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第2章 帰還

第10話 コルスクの出会い

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 コルスクの街まで、あと一時間程度の距離まで達した頃から街道が混み始める。前方の蒸気車が停止していて、しばらくすると走り出す、いわゆる渋滞だ。
 また、装甲車のエンジンが不調の兆候を見せており、アイドリングが安定せず、低回転域のフケが悪い。
 間違いなく、キャブレターの低回転側バルブであるスロージェットの目詰まりだ。キャブレターを分解清掃すれば直せるが、道端でできる作業ではない。
 だましだまし、装甲車を転がしてコルスクに向かう。
 ミーナとお姫ちゃんは、おしゃべりパワー全開だ。

 コルスクの街の北城門に着いたのは、一二時近かった。
 侍女は城門まで一〇〇メートルほどの場所で、「ここで降ろしてくれ」と言い、荷物を背負うと、奥方と女の子を連れて立ち去った。
 ミーナとお姫ちゃんは車内でバイバイし、侍女は丁重に別れの挨拶をしてくれた。奥方は無言だった。
 また、ここで互いに旅の無事を祈って、ワゴンとトレーラーとも分かれる。
 我々はヴェルンドとの待ち合わせ場所である南城門に向かった。

 コルスクの街は、エリスの街を小さくしたような造りで、円形状の城壁は周囲八キロほど。城内の面積は五平方キロ程度で、これは台東区の約半分だ。
 城壁の高さは二〇メートル近くあるが、エリスに比べれば堅固とは言えない。
 だが、城外は発展していて、華やかで整然とした街並みだ。エリスとは異なる発展を遂げたのだろう。

 南城門付近は、北と東西に比べれば寂れていた。南へ延びる道は、極端に悪く、市場はなく、宿もない。
 そんな寂しい南城門の脇にヴェルンドは立っていた。北と東西の城門には門衛がいるが、南にはいない。しかも、城門の主門は閉ざされている。開いているのは、人が通るための通用門だけ。
 ヴェルンドは渋滞にならず、順調に走り九時には北城門に達したという。門衛に事情を話すと、怪我人は収容されたが、蒸気車がコルスクの議会議長家のものであったことから、かなり厳しく事情聴取をされたようだ。
 ヴェルンドには珍しいことだが、すっかり機嫌を損ねていた。

 我々は、東城門近くに宿をとった。小型蒸気車用の車庫一体型戸建で、一〇棟ほどの小規模な施設だ。
 ただ、温水プールのような薄手の着衣で入る浴場があり、旅の疲れを癒やすには最適だった。男女時間交代制だ。
 装甲車に故障があることを伝えると、四人は大変心配した。故障は軽微であることと、交換部品があることを説明し、交換部品を使わなくても修理可能であると告げる。
 ただ、修理には数日かかるかもしれないので、コルスクには一週間程度留まることにした。

 コルスクの城外は美しいが、最悪の治安状況であった。引ったくりから強盗殺人まで、ありとあらゆる犯罪がはびこっている。
 また、他の街とは異なり、宿の敷地内は安全、という原則は通らず、宿屋内でも誘拐や強盗が多発している。
 特に子供の誘拐は深刻で、旅人は一時もわが子から目を離せない。宿の主人から、ミーナから目をななさないよう注意されたリシュリンは心配し、ミーナには一人で屋外に出ないようきつく言いつけた。
 宿棟は二階建てで、一階は車庫と二階に上がる階段だけしかない。一階外壁は石造り、二階は木造だ。
 入口は車庫の跳ね上げ扉だけで、一階には窓さえなく戸締まりは厳重だ。
 二階には二部屋あり、一部屋はマーリン、リシュリン、ミーナの三人、もう一部屋は私とヴェルンドが使った。
 部屋に寝具はなく、床に木板が引き詰められているだけだ。寝具の貸し出しもない。
 私は相変わらず装甲車の横が好きで、車庫の中の装甲車のボディを支柱にターフをかけ、その下で眠った。一階にはベッド兼用の折りたたみベンチが用意されてあり、それを利用した、
  その日は全員が疲れていて、女性陣三人とヴェルンドは一五時には寝てしまった。
 私は、半分寝ながらも見張りを続けていたが、一九時には完全に寝てしまったようだ。ロロは兵員室の床で丸くなっていた。

 翌日から私は装甲車のキャブレターの修理に取りかかった。要領はおおよそわかっているが、実際に始めてみないと作業時間や修理の可否は判断のしようがない。
 ミーナは私と一緒にいることになった。

