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第1章 脱出

第3話 サラリーマンと女奴隷

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 三~四日に一度、村に買出しに行った。村では、この岩山に住み着いた男がいることが知れ渡っているようで、ちょっと避けられている感じもするが、概ね親切に接してもらっている。
 燻製作りの装置は進化を続け、食料の保存に困ることはなくなっていた。戦闘口糧を減らすことなく、ほぼこの土地で手に入れた食料で生活を維持できるようになっていた。
 毛布六枚は無事に洗濯でき、夜の寒さに凍えることもなくなった。
 この世界に来てから一カ月が過ぎようとしていたが、言葉はまったく解せなかった。
 このことには、焦りを感じている。
 ロロは相変わらずで、肉よりも果物を欲しがった。姿は大型ネコ科動物だが、習性はイヌに似ている。
 この世界のルールでわかったことがある。帯剣しているものとそうでないものの差だ。
 おそらく、刀剣の長短に関わらず帯剣しているものは、身体の自由が保障されているようだ。
 帯剣していないものは、行動に制限があるらしい。身分の差のようなものかもしれない。
 それと、この社会は封建制のようだ。帯剣以外にも、身分制がある。村人の中にも身分の差があるように感じる。
 農民の中には、奴隷ではないかと思しき人々がいる。また、領主の配下なのか、かなり横暴な振る舞いをする連中がいる。
 広場で、無抵抗な若い女性と壮年の男性が殺されるのを見た。
 それ以来、武器は手元に置いている。軍刀は、佩鐶に下緒を通して、打刀として使った。下緒はロープを買った際に貰った組紐を使った。刃物は他に、M4銃剣をピストルベルトにつけている。
 銃はガバメントとトミーガンを常用している。その他は、ボルトアクションのM1903A1小銃一挺を除いて、すべて木箱にしまった。
 トレーラーの荷は、ロープでがっちりと固定し、緊急時の移動にも耐えるようにした。
 この点でもトレーラーはよくできていて、床に起倒式のフックが左右隅に各四カ所あり、フックは倒れると床面より低くなるようになっている。
 トレーラーは通気を考えて、荷台前部の小窓を開けている。

 射撃の訓練は、M1903A1ボルトアクション小銃で行った。ボルトを操作して一発ずつ装填する五連発小銃で、木切れを的にして、自分の身を守れる程度には上達した。
 剣技のほうはまったくわからない。中学の頃、体育の授業で剣道があり、竹刀の構え方を覚えた程度だ。
 大学時代の友人が時代劇ファンで、その影響で古い時代劇映画をよく見た。チャンバラ映画やテレビ時代劇など何でも見た。その影響があり、私のは剣技ではなく殺陣のようだ。
 どちらにしても、刀は飾りのつもりだ。

 もう一つわかったことがある。村の西に街がある。ロロがよく登る岩山南側頂上から、その街が見えるのだ。城らしい城壁のある建物と宮殿のような大きな建物がある。
 距離にして、岩山から一〇キロ程度だろう。
このまま言葉を覚えられないと、身の危険もある。銃があるといっても、奇襲されれば抵抗の余裕がないこともある。
 何か策を考えなければならないが、何も思いつかない。だが、とりあえず人の多い街に行ってみることにした。

 翌朝、いつもより入念に装備を点検した。ガバメントは弾倉に七発装填し、予備弾倉を布製マガジンポーチに二個入れた。さらに、予備のガバメントを背中側のベルトに差した。
 トレーラーを牽引したまま、岩山の北側を通って、街の二キロほど手前まで近付く予定だ。ロロも連れて行く。

 街の近くまでは快適なドライブだった。路面は締まった礫土で、石の大きさは最大で拳程度。
 ところどころに小さな砂丘のようなものがある。スピードは時速三〇キロほど。スピードメーターがマイル表示なので、速度や距離の換算が結構面倒だ。
 川の流れが北に転じる直前の岩山の北側に装甲車を停めた。街道からは完全に死角だ。
 岩山の西側に沿って徒歩で街に近付いてみる。川岸の葦草の背が高く、対岸からは見えにくいように思う。
 川岸までは一〇〇メートル以上ある。岩山西側の裂け目の一つが深く、装甲車を完全に隠せそうだ。
 その場で、しばらく様子を見た。街の入口には城門のようなものがあり、門番がいる。城門の外にも、露天のような店が並んでいる。
 街道は城門と城壁に沿って、川の流れと同じ北に向かって延びている。
 城門に入る手前に南に向かう道があり、その先に宮殿のような建物がある。この建物にも、城壁がある。
 城と街は一体のようで、街の最頂部に質素な高い建物が見える。日本の城ならば、天守閣に当たるのだろうか。そんなイメージだ。
 城門への出入りは盛んで、街が繁栄していることがうかがえる。人の往来、物資の搬入はひっきりなしだ。例の自走貨物車も城門を通る。

 一度、装甲車に戻り、見つけておいた深い岩の裂け目にバックで入れた。クルマは完全に隠れ、対岸からはもちろん、至近でも見えないだろう。装甲車はかなり派手な走行音がするが、風が南から吹いていることもあって、まったく聞こえていないようだ。
 この辺りは、街道と川は完全に平行していて、街道の直下が川になっている。川岸と街道との段差は五メートルほどで、街道の北側に露天はない。川から近付けば、街道の通行人からは丸見えだ。
 どう行動すべきか、かなり迷った。堂々と川を渡るべきか、それとも人気のない場所を探して迂回するか。
 正午頃、街道の人通りが急減した。だが、城門が閉じられた様子はない。このとき、初めて検問を疑った。街に入るのに検問があるとすれば、近付かないほうがいいかもしれない。
 だが、城門が閉じられなかったということは、検問がないことを意味しているのかもしれない。
 頭の中で、いろいろな可能性が渦を巻く。
 川の下流を見ると、少し離れた小ぶりの岩山の直近を川が流れている。川岸は葦草が茂っている。対岸との高低差はない。街道と川岸の高低差は一メートル以下だ。
 少し歩けば、城門より西側の街道に出る。しかも人通りは少ない。

 ロロに装甲車を守るように言うと、ロロはいつものようにボンネットに飛び乗った。
 そして、岩山の北面を徒歩で大きく迂回して、例の小ぶりな岩山に近付いた。
 小ぶりな岩山と川岸の境まで来て、一つ当てが外れた。川の水深が深いのだ。五〇センチ以上ある。
 村で買った登山靴のようなゴツイ革靴を脱ぎ、靴下も脱ぎ、ピストルベルトも外し、ジーンズも脱いで、ポンチョの中に入れて一まとめにし、それを刀と一緒に担いで、川を渡った。
 幸いにも川幅は狭く、流れはやや速い程度で、数秒で対岸に着いた。
 葦草に隠れて身なりを整えると、通行人の目を避けて、街道に近付き、そのまま東に向かって歩いていく。
 誰かに注目されている様子はない。

