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第3章 奪還

第19話 遠来の友

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 街の方で大騒ぎが起きており、コルカ村のマーリン宅は最大の警戒態勢をとったが、歓喜の騒ぎであることがすぐに伝わる。
 それは、隊商が戻った合図でもあった。

 マーリンは弟が心配で、街に行こうとしていた。私も請われてマーリンに同行することになる。
 門を出ると、日野のエンブレムを付けた白いクレーン付き二トントラックが街の方角からやって来る。
 そのトラックが我々の乗る蒸気車の前で止まった。
 乗っていたのは、コルスクの女用心棒だ。お姫ちゃんも乗っているではないか。
 ドアが開き、お姫ちゃんが布袋をぶら下げて飛び降りてきた。転んだが、泣くことも忘れているようだ。
 我々には目もくれず、「ミーナちゃーん」と叫びながら館内に走って行く。門衛も止める暇がない。
 最初に気が付いたのはロロだった。猛然とダッシュし、お姫ちゃんの前で腹を見せて寝転んだ。
 ミーナも気が付いた。「お姫ちゃーん」と叫びながら駆け寄ってくる。
 館の庭は広い。二人は一生懸命走るがなかなか出会えない。
 ようやく庭の中央で出会うと、ピョンピョン跳ねながら踊るように両手を取り合っている。
 お姫ちゃんに無視されたロロが不満げにその様子を見ている。
 大人たちは、事情を知っているものも、知らないものも誰もが笑っていた。コルカ村もお祭り騒ぎになりそうだ。
 マーリンはメグに「フリートという男を知っているか?」と尋ねる。
「ああ、いい若者だ。立派に働き、無事に戻ってきた」と答える。
 私はメグの「無事」という言葉に引っかかった。
「怪我人がいるのか?」
「ああ、騎馬兵と一戦交えた。その戦いで、四人が負傷した。死んだものはいない」
 その話を聞いて、私は一人で街に向かう。

 街は歓喜に包まれている。
 私の蒸気車は、人混みに遮られ街に乗り入れられなかった。
 徒歩で庁舎前に行くと、四編成の蒸気牽引車が止まり、その周囲で人々が歓声をあげている。
 五人ほどの隊員が拳を突き上げて、歓声に応えている。だが、その中にミクリンとフリートの姿はない。輸送隊長と警護隊長もいない。
 私は、しばらくの時間、人混みの最後列でその様子を見ていた。そして、誰にも気付かれないように広場を去り、街でただ一つの病院を目指す。負傷者たちは、そこにいるはずだ。

 ルカナの街には、八つの民間診療所と二〇の病床がある一つの公設病院があった。だが、いまは医師はいない。
 私は、負傷者を見舞った。一人ひとりに手ぶらできたことを詫び、欲しいものを尋ねる。四人を介護しているのは、二〇歳代中頃の女性看護師一人と医療経験のない五人の男女だ。
 私は看護師に「四人は大丈夫か?」と尋ねた。
 看護師は「三人は軽傷なので大丈夫ですが、一人はお医者様に見てもらわないと……」と答える。
 看護師も私も、外科内科にかかわらず医師がいないことは百も承知だ。
「できる限りのことをしてあげて欲しい」と伝え、病院を離れた。
 そして、人々の喜びを邪魔せぬよう、そっと街から離れる。

 館に戻ると、ミクリンが帰着していた。だが、街の歓喜とは異なり、館全体に重苦しい空気が漂っている。
 賓館一階のベランダの片隅で、両足を抱えてしゃがんだミーナが泣いている。
 私はマーリンに「どうした?」と尋ねた。
 ミクリンが「申し訳ありません。私が不用意なことを言いました」と答える。
 マーリンは「ミクリンに責はない。わが主、ラシュットが落ちたらしい。ミクリンがアルバトで得た情報だ」
 ミクリンが報告する。
「ラシュット陥落は、一〇日ほど前のことのようです。海上を帝国軍の艦艇に封鎖され、戦わずに三日で降伏したとか。
 帝国軍はラシュット街内に進軍し、反帝国の住民狩りをしたとか。
 それ以上のことはわかりません。それと、ラシュット陥落の詳しい日時もわかりません」
 私はミクリンに「ご苦労でした」と労う。
 ミーナはラシュット陥落の報をミクリンから聞き、キッカの行方を案じていた。
 マーリンが「イリアが一緒だから大丈夫だ」と慰めたが、ミーナの不安は消えない。

