アークティカの商人(AP版)

半道海豚

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第3章 奪還

第24話 防衛態勢 

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 リケルとスコルは、目の前の六〇型液晶モニターに映し出されている画像に背筋が凍る恐怖を感じていた。

 現在の状況に至ったそもそもの始まりは、私が作った発電機にある。
 地下空間内部を照らすため、また日没後でも作業ができるようにするため、ボルボP210に積んであったダイナモ(直流発電機)をモデルに、定格電力二キロワット程度の直流発電機を作った。発電機は、永久磁石とコイルさえあれば作れるので、原理さえ知っていれば製作は難しくない。

 開発が大変だったのは白熱電球で、フィラメントとなるタングステンの確保と電球内に封入するアルゴンガスの調達だった。
 結局アルゴンは入手できず窒素で代用した。ごく初歩的な電灯なのだが、地下空間で働く人々はその明るさに感動していた。動力は、ヤマハXV1100の空冷エンジンを使用した。
 同じ発電機は他に二台作り、一台はコルカ村のマーリン邸敷地内にある水車に接続した。
 この水車は製粉に使われていたもので、小型だが回転が速かった。また、水源は湧水で、水量の増減が少ない。
 私が調べたときは停止していたが、破損はなかった。ここに発電機を置き、賓館との間に電線を張り照明に使った。
 このころ、賓館にはコルカ村在住の子供たちが集うようになっていて、昼間はちょっとした児童館だった。
 夜遅くまで明るい賓館は、親を亡くした子供たちにとって、寂しさを紛らわす憩いの場であったようだ。
 この照明の噂はルカナの街中にあっという間に広まり、当然、リケルやスコルの耳にも入る。
 もう一台の発電機は予備であったが、これを庁舎に供出するよう要求され、ぐっと堪えて無償供与に同意した。
 庁舎での駆動は、蒸気機関を使用した。
 私が作った発電機は、原理は旧式自動車の旧式発電機そのもので、直流を発生する。発生した電力は変圧器によって電圧を整え、照明に使用できるようにしている。
 電気の質がよくないので、照明以外には使えない。
 ノートパソコン、タブレットPC、スマホ、ケータイ、デジカメへの充電は、クルーザーから取り外した太陽光発電システムを使っている。
 私は、トーマス・エジソンが実用化した電球内にガスを封入しない真空電球が誕生したときの人々の感動を、実体験していた。
 人は灯りにこれほどまでの感動を受けるのだという、驚きを感じていた。
 哺乳類は、恐竜とほぼ同時期に地球に姿を現した。恐竜は昼を生き、哺乳動物は恐竜が活動する昼を避けて夜行性になった。
 その代償として、哺乳類の視覚は退化した。爬虫類や鳥類は四色の色覚を持つが、哺乳動物は通常二色の色覚しかない。霊長類だけは例外で、三色の色覚を持つ。
 我々の遺伝子の中に、太陽の下で生きたかったという渇望のようなものが埋め込まれているのかもしれない。
 白熱電球の明るさに感動する人々を見ていて、人間の遺伝子の根源を見た思いがした。