 城門には衛兵がいたが、特に何かをチェックしている様子はない。
 衛兵のスタイルは、羽飾りのついた冑に胸甲という出で立ちで、衣服の色は原色を基調にした華やかなものだ。佩用している刀剣は、サーベルのような反りのある刀だ。
 ただ、鎖帷子や大きな盾を持ってはおらず、どちらかといえば中世よりも近世的な軍装だ。

 街の中は賑やかで、華やかだ。客引きや売り子の声も聞こえ、大道芸もやっている。
 大通りはクルマが通るが、車道と歩道がきちんと区別されている。結構現代的だ。
 あまり時間がないので、一通りの偵察を終えて、できれば言葉の習得の糸口があればいいと思っていた。
 例の果物が売っていて、銅銭一五枚で二個買えた。やはり、村ではボラれていたようだ。一個は自分用、もう一個はロロへの土産だ。

 しばらく歩いていると、生まれて始めての衝撃的な光景を見た。
 人が首から値札らしいものを下げられ、裸にされて、路傍で売られていた。小学校の校庭の朝礼台のような台に陳列され、買い手がつくのを待っている。
 何とも痛ましい光景だ。
 いま、若い女性が買われていったようだ。
 台には、壮年の男と赤い髪の若い女性がいた。売れ残っているのだ。
 その女性と眼が合った。眼が合ったことが驚きだった。相手も眼が合ってしまい、驚いている様子だ。
 その女性は左半身にひどい皮膚病を患っていた。それは顔にも転移していて、左眼の周りが醜く腫れ上がっている。一瞬、四谷怪談のお岩さんの風貌と重なった。
 私は善人ではないが、悪人でもない。何とも気の毒で、そのままにはできなかった。後先のことは考えなかった。
 店主らしき短剣を腹に差した男に、女性を指差し金貨一枚を見せた。
 男は金貨を手に取り、調べた後、右手を開いて見せた。「金貨五枚か」と日本語でたずねると、立てた指を三本に減らした。
 金貨三枚を渡すと、その男は台に登り女性の性器を広げて見せようとする。「もういい」と強く言うと驚いた様子で、慌てて女性を台から降ろした。
 女性は頭から被る袖のない粗末な服を受け取ると、大急ぎで頭から被り、腰を荒縄のような紐で締めた。

 どうするか。何も決めていなかった。究極の衝動買いだ。この女性をここで放り出すわけにもいかない。
 足元を見ると裸足だ。城門に向かっていくと、履物屋があり、小ぶりなサンダルを買おうとした。
 それを老年の男の店主が拒否する。どうも、奴隷に売るものはない、ということらしい。
 こういったことは、村ではなかった。初めてのことだ。
 刀に手をかけた。店主がビクリとする。脅すつもりはなかったが、腹がたった。
 その場で、自分の靴を脱ぎ、彼女の足の裏を手のひらで拭って、脱いだ靴を履かせた。
 次に、自分がはくサンダルと、少し小ぶりなサンダルを手に取り、銀貨一枚を見せた。破格な金額のはずだ。男の手のひらに銀貨を握らせ、左手を刀の鯉口に置くと眼を見開いて後退った。
 その一部始終は、周囲の人々に目撃され、好奇の目で見られた。当の女性さえ、驚いた様子だ。

 その場を立ち去り、城門を出た。女性は、ブカブカの靴で歩きにくそうだ。川岸に降りやすい場所まで東に進んだ。
 川岸に降りようとすると、少し嫌がったが、強くは抵抗しなかった。
 足を洗ってやり、サンダルに履き替えさせた。靴は靴紐を結んで、自分の首に下げた。
 ロロの土産に買った果物を取り出し、銃剣で切り分けて渡すと、すごい勢いで食べる。腹が減っていたのだろう、まるまる一つ食べてしまう。もう一つを欲しそうにしたが、これ以上は腹を下す可能性があるので、与えない。

 とりあえず、岩山に戻るしかないが、ここで川を渡ることにする。目撃者はいるだろうが、すでに夕暮れが近付いており、街道には人影がなくなっている。城門の周りには、人影が多いが、人目は街のほうに向いている。
 隙を見て、渡ることにした。

 女性の手をとって、川を渡ろうとするとやや強く抵抗した。なだめると、抵抗は止み、怖がりながらも川を渡った。
 ロロのいる岩山の裂け目まで来ると、彼女はボンネットの上に座って待っていてくれた。
 女性はロロの姿に恐怖したようだが、ロロがボンネットの上で甘えるように腹を見せ、そこを撫でてやると、その様子を見てかなり落ち着いた。
 装甲車の中は熱気がこもっていた。左右のドアを開け、ドア上面の装甲を下げた。
 少し間をおいて、女性を助手席に乗せようとすると、運転席側からロロが飛び乗る。ロロを兵員室に押しやって、運転席に座り、エンジンを始動した。