 翌朝は、全員が五時には起きていた。旅人宿の朝は早い。早立ちの蒸気車は、夜明けとともに出発する。だから、戸外は静かではない。起こされたといったほうが、正確かもしれない。
 ヴェルンドには、今後必要になるかもしれないタイヤチェーンの確保を頼む。
 マーリンとリシュリンには、争いごとに巻き込まれないように注意した。
 コルスクの城外市場は、規模が大きく活気がある。エリス同様、入手できないものはなさそうだ。
 ただ、引ったくりや置き引き、万引きの類いは日常茶飯事で、万引き犯が捕まり、商店主に首をはねられることも珍しくない。
 強盗が逆に身包み剥がされ、路頭に迷う姿も見た。
 本来、正悪は微妙な関係にあるが、少なくともこの街には正義はない。強いて言うならば、生きているものは正、死んだものは悪。奪ったものは正、奪われたものは悪。
 治安を司る官憲はいるが、その腐敗は甚だしく、賄賂の強要はもちろん、乱暴狼藉から強盗、強姦、誘拐、人身売買、追い剥ぎまで何でもやらかしていた。
 コルスク城外において、最も勢力を持つ反社会組織は官憲であった。
 私は、マーリンとリシュリンに、喧嘩を売られても逃げるように、銃を使わぬように、などなどあらゆる注意をしたのだが、二人が理解しているかは極めて疑問だ。
「瓜田に履を納れず、李下に冠を正さず」を教えたが、逆に「主殿は、ちょっとかわいい子を見ると手を振るが、そのことわざに当たらぬのか」とリシュリンに逆襲される始末で、二人が真剣に受け取っているとは思えない。

 二人は翌日から終日出かけるようになった。剣と拳銃は携行させたが、ミーナの同行は認めない。

 ヴェルンドは、鋼製の鎖を求めて城外を奔走している。
 正直なところ鎖でできたタイヤチェーンを、しっかりと見たことはなかった。
 雪道を走る際はスタッドレスタイヤに履き替えていたし、チェーンも持っていたがゴム製の網状の製品だった。
 それでも、うろ覚えながら、留め具の形や仕組みをヴェルンドに説明して、設計から製作までを任せた。
 ヴェルンドは、スペアタイヤを降ろして、外周の採寸から、タイヤの横に並べる鎖の寸法まで、確実かつ着々と進めていった。
 ヴェルンドは望むサイズの鋼製の鎖を見つけることに苦労していたが、どうにか北城門外の市場で見つけることができた。
 値が高く、私とヴェルンドが思案していると、マーリンが「値切ってやる」と言いだし、ヴェルンドと再び出かけた。
 結果、値は三分の一まで下がる。ヴェルンドは、マーリンが店主に言った最初の一言で「価格が半分になった」と驚嘆していた。
 そのマーリンの言葉とは「おじさん、この美人のお姉さんの顔を見られただけでも幸せだよね。
 その幸せの代金払おうよ。
 じゃ、まずはその値段半分にして。そこから価格交渉ね」
 店主は「しゃねぇな。美人のあんたに免じて、この商売乗らせてもらうよ」
 ヴェルンドが「もう少し安くなりませんか?」といくら交渉しても、首を縦に振らない店主が、マーリンが相手だとその態度を一変させたらしい。
 問題は、その鎖を持ち帰る方法だった。鎖の総重量は三〇キロ近い。ヴェルンドは小柄だが頑健な男で、その程度の重さなら担ぐことができる。
 しかし、マーリンは「体力の無駄遣いだ」と言って、ヴェルンドの予算で無理矢理に荷車を買わせた。それは、小型のリヤカーのような人力で引くタイプで、車体は鉄製シャーシに木製荷台。車輪は木製スポークで、外周に鉄輪がはめられている。サスペンションはない。リヤカーの形をした大八車といったところか。

 ヴェルンドは、東城門外の鍛冶屋を訪ねて、チェーンの接合と、留め具の製作に移っている。

 マーリンが「石鹸が少なくなってきた。少し作ろうと思うが、灰汁の代わりになるものはないか?」と尋ねるので、「苛性ソーダがあれば灰汁の代用になるが、この地方で苛性ソーダを何というのかは知らない」と答える。
 マーリンは「苛性ソーダは、石鹸の製造以外で何に使う」と尋ねるので、「他の用途は洗浄とかだろうが、思いつかない。消石灰と炭酸ナトリウムがあれば作れるが、この土地では現実的ではないだろう。やはり、灰汁を作り、濾した上で、やや煮詰めて強アルカリ液を作るほうが現実的だ」と言った。
 マーリンは納得しがたいようではあったが、立ち去った。

 コルスクの南、当面の目的地であるカフカの情勢を知ることは、急務であった。
 ただ、エリスでもそうであったが、カフカの情報自体が少なく、都市としての評価は二分している。
 評価の一つは、白い海南岸と赤い海南岸を結ぶ東西交通の要衝として発展しているというもの。
 もう一つは、山脈越えルートの衰退と東西交易路としては東側の終点の街バタが奴隷商人に攻略されたことによる目的地消失によって、交易路自体が大きく衰退していると言うものだ。
 どちらが真実かは判断しかねていたが、よりカフカに近いコルスクならエリスよりも詳細な情報が得られると期待していた。
 だが、その期待は見事に裏切られた。コルスクの治安が悪く、交易商人たちにとって、この街は単なる通過点でしかない。補給ができれば、他の街にすぐに移動した。
 ただ、コルスクには物資を購入する資力があり、物資の集積には成功していたから、この街を避ける交易商人は少なかった。手早く商いをして、さっさと立ち退く街である。

