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第2章 帰還

第12話 山脈越え

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 ルム山脈は、白い海と赤い海に挟まれた地方の南部に横たわる大山脈だ。東西に七〇〇キロ、最高峰は五〇〇〇メートルという南北の交通を遮断する大難所である。
 ルム山脈の南側には、白い海と赤い海をつなぐ大河のような細長い海峡がある。
 この海峡の北側、つまりルム山脈南側は断崖絶壁が続き、人が住める土地は少ない。

 山脈の北側には、ルムの山々がもたらす豊かな伏流水によって、多くの街や村が形成されている。
 最大の街がカフカで、三重の濠と街中心部を守る高さ三〇メートルに達する城壁に囲まれた、巨大城塞都市である。
 三つの濠は半円弧形で、北側には東西二〇キロに達する細長い湖が横たわる。濠の水は、この湖が水源である。
 最も外側の濠の幅は約一〇〇〇メートル、中央の濠は約五〇〇メートル、最も内側の濠と、そのさらに内側の城壁の情報は噂以上のものはない。
 街の内郭はコルスクと同程度の規模のようだが、外郭を合わせればエリスをしのぐ。
 我々旅人が街に入れるのは、外濠と中央濠の間の商人街だけだ。

 商人街は豊かな物資、東西の文化が融合した刺激的な世界だった。
 我々はこの街に到着したとき、その規模を計りかねたが、それほどに巨大な街だ。
 外濠は満々と水をたたえ、水路としても活用されている。後背に山岳地帯、周囲に高地特有の森林、数々の湖沼群という風光明媚な街だ。
 この街から数キロ北は乾燥地帯なのに、風景の極端な変わりように驚かされる。
 街の備えは、たとえ孤立したとしても数年は持ちこたえられると感じさせるほど、堅固だ。
 カフカの東西に延びるマイコ街道の東の終点はバタと聞いていたが、いまは赤い海西岸のマハカラだそうだ。マハカラはバタの北約三〇〇キロに位置する。
 マハカラは、街の南部に防塁を築き、バタからの北上侵攻を阻止した。そのため、逆にバタが孤立し、神聖マムルーク帝国の守備兵団は細々とした海上補給に頼っているらしい。
 その補給のための策源地の一つがバタの対岸、アークティカの中核都市バルカナだという。バタとバルカナの距離は、海路で約二七〇キロ。
 カフカまで来て、ようやくアークティカの状況が具体的にわかってきた。
 赤い海の制海権は、カフカ/マハカラ勢力と帝国とが争っているが、元々が内陸国のカフカに利がなく、バタ/バルカナ以北は帝国側がほぼ掌握しているようだ。
 我々はマハカラまで北東に進んでも、赤い海を渡れないことを改めて確認することになった。ルム山脈越えとドビ海峡渡海以外にアークティカに帰還するルートはない。

 翌朝、まだ昨夜の酔いが完全に抜けきっていない時刻、立て続けに三組の訪問者が我々が投宿する門外のキャンプにやってきた。
 一組目は蒸気車販売店の店主で、私掠隊から鹵獲した大型蒸気乗用車三輌を一括で引き取りたい、という申し入れだ。
 金額を提示されたが、なんと一輌あたりエリス金貨(七グラム)三〇〇枚と高額だ。純金二・一キロは、グラム四五〇〇円
で計算すると、なんと九四五万円!
「ぜひご検討を」と丁重な挨拶をして、連絡先を書いた紙を渡してくれた。
 二組目は、カフカ正規軍の輜重隊の車輌調達係の将校で、三輌まとめてカフカ金貨(九グラム、純度九五パーセント)で八〇〇枚を提示された。純金換算で総額三〇七八七万円だ!
 一輌は一〇二六万円。
 軍側は指値だろうが、蒸気車屋は交渉の余地があるだろう。なんとなく、ワクワクしてきた。
 三組目が問題で、カフカの自治警察のようだ。制服は似ていたが、軍とは違う組織だと断言していた。
 彼らの来訪の目的は、蒸気牽引車を助けたいきさつ、私掠隊の編成・戦力、与えた損害の詳細を質すためだった。
 ここまでは、大きな街ならば、どこでも行われる一般的な取り調べだ。こちらも隠すことはない。
 だが、彼らは意外な提案をしてきた。
「我々は私掠隊の制圧に苦慮している」と指揮官が言う。
 続けて「できれば、なのだが……、私掠隊の物資・機材を貴殿たちに差し上げたい」
 私が言葉の意味を解せずにいると「平たくいえば、私掠隊を襲って奪ったものは、無条件に貴殿たちのもの、ということだ」
 私が「つまり、追い剥ぎの衣を奪えと?」
 指揮官は「そういうことだ。私掠隊に奪われた物資を奪還してくれといっているのではない。私掠隊を襲って得たものは、すべて返さなくていい」
 指揮官は、ミーナとキッカが座る折りたたみ椅子の端に腰掛け、派手な制帽を脱ぎ、若いのに少し薄い髪をかき上げた。
「私掠隊は神聖マムルーク帝国の先兵だ。連中が跋扈することで、反帝国側の戦力を弱めようとしている。
 つまり、正規軍が乗り出す前に、国力をそぎ落としておこうという戦術だ。
 これで、アークティカがやられた。東方の騎馬民を使って国土の侵入と略奪を続けさせて、その対処に国が右往左往して疲れ切ったところで、帝国軍が登場したというわけだ。
 あのときは、まだ奴隷商人の面を被っていたが、まぁそういうことだ」
 この話をマーリンがじっと聞いている。リシュリンがマーリンに寄り添う。
「わがカフカの方針は、私掠隊に対して、警察的取り締まりをすることに決している。
 最初は賞金をかけたが、いまは私掠隊の物資強奪を勧めている」
 そこで指揮官は言葉を切った。ひとつ息を吐き、話を続けた。
「貴殿たちが助けた蒸気車の車長が、貴殿たちは連発の鉄砲を使った、と証言している」
 彼の部下が一人歩み寄った。その両手には、長さ二メートルほどのトレイが捧げるように載せられ、その上を青い布が覆っている。
 指揮官が立ち上がった。
「これをご存じか?」
 指揮官が青い布をわずかに持ち上げる。
 私は躊躇したが答えることにする。
「知っている。カラシニコフAK‐47だ」
 旧ソ連が開発したAK‐47自動小銃だ。弾倉が付いているが、銃の中央、ちょうど機関部付近を車輪か何かに踏まれたらしく、ひどく壊れている。
 若い指揮官の眼光が一瞬鋭くなったが、すぐに眠そうで、怠惰な光彩に変わる。
「貴殿たちも同じものを使っているか?」
「いいや、我々の銃はこれとは違う」
 私はヴェルンドを呼び、耳打ちした。ヴェルンドはM1903A1ボルトアクション小銃を持ってきた。
 指揮官は一瞥して「私掠隊の銃とは違うな」といってため息をついた。
「こいつは連続して弾が出る恐ろしい銃だそうだ。
 この銃に多くの保安官が倒された。対抗することは難しい。
 だから、貴殿たちに私掠隊の掃討を頼みに来たんだが……」
「申し訳ない。我々はただの旅人だ。身を守るためならば戦うが、軍や警察のまねはできない」

