アークティカの商人(AP版)

半道海豚

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第2章 帰還

第13話 赤い海南岸へ 

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 海峡に達したのは、一〇時を少し過ぎた頃だった。
 白い海と赤い海を結ぶ海峡は、ルム山脈に沿って、東西に約五〇〇キロの長さがある。この地は、最も海峡の幅が狭い場所で、わずか六キロしかない。潮流は潮汐によって速さが違うが、ほぼ東から西に流れ、このドビ海峡は潮流が最も速くなる。
 海峡は蒸気船で渡るのだが、車載が可能な定期便のフェリーはなく、車輌が海峡を渡るには船をチャーターしなければならない。チャーター船は多く、車体サイズに合わせた船を選べる。
 港は、ドビの対岸より東側の内湾にあり、ここを出港すると潮流によって西に流されながら南進し、ドビ側の内湾港に接岸する。
 フェリーの料金は、カフカ金貨一枚。この料金で、約一時間で対岸まで運んでくれる。
 ミーナにとっては初めての船旅で、ワクワクしている様子が伝わってくるのだが、船酔いに苦しまなければいいのだが……。
 ミーナはリシュリンと手をつなぎ、麦わら帽子を被ってはしゃいでいる。リシュリンが麦わら帽子が飛ばされないように、あご紐を結んでいる。
 マーリンが運転して、フェリーに装甲車を載せた。その間、私は陸上でミーナを肩車し、海の彼方を見たいというミーナの願いに応えていた。
 装甲車がフェリーに載り固定されると、我々が乗船する。船の全長は二〇メートル弱、船幅は五メートルほどだ。形状は上陸用舟艇に近い。船首にランプドアがある。
 小さなフェリーは簡単に離岸し、対岸に向かう。
 風はなく、波は穏やかだが、潮の流れは大河のようだ。フェリーの乗組員は、満潮に近いから潮流は穏やかだと言っていたが、それでもなかなかの迫力だ。
 ミーナは相変わらずはしゃいでいる。リシュリンから離れようとせず、リシュリンもミーナから離れない。
 キッカがミーナに話しかけると、二人で船首に走って行く。そのあとをリシュリンが追う。
 マーリンとイリアは、やや船酔い気味で座り込んでいる。ヴェルンドは完全に船酔いで、甲板に寝っ転がっている。

 所要時間一時間一〇分で、対岸に着いた。

 ドビの街は巨大だが、城壁や環濠はなく、平野に発達した無防備な街だ。中小の河川が多いが、水郷都市というほどではなく、天然の要害ではあっても、それを意図した街作りをしている様子はない。
 文化や習俗もルム山脈以北とはかなり異なるようで、家々の壁は白、屋根は赤や黄色といった原色が目立つ。
 この街に長く留まるつもりはない。燃料を補給したらすぐに立つ。
 アークティカに近付いているのだから、目立つ行動はせず、長期間留まれば正体を知られる。用心が肝要だ。
 街の東側郊外に装甲車を止め、燃料の調達を進める間、マーリンとヴェルンドは食料の買い出しを行った。ルム山脈で乾燥肉のほとんどを失い、また果物類も欲しい。
 燃料は蒸気車の補給所がソラトのタンカーを出してくれ、簡単に補充できた。オクテルも同じ店から買った。
 ドビは物資が豊富で、排外的な雰囲気はなく、極めて開放的だ。この感触は、西方やルム山脈北側にはない。
 その開放性がこの街の未来に吉となるか、凶となるかはわからないが、そう遠くない時期に、帝国の侵攻に苦しむことは明白であった。
 我々にできることは、一刻も早くアークティカに戻り、帝国の本格的な東方への侵攻に備えることだ。

 燃料と食糧の補給を完了するのに、一日を要した。
 明日の早朝、内陸のリーズに向けて出発する。距離三〇〇キロ、行程三日の旅になる。リーズから沿岸のラシュットまで距離二六〇キロ。行程三日。途中二〇〇〇メートル級の山々が連なるキシナ山脈を越える。
 あと、六日でキッカは両親の元に戻る。そして、イリアの困難な任務は完了する。
 あと、少しだ。

