった一人で、日々を生きることに必死であったが、彼らは大人数であるがために、意思の決定が簡単ではなかった。
 元の世界に戻ることを諦めた人たちから、この船を離れていき、新たな環境に飛び込んでいった。
 そして、三年の歳月が過ぎ、船には二二人が残った。
 だが、一年ほど前に彼らが拠点としていた白い海西岸が帝国の支配下に入り、状況が一変する。
 彼らは状況が理解できないまま、逃げ遅れ、また、戻りたい一心から、この世界にやってきた位置から離れることができず、深い入り江に隠れることにした。
 だが、それも限界に達していた。食糧は尽きかけており、船の状態は日々悪化していく。
 当然、動けるうちに動きたい、と考えるグループと、もう少し待てば戻れるかもしれない、と考えるグループに分かれて、空虚な論争が続いていた。
 そこに、リケル、スコル、ジャベリンがやってきた。
 三人がもたらした情報は、船長以下二二人の人々にとって、この世界で得た初めての具体的な判断材料となった。
 そして、とりあえずアークティカにやってくることにしたのだった。

 これが、私とカール・ビルト船長との会話の要点である。

 私からトルボルグ号の人々に伝えたことは主に、この世界は平和ではないこと、人の生命の価値が軽いこと、そして生きた人間には商品価値があること、の三点だ。
 アークティカという国の悲しい出来事を話すと、何人かが涙した。
 そして、私がこの戦争の引き金を引いた張本人であることを告げると、一様に驚いた様子であった。
 また、トルボルグ号および乗船している人々全員は、一切の拘束は受けず、自由であることを保証した。

 トルボルグ号の人々は、約二週間、徹底的に話し合い、結論を出した。
 トルボルグ号の修理と整備をアレナス造船所に依頼し、その対価として高速搭載艇一隻を無償譲渡する。この提案に対して、アレナス造船所が同意する。
 修理と整備を終えたトルボルグ号は、アレナスを拠点に海上輸送の業務に就く。これには、ネストルとミクリンが鬼気迫る形相で争奪戦を演じている。航海船速一八ノットの大型高速貨物船が手に入るかどうかは、会社の命運を左右するのだ。
 医療関係者は、医療機材とともに船を降り、陸上に病院を開設する。この病院の立地には、アレナス、イファのほかにマルマも立候補し、誘致合戦となった。
 MD500ヘリコプターは、パイロットとともにメハナト航空隊に所属する。機体自体は、トルボルグ号に帰属し、メハナト航空隊は使用料を支払う。
 ストーマー装甲車は、医療機材等を取り外した後、車輌本体のみをイファの蒸気車工場に売却する。代価はエリス金貨五〇〇〇枚とする。
 これだけの資金があれば、トルボルグ号の乗員乗客たちが、この世界で飢えることは当面ない。

 トルボルグ号には、船員でも、医療関係でもない便乗者が二人いた。
 二人は親子で、ヘルシンキからキールまでの船旅を楽しむはずだった。母親は二〇歳代のフィンランド人で工学を学ぶ学生だったという。子供は四歳になったばかりの女の子。
 二人はトルボルグ号の関係者の家族だが、この船での役割はなかった。
 二人は、言葉さえ解せぬこの世界で、生きていく術を見つけなければならない。
                                 
 異界船とその乗組員の行く末がほぼ決まりかけていたある日、ミーナはリリィとルキナを伴って、トルボルグ号へ探検に行った。
 目的は、彼女たちの宝物を探すためだ。
 トルボルグ号の船員たちは、小さなお客さんの来訪に戸惑ったらしい。
 また、単に好奇心から船内を見たがっているのだろうと推察した。船長は寛容な心で、この三人の強欲な女の子を船に招き入れた。

 三人にとって、トルボルグ号の船内は、宝物の宝庫だった。
 わずか二〇〇〇トン級の船だが、売店やキッズルーム、自動販売機など、とにかく面白いものがたくさんある。
 売店には子供向けのぬいぐるみが並べられていて、少々の文具もあった。二四色の色鉛筆を見つけて、彼女たちは大騒ぎしたらしい。
 キッズルームではアニメを少しだけ見せてもらい、大興奮になった。
 ここまでは、「楽しかったね」ですむのだが、ここから先が私の災厄となった。
 ミーナたちは、ボブの自転車がうらやましくて仕方なかった。ミーナたちばかりでなく、ボブと同年齢の子供たちは、ボブが自転車を疾走させていると、かなえられぬ望みであると知っていて、それでも自転車を欲しがった。 私は、ミーナたちの「自転車がほしい」攻撃を「まだ小さいから乗れないでしょ」でかわしていた。