 帰りはゆっくりと安全運転で、住処の岩山に向かった。

 岩山に帰り着くと、太陽は沈みかけていた。
女性に、豆と肉のスープを与えると、大食い大会のクイーンも負けてしまうほどよく食べた。途中から落ち着いたようで、食べ方がゆっくりになる。
 彼女が食べている間に、風呂の支度をした。湯船は洗濯桶で、今では水を吸って膨張し手ごろな風呂桶にもなっている。
 大壷を土鍋代わりにして湯を沸かしていた。
この方法は、沸騰させるには時間がかかり過ぎるが、風呂のお湯ぐらいなら簡単に沸かせる便利な道具だ。
 風呂桶に水をいれ、湯を入れて手でかき混ぜるとちょうどいい湯加減だ。
 彼女に服を脱ぐように手振りすると、観念したかのように服を脱いだ。そのまま湯船に入れた。
 タオルにボディソープをつけて、右半身から洗った。湯船の色が茶色に変わる。
 左半身をタオルで洗おうとすると、痛がった。手にボディソープをつけ、ゆっくりと洗った。皮膚病は胸の下から左脇腹まで広がっており、そこは自分で洗うように手振りした。尻にも広がっていて、そこは洗ってやった。ちょっと役得だと思ったが、彼女の左横顔を見て、そんな気は消え失せた。
 湯船から出し、頭に湯をかけ、シャンプーで洗ってやった。眼をつぶるように指示し、彼女の後ろから短い髪を洗った。泥のような泡が立ち、普通の泡になるまで三回洗った。
 思ったより湯を使い、鉄鍋も動員しての湯沸し作戦は大忙しだった。
 顔は洗顔フォームが男性用で粒子が粗いため、石鹸で洗わせた。耳の裏までよく洗うように身振り手振りで指導し、どうにか清潔になったようだ。水気を拭うには、パソコンの緩衝材代わりのバスタオルを使った。
 その頃には太陽は沈んでおり、面白半分で作った松明照明セットが活躍している。
 単に木の棒に汚れたウエスを巻いて村で買った植物油を染み込ませただけのものだが……。
 寒さが気になり、彼女を石小屋に入れて、炉に火を付け、椅子に座らせた。椅子は、この石小屋にあったものだ。
 効くかどうかはわからないが、発熱したときに処方してもらった抗生剤を飲ませた。それと、私がアレルギー性鼻炎なので、ヒスタミンを抑える薬も飲ませた。
 私は髭剃り後がよく化膿するので、抗生剤入りの軟膏を顔と首を避けて患部に塗ってあげた。顔と首を避けたのは、万が一悪化したときのことを考えたからだ。発症していない部位には、髭剃りローション代わりの全身ローションを塗った。
 絶世の美人さんなら、一生ものの思い出だが、可愛そうだが彼女の容貌ではそのようには思えない。
 炉の明かりだけの暗い石小屋の中で、彼女の乳首が立っていることに気付いた。それを悟ったのか、彼女は右手で胸を隠した。
 着せるものがないので、上は下着のTシャツ、下はジャージを穿かせた。もちろん、下着はない。

 ロロはすでに出かけたようだ。炉の火を鎮め、装甲車に戻った。
 後部兵員室の座席に三つ折にした毛布を二枚引き、その上に彼女を寝かせ、毛布を二枚かけてあげた。無意識に身体を掻かないように彼女の手を取り、最前席に座ったまま眠った。
 夜中、彼女は何度かうなされて起きたようだが、手は握ったままだった。

 夜が開ける前に一人起き出し、湯沸しと朝食の準備を始めた。
 今朝は、焼いた厚切りベーコンと野菜スープだ。野菜は生食ができるのかわからないので、完全に火を通している。野菜といっても、ほうれん草のような葉物と人参みたいなものしかない。この世界の食材は、かなり貧弱だ。
味付けは、戦闘口糧の粉末ブイヨンを使った。

 太陽が昇った直後、彼女が何か呼びかけた。行ってみると降りられないらしい。
 ドアを開けてやると、どこかに走っていった。様子からトイレだろう。
 彼女が戻ってきて、手を洗い、顔を洗って、うがいをするように指導した。ちゃんと、真似をしてやってくれる。
 改めて顔を見ると、昨日よりは腫れが引いているようだ。どっちが効いたのかわからないが、とにかくよくなっているようだ。
 脇腹を見たが、身体のほうは変化がない。
彼女に野菜スープを勧め、焼いた厚切りベーコンを皿に盛ってやると、驚いたような眼をした。その意味はわからないが、あまり肉を食べないのかもしれない。
 それと意外と背が高く、年齢も若いようだ。昨日は三〇歳前後と思ったが、今日は二〇歳前後に見える。
 夜、寝汗をかいたようで、清潔にするために服を脱がせ、お湯を含ませたタオルで身体を拭いてあげた。患部はタオルを当てるだけにして、もう一度軟膏を塗った。また、抗生剤を一錠飲ませた。
 ジャージはそのままで、別のTシャツを着せ、ジップパーカーを羽織らせた。

 何をするとはなしに、風がないので洗濯をして、毛布を干し、銃の手入れを始めた。
 銃はM1903A1以外は使っていないので、もっぱらこの銃が練習用になっている。
 銃に興味を示したのか、彼女が話しかけてくる。しかし言葉がわからない。
 こちらが言葉がわからないと知ると、彼女から物を指差して単語を伝えてきた。
 自分を指差し「シュン」というと、すぐに解したようで「マーリン」と言った。
 この世界に来て、初めての会話の成立だった。涙が出るほど嬉しかった。

 食料は、二人でも五日は持つだけの量がある。
 保存食品はベーコンとドライフルーツだけでなく、魚の燻製も大量に作ってある。魚はニジマスに似ていて、三枚に下ろし、塩を振って三日間天日に干し、二四時間かけて燻製にした。この魚は村で調達することができる。
 小麦や米がないようで、ジャガイモやタマネギもない。少ない野菜と豆類だけが、この世界の食料のようだ。
 しばらくは、彼女の様子を見ていることにした。

 お互いの名前はわかったが、コミュニケーション自体は円滑というには程遠い。
 彼女は私を「シュン」ではなく、別の名前か何かで呼んでいる。意味するところはわからないが、当面はそれを受け入れるしかない。

 彼女が来てから三日目の朝、石小屋の中で彼女がうめき声を立てた。
 慌てていってみると、シャツをめくった脇腹患部がこげ茶色に変色している。これを見て、彼女は泣いていた。
 だが、よく見ると、こげ茶色の皮膚は剥がれかかっているようだ。軽く浮いているし、乾燥している。
 顔の腫れも引いてきているし、快方に向かっているのは確実だ。Tシャツを脱がして、他の患部も見ると、同様に皮膚が乾燥している。
 安心するように笑って見せると、ひどく怒って胸を叩いてきた。落ち着かせるのに、一時間ほどかかった。
 その日の彼女は終日、機嫌が悪かった。

 翌日、彼女の皮膚はさらに乾燥し、黒ずんでいた。剥がれかかっている部位があり、そこを剥ぐと綺麗なピンク色の皮膚が現れた。胸の下も剥がれかかっており、ここも綺麗な皮膚が再生されている。
 彼女は喜んだ。そして、軟膏を顔にも付けろと言う。顔の腫れは完全ではないが引いているのだが、皮膚病の回復は遅い。
 彼女の勢いに押されて、顔と首にも軟膏を塗った。

 その三日後、顔と首の皮膚が剥がれ始め、身体の疾患部は新しい皮膚に回復している。 顔の腫れはまだあるが、この岩山に来た頃に比べれば、驚異的な回復だ。
 その日の夕方、彼女は顔の左半分を覆う黒く変色した皮膚の残骸を自ら剥がし、新たな皮膚を空気に触れさせた。
 そのためにトラベルセットの少々大きめの手鏡を彼女に貸したのだが、返そうとしない。
まぁ、いいか、と思いそのままにしたのだが、これが私の貴重な物資を彼女に奪われる最初になろうとは、想像すらしていなかった。