 出発前夜、夕食の後、リシュリンから想定外の申し出があった。
「ラシュットまで、あと六日。だが、あのトレールという乗り物を使えば、三日で行ける。 ラシュットまで行けば、アークティカの状況が詳しくわかるだろうし、ラシュットと帝国との関係もわかる。
 ラシュットはバタの南側対岸。すでに、帝国の版図に飲み込まれている可能性もある。いきなり乗り込んで、袋のネズミとなっては、こちらがやられる」
 私はリシュリンの計画に対して、「戦力を分断することは得策ではない。それに、乗れるようになってから一日しかたっていないだろう。
 あまりにも無謀だ」
「走りながら上達する。大丈夫だ。
 ラシュットの状況がわからないほうが危険だ。
 キッカは帝国の一部の機関から狙われていることは確かだ。状況がわからぬまま乗り込めば、キッカの安全に関わる」
 リシュリンも旧僧兵組織と旧奴隷商人組織から狙われている。帝国側の組織変革の中で、どの組織がリシュリンを狙っているのかわかりにくくなっている。連中には、私怨で襲うものもいるだろう。
「やはり、一人になるのは危険だ」
「主殿、私は大丈夫だ。自分一人の身なら守れる。私は武人だ。
 たった六日だ」
 マーリンがリシュリンに賛同した。
「危険な一人仕事は、いつもリシュリンで、心がとがめるのだが、ラシュットへの先乗りは必要だと思う。
 アークティカに近付くということは、敵の拠点に迫るということでもある。
 ラシュットまで行けば、ハボル、ルカーンと赤い海の南岸諸都市を辿ってアークティカに至ることになる。
 ラシュットの状況如何で、以後の行動も変わってくるのではないか」
 私は何も答えられなかった。彼女たちの主張は、正論なのだ。ここまでくれば、斥候を出しての偵察が必要だ。
 リシュリンが「決まったな」と言った。
 無言を通していたイリアが一案を出した。
「ラシュットの西にマルという小さな村がある。漁師の村だ。
 その村の南側の山中にフェイトという名の娘が住んでいる。私と同じ伝令士だ。年齢はリシュリンと変わらぬほどだろう。
 フェイトは漁師の子だったのだが、両親が海の事故で行方不明となり、いろいろとあって私が伝令士に誘った。
 彼女を訪ねるといい。リシュリンが直接出向くより、フェイトのほうがアリアンと会いやすいだろう。
 アリアンはフェイトを雇うことがあるから、互いによく見知っている」
 キッカがイリアに問う。
「なぜ、お婆様なの。父様や母様でなくて、なんでお婆様なの?」
 イリアが答えた。
「私は、キッカの両親に雇われたのではない。私は伝令士だ。重要な手紙や貴重な品を、本人に替わって確実に届けることが仕事だ。
 キッカ、私の本来の仕事は用心棒ではないのだ。
 お前のご両親は、今回のことで一二人の手練れを迎えに使わした。
 それとは別に、アリアン、お婆様が私にキッカを見守るよう頼んだのだ。
 結果、一二人の手練れは倒され、お前と私が残った。アリアンには、見守るだけでいいといわれていたが、連れ去られるのを見ているだけとはいかなかったのだ。
 私の判断で、私はキッカを助けた。それだけだ」
「でもなぜ、お婆様がイリアに頼んだの?」
「アリアンは、まもなく齢六〇になる。まだまだ、剣は振るえる。キッカは知らないだろうが、アリアンは武人なのだ。
 本来なら大事な孫娘のために剣を帯びて旅に出たいだろうが、一人二人は相手にできても合戦は無理。それはアリアンがよくわかっている。
 それで、私にキッカの見届け役を頼んだのだ。
 アリアンは昔、私やリシュリンと同じ僧兵だった。抜けて生き残った僧兵の一人だ。
 抜けた僧兵同士、アリアンにはいろいろと助力をもらってきた。
 だから、アリアンに替わって、私がキッカのそばにいたのだ」
 リシュリンが応じた。
「六〇歳まで逃げおおせた僧兵か。面白い、ぜひ会ってみたい。
 一足先にラシュットに行く理由が増えた」
 イリアが少し呆れたように言う。
「前から思っていたのだが、リシュリン。
 僧兵を抜けて一〇年。何人かの抜けた僧兵に出会った。アリアンもその一人だ。
 僧兵を抜けたのものは、いつも己が命の危険を感じている。
 私もそうだ。それ故、臆病になり、表向きはともかく、心の根の奥は暗い海に沈んでいく。抜けた僧兵で、天真爛漫なものなどいるはずはない。
 なのに、なぜお前はそんなに明るいのだ!
 不思議だ」
「それは簡単だ。私には主殿がおる」
 そういって、リシュリンがしがみついてきた。
「お前を見ていると、若さか、馬鹿さか、よくわからぬ」
 場は一気に明るくなった。ヴェルンドが酒を出してきて、久々の宴席となった。
 リシュリンは天真爛漫ではない。それは、マーリンと私が一番知っている。

 翌朝、完全に夜が明けきらない前から、出発の準備を始めた。
 リシュリンはどこで調達したのか、ガラスの入ったゴーグルと、騎兵用鉄兜を用意していた。
 ゴーグルは蒸気牽引車の運転士が使うものと同じだ。鉄兜は、薄手の鉄板を叩いて作った下級兵士用で、鶏の鶏冠のような飾りがない。
 リシュリンが出発する際、ミーナが長い時間抱きついていた。
 マーリンと抱き合い。ヴェルンドと握手を交わす。
 イリアは、アリアンとフェイト宛ての手紙をリシュリンに託した。
 私は、フル充電を確認して電源を切った携帯電話を渡す。
 時計をアナログ表示に切り替え、携帯電話のビデオカメラの機能を使って、キッカのメッセージを記録した。
 その再生方法を教える。
 アリアンにも、キッカの両親にも、絶対的な説得力があるはずだ。
 リシュリンにはルートの変更はしないこと、異常事態が起きた際は後続の我々を待つことを厳命した。
 リシュリンの武器は、ブローニング自動拳銃を持つのみ。カービンは置いていく。また、長剣も帯びず、銃剣だけを携行する。荷物は、背負ったボンサックだけだ。
 ミーナが、ペットボトルで作った大事な水筒をリシュリに渡す。
 リシュリンはマーリンに「ミーナを頼む」と言い残し、一人ラシュットに向かった。
 ヤマハの二サイクルエンジンのサウンドが、耳に残った。

 リシュリンはDT125が気に入っていた。どんな馬よりも速く走り、馬のように疲れず、蒸気車よりも無補給で遠くまで行け、馬が通れる地形ならば確実に走破できる機動力は、まさに自分のための乗り物だと思った。
 マーリンも運転の練習をしたが、バランスがとれず走行することはまったくできなかった。
 僧兵の訓練では、玉乗り、車輪乗りといったバランス系をさんざんやらされた。おそらく、その効果があったのだろう。
 走らせるだけなら、比較的簡単にできた。右足で操作するトランスミッションが少し難しかったが、それも丸一日あれば克服できた。
 リシュリンには、DT125を身体の一部のように操作する自信があった。
 走るにつれ、爽快感が増してくる。風の流れが、時間の流れのように感じる。
 内陸のリーズへは三五〇キロの距離がある。そのほとんどは山岳路で、蒸気牽引車なら四~五日かかる。
 DT125の燃料タンクは七リットル。無給油で、一五〇~二〇〇キロ走れる。五リットル消費するごとに燃料を補給すれば、リーズまで三日、早ければ二日で着く。
 ドビからリーズまでの街道は、この地方の最重要幹線で、山岳路ながらよく整備されている。道幅は広く、大型の蒸気牽引車でも容易にすれ違える。
 リシュリンは、時速三〇~四〇キロを目安に、出せれば五〇キロくらいで走り続けた。
 車輌の通行量が少ないと、いろいろなことを考える。
 昨夜は、久々に主殿に抱かれたかったが、イリアとキッカがいるので、それはかなわなかった。
 ただ、組織を抜けた僧兵のイリアとアリアンは、ともに子を産み家族を持った。
 自分にも同じことができるのではないか、という期待が生まれている。
 無謀なことはせず、任務を果たすのみ、だ。生き残れば、主殿とマーリンと家族が作れる。それを強く望んでいた。