 自治警察の来訪以来、我々はカフカへの警戒を怠らなかった。外濠から内部に装甲車を入れず、街外のキャンプに留まった。
 幸いなことに、貨車や客車を三輌以上牽引している蒸気牽引車は、混雑している街内に立ち入ると駐車場を探すことが困難になるので、門外に留まることが多い。
 ミーナとキッカは外濠の内側に入りたがったが、当面は諦めさせた。

 私は自治警察を警戒するとともに、軍に恩を売ることと、街の商人にも利益を与えることを考えた。自分たちの身を守るために、少しの敵は仕方なく、より多くの味方を得ることは必要だ。
 蒸気車販売店の若い店主が提示した価格が、純金換算で二・一キロ×三輌で六・三キロ、軍の車輌調達係が提示した額は純金換算で六・八四キロ。
 蒸気車販売店の店主に言い値で売り、軍にその店で買わせれば、軍は予算通り大型蒸気乗用車三輌を入手でき、蒸気車販売店の店主はカフカ金貨六三枚の利益が得られる。
 店主は買い手がいるのだから、仕入れのリスクはないし、軍が買い手なのだから代金回収は安全だ。こんないい商売はない。

 翌日、小型の蒸気タクシーに乗って、外濠の内側にある蒸気車販売店まで行き、店主に軍に売る条件での売却を打診した。当然、マーリンを伴った。
 マーリンには趣旨を説明したが、彼女にはこの商売の意味が理解できないようだ。
 店主は軍側の値付けについて渋ったが、マーリンが、「利が薄いうなら、一輌あたりエリス金貨一〇枚を引き、二九〇枚でどうだ」と言った。
 店主は、「売る側から値を引くとはな。驚いたよ。何を企んでいるのかわからないが、手を打とう」と条件を呑んだ。
 蒸気車販売店から蒸気タクシーに乗り、軍の輜重隊本部に向かう。
 一時間ほど待たされたが、昨日の来訪者に会うことができ、軍の提示額で売ることを了承した。ただし、我々が蒸気車販売店に売り、その販売店から買って欲しい旨を伝える。
 理由を聞かれたので、「カフカの商人への仁義だ」と答えると、「まぁ、軍にもそんなところはある」と納得してくれた。