 隊商が帰還する当日の早朝、アークティカの南の国境に前輪がゴムタイヤ、後部が鉄の幅広鎖が回転する奇妙な蒸気車が到着した。
 似た走行装置の蒸気車が半月ほど前に、この村を発ちアークティカ領に入った。
 村人たちはのちに、そのクルマに予言の娘が乗っていたと聞き、たいへん驚いた。
 予言の娘が乗っていたクルマによく似た蒸気車が、またやって来た。村人たちは、今度は誰がやって来たのか興味津々で、村の官吏も目を離さないようにしている。

 マウルティアには、一〇人の男女が乗っていた。
 イリア、エミール、クルトの一家。キッカと父母、祖母。祖母の従者と彼の母。そして、フェイトだ。
 村人と官吏には、彼らが特別な人々に見えない。西から逃れてきた難民と考えていた。
 官吏は、金髪で大柄の運転手に「北ではなく、南に逃れた方が安全だ」といったが、運転手は「アークティカが一番安全だ」と応じ、アークティカの情勢を詳しく聞き出した。
 官吏は知っていることはすべて教えたが、それで東方騎馬民の哨戒線を突破できるとは思えない。
 予言の娘が帰還して以後、東方騎馬民はアークティカ南部の支配を強化している。少人数の偵察隊が頻繁に巡回し、侵入者はことごとく殺されていた。
 牧畜を生業とするルカーン人がアークティカ領に迷い込んだ羊を連れ戻しに行って、東方騎馬民に殺される事件が頻発している。
 官吏には、この一行が生き残れる可能性は無に等しいと感じた。
 成人男性は三人、うち一人は三〇歳代後半と思われる。老婆が二人。一人は若々しいが、一人は病のようだ。
 三人の男のうち、一人が運転手になると、二人で戦わなくてはならない。
 官吏は、国境を越えた直後に眼前で繰り広げられるであろう、殺戮と暴虐の限りを見たくなかった。
 だが、彼らを引き留める権限は、彼にはない。

 イリアは、国境の彼方の地形を観察していた。彼女の夫は、燃料を補充している。
 マウルティアの荷台は、左右のサイドパネルが一・五メートルあり、後アオリは五〇センチほどの高さがある。
 サイドパネルには鉄板を縛り付けてある。天蓋部にはシートがかけられ、外気の侵入は最小限に抑えられている。
 マウルティアの乗客は、いかなる妨害を受けたとしても、今日の日没までにルカナの街にたどり着くつもりでいた。
 その理由は二つある。一つはキッカの祖母の執事であるカラカンダの母親を、一日も早く休ませたいこと。もう一つは弾薬の欠乏が近いことだ。
 荷台では、イリアとエミールを除く全員が弾倉に弾を補充している。
 二挺のマスケット銃を除いて、八挺の武器がある。
 エミールが運転し、彼はワルサーP38を、助手席にはカラカンダが乗り、彼はベルグマンMP18短機関銃を使っている。
 イリアはブルーノZB26軽機関銃、クルトはワルサーPPK、キッカはモーゼルC96軍用拳銃、キッカの祖母であるアリアンはモーゼルKar98kボルトアクション小銃、フェイトはM1カービンで武装している。
 キッカの父親は彼の母親とは異なり、武勇に秀でた男ではなかったが、度胸は据わっていた。
 彼は自分に合った武器を手に入れていた。八ゲージの水平二連散弾銃だ。いわゆる異界物で、異国に商いに行った際に見つけたものだ。
 一〇人は何度かの死地を乗り越え、アークティカの国境までやってきた。ここで殺されるつもりはない。
 マウルティアは戦いやすいように、荷台を覆っていたシートを外す。
 日の出の直前、東方騎馬民が国境付近に集まってきた。国境を越えようと考える愚か者を威嚇するためだ。
 だが、この日は威嚇が効かない。一輌の奇妙な蒸気車が、国境の橋を渡ろうとしている。