 最初の泊地に着いたのは、日没の直前だった。四回の休憩と一回の給油を除いて一三時間走り通し、約二五〇キロを走破していた。
 正直、かなりの疲労を感じていた。リシュリンは彼女の主から指示されたとおり、その泊地で上位ランクの旅人宿を選んだ。
 二輪車はとにかく目立つ。人目を引くということは、盗難の可能性が高まると言うことでもある。上位ランクの宿ならば、それなりのセキュリティがあり、いろいろな危険が減らせる。
 旅立ちの前、彼女は主からアラビア数字を教わった。その理由は、DT125の距離計を読むためだ。実に単純な一〇個の記号で、幾桁もの数を表すことができ、便利なものだとわかった。
 リーズまでは約三五〇キロ、今日は二五〇キロ走った。明日にはリーズに着く。リーズで給油し、できるだけ前進する予定だ。
 宿には温いお湯が出る湯船のない浴場があり、そこで埃を落とし、軽い食事をとって、携帯の電源を入れた。キーを操作し、ミーナの写真を表示する。ミーナの初めての写真は、少しはにかんだ笑顔だった。そして、電源を切り、深く眠る。

 翌朝は日の出前の四時に起床し、身支度を調え、宿の売店で干した果物を買い、簡単な食事をして、五時にはDT125のシートに跨がった。

 ソラトは、蒸気車の給油・給水所で手に入る。蒸気車の前照灯はガソリンランタンで、その燃料がソラトだからだ。ソラトは四・七五リットル入りの金属製容器で売られていて、空になった容器を店に渡せば、容器代は不要。
 リシュリンは、ソラト一缶とオクテル〇・七五リットルをバラ買いして、燃料としている。この程度の量ならば、どんな給油・給水所でも手に入る。
 DT125には燃料計がない。燃料の消費量は、燃料タンクのキャップを開けて残量を点検しなければならない。ガス欠には注意を払っている。

 リーズは中規模な街で市内中心部には誰でも入れたが、街の外周を迂回して、南東に進路をとった。ラシュットまで二五〇~二八〇キロ。日没まであと一〇〇キロは走れる。
 予定より、一日早くラシュットに到着できそうだ。
 ラシュットに至るには標高一五〇〇メートル級の山脈を越えなければならないが、街道は山脈を避けるように延びていて、街道の最高地点は標高五〇〇メートルほどだ。

 ラシュットまで一〇〇キロの地点で、二泊目となった。この夜もミーナの写真を見た。なぜか、涙が出てきた。一二歳の時から一人で生きてきた。失うものは何もなかったが、いまは違う。
 失いたくないものが多すぎる。失わないためには、戦わなくてはならない。
 そして、よく食べて、眠らなければならない。

 翌朝も五時に出発。山脈に入ると、想像よりも急なワインデェングロードが待っていた。リシュリンはダートに車輪をとられながらも、巧みに操って、五時間で山岳路を抜け、ラシュットまで三〇キロに迫る。
 ラシュット郊外まで進み、道を尋ねながらマル村に向かう。
 マル村に着くと、イリアが描いた地図を頼りにフェイトの家に向かった。
 マル村は二〇戸ほどの小さな漁村で、一階が漁船の格納庫、二階が住処という変わった建屋だ。
 村人には、よそ者を寄せ付けない閉鎖性が感じられた。
 全身を外気にさらす二輪車は、外気に潜む人の悪意も伝えてくる。村人がリシュリンを見る冷たく、悪意に満ちた視線は不快なものだった。
 リシュリンは嫌悪の渦から逃れて、フェイトの家に向かう。わずか数分間であったが、実に嫌な気分だ。白い海や赤い海の南岸の人々は開放的なのだが、この村の雰囲気は異様であった。