 コルスクの城内に入るには、コルスクの街人でなければならない。城外の人々は、一時的に集まってきている他国人で、他国の情報を集めやすい環境ではあったが、カフカについては噂以上のものはなかった。
 最近カフカに行った、カフカから来た、カフカの街人と知り合い、といった一次情報は皆無だ。
 これでは、カフカは謎の街、ということになってしまうが、事実そうであるらしい。
 だが、わかったこともある。
 一つ目は、カフカは奴隷商人か僧兵のどちらかと戦闘し、街の防衛に成功したらしいこと。
 二つ目は、カフカは現在も奴隷商人と西方教会の圧力を受けているらしいこと。
 三つ目は、カフカの街は外部から封鎖されていないこと。
 つまり、カフカは西方との戦いを継続しながらも、街は街人によって維持されているということだ。
 それと、コルスクとカフカの間の村や街、特にグロヌイやエディルといった比較的規模の大きい街との往来はあることもわかった。少なくともエディルまでは行くことができ、エディルから南の状況は不明と言うことだ。
 全員でエディルからやって来た旅人を探した。しかし、会った、知っている、という情報はあるが、本人にたどり着くことはできない。
 どうしても一次情報が欲しかった。

 ミーナは、コルスクの治安の悪さから、終日宿棟に閉じ込められている。
 朝夕の二回、ロロの散歩と一緒にミーナも外出した。マーリンとリシュリンが付き添い、付き添うというよりも、護衛といったほうが正しい。
 つまり、コルスクでは、幼児は保護者ではなく護衛がいなければ散歩もできないのだ。

 装甲車の修理は、燃料の流路であるキャブレターを分解することから、車庫内に気化した燃料が充満する恐れがあった。しかも、車庫のある一階には防犯のために窓がない。揮発性の高い燃料が充満すれば、わずかな火花でも爆発の危険がある。
 そのため、私は車庫の跳ね上げ扉を全開にし、車体を車庫にフロントから入れ、トレーラーを外して、装甲車の左隣に置いた。これで、車庫外からの視線はおおよそ遮ることができた。
 ミーナはロロと一緒に、トレーラーのそばにいることが多い。車庫の出入口に折りたたみ長椅子を置き、その椅子よりも外にはミーナは出てはならないと決めた。
 まだ四歳の子には、つらい日々だった。

 装甲車のキャブレターを外し、分解すると、すぐにスロージェットとメインジェットの位置がわかった。
 スロージェットを引き抜き、戸外へ出て、太陽にかざしてみたが、光が見えない。やはり目詰まりしている。ミーナが指望遠鏡でまねをしている。
 工具箱の中から家庭で使う電源コードのような銅線を見つけ、ばらして細い針金を作った。また、スロージェットとメインジェットをソラトに浸けた。
 この際、点火プラグの清掃もしておこうと思い、六本のプラグを一本ずつ外してブラシでこすりカーボンを落として元に戻す作業を続ける。
 二一世紀のクルマはこんな作業をする必要はほとんどないが、二〇世紀のクルマではこれらの作業はユーザーがなすべき必須の整備なのだ。
 私は大学三年の冬、生まれて初めて自分の車を持った。いや、自転車さえ持っていなかったのだから、初めての自分の乗り物になる。
 そのクルマは、ADバンというライトバンで、中古車センターの隅に置かれていた。値札はなく、フロントフェンダーにへこみがあった。
 そのクルマを見ていると、店主らしい中年の男が寄ってきて、「廃車にするクルマだが、欲しければ五万、車検はあと三カ月残っている。保証はなし。四駆だから役に立つよ」と言った。
 結局、私はそのクルマを買い、この世界に来るまで愛車にしていた。そのクルマで、免許の取得という意味ではなく、真の意味での運転を覚え、自動車の整備を覚え、行動の自由の意味を知った。
 就職をして、収入を得て、生活が安定しても、なぜかそのクルマがよかった。走行距離一五万キロ、登録後一五年経過、五速マニュアルのトランスミッション車だが、私の愛車だった。
 お姉さんとのドライブデートには、BMWでもレンタルすればいい。そう思っていたし、そうしてきた。
 あのクルマがなければ、私はいま装甲車の修理はできない。

 メインジェットにも目詰まりがあり、これは銅線の針金できれいにそぎ落とした。
 スロージェットの穴は非常に細く、うかつに針金を突っ込むと穴を広げてしまう。少しずつ用心しながら針金でつつきながら、貫通させた。真円で、太陽の光が見える。
 ミーナが「見せて」とせがむので、見せてやると、何がどうなのか少し不思議そうだった。
 キャブレターを組み立て直し、エンジンに組み付ける。エンジンを始動すると、狭い車庫に軽快なエキゾーストノートが響き渡る。
 ミーナが飛び跳ねながら手を叩いて喜ぶ。我々にとって、このクルマは己が命を運ぶための重要な乗り物なのだ。

 これで、この日の作業が終わった。同時に、装甲車の修理は完了した。
 あとは、ヴェルンドのタイヤチェーンの進捗次第だ。

 ヴェルンドのチェーン作りは、思うようには進んでいないらしい。私の下手な絵だけで、見たことがないものを作らされるのだから大変だ。その手伝いを始めたいが、ミーナが一人になってしまう。
 ときどき相談に乗るだけにして、その後はミーナの子守に専念する。