 トルボルグ号には、リューリ・フィルップラとその子ティニアが乗っていた。
 母子はこの三年、ただじっと元の世界に戻ることだけを願って生きてきた。乗組員は優しかったが、ただの便乗者であった彼女たちに居場所はなかった。
 また、彼女たちができることもなかった。
 リューリは進退窮まっていた。乳飲み子だった娘は、もうすぐ四歳になるが、同年齢の子供と遊ぶことさえできず、一日の大半を母親だけと過ごす生活は、あまりにも異常であった。
 ミーナたちが車輌デッキに行くと、そこにリューリとティニアがいた。
 リューリはミーナたちを見て驚いた。そして、一切の躊躇いなく、ミーナたちがティリアに近付いて行く様子が、新鮮で恐ろしくもあった。
 四人はティニアが持っていたボールで遊び始め、互いに言葉を解さぬのに、なぜか会話が成立していた。
 そして、ティニアは、唐突に小さな幼児用の自転車に跨がり、乗って見せた。そのあとを、大喜びで三人が追いかけた。
 ティニアは三人が船を降りるとき、泣いた。リューリに「あの子たちともう会えないの?」と言って、困らせた。母親は、三人がどこから来たのか知らないのだ。

 リューリも困ったろうが、私も困った。
 小さい子は自転車に乗れない、というロジックが崩れ、ミーナたちに「自転車作って」の大攻撃を受け始めたのだ。
 根負けして、イファの蒸気車工場の若い技師に「子供用の自転車、作ってくれないかなぁ」と相談すると、二つ返事で引き受けてくれた。
 彼は一週間で、最初の自転車を作った。車輪はソリッドゴムで、それ以外は私がよく知る自転車と一切遜色なかった。
 ただ、私は「子供用」を頼んだのだが、明らかに「大人用」で、この技師が自分のために作ったのだ。
 この技師は自転車を引いてトルボルグ号に出向き、ティニアの自転車を見せてくれるように頼んだ。
 対応した船員は何を勘違いしたのか、技師にマウンテンバイクを見せた。
 この技師が見た二台目の自転車は、彼に鮮烈な印象を植え付けた。
 彼は本来の目的であるティニアの自転車を見て、それを正確に採寸した後、大急ぎで子供用自転車、大型と小型の計一〇台を作った。
 原色に近い塗装を施された美しい自転車は、児童館に納められ、子供たちが交代で使っていいことになった。
 乗り方は、ボブがコーチを努めた。
 以後、この技師は自転車を作り続け、アークティカの大人で最初に自転車に乗れた人物になった。
 不思議なもので、一人が乗れると次々に後続者が現れ、自転車はちょっとしたブームになる。だが、子供の玩具の域を脱し、手軽な移動手段として認知されるようになるまでには、もう少しの時間が必要であった。

 イファの蒸気車工場の技術者たちに最も衝撃を与えたのは、BMWミニのSUVであるカントリーマンだ。
 この〝田舎者〟と名付けられたSUVは、日本ではクロスオーバーと呼ばれていた。
 二〇一七年製、排気量一五九八CC、一二二馬力、フルタイム四駆、四ドアでリアドアが観音開きの車体は、上質で無駄な装飾がなく、コンパクトでありながら広い室内空間を確保し、非常にグラマラスだ。
 毎日毎日、トラックやら戦車やらを作らされていたイファのクルマ鍛冶たちは、カントリーマンを見て、不満とやる気が同時に爆発した。
 我々には、地下空間の異界物でまったくの手つかずが残っていた。
 ボルボP210デュエットである。
 この一九五〇年代に作られたフレームシャーシ構造の三ドア商用バンを再生しようという機運が急速に盛り上がっていく。
 このクルマのボディは、原形をとどめてはいるが、損傷が大きく再生できる状態ではない。
 だが、排気量一七七八CCのOHVエンジンはレストアされ、可動状態にあったし、トランスミッションやドライブシャフトは取り外して保管してある。また、シャーシとサスペンション系は車体から分離して、こちらも丁寧に扱われている。
 ボディとシート類は再生の見込みがなく、廃棄の予定だが、ステアリングホイールやメーター類はきれいに取り外して保管してある。
 ボルボP210のエンジンは、我々のガソリン自動車開発において、きわめて重要な役割を果たしていた。
 ガソリンエンジンは、吸排気バルブの配置によって性能に大きな差がある。またバルブ配置の進化は、エンジンの進化でもある。
 M3装甲車のエンジン、ホワイト160AXは、六気筒六三三〇CCのSV(サイドバルブ)で、フォードV3000SマウルティアはV型八気筒三九一六CCのSVを搭載している。
 M3装甲車のエンジンは一四七馬力、マウルティアは九五馬力を発揮する。
 メグの日野デュトロのエンジンはディーゼルで、燃料噴射ポンプを開発しなければならないことから、技術レベルが高すぎて参考にはできない。
 アークティカの技術で、火急の用に使えそうなのは第二次大戦期のガソリン車だけだ。
 だが、一九五〇年代に使われていたボルボP210は、技術的に高すぎず、特にエンジンは参考になった。
 我々は、ボルボP210が搭載している四気筒一七七八CCのOHV(オーバーヘッドバルブ)B18型エンジンを参考に、ホワイト160AXエンジンをOHV化することで、エンジンの基本性能を大幅に引き上げることに成功した。
 また、バルブ配置に関しては、ヤマハXV1100の空冷V型二気筒OHVエンジンも大いに参考になった。
 だが、B18エンジン自体は利用の予定がない。
 我々は、トラックをほぼ手作りで開発・製造するだけで精一杯で、乗用車の生産など考えられなかったのだ。