 すでに、岩山にこもって七日目。戦闘口糧以外の食料はつきていた。
 そろそろ、村に行かなくてはならない。そのことをマーリンに告げると、短く切られた髪に手を当てた。顔の傷、乱雑に切られた髪、若い女性にとっては恥ずかしいのだろう。
 何度かのリンスインシャンプーで、髪の艶は戻っている。顔の傷も以前ほどひどくはない。
 それでも、人前に出たくはないのかも知れない。
 午後、一人で村に行く支度をしていると、マーリンも一緒に行くようなそぶりを見せた。寒そうな格好なのと、顔の傷と髪のことを気にしてると思い、ビジネスコートと黒のキャップを貸してやった。キャップを目深に被れば、顔の傷が少しは隠せるし、髪も隠せる。コートは単に寒いと思っただけだ。
 ジャージとTシャツの上にビジネスコートを着て、キャップを被り、サンダルを履いた格好は見栄えのするものではなかったが、まぁ、それなりだ。
 マーリンと過ごしたこの数日間で、覚えた単語数は一〇〇を軽く超える。一人でも大丈夫だが、マーリンにはやや不安定なところがあり、一人にするよりはいいかなと思う。

 村に着くと、何人かがマーリンに話しかけた。マーリンは笑顔で答えているが、どことなく困ったようでもある。
 広場まで来ると、マーリンに銀貨二枚を渡した。着る物を買うように促し、しばらくその場で待った。女の子のショッピングに付き合うつもりはないし、この世界の女の子が何を買うのかもわからなかった。ただ、この村ならばマーリンに対する拒否はないと思った。

 マーリンはすぐに戻ってきた。勝ったものを自分から見せ、下着らしいものと黒のズボンが二本だけだ。つり銭も返してきた。
 もう一度、衣料品を売る店に行き、ポロシャツのような上衣を数枚買った。
 靴屋にも行き、黒のブーツを買い、店主に靴下も揃えてもらった。この世界の靴下は踵のないただの筒で、靴屋で売っている。

 自分の荷物だけをマーリンに持たせ、買い込んだ食料は一人で担いだ。ロロの好物の果物も買った。

 岩山に戻ると、ロロが駆け寄ってきた。頭を撫でてやり、好物を見せると大喜びだ。
 マーリンは石小屋に入り、着替えているようだ。
 ダブダブのジャージを脱ぎ、黒のズボンをはいていたが、上はTシャツのままだ。ただし、ブラジャーに相当する下着はつけている。
 これで、彼女の乳首が見られないと思うと、ちょっと寂しい。
 顔の赤みが朝よりも引いていて、自然な肌色に近付いている。
 彼女は、かなりの美形だ。
 黒のビジネスコートとジャージは、綺麗に折りたたまれて、返してきた。だが、Tシャツは気に入ったようで、そのまま着ているのだろう。
 石小屋の中に入れていたスーツケースは、日常生活に使えそうなものを抜き出すために開けられていた。
 トラベルセットも広げられており、その中に百均のヘアブラシがあった。このブラシを持ってきて、使っていいかと聞くので、受け取って髪をとかしてやった。頭皮がマッサージされて気持ちよかったらしく、しばらく髪をいじっていた。
 買ってきた肉と野菜をスープにしていると、今日の献立をジッと見ている。手伝おうとはせず、見ているだけだ。以前から気付いていたが、マーリンは料理などしたことがないようだ。洗濯もダメなようで、全部やってあげている。
 マーリンは良く食べ、健康を取り戻しつつある。それと、言葉を教えてくれる。もう少しすれば、簡単な会話ができそうだ。

 マーリンが来てから二〇日が過ぎ、顔の傷はほとんど目立たなくなっていた。ただ、腫れは残っており、左の瞼が膨らんでいる。身体は、太陽にさらされないためなのか、まだ赤みが残っている。
 それでも風呂は二日に一回になり、薪集めがだいぶ楽になってきた。マーリンは風呂が好きなようで、薪集めだけは積極的にやる。

 マーリンの瞼の腫れが治まってきた頃、マーリンとの会話は連続したキャッチボールができるようになっていた。
 どうしても欲しい物があった。時計だ。時計があれば、正確な行動時間が計測できる。
 コンパスは装甲車のダッシュボードに付いている。時計があれば、方向、速度、時間が計測でき、移動距離がわかる。ケータイが電池切れのいま、時間を計れる機材はノートパソコンとタブレットPCしかない。貴重なノートパソコンは電池を外して、放電を極力抑えた状態にしてある。
 パソコンが使えなくなる前に、時計が欲しい。

 マーリンに「時間を測る機械」のことを尋ねると、時計に相当する単語を言った。その単語が今日から「時計」だ。
 時計をどこで手に入れられるかを尋ねると、村では無理で、街ならば入手できるかもしれないと言う。
 ただ、相当に高価なようで、〇・一オンス金貨三〇枚、金の重量で九〇グラム以上必要らしい。
 しかも、どの程度の精度があるのかもわからない。それでも必要だと思った。
 時計を手に入れたいこと、交渉のために街に一緒に行ってもらいたいことをマーリンに伝えると、少し躊躇ったが首肯してくれた。

 街に向かう当日の朝、装備を点検していると、マーリンが何かを言いたそうにしている。
こういった心の機微に触れる会話は、まったくできないので、「話せ」とだけ言った。
 マーリンは少し逡巡した後、「純白のシャツが欲しい」と言った。
 何のことかわからず、「どういうことか」と尋ねると、スーツケースをあけ、白のワイシャツを指差した。
 そのワイシャツはビジネスマンが着るありふれたもので、黒のボタンがアクセントのボタンダウンだ。クリーニング店のビニール袋に入ったままで、新品というわけでもない。
「これが欲しいのか」と尋ねると、マーリンが首肯した。
 かなり大きいのではないかと思ったが、袋から出し、Tシャツの上から着せてやった。
 特にウエスト周りがダブダブで、腰の部分でスーツのスラックスに使っていたベルトで締めてみた。おかしくはなさそうなので、ベルトのバックルを外して、ベルトの革を一五センチほど切って長さを調節し、もう一度締めてやった。
 袖も長いので、二つ折りにした。
 首から二つ分のボタンを外して、胸元を開いてやると、それなりに格好がいい。
「これで、剣があれば最高だ」とマーリンが言った。
 マーリンとの生活で最初に覚えた一〇〇単語の中に、奴隷、剣、銃、殺す、犯す、という言葉が入っている。それほど殺伐とした世界にいるのだ。
「剣が欲しいのか?」と尋ねると、簡単に首肯した。
 マーリンがシャツを着て、それを手鏡に映して見ている間に、トレーラーから銃剣三振りを持ってきた。
 M1905、M1、M4を見せ、「選べ」というと、非常に驚いた様子を見せた。
 考えてみれば武器を渡すのだから、それで危害を加えられる可能性があるわけだ。
 当然といえば、その通りなのだが、彼女が危害を加えるつもりならば、石や棒で殴る、首を絞める、火をつける、その他にも方法はあった。
 そして、いままでに私を殺すチャンスはいくらでもあったはずだ。