 クルーザーから外した一〇個のバッテリーから得た電力で、六〇型の液晶モニターにヌールドの丘の航空写真が映し出されている。
 WACO複葉機が撮影してきたものだ。フェイトが操縦し、キッカが撮影した。
 上空八〇〇メートルから地上を撮影した画像だ。
 キッカは、デジカメを手持ちで撮影し、地上の詳細を鮮明にとらえてきた。
 五〇~五〇〇ミリの望遠ズームレンズに二倍のテレコンバータを取り付け、最大焦点距離一〇〇〇ミリとし、カメラの撮像素子がAPS‐Cなので、その一・五倍、つまり一五〇〇ミリの焦点レンズ相当で撮影したものだ。
 手ぶれ補正が極めて良好で、画像にぶれがない。
 リケルが「このような恐ろしい兵器をもし敵が持っていたら……」と言うと、スコルが「まったく……」と同意すると同時に絶句した。
 ジャベリンの反応は少し異なり、「このあたりの防御が少し弱そうだ」と画像の分析を始めた。
 そして、「シュン様、以前お目にかかっておりますが、私をお忘れですか」と問われた。
 私はジャベリンと会ったことがあるようには感じなかった。
 ジャベリンは私の様子を見て、「お忘れとはつれない。貴方を頼って、アークティカまで来たのに!」といって大笑いをする。
「岩山の石小屋の前で、ビールを馳走になりました。あのビールは美味かった!
 あんなに美味いビールは飲んだことはない。あのビールを飲みたい一心で、アークティカまで来てしまいました!」
 私は思い出した。若い領主と一緒にいた護衛の熊のような体格の騎士だ。
 私は驚いたが口から出た言葉は、目の前の男のことではなかった。
「あの若い領主はどうしました。貴方がここにいるということは……」
「心配無用です。元領主陛下、私の義弟ですが、も一緒です。一族総出で逃げてきました」といって大笑いする。
 豪快な笑い声が、白熱電球の暖かい光を揺らしているように感じる。
 そして、唐突に真顔になり「その節は失礼申し上げました。あれ以後のことはいずれまたの機会に。
 いまは、帝国の奴らに一泡吹かせてやりましょう」と言って話題を変える。
「味方の陣容が、これほどまでに鮮明にわかるということは敵の陣容も写せますね?」
 スコルは思い至ったようで、「そうか、偵察に使えるんだ!」と言いながら、自分の発想力の貧弱さを嘆くような表情を見せる。
 私は「WACO複葉機は、航続距離八〇〇キロ、つまり蒸気車の駅数でいえば一五~一六駅分の距離を飛ぶことができる。
 往復を考慮して、余裕を持たせても四~六駅分が行動距離になる。
 アークティカの南の国境から北の国境まで、沿岸部の直線距離は約二三〇キロ、駅数ならば四~五程度だ。
 WACO複葉機ならば、北の国境線から駅数で二~三の敵国領内まで偵察できる」
 私は、初めて「キロ」というメートル法の単位を口にした。
 この世界の単位系は複雑で、合理性に欠ける。だが、この世界のルールを私は受け入れてきた。しかし、ヴェルンドやマーリンには、メートル法を教えた。この合理的で単純な単位体系を彼らは容易に受け入れ、かつ利用している。
 地下空間の技師たちも敵に勝ちたい一念からなのか、身に染みついた単位系を捨てて新しい体系を受け入れていた。
 なお、我々が基準としている地図であるイノー図の単位系は、メートル法である。
 だから、メートル法は、この世界のごく一部ではあるが存在しているのだ。
「WACO複葉機は、一時間に二〇〇キロ飛べる。蒸気牽引車の一五~一七倍の速さだ。
 飛行は天候に左右されるが、いまの季節は快晴の日が多い。我々にとっては有利だ」と私が言うと、ジャベリンが「敵領の写真はないのですか?」と尋ねてきた。
 私はモニターに新たな画像を映した。
「北の国境から一〇〇キロ、海岸から一五〇キロ敵領に入った地点の画像だ」
 リケルが「スーヴァ村みたいだな」と言い、スコルが肯定する。
 スコルは続けて、「この村には一〇〇人ほどしか住んでいないはずです。なのに、村の北側に大量の荷のようなものが見えます。
 おそらく敵が集積している物資でしょう」
 私が次の画像をモニターに映し、「さらに一〇〇キロ敵領に入った村だ」と説明した。
 そこには、空前の大量物資のほか、二輌の長大な乗り物が写っていた。
 リケルとスコルは、その乗り物を知らなかった。
 ジャベリンが「何と! 陸上戦艦を二隻も出してきたのか!」とうなる。
 リケルが「参謀、陸上戦艦とは何だね?」
と問う。
 ジャベリンが説明する。
「平地で使う決戦兵器です。三輌から六輌が連結された戦闘車輌で、通常は先頭車が操向し、二両目に強力な蒸気機関車が連結されています。
 先頭車には大口径砲が搭載されていて、強固な城壁でも破壊することができます。三両目には擲弾兵と砲兵が乗車していて、多数の中口径砲が軍船の舷側砲のように配置されています。先頭車にも舷側砲があります」
 私は陸上戦艦をズームアップした画像に切り替えた。三人から「おう!」と言う感嘆の声が漏れた。
 私が「周囲の建物との比較から判断して、高さは二階屋くらい、幅は大型蒸気車二輌分、一輌の長さは標準貨車の荷台で三輌分くらいかな。四両編成だ。
 こんなに大きな車輌は、通れる道が極端に制限されるはずだ」
 スコルが「やはり、ヌールドの丘が敵主攻正面になりますね。
 あの道以外は、この車輌は通れない」
 これで、ヌールドの丘に敵が向かってくるという予測は、確信に変わった。

