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第3章 奪還
第26話 ヌールドの丘の戦い
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第一二章 ヌールドの丘の戦い
アークティカの北部国境地帯には、起伏の乏しい丘陵地帯が広がっている。その丘陵地帯の南側は、崩れやすい崖が連なっている。
この崖は海岸から二〇〇キロ内陸で一〇メートルほど途切れ、さらに東側に延びていく。この崖の途切れた南北を結ぶ通路は、シモン回廊と呼ばれていた。
アークティカとバルティカを結ぶ陸路は複数あるが、四両編成の巨大陸上戦艦が通れるのは、この回廊しかなかった。
陸上戦艦は二編成あった。どちらも帝国軍に属し、バルティカ軍を左右から挟むように進軍している。
帝国軍の陸上戦艦部隊は、兵力総計二〇〇〇弱である。
この部隊は事実上督戦隊で、バルティカ兵士の逃亡や撤退を阻む目的で配置されている。
ローリア王ベルナル九世は陸上戦艦を見て、「何と雄々しい兵器だ。
この偉容を見たらアークティカ人は戦わずに逃げるだろう」と帝国の指揮官に言った。
だが、ローリア王には陸上戦艦は鈍重な鉄の張り子にしか見えなかった。完全な世辞である。
もっとも、臆病なアークティカ人なら逃げると思っていた。
パノリア王は、陸上戦艦に恐れを抱いた。進撃を阻止する方策がまったく思い浮かばない。
しかし、アークティカ人は逃げないと思った。彼らは特別に勇敢でも臆病でもない人々だが、精神論とは異なる何かを持っている。ありとあらゆる手段で、進撃を止めようとするだろう。
アトリア王トゥルー三世は、継戦物資を一〇日分しか用意しなかった。
国境を越えれば三日でアークティカを占領できると考えていたし、それができなければ自国が危うくなる。
だが、陸上戦艦はゆるゆると老婆の徒歩と同じ程度の速度で動き、わずかな段差でさえ超えられず、小さな川にも橋を架けた。
結局、国境を越えて三日経っても、シモン回廊を通過できないでいた。
アトリア王は焦っていた。
ヌールドの丘の司令官ジャベリンは、フェイトとキッカがもたらす情報から、バルティカ軍が国境を越える日は近いと結論した。
そして、彼は兵を四分の一ずつ交代で家に帰した。
「ゆっくり休み、上手いものを食べろ」と命じた。
兵士たち、つまり普通の市民たちは、一晩だけルカナの街に帰り、翌日またやってきた。
最後の兵が戻ってきたとき、ヌールドの丘の前方、シモン回廊の北側には三万二〇〇〇の大軍が集結していた。
シモン回廊を北から抜けると、最大幅一五〇メートルほどの扇型の平地が広がっている。土質は比較的粒子の粗い土で、水分が少なく、車輌にとっては走りやすい。
アトリアにおける蒸気車の保有数は少なく、物資の輸送の多くは荷馬車に頼っていた。
このことは、食料生産力に限りがあるこの世界では贅沢なことで、アトリアが本質的には豊かであることを示している。
つまり、アトリアでは、蒸気機関を駆動する燃料よりも食料のほうが安価なのだ。
アークティカで小麦栽培に適する土地は、ルドゥ川以北を除けば少ない。マハカム川以南は沿岸地域でブドウやオリーブを育てている。マハカム川以南の東部内陸深部は、岩盤に薄く土が載っているような土地で、農耕には適さない土地が多い。
アークティカ人の多くは、バルティカ軍が集めた膨大な馬と荷車を見て、羨望を抱いていた。
ヌールドの丘は、シモン回廊を北から南に抜け、扇型に広がる平地が最も幅が広くなる位置にあった。丘といっても、平地のわずかな盛り上がりに過ぎない。
天然の要害ではないし、防衛拠点としては不適切でもあった。
だが、ここしか地形的に守りやすい場所がないのだ。
バルティカ軍本陣は、ヌールドの丘の北北東八〇〇メートルの高台に位置している。シモン回廊の南側出口のやや北側にあたる。
ローリア王ベルナル九世は、この本陣には参集せず、シモン回廊南側出口東側の高台に陣を構えた。
パノリア王レーモン二世は、バルティカ本陣に参陣はしたが、兵は回廊南側出口西側のかなり離れた場所に集めている。
その理由を、万一自軍内で流行病が発生した場合に他国軍への伝染を防ぐため、としていた。
陸上戦艦は回廊から出ていたが、帝国軍の司令官はローリアとパノリアの布陣に疑念を抱き、南側出口付近の扇状平地の地形に沿って一編成ずつ東西に配置した。
ローリアとパノリアを除く各国の輸送隊は、回廊には入らず、回廊北側に集結している。
回廊の出口である扇状平地は狭く、三万の軍勢が集まるような場所はなかった。結局、ヌールドの丘の正面にはアトリア兵五〇〇〇、東側丘陵地にローリア兵二五〇〇、西側丘陵地帯にパノリア兵二〇〇〇、本陣付近に各国軍勢一万が布陣した。それ以外は、回廊の北側に待機している。
日の出は六時少し前で、薄い朝霧が消え、ヌールドの丘正面が見渡せるようになったのは、六時三〇分頃であった。
バルティカ各国の旗がいくつも立ち並び、その偉容には誰もが恐怖を覚えた。
ジャベリンは、ヌールドの丘の最も高い地点に旗竿を立てさせ、そこに手作りのアークティカ旗を掲げさせた。
その旗は、彼がルカナに戻った際、一二歳くらいの数人の子供たちから預かったものだ。貴重な大きな白い布に、アークティカの紋章が描かれていた。
決して上手でも立派でもないが、この旗がアークティカ人の意思だと受け止めた。
ローリア王は、ヌールドの丘を見て「貧相な砦だな」と呟いた。それを隣で聞いていた彼の参謀は、「貧相であることと、脆弱であることは違います」と応じた。
ローリア王は、「あの砦の守備隊長は西方人だそうだ」と独り言のようにいった。参謀も独り言のように応じた。
「縁の薄い西方人に国の命運を託すとは。何とも不憫。アークティカ人は捨て身の抵抗をするでしょう。そのような敵は、ただただ危険」
王と参謀は初めて目を合わせ、参謀が王に「我が国が進んで危険を犯す必要はありますまい」と言った。
ローリア王は答えなかった。