 そこにミニが現れた。その車を見た瞬間、イファの誰もが憧れた。
 技術者たちの欲求を満たすため、私は決断した。小型・軽量の軍用連絡車を開発することを……。
 初期のデザインスケッチは、オープンにした三代目ダットサントラックに似ているが、今後どうなることやら……。

 ヴェルンドが最も注目した積荷が、ストーマー装甲車だ。
 我々にとって、戦車の開発は絶対になし遂げなければならないテーマである。軍事的に圧倒的な優位に立つ帝国に対して、無勢のアークティカが生き残るには、戦車と飛行機が絶対に必要なのだ。
 戦車の開発において、我々には三つの壁があった。一つ目は備砲。二つ目は砲塔。三つ目が操向装置だ。
 備砲と砲塔は、マルマからの技術供与で、何とかなる。
 問題は操向装置で、トランスミッション、クラッチ、デファレンシャルギアで構成するクラッチアンドブレーキ機構の試作までは完成していたのだが、左右の制動レバーと左右の操向レバーの四本レバーによる操縦が煩雑で、そのレイアウトに苦心していた。
 ストーマー装甲車の二本操縦レバーは、より優れた操縦機構の開発の参考になりそうであった。
 また、FV4333はFV101スコーピオン軽戦車やFV107シミター装甲偵察車といった砲塔を搭載したシリーズを大型化した派生型だ。
 使用できるガソリンエンジンの最大出力が六気筒一五〇馬力級であることから、このストーマー装甲車のメカニカルレイアウトを基に、マルマ製ダイムラー装甲車の砲塔を搭載する軽快な八トン級軽戦車を開発するほうが合理的だという意見がイファの技術者集団の大勢を占めた。
 また、現在開発中の二五トン級主力戦車には、七五ミリ野砲級の主砲が必要で、そのためには三〇〇馬力級のエンジンが必須であることも確認している。
 この三〇〇馬力級エンジンとして、ミランたちが持ち帰ったビーチクラフト・ボナンザA36のテレダイン・コンチネンタル製空冷水平対向六気筒エンジンのコピー生産が計画されている。
 この排気量八五一〇CC・OHC(オーバーヘッドカムシャフト)エンジンは、アークティカの技術でも何とか作れそうなメカニズムだ。
 イファの技術者たちは、アレナス造船所がこのエンジンを分解する際に立ち会い、リバースエンジニアリングを目的とした精密採寸の了解を得ている。
 なお、アレナス造船所では、WACO複葉機の星型空冷七気筒とフォッカー戦闘機の星型空冷九気筒エンジンのリバースエンジニアリングによる開発に着手しており、彼らが近い将来、航空機の量産を企図していることは明白である。
 もし、我々が実用的な戦車を開発し、アレナス造船所が航空機の開発に成功すれば、帝国と戦っても簡単には負けない。