 フェイトとキッカは連日出撃し、貴重な情報を持ち帰ってくる。
 我々は敵の動きを敵の本営以上に知ることができた。

 ヌールドの丘の要塞化工事は、国力を上げて進められている。ただ、その国力が極めて貧弱で、できることは極限されていた。
 丘の形状に沿って、塹壕を掘削し、土嚢を積んだ。塹壕は深さ一メートルほどで、すべてを人力で行った。
 また、丘の中腹には巧妙に隠蔽した火点を設けた。自動火器がないので、火点はもっぱら狙撃用として使う予定だ。
 ヌールドの丘は、北北東に向かって両翼がやや突き出ていて、中央がやや凹んでいる形をしている。丘の両翼から少し離れた位置にも丘があり、この丘も車輌での登坂はできない。だが、馬や徒歩ならば登れる。
 ジャベリンは、これらの丘にも火点を設けた。
 この大防御拠点に配置されるのは、正規兵一五〇人と民間人志願兵八〇〇人である。
 武器はアリサカ小銃一五〇挺とマスケット銃六〇〇挺、マスケット擲弾銃一〇〇挺である。また、摩擦発火式の柄付手榴弾とフライオフ点火機構を採用した撃針式の円柱形手榴弾を大量に作った。柄付手榴弾は爆風による殺傷効果があり、円柱形手榴弾は周囲に破片を撒き散らす。
 擲弾銃は、マスケット銃の銃口を改造し、銃口に小銃擲弾を被せられるようにしたものだ。擲弾には触発信管弾と摩擦発火弾があり、最大一五〇メートルの射程距離、柄付手榴弾三発分の威力がある。
 摩擦発火弾は発射後六秒で爆発する。射距離が遠いと、低空で爆発する可能性がある。地上一~三メートルで爆発すると、殺傷効果と威嚇効果が最大になる。
 擲弾の重量は七〇〇グラム。擲弾銃の銃口付近には簡単な二脚があり、四五度の角度固定で発射する。射距離の調整は、擲弾を銃口に差し込む深さで行う。
 それでも武器は不足していて、官営工廠は小銃の増産に必死であった。小銃の生産をする予定のなかったヴェルンドの工房でも、家庭内手工業的な生産に着手している。
 ヴェルンドの工房製小銃は、木製フォアエンドは猟銃のように銃口まで覆われてなく、木製銃床は生産が簡単な直線タイプだ。
 また、基幹部品であるボルトはカルカノ小銃からの転用だ。
 ある意味、アークティカにおける小銃の戦時急増型である。

 ヌールドの丘の要塞化工事は順調ではなかった。地面は固く、建設機械はなく、作業に投入できる人員は少ない。
 ジャベリンは、一部地点で地面の掘削を諦め、土嚢を高く厚く積む計画に変更しなければならなかった。
 アークティカ人は、異国からやって来た指揮官の指示によく従い、最大限の努力をした。彼らは同国人の軍人であっても信用できないことを体験として知っており、異国人であろうがなかろうが、この状況から逃げ出さず、戦いを勝利に導いてくれるのならば、誰でもよかった。
 また、従来の戦い方では勝てないことは、軍事に疎い女性たちにも理解できていて、ジャベリンの戦術の善し悪しは判断できないけれど、どうにかなる可能性を感じていた。