平地では、三〇人三列の戦列歩兵部隊が一〇隊編成され、進撃の命令を待っていた。
戦列歩兵の戦い方は、三列横隊が一定の速度で進み、敵との距離五〇メートルで発砲する。味方の屍を超えて進み、敵の陣形を崩して勝利する。
横隊の最前に剣を抜いた下士官が立ち、馬に乗った将校が横隊の真横に付く。隊の指揮官の命令は、太鼓のリズムで伝えられた。
戦列歩兵は、逃げ隠れは恥とされ、命令がない限り撤退はしない。
軍服は威嚇色と呼ばれる派手な色彩で、その威圧によって敵を圧倒することができるとされていた。
私、カラカンダ、メルトの三人は、ヌールドの丘に向かうその日、最後の輸送隊に便乗させてもらった。
同じ便乗組に、陸戦用に改造したブローニングM36銃機関銃二挺を携えたヴェルンドの工房に所属する銃工八人がいた。
我々三人は、彼らの護衛も兼ねていた。
その数時間前、私が身支度を調えていると、リシュリンが血相を変えてやって来た。
「主殿はどこに行かれるつもりか!」
「ヴェルンドがヌールドの丘に機関銃を運ぶ。その護衛だ」
「これから、敵が攻めてくるのですぞ」
「わかっている。でも、ここはお前たちで守れるだろう」
「しかし、油断は禁物。そもそも兵は足りないのです」
「わかっている」といって、リシュリンを抱き寄せ、キスをした。
「しばらくの間、マーリンに俺のことは教えるな」
私は、厚手のセーターの上に薄手のウインドブレーカーを羽織り、その上から米軍の雨具であるポンチョを被った。
そして、敷地の裏手からそっと抜け出し、ルカナの街に向かった。
ルドゥ川の橋の南側で、カラカンダとメルトが待っていた。カラカンダはモーゼルGew98、メルトは三八式歩兵銃を持っている。
私は、スプリングフィールドM1903A1とS&WM1917リボルバー拳銃だけを持ってきた。
軽装備の理由は、できるだけ多くの武器をコルカ村に残したいからだ。
ヴェルンドの工房の銃工たちは、我々より少し遅れて、リヤカーのような荷車に機関銃を載せてやってきた。
だが、機関銃は二挺ではなかった。ブルーノZB26に寸分違わない軽機関銃二挺も積まれている。弾薬は、別のリヤカー二輌に満載されていた。
私が「その軽機はどうした」と尋ねると、銃工の一人が「何とかこの銃は間に合いました。一〇挺作って、いま使えるのがこの二挺です」と答えた。
誰もが、それぞれの持ち場で、必死の努力を続けているのだ。
我々が兵站補給基地に着いたのは、開戦当日の深夜一時三〇分だった。
兵站基地から前線までは二キロほどだが、この一帯はすでに孤立しつつあった。
バルティカ軍は、ヌールドの丘を回り込んで、散兵や騎兵を浸透させており、補給路の遮断は時間の問題になっていた。
我々を乗せてきた輸送隊は、ルカナへの後退が危険と判断され、この地でともに戦うことになった。
ルカナの街に立て籠もるリケルとスコルは、このときすでにルドゥ川に架かる橋を封鎖し、武器を揃えて防衛体制を整えていた。
ルカナの街では新銃が続々と供給され、街に残った人々がそれを手にして、防衛の任に就いていた。
新銃を戦場に運ぶ術を、ルカナの街は失っていたからだ。
ジャベリンは、機関銃の配備場所を思案していた。
強力な武器であることは理解しているが、どう使えば効果が大きいのかはわからない。
彼は、それを私に尋ねてきた。
「重機関銃と軽機関銃は、どのように配備すればいいのでしょうか?」
私はエミールの顔を見た。彼は三日前に着任し、野戦病院を開設していた。
エミールが答える。
「丘は敵に向かって緩く凹んでいる。ブローニングは、その最深部の正面に、二挺を少し離して配備したらどうだろう。
ブルーノは逆に左右の最も凸の部分、兵たちが岬と呼んでいるところがいいと思う。周囲に小銃や手榴弾を持った兵を配置すれば、機関銃座は簡単には落ちない」
「先生は医術だけでなく、戦術にも詳しいのですか?」
ジャベリンはエミールの案に驚いていた。
私が「先生は、大きな戦で実戦を経験されている。私などより、遙かに詳しい」というと、ジャベリンは「先生のご指導に従います」と答えた。
深夜、ガソリンランタンと月の明かりを頼りに、四カ所に堅固な機関銃座が造られた。
私はジャベリンに「敵の指揮官を狙撃する」とだけ伝えて、土嚢が積まれただけの司令部を後にした。
夜が明けていく。夜が明ければ、人の命が消えていく。
ヌールドの丘に立て籠もる一〇〇〇のアークティカ人は、恐怖と寒さに震えていた。
彼らは厚着の上に茶色の穀物袋を頭から被っていた。寒さを少しでも防げることと、その色が丘の色彩に似ていて目立たないからだ。この穀物袋が、アークティカの軍服だった。
純白のシャツとズボン、深紅の長衣を着たアトリア兵が前進してくる。
アークティカ兵たちは、敵が発砲するまで「撃つな」と命じられている。全員が塹壕の中に身を隠し、身動きしない。
アトリア軍の戦列歩兵百人隊長は、どうしていいかわからなかった。
アークティカ人は、丘から一人も出てこない。姿さえ見せない。
彼の後ろには、百人隊九隊が続いている。丘は全面茶色で、軍服を着た人影は見えない。丘の最深部から三〇〇メートルの位置まで進んだが、アークティカ軍の戦列歩兵は姿を見せない。
一〇〇メートルまで近づいた。それでも何も反応がない。
五〇メートルまで近づく。ここで最前列三〇人に丘に向かって、一斉射撃をさせた。続いて、第二列、第三列と次々に撃ちかけた。
何も反応がない。
先鋒隊が後退し、百人隊第二隊と第三隊が前面に出て、第一列が斉射した。
銃声が消えると同時に、丘から「撃て!」という号令とホイッスルの甲高い音が響いた。
丘の横一列が美しく輝いたが、そのときには百人隊第二隊と第三隊で生存しているアトリア兵はいなかった。
その様をローリア王ベルナル九世は、南側の丘から見ていた。凄まじい数の銃弾が、アトリア兵に浴びせられたことはわかるが、どうしてそれができるのかはわからなかった。
彼は一瞬呆然としたが、すぐに眼を大きく見開いて、戦況を見逃すまいと心に決めた。