 その日の午後遅くに、私、マーリン、リシュリンの三人で大型蒸気乗用車を自走させ、外濠と中央堀の間、中央堀沿い東側の蒸気車販売店にガルム三輌を運んだ。
 若い店主は歓迎してくれ、茶を飲みながら輜重隊の到着を待つ。
 この店は大店で二〇〇輌は展示している。商談用のおしゃれな小屋が四つあり、小屋ごとに店員がいる。
 輜重隊は、小型の蒸気牽引車に貨車を引かせてやって来た。八人の兵が乗っている。
 商談は順調に進み、二〇分ほどで三者の売買契約は成立した。
 輜重隊の指揮官が去り際に「あの不可思議な二輪の乗り物はまだあるのか?」と尋ねる。
 店主は店舗中央の商談小屋を指さし「あそこです」と言った。
 一段高くなった展示台の上に、立派な造作のコーチとサイクルフェンダーのスポーツタイプとの間に、それはあった。
 バイクだ! トレールだ!
 私はすぐにわかった。
 指揮官が歩いて行くと、店主が続いく。
 私は心の高鳴りが押さえられないが、平静を装って続いた。マーリンとリシュリンは興味なさそうについてくる。
 店主が「前後の車輪が同じ寸法なら、部品として売り物になるんだが……。動かし方も燃料もわからないから、乗り物としては売れないし、まぁ、奇っ怪な形だから客寄せ用の看板代わりだ」といって笑った。
 私にはそのバイクの燃料タンクに書かれた文字が読める。DT125、ヤマハのDT125だ!
 真円のシールドビーム付きだから、おそらく1970年代後半のタイプだ。きれいに清掃されていて、トランスミッションの周囲には油っ気もある。
 私が「どこで手に入れた?」と尋ねると、指揮官が答えた。
「盗人が乗っていたんだ。子供を人質にとって、逃げようとしたが、射殺されたと聞いた。この乗り物は警察が没収し、軍に送られたが使い方がわからず、この店主殿に引き取ってもらった」
 私が「いつ頃のことだ?」と尋ねると、指揮官と店主は少し相談するような目配せをした後、「三年くらい前だ」と二人で答える。
 DT125は、一メートルほど高い木製の展示台に載せられていた。広さは六畳ほど。
 DT125には輸出専用の塗色があって、それはグリーンだと聞いたことがある。
 目の前のDT125も美しいグリーンだ。鍍金されたスポークホイールには一点の錆さえなく、タイヤの山はたっぷり残っている。フロントフォークのゴムカバーにひび割れはない。ほぼ、新車の美しさだ。
 展示台にはスロープがあり、そのスロープを上って距離計を見ると、総走行距離は5628キロを示している。
 二つのメーターの中間を指さし、店主に「鍵はあるのか?」と聞いた。
 店主は近くにいた店員を呼び、キーを持ってこさせた。キーは二つあり、針金でまとめられている。
 キーを差し込み回すと、ハンドルのロックが解ける。
 私が「値段はいくらだ?」と店主に尋ねると、店主は少し戯けたように「エリス金貨三〇枚でどうだ!」と言った。
 マーリンにエリス金貨三〇枚を支払うように言うと、マーリンと店主が大変驚き、マーリンは絶対反対、店主はやめておけと忠告する。彼曰く「二本のタイヤでは、倒れてしまうぞ。こいつは欠陥品だ」と諭す。
 だが、私はマーリンに支払いを促した。
 マーリンが渋々エリス金貨三〇枚を渡すと、私はDT125に跨がった。そして、イグニッションをOFFのまま、一〇回ほどキックスターターを蹴る。
 ポコポコ、ポコポコという頼りなげな音が響く。
 エンジンのシリンダー内にオイルを循環させ、ピストンが円滑に動くようにしたのだ。
 店主と指揮官がじっと見ている。店員も集まってきた。客らしい貴人のカップルも見ている。
 燃料タンクは空で、フューエルフィルターも若干乾燥しているようだ。ミッションオイルは正常な量が入っているし、二サイクルオイルも最大値よりやや下まである。
 私が店主に「ソラトとオクテルはあるか?」と尋ねると、店員が店主に命じられる前に走って取りに行く。
 ガソリンランタン用のソラトの五リットル程度の容器と油拭き用なのだろう、かなり大きな容器のオクテルを持ってきた。
 ソラトの容器は満タンなので、そのまま燃料タンクに入れ、オクテルを目分量で五分の一ほどソラトの缶に移す。そして、ソラトの容器にオクテルが少し残る程度まで、DT125の燃料タンクに入れた。
 DT125を揺らして、二種類の燃料を混合させる。
 フューエルフィルターを覗くと、液体が満ちている。
 今度はイグニッションをONにして、キックスターターを蹴る。
 もちろん、バッテリーは完全にあがっていて、赤のイグニッションランプや青のニュートラルランプは点灯しないが、バイクを動かすには必須な条件ではない。バッテリーに電気がなくてもバイクは走る。
 ポコポコ、ブルブル、ポコポコ、ブルブルと、今度は音が変わる。
 いったんDT125から降り、キャブレターのチョークを探した。すぐに見つけ、ノブを引いく。
 もう一度跨がり、キックを蹴る。バランバラン、という音が何度か響くが、すぐに止まる。スロットルを開きすぎた。
 衆目は好奇心から、興奮の様相を見せ始めている。
 もう一度キックすると、今度はバリバリバリ、ポンポンポンという二サイクルエンジン独特のサウンドを響かせる。
 チョークを戻し、スロットルを開閉してエンジンの調子を見る。マフラーからは派手な排気煙が吐き出される。
 DT125は復活した。タイヤを触ると空気が漏れていない。店主に尋ねると、空気入れを手作りして、メンテナンスしてきたそうだ。
 DT125をバックでスロープから降ろした。店員が手伝ってくれる。展示台の前に引き出すと、観衆が進路を開けてくれる。輜重隊員が興味津々で見ている。
 DT125に跨がり、センタースタンドを蹴って引き上げ、スロットルを開く。
 DT125は蒸気車販売店内をゆっくりと通りに向かって進む。観衆もついてくる。
 通りに出たところで、一気にスロットルを開く。観衆の唖然とした視線が、背中に感じる。
 少し走らせて蒸気車販売店に戻ると、質問攻めにあった。
 特にマーリンがしつこいし、自分に運転させろとうるさい。自転車にも乗れないのに、バイクに乗れるわけがないだろう。
 店主は「大損だ!」と嘆くし、輜重隊の指揮官は腕組みをして考え込んでいる。
 私が店主に空気入れを譲ってくれと頼むと、エリス金貨五〇枚を要求してきた。
 今度はマーリンが、えびす顔で支払う。

 私がDT125を運転して装甲車まで戻り、マーリンとリシュリンは蒸気タクシーで帰ることになった。
 装甲車に到着すると、ミーナとキッカが大騒ぎで、ここでも観衆が集まってくる。ヴェルンドとイリアも驚嘆の目で見ている。
 自転車を含めて、二輪車が存在しないこの世界では、バイクは驚異の乗り物だ。装甲車よりも目立つ。
 ミーナをシートの前に載せ、ハンドルに手をつかませて周囲を一周すると、キッカが乗りたがった。
 ほとんど自己の要求をしない子であったが、このときは夢中でせがんできた。後部シートに乗せ、同じように一周する。
 遅れて戻ってきたマーリンとリシュリンも乗せろとせがみ、遊園地のコーヒーカップみたいに何度も回転させられた。

 翌日、蒸気タクシーに乗って、外濠内の建物の一室に向かう。
 私掠隊から助けた蒸気牽引車の事務所で、殺害された蒸気牽引車助手と乗客の遺族に会うためだ。マーリンが同行した。
 助手の妻は乳飲み子を連れていた。憔悴した様子が痛々しく、心を揺さぶられるものがあった。
 彼女にエリス金貨二九〇枚の入ったボンサックを渡すと、礼を言いながら泣き崩れた。
 死亡した乗客の遺族はさばさばした様子で、ある意味、腹立たしかった。父親と名乗る老年に達した男は、彼の息子を侮辱するようなことを言った。
「何の役にも立たない息子だったが、死ぬときは金を稼いだ」と。
 マーリンがつかみかかろうとしたが、車長が止めた。
 事後を車長に託し、その場を辞したが、後味の悪い仕事だった。