 イリアの地図は正確であったが、フェイトの家までの道は獣道同然でわかりにくい。
 ようやくたどり着いたのは、日が大きく西に傾き始めた時刻だった。
 フェイトの家は、マル村の後背にある山地の中の狭い盆地のような場所にあった。
 この盆地の中心には池があり、地面は牧草のような背の低い草で覆われている。地面は固くしまっており、馬が草を食む牧歌的な美しい風景だ。
 フェイトの家は、小さな石造りの平屋だった。その家の左隣には厩が、右隣には焼け落ちた納屋らしき建物の跡がある。
 DT125の排気音を聞きつけたのか、ボルトアクションの小銃を左手に持った若い女が戸口の前に立っていた。
 リシュリンは、少し離れた位置でバイクを止め、エンジンを切った。
「フェイトか!」と大声で呼びかけると、女は右手でボルトを操作し、弾丸を装填した。
「何者だ!」
 華奢な体つきとは対照的な、野太い声が響く。
「イリアの手紙を持ってきた!」
 リシュリンの返答に、明確な反応があり、彼女はリシュリンに向かって走ってきた。
「本当か!」
「あぁ、これだ」と、リシュリンはボンサックの中から、イリアが書いたフェイト宛ての手紙を渡す。
 フェイトは手早く読んだ。
「確かにイリアの筆跡だ。お前は仲間で、協力するようにと書いてある。
 とりあえず、家の中に入ろう。
 その、機械の馬は厩でいいか?」
 フェイトはDT125に興味津々で、エンジンをのぞき込んでいる。
「蒸気機関ではないな。ガソリンエンジンか?」
 リシュリンは驚いた。蒸気機関以外の動力を知っていて、しかもボルトアクション小銃を所持している。これだけで、ただ者ではない。
 家の中は意外と広い。三部屋あり、フェイトはその一つをリシュリンに与えた。
 リシュリンは日没前に池に行き、身体を拭き、石鹸で顔を洗った。池の水は冷たく、心地いいというよりは少し寒かった。
 食事はフェイトが作ってくれたのだが、豆と肉のスープだが単に栄養があるだけで美味ではない。リシュリンは最近、彼女の主の影響から料理に興味を持ち始めていたから、少し残念だった。
 フェイトがリシュリンに警告した。
「私はマル村の出身だが、村の連中は私を憎んでいる。いつ、夜討ちされるかわからないから、武器は手放さないほうがいい。剣を持っていないようだが大丈夫か?」
「剣がなくても身は守れる。
 ところで、その連発銃はどこで手に入れたんだ?」
「この銃がなんだか知っている訳か」と言って、フェイトは小銃を手にした。彼女は食事中でも、片時も銃を放さない。
 その銃はM1カービンよりもわずかに長い程度の騎銃で、ボルトハンドルが水平に飛び出している。同じボルトアクションのスプリングフィールドM1903小銃に比べると、かなり短い。
 フェイトが説明する。
「この銃は、私の養父が南の街で武器商人から買ったものだ。
 争いごとの嫌いな人だったが、私のために少ない蓄えのほとんどを使って買った。
 といっても、得体の知れない武器だったためか、使い込んだマスケット銃より安かったんだが……」
「お前のため?」
「あぁ、いろいろとあってね。
 私の両親はマル村の漁師だった。漁具一式を持っていた。漁具を網元から借りて漁をしていたのではないので、捕れた魚はすべて収入になっていた。
 マル村の村長は網元で、欲深な男だった。私の両親のように自前で漁具を持つ数人の村人を目の敵にしていた。
 私が一二歳の夏の夜、両親が漁に出た。風のない、穏やかな夜だった。
 そして、両親は帰ってこなかった。
 私は孤児になった。村長が私を引き取ると言ったが、私の養父が引き取ってくれた。
 養父はこの村に住んでいたが漁師ではなく、ラシュットの造船工場に勤めていたから、村長の影響は小さく、私を引き取る気になってくれたんだ。
 まぁ、村人は誰もが疑っていた。村長が私の両親を殺したのではないかと……。
 私の養父は異界の人で、呆然としていた養父を助けたのは村の漁具を持つ漁師の老夫婦だった。老夫婦は私の両親と懇意で、互いに助けたり助けられたりの関係だったらしい。
 養父は老夫婦が亡くなる前に、私の両親に何かあったら私を助けるように、といわれていたそうだ。
 そして、私が孤児になったとき、異界人の養父が私を引き取ってくれた」
「養父殿は?」
「私が一四歳になった頃、村長の馬鹿息子が私を妾にしたいと言ってきた。
 かなりしつこく、私の身を案じた養父が武器を探しに、私と南の街まで行った。
 そのとき、偶然、この銃を養父が見つけたんだ。
 同時に私はイリアに預けられた。イリアの連れ合いも異界人だから。
 ただ、同じ異界人でも、生きていた時代が一〇〇年違うとかで、話はまったく合わなかったらしいが……。
 この家とイリアの家を行ったり来たりしていたのだが、一六歳の時、村長の馬鹿息子にこの家が襲われた。
 納屋が焼かれ、養父の大事な飛行機が燃えてしまった。
 それだけじゃない。養父は使い慣れない剣を持って馬鹿息子と戦い、殺された。銃を握る暇がなかったんだ。
 私は、養父と馬鹿息子が戦っている間に銃を取り、馬鹿息子とその仲間二人を撃ち殺した」
「……」
 リシュリンは黙って聞いているしかなかった。
「イリアの手紙に書いてあったけど、あんた、私と同じ歳なの?」
「あぁ、私も一八歳だ」
「こんな話、いままで誰にも話さなかったんだけれど……。なぜなんだろう」
「いいんじゃないか。誰かに何かを聞いてもらいたいことはある」
「あぁ、そうなのかもね。あんたは、私と同じ匂いがする。何となくだけど……。
 ことのついでに聞いてくれ。
 養父の死後、当然のように村長は激怒した。大事な一人息子を殺されて、逆上して家人と村人を引き連れたこの家を襲ってきた。
 村人は網元に逆らえないだけだから、村長を倒せば決着はつく。
 村長側に一発撃たせて、こちらも一発で村長を殺した。
 ただ、村長の女房がいまでも命を狙ってくるんだが、これが厄介でね。
 そんなこんなで、イリアに頼んで伝令士にしてもらった。
 実績が乏しいから、イリアほど実入りのいい仕事はないし、安い割には危険なんだけれど……」
 リシュリンはフェイトが好きになっていた。自分の生い立ちを話す気にはならないが、仲間たちとの旅の話は少しした。また、ミーナのことも話した。
 フェイトは、リシュリンを羨ましいと言った。

 翌朝、フェイトはイリアの手紙を携え、馬に乗ってアリアンの住まいに向かった。村を通らない間道があるという。リシュリンは留守番をした。
 フェイトが戻ったのは、一六時頃だった。
「アリアンが出かけていて、それを待っていて時間を費やしてしまった。すぐに来てくれといっている」
 フェイトが同行するという。
 リシュリンは、フェイトに馬を厩に入れるように言い、身支度を整えて、DT125のエンジンを始動させた。
 フェイトはすぐに戻ってきた。フェイトを後席に座らせると、ラシュットに向けて走り出す。
 リシュリンは間道など走るつもりはない。フェイトを乗せて村を横断し、ラシュットに向かって疾走する。