アトリア王トゥルー三世は、事態を理解していなかった。百人隊第二隊および第三隊全滅の報を聞き激怒し、砲兵隊指揮官の野砲攻撃の進言を聞かず、次々に戦列歩兵を進撃させた。
結果、百人隊一〇隊がほぼ壊滅した。その時間は三〇分もかからなかった。
アークティカ兵は戦列歩兵の射程外から発砲し、アトリア兵を次々と撃ち殺していく。
それどころか、隊列を組んだばかりの後方に控える部隊の将校までもが、狙撃された。
アークティカ兵の火力は圧倒的で、特にバリバリという音を立てて弾丸を無限に吐き出す武器は恐ろしかった。
アトリア軍の全兵が機関銃を東方騎馬民が名付けたバリバリ砲と呼ぶまで、数分しかかからなかった。
アトリア軍の第二陣の千人隊長は、愚かではなかった。第一陣が壊滅する様子を間近で見て、通常の戦闘形態ではアークティカに太刀打ちできないことを悟った。
彼は、すべての兵に着剣させ、兵全員を走らせて一気にヌールドの丘に駆け上がる戦法を選んだ。
戦列歩兵たちは、そんな戦い方を訓練されてはいなかったが、散兵や騎兵は似たような戦術をとることがある。
そこで第二陣の千人隊長は、乗馬している将校、騎兵、散兵をかき集め、戦列歩兵の前面で戦うよう命じた。
この作戦に第三陣の千人隊長も賛同。兵力二〇〇〇で一気に押しつぶすことにした。
夜が明ける前、地下空間では滑走路にWACO複葉機が引き出された。
フェイトはすでにコックピットにいて、キッカは胴体の下に懸架されている六〇キロ爆弾に自分の名前を木炭で書いていた。
ヴェルンドの工房で作られた爆弾で、弾頭は固い鋼鉄製、信管は投下後三〇秒で爆発する時限装置付だ。
この爆弾で、帝国の陸上戦艦を仕留めるのだ。
六〇キロの爆弾を積むため、キッカは同乗できない。だから、キッカは自分の替わりに敵地に行く爆弾に自分の名を書いた。
爆弾の懸架は不慣れなこともあって、一時間近くかかってしまった。
すっかり夜が明け、少しだけ日差しが暖かい。
フェイトは上翼に向かって、白い息を吐いた。そして、ヘルメットのバイザーを降ろし、離陸の準備に入る。
セルモーターが回り、エンジンが始動する。一〇分間ほど暖機運転を行い、ゆっくりと滑走に入った。
神聖マムルーク帝国の陸上戦艦では、帝国軍指揮官がいらついていた。陸上戦艦の主砲で、ヌールドの丘を粉砕すれば簡単に勝利できるのに、アトリア軍が次々に戦列歩兵を投入する愚行に我慢できなかった。
次の攻撃が失敗したら、アトリア兵がいてもいなくても関係なく、主砲の巨弾を丘に叩き込むつもりだ。
フェイトは、丘の前面に死体が折り重なっている様を見て、強い怒りを感じていた。
彼女はおそらく、誰よりもこの惨状を正確に把握している。それを自分自身で理解しているからこそ、このような戦いを仕掛ける指揮官の愚かさに腹が立つのだ。
フェイトは、西側の陸上戦艦の主砲が旋回するのを見ていた。主砲は操向を受け持つ先頭車輌の甲板上にあり、口径は二〇センチもあるという。
フェイトは「一発も撃たせない」と空に向かって大声で叫び、陸上戦艦先頭に向かって緩降下攻撃に移った。
誰も上空に注意を払ってはいなかった。だが、パノリア王レーモン二世は、たまたま見上げた空の雲間から、ゆっくりと降りてくる黄色の巨大な鳥がいることに気が付いた。
それが何だかわからぬまま、その鳥から目が離れない。
その鳥は陸上戦艦を獲物と勘違いしているようで、まっすぐに向かっていく。
そしてなぜだか、陸上戦艦の上で卵を産んだ。
フェイトは、何度も緩降下爆撃の訓練を重ねていた。アークティカに砲がない以上、飛行機からの爆撃でその代用をしなければならない。
爆弾の数には限りがある。一撃必中でなければ、アークティカは勝てない。そう自分に言い聞かせていた。
射爆照準器のレクチルの中に、陸上戦艦の先頭が捉えられている。
フェイトが爆弾投下レバーを引くと、機体は一気に軽くなり、機体が跳ね上がる。操縦桿を必死に押さえて、機体を制御し、北に向かって飛んだ。
戦果を確認したかったが、上昇して戦闘区域から離れた。
パノリア王は、鳥が空中で卵を産むところを初めて見た。そして、その卵が陸上戦艦に当たって大爆発を起こすところを、なぜ卵が爆発するのだろう、と呆けたように考えていた。
ローリア王は、羽ばたかない黄色い鳥が灰色の何かを落とす様子を見逃さなかった。
その鳥は南から飛んできて、その途中で陸上戦艦の側面に何かをぶち込んだ。
そして、大爆発が起きた。
巨大な陸上戦艦が跳ね上がったように感じた。
アークティカ人は、恐るべき兵器を持っている。その恐ろしさは帝国に勝る。
「この戦、我らの負け。今夜、闇に紛れて撤収する。味方に悟られぬよう準備せよ」
彼は参謀にそう命じた。
パノリア王は陣中で、軍司令官の当惑した顔を見ていた。
軍司令官は王には何らの権限がないことを知りながら、それを尋ねたかった。
「国王陛下、いかがすべきでしょうか?」
パノリア王も動揺していたが、自分には権限も責任もないので、重圧は感じていなかった。
「私が一軍を率いていたとするならば、理解不能な状況に陥った以上、逃げますね。
これ以上、ここにいては兵を失うだけと思いますが……」
「それでは、緊急事態ということにいたします。我が兵の間に流行病が発生しましたので、他国軍に迷惑をかけぬよう、これより撤収いたします」
ジャベリンはフェイトの爆撃を見て、参謀たちに「凄いものだ!」を連発していた。
参謀たちも同じ思いで、兵たちの士気は盛り上がっていた。
アトリア兵は、なぜ陸上戦艦が爆発したのか理解できていなかった。ただ、上官からは事故だと教えられていた。
この大爆発で、敵の注意が逸れている間に、千人隊二隊同時突撃で、一気に勝利に導くことにした。
まず騎馬隊の突撃、続いて散兵の狙撃が加わり、歩兵の銃剣突撃が続いた。
アークティカ側はこの予想外の攻撃に動揺せず、すべての銃器を動員して防御戦闘を行った。
だが、敵の一隊は丘の麓にとりつき、射撃戦になった。アークティカ側は、手榴弾を大量に投げつけて、この攻勢を凌いだ。
アトリア軍の将校は、アークティカ兵に狙撃され、戦いの冒頭でほとんどが戦死していた。そのため、誰も撤退命令を出さず、結果として千人隊二隊は全滅してしまう。