 エミールはイリアが指示したとおりに、橋から五〇〇メートルほど離れた窪地まで、全速で飛ばした。
 東の方角から二〇騎以上の騎馬兵が突進してくる。射程外から発砲して威嚇しているものもいる。
 イリアは双眼鏡で連中の顔を見た。誰もが笑っている。連中にとって、これは遊びなのだ。
 窪地に突っ込み急停止すると、助手席側からカラカンダが飛び出す。エミールも続く。
 気が付けば敵は三〇騎に達している。荷台後部の守りはキッカと彼女の父親、荷台右側面(東側・陸側)はイリアとアリアンにフェイトが加わる。
 荷台左側面(西側・海側)の見張りはクルトが担当する。左翼に回り込まれたら、フェイトが受け持つことになっている。
 イリア、アリアン、フェイトが発砲すると、瞬く間に騎馬兵が崩れ落ちていく。車体後部に回り込んだ二騎は、キッカの父親が放った散弾によって蜂の巣になる。
 イリアたちの弾幕をくぐり抜けた四騎は、エミールとカラカンダによって斃された。
 乗り手を失った馬たちが、ゆっくりと陸側に向かって歩いて行く。うめき声や泣き声が聞こえる。

 殺戮者が殺戮されて、うめき声を上げている。エミールとカラカンダは、何事もなかったようにマウルティアに乗り、北に向かった。

 一四時。九時間かけて一二〇キロを走破し、マウルティアはルカナまで三〇キロに迫っていた。
 だが、東方騎馬民の哨戒線に引っかかった。周囲の風景は、西側にブドウ畑、東側は荒涼とした草原、北には高木がまばらな灌木地帯が広がっている。
 マウルティアは道から外れて、背の高い葦のような草が茂るブッシュに潜んでいる。

 東方騎馬民の狙撃手は、道の北側の上り勾配の頂上あたりに倒木を遮蔽物にして、五人ほどが陣取っている。
 距離は三〇〇メートルはある。東方騎馬民の銃は射程が長く、明らかにライフルを使っている。前装単発のライフルは装填に時間がかかるが、射程距離と命中精度は高い。迂闊に動くと、弾を荷台に撃ち込まれる。
 先ほどから、フェイトだけがM1カービンで応射している。残弾が少なく、すでに威嚇程度の射撃はできなくなっていた。
 エミールは手榴弾を放り込むため、西側を大きく迂回して接近するつもりでいた。
 荷台では、エミールを援護するカラカンダのために、九ミリパラベラム弾がかき集められていた。だが、ベルグマンMP18短機関銃の二〇発弾倉を満たすことはできない。

 アークティカ側は、可能な限り鉄の橋の南側を哨戒するようにしてる。
 リシュリンが遠くで銃声を聞いたとき、その軽い乾いた発射音がM1カービンのものだと確信していた。
 とっさにマーリンを案じたが、マーリンはコルカ村にいるはずだ。銃声は南から聞こえる。
 リシュリンは、三人の同行者とともに馬で南に向かう。
 森を抜け小高い丘の縁に出ると、道の東側の倒木の陰で五人の狙撃手が南に向かって銃口を向けている。その様子がよく見える。
 リシュリンの同行者が「東方騎馬民の猟兵です」と言った。
 猟兵の獲物は確認できない。だが、獲物側がM1カービンを使っているようだ。
 自分とマーリン以外にM1カービンを使うとすれば、フェイトしかいない。いや、可能性として高いのはフェイトだが、決めつけることはできない。だが、十中八九はフェイトだろう。
 同行者の一人がリシュリンの肩を叩き、西側を指さした。草むらが揺れ、何かが北に向かっている。
 双眼鏡で確認すると、二人の男だ。顔は見えないが、一人は暗い草色のヘルメットを被っている。
 リシュリンは直感でエミールだと思った。直感が外れたとしても、目標は東方騎馬民だ。敵に変わりはない。敵の敵は味方、と彼女の主殿は言っていた。