 コルスクの街に滞在して、すでに三日が経過した。物騒な街で、白昼堂々の強盗がまかり通る。また、官憲の腐敗は目を覆いたくなるほどで、言いがかりをつけられ高額な賄賂をむしり取られた隊商の長が、コルスク官憲の屯所を襲撃して金を奪還する事件まで起きていた。
 この街は早く立ち去った方がいいのだが、マーリンとリシュリンにはその気はないようだ。
 夕方、ヴェルンドが戻ってから、ミーナとロロと一緒に散歩に出かけた。
 ダンビラを腰に下げての散歩は、無粋きわまりない。しかも、M1917リボルバーまで携帯している。
 ロロにリードを付け、そのリードをミーナが持ち、ミーナの手を引いて歩いていた。
 旅人宿の高い塀に沿って歩いて行くと、脇道から出てきた斑模様の大きな猫を連れた男と鉢合わせをしてしまった。
 互いの存在に驚いたロロと斑猫が、危うく取っ組み合いになりそうになったのだが、私がロロと斑猫の間に身体を入れて、間一髪で猛獣の決闘を食い止めた。
 私が斑猫に「ごめんねぇ~。驚かせちゃって」と言いながらしゃがんで頭を撫でると、ロロが背中に覆い被さってきた。
 そのままロロをおんぶして、二匹を引き離した。二匹に少し引っかかれた。
 男は大変恐縮し、またけがを心配してくれた。彼の宿棟で手当と茶を馳走してくれるとのことで、立ち寄ることにする。
 宿棟に着くと、男の家人が化膿止めの油質の塗り薬を付けてくれ、包帯を巻いてくれた。また、ミーナには菓子と茶を振る舞ってくれた。
 怪我は子猫に引っかかれた程度で、わずかに血がにじんだだけだ。

 縁とは不思議なもので、その男はエディルから来たと言う。
 そして、エディルまでの状況と、カフカの情報を教えてくれた。
 エディルまでは相当な悪路だが、雨さえ降らなければ移動できるそうだ。ただし、街道は治安が悪く、大仰な護衛がいないと確実に盗賊が襲ってくると言う。
 カフカには二年前に行ったとか。エリスに匹敵する大きな街で、カフカ以北とは没交渉になったが、衰えてはいないはずだと言う。カフカは、ルム山脈北側の東西を結ぶマイコ街道の要衝として、また、マイコ街道を統べる街として、その勢力は衰えていないそうだ。
 バタが攻略されてからは、マハカラという赤い海西岸の都市がカフカ勢力の拠点になっているとの説明だ。
 ただ、エディルからカフカへの道は、西方勢力の浸透によって遮断されているらしい。軍事的な知識がないらしく、どのような遮断の方法かは知らなかった。
 だが、一次情報が手に入ったことは大きい。
 気が付けば、ミーナはロロと斑猫の頭を撫で、斑猫はミーナの麦わら帽子を欲しがっている。
 夕暮れが間近に迫っていたので、男の宿棟を辞し、我々の宿に帰った。

 マーリンとリシュリンは、すでに帰っており、パンと豆のスープで夕食を済ませる。
 夕食後、マーリンから「金貨一枚を使った」との報告があった。この金貨は、非常の際に使うよう全員に一〇枚ずつ与えたもので、日常の費用ではない。
 用途を尋ねると「無香の植物油とバラの香料を買いました」と。さらに買ったものを何に使うのかを尋ねると「石鹸を作る」と。
 それを聞いていたミーナが「バラの石鹸!」と叫び、テンションがマックスになる。
 マーリンが一気に話し出した。
「わが主は国にとって、一番重要なものは何だと思う。
 私は、民が飢えぬことだと思う。飢えぬためには産業がいる。
 今のアークティカには、秋になっても収穫する穀物はなく、他国に売る織物もなく、生き残った民は冬を越せない。
 運良く冬を生き延びても、春に蒔く種はない。
 これでは、どう考えても生きてはゆけぬ。だから考えた。
 アークティカには、オリーブや地中に実を付け、その実に大量の油分を含む野生の草がある。
 アークティカ人は昔から、野生の植物を採取して油を絞っていた。産業とは言いがたいが、それでも大量に採れるのだ。
 その油を使って石鹸を作れば、他国との交易品になる!
 石鹸を作って売り、その利益で穀物の種を買い、そうすれば翌年には収穫できる。
 私は間違っているか」
「間違ってはいない。荒っぽいが経済的な論理は成立している。
 やってみなさい。応援しよう」
 マーリンは嬉しそうだ。

 マーリンとリシュリンは、翌日から堂々と石鹸作りに取りかかった。今までもこそこそしてはいなかったが……。
 原料は、植物油、強アルカリ液、そして香料。このうち最も高価なのが香料で「ローズオイルの価値は金の重さと同等」だそうだ。実際はそれほどではないようだが、マーリンが入手できたローズオイルは二〇〇ミリリットル程度だ。
 私はすぐに、商品にするにはバラ色に染める着色料が必要だと気付いたが、口出しはしないことにした。マーリンが自分で考え、自分で体験し、自分で開発していかなければならないのだ。
 最大の問題は強アルカリ液の確保で、苛性ソーダが入手できない以上、わら灰から作る以外にない。
 マーリンがヴェルンドに買わせたリヤカーは、わら集めに大活躍している。いや、わら集めのために、ヴェルンドにリヤカーを買わせたのだ。
 マーリンとリシュリンは、街から離れた空き地に大量の麦わらを集め、それを燃やし灰を作った。その大量の灰を持ち帰り、灰汁を作り、強アルカリ液を生成した。
 マーリンとリシュリンは、最初から製造する石鹸の量を決めていた。石鹸の型は、戦闘口糧の蝋引きの内箱で、三〇個ほどが残っていた。その空き箱にゲル状になった植物油と灰汁の混合液を入れて、固めればいい。
 とは言っても大変な作業だ。摂氏五〇度程度に湯煎で暖めた香油を混ぜた植物油に、ほぼ同温の汚れを取った灰汁を少しずつ垂らすように入れ、三〇分も攪拌するのだ。
 鹸化しないこともあるから、心配したが、今回もゲル状になり始めた。
 結局、三日がかりで、内箱換算で二三個の石鹸の元ができた。もう少し堅くなるまで、木箱に入れて乾燥させる。
 マーリンはかなり心配そうで、リシュリンがときどきマーリンを抱きしめている。ミーナは、バラの石鹸に大はしゃぎの三日間だった。