戦場の遙か後方で飲食しながら戦況報告を聞いていたアトリア王トゥルー三世には、先鋒千人隊全滅、陸上戦艦爆発、千人隊二隊壊滅、という信じがたい報告が届けられていた。
アトリア王は暗愚ではなかったが、感情に支配されやすい傾向があった。
そのため、この戦いにのめり込んでいく。
ウルリアとユンガリアは、状況を把握しておらず、また戦況に興味はなかった。単につきあいで出てきただけで、勝とうが負けようが知ったことではないと考えている。
もちろん、真の戦場に赴くつもりはない。
そして、彼らは負けるなどとは可能性を含めて一切考えてはおらず、情報収集さえ行っていなかった。
ジャベリンは、残る陸上戦艦の主砲を無力化するため、志願兵六人による決死隊を編成した。
残りの陸上戦艦は、丘の北東側一五〇〇メートルの距離にあり、その主砲の砲口はヌールドの丘を指向していた。
陸上戦艦の最前部車輌上面に搭載されている主砲は、フェイトとキッカの偵察から口径二〇〇ミリ、砲身長一・四メートル、砲弾重量九キロ、砲口初速三〇〇メートル/秒の前装式ライフル砲と判定されていた。非常に強力で、アークティカの土嚢済み塹壕など一撃で粉砕されてしまう。
決死隊六人は、三輌の大型蒸気乗用車に分乗した。
一輌に四人が乗り、一名が操縦、二名がアリサカ小銃手、一名がブルーノ機関銃手であった。
この車輌は護衛車で、ボンネット上に土嚢が積まれ、助手席にはブルーノ軽機関銃が据えられている。
後部座席には二名のアリサカ小銃手が乗り、ブルーノ軽機の火力を援護する。
三列目最後部座席のドアは撤去されていてる。
他の二輌は、足で操作するアクセルペダルが廃されて、手で操作するスロットルレバーに改造され、ステアリングにはロック機構が追加されていた。
車体前面には三〇キロ爆弾が一発据えられ、後部座席二列には合計一〇〇キロの樽詰めの黒色火薬が積まれている。
三〇キロ爆弾が爆発すれば、連動して後部座席の黒色火薬に引火する構造になっている。
この二輌の攻撃車輌の操縦手は、陸上戦艦に指向したら車輌から飛び降りて、護衛車の最後部座席に飛び込んで生還する計画だ。
ジャベリンは、この攻撃を成功させるために全力を傾ける硬い意思であった。
三輌の攻撃隊は、丘の西側、赤い海の沿岸に向かう道から戦場に侵入した。
同時に、丘の上のマスケット擲弾銃から発煙弾が発射され、三輌を隠した。マスケット擲弾銃の射程は一五〇メートルほどが最大なので、ほんの一瞬だけ注意をそらす程度の効果しかない。
ルカナに向かう南側の道からも大型蒸気乗用車を進入させた。
彼らの任務は敵の注意を引きつけることと、攻撃隊三輌と敵陣の間に入って、発煙弾を投擲する陽動だ。
幸運にも穏やかな風が北北東に吹いている。陽動隊が投擲する発煙弾の煙が、敵陣に流れ込んでいく。
それでも大きな混乱の様子はなく、散兵が陽動隊に向けて狙撃してくる。
発煙弾の煙幕は意外と薄く、予定した効果を発揮していない。
攻撃隊三輌が突撃していく。攻撃隊にも敵散兵からの間断ない狙撃が加えられた。軽機関銃手は当初の予定とは異なり、軽機を抱えて車体側面から敵陣に向けて発砲した。
陽動隊と攻撃隊がすれ違った直後、予定通り爆弾搭載車から操縦手が飛び降りた。
護衛車は一旦停止し、操縦手を回収して再び全速力で戦場からの離脱を図る。
操縦手が右足を押さえてうめいているが、どうにかする余裕などない。
護衛車はルカナに向かう東側の道に全速で侵入し、全員が命を持ち帰った。
陽動隊は発煙弾を投げ切ると、ありったけの手榴弾を敵陣に向かって投げ付けながら沿岸に向かう西側の道に逃げ込んだ。
こちらは二人が散兵の狙撃で負傷したが、軽傷であった。ただ、陽動隊の二輌は、敵散兵が動力部に集中した射撃を加えたため、修理不能な状態で、うち一輌は東側の道の入口付近に遺棄された。
決死の攻撃は、爆弾車一輌が陸上戦艦先頭車輌の直前で横転爆発。もう一輌は後部二輌の連結部付近に衝突し爆発した。
陸上戦艦の損傷は大きく、機関は停止しているようだが、完全に破壊できたわけではない。
主砲の砲口はヌールドの丘とは全くの方向違いである真東を向いているが、重大な損傷を負っているようには見えなかった。
決死隊からジャベリンに「第二次攻撃の要あり」の意見具申が伝令によってもたらされた。
だが、直近の危機は回避された。
夜が明けてから五時間が経過していたが、ヌールドの丘のにわか兵士たちは、その時間が数カ月にも感じていた。
しかし、丘はまだ無傷だ。
ジャベリンは、この状況を予測していなかった。午前中に半分が死に、残りの半分で三日間守り切れるかどうか、と考えていた。
ジャベリンは、連発小銃と機関銃の威力を過小評価していたことを、大いに反省していた。
アトリア軍の本営は、狡猾なアークティカ軍の作戦に苛立ちを感じていた。
アトリア軍の指揮官たちは、近くにいながらアークティカ軍の戦いぶりを自身の目では見ていなかった。
彼らは、本営の豪華な天幕のなかで、豪勢な食事と酒に囲まれて作戦指揮を執っていた。
アトリア王は「アークティカの臆病者を踏み潰せ」と、千人隊三隊の出撃を命じた。彼は神聖マムルーク帝国の観戦武官の目を気にしていた。
帝国の観戦武官は、自慢の陸上戦艦がガラクタ寸前になっていることを、まだ知らなかった。
ローリア王は戦況を自身の目で見ながら、「たくさんの弾が出る銃」の威力に背筋が凍る思いがしていた。
この侵攻が成功するとすれば、アークティカ側が考えられないようなミスをする以外に可能性がない。
彼は側近に「夜まで、勇敢なアトリア国王陛下が頑張ってくれることを祈ろう」と言った。
パノリア王は、「あの不思議な銃はなんだろうね。予言の娘と関係があるのだろうか。どう思う?」と側近に尋ねた。
側近はその問いには答えず、「陛下、いかがいたしましょうか?」と尋ね返した。
「私にはパノリア軍を指揮する権限はないよ。ただ、王家のものがこの地にいても役には立たないので、国に帰ろう。
そのくらいの決定権はあるのかな?