 装甲車に戻り、蒸気タクシーを拾って、外濠外直近の武器商街に行く。
 蒸気タクシーには、二二挺のフリントロックマスケット銃と二四振の長剣、二〇振の短剣を積んでいる。
 これを武器商人に買い取ってもらうつもりだ。金貨四〇枚にでもなれば、大儲けだ。
 武器商街には、東西南北、あらゆる国の武器が揃っているという。
 「銃と刀剣買い取ります」の看板が出ている大店に蒸気タクシーを横付けして、売却予定商品を運び込んだ。
 何となく、秋葉原の「パソコン買い取り」の雰囲気に似ている。質屋のイメージではない。
 買い取り値は、カフカ金貨二五枚を提示されたが、明らかに価格交渉の余地はないという言い方だ。
 マーリンも価格交渉無用は想定外だったようで、「わが主、どうする?」と尋ねただけだった。
 結局、カフカ金貨二五枚で売り払った。結構造作のいい剣があったのだが、残念だ。
 その店を出ようとすると、番頭らしい初老の男が、「お客様、店主がお茶をご一緒したいと申しております」と声をかけてきた。
「クルマを待たせている」と、辞去しようとしたが、「お帰りのクルマは当方にて用意いたします」と引き下がらない。
 マーリンに蒸気タクシーに代金を払ってくるように言いつけると、番頭が店員を呼び、代わりに代金を支払ってくるよう命じた。

 この時点で、私とマーリンはかなり警戒した。我々は拳銃と銃剣しか持っていない。
 番頭の案内で、応接室と呼ぶにはいささか狭い客間に通される。
 四方の壁は磨かれた大理石質の石材で造られ、一方にのみドアがある。窓はない。床も石材だが、天井は石材ではないようだ。漆喰を塗っているように見える。
 室内には、直径一・五メートルほどの丸テーブルと、四脚の椅子があるのみ。
 私とマーリンは、促されるまま椅子に座った。番頭は我々の正面に立っている。ドアは右側にある。
 こういったシチュエーションは何度か経験しているが、この世界における商取引の一般形の一つなのかもしれない。
 店主は間を置かずに入室してきた。同時に茶が運ばれる。美しい磁器のティーカップだ。
 店主は老齢の男で、杖を持っていた。その杖を番頭に渡し、着席すると、呼び止めた非礼をわびた。
「お忙しいところ、お呼び止めをいたしまして申し訳けございません。どうか老人の気まぐれとご容赦ください。
 当店にお売りいただいたお品でございますが、私掠隊のものでございましょう?」
 私がうなずく。
「と申しますことは、お客様方が先頃の私掠隊を追い払った方々でございましょうか?」
 私が「そうだ」と答える。
 すると、老店主が番頭に目配せする。番頭がドアを開け、一人の店員を呼び入れた。
 一メートルほどの長さのビロード製の袋を抱えている。身なりから、この男も番頭クラスのようだ。
 老店主が二人目の番頭に目配せをすると、番頭は布袋の中から銃を取り出した。
 旧ソ連がAK‐47系列をベースに開発したAKMS自動小銃だ。AK‐47の改良型AKMの銃床を折りたたみ式にしたタイプ。
 この折りたたみ銃床は、フルオート射撃時の制御を容易にするために水平に取り付けられている。
 私が「この銃をどこで?」と尋ねると、老店主は「お客様と同じでございます」と答えた。
「カフカの役人から同種の銃を見せていただいた。それは壊れていたが……」と言うと、「商人は壊れたものは扱いません」と返す。
「軍には売らないのか」と尋ねると、笑って「わが軍はごく少数ですが、稼働する銃を鹵獲しているようです。改めて、この銃は不要でしょう」と説明する。
 そして、別の袋に入った三〇発バナナ弾倉四個を見せる。
 老店主は「弾は目一杯に装填されております。ご購入いただけませんか?」
「値段は?」と問うと、「エリス金貨一〇〇枚でいかがでしょうか」と。
 この老店主は、何かの政治的背景や思想的な思惑はないらしい。単に我々が金を持っていそうなので、売りつけたいようだ。
 マーリンに目配せすると、彼女は早速商談に入った。
「カフカ金貨二五枚とエリス金貨四〇枚でどうだ。
 カフカ金貨は銃の値。エリス金貨は弾の値だ」
 老店主はひるまず、「この銃は相当な威力があると聞いております。一銃で一〇〇人を倒すとか」
 マーリンも引かない。「銃は確かによい性能だろうが、弾一二〇では一〇〇人は倒せまい」
 マーリンはM1928トンプソン短機関銃の弾倉の装弾数三〇発に四を掛けたようだ。
 老店主は驚いたように、「ほぉ、こちらのお嬢様は、この銃のことをよく知っておいでのようで。弾入れ箱の入り数が三〇と知ってのことということは、価値もよくご存じかと……」
「よく知っておる。わが銃に比して、その銃の弾の威力はさしたるものではない。我らは絶対に必要とは思っておらぬ」
 マーリンはAKMSをM1928トンプソン短機関銃と同種と考えているようだ。AK‐47系列の七・六二×三九ミリ弾は、M1928の四五ACP拳銃弾よりも圧倒的に強力だ。この勘違いが、吉となるか、凶となるか。
 老店主は逡巡していた。自動小銃を高額で買い取ったものの、売り先は限られる。客に有用性を説くのも大変だ。有効性を証明するには撃ちまくるしかないが、撃ちまくるだけの弾はない。また、軍に見つかれば、罪を問われるかもしれない。厳しい事情聴取は免れないだろう。
「エリス金貨一〇枚を加えていただけませぬか」
「五枚でどうだ」
 老店主は頭を下げ「お買い上げありがとうございます」と言った。

 この日、ヴェルンドは燃料の調達を果たし、すべての燃料タンクは満タンになった。また、鉄棒と鉄板で応急のバイクキャリアを作り、トレーラーの後部に取り付けた。
 リシュリンは食料を調達し、果物も手に入れた。カフカは冷涼な土地なので、高地産のリンゴが手に入り、ミーナは大喜び。
 キッカはミーナに影響され、本来の朗らかさを回復しつつある。