 リシュリンたちと敵猟兵との距離は、二〇〇メートル以上ある。マスケット銃の射程外だ。
 だが、リシュリンは現在位置から、援護射撃をすることにした。
 リシュリンが二発発射し、敵猟兵の注意を引きつけると、アークティカのマスケッターも発砲した。弾はかろうじて敵陣地の周囲に着弾している。
 命中は、偶然を除けばあり得ない。

 エミールは、北東の方角から援護射撃が始まったことに当惑していた。だが、このチャンスを逃すわけにはいかない。
 敵陣地と道を挟んで反対側に出ると、ポテトマッシャーとあだ名されるM24柄付手榴弾を敵陣地に投げ込む。危害半径一〇メートルに達する強力な攻撃型手榴弾だ。
 一瞬で猟兵の陣地が吹っ飛ぶ。カラカンダが飛び出し、MP18を発射して五人の猟兵にとどめを刺す。
 リシュリンはエミールに呼びかけず、フェイトを呼んだ。
「フェイト、無事か?」
「あぁ、大丈夫だ」
 確かにフェイトだ。
 イリアがマウルティアを運転して、路上に戻す。
 リシュリンはイリアとの再会が、何年ぶりかと思うほど懐かしかった。イリアと手を握り、フェイトと抱き合った。アリアンは、リシュリンに対して孫を見るようなやさしい目で見つめている。
 そして、リシュリンは予定を切り上げて北に向かった。

 ミーナは夕焼けを見ながら、涙が止まらなかった。キッカの無事を祈っていたが、その可能性が低いことも子供なりによく知っている。
 だが、ルキナの例もある。キッカがアークティカにやってくる可能性もある。とても低い確率だが……。
 まもなく太陽が沈む。リリィとルキナが隣に座ってくれている。ルキナと再会して、あんなに嬉しかったのに、キッカを思うと悲しくてならなかった。
 南の橋の方が騒がしく、ロロが正面玄関から外に出て、耳を動かし、大気の匂いをかぐように鼻を空に向けている。
 ロロのこの仕草は、敵がやってくる証拠だ。だが、尻尾を小刻みに振っていて、どこか楽しそうだ。
 やがて、聞き覚えのある走行音がしてきた。エンジン音にカタカタという履帯の音が混じっている。
 南門からマウルティアがやってくる。そして、噴水の前で止まった。
 馬に乗ったリシュリンも一緒だ。
 何人もの大人が手伝って、荷台から女の人が降りてきた。
 そのあと、クルトが降りてきて、続いてキッカが降りてきた。
 ミーナは夢を見ているようだった。キッカのことばかり考えていたので、幻覚を見ているのだと思った。
 キッカがミーナに話しかけたが、ミーナはどうしていいかわからない。ミーナは、キッカをキッカだと認識するのに少しの時間を要した。
 ミーナのショック状態を回復させたのは、リシュリンだった。彼女はミーナを抱き上げ、「目を覚ましなさい」と優しく言った。
 ミーナが覚醒する瞬間、フェイトがミーナに「おねしょするな」といってからかった。
 イリアがいる。イリアが何かいっている。マーリンがフェイトと抱き合った。
 ミーナはリシュリンに抱かれたまま、キッカを触ってみた。キッカのぬくもりが手に伝わる。
 ミーナはリシュリンの手から降り、キッカの両手を取り、ピョンピョンと跳びはねている。
 あまりの嬉しさにはしゃぎ回り、疲れ果てて夕食後すぐに眠ってしまった。

 翌早朝、マーリンはリシュリンに少し気になっていたことを尋ねた。周囲には誰もいない。
「ミーナが住んでいた村は、何という名だ」
「あの村には名はない。単に東の村と呼ばれていた。
 西の街の名はラーへだから、ラーへの東の村が一番正確な言い方だろう。
 領地の名はタイバル、領主の名はミラン。領主はまだ一七歳だが、奥方が懐妊していると聞いた。
 タイバルの最大の実力者は、軍参謀長のジャベリンで、領主の義兄だ。
 僧兵が一目置く戦上手だそうだ。ただ武勇に秀でるだけでなく、権謀術数にも長けている。
 なぜ、そんなことを聞く?」
「いや、あの領主とは一度会ったんだ。わが主と一緒に。
 悪い男には見えなかったが……」
「善人か悪人かはどうでもいい。領民を守れなければ、暗愚な領主だ」
「そうだな」