もう少し、アークティカ人の戦いぶりを見ていたいけどね」
居合わせたパノリア軍の参謀が「司令には私から撤退の意見具申をいたします。国に戻り、国境を固く閉じましょう。
アークティカ軍、恐るべし。小官は敵将の剛胆な作戦に感服いたしております」
「そうしよう、それがいい。パノリアの一王族として、参謀殿の意見を支持するよ」
「それでは、夕暮れを待たずに西へ移動し、陽が沈む前に国境を越えましょう」
パノリア軍は密かに撤収を開始した。
同時刻、フェイトとキッカは、偵察飛行に出撃した。
戦場上空には一二時頃に到着し、遙か高空から全戦域を鳥瞰した。
陸上戦艦二編成は、擱座しているが息の根が止まったわけではなかった。二輌とも蒸気を吐き出しており、機関が死んでいないことを示していた。
アトリア軍の千人隊三隊が、戦場に向かって前進を開始していて、その後方には野砲隊が控えていた。
戦場の東側に布陣するローリア軍の陣形が奇妙であった。陣形は明らかに西の敵に対するものだ。だが、西にアークティカ軍はいない。
パノリア軍はさらに不可解な行動をしている。陣形はヌールドの丘を攻撃する態勢をとっているが、蒸気貨物車が荷を積んだまま北西に向かう体勢で車列を組んでいる。
フェイトとキッカは、この状況をジャベリンに伝える術を持っていた。
無線で呼びかけると、通信士官が応答した。フェイトが状況を伝え、通信士官がジャベリンにその場で口頭で伝達した。
ジャベリンはすぐに伝言ゲームの煩わしさに耐えられなくなり、通信士官からトランシーバーを奪った。
だが、使い方がわからず、しかも自分でも驚くほど緊張してしまった。
「もし、もし……」
「……」
「フェイト殿、聞こえますかぁ」
あまりのたどたどしさにフェイトは呆れたが、そこは堪えてジャベリンに付き合った。
「聞こえます」
「ローリア軍の陣形を教えてください」
フェイトは心のなかで[だ、か、ら!]と叫びながら「陣形が西からの攻撃に対する防御、または西への攻撃開始のような態勢に変わっています。明らかに昨日とは違います。それと輸送隊が準備されています。どこかに移動しようとしているのかもしれません」
「では、パノリア軍はどうなっていますかぁ」
フェイトは通信士官に変わってもらいたかったが、もう一度同じ説明をした。
「こちらも、移動の準備をしているように思えるのですが、もしかしたら丘の南側に回り込もうとしているのかもしれません」
ジャベリンはそのことを危惧していた。すでにアトリア軍の別動隊がヌールドの丘とルドゥ川北岸の地域に浸透しており、丘の全周に渡る散発的な攻撃が始まっていた。
ただ、別動隊にも弱みがあった。アークティカ軍は丘の全周に防御陣地を構築していて、小部隊での攻撃では引きつけられて反撃され、部隊が全滅した例があること、もし本隊が撤退するようなことになると、この地で孤立する可能性があることなどである。
これはバルティカ軍全体にいえることだが、将兵はこの戦いを神聖マルムーク帝国に丸め込まれたアトリア王の尻ぬぐいだと考えていた。
アトリア軍の将兵の中で、アークティカと戦端を開く理由を明確に語れるものはいなかった。
そのため、基本的に士気が低かったのだ。
フェイトはアトリア軍の千人隊三隊と野砲一二門が集結していることを伝え、燃料が続く限り戦場上空に留まることを約束した。
一三時、アトリア軍の千人隊三隊が戦場に現れた。
戦列歩兵の戦い方は、隊列を乱すことなく戦友の屍を踏み越えて前進することである。
いかなる攻撃にもひるむことなく、後退しないことが勇気を示すことであった。
そんな彼らの眼前に広がっていたのは、おびただしいアトリア将兵の死体だ。特に丘の手前直前には、幾層もの死体が折り重なっている。
千人隊三隊が全滅したという噂は、誇張ではなく本当だった。壊滅的な損害を受けたのではなく、全滅したのだ。
先鋒を務めるアトリア軍千人隊長は、野砲部隊の指揮官が申し出た援護射撃後の攻撃を断った。
この千人隊長は軍人の家系の出身で、係累は代々軍の高官を勤めていた。彼も千人隊長で終わるつもりはなかった。
この状況で、形勢を逆転できれば、名声が手に入ると計算した。そのためには、無名の兵士が何人死のうと彼にはどうでもいいことだった。
彼は戦列歩兵の流儀に則り、敵陣から一〇〇メートル付近で隊列を整え、太鼓の音に合わせて隊を前進させた。
戦場に銃声が響き渡り、馬に乗った将校、隊列の先頭を徒歩で進む下士官が次々に倒されていく。
しかも、敵は戦列歩兵を出してこない。
まだ、二〇メートルも進んでいないのに、アークティカ兵は一斉に射撃してきた。
千人隊長は射程外から発砲するアークティカ兵は、やはり烏合の衆だと思った。
烏合の衆がマスケット銃の射程外から発射した弾は、彼の周囲の将兵を次々と倒していく。
そして、機関銃からの攻撃が始まった。
彼は気が付くと踵を返して、自軍の前衛を突き抜けて後方に向かって馬を走らせていた。彼の野心は潰え、敵前逃亡の不名誉が残った。
この状況を野砲部隊の指揮官と二隊の千人隊長は冷静に分析していた。
彼らの野砲は口径一二〇ミリ、砲身長一・九メートル、総重量一二〇〇キロ、砲弾重量四・一キロ、有効射程一六〇〇メートルの前装式最新鋭砲だ。弾種は、榴弾、実体弾、キャニスター弾がある。
アークティカの野戦築城など、簡単に粉砕する威力がある。厄介なバリバリ砲の射程外から、陣地ごと吹っ飛ばすことができる。
野砲一二門が戦列歩兵の前面に移動し始めた。
その様子をフェイトとキッカが上空から見ていた。
キッカは耐えきれなくなり、「フェイト様!」と機内通話用マイクに向かって絶叫した。
フェイトは逡巡していた。まだ一四歳のキッカを後席に乗せているのに、爆撃をしていいものだろうか、と。
だが、キッカの絶叫を聞いて意を決した。安全な高空から緩降下して、高度の高い位置から三〇キロ爆弾を投下しようと決めた。
なるべく距離をとり、ゆっくりと降下し、射爆照準器に捉えた目標が小さく見えている距離から、胴体下面に吊した三〇キロ爆弾一発をリリースした。
爆弾は、重力に引かれて落ちていく。リリースした高度は八〇〇メートルだったが、地上まで一二秒、地上に到達する際の速度は時速四五〇キロに達する。
つまり、重量三〇キロの砲弾の威力に等しいのだ。