 アリアンの家は、ラシュットの南側郊外にあった。高さ五メートルほどの塀に囲まれ、門には武装した門衛がいる。門は二重の鉄扉で、まるで城門であった。
 夕暮れ時、夕陽に彩られた庭園は美しく、白壁の瀟洒な建物は小さな宮殿のようであった。
 門衛は、奇妙な乗り物に乗った二人の少女を怪訝に思ったが、一人がフェイトと知ってすぐに通してくれた。
 リシュリンとフェイトが建物に入ると、アリアンが待っていた。
 アリアンはリシュリンを抱き、何度も礼を言った。矢継ぎ早にキッカの様子を尋ね、一言一言にうなずく。孫を思い、心配している普通の老婦人だ。
 一〇分ほどすると、中年の男女が到着した。キッカの両親だ。
 そして、アリアンにした話をもう一度繰り返す。
 母親は泣いていた。
「死んだと思ったことはありませんが、生きてまた会えるとは……。
 子供同士の他愛のない争いごとが、こんな恐ろしいことになるなんて……。帝国は残虐と聞いていたので、連れ去られてしまったのではないかと……」
 父親が「それで、キッカはいまどこに……」
 リシュリンが答える。「今日あたり、リーズに着くでしょう」
 アリアンが「ならば、リーズから蒸気車で三日……」
 母親が「あと三日でキッカに会えるのですね」
 父親が「いや、こちらから選りすぐりの武の者を集めて、迎えに行こう」
 アリアンも「それがいい」と賛同した。
 三人は完全に舞い上がっている。
 リシュリンが冷たく言った。
「それは考え直していただきたい。張り子の兵を集めても、足手まといになるだけ。
 我々は帝国のいかなる部隊であっても、百人隊を撃破するだけの戦力を持っています。
 この地でお待ちください」
 アリアンが冷静さを取り戻した。
「リシュリン殿。
 そなたは僧兵であったとか。
 そなたのお仲間は、女人が一人と男子が二人、それにお子といったな。
 それで、どうやって百人隊を倒すのだ。一時でも軍籍にあった者のいうことではなかろう」
「アリアン様。大奥様もかつては僧兵だったとか。ならば、西方の噂はご存じでしょう。
 僧兵五〇人全滅、奴隷商人百人隊壊滅。
予言の娘の帰還」
 父親がうなずいた。
「聞いたことがある。西方で一台の奇妙な蒸気車に乗った一団が、僧兵と奴隷商人の部隊を粉砕したとか。
 その一団の指揮官は、二本の槍をフォークの替わりに使い、大猫を子猫のようにあやし、美しい二人の娘を妻にし、毎晩一〇回ずつ愛するそうだ」
 母親も冷静さを取り戻した。
「まぁ、はしたない」
 マリアンが尋ねた。
「まさか、その予言の娘の一団ではなかろう?」
 リシュリンが笑った。
「五〇人の僧兵を翻弄したのは確かだし、奴隷商人の百人隊と戦ったのも事実だ。
 指揮官だが……」といって、リシュリンが懐から細長い小袋を出した。
「これは、箸という道具で、この二本の棒がフォーク、ナイフ、スプーンの役目をかねる。 我々の指揮官の国の道具で、最近は我々も使っている」
 父親は「確かに二本の槍だが。小さいが……」
「大猫はロロという名で、西方では闇の獣といわれて恐れられている猛獣だ。ロロは我々によくなついていて、子猫のようにじゃれることがある。
 二人の妻がいることは事実だ」
 フェイトが意地悪そうに「一人の妻はお前か?」と聞いた。
 母親は「まぁ」といって絶句。
 父親は一瞬だが羨ましそうな目をした。

 すでに立ち話のまま一時間が過ぎていた。体格のいい執事が食事の用意ができたことを告げる。
 食事の間、リシュリンは母親を不安にさせないよう、言葉を選んで、コルスク以来の出来事を話した。
 父親が唐突に気付いた。
「そうだ。キッカからの手紙はないのか」
 アリアンが応える。
「おう、そうだ。キッカの手紙がないのは不自然ではないか」
 リシュリンは、強く息を吐いた。
「文字の手紙はない。だが、キッカの姿と言葉はある」
 アリアンがにじり寄る。
「どういうことだ!」
 リシュリンは、懐から携帯電話を取りだした。その瞬間、体格のいい執事は、壁に飾られていた長剣を取り外し、右手に構えた。
「執事殿、しばらく待て」とリシュリンは軽く執事を見て言った。そして携帯電話を操作する。
 リシュリンは、大きな長方形のテーブルを回って、アリアンの後ろに立った。背後から手を伸ばして、アリアンが見やすい位置にケータイを手持ちする。その真後ろに執事が立つ。
 携帯電話の映像が再生された。
 そこには、日焼けして、体格が一回り大きくなり、たくましくなったキッカが、はにかみながら話しかける姿があった。
「もう話していい?」
 それが最初の言葉だった。
「お母様、お父様、お婆様、キッカは元気です。まもなくラシュットに戻ります。いま、ドビの街の外れにいます。
 お母様、お父様、お婆様、お身体を大切になさってください。キッカは必ず戻ります」
 それだけの短い映像だったが、アリアンは感動のあまり泣き出した。
「おぉ、おぉ、小さな箱の中にキッカがいる!」
 執事は驚きのあまり、長剣を下げてしまった。
 父親と母親は異変を感じ、アリアンの後ろに立つと、リシュリンがもう一度再生した映像を見た。
「あぁ、あぁ~」
 母親が嘆きとも喜びともとれない、奇妙な声を出す。父親は目を大きく見開き、肩を震わせている。
 母親の目から、大きな涙が一粒落ちた。
 母親はリシュリンに尋ねた。
「この小さな箱の中にキッカは閉じ込められているの?」
「いや違う。これは、三日前のキッカの残像だ。本物のキッカは、太陽と大空のもと、大地を踏みしめている。
 毎日、剣と射撃の稽古、それと勉学に励んでいる」
 アリアンは、放心している。父親は冷静さを取り戻し始めていた。
「これは、鏡のようなものか。鏡の像を残したのか」
 リシュリンは、返答に困った。
「仕組みはよくはわからぬ。人は光の反射を目で受けて、それを像として脳に送るそうだ。だから、人は時々の様子を覚えていられる。
 この機械は、その人の記憶と同じことができるそうだ」
 父親は驚いていた。
「これは魔法ではなく、機械の技なのか」
 母親は魔法でも機械でも何でもよく、そこに我が子の姿があることが大事だった。
 それから、五回再生し、キッカの両親は自宅に戻った。
 だが、深夜、母親が従者とともに訪れ、バッテリーが切れるまで再生を繰り返した。
 リシュリンは疲れていたが、母親に付き合った。
 バッテリーが切れると、母親は残念そうだった。リシュリンが慰めた。
「ケータイのバッテリーが切れただけだ。キッカはこちらに向かっている。もう少しの辛抱だ」
 不安そうな母親を見て、リシュリンが説明する。
「この機械の中にキッカはいない。キッカは消えたわけではない。
 この中には私の子も写されていた。
 だから、安心しろ」
 母親はリシュリンにすがって泣いた。
「ごめんなさい。自分のことばかり夢中になってしまって。
 あなたのお子さんも見られなくしてしまって。ごめんなさい」
「そのようなことは気にしなくていい。あと数日で会える」