 マーリンは、刃渡り四〇センチほどのM1905銃剣を手に取り、次に私の常用と同じM4銃剣を鞘から抜いた。
 M1905銃剣を鞘から抜いて見せてやると、それを手にとって品定めをしていた。
 銃剣は、砥石で丁寧に錆を落し、植物油を塗って錆止めにしている。立派な刀剣とはいえないが、戦闘での実用性は高いだろう。
 結局、いつまでも迷っているので、両方を渡すことにした。
 ベルトに付けるには、鞘を少々工夫しなければならなかったが、それなりに吊るすことができた。
 マーリンは、右腰に刃渡りの長いM1905を、左腰に両刃のダガーナイフタイプのM4を吊るした。
 彼女から「寒いから、コートを借りたい」と申し出があったので、それも許した。
 黒のキャップを被り、黒のコートを羽織り、黒のパンツを穿いて、白のワイシャツを着、黒のブーツを履くマーリンは、この世界のファッションとはかけ離れているが、それなりにまとまった格好だ。

 マーリンの身支度で朝食と昼食が一緒になり、出発は午後になった。
 前回と同じルートで街の近くまで行き、装甲車を同じ場所に隠した。ロロは今回も留守番役だ。
 双眼鏡で城門付近の観察をしていると、マーリンも見たがるので代わってやった。レンズの効果に驚いた様子はなく、おそらく望遠鏡程度は知っているのだろう。
 だが、双眼鏡を返す際に「遠い近いがよくわかる。驚いた」と言った。ということは、像が天地逆にならない望遠鏡があるということだ。この子は貴重な情報を教えてくれる。
 前回よりも下流の浅瀬で、川を渡った。今回は、飛び石伝いに渡れるルートを発見したので、足を濡らさなかった。

 城門をくぐり、街の中に入ると、マーリンが先頭に立ち、進路を啓開するように振る舞い、その姿は堂々としたものだ。これが、本来の彼女なのかもしれない。
 時計の入手方法はマーリンに任せている。途中、マーリンが売られていた奴隷商人の朝礼台、悲しい商品陳列台の前を通った。
 奴隷商人はマーリンを見て、彼女と同定したようだ。非常に驚いた顔をしている。
 マーリンの黒のコートは、午後の太陽の光を反射して輝いており、意図的に見せている腰の銃剣は、威圧的でもある。
 彼女の後姿を見ている私は、カーキ色のポンチョを被って、軍刀を左手に持ち、どことなく猫背になっている。
 この世界に来て以来、できるだけ目立たぬように努力してきたが、そのためか猫背で歩く癖がついてしまっていた。
 マーリンは目立っていた。誰もがマーリンを見ている。私など誰も気にしていない。いや、マーリンに衆目が集まるということは、必然的に私にも関心が向く。
 美しい女奴隷とみすぼらしい格好のオッサンという奇妙な組み合わせは、誰が考えても興味の対象になる。
 ここに来るまで、そのことにまったく気付かなかった。

 マーリンは、まず錠前屋に立ち寄った。時計の有無を尋ねたようで、その錠前屋は別の店を紹介したようだ。
 私はマーリンについて歩くだけで、主体的な行動は何もしていない。そのことは、周囲も感じているらしい。客引きや呼び込みは、すべてマーリンに声をかける。
 ちょっと面白くなくなってきた。
 二件目の錠前屋は、一軒目よりも間口の大きな店構えだ。マーリンが「時計」の言葉を発すると、店員は店の奥に退き、高齢の男を連れて戻ってきた。
 マーリンが「わが主は時計を欲している。貴店で都合できるか」となれた口調で、口上を述べる。
 老齢の男は「いらっしゃいませ。ご主人様とは後ろのお方ですか?」
「そうだ」とマーリンの堂々とした声が響く。
 老齢の男は私に会釈すると、マーリンとの交渉に入った。
 彼は店主ではなく、店長のような役職らしい。時計の意味、時計の価値、時計の価格など、基本的なことが理解できているのかを、マーリンとの会話で判断しているようだ。
 会話の内容は二割ほどしか理解できない。
 時計は店主の屋敷でのみ扱っていて、その屋敷は少し離れたところにあるようだ。店主の屋敷までは、この店で最初に対応した店員が案内してくれた。