爆弾は、アトリア軍野砲部隊砲列のややヌールドの丘側に落ちた。
その威力は凄まじく、野砲一二門のうち六門は明らかに破壊されている。
フェイトとキッカの攻撃はこれで終わりではなかった。
キッカはフェイトに内緒で、一二発の円筒形手榴弾を持ち込んでいた。
そのことをキッカがフェイトに告白すると、フェイトはキッカに「あとでたっぷりと叱ってやる。だから、いまはそいつを地上に投げ捨てろ!」と命じた。
フェイトとキッカは、何度もアトリア軍野砲部隊砲列の上空を飛行し、手榴弾を投げ落とした。
フェイトは三回手榴弾攻撃を仕掛けたが、これ以上は危険と判断し戦場を離脱することにした。
戦場の空からアークティカの女神はいなくなった。
その間にジャベリンは、敵砲列に対する反撃の準備を整えていた。
アークティカにも大砲があった。アレナス造船所が作った三七ミリ砲だ。
アレナス造船所は、一・五メートルの鋼製円柱から一四八〇ミリの砲身を作り出した。この砲身をレールの上に載せ、発射と同時に後座させる機構を与えた。その後座した砲身を復座させる仕組みはなく、人力によって発射位置に戻す。
尾栓は螺旋式、つまりねじ込み式で、弾丸は薬莢と一体になっていた。薬莢は単純な筒型で、底部に縁のあるリム式である。薬莢の長さは二〇センチ、弾丸の長さは一〇センチある。見かけは巨大な拳銃弾だ。弾頭は鋳鉄製実体弾だ。
この砲を、ゴムを巻いた直径四〇センチの車輪付砲架に乗せていた。照準具は、小銃と大差ない簡単なものが付いていた。
この砲は復座機構があれば、近代的な後装式火砲の要件を整えていた。
シビルスはこの三七ミリ砲を開戦の前日に持ち込み、ジャベリンに預けた。
「一〇発以上は撃つな。砲身が割れる」と忠告していた。
だが、ジャベリンは鉛を鍋で溶かして弾頭を作り、薬莢の替わりに布袋に黒色火薬を詰めた薬嚢を二〇セット用意させた。雷管は小銃用の弾薬をそのまま利用するという荒っぽいものだ。
ジャベリンはこの砲に「狙撃砲」という名を与えた。狙撃に資するような照準器はないのだが、目標を直射照準による破壊ができることから付けた名だ。
敵は、WACO複葉機が去るとすぐに立ち直り始めた。
だが、アークティカ側も素早く対応している。
アトリア軍の前装式青銅製一二〇ミリ野砲とアークティカ軍の後装式鋼製三七ミリ砲のどちらが初弾を発射するか、その競争になっていた。
アークティカ軍の三七ミリ砲が発射され、アトリア軍の生き残っていた野砲一門の車輪を破壊した。これで、一門は無力になった。
アトリア軍の野砲が発射された。砲弾が丘の中腹に突き刺さる。榴弾ではなく実体弾だった。
アークティカ軍の三七ミリ砲が発射され、目標を大きく逸れ、砲弾が敵陣に飛び込んだ。実体弾なので炸裂はしない。
すぐさま復座し、照準をし直して次弾を発射する。今度は生き残り砲の砲身に当たって、大きな金属音がした。その砲はもう使えないだろう。
敵はあと二門に弾を込めている。
その後はアークティカ軍の三七ミリ砲が連続発射されて、敵の野砲は沈黙した。
アークティカ軍の砲手は、砲口を陸上戦艦に向けたが、実体弾では無益なので上官に制止された。
急増の二〇発を除いて、すべての弾を撃ち尽くしてしまった。
まだ、戦いは始まったばかりなのに……。
パノリア軍は、自陣にわずかな兵を残して、静かに、そして大胆に撤収を開始していた。
パノリア軍の強みは、機動力にあった。赤い海沿岸国らしく経済的に富国で、工業基盤は弱いが、他国から最新の工業製品を受け入れる進取の気風に富んでいた。
アークティカに侵攻したパノリア軍は、バルティカで唯一の完全な機械化部隊で、すべての兵は乗車での移動ができた。将校は馬に乗ったが、輸送隊は駄載や馬車輸送はなく大型の蒸気牽引車を使用していた。
この機動力と輸送力を最大動員して、一四時には一斉に後退し始めていた。
パノリア王は撤退に際し、バルティカ軍の実質的総司令部であるアトリア軍本営に対して、次の説明を行っている。
「隊内に流行病が発生しました」
元々、パノリア領内に伝染病が発生していることを口実に、派兵数を抑えてきたこともあり、アトリア王は深く考えずにパノリア軍の撤退に同意した。
私は、パノリア軍の撤退を草むらに身を潜めて見ていた。その距離は一〇メートルほどしかない。
私は、カラカンダとメルトとともにアトリア軍本営を目指していた。参謀クラスを狙撃して逃げるつもりだったが、運悪くパノリア軍の撤退に遭遇してしまったのだ。
位置と地形から、いつまでも隠れていられる状況ではなかったし、迂回するには隊列が長すぎる。
私の眼前に、金色に輝く胸甲を着た二〇歳代後半の偉丈夫が馬に乗って現れた。隊列から少し離れて、前後を深紅の胸甲を着けた屈強な下士官が護衛している。
最前部の下士官はパノリアの国旗を掲げている。王を守る近衛部隊のようだ。
私が無造作に草むらから立ち上げると、カラカンダとメルトが慌てた。私のポンチョを引っ張って、屈ませようとする。
私は、二人を無視した。
草の背丈は、一・二メートルほど。立ち上がれば胸から上が見える。
近衛兵の一人がすぐに私に気付き、抜剣した。
私は間をおかずに声をかけた。
「パノリア王か?」
剣を抜いた近衛兵が、「何者か!」と誰何した。
カラカンダが私の前で跪き、「このお方は……」というと、パノリア王がそれを遮り、「アークティカ王か?」と尋ねた。
このとき、近衛兵全員が剣を抜き、無数の銃口が我々を狙っていた。
パノリア王は「撃つな」と静かに命じた。下級将校が「撃つな!」と王の命令を伝播させる。だが、銃口が下げられることはない。
パノリア軍の本隊は、そのまま北西に向かっていく。
私は「アークティカに王はいない」と答えた。
「そうかな? 私には貴殿がアークティカ王に思えるが」
カラカンダが「こちらは、メハナト穀物商会の総帥にして、予言の娘のご夫君であります」と跪いたまま答えた。
メルトは銃を構えて私の隣に立っている。
私はメルトに銃を下げさせた。
パノリア王は「やはりな。その珍妙な格好でも一国の指導者、いや陰の指導者かもしれぬが、その気が放たれておる」
私はパノリア王に「喰うか?」と言って、パンを放り投げた。小さなロールパンだ。
この世界では、食を分ければ、それは友好の証となる。
パノリア王は「ほう、柔らかくて美味いな。アークティカ人は、飢えていると聞いたが、美味いものを食べているのだな」