 この日から、リシュリンとフェイトはアリアンの家で生活することになった。
 翌日、アリアンは、リシュリンの男性のような格好が目立ちすぎる、といってドレスを着るように強く勧めた。
 半強制的にドレスを着せられ、化粧をさせられると、その姿を見てフェイトがため息をついた。
「お前、そういう格好をすると、まるでお姫様だな」
 アリアンが「こうしたほうが目立たぬ。そなたの美しさで、あの格好では妙に目立ちすぎるのだ。
 男の関心をむやみに引いてはならぬ」
 リシュリンは、右足の踝の上に、ブローニングM1910自動拳銃をフォルスターごと縛り付けた。
 その格好で、執事が運転する蒸気乗用車で、イリアの連れ合いが営む医院に向かう。
 待合室には、一般の街人に混じって富裕層と思われる人物が何人かいた。執事の話では、腕のいい外科医で、怪我の治療に訪れる患者が絶えないそうだ。
 貧富で診療に差を付ける医者が多い昨今にあって、差別のない医療を行うと評判だそうだ。
 その一方で、そういった行為をよく思わない街の顔役の一部からはにらまれているとか。
 リシュリンは診察まで一時間待ち、ようやく順番が来た。
「リシュリンさんですね」
 目の前の医師は、北方人特有の金色の髪で、座っていても背の高さがわかる筋肉質な体躯をしている。なかなかの色男だ。
「そうです」
「今日は、どこが痛みますか」
「痛みはない。貴殿はエミール・ラングか?」
 医師が一瞬身構えるのがわかった。机の一番上の引き出しに銃がある。それを医師の目の動きだけでリシュリンは見破っていた。
「そうだが……」
「イリアに伝言を頼まれた。もうすぐ戻る、と」
 エミールの驚きは大きく、狼狽しているようにさえ見える。
「イリアは無事なのか?」
「無事だ。怪我はしていない」
「貴女は、どこぞのお嬢様ではないな」
「これでも、大昔はお嬢様だったが……」
 リシュリンはそう言うとスカートの裾をまくって、自動拳銃を取り出し、それを診察机の上に置いた。
「何者だ。異界人か?」
「西方の者だ。イリアと同じ抜けた僧兵だ」
 エミールは驚きで、顔をこわばらせている。
「イリアはどこにいる?」
「おそらく、今朝、リーズを出発した。ラシュットに向かっている」
 エミールは両手を膝に乗せ、強く目をつぶって、長く息を吐いた。
「ありがとう。心配でたまらなかったんだ。
 本当にありがとう」

 リシュリンは診察室を出て、アリアンの屋敷に戻った。

 バタ海峡南側の街道は、非常によく整備されていて、装甲車なら一日に一五〇キロ以上前進できる。また、燃料事情もよく、給油の心配は少ない。基幹都市以外でも、一定の人口を抱える街ならば、ソラトの補給は難しくない。
 バタからリーズまで丸三日を要し、リーズからラシュットまでは二日で到着できる。
 ただ、バタから追われている感覚があった。ロロは反応しないが、何者かに監視されているように感じていた。
 ただのカンだが。

 リーズに着いた夜、そのことを話してみると、ヴェルンドが「同じ小型の蒸気乗用車二輌をよく見かける」と言った。ヴェルンドは、この二輌を注意していたという。
 確証は何もないが、監視されている可能性は否定できないし、どこかで攻撃を受ければ、被害が出る恐れがある。
 用心に越したことはない。
 そこで、リーズからラシュットまで、小休止を除いて、一気に走りきることにした。装甲車の航続距離は二八〇キロ。蒸気車はどんなに長くても八〇キロ程度が限界。
 平均時速三〇キロで走れば、八時間半でラシュットに着く。
 二~三時間ごとに運転を交代すれば、可能だ。試す価値はある。

 その日の夜は、いつもよりも早く全員が就寝し、翌朝四時に起床した。手早く身支度し、四時三〇分にリーズを発った。
 午前七時に長めに休憩し、一時停車を除いて一三時まで走り続けた。この時点で実質七時間走行しており、ラシュット後背の山脈の西側山麓に達していた。
 残りの行程は約八〇キロ。今日中にラシュットに到着できる。
 ミーナとキッカは、相当に疲れていたが、弱音は吐かなかった。
 一七時、ついにラシュットの南側郊外に達した。
 イリアから事前に提案があり、イリアが徒歩で自宅に戻る。
 その間、我々は森の中に身を潜めていた。
 イリアが自宅に戻ると、夫と息子が夕食の支度をしているところだった。
 彼女の九歳の息子は、何となく母は戻っては来ないと思い始めていた。母が追われていることは知っていたし、母が危険な仕事をしていることも理解していた。
 今回は、帰宅の予定日をとうに過ぎているのに戻ってこないので、子供ながらに覚悟していた。そのことを考えて、何度も息を殺して泣いた。
 その母がいつもと同じように、何事もなかったように「戻りました」といって突然帰ってきた。
 母に抱きつき、母に抱きしめられたが、すぐに父が二人を抱きしめた。
 父が「早かったな」というと、母は「リシュリンが来たのですね。話したいことはたくさんありますが、戻ったことをすぐにアリアンに伝えていただけませんか」
「わかった。キッカはどこにいるんだ」
「子供たちが妖が出ると恐れている林です」
 イリアの自宅は、街の南側郊外の外れにあった。夫の医院は決して儲かっているわけではなく、それなりに家計は大変だった。
 イリアはできるだけ安全な仕事を選んでいたが、安全な仕事とは代金の安い仕事であることと同義である。
 親子三人が、富裕ではないが、貧しくもない生活ができれば、それでよかった。
 イリアの家は煉瓦積みの平屋で、木造の大きな納屋が二つある。この納屋は干し草や穀物の貯蔵用だったのだが、農家ではないイリアの家では、一つはマウルティアの車庫、もう一つは小さな蒸気乗用車の車庫に使っている。一番近くの隣家から、一〇〇メートル離れている、野中の一軒家だ。
 イリアは夫に、旅の途中でリシュリン一行に助けられたこと、彼らがマウルティアに乗っていること、小さな子供がいることを説明した。
 エミールは、小型車の車庫にリシュリン一行の車輌を格納して人目をできるだけ避けること、アリアンには自分が伝えに行くことを言い残して、息子を連れて蒸気乗用車に乗ってアリアン邸に向かった。
 イリアは、エミールに用心にとワルサーPPKを渡す。弾倉がフル装填であることも伝えた。
 エミールは、もし、リシュリンの仲間がゲシュタポや武装親衛隊だったらと思うと恐怖で心が押しつぶされそうだった。
 そのことは、いつも心の奥底に消えぬ澱として残っていた。
 そのことをイリアはよく知っていた。シュンからは「JAPAN」と書かれた紙を渡された。この紙を見せれば、シュンのことがわかるといっていた。
 その紙を見せると、エミールは驚いていた。日本はドイツの同盟国だが、日本という国のことは何も知らず、日本人には会ったことがない。だが、日本人ならゲシュタポや武装親衛隊ではない。
 エミールは、薄暗くなった道を進みながら、不安が増していった。この不安感が、自分の心を蝕んでいることは知っていたが、自分では制御できなかった。
 それでも平静を装い続けた。
 エミールは万一のことを思い、嫌がる息子を伴って夜道を走る。