 店主の屋敷に着くと、二〇畳ほどの広さの部屋に通された。入室は土足だ。
 直径一メートル強の真円のテーブルと椅子が四脚あり、座って待つように促された。

 数分で店主が現れた。二〇歳代後半の女性で、その立ち居振る舞いは商人というよりは武人のようだ。
 身に着けているものも、男性的だ。
 マーリンが交渉を始めた。それを遮り、店主は「聞いていい?」と言った。マーリンが首肯する。
「貴女は通りで売られていた奴隷で、ひどい病にかかっていたそうだけど。
 街の噂だけど、そうなの?」
「そうだ」
「その病はどうやって治したの?」
「わが主の治療と薬によって」
「そんなすごい薬があるの?」
「わが身が証拠」
「それは信じるとして、貴女は南東の人?」
「アークティカの生まれだ」
「商いの心得があるようね?」
「商家の出だ」
「ただの商家ではないでしょう。おそらく領主をも財でしのぐ豪商。でしょ」
「そうかもしれない」
「貴女の長衣、白くて薄い上衣、いままで見見たことのない織物でできている。そのような上等なものを奴隷に与える主人は、草と同じ色の布を被っている。ヘンでしょ?」
「何が言いたい」
「貴女の主は、本当は主ではなく、臣下ではないの?」
 そこまで聞いて、なるほど世間ではそう見えるのか、と納得してしまった。
 上手く言葉をつなげるかは未知数だったが、マーリンに助勢した。
「店主殿、貴殿も商人なら決裁者が誰かくらいは、身なりではなく、本質で見抜いたらどうだ」
 一瞬、沈黙が室内に溜まった。
「マーリン、商談を続けろ」と命ずると、店主は私に向かって会釈した。
 マーリンが引き継ぐ。「わが主は、時計を欲している。距離と方位は正確にわかるが、ゆえあって、時間が計れない」
「ほう、距離と方位が正確とは。それに時間が加われば、進軍の速さがわかる、というわけね?」
「どのように解されても結構だ」
「アークティカは東西から圧迫されていて、滅亡寸前と聞いています」
「わが主はアークティカとは無縁だ」
「で、どのような時計が欲しいの?」
 マーリンが私の顔を見た。マーリンに代わって答えた。
「装飾はまったく不要。正確に時を刻み、少なくとも丸一日作動するもの」
「なるほど。私が思ったとおり、主人がどちらかはともかく、只者ではないというわけね。
 そもそも、時計に装飾不要などという買主はいないから。
 しばらくお待ちください」
 店主が部屋を出て行き、十数分が経過した。これは少し揉め事になるか、と案じ始め、右に座っているマーリンに軍刀を渡し、ポンチョの中でホルスターの中のガバメントのグリップを握った。今日は薬室に装填済みだ。撃鉄を起こせば、いつでも発射できる。
 マーリンも危険を感じているようだ。
 だが、杞憂に終わった。店主は店員を伴って現れ、飾り気のない直径一五センチくらいの懐中時計のような形の製品を数個見せた。そして、説明を始めた。
「これらは、持ち歩きができ、ゼンマイを一度巻いたら一日動き、時のズレが一日あたり二秒の試作品です。機械自体は南の国の由来で、それを模しています」
 確かに精巧な造りで、重さは数百グラムといったところだろうか。
 そのうちの一つを指差し、値段を尋ねてみる。
「金の重さで、大金貨二〇枚相当」
 マーリンがメイプルリーフ金貨ならば五〇〇枚相当だと、小声で教えてくれた。
 ここから、マーリンと店主との価格交渉が本格化する。事前にマーリンには、メイプルリーフ金貨五〇枚まで、といってある。マーリンは金貨一枚を事前に見せ、同じ金貨で支払うと告げた。
 かなり激しい値引き交渉が続けられ、それは太陽が傾く頃まで続いた。
 帰りのことを心配し始めたが、マーリンは意に介さず、商談を進める。
 店主のほうも時計を売りたいらしく、商談を切り上げない。
 結局、一番外装に細かな傷が多い一品を、金貨四〇枚で手に入れた。メイプルリーフ金貨を出すと、よく調べ純金であることを確認して、商談が成立した。

 夕暮れの通りを歩きながら、城門に向かう途中、白い粉を売っている店を見つけた。小麦粉のようだ。二〇キロほど買い求め、マーリンに軍刀を渡して、小麦粉の袋を担いだ。
 その私の様子をマーリンが見て、「荷は奴隷が運ぶものだ」と言ったが、自分が担ぐつもりはさらさらない様子だ。

 城門を抜け、装甲車までの道のりを急いだ。
装甲車は無事で、ロロは長時間待たされてご機嫌斜めだ。
 散々文句を言われ、一生懸命謝り、クルマに乗せ家路に急ぐ。
 
 数日後、マーリンが食糧を買いに村に行くと、街でのことが噂になっていると聞いてきた。
 その噂によれば……。二束三文で売った病の女奴隷が実は絶世の美女で、その美人奴隷が帯剣して従者を伴い、高価な時計を買いに来た。
 その女奴隷を安値で売った店の主は、奴隷商の元締めから激しい叱責を受け、片手を切り落とされた上で追放されたそうだ。
 さらに、その美しい女奴隷の噂は、領主にまで届き、領主が一夜を所望しているらしい。

 とうとう、私はマーリンの従者になってしまった。
 この子は家事一切何もできないが、精神的な力になってくれている。彼女がいなければ、すでに死んでいるかもしれない。友人と思い、感謝している。
 噂話には尾鰭が付く。
 いや、尾鰭に胴体が付くこともある。それどころか、サラリーマンの世界には、火の気のないところに水煙、ということだってある。
 どんな面白い話になっているのかと、想像すると少々愉快だ。

 街から戻った後、三つのことに取りかかった。一つは、マーリンに射撃を教えること。もう一つは、酵母を見つけてパンを作ることだ。最後は石鹸を作ること。
 買ってきた小麦粉は、水でこね、洞窟の中で一日寝かせて、水団を作った。出汁は魚の燻製、味付けは塩だけ、野菜は菜っ葉と人参みたいなものをいれたが、かなり旨かった。
 マーリンに「わが主は、いい下働きになれる」と褒められた。最近、だんだんと生意気になってきている。

 村では小麦粉や米は手に入らない。小麦は貴重な穀物らしく、民衆では口にできないものらしい。しかし、村の南側は麦畑のように見える。その辺が、気になっていた。
 干したナツメを発酵させ、酵母を作ることには成功している。この酵母でパンを作れるかどうかなのだが、それを使うよりも水でこねただけの小麦粉を発酵させる方法を試していた。
 石釜も手作りした。

 石鹸は、川岸の枯れ葦を集めて野焼きし、灰を集めて水に入れ灰汁を作って、アルカリ液を用意した。油脂は村で手に入る植物油を使った。一回目は乳化まででき、三回目で鹸化できた。整形は戦闘口糧の蝋引き中箱を使った。
 マーリンは好奇心の強い子で、特にスーツケースの中身に興味があるらしく、最近では所有者以上によく知っている。しかし、パン作りには、まったく興味を示さない。

 マーリンはフリントロック銃の射撃経験があり、M1903A1での射撃訓練は順調だ。銃の扱いは的確で、危なげない。

 そこで、M1カービンと予備弾倉二個を出し、それをマーリンに示した。一五発弾倉を取り付け、安全装置を外し、コッキングレバーを引いて、三発連続発射すると、彼女はたいへん驚いて興奮しているようだ。
「これをやる。大事にしろ」といい、M4銃剣を手に取り、銃口に取り付けて見せた。彼女は銃剣の鍔に丸い穴がある理由を、このとき初めて知った。