「食い物は、諸国の配慮によって何とかなっている。当面の危機を乗り越えれば、アークティカは復活する」
「貴殿の名は?」
「シュン」
「親より授けられし私の名は、キュリアだ」
「キュリア殿、一つ頼みがある」
「何だ?」とパノリア王は少し笑った。
「この隊列を横切らせてくれないか」
「どこへ行く」
「アトリア王に挨拶に」
「よかろう、行くがいい」
我々三人は、パノリア軍隊列の間隙を縫って横切り、北に向かった。
パノリア王の「また会おう!」という声が私の背中に聞こえた。
日没まで一時間と少しの夕方、WACO複葉機が戦場上空に現れた。今日、三度目の出撃だ。
WACO複葉機は三回戦場上空を旋回すると、西側に残置されている陸上戦艦に向かって降下を始めた。
「フェイト様は、陸上戦艦を仕留めるおつもりだ」とメルトが言った。
メルトが予期したとおり、フェイトは西側の陸上戦艦の先頭車輌に六〇キロ爆弾を叩き込み、完全に沈黙させた。
火薬に引火し、凄まじい誘爆が起こり、最後尾車輌まで蛇が跳ね上がるように、宙に浮いた。
この爆発に帝国軍将兵だけではなく、アトリア軍兵士も多くが巻き込まれ、戦場は阿鼻叫喚に包まれた。
アークティカのにわか兵士たちは、その光景に震えた。
フェイトが最後の出撃から戻ると、地下空間はWACO複葉機の整備を開始した。
整備スタッフは一〇人しかおらず、徹夜の作業になる。
その間、フェイトとキッカは眠らなければならない。それが二人の任務だ。
開戦の日の午後、三人の女性が危険を承知でヌールドの丘に徒歩で向かっていた。
一人はマーリンの姉フェリシア。彼女らはヴェルンドたちが試作した六・五ミリ自動小銃二挺を手に、ヌールドの丘を目指していた。
だが、道を見失い、ヌールドの丘東側の丘陵に迷い込んでしまっていた。
フェリシアたちは銃声を頼りに戦場に向かったが、自分たちがヌールドの丘ではなく、その東側の丘に着いてしまったことを知ったのは、夕暮れの間際だった。
三人は、戦場が一望できる窪地に自動小銃を据え、石や枯れ木を集めて簡単な陣地を作った。
そして、擬装用の天幕を張り、そこで夜を明かすことにした。暖房はガソリンストーブ一つという、厳しい状況での真冬のビバークである。
ヌールドの丘の最初の一日が終わろうとしていた。
アークティカの北部国境地帯には、起伏の乏しい丘陵地帯が広がっている。その丘陵地帯の南側は、崩れやすい崖が連なっている。
この崖は海岸から二〇〇キロ内陸で一〇メートルほど途切れ、さらに東側に延びていく。この崖の途切れた南北を結ぶ通路は、シモン回廊と呼ばれていた。
アークティカとバルティカを結ぶ陸路は複数あるが、四両編成の巨大陸上戦艦が通れるのは、この回廊しかなかった。
陸上戦艦は二編成あった。どちらも帝国軍に属し、バルティカ軍を左右から挟むように進軍している。
帝国軍の陸上戦艦部隊は、兵力総計二〇〇〇弱である。
この部隊は事実上督戦隊で、バルティカ兵士の逃亡や撤退を阻む目的で配置されている。
ローリア王ベルナル九世は陸上戦艦を見て、「何と雄々しい兵器だ。
この偉容を見たらアークティカ人は戦わずに逃げるだろう」と帝国の指揮官に言った。
だが、ローリア王には陸上戦艦は鈍重な鉄の張り子にしか見えなかった。完全な世辞である。
もっとも、臆病なアークティカ人なら逃げると思っていた。
パノリア王は、陸上戦艦に恐れを抱いた。進撃を阻止する方策がまったく思い浮かばない。
しかし、アークティカ人は逃げないと思った。彼らは特別に勇敢でも臆病でもない人々だが、精神論とは異なる何かを持っている。ありとあらゆる手段で、進撃を止めようとするだろう。
アトリア王トゥルー三世は、継戦物資を一〇日分しか用意しなかった。
国境を越えれば三日でアークティカを占領できると考えていたし、それができなければ自国が危うくなる。
だが、陸上戦艦はゆるゆると老婆の徒歩と同じ程度の速度で動き、わずかな段差でさえ超えられず、小さな川にも橋を架けた。
結局、国境を越えて三日経っても、シモン回廊を通過できないでいた。
アトリア王は焦っていた。
ヌールドの丘の司令官ジャベリンは、フェイトとキッカがもたらす情報から、バルティカ軍が国境を越える日は近いと結論した。
そして、彼は兵を四分の一ずつ交代で家に帰した。
「ゆっくり休み、上手いものを食べろ」と命じた。
兵士たち、つまり普通の市民たちは、一晩だけルカナの街に帰り、翌日またやってきた。
最後の兵が戻ってきたとき、ヌールドの丘の前方、シモン回廊の北側には三万二〇〇〇の大軍が集結していた。
シモン回廊を北から抜けると、最大幅一五〇メートルほどの扇型の平地が広がっている。土質は比較的粒子の粗い土で、水分が少なく、車輌にとっては走りやすい。
アトリアにおける蒸気車の保有数は少なく、物資の輸送の多くは荷馬車に頼っていた。
このことは、食料生産力に限りがあるこの世界では贅沢なことで、アトリアが本質的には豊かであることを示している。
つまり、アトリアでは、蒸気機関を駆動する燃料よりも食料のほうが安価なのだ。
アークティカで小麦栽培に適する土地は、ルドゥ川以北を除けば少ない。マハカム川以南は沿岸地域でブドウやオリーブを育てている。マハカム川以南の東部内陸深部は、岩盤に薄く土が載っているような土地で、農耕には適さない土地が多い。
アークティカ人の多くは、バルティカ軍が集めた膨大な馬と荷車を見て、羨望を抱いていた。
ヌールドの丘は、シモン回廊を北から南に抜け、扇型に広がる平地が最も幅が広くなる位置にあった。丘といっても、平地のわずかな盛り上がりに過ぎない。
天然の要害ではないし、防衛拠点としては不適切でもあった。
だが、ここしか地形的に守りやすい場所がないのだ。
バルティカ軍本陣は、ヌールドの丘の北北東八〇〇メートルの高台に位置している。シモン回廊の南側出口のやや北側にあたる。
ローリア王ベルナル九世は、この本陣には参集せず、シモン回廊南側出口東側の高台に陣を構えた。
パノリア王レーモン二世は、バルティカ本陣に参陣はしたが、兵は回廊南側出口西側のかなり離れた場所に集めている。
その理由を、万一自軍内で流行病が発生した場合に他国軍への伝染を防ぐため、としていた。