 カフカの外濠の内側には、拳銃やナイフは持ち込めるが、小銃や長刀・長剣は御法度だ。また、旅人の非武装車輌の乗り入れは外濠と中央堀の間までだ。
 カフカでは外濠外に駐車場が完備していて、その管理も徹底している。車輌の持ち主は、安心して外濠内の宿に泊まれる。
 これは他の街とは異なるシステムで、防御と通商のバランスを考えたものらしい。
 私とヴェルンドとロロは装甲車で夜番をしたが、女性たちは外濠内側の宿屋で、暖かい部屋と寝具を利用した。
 水と燃料の豊富な土地なので、温水をふんだんに使えるようだ。
 カフカの夜は真夏だというのに冷え込み、肌寒さではなく、寒さを感じるほどだ。
 私は彼らに代わって、峠付近で氷点下まで下がることを想定して、寒さ対策を進めた。
 久々にスーツケースを開け、使い捨てカイロ一〇個入り二パックを取り出した。超軽量ダウンジャケットも出した。
 兵員室に毛布のすべて、マントや厚手の敷物や掛物を持ち込む。
 エディル付近での強風で露呈した欠陥を修正して、装甲車の幌の掛け具合を点検した。今回は完全に覆って進む。ただし、途中までは後方のみ開けておく。装甲車のキャビンは、完全に外気を遮断できない。非常時がないことを願うが、万が一はある。
 マーリンやリシュリンは、寒さで人が死ぬということが理解できないらしく、ほとんど手伝ってはくれない。

 明日は、いよいよ登坂に入る。
 
 イノー図によれば、ルム山脈の最高峰は標高五〇〇〇メートルを超える。山脈越えの最高点はグアニカ峠で、標高四二〇〇メートル。富士山の山頂よりも高い。
 富士山山頂は夏の盛りでも、最低気温は五℃まで下がる。グアニカ峠は、富士山山頂より五〇〇メートルほど高い。標高が一〇〇〇メートル上がれば五~六℃下がるというから、グアニカ峠で氷点下はありえる。
 気圧も低い。六〇〇~七〇〇ヘクトパスカルくらいか。
 当然、水の沸点も下がる。摂氏八五~七五度の範囲と推測している。
 酸素濃度は六〇パーセントまで下がる。ミーナとキッカにはつらい環境だ。もちろん、酸素ボンベはない。
 大気中の酸素濃度が下がると、装甲車のエンジンは出力が低下する。それを防ぐにはスーパーチャージャーが必要だが、M3装甲車のエンジンにはそんなものは付いていない。
 定格出力の発揮できない装甲車は、息を切らしながらこの大山脈を登っていくことになる。人にとっても、機械にとっても、過酷な環境が待ち構えている。
 冷却液のオーバークールも心配だ。フロントグリルの装甲シャッターを閉じたとしても、過冷却を防げるかどうか。
 また、万が一、峠付近で身動きできなくなった場合、冷却液の凍結を防げるのか、それも問題だ。ラジエーターに入っているのは、少量のエチレングリコールを混ぜた水。LLC(ロングライフクーラント)じゃない。水よりも氷結する温度は低いだろうが、それがマイナス摂氏五度なのか一〇度なのかまったくわからない。
 高度順化のためにゆっくりと登り、登り切ったら一気に降りる。この程度の作戦しか思いつかなかった。

 登坂速度は森林限界を超えたら時速一〇キロと決めた。森林限界に達したら三〇分走行で三〇分休憩し、ゆっくりと登っていく。森林限界は標高二五〇〇メートル付近と推測している。富士山五合目より少し高いくらいだから、ここまでならば一気に登っても大丈夫だろう。
 前輪用のチェーンは、フロントバンパーのフックに引っかけてあり、いつでも使えるようになっている。

 登坂開始当日、私とヴェルンドはいつも通り太陽が昇る前に起きたが、女性たちには午前九時頃までに装甲車に集合としていた。
 これも、高地対策のつもりだった。効果があるかわからないが……。
 だが、彼女たちは七時にはやって来た。いろいろと、気を遣っているようだ。
 マーリンが途中まで運転したいといい、森林限界までを条件に許可する。
 私以外、誰も高い山に登ったことがない。私もトレッキング程度の経験しかないが、それでも森林限界は知っている。
「標高が高くなると、背の高い木が育たなくなり、低木や下草だけになる。さらに高くなると草木がなくなる」と説明したら、全員に「へぇ~」と言われた。
 ミーナとキッカは、ちょっとした冒険と思っているらしく、楽しみにしているようだ。

 登坂路への入口は、カフカ後背の湖の南側にあった。東に向かって一五キロほど走り、湖畔を回って南岸に出る。
 観光地の有料道路の料金所に似た立派なゲートがあり、ゲート自体は警察の管理だが、軍の詰所もある。
 兵士たちが見守る中、警官にカフカ金貨一枚の高額な通行税を払い、ゲートをくぐった。

 ルム山脈を横断する道は、荒れていた。数キロ進んだら、朽ちた倒木が進路を塞いでいて、その排除に三〇分を要した。
 このとき活躍したのがタイヤチェーンで、チェーンを倒木に引っかけて、装甲車のフロントバンパーのフックにつなぎ、バックで一気に引っ張ると排除できた。
 その後は、荒れてはいるものの、路肩の崩落や道が土砂に埋まっているということはなく、時速二〇キロほどの早さで登る。
 マーリンが運転し、キッカが助手席、ミーナが中央の席に座って、山の景色を楽しんでいる。
 リシュリンとイリアは、兵員室の最後部に陣取って、過ぎゆく風景に見入っている。私とヴェルンドは、兵員室の最前部にいた。ロロは背後から常時ミーナにちょっかいを出している。
 飛ばし屋マーリンは、いつになく用心深く運転し、過度の緊張の様子は感じないが、慎重なドライビングだ。安心して見ていられる。

 ルム山脈の南北は一〇〇キロの幅がある。山脈越えの街道の総延長は推定値三〇〇キロ。山脈内街道沿いに人家はなく、森林限界を超えると湖沼や湧水は皆無になる。
 このため、一般装備の蒸気車は山越えできない。長距離走行用燃水混載タンカーを牽引する必要がある。