 マーリンとリシュリンが半年前の出来事を述懐していた頃、アレナスの海岸に奇妙な形をした一隻の船が近づいていた。
 まだ、太陽は昇りきっておらず、薄暗い。昼行性の海棲トカゲが海岸に群れている。
 東から昇る太陽の光は、その船を照らし出し、監視密度の薄いアークティカの歩哨に偶然発見された。
 歩哨は一人だった。彼はアレナスの官営造船工廠で働いていた工員で、船には詳しいが、眼前を漂う船影は初めて見る形式だ。
 だが、そんなことよりも、たった一人で戦う決心をしなければならず、また戦うべきか、街に駆け戻って事態を知らせるべきか、判断しかねていた。
 船は舳先を海岸に向けて漂っている。その舳先だが。船体の細い二艘の船を並べたような形状で、甲板がなく、甲板であるべき部分はガラスのような透明な素材で覆われている。

 船の側面にある扉が跳ね上げられるように開いた。
 歩哨は覚悟した。ここで戦う。そして、銃声が街に届けば、援軍が来てくれる。そう信じるしかない。
 マスケット銃の銃口を船に向けた。
 船から、大熊のような大男が出てきて、舳先に仁王立ちして、両手を大きく振って「撃つな」と叫んだ。
 歩哨は油断はしなかったが、銃口を少し下げた。そして「何者だ!」と叫ぶ。
 大熊男は「ここはアークティカか!」と叫ぶ。歩哨が「そうだ!」と答えると、大熊男は「西方のタイバルという国から来たジャベリンと言うものだ。予言の娘に会いに来た!」と答える。
 歩哨は「そこで待て!」と叫ぶと、銃口を上空に向け発射した。続いて、すぐに次弾を装填し、再度発射する。

 二発の銃声はアレナスの街に届く。この二発の銃声は、何者かが海岸に近づいていることを示す符丁で、あらかじめ取り決められたものだ。
 歩哨の援軍がすぐに駆けつけてきたが、それはたったの三人であった。
 船と歩哨たちの間には、一匹の海棲トカゲがいるので、船は海岸に接岸できない。

 そのはずだった。
 大熊男は海に飛び込むと、船から出てきたもう一人の男が大熊男に大剣を渡す。
 大熊男が泳いで海岸に向かってくる。海棲トカゲがそれに気づき、獲物を喰らおうと穏やかな波打ち際に突進していく。
 大熊男のほうが一瞬早く海から上がる。
 体長五メートルに達する海棲トカゲが、大きな口を開け大熊男に向かっていく。海棲トカゲの鰭脚では、動きが緩慢に見えるが、実際は陸上でもかなり敏捷な生物だ。
 大熊男は慌てる様子を一切見せず、一直線に向かってくる海棲トカゲを横に飛んで避け、首を振って向けた鋭い歯を見切ったようにかわす。
 その瞬間、大剣を振り下ろし、海棲トカゲの首と胴の接続を断った。
 歩哨たちは息を呑んだ。大熊男の強さに恐怖し、自分たちの身の危険を感じずにはいられない。
 歩哨は「頼むから近づかないでくれ」と請うた。
 大熊男は大剣を砂浜に突き刺し、大剣から離れ、改めて歩哨たちに問うた。
「ここはアークティカだな。遙か西方のタイバルから来たジャベリンと言うものだ。予言の娘が帰還したと聞いた。
 我らは予言の娘と関わりのあるもの。船には病気の年寄りがいる。
 どうか予言の娘か、予言の娘の主に取り次いでもらいたい」
 歩哨が「お前はシュン様を知っているのか?」と問うと、大熊男は「あぁ、美味いビールを馳走になった」と答える。
 歩哨は「海岸に沿って北に向かえ。河口があるから、川を遡れ」と命じた。
 大熊男はそれを船に伝え、自身は捕虜となった。