 コルスクの街での四日目、地元官憲と一悶着あった。
 マーリンとリシュリンが街から離れた空き地でわら灰を作っていて、その作業も終わりに近付いた夕暮れ時、六人の官憲がやって来て「焚き火の許可を取ったか?」と聞いてきた。
 もちろん言いがかりで、最初は賄賂でもせしめようと思っていたらしい。しかし、若い女二人と見て、誘拐・人身売買に切り替えた。
 その前に、取り急ぎ強姦するつもりだ。
 私は、その様子を五〇メートルほど離れた場所から見ていた。
 コルスクは危険な街。しかも、人気のない街から離れた空き地となれば、何が起きても不思議ではない。
 私はマーリンとリシュリンを護衛しつつ、併せてミーナとロロを遊ばせるという、重要な役目を担っていた。
 ヴェルンドは、宿棟でタイヤチェーンのフィッティングの真っ最中だ。
 ミーナとロロを呼び寄せ、身を伏せさせた。
 長い布袋からM1903A1ボルトアクション小銃を出し、安全装置を外し、ボルトを引き装弾数を確かめ、初弾を装填する。
 マーリンとリシュリンは、官憲と対峙している。この日二人は、護衛がいることから剣と銃は持っていなかった。
 私とミーナとロロは、草むらに身を潜めている。官憲からは見えない。
 二人の官憲がリシュリンの手を引いた。
 その瞬間、二人から一番遠い官憲を撃つ。
スプリングフィールド七・六二ミリ弾は、その官憲の右側頭部を直撃し、即死させた。
 五人の官憲は凍り付いた。銃声のした方角を呆然と見ている。官憲は兵士ではないが、それにしても訓練の行き届いていない連中だ。銃声がしたら身を伏せるくらいは、旅の商人でも身に染み込んでいる。
 ボルトを操作し、次弾を装填し、排出された薬莢を回収する。
 まだ、突っ立っている。しかも、官憲の一人はリシュリンの手首をつかんだままだ。マーリンは、落ち着いて腕組みをしている。
 向かって、一番左の背の高い官憲を撃った。銃声と同時に撃たれた官憲は、後方へ吹き飛んだ。
 残りの四人が逃げようとすると、リシュリンが自分の手をつかんでいた官憲を逆手に締め上げ、拘束する。それに、マーリンが加勢する。
 他の三人が逃げ去った後、私とミーナとロロが草むらから出て、マーリンとリシュリンに近付いていく。そのときには銃は袋の中だった。
 私とミーナとロロは少し近付くと、その場に留まった。
 マーリンとリシュリンは、その官憲を使役し、わら灰をリヤカーに載せてある古樽に詰めさせていた。官憲は死に物狂いで働いた。
 わら灰を積み終わると、地に両膝を突いて両手を合わせて命乞いしている。すると、その官憲にリヤカーを引かせ始める。
 調子に乗りすぎだぞ。
 結局、その官憲一人にリヤカーを宿棟まで引かせ、その姿を城外の街人に見せつけた。
 我々は、完全に官憲の恨みを買った。

 そんなこともあり、一日早い翌々日に出発することにした。今回作ったわら灰は、捨てていくしかない。

 コルスクの街で最後の日、ヴェルンドは、チェーンバンドの代わりになりそうな両端フック付きの長さ二〇センチほどのスプリングを受け取りに北門城外に向かった。
 リヤカーは宿の主が「宿賃を負けるからくれ」と言うので、引き渡した。
 マーリンとリシュリンは、生鮮品、特に日持ちしそうな果物を探しに東門城外に買い物に出かけた。
 午後早くに立ち、グロヌイまで進むつもりだ。天気はよく、道は乾いている。グロヌイまで四〇キロ、要しても三~四時間で進める距離だ。

 マーリンとリシュリンは、横柄、乱暴、強欲、悪人の官憲を手玉にとった女剣客として、東門城外市場ではちょっとした有名人になっている。
 二人が市場に行くと、大量の果物を破格の値で買えた。ミーナが「リンゴ!」と切望したが、残念だがリンゴはなかった。干したナツメと干したブドウのほか、桃と洋梨を手に入れることができた。