  一〇キロほど進むと、街道の周囲は高木で囲まれた森林になった。このような風景は、この世界に来てから一度も見たことがない。それはマーリンたちも同じなようで、森の木々に圧倒されたのか全員が黙り込んでいる。
 森には生命が満ちており、シカ、カモシカ、リスなど草原にはいない動物が姿を現す。その都度、ミーナとキッカは大騒ぎで、マーリンにクルマを止めろと要求する。
 五〇キロ進むと、橋のない川を渡った。その川の上流には大きな滝があり、その瀑布と水滴が生み出した虹の光彩は絶景であった。
 風景の美しさに見とれて、ここを最初の休息場所にした。

 大人に囲まれて旅をしてきたミーナは、ややもすると大人びた聞き分けの良さを見せていたが、一三歳のキッカが加わってからは、子供らしい無邪気さを復活させている。
 川を渡渉してから、分水の一部が作った小さな池の近くで休息をした。
 その池には三〇センチほどのニジマスに似た魚がいて、ミーナとキッカがヴェルンドの釣り竿を借りて、遊び始める。
 すでに正午を過ぎており、夕暮れまでの到達点は森林限界まで行けるかどうかという状況だ。
 私の当初の計画では、峠を越えるのは二日目の正午頃としていたが、それは無理なようだ。峠付近での野営はしたくない。計画の変更が必要だ。
 森林限界を超えた三〇〇〇メートル付近で二日目の夜を迎え、ゆっくりと登りながら三日目の正午頃に峠を越えることにした。
 そのことを全員に伝えたが、遊ぶ時間ができたミーナとキッカは大喜びだ。
 魚が入れ食いで、瞬く間に一人に一尾が割り当てられるほどの釣果であったのだから、二人が楽しいと思うのは当然かもしれない。
 全員が食事をし、私が魚をさばいて木桶に入れ、装甲車車体後部の雑具ラックに積み込むと、ちょうど出発の準備が整った。
 また、しばらくの間、我々は装甲車の狭い車内で揺られることになる。

 滝を過ぎたあたりから、少し植生が変わり、動物の姿をまったく見なくなった。スギに似た針葉樹はなくなり、シラカバのような樹皮が白く幹の細い木が増えている。
 そして、五〇キロ進むと高木がまばらになり、さらに一〇キロ進むとハイマツによく似た低木だけになる。池や湖沼はまったくなく、水流の気配も消えた。
 ついに森林限界に達したようだ。
 装甲車を止め、車外に出る。周囲に残雪はないが、空気は冷たく、呼気がわずかに白くなる。
 マーリンとキッカが降りてきたが、二人とも寒くて、車内に戻ってしまった。
 日没まで一時間を切っている。野営の準備をする必要がある。
 後部ドアから車内に入り、マーリンに前進するよう指示した。
 周囲はガレ場で、野営に適した場所はない。装甲車を路外に出すことも危険だ。しばらく進み、道が少し広くなっている場所を見つけ、そこで野営することにした。路面は水平で、車体の傾きは少ない。標高は二五〇〇メートルくらいだ。
 出発時点は気温が二〇℃ほど、現在は五℃くらいだ。私以外は、この気温変化に対応できず、かなり疲れている。肉体的な疲れではなく、驚きのほうが大きいのだろう。
 全員に厚着をさせ、焚き火を起こし、食事の準備を始める。ガソリンバーナーでスープを温め、焚き火で魚を焼き始める。
 焼いておいた肉を焚き火で暖めていると、ロロが寄ってきた。肉のにおいに誘われたのかと思ったが、どうもそうではないらしい。
 周囲は薄暮で、山野の輪郭はわかるが、遠目は効かない。
 急激な気温の変化で、私とロロ以外は思考が弛緩している。ただ、ミーナとキッカは、子供の能力なのか元気だ。
 ミーナとキッカは、車体右側の履帯あたりで、石を拾って遊んでいる。
 ミーナとキッカに近寄り、ロロと車内に入るように促した。二人は何かを悟ったのか、素直に従った。
 焚き火のそばにいる大人たちに近寄り、一人ずつゆっくりと車内に入るように命じた。私が「ロロが反応した」というと、イリア以外はすぐに察した。
 我々は、いま拳銃しか携行していない。小銃は装甲車の中だ。迂闊だった。
 それぞれが何かをしているような素振りをしながら、焚き火から離れた。
 イリアが後部ドアから車内へ、マーリンが車体左側の運転席に入ろうとした瞬間、数発の銃撃を受けた。
 リシュリンとヴェルンドが装甲車とトレーラーの間に逃げ込み、私は地面に伏せた。
 匍匐で装甲車の後部まで行くと、ヴェルンドが車内に引き上げてくれた。
 全員が車内にいることを確認し、マーリンに前進を命じる。
 負傷者はいないが、物資の一部を失った。ガソリンバーナーと食器類、作り置きのパン、乾燥肉の大半。
 だが、この局面で最も大事な毛布類は無事だ。
 襲ってきたのは、おそらく神聖マムルーク帝国のどこかの部隊だろう。キッカを狙ったか、我々が標的かはわからないが、獲物となる商隊が利用することが少ない、この高山に山賊がいるはずはない。
 斥候が勇んで発砲したか、薄暮を利用して斬り込もうとしたがロロに察知されたか、どちらにしてもそんなところだ。

 マーリンは装甲車をゆっくりと走らせ、陽が沈む寸前で止めた。
 西側が尾根につながる斜面で、東側が緩やかな傾斜の谷になっている。どちらも見通しはいいが、風を遮るものがない。
 リシュリンとイリアは、遮蔽物の少ないこの場所が防御に向くと言った。確かにそうかもしれないが、この山で最も恐ろしいものは人ではなく自然環境だ。
 しかし、反対するほどの対案はなく、また移動する時間も限られているので、ここで野営することにした。

 最悪の状況だ。もっと標高の低い地点での野営を予定していたのに、峠の直下ではないが、峠を望めるあたりまで登坂してしまった。襲撃によって、進行が半日程度早まってしまったのだ。