 エミールは昨夜からルカナの病院に泊まり込み、負傷者の手当に奔走している。
 大した手当が施せないでいた重傷者は、体内に残っていた銃弾が取り除かれ、回復に向かっている。
 不思議なもので、中核になる人物が現れると、看護師、助産師、薬師など、生き残りの医療関係者が集まり始める。

 ヴェルンドは、アークティカ到着直後から姿を見ていない。だが、官営銃砲工廠の技師や工員、それに民間の鉄砲鍛冶や製鉄工場の工員の生き残りをかき集めて、何かをやっている。
 おそらく、三八式騎銃のコピーをしているのだろう。
 マーリンとリシュリンは、ルドゥ川とマハカム川に挟まれた一帯を完全に解放すべく準備を進めている。この作戦には、メグやイリアも参加する予定だ。

 私は、特別にすることがない。子供たちの面倒を見たり、といったところか。

 この日の朝、ミクリンたちが持ち帰った食料についての会合があり、それに出席した。
 会合には、ミクリン、輸送隊長、警備隊長も顔を出している。
 会合は冒頭から大荒れになった。私は到着直後に荷を確かめていたが、小麦、ライ麦、米、大豆であった。
 米と大豆は、この世界で始めてみた作物で、それはアークティカ人にとっても同じであるらしい。
 会合の議長役は沿岸の街ヘトラの若い元議員で、温厚そうな男だ。
 会合を紛糾させているのは、内陸の街バクラの壮年の元有力者で、米と大豆の利用法がわからないと主張し、ミクリンに「責任をとれ」と迫るものだった。
 この元有力者に強く賛同するものが二人おり、尻馬に乗っているものが五人ほどいる。
 彼らの目的は不明だが、何らかの対立を持ち込もうとしていることは明らかだ。
 彼らの主張は「アークティカ人で米や大豆を食べたものはいるのか?」で、誰も食べたことがないものを買ってきたミクリンたちを責めるものだ。
 会合には二〇人ほどが出席しているが、それを主張されると誰もが返答に窮した。
 ミクリンは唇を噛んでいた。悔しそうな様子が、痛々しい。
 議論が煮詰まったところで、私が「弊社社員が国と民に役立たぬ穀物を、国費を使って購入したことは大変申し訳なく、お詫びいたします。
 その責をとり、全品メハナト穀物商会が買い取ります」と答える。
 メハナト穀物商会とは、マーリンの父親が経営していた貿易会社の名だ。
 すると会場は静まりかえる。バクラの元有力者がほくそ笑み、「それなら、それでいいじゃないか」と言った。
 議長役は議決を躊躇したが、私が議長役に向かって微笑むと、かれも微笑み返し「それでは、米と大豆なる作物は、メハナト社に買い取らせます。異議はありませんね」と宣言して議決する。
 ミクリンは声を殺して泣いている。

 私が会合があった建物の外に出ると、路上に古樽をテーブルに、木桶を椅子にしてサイコロ博打をやっている不良老人たちに捕まる。
 賭けているのは、塩漬けのオリーブの実だ。大事な食料である。
「あんた、本当はあの作物の使い道知っているんだろう?」と一人が言うと、別の一人が「ヴェルンドという若造は気に入らないヤツだが、あんたもずる賢そうだ」といって笑う。
 私が「ヴェルンドを知っているのか」と尋ねると、「あぁ、知っているよ。俺たち年寄りは役立たずだから要らないといったふざけた若造だ」と答える。
 私が「アークティカの歴史というか、成り立ちについて知りたいんだが……」と問うと、白い口ひげを蓄えた老人が「それなら、郷土史博物館に行けばいい。ほら、あんたのところにいるリリィという子の父親が館長だったんだ。館長とはいってもほかには誰もいない小さな図書館みたいなものだがね。
 施設自体は、マーリンの父親のものだよ」と教えてくれた。
 頭髪がほぼ皆無の老人が「リリィの父親は、郷土史よりも異界物に興味があったようだ。ずいぶんと集めていたようだ」と言う。
 そこでいったん言葉を切ったが、さらに続けて「リリィの父親の説だが、異界物はどこに現れるかわからないが、三年から五年に一度、一度に二~三回連続して出現するそうだ。
 だけれど、船が山の頂上に現れたり、蒸気車が海の真ん中に落ちたりすることが多いらしい。だから、ほとんどは人の目には触れないそうだ。
 異界には空を飛ぶ機械もあるそうだ」
 すると白い口ひげの老人が「あぁ、あの黄色い翼の機械か?
 ありゃぁ、ホントに飛んだのかね?
 どう見ても空に浮くとは思えんが……」
 私は衝撃を受けていた。この老人たちは、とんでもなく重要な情報を知っている。
 私が「親父さんたちは、リリィの父親が集めた異界物の在処を知っているのか?」と尋ねる。
 全員が「知っているとも」と答えた。