 一〇時頃、マーリンとリシュリンが街道沿いのやや奥まった場所にある狭い空き地で、子供と思われる背の低い男と成人の女が五人の大男に囲まれている現場で出くわす。
 子供と女の背後は建物の壁で、追い詰められた様子だ。
 気付いたのはマーリンで、助けようと言ったのはリシュリンだった。
 女は、左手に槍のような武器を持っている。ただ、槍ほどの長さはなく、柄の中央あたりに鍔のようなものが付いている。
 男の子は江戸時代の渡世人の三度笠のような帽子を被り、足首まであるフロントで閉じる焦げ茶色のマントを着ている。マントの裾は泥で汚れ、三度笠の形は崩れている。
 女も足首まであるマントを羽織り、槍以外に武器らしいものは持っていない。
 この地方のマントは右の肩で合わせて留めるが、彼らは前面で留めていた。ルム山脈よりも南の出身者だ。
 男の子はすでに剣を抜いていた。刃渡り五〇センチほどの両刃無反りの剣だ。女に動じる様子はなく、槍を左手に持ち垂直に立てたままだった。
 マーリンとリシュリンは、ゆっくりと近付く。
 中央に立つ男が「その子を渡せ。渡せば貴様の命は取らぬ」
 女が答える。
「この子は渡せぬ。それが仕事だ」
 中央の男がゆっくりと剣を抜く。刃渡り一メートルを超える両刃無反りの長剣だ。左右の四人も剣を抜く。同様な長剣だ。

 女は、真後ろから近付くマーリンとリシュリンに早くから気付いていた。また、それを喜んではいない。むしろ、迷惑だった。弾道の先に立たれては、発砲できないからだ。
 マーリンとリシュリンは一〇メートル手前で止まり、マーリンが声をかける。
「ご婦人、何かお困りですか?」
 五人の大男が振り返る。その瞬間、女は男の子を連れて、左に動いた。
 大男の一人が剣を一閃すると、女は槍の鞘を払った。
 それは槍ではなかった。刃渡り七〇センチほどの両刃無反りの剣に六〇センチもある柄が付いている。彼女の剣が日本刀であれば、長巻と呼ばれる武器だ。
 鞘はすぐに男の子が拾った。女が左手から水平に繰り出した刃は、剣を振るった男の右肩を貫いていた。
 他の四人の男は、偶然の出会いに驚愕して、声を発せずにいる。
 男の一人が絞り出すように言った。
「リシュリン、しばらくだな」
 マーリンがふざけた口調で「リシュリン、知り合いか?」
 リシュリンが「我らを知っていると言うことは、追っ手だぞ」とマーリンに言う。
「リシュリンの知り合いと言うことは、教会か。どうする、やるか」
 頭目らしい男が「引くぞ」と。他の男たちは、無言で同意していた。

 女は、男たちが去った後も警戒を緩めない。
「お前、僧兵か?」
「まぁ、そう遠くない昔のことだが、僧兵だった」
「抜けたのか」
「いいや、別なものが入ってきてしまった」
「入った?」
「ある男に命を助けられた。そして、自分の生き方を取り戻した」
「やはり、抜けたのだな」
「僧兵を抜けた、という言い方は僧兵特有のもの。お前も僧兵か?」
「さぁな。こっちは相当昔の話だ。忘れた」
 女は、男の子から鞘を受け取ると、刃を納めた。
 リシュリンは緊張を解いた。
 だが、マーリンは集中力を解いていなかった。
 女は、男の子に長巻を渡すと、靴の紐を直す素振りで、いったんかがんだ。そして、ゆっくりと立ち上がり、リシュリンの顔に拳銃を突き付けた。
 だが、マーリンもコルト・ポケットを抜いていた。女の左側頭部に銃口を向けている。
 女は動けなかった。
 マーリンは「理由は知らないが、そう警戒するな。我々は教会でも奴隷商人でもない。ただの旅の商人だ」
「ただの旅の商人が持つ武器ではない。それをどこで手に入れた。ショッツシュタフェルの仲間か!」
 リシュリンが「マーリンよせ。銃を下ろせ。何か勘違いをしているのだ」
 マーリンは銃を下ろしたが、ホルスターには納めない。右手に持ったままだ。
 女も銃を下ろしたが、しっかりとグリップを握っている。
 マーリンが尋ねる。「ショッツ……とは何だ?」
 女が答える。「よく知らない。いや、その言葉しか知らない」
 マーリンが「我々の何を警戒したんだ?」
 女は「いつ、そっちの赤い髪の女が、そのピストーレを抜くのか見計っていた」
 マーリンは「僧兵かどうかではなく、銃に警戒したのか?」
 女は、銃を懐にしまった。マーリンもフォルスターに納める。
 そのとき、男の子が少女の声で「マーリン様ではありませんか?
 コルカ村のマーリン様でしょ」
 リシュリンが「おい、今度はお前の知り合いらしいぞ」
 マーリンは男の子を見た。男の子は三度笠を外し、顔を見せた。
 マーリンはすぐにわかった。
「ラシュットのキッカ殿か?
 その髪はどうした?」
 キッカと呼ばれた子の顔立ちは、どう見ても女だ。
「髪は切りました。男に見せるために」
「どういうことだ。何があった。ラシュットの大店の令嬢が、そのような身なりで……」
「マーリン様こそ、どうしてここに?」
 マーリンは「まぁ、ここでは話もできない。宿に戻ろう」と言い、リシュリンと女に同意を求めた。
 女は拒んだが、キッカの強い願いで、マーリンの誘いに従った。