 ヴェルンドが頭痛を訴えている。すでに標高は三〇〇〇メートルに達しているだろう。太陽が沈む直前、南の彼方にグアニカ峠らしい道の連なりが見えた。

 ミーナが「お魚、食べられなかったね」とちょっと残念そうに言った。リシュリンがミーナを抱きしめた。
 冷えたワイン、少量の乾燥肉、ビスケットが夕食になった。
 夕食の間に霧が装甲車を包んだ。視界はまったくない。フロントウインドの装甲シャッターを閉め、できるだけ外気を遮断するようにしたが、容赦なく冷気が車内に忍び込んでくる。
 マーリン、リシュリン、ミーナ、イリア、キッカに毛布を渡し、体調不良のヴェルンドにも毛布を使わせた。ミーナに超軽量ダウンジャケットを、キッカには私のセーターを着せた。大人たちは、マントや掛物を身体に巻いて、寒さに耐えるしかない。
 夏毛のロロも寒いようだ。助手席に敷物を置くと、その上に丸くなった。別の敷物を掛けてやると、不安そうな目をして見つめてくる。
 カフカでは、ソーラー充電機で携帯電話一台の充電ができたので、正確な時間がわかる。また暗闇では懐中電灯の代用にもなる。
 運転席に座り、車外の観察を続けた。ひどく寒いが、重ね着とジップパーカーで何とかなっている。
 兵員室後方の床に大きな敷物を四つに折って敷くと、その上に女性五人が座り、身体を寄せ合った。ヴェルンドはぐったりしている。

 二〇時、運転席から外部を観察していると、霧の中に白いものが混じっている。雪だ。
 次第に雪は大粒になり、視界を遮るほどの勢いになっていく。
 二一時、風が出始めた。雪は上から下に降るのではなく、横殴りになっていく。装甲車の幌が激しく揺さぶられ、大きな音を立てる。ミーナとキッカが怯えて、悲鳴を上げる。
 装甲車の運転席天井と側面、後方はシート一枚の厚さで外気と接している。天井には鉄板を張っているが、これもまた寒気を車内に導くデバイスになっている。
 私は、後方ドアの前に敷物を掛け、側面装甲板を支えにして、天井にも敷物を張った。
 狭いテントのようになり、冷気の侵入が少しは防げそうだ。ヴェルンドには、身体に幾重にもマントを巻き付け、寒さに耐えさせた。
 二二時、風の強さは尋常ならざる勢いになり、幌が吹き飛ばされることを恐れるほどになっていた。
 冷却液の凍結を防ぐため、エンジンを始動した。朝まで停止することはない。外気は、間違いなく氷点下まで下がっている。
 エンジンを始動した以上、車外をよく観察していなければならない。積雪がマフラーを超えれば、排気ガスが車内に逆流してくるからだ。
 ときどきヘッドライトを点灯して、降雪と積雪の様子を観察した。
 二四時、雪はやみ、星が瞬く。しかし、風はさらに激しくなり、ミーナとキッカの恐怖は増していく。
 装甲車と外気を隔てるものは、厚さ八ミリの鉄板と薄い布きれだけ。寒気は容赦なく侵入してくる。寒気は体力を奪う。気力を奪い、死に導く。
 使い捨てカイロの封を破り、ヴェルンドに使い方を教え、腹のあたりに入れさせた。他の五人にも使わせた。ロロは丸くなって寝ている。上に掛けた敷物を持ち上げると、鼻の上に長い尾を乗せ、皮膚の露出を最小にして寒さに耐えている。
 日付が変わった二時、再び雪が降り出したが、風が弱まり、急速に外気が冷えているようだ。
 四時、雪は完全にやみ、太陽が昇り始めたが、おそらく今日の最低気温に達したと思う。とにかく寒い。使い捨てカイロを追加して、全員に渡す。
 五時、周囲は柔らかで暖かそうな光に包まれているが、とにかく寒い。
 だが、風は凪ぎ、青空が広がっている。夜明け前、激しい放射冷却があったようだ。
 装甲車のエンジンを停止し、車外に出ようと運転席側ドアを開けようとしたが、凍り付いてしまっている。何度か体当たりをして、開けると、凄まじい寒気が流れ込んできた。
 車外に出ると、すぐにドアを閉め、周囲を見渡す。
 昨日の景色とは一変した、真冬の山の雪化粧だ。美しく、かつ厳しいその姿は、恐怖を感じるほどの感動をもたらした。
 足下には雪が積もっており、くるぶしあたりまで埋まる。雪の下は凍結していて、鏡のようにツルツルだ。
 車体の前部に回り、フロントバンパーのフックに引っかけておいたタイヤチェーンを外そうとするが、これも凍り付いている。
 何度も足で蹴ると、氷が割れ、取り外せた。
それを前輪の前に敷く。
 すると、毛布を被ったマーリンが降りてきた。抱きついてきて、「怖かった」と大泣きする。「もう大丈夫だ」と諭して、チェーンを着ける手伝いをさせた。
 いったん、運転席に戻り、エンジンを始動し、前進させようとするが、履帯が路面に凍り付いていて、吹かさないと剥がれない。
 マーリンに車体から離れるように指示し、アクセルを一気に踏み込むと、バリバリと派手な音を立てて、装甲車が前進する。そして、ギアをリバースに入れて少し後退した。踏みつけたチェーンから車体を離すためだ。
 再度車外に出ようとすると、リシュリンがこちらを見ている。まるで、呆然とした老婆のような顔をしている。あまりの面白さに、笑いをこらえる。
 再度、タイヤの前にチェーンを敷き直し、マーリンの誘導でゆっくりと前進する。
 チェーンの取り付けは、手早く済ませた。チェーンバンド代わりのフック付きスプリングをチェーンに引っかけて、準備を整えた。
 マーリンを先に乗せると、ロロが兵員室に移動していたので、彼女を助手席に座らせた。助手席でも寒そうに毛布を頭から被っている。