 その日の夜、装甲車の中でマーリンが自分の身の上を話し始めた。
 寝る姿勢は、彼女がここに来たときと変わらず、私は兵員室座席の最前に座ったままで、彼女が座席に横になり、彼女の手を終夜握っていた。
「私は、ここから馬で何十日もかかるアークティカという土地に住んでいた。
 父は商人で、穀物を扱っていた。アークティカは豊かで、作物はよく実り、収穫は多く、気候は温暖だ。
 母は優しかった。姉と兄、弟がいた。
 だが、アークティカは軍事的には脆い。街や狭い地域が国家のようになっていて、まとまりを欠き、外敵の侵入にも無関心だ。それどころか、一部には外敵と結ぶ街さえあった。
 私が住んでいたのはアークティカの中央部、コルカという村だった。
 アークティカは数年前から、収穫期になると東から東方騎馬民が侵入し、略奪にあっていた。
 それが数年続き、疲弊したところで、西から奴隷商人の軍団が赤い海を渡って押し寄せてきた。
 アークティカは、近隣諸国に援軍を請うたが、助けはなかった。冬が始まる前、すでにアークティカの主力は壊滅していた。
 一六歳以下の若年者と六五歳以上の壮年兵との連合部隊が行った、騎馬突撃がたぶん最後の戦いだったと思う。
 私はこの戦いで、奴隷商人に捕まった。何度も売られ、遠い西の国にまで連れてこられた。そして、あの街で、わが主に巡りあった」
 ところどころ、単語や言葉の深い意味がわからない部分があるが、マーリンの悲しみだけはわかる。
「わが主、この手を離さないで。一人にしないで」
 そう言って。マーリンは泣いた。彼女の涙は、これが二度目だった。

 今後、どうするかを決めあぐねていた。この地にいつまでもいられないことは確かだろうし、住みやすい土地でもない。
 だが、向かうべき場所はない。

 朝、上手にパンが焼けた日、マーリンと焼きたてを食べ、今後のことを少し話した。
 マーリンにも当てはないと言う。金貨はあるとしても、今後の生活を考えなくてはならない。生業を作らなくては。

 マーリンにM1917リボルバーのハーフムーンクリップを見せ、これと同じものを作ってもらうにはどうしたらいいかを相談した。
 マーリンもこの地方の社会制度についてはよく知らないようだが、それでも村で仕入れた噂話程度のことは知っていた。
 彼女によると、民衆は原則として奴隷らしい。奴隷にも階層みたいなものがあり、移動の制限が緩いもの、婚姻の自由が認められているもの、作物の一部所有が認められているものなどがいる。一切の私有が禁じられた完全な奴隷もいるそうだ。
 あの村の鍛冶職人は、他の土地で拉致された人々で、教会の奴隷だそうだ。彼らを束ねる役所が村にあり、鍛冶の仕事は例外なくその役所を通さなければ注文できない。
 もし、鍛冶が勝手に仕事を請ければ、鞭打ち等の罰があるらしい。
 包丁を譲ってもらったあの鍛冶屋が、代金を受け取ろうとしなかった理由がわかった。

 午後、一人で村に行き、その役所に顔を出し、用件を伝えると、快く引き受けてくれた。
鍛冶職人を指定したいと言うと、それは受けるが別に料金が必要だと言う。
 一瞬、キャバクラの指名料を思い出した。
 それを了解し、村はずれの鍛冶場に向かった。役人が同行し、包丁を譲ってくれた鍛冶屋としばらく話した後、料金を告げた。
 ハーフムーンクリップ一〇個で、銀貨三枚を請求され、言い値を払う。ただ、鍛冶屋を労いたいので、食料の土産を渡したいと言うと、それを許した。
 この役人は賄賂を要求するでもなく、横柄でもなく、媚びる様子もない。善良な官吏なのだろう。
 鍛冶屋には、朝焼きのパンを一〇個渡した。大きさは、コンビニのアンパンくらいだ。自然発酵と塩だけなのだが、なぜか結構旨い。
 鍛冶屋は大変驚き、何度も礼を言った。
 納期は一〇日と告げられた。
 
 数日後の午前、時計では一一時を少し過ぎた頃、馬に乗った二人の男が岩山を訪ねてきた。長剣を佩いている。突然のことだったが、ロロが反応し、異変を知らせたので数分の猶予があった。
 ここに住み着いて二カ月強で、初めての来訪者だ。二人とも端正な顔立ちだが、一人は体格がいい。服装は華美ではないが、質素でもない。
 マーリンがひどく警戒している。
 体格のいい男が「街で噂の東方人とは貴殿か?」と尋ねた。
「噂のことは知らない」
「街では、川の北側、闇の領地、悪魔の喉笛に住み着いた、貴殿のことは有名だ。
 そして、そちらの美しいご婦人も」
 マーリンは帯剣しているが、銃は持たせなかった。
「ご用件は?」
「取り立ててないのだが、どのような御仁か拝顔したくなっただけだ」
 暴力の臭いは感じない。
「日差しの強い中、遠路をいらしていただいたようだ。
 冷たい飲み物を差し上げよう」
 マーリンに水樽に沈めてある缶を一本持ってくるように指示する。
 取って置きのビールのロング缶だ。出張途中の航空便の中で飲むつもりでビジネスバッグに入れていた。どうしても飲みたくなり、朝から冷やしていた。
 体格のいい男が、石小屋の前の屋外に置いたテーブルの前に立った。
 椅子は二脚しかなく、体格のいい男が座り、細マッチョ系の男が後ろに立つ。
 私も座り、マーリンがその後ろに立つ。
 村で買った木製のコップが二つあり、それにビールを注いだ。その間にマーリンが戦闘口糧のビスケットを皿に載せてきた。
「ほう、ビールか?」体格のいい男が言う。
「後ろに立たれている領主殿もいかがか」と勧めると、後ろの男が始めて口を開き、体格のいい男と席を替わった。
「なぜ、わかった」
「長く仕事をしていると、誰が決裁者かわかるようになる」
「面白いことを言う男だ」
「冷たいうちに飲んでくれ」とビールを勧めると、二人は一気に飲み干し、顔を見合わせた。
「美味いな」領主が言う。
「こちらもどうぞ」とビスケットも勧めた。
 これも口にあったらしく、体格のいい男は三枚も食べた。四枚目に領主に眼で制止された。
「領主殿、もうしばらくここに住まわせて欲しい。また、いずれ立ち退くが、その際に挨拶できないことを許して欲しい」
「東方人よ。その願い認めよう。
 こちらからも願いがある。その奴隷を譲ってくれないか」
「申し訳ないが、この女性は私の友人。売り物買い物ではない」
「ほう、奴隷を友人と呼ぶか。本当に代わった男だ。
 馳走になった。また会おう」
 そういって、領主は立ち去った。まだ若く、一〇代後半に見えた。