 宿棟までは一〇分ほどの道のりだったが、キッカは溢れ出るほどの言葉を飲み込み、マーリンに無言でついていく。
 リシュリンと女も無言で、牽制し合っている。

 宿棟に着くと、すでにヴェルンドが戻っており、出発の支度が調っていた。
 装甲車を見た女は歩を止め、懐から拳銃を出した。銃口を向けてはいないが、彼女の緊張は空気を振動させ、その場にいたすべての人間に嫌悪の感情を覚醒させた。
 リシュリンが「危害は加えない。安心しろ」と女に言ったが、女は銃を握ったままだ。
 女がリシュリン言う。
「そのマウルティアは、どこで手に入れた」
 リシュリンが「マウル……。装甲車のことか?」
 装甲車はフロントを宿屋の門に向け、車体のほぼすべてを車庫から出し、トレーラーが車庫に入っている状態だ。
 宿屋の門を入った四人は、装甲車の右側面の全体を見ている。
 ミーナとロロは、すでに異変を察知していた。女が放つ殺気をロロが検知し、ロロが危険をミーナに伝えていた。ミーナは、マーリンとリシュリンの戦いを邪魔しないように、ロロと一緒に車庫のなかに隠れていた。
 その種の感覚には、私とヴェルンドは鈍いのだが、我々でさえ明確に感じるほどの殺気を女は放っている。
 私は運転席から降り、車体右側面に回り込んだ。
「そちらのお方は?」
 私が尋ねるとマーリンが答えた。
「ラシュットのキッカ様、それと連れの方だ」
「マーリンの知り合いか?
 我々はまもなく出発だが、飲み物でもどうですか」と二人に問いかけた。
 宿棟には、小さな折りたたみガーデンテーブルと椅子四脚が用意されていた。
 ヴェルンドが装甲車の右隣にテーブルと椅子を用意する。
 私とマーリンが座ると、二人も座った。だが、女は銃を手にしたままだ。
 凄まじい緊張感が漂っている。
 リシュリンが水で割ったアルコール度の低いワインを木のコップに入れて運んできた。
 空気に怒気が解けている。
 ミーナが唐突に近付いてきた。テーブルの縁に両手を載せて言った。
「おばちゃん。おばちゃんもブローニングを持ってるの?
 リシュリンはブローニングで、マーリンはちっちゃいコルトだよ」
 女はミーナの言葉に動揺した。ミーナが拳銃の名前を言っていることを解したからだ。
 私は、そのわずかな殺気の緩みを逃さなかった。
「私の名はシュン。南に向かって旅をしている。これからグロヌイに向かって出発するところだ」
 女が名乗った。「私はラシュットの住人で、イリアともうします」
 マーリンがいきさつを説明した。
「この二人、僧兵に囲まれていた。
 男のような身なりの子は、ラシュットの大店のご令嬢で、キッカ殿だ。
 そっちの物騒なものを持っている女は、リシュリンの同類らしい」
「ということは、お二人は、訳ありか。
 どっちが僧兵に襲われたんだ?」
「私です」とキッカが答えた。
「私、エリスの学校に通っていました。その学校に意地悪な子がいて、我慢できなくなって突き飛ばしちゃったんです。
 そうしたら、その子が怪我をしちゃって……。でも大怪我じゃないんです。
 どうしてか、西方の特殊部隊とか、僧兵とかに襲われるようになってしまって……」
 イリアがキッカの言葉を遮った。
「尋ねたいことがある。このマウルティアは、お前のものか?」
 私はマウルティアという言葉に聞き覚えはあったが、すぐには思い出せなかった。この世界の言葉なのか、元の世界の言葉なのかを含めて。
 だが、直感でマウルティアという単語の意味を思い出せば、多くの問題が解決するように感じていた。
 私は時間を稼ぐために、マーリンとリシュリンにテーブルに拳銃を置くよう指示する。
 リシュリンは自然に、マーリンは渋々、銃をテーブルに置く。
 ミーナが「こっちがコルトで、こっちがブローニング」と説明してくれる。
 私が「貴女の銃を見せてくれないか?」と言うと、イリアは躊躇いがちに拳銃をテーブルに置く。手はテーブルに載せている。
 私は弾倉のグリップエンドの特徴的な形状から、その拳銃名がすぐにわかった。
「ワルサーPPKか。ドイツという国の拳銃だ。
 そうか、マウルティアはドイツの輸送用ハーフトラックの総称だな。
 貴女はドイツの人か?」
「私は違う。西方の生まれだ。ドイツ、ドイッチュラントという国を知っているのか?」
「行ったことはないが、隣の国のフランスには何回か行った」
「フランスはドイッチュラントに占領されている」
 ヨーロッパでは、一九四五年五月九日以降、大きな戦乱、国家間の戦争はない。
 ワルサーPPKの現物、マウルティアという言葉、フランス占領の三つのキーワードから導き出される答えは、第二次世界大戦時のドイツ人とイリアが知り合いということだ。それも、かなり近しい間柄だろう。
 ちなみにワルサーPPKは二一世紀になっても製造されていたし、私が住んだ時代のドイツにはマウルティアという名の商用トラックがある。
 フランスの占領というワードがなければ、時代は特定できなかった。
 真実をあれこれ話しても、イリアは混乱するだろう。事実、彼女はひどく動揺している。
「ドイツの人と知り合いか?」と尋ねた。
「貴方はショッツシュタフェルではないのか?」
「ショッツシュタフェル?
 その言葉は知らない。意味は何だ?」
「総統を守護する軍隊だ」
 武装親衛隊=Waffen SSのことだ。第二次世界大戦期のドイツには、ドイツ国防軍という正規軍のほかに、ナチス党の軍事組織である武装親衛隊という私設軍隊があった。
 武装親衛隊は軍隊でも警察でもない、アドルフ・ヒトラーを守るための強い政治的イデオロギーを持つナチス党の私兵である。
 最大九〇万人という一国の軍隊に匹敵する兵力を有していた。ちなみに、二一世紀初頭の陸上自衛隊は、一六万人程度だ。
 彼女が私と武装親衛隊との関係を危惧していることは明らかなのだが、その理由は彼女もよく理解していないらしい。
「まず、私はドイツの人ではない。従って、ショッツシュタフェルの隊員ではない。
 私は日本という国から来た。日本とドイツは同盟国だ。ドイツ軍と日本軍は戦っていない。ドイツ人と日本人は仲間だ。
 だから、私は貴方の知り合いの敵ではない」
 イリアの知識は断片的で、整合性に乏しいが、とにかく敵でないことを理解させる必要がある。そのため理論構成を徹底的に単純化する必要があった。
「知っているようだが、リシュリンは僧兵だった。
 我々は、教会とも、また奴隷商人とも揉め事を抱えている。
 貴方も、教会や奴隷商人と揉め事を抱えている。
 敵の敵は味方、とは考えられないか?」
 イリアはようやく、殺気を解き始めた。そして、尋ねてきた。
「貴方たちはどこへ行こうとしているのだ」
「とりあえずは、グロヌイへ。当面はカフカを目指している」
「イリア殿は?」
「ラシュットに戻る途中だ。キッカを親元に帰さなければならない。
 それが、私の仕事だ」
「ならば方角は一緒だ。しばらくは、道中をともにできるだろう」
「貴方たちは、アークティカに向かっているのか?
 白い海と赤い海の狭間の地方で、噂になっている戯れ話を聞いた。
 奴隷商人に捕らえられた、赤い髪の若い娘がアークティカに帰還する旅を続けていると。
 それは、貴方たちのことか?」
「そうかもしれないな」
 イリアから殺気が消えていた。