 帝国側の主力は、バルティカ軍である。バルティカ軍の集結が始まると、リケルは国家非常事態を宣言し、全国民を動員した。
 一三歳以上の健康な男女は、兵器の生産を除いて、全員が交代でヌールドの丘の要塞化に投入された。
 一三歳の少女が土嚢袋に土を詰め、それを議員が運ぶという姿はごく普通のことだ。
 作業員の輸送には、蒸気車が動員された。蒸気車はヌールドの丘への人員と物資の輸送だけに使用され、それ以外には一切使われなくなる。
 ルカナとアレナス間は、ルドゥ川の水運に頼った。新造船を作る資材がないシビルスは、沈船を次々に浮揚させ、修理し、水運に投入する。
 水運航路は、ルカナ以東のドラゴン砦北端まで延び、蒸気車の不足を補った。
 装甲車、マウルティア、デュトロの三台は、ドラゴン砦への物資輸送で活躍。主にマハカム川沿いの陸路輸送を担った。
 オースチン7は連絡に投入され、泥にまみれている。小型車の有効性が証明され、新造車の要求が各方面からあったが、そんな余裕はアークティカにはない。

 フェイトとキッカがもたらす航空偵察情報は、バルティカ軍の集結とヌールドの丘の陣地構築が競争状態に入ったことを告げていた。
 そんなヌールドの丘に毎日派遣される九歳の少年がいた。
 イリアとエミールの子、クルトである。クルトは、スマホに入っていたゲームの操作法を瞬く間に覚え、少年少女たちの羨望の的になっている。
 イリアはそんな息子を大変心配していたが、アークティカはクルトの能力を必要とした。クルトはフェイトたちが撮影した画像を総司令部で一〇型タブレットPCにコピーし、それをヌールドの丘前線司令部に毎日届けた。表示操作も彼の任務で、午後出発し前線司令部に泊まることもあった。
 彼は必死に自分に与えられた任務を遂行し、弱音は一切吐かなかった。彼は、少年少女たちの目標であり、憧れになっていく。

 アークティカは、決戦の準備を整えつつあった。

 ヴェルンドは非常に多忙であったが、本社からの依頼により、彼のスタッフとともに二種の銃を開発した。
 一種は、衛生兵部隊が装備する五連発のリボルバー拳銃で、弾は四四口径レミントン弾をリムファイアからセンターファイアに改良した拳銃弾を使用する。この弾は、メグのヘンリー銃用をコピーした。発射薬は黒色火薬で、無煙火薬の不足を補う配慮であった。レミントン弾は薬莢底部に出っ張りのあるリムド弾なので、給弾にムーンクリップを使う必要はない。銃自体は、S&WM1917を模した銃身長一〇・二センチの平凡な設計である。
 三〇挺作られ、内二挺の銃身は五・一センチだ。この短銃身型は、フェイトとキッカに与えられた。
 もう一種は一銃だけ作られたスペシャルガンで、六・五ミリ弾を発射するレバーアクションのライフルだ。
 注文したのはメグで、五発と一〇発の箱形弾倉付、垂直弾倉からの給弾というヘンリー銃とは異なる仕様のレバー給弾機構を持っている。銃床の形状はヘンリー・ライフルと寸分違わず、フォアエンドは銃身の先端まで覆っている。
 メグは銃をヴェルンドに作らせるために、マーリンの姉「フェリシアと一緒に住んでいることを言い触らすぞ」と脅したらしい。
 そんなことは、誰でも知っていることだったが、ヴェルンドはとにかく脅しに弱い。メグの策謀にまんまと引っかかった。
 それだけではない。メグはヘンリー銃の弾薬を、四四口径リムファイア弾から雷管を使用する四四口径センターファイア弾用に調整させた。

 ヴェルンドは、保存しておいた撃ち殻薬莢へのリロード、つまり火薬、弾頭、雷管の再装填を行ってくれた。
 また、鉄製薬莢の新造弾薬も供給してくれた。弾種はスプリングフィールド七・六二ミリ弾とモーゼル七・九二ミリ弾の二種である。
 極端に不足している三二口径APC弾と四五口径APC弾の新造はなく、リロードだけだ。
 ヴェルンドが調査研究用にイリアから借り受けていた、チェコ製ブルーノZB26軽機関銃は、新造した交換用銃身と合わせて返却されていた。

 ポーランド製BARである二挺のWZ1928軽機関銃は、整備調整され、われわれの主力火器になった。
 その他、Gew98小銃二挺も修理された。先に修理・改修が完了していた三挺の三八式歩兵銃と合わせて、全火器が揃った。