 ミクリンが私に向かって歩いてくる。そして、私の眼前に立ち「申し訳ありません」と言った。
 すると禿の老人が「何言っちょる! この若造はあれで一儲け企んどるに決まってるじゃろ」と言った。
 ミクリンが呆気にとられているので、私が「あとで話す。米と大豆をコルカの倉庫に運んでくれ」と頼んだ。

 老人たちと街の南に向かって歩いて行く。街の南端は崖というほどではないが、比較的急な斜面になっていた。二〇~三〇度の勾配がある。高低差は場所によって一五から三五メートルほど。

 街の東南の端、ちょうどコルカ村との境界あたりで、老人たちが西の方角を指さす。
 背の低い草がまばらに生えている草原で、北側にはブドウ畑が広がる。
 老人たちがよく見ろと、もう一度西を指さす。
 地面がやや凹んだ感じの直線が海の方角に向かって伸びている。凹みの深さは一定していないが、正確な直線だ。
 老人たちが西に向かって斜面を降りていく。私も彼らに続く。
 その直線の東端が街の西端の斜面に消えていた。その部分だけ斜面は六〇度近い急勾配になっている。
 禿の老人が「スコップを持ってくるんだったな」と言うと、白い口ひげの老人が「よし、ブドウ畑の物置場から拝借してこよう」と言った。

 気が付くと老人の数は増えていて、一〇人あまりがいる。
 スコップと鍬のような道具が到着すると、彼らは斜面の表土をはがし始めた。
 すると幅三〇メートル、高さ二〇メートルもの金属製の扉が現れる。材質は鉄ではないようで、またアルミとも違うが、まったく錆びていない。軽金属のようなものだ。
 土に埋まっていたというよりは、奴隷商人や東方騎馬民に見つからないように偽装していたようだ。
 扉は何枚かに分かれた蛇腹の引き戸のようになっていて、飛行機の格納庫のようにも感じられた。わずかに開いて、内部に入る。
 誰かが用意よく、ランタンに火を入れた。ランタンは明るいが、地下空間全体を照らせるほどの光量はない。
 複数のランタンに火が入れられたが、それでも全体を照らし出せない。

 だが、そこには貴重なものが眠っていた。
原形をとどめている複葉の飛行機、飛行機の胴体らしきもの、屋根の潰れた自動車、全長一〇メートルに達するボート、そのほかにも布の掛けられた物体二つがある。木箱もある。
 禿の老人が「これは、全部リリィの父親が、マーリンの父親の資金で集めた代物だ。
 何の役にも立たないガラクタばかりだが、異界の品らしい」
 私は老人たちに「労賃は払う。あの扉を全開できるようにしてくれ」と頼んだ。
 そして、身の軽そうな痩躯の老人に「マーリンの屋敷に行って、フェイトという娘を連れてきてほしい」と依頼する。

 そして、街の西端の斜面で大騒ぎが始まる。
 一一時少し前、斜面には三〇人くらいの男が集まっていた。誰もが、足腰のしっかりした老人だ。
 東西南北の各要地の防衛に参集を求められず、ヴェルンドたちの防衛装備開発・製造のスタッフからも漏れた老人たち。
 自然に実った畑のブドウや野生のオリーブの採集に精を出している人々の中にも入れず、どこかひねくれていた老人たちだ。
 彼らのほとんどが機械工や工芸品の職人たちだ。