 アリアンは夕食を待つ間、リシュリンと手合わせをしていた。
 アリアンは持久力の衰えは隠せなかったが、油断のできない腕を保っている。二人が大粒の汗をかいているところに、エミールがやって来た。
 門衛はエミールを簡単に通さず、アリアンへの取り次ぎに時間がかかった。
 門衛から執事に「エミールという名の医師が大奥様に面会を求めていますが、いかがしますか」と連絡があったのは、エミールが到着して一五分後のことだった。
 アリアンはエミールをすぐに通すように指示した。
 エミールは「イリアが戻りました。キッカも一緒です」と端的に伝える。
 その場には、イリアの帰還を伝えに来た美しい令嬢がいた。男装をし、剣の握り方は武人のものだ。やはり、ただ者ではない。二年間一緒に暮らしたマル村のフェイトもいる。フェイトは「よかったぁ~」とだけ言った。
 アリアンは「わざわざの連絡、礼をいう。お子に万が一のことが会ってはならぬ。お子は当家に残されよ」
 エミールは息子にこの屋敷に残るよう言い聞かせる。
 アリアンは「お子に食事を」と給仕に命じ、執事にはすぐに乗り物の用意をするよう指示する。
 だが、蒸気車の始動には最低三〇分を要する。
 エミールが「私のクルマで」というと、アリアンはリシュリンに同行を、フェイトにエミールの息子の護衛を頼んだ。
 エミールのクルマには、銃と剣を携えた執事も乗った。
 エミールのクルマは小さく、大人四人ではかなり狭いが、アリアンは一切の文句を言わなかった。

 林に着くと、ヘッドライトの点滅が見えた。道からは外れていて、エミールの蒸気車では乗り入れられない。
 四人は歩いてヘッドライトが光った方向に進んだ。
 イリアの「止まれ!」という鋭い声が聞こえた。
 エミールが「イリア、私だ、エミールだ」というと、イリアが立ち上がり月明かりに照らし出される。
 手には、ドイツ軍制式Kar98kボルトアクション小銃が握られていた。
「お婆様!」と声がして、キッカが飛び出してきた。

 リシュリン、老婦人、銃を携えた屈強な男、それと身長一八〇を超える痩躯の男が立っている。
 キッカが飛び出すと同時に、ミーナも飛び出し、リシュリンにすがりついた。
 キッカが機関銃のように何かを話しているが、その時々の状況を体験したのでなければ、ほとんど意味を介せない内容ばかりだ。
 これほど、冷静さを欠いたキッカを見たことはない。一気に緊張がほどけているのだろう。
 アリアンは、我々を見ていた。キッカの話を一通り聞いてから、我々に向き直った。
「孫娘、キッカが大変お世話になりました。お礼の言葉がございません。
 シュン様はどなたか?」
「私だ」
「この場では、お話もできませぬ。どうか当家にお立ち寄りください」
「ありがたいが、我々は旅を急いでいる」
「どうか、今夜だけでも。
 アークティカの情勢など、お話しできれば、と思うのですが……」
「その申し出は、魅力がありすぎて断れないな」
 エミールが「我が家の納屋にクルマを隠せます。
 貴方は日本人なのですか?」
「あぁ、二〇一三年まで日本人だった」
「そうですか、私は一九四三年までドイツ人でした」
「イリア殿には世話になった」
 私がエミールに握手を求めると、エミールは両手で握り替えしてきた。
「妻を助けてくれて、ありがとう」

 イリアの自宅に着くと、アリアンが手配した二輌の大型蒸気乗用車が止まっていた。
 ヴェルンドとリシュリンに装甲車の隠蔽を頼んで、マーリンとともにアリアンの屋敷に向かう。イリアの息子とフェイトは、アリアンが手配した蒸気車で戻っていた。
 エミールは、我々のフォローのために自宅に残った。イリアは、アリアンへの報告のために同行した。ミーナはキッカとの別れを惜しんで、付いてきた。
 私はM1928トンプソン短機関銃、マーリンはM1カービンを携行し、飾りではあるが剣も帯びた。