 峠までの道は、雪で判別が難しい。四駆にしてゆっくりと、用心深く登っていく。

 峠には一時間ほどで着いた。峠の直前で、雪に埋もれた人の形に似た岩を二つ見た。大きさは大柄な男性と同じくらいだ。
 峠に達すると、人形の岩の数が増え、ざっと二〇はある。また、タンカーを牽引した小型蒸気牽引車二輌と簡易な幌を被せた軽貨車を牽引した小型蒸気牽引車二輌が放置されている。
 縦列で駐車している軽蒸気牽引車の車列の脇を強引にすり抜け、峠を五〇メートルほど下った場所で装甲車を止めた。
 昨夜の極寒で遭難した隊商だと考えていた。
マーリンと一緒に、遭難者に向かって走った。マーリンは頭から被った毛布を離さない。空気が薄く、すぐに息が切れる。
 状況から生存者がいるとは思えないが、それでも確かめる責任を感じていた。
 マーリンが幌付き貨車の荷台で事切れている男を指さした。
「イリアとキッカを襲った連中の一人だ」
 寒くて声が震えている。
「僧兵か奴隷商人か、その両方か。俺たちを待ち伏せしようとして、遭難したのか?」
 私の問いにマーリンが「そのようだ。軽砲まで持ってきている」と、もう一輌の軽貨車の荷台を指さす。
 そこには、砲口口径一〇センチほどの青銅製の短砲身前装砲が載せられていた。
 私が「もらっていくか?」とマーリンに問うと、「寒いから、早く行こう」と泣き出しそうな声を出す。
 私とマーリンは装甲車に戻り、峠を南に向かって下る。

 下りは高度順化の必要はなく、休憩をせずに一気に走る。
 峠から一時間ほどで、雪が消え、路面の凍結はなくなった。やや平らな場所を見つけ、チェーンを外し、再び一気に下って行く。装甲車は快調で、エンジンのフケが次第によくなる。高度が下がり、大気中の酸素が増えたことから、本来の出力を取り戻したのだ。
 森林限界の境界あたり、低木の中に、高木が混じる地点で、最初の休憩にした。
 この頃には、ミーナとキッカは元気になっていて、休憩をせがんでいた。
 リシュリンは老婆のままだ。ヴェルンドはよく眠っている。イリアは凜としている。

 休憩停車を始めてから三〇分ほどすると、ヴェルンドが起きてきた。まだ、頭痛が治まらないらしく、つらそうだ。
 ここで、峠を越えて以降、最初の作戦会議をした。
 マーリンが峠での出来事を話し、リシュリンとイリアが考え込んでいる。
 イリアは、彼女たちを追っていたのは僧兵の軍警で、四~五人のグループだという。また、リシュリンは、僧兵の軍警は一般の僧兵よりも残忍だが、民間人を追うことはない、と説明する。
 死体の数を確認したわけではないが、ざっと二〇~二五人ほどの部隊だった。
 リシュリンとイリアの見解は、我々を追っている部隊とイリアを狙うグループが合体したのではないか、ということだ。
 神聖マムルーク帝国成立後、連中の軍事組織がどのような再編をしているのかは、定かではないが、宗教的軍事組織である僧兵、私兵である奴隷商人部隊、在郷の世俗領主たちが抱えていた軍の三つを統合して、国軍に改めていることは容易に想像できる。
 おそらく、そういった改変の中で、末端の部隊までもが臨時に再編された可能性がある。
 また、追われる側が合流したのだから、追う側も手を組んだ、という単純な図式も成り立つが、僧兵の軍警は一般の僧兵とさえ共同作戦をしないとするリシュリンの説明が正しいとすれば、このような単純な理由ではないのだろう。
 どちらにしても帝国側の出方を、いままでと同じと考えてはいけない。
 まもなく一〇時になるが、五時間走り続けて、気温は体感で摂氏二〇度ほどまで上昇している。おそらく、海峡に達すると真夏の気温、三〇度は確実だ。
 それと、マーリンとリシュリンから、峠の寒さの文句をルム山脈の山塊をすべて集めたよりもたくさん聞かされた。二人にいわせると、寒かったのはすべて私のせいらしい。
 気温の上昇に身体が慣れないことを心配し、以後は幾分歩を緩めることにした。
 また、運転席の上と兵員室後部の幌を外した。これで、車内の澱んだ空気が一掃される。
 毛布や衣類をたたみ、出発の準備を整えた。水場を見つけたら、そこで食事をする。

 ルム山脈の南側は絶景であった。中腹を過ぎたあたりからは、山塊は幾筋もの滝が水を落下させ、美しい渓流と点在する湖沼が絵画的な風景を現出させている。
 また、海峡と対岸が遠望でき、地平線が丸く見える。
 山脈の北側とは異なり、森林が形成されておらず、高木がまばらな草地が多い。
 昨夜は全員がほぼ眠っていないことから、一二時から二時間の休憩をすることにした。
 ミーナとキッカは寒さが和らいだあたりから、車内でよく寝たようで、元気に遊んでいる。
 ガソリンバーナーを失ったため、薪で火を熾し、温かい飲み物と食事を用意する。
 マーリン、リシュリン、イリアの三人は車内で寝て、ヴェルンドが子供たちの世話をした。私は大きな岩の影で、一時間ほど寝た。

 一四時に再出発し、一六時に最初の村に到達。
 この村にゲートがあり、ここでもまたカフカ金貨一枚の通行税を払わされた。
 マーリンが文句を言うと、ゲートの官吏は入口側で支払ったのは峠までの料金で、峠からの料金をここで支払うのだという。
 だが、カフカ金貨一枚の通行料を払えば、ロッジ風の宿舎に投宿でき、温泉にも入れるとあって、必ずしも法外な料金二重取りとは言えないだろう。
 いや、やはり法外だ。

 全員が疲れていたが、私が車内に寝ることにし、他は宿舎に泊まった。温泉はやや温いが、十分に身体を温めてくれた。
 明日は、日の出とともに起床し、朝食を済ませてから出発する。

 どうにか、このルート最大の難所を突破した。
 だが、海峡横断という難関が眼前にある。
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