 ただ、行政府からの六・五ミリ弾の供給が極端に少なく、手榴弾の不足も深刻だ。
 メグの発案で、手榴弾の不足を補うために火炎瓶を用意した。瓶はワイン用を使った。中身は、天然のタールとソラトだ。起爆には、瓶の口にねじ込んだ布の切れ端を当てた。この布に火を付け投げるだけの簡単な武器だ。
 六・五ミリ弾が少ないため、手元に残しておいたカルカノ小銃とカルカノ騎銃は、タルフォン交易商会のネストルに引き渡した。

 戦闘が始まった場合のコルカ村住民、特に一五歳以下の子供たちの避難手順も決めた。
 どこに逃げることもできないので、賓館に立て籠もることにした。籠城隊の指揮はキッカの祖母であるアリアンが受け持ち、ルカナの街からも幼児を連れた女性二人が加わることになった。

 開戦が近づいていた寒い日、アリアンの従者であるカラカンダの母親が亡くなった。その翌日、西方からの亡命者であるライマの祖母が亡くなった。
 ともに官営病院の病室で、静かな死を迎えた。
 ルカナの街は二人の合同葬儀を行い、街の東端にある墓地に葬った。

 私は、ミーナ、リリィ、ルキナ、ボブ、クルトの五人を集め、毛布を手渡した。
「戦いが始まれば、寒い夜が続くから、これを使いなさい」と言うと、ミーナ以外の四人はキョトンとしていた。
 賓館の周囲には、すでに土嚢が高く積まれている。戦いが始まれば、賓館の扉は開け放たれ、閉まることはない。負傷者が運び込まれることもある。
 私が子供たちにできることは少ない。
 暖房の不足に備えて、コルカ村の陶芸家に火鉢を作ってもらった。
 木炭の生産は古い陶芸窯を利用させてもらった。伐採後の端材や枝を材料に年寄りたちと一緒に作った。
 火鉢用の灰は、マーリンの石鹸工場から分けてもらった。
 陶芸家は精力的に火鉢を作り、それを広めてくれた。火鉢は、暖炉のない部屋の暖房に最適で、戦場でも活躍することになる。

 すべきこと、できること、そのすべてを尽くした。
 これからできることは、土嚢を一段でも高く積むこと、そして一発でも多くの銃弾を作ることだ。

 私は特段にすることはないのだが、それでも毎日忙しかった。
 だが、開戦まで一週間を切ると、地下空間に集う人々も少なくなり始める。WACO複葉機の整備に携わるスタッフを除いて、ほぼ全員がヌールドの丘に行ってしまったからだ。
 ヴェルンドの工房でも武器の開発はすべて止まった。銃弾とアリサカ小銃の製造に携わらないすべてのスタッフは、銃とスコップを手にドラゴン砦に向かった。