 アリアンの館には、キッカの両親が待っていた。
 母親はキッカを見て驚いた。男児のような短髪は承知していたが、身体が一回り大きくなり、立ち居振る舞いが堂々としている。
 躊躇しながらもキッカを抱きしめ、親として、してやれぬことが多かったことを詫びた。
 父親はイリアに丁重に礼を言い、彼の妻子を抱きしめた。
 イリアの報告は壮絶なものであった。特に、父親が送った手練れが、わずか一日で全滅し、以後、コルスクに到着するまで、イリア一人が護衛していたことを知り、娘が九死に一生を得て帰還したことを改めて悟った。
 また、コルスク以降の出来事を知って、我々に深々と頭を垂れた。
 食事が運ばれ、遅い夕食になった。ミーナはご馳走に大喜びだ。大好きなリンゴもある。
 マーリンが「イリア、疑問に思っていたのだが、コルスクで何をしていたのだ?
 治安の悪いあの街は、一刻も早く立ち去るべきであったろう?」
 イリアが答える。
「実は、あのときは進退窮まっていた。乗合蒸気車を乗り継いで、コルスクまで行った理由は、助力を求めてある人物に会うためだった。
 その者は、コルスクの街で要人の警護をしている。私費で雇われる警護人、まぁ、女用心棒だ。
 昔、短い間だが旅をしたことがあり、その縁を頼ったんだが、留守であった」
 ミーナが「メグのおばちゃんと同じだね」というと、マーリンが「メグのおばちゃんて誰?」と尋ねた。
 ミーナが「お姫ちゃんのおばちゃんだよ。おばちゃんの名前は、メグっていうんだよ。お姫ちゃんがそう呼んでた」
 イリアが「そうか。メグはお前たちと一緒だったのか。
 メグ、マーガレット・ホークアイ・ランカスターは、元気だったか?」
 マーリンが「剣は大した腕だ。銃も上手い。連発銃使いだ」
 イリアが応じた。「ということは、剣を振るい、銃を撃つ状況で一緒にいたということか?」
 マーリンが「そうだ。野盗に襲われ一戦交えた。
 だが、女用心棒はかすり傷一つ負ってはいない。元気だ」
 イリアは「そうか。よかった」とだけ答えた。
 アリアンが「そのコルスクだが、昨日、落ちた。帝国軍に包囲され、一日と持たなかったそうだ。コルスク城内に裏切り者がいたという噂もある」
 ミーナが泣き出した。「お姫ちゃん、死んじゃったぁ?」
 イリアが「大丈夫だ。ミーナの友だちには、メグが付いている。きっと、陥落前に逃げただろう」
 マーリンが同意する。
「あの女用心棒はただ者じゃない。お姫ちゃんはきっと無事だ」
 ミーナが「捕まって、酷いことされていない?」
 マーリンとイリアが「きっと、大丈夫だ」と言った。ミーナは不安だった。マーリンとイリアもミーナと同様に不安だった。
 マリアンがアークティカの情勢を話し始める。
「アークティカの沿岸部は、帝国軍が占領している。最大の街であったテュレンに帝国軍の本営があり、ここから略奪した品を積み出していた。もちろん、人も。また、バルカナも帝国軍の拠点だ。
 内陸部は、東方の遊牧騎馬民が跋扈していて、略奪の限りを尽くしたが、いまは馬や羊の放牧をしているらしい。
 アークティカの住民だが、多くはバルティカ南部に逃れたが、ほとんどは帝国軍に引き渡されてしまった。
 南の商業都市ゴルカンの東側丘陵地帯に逃れた人々は、ゴルカンの支援もあって、何とか生き延びている。
 ただ、最近、旧アークティカ軍の指揮官だったという男が、難民たちを、よくいえば統率している、悪くいえば搾取している、ような状況らしい。
 アークティカ領内だが、東の山岳地帯に潜んでいる人々は、相当数いるようだが、実体はわからない。
 ただ、東方騎馬民に対して、しばしば戦いを挑んでいると聞いた。
 また、都市部に住んでいた街人の中には、森の中で生活し、帝国軍に波状的な攻撃をしかけているものがいるという。
 しかし、アークティカ人の抵抗は微々たるもので、アークティカという国はもうない。
 東方には領土を持った国がたくさんあるというが、西方は街を中心にした緩やかな連合体だ。西方は領土を求めないから、大きな争いが起きにくかった。
 だが、いまの西方は、教会と奴隷商人が結びつき、神聖マムルーク帝国を名乗り、広域を支配しようと目論んでいる。
 西方で初めての領土を有する国家が、神聖マムルーク帝国だ。
 そして、帝国は東進を続け、ついに東方の西の果て、バルティカに到達した。バルティカを攻略する前に、バルティカの属国であったアークティカを蹂躙し、バルティカに服従を求めた。
 これがアークティカが、いまのようになってしまった背景だ。
 アークティカは、国防を実質的にバルティカに委ねてしまっていた。
 バルティカはアークティカの反乱を警戒し、軍備の保有を大幅に制限していたから、西側の沿岸から奴隷商人、東側の内陸から東方騎馬民に侵入され、バルティカから見放され、結局は崩壊してしまった。
 悲しいことだ。
 で、尋ねたい。予言の娘よ」
 アリアンはマーリンを見詰める。
「そなたは、アークティカに戻り、何をしようとしているのだ」
 マーリンは笑った。
「どんな予言かは知ってはいますが、私は商人の娘。
 父の後を継ぎ、家業に精を出すだけです」
「それだけか」
「はい、それだけです」
 マーリンはそれ以上、何も語ろうとしなかった。
 アリアンは「貴方たちは面白い人たちだ。気負いもなく、大義もまく、私欲もなく、ただ自分たちの住処を探しているようで、若かりし頃の自分に似ている。
 手助けできることがあれば、何なりと申されよ」
 キッカの父親が初めて発言した。
「キッカのこと、本当にありがとうございました。
 失礼を承知で申しますが、謝礼をさせていただきたい」
 私は、その申し出を断った。
 すると、キッカの父親は「では、謝礼に資する情報を……」と言った。キッカの父親は、三五歳ほどで、中肉中背のどこにでもいそうな平凡な容姿の男だ。
「赤い海南岸の三つの街、ラシュット、ハボル、ルカーンは、帝国から強い圧迫を受けています。
 この三つの街のうち一つでも帝国に下れば、他の街も追従せざるを得ません。
 帝国は、三つの街に軍の進駐を要求しています。進駐を許せばどうなるか、街人の一定数を奴隷として供出するように要求するでしょう。そして、街人の多くが他国に売られていきます。
 各街の政府は、帝国の傀儡に成り下がります。
 しかし、各街には身内の安堵を担保に、帝国に下ろうとする政権中枢にいる権力者が少なくないのです。
 実は、許しがたいことですが、ラシュットにもその動きがあります」
 アリアンは驚き「なんと、まことか!」と質した。
 キッカの父親はアリアンに顔を向け、「母上、本当です。
 政権内部は、徐々に帝国側に傾いています。そう遠くないうちに、よくない知らせがあるでしょう」
 そして、テーブルの向かいに座る我々に顔を向けた。
「その場合、私たちにはこの地を去る以外の選択肢がないないのです。
 キッカのこと、我が母のこと。帝国軍が進駐した街では、私たちは生きてはいけません。
 そこで妻とも話し合ったのですが、もしラシュットが帝国に下った場合、アークティカに迎えていただけないでしょうか。
 アークティカのテュレンには、私が営む造船所の修理用ドックがあります。
 そこで、再起を図りたい」
 我々は何も言えなかった。いまではアークティカという国があるわけではなく、そこに土地があるだけで、我々が帰還してもどうなるのかはわからない。
 アリアンが言った。
「私は逃げるのに疲れた。もう逃げるのに飽きた。キッカには悪いが、アークティカで予言の娘とともに帝国と一戦交えてみたい」

 我々は、明後日にラシュットを発つことを伝え、アリアンの館を辞去した。
 キッカの父親は燃料の手配を約束してくれ、また、造船会社本社屋の前でマーリンが商いをすることも了承してくれた。

 アリアンの家族は、ラシュットのよき街人であった。私にはそう思えた。
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