 領主が岩山を去ると同時に、マーリンが残ったビールを缶に口をつけて一気飲みした。まだ、三分の一は残っていただろう。
 その後、こんなに美味いものを隠していたといって怒り、こんなに美味いものを他人に飲ませたといって怒り、酔いが回って寝込んだ。ビールは飲みなれているようだが、強いアルコールには慣れていないらしい。

 翌日、マーリンが村に行くと、領主は帰りがけに村人に触れを出したと言う。体格のいい男が大声で、「わが領主様は、悪魔の喉笛に滞在する東方人とその従者に、しばしの居住を許した」と言ったそうだ。その触れは、広場に高札として掲げられてもいた。

 このとき、もう一つ事件があった。領主と従者が村の西端まで来ると、教会の官吏僧による少女の強姦現場に遭遇した。
 体格のいい従者が官吏僧と斬り合いになり、一刀の斬激で官吏僧は絶命し、その死体は川に捨てられたと言う。

 約束の一〇日目となり、ハーフムーンクリップを受け取りに村に行った。

 鍛冶場には小さな女の子と母親らしい女性がいて、鍛冶屋に土産の果物三つを渡すと、鍛冶屋はそのうち二つを女性に渡した。
 女の子ははにかみ屋さんらしく、母親の後ろに隠れていたが、のど飴を見せると興味を示し、口の中に放り込んでやると可愛らしい笑顔を見せた。
 女性と女の子は、近くに住む知り合いらしい。
 ハーフムーンクリップを受け取り、食料を少し買い、岩山に戻った。

 マーリンは手先は器用なようで、家事は何もできないのに、手芸などは上手なようだ。
 村で材料と道具を買ってきて、皮製のピストルベルトを自作してしまった。
 作った理由を尋ねると、自分も拳銃が欲しいそうだ。とにかく、既成事実を積み上げ、自分の都合のいい方向に強引に持っていく手法は、腹が立つほど鮮やかだ。

 M1917リボルバーをマーリンに見せると、もうガバメントは自分のものと主張し始めた。だが、ガバメントはあと二挺ある。
 拳銃という武器はかなり危険で、自傷事故が絶えない。渡すにはもう少し様子を見る必要がある。

 二日後の正午近く、食事の用意をしていると、ロロが突然反応し、激しく鳴いた。声が小さく迫力はないが、その表情は怒気に満ちていた。このような反応は初めてだ。
 咄嗟にポンチョを被り、両手に拳銃を握った。
 マーリンにはロロともども石小屋から出ないように指示し、石小屋から離れて待った。
 男の声がする。通路の岩壁に反響して、はっきりと聞こえる。
「女は俺たちが貰う。その代わり、男はお前が食え」
 そして、下卑た笑い声がこだました。
 華美な軍装をした五人が現れた。そのうち、二人はフリントロック銃を持っている。
 五人は横列になり、並んで進んでくる。左から、長剣、銃、短槍、長剣、銃だ。
 まっすぐに突っ込んできたら、リボルバーとガバメントを乱射するつもりだったが、予想に反してゆっくりとした足並みだ。
 五人とも冑と胸甲を着けている。軍装の着崩れた感じが、無頼のように見せている。
 私の直前で止まると、槍を持った男が「女はどこだ」と聞く。
「その辺で、お前の頭を狙っている」
 槍の男はニヤニヤと笑い「領主殿から滞在安堵をせしめたそうだな」
「確かに」
「俺たちは教会の兵で、僧侶様だ。領主ごときの指図は及ばない」
「そうか。それで?」
「大僧正様は、お前のような出自不詳な異教徒は奴隷にしていいとのお触れを出されている」
「それで、どうしたい」
 さらにニヤつくが、怒気も帯びてきた。
「この教区の僧正様は、ここの馬鹿領主がお嫌いでね。恥をかかせたいと思っておいでだ」
「なるほど。私を奴隷にすれば、領主の触れが反故になり、誰がテッペンか下々にわかるというわけか」
「ほう、領主より馬鹿じゃないみたいだな」
 すでに、扇形に取り囲まれていた。一番左側の兵は軍装の乱れがなく、女のようにも見える。
 ポンチョの中で、拳銃の激鉄はとうに起こしてある。
「女はどこだ!」
 一人が銃を向けるより早く、ポンチョから両手を出して、まず銃を持つ二人を撃つ、続いて右から二人目と中央の槍持ちを撃った。
 一番左はマーリンがカービンで狙撃し、馬からずり落ちた。
 五人全員が落馬したが、立ち上がったのは二人で、斬りかかられる前に右手のリボルバーで撃った。
 後れて立ち上がった一人は走って逃げようとしたが、ガバメントの二射で倒した。二人は起き上がらず、一人は銃弾が胸に当たり即死のようだ。即死したのは槍持ちだ。
 最後の一人はマーリンが狙撃した兵で、少し動いたのでマーリンが止めを刺そうとしたが、慌ててとめた。
 生きているなら情報を取りたい。

 マーリンの放った銃弾は、冑を吹き飛ばし、その勢いで落馬したようだ。外傷はなく、脳震盪のようだ。やはり、女だった。

 マーリンが馬を集め、私が銃と剣を回収する。フリントロック銃二挺と長剣五振りが手に入った。
 マーリンは馬が手に入ったことを喜んだが、射殺した四人をその馬に乗せて返すことにした。
「もったいないだろう」とマーリン。
「馬にこいつらを乗せて離すとどうなる」
「馬小屋に帰るかな」
「たぶん、村を抜け、街道を通り城門まで行く。するとどうなる?」
「僧正様は赤っ恥をかく!」
「そうだ。そうすれば、もう手出ししないだろう」
 大男四人を馬に乗せるのはたいへんだ。服は血で汚れるし、それに体臭がひどい。
 マーリンと二人で、馬に腹ばいで乗せた四人の死体を川岸まで運び、そこで馬を静かに放した。
 予想通り、馬は村のほうにゆっくりと歩いていく。この宣伝効果は絶大だ。
 もう一頭の馬は北のほうに逃げていった。ロロが脅したようだ。
 馬を追い払ったロロをマーリンが責めると、ロロが反論する。両者の口論は三〇分も続いた。

 この日の夕方、湯を大々的に沸かし、マーリンと交代で風呂に入った。
 いつもと違うのは、一方が入浴中、一方が銃を構えていたことだ。

 私は、人間社会の煩わしさに復帰してしまったようだ。
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