 扉が完全に開放されたのは、一四時を少し過ぎた頃だった。
 老人たちは昼食の催促もせず、黙々と働いてくれた。
 完全開放とほぼ同時にフェイトがやって来た。
 彼女を呼びにいった老人は、この破天荒な娘に相当に閉口させられたようで、疲れ切っている。
 彼女は手に枯れ枝を持っていた。それを私に押しつけると、複葉機の周囲を回って、機体を撫で、主翼を眺め、主脚を観察した。
 そして、大声で「飛びそうな気がする!」と絶叫した。
 私がフェイトに「お前が飛ばしていた飛行機は何だ」と尋ねた。
 フェイトは「ボナンザだ!」と答える。
「低翼、単葉、三車輪引き込み脚、四人乗りのビーチクラフト・ボナンザか?」と確認した。
「そうだ。ボナンザだ。でも、こいつも気に入った。こいつの名は?」
「よく調べなくてはならないが、おそらくWACOのYMFだろう。
 コックピットの計器が液晶モニターで完全にデジタル化されている。複葉機だが、最新鋭機だ」
「いつ飛べる」とフェイトに聞かれて、「これから調べる」と答えたが、彼女は待ちきれないようだ。
 我々の会話を聞いていた禿の老人が、「本当に空を飛ぶのか?」と呆れたように小声で誰かに言った。
 その声は地下空間で反響し、我々に耳にも届く。
 フェイトは「必ず飛ぶ。私が飛ばしてみせる!」と断言した。

 地下空間は、どういう目的で作られたのかはわからない。ただ、造りかけの放水路か貯水槽に似ている。間口三〇メートル、奥行きは一〇〇メートルもある。床壁天井はコンクリートのようだが、自然石のようにも見える。扉と同様に未知の素材だ。おそらく建設途中で放棄された地下水路なのだろう。
 ただ、アークティカ人が造ったものではない。彼らは、古代の超文明の遺産だと言っていた。

 この地下空間にあったものは、全部で五点とその付属物だ。
 二〇一八年製WACO YMF F5X複葉機。
 翼と胴体が分離破損した一九三八年製フォッカーD21戦闘機。
 ほぼ完全な一九三二年製オースチン7の2シータースポーツ。
 屋根が潰れすべてのウィンドウが割れた一九五三年製ボルボP210ライトバン。
 フロントの損傷が大きい二〇〇一年製ヤマハXV1100空冷二気筒一一〇〇CCバイク。
 それとV型六気筒三〇〇馬力船外機を四基搭載した二〇三四年製一〇メートル級クルーザーボート。
 原形をとどめているのは、WACO機、オースチン7、ボートの三つ。
 発見はボートが一番古く、順にボルボP210、ヤマハXV1100、フォッカー機、オースチン7、そしてWACO機が一番新しく三年前頃。
 ボルボP210には、発見時に縦×横×高さ各一・五メートルほどの木箱が二つ積まれていて、その中にはかなりくたびれた小銃が大量に詰め込まれていた。
 弾薬はなく、おそらく廃棄直前のものではないかと推測した。
 P210はスウェーデン製の三ドアのライトバンだが、塗装からフィンランド陸軍が使用していたようだ。
 あくまでも想像だが、廃棄する小銃を積んだフィンランド陸軍のP210がこの世界に転移したのではないかと思う。
 その小銃だが、第二次世界大戦時のイタリア軍制式ボルトアクション小銃、カルカノM1891であった。その数はおおよそ一五〇挺。数は多いが使えそうには思えない。
 実際に使えそうな武器もある。フォッカー機が搭載していた機関銃で、ブローニングM36。この銃はブローニングM1919をドイツ軍制式の七・九二×五七ミリモーゼル弾に適合するように改めたものだ。
 我々が旅の途中で、装甲車の車内をくまなく捜索して探し求めたM1919がようやく手に入ったのだ。

 翌日早朝、大騒ぎの地下空間にヴェルンドが部下を連れて現れた。
 彼は、カルカノM1891小銃二挺とブローニングM36機関銃を彼らの工房に持ち帰った。
 また、フェイトはWACO機の完全修復を指揮するために、昨夜のうちに居所を地下空間近くの空き小屋に移した。

 アークティカの生存可能性は、未だに低い。だが、奇跡と呼んでもいい何かが始まろうとしている。
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