 イファの飛行場には、突貫工事で作った鉄筋コンクリート製の格納庫が二棟あった。WACO複葉機とフォッカー戦闘機を納めるためだ。
 もう一棟をまたもや突貫工事で作っている。この格納庫は、MD500ヘリコプター用だ。
 MD500は、卵形の機体形状からフライングエッグと渾名され、軍用としても多くの国で運用された傑作小型ヘリコプターだ。
 決して新しい機体ではないが、我々にとっては貴重な空飛ぶ機械だ。
 パイロットは、パウリ・ノールというエストニア人で軍歴もあるという。タリン出身で陽気な四〇歳少し前の男だ。
 イファの滑走路で、ローターブレードを展張すると、飛行場勤務のほぼ全員が、興味津々で見物に集まる。
 フェイトとキッカは、三人目のパイロットに盛んに話しかけるが、言葉が通じず相当にイライラしていた。
 パウリ・ノールもWACO複葉機とフォッカー戦闘機に大変驚き、言葉は解せなくても同じパイロットであるフェイトとキッカに近親感を持ったようだ。

 イファには一四人のパイロット候補生がいた。一〇人は軍から派遣され、四人はイファの民間人、つまりメハナト穀物商会の社員だ。
 一四人は、WACO複葉機による操縦訓練を受けており、少しずつ飛行に慣れている状況であった。
 そこに、奇妙な形の翼のない飛行機が現れたのだから、大騒ぎになった。軍からも調査員が派遣され、事情聴取が行われた。
 私が対応したのだが、この際に私が「飛行機はもう一機あります。ラシュットから回収した機体で、行政府も知っています。この機体は、アレナス造船所で再生・修理中です」と伝えた。
 調査員は大変驚き、「軍の高官は知っているのですか?」と尋ねたので、「たぶん。少なくとも軍最高司令官である行政長官チルル様と国防長官であるアリアン様はご存じです。私が報告しましたから」と答えた。
 すると調査員は、「すると、知らないのは制服組だけということですか!」と言って、少し怒ったような表情になった。
 しかし、「でも、飛行機が四機もあったら、帝国と戦っても圧勝でしょう」と嬉しそうな表情になり、次に「でも、四機だけなんですよね」と言って不安そうな面持ちに変わった。
 彼の気持ちは、アークティカ人すべてが感じていることだ。

 MD500は、パウリ・ノールが軍用機名であるカイユースと呼んでいたことから、この名で呼ばれることになった。
 カイユースの機関は、ガスタービンだ。燃料にはケロシンを使う。ケロシンの成分はほぼ灯油と一緒だ。ケロンは、灯油に似た性質を持つ植物由来の燃料だ。
 だが、ケロンがケロシンと同じとは限らない。
 ケロンを使って、貴重なカイユースの機関を壊してしまっては元も子もない。
 私とパウリ・ノールとで話し合い、とりあえずケロンを入れて、アリソンのターボシャフトエンジンを動かしてみることにした。
 ガスタービンの燃料は基本、何でもいいのだ。日本初のジェット機である菊花は、松の根から採取した松根油で初飛行を成功させている。
 ケロンは松根油よりはずっとましな燃料だろうから、大丈夫だろう。
 飛行場の面々、軍の調査員、フェイトとキッカが見守る中で、カイユースに燃料が注がれた。
 そして、パウリ・ノールは、我々が可能な限りの整備を施したカイユースのスターターを作動させた。ローターブレードがゆっくりと回転し、エンジンはキーンというターボ機械独特の高周波音を轟かせて三年の眠りから覚めて始動する。
 その後、いろいろと検討して、ガソリン性質であるソラトを一〇パーセントほど混ぜて使うことにした。
 結局、この日は飛行しなかったが、そう遠くないうちに飛行することになるだろう。

 マルマは、戦争の混乱から完全には回復していない。多くの負傷者がおり、大量に医師や看護師が必要だ。
 エミールは装甲部隊の指揮官から、本職である医師に戻り、マルマでの医療のために四〇〇キロの道のりを何度も往復していた。
 その影響はアレナスにも及び、エミールの穴を埋めたのがトルボルグ号のハインツ・ファイマン医師だった。
 患者との意思の疎通は身振り手振りだが、彼がいなければアレナスの医療は停滞してしまうところだった。
 また、彼以外の三人の医師は、救急車とワンボックス車、そして大型四輪駆動車の三輌でマルマに向かってくれた。
 マルマでは市街戦が展開されたことから、軍人と街人に多くの負傷者がいた。

 この頃からチルルは、「アークティカには、新しい中央政府が必要だ」と説き始める。
 我々も同意だが、いまはまだそれができる状況ではない。
 アークティカは、いまだ混乱の坩堝の中にあった。
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