 その夜は、久々に自室で眠った。キッカとフェイトも自宅に戻った。
 そして、夜が明け、私はいつものように事務机に向かって、帳簿付けをしていた。隣にロロがいる。
 カチリ、と音がして扉が少し開く。小さな片眼が見える。
「おはよう」と私が言うと、「何してるの~」とリリィが部屋に入ってきた。
 そして、いつものように私の膝の上によじ登り、一緒に帳簿を眺めている。
「しょれ、なぁーに」とボックスティッシュを指さした。クルーザーから持ってきたものだ。
 私はボックスティッシュを引き寄せ、手に持ってリリィに見せた。
 リリィは紙箱から飛び出しているティッシュを触り、「ふわふわぁー、ミーナちゃんのと一緒!」と喜んだ。ミーナが持っているポケットティッシュを連想したのだろう。
「でも、箱に入ってるんだね」と触っているので、私は箱を遠ざけた。すると、ティッシュが箱から外れ、次のティッシュが飛び出した。
「わっ!」
 リリィの驚く様は面白かった。「もう一枚引っ張ってごらん」
 リリィがもう一枚引くと、また出てくる。これで、満足すると思った私がバカだった。
 リリィは部屋から飛び出していき、しばらくして目をこするミーナを連れてきた。
 そして、一枚引き、もう一枚をミーナに引かせた。
 二人は部屋を飛び出し、かなり時間がたってから夜着の上に厚手の上着を羽織ったルキナを連れてきた。
 ルキナも二枚引いた。
 その後は大騒ぎだった。ミーナしか持っていないはずの宝物「ティッシュ」が箱に入って発見されたのだ。
 結局、一人に一箱ずつティッシュを渡し、大人しくなってもらおうとしたが、それは火に油を注ぐ行為だった。
「おじちゃん、ほかにも秘密の宝物があるでしょ!」とミーナが疑い、私のビジネスバッグの中を見たいと言い出す。
 メイプルリーフ金貨を入れていたキャリングバックと出張用の衣類や道具を入れていたスーツケースは、マーリン、リシュリン、ミーナの探索の対象になっていたが、ビジネスバッグは「大事なものが入っている」といって、開けさせることはなかった。
 ただ、マーリンとリシュリンは、このバッグから雑誌を見つけているのだが……。
 大事なものとは銀行の通帳、免許証、パスポートなどだが、それはもう何の役にも立たない。雑誌はマーリンとリシュリンが戦利品にして、どこかに持って行った。
 子供たちに見せて困るようなものはないはずだ。
 私のビジネスバッグは大型で、一五インチ画面のノートパソコンが楽に入るサイズだ。ポケットは前面に四つ、両サイドに縦長が各一つ、背面に薄い大きなものが一つある。
 ミーナ、リリィ、ルキナの三人は、徹底的に調べている。
 そして、彼女たちの宝物、ポケットティッシュが大量に出てきた。銀行、朝の駅前で配っていたフィットネスクラブ、夜の駅前で配っていたキャバクラとカラオケ、昼の街頭でもらったパソコンスクールなど、各種織り交ぜて二〇個近くもあった。
 そうだ。私はひどいアレルギー性鼻炎だったのだ。ティッシュがなければ不安な人間だったのだ。すっかり忘れていた。
 だが、三人は私の「忘れていた」という言い訳を、「本当は独り占めしようと思っていたんでしょ!」といって責めた。
 バッグの本体は、二つのブロックに分かれている。その一つから箱が出てきた。
 思い出した。出張にあたって、フェイスタオルを忘れたと会社で隣席の花澤さんに言ったら、去年のお歳暮で業者からもらったタオルセットがある、と私にくれたものだ。
 三人が包み紙を慎重に解き箱を開けると、かわいいドット柄のフェイスタオルとハンドタオルが三つずつ入っていた。
 三人同時に「うわぁ~」という喜びとも驚きともとれる声が部屋中に響いた。
 この大発見で、三人の取り調べは一層熱がこもる。
 徹底的に調べ上げられ、予備のハンドタオルとハンカチ、社名の入った粗品の三色ジェルインクボールペン五本、未開封ののど飴、筆記具一式、一〇〇均で買ったB5のノート二冊など、彼女たちが宝物と認定するものが大量に出てきた。
 それらはすべて、彼女たち三人の共同の宝物として、ビジネスバックに戻された。
 そして、鼻炎薬、パスポート、免許証、通帳三通がむき出しで残された。通帳を入れていた一〇〇均で買ったクッションポーチも奪われた。

 メグがルキナを向かえに来た。そして、彼女の手には見慣れたものが握られていた。
 だが、一瞬何だか思い出せない。
 メグに「電気があれば、これも使えるようになるのでしょうか?」と尋ねられ、ようやく思い出した。
 電動アシスト自転車のバッテリーだ。
「それは?」と私が尋ねると、「夫の形見の一つです。夫は荷台に足で漕ぐ小さな車輪が二つの乗り物を積んでいました」と答える。
 そして、「クルトがリシュリンのバイクに乗ることができたそうで、ボブが対抗心を燃やしてしまって……」と少し困った表情をした。
 私は「そのバッテリーがなくても、自転車は動くはずですよ」と伝えると、「本当ですか」とメグがホッとしたような表情を見せた。
 メグに自転車の乗り方を知っているかと聞かれ、知っていると答えると、ボブに教えてやって欲しいと懇願された。