 昼食を済ませてから出発する予定だったが、僧兵と接触したことから、急いで乗車しコルスクの街を後にする。
 市街での戦闘は避けたかったことと、高速で南下すれば追撃を振り切る自信があった。
 イリアからは鋭い殺気は消えていたが、彼女が警戒を解いたわけではない。
 装甲車は快調に進む。ホワイト160AX水冷直列六気筒サイドバルブ・ガソリンエンジンは一切のストレスなく吹き上がる。
 コルスクの街では、燃料の補給をしなかった。燃料はカフカまで十分にあるし、泥濘路の可能性を考えれば、荷物の重量は軽い方がいい。
 路面は乾いていて、凹凸は意外なほど少ない。時速三〇キロ以上で走行でき、グロヌイには一四時から一五時には到着できる。
 この調子なら、飛ばせば一七時までにエディルに着くだろうが、ミーナの体調が心配だ。思ったほどの悪路ではないが、エリスからコルスクまでの道路状況に比べれば、かなり悪い。それだけ、疲労する。事実、兵員室の全員が無言だ。

 グロヌイまであと一〇キロと迫った地点で、休憩にする。
 街道から一〇メートルほど離れた場所に小さな池があり、その畔に装甲車を止めた。どこまでも草原が広がる風光明媚な場所だ。
 折りたたみの長椅子二脚と小さな折りたたみテーブルを出して、遅い昼食にする。
 ミーナとキッカを並んで長椅子に座らせ、発酵が未熟なアルコール度数の低いワインの水割り、パン、果物が食卓に並ぶ。
 キッカは空腹だったらしく、よく食べた。ミーナは生まれて初めて桃を食べ、一個では足りず、リシュリンの分まで食べてしまった。私は洋梨を食べたが甘さが足りず、美味ではなかった。だが、ロロは大喜びだ。ロロにはゆでた鶏肉も与える。
 三〇分ほど、それぞれの時間を過ごしていたが、ヴェルンドが釣り竿を持ち出して、池で糸を垂らし始めた。
 釣り竿と言っても、よくしなる木の枝を一メートルほどの長さに切っただけの代物だ。釣り糸はタコ糸のような材質で、鉄製の釣り針はヴェルンドの手作りだ。餌にはロロの鶏肉を少し拝借していた。
 竿を入れて二分ほどで、体長八〇センチ級のマスらしい大物がかかる。
 ミーナとキッカは大興奮で、釣り上げるのに一〇分以上を要した。
 魚をさばくのは私の役目で、腹を割き内臓を取り出して池の水で魚を洗う。
 気温が三〇度に達しない地方ではあるが、今は真夏。魚の鮮度が気になった。燻製にする時間はない。せっかくのごちそうだ。食べなくては。
 そこで、木箱に入れた上で車体後部の雑具ラックに載せ、その上からシートを被せて、池の水をまいた。
 あとは、グロヌイの街まで急ぐしかない。早ければ、三〇分で着く。

 私は、この路面の荒れた街道に雨が降らないことを祈っていた。
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