 メグの夫の形見の自転車は、一八インチの小径タイヤが付いた白いフレームのスタイリッシュな折りたたみタイプだった。
 専用の空気入れも付いている。専用のシートカバーに入れられており、錆びはそれほど多くない。
 結構使い込んだ感じはあるが、きれいな自転車だ。
 メグによれば、彼女の夫君はトラックをどこかに届けた後、この自転車に乗って帰る予定だったらしい。

 その日の午前中から、ボブの自転車特訓が始まった。後部の荷台を私が押さえ、ボブがペダルを漕ぐ。何度も失敗し、その日の午後早くに、私の仕事の予定で時間切れとなった。
 ただ、私が自転車に乗って見せたので、そのイメージがボブを発憤させたらしい。
 ここで、またもや問題が発生した。
 ボブが自転車の練習をしている様子を見て、まずルキナが「私もやりたい!」と言い出し、ミーナとリリィが自転車が欲しいと言い出した。
 結局、ボブは三日間かけて自力で自転車に乗れるようになった。その後をミーナたち三人が追いかける姿を見て、私は何となく平和を感じていた。

 ルドゥ川は、起伏の乏しい丘陵地帯をゆっくりと流れる。川面から岸辺までの傾斜は緩やかで、渡河できないほどの要害ではない。
 対してマハカム川は、南部岩盤の北端を貫いて流れ、厳しい地形を作っている。川幅は一〇~二〇メートルと狭いが、鉄の橋付近の断崖は一〇メートルもの高さに達する。上流に行くに従って谷は深く狭くなり、流れは速くなる。河口から東部国境付近までの間で騎馬が渡れるのは、鉄の橋しかない。
 だが、軽装備の徒歩の兵ならば、渡河が不可能ではない。
 もし、鉄の橋が落ちれば、コルカ村だけでなくルカナの街も陥落する。
 鉄の橋は、絶対に固守しなければならない。

 鉄の橋は、マーリンの父親が私財を投じて造った。それ以前には、木の橋、石の橋があったが、災害で流されることが少なくなかった。
 鉄の橋は、幅六メートル、長さ二〇メートルを超えるトラス構造のアーチ式鉄橋である。
 マーリンはこの橋自体を要塞化した。
 橋の欄干に沿って、高さ二メートルまで土嚢を積み、各所に銃眼を設けた。橋を渡った南側にも、卵型に土嚢を高く積み、南から押し寄せる敵にも、川沿いに東西から攻める敵にも対応できる陣地を造った。
 陣地の南側八〇〇メートル先まで、高木は一本もない。南側の川岸の並木は、下流は一〇〇メートル、上流は二〇〇メートルまで伐採した。
 また、北岸には川に沿って一・五~一・八メートルの高さで土嚢を積み上流一五〇メートルの地点と、下流八〇メートルの位置に強固な陣地を築いた。また、各所に狙撃用の射点を設けた。

 決戦の準備は整いつつある。

 この鉄の橋要塞の守備隊は、家族を失った女性が多いことから、いつからともなく「母親たちの城」と呼ばれるようになる。
 母親たちの城の噂は、赤い海の沿岸各国に広がっていき、主戦場であるアークティカ北部よりも注目を集めていた。
 母親たちの城の指揮官は、予言の娘だという噂も広まっていた。
 これらの噂は尾鰭が付いて、東方騎馬民にも伝わる。
 東方騎馬民のある部族長は、キャンプに訪れた商人に「その母親の眼前で子を殺め、その後に犯す。それで、すべて物事が解決する」と豪語したと言う。

 各国の商人たちは、アークティカを密かに応援していた。東方騎馬民や帝国と通商し、その際に見聞きしたことをそれとなく、あるいは使者を送って知らせてくれた。
 また、各国の一般民衆もアークティカに心を寄せていた。

 戦いは間もなく始まる。
 フェイトとキッカがもたらす情報は、そのことを如実に語っていた。

 私は、決戦において、自分が何をすればいいのかを考えていた。
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王太子ウルリコは政略によって結ばれた婚約が気に食わなかった。それを隠そうともせずに臨んだ婚約者エウフェミアとの茶会で彼は自分ばかりが貧乏くじを引いたと彼女を責める。しかし、見事に返り討ちに遭うのだった。 『小説家になろう』様・『アルファポリス』様の重複投稿、自サイトにも掲載。

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