陸上戦艦は回廊から出ていたが、帝国軍の司令官はローリアとパノリアの布陣に疑念を抱き、南側出口付近の扇状平地の地形に沿って一編成ずつ東西に配置した。
ローリアとパノリアを除く各国の輸送隊は、回廊には入らず、回廊北側に集結している。
回廊の出口である扇状平地は狭く、三万の軍勢が集まるような場所はなかった。結局、ヌールドの丘の正面にはアトリア兵五〇〇〇、東側丘陵地にローリア兵二五〇〇、西側丘陵地帯にパノリア兵二〇〇〇、本陣付近に各国軍勢一万が布陣した。それ以外は、回廊の北側に待機している。
日の出は六時少し前で、薄い朝霧が消え、ヌールドの丘正面が見渡せるようになったのは、六時三〇分頃であった。
バルティカ各国の旗がいくつも立ち並び、その偉容には誰もが恐怖を覚えた。
ジャベリンは、ヌールドの丘の最も高い地点に旗竿を立てさせ、そこに手作りのアークティカ旗を掲げさせた。
その旗は、彼がルカナに戻った際、一二歳くらいの数人の子供たちから預かったものだ。貴重な大きな白い布に、アークティカの紋章が描かれていた。
決して上手でも立派でもないが、この旗がアークティカ人の意思だと受け止めた。
ローリア王は、ヌールドの丘を見て「貧相な砦だな」と呟いた。それを隣で聞いていた彼の参謀は、「貧相であることと、脆弱であることは違います」と応じた。
ローリア王は、「あの砦の守備隊長は西方人だそうだ」と独り言のようにいった。参謀も独り言のように応じた。
「縁の薄い西方人に国の命運を託すとは。何とも不憫。アークティカ人は捨て身の抵抗をするでしょう。そのような敵は、ただただ危険」
王と参謀は初めて目を合わせ、参謀が王に「我が国が進んで危険を犯す必要はありますまい」と言った。
ローリア王は答えなかった。
平地では、三〇人三列の戦列歩兵部隊が一〇隊編成され、進撃の命令を待っていた。
戦列歩兵の戦い方は、三列横隊が一定の速度で進み、敵との距離五〇メートルで発砲する。味方の屍を超えて進み、敵の陣形を崩して勝利する。
横隊の最前に剣を抜いた下士官が立ち、馬に乗った将校が横隊の真横に付く。隊の指揮官の命令は、太鼓のリズムで伝えられた。
戦列歩兵は、逃げ隠れは恥とされ、命令がない限り撤退はしない。
軍服は威嚇色と呼ばれる派手な色彩で、その威圧によって敵を圧倒することができるとされていた。
私、カラカンダ、メルトの三人は、ヌールドの丘に向かうその日、最後の輸送隊に便乗させてもらった。
同じ便乗組に、陸戦用に改造したブローニングM36銃機関銃二挺を携えたヴェルンドの工房に所属する銃工八人がいた。
我々三人は、彼らの護衛も兼ねていた。
その数時間前、私が身支度を調えていると、リシュリンが血相を変えてやって来た。
「主殿はどこに行かれるつもりか!」
「ヴェルンドがヌールドの丘に機関銃を運ぶ。その護衛だ」
「これから、敵が攻めてくるのですぞ」
「わかっている。でも、ここはお前たちで守れるだろう」
「しかし、油断は禁物。そもそも兵は足りないのです」
「わかっている」といって、リシュリンを抱き寄せ、キスをした。
「しばらくの間、マーリンに俺のことは教えるな」
私は、厚手のセーターの上に薄手のウインドブレーカーを羽織り、その上から米軍の雨具であるポンチョを被った。
そして、敷地の裏手からそっと抜け出し、ルカナの街に向かった。
ルドゥ川の橋の南側で、カラカンダとメルトが待っていた。カラカンダはモーゼルGew98、メルトは三八式歩兵銃を持っている。
私は、スプリングフィールドM1903A1とS&WM1917リボルバー拳銃だけを持ってきた。
軽装備の理由は、できるだけ多くの武器をコルカ村に残したいからだ。
ヴェルンドの工房の銃工たちは、我々より少し遅れて、リヤカーのような荷車に機関銃を載せてやってきた。
だが、機関銃は二挺ではなかった。ブルーノZB26に寸分違わない軽機関銃二挺も積まれている。弾薬は、別のリヤカー二輌に満載されていた。
私が「その軽機はどうした」と尋ねると、銃工の一人が「何とかこの銃は間に合いました。一〇挺作って、いま使えるのがこの二挺です」と答えた。
誰もが、それぞれの持ち場で、必死の努力を続けているのだ。
我々が兵站補給基地に着いたのは、開戦当日の深夜一時三〇分だった。
兵站基地から前線までは二キロほどだが、この一帯はすでに孤立しつつあった。
バルティカ軍は、ヌールドの丘を回り込んで、散兵や騎兵を浸透させており、補給路の遮断は時間の問題になっていた。
我々を乗せてきた輸送隊は、ルカナへの後退が危険と判断され、この地でともに戦うことになった。
ルカナの街に立て籠もるリケルとスコルは、このときすでにルドゥ川に架かる橋を封鎖し、武器を揃えて防衛体制を整えていた。
ルカナの街では新銃が続々と供給され、街に残った人々がそれを手にして、防衛の任に就いていた。
新銃を戦場に運ぶ術を、ルカナの街は失っていたからだ。
ジャベリンは、機関銃の配備場所を思案していた。
強力な武器であることは理解しているが、どう使えば効果が大きいのかはわからない。
彼は、それを私に尋ねてきた。
「重機関銃と軽機関銃は、どのように配備すればいいのでしょうか?」
私はエミールの顔を見た。彼は三日前に着任し、野戦病院を開設していた。
エミールが答える。
「丘は敵に向かって緩く凹んでいる。ブローニングは、その最深部の正面に、二挺を少し離して配備したらどうだろう。
ブルーノは逆に左右の最も凸の部分、兵たちが岬と呼んでいるところがいいと思う。周囲に小銃や手榴弾を持った兵を配置すれば、機関銃座は簡単には落ちない」
「先生は医術だけでなく、戦術にも詳しいのですか?」
ジャベリンはエミールの案に驚いていた。
私が「先生は、大きな戦で実戦を経験されている。私などより、遙かに詳しい」というと、ジャベリンは「先生のご指導に従います」と答えた。
深夜、ガソリンランタンと月の明かりを頼りに、四カ所に堅固な機関銃座が造られた。
私はジャベリンに「敵の指揮官を狙撃する」とだけ伝えて、土嚢が積まれただけの司令部を後にした。
夜が明けていく。夜が明ければ、人の命が消えていく。
ヌールドの丘に立て籠もる一〇〇〇のアークティカ人は、恐怖と寒さに震えていた。
彼らは厚着の上に茶色の穀物袋を頭から被っていた。寒さを少しでも防げることと、その色が丘の色彩に似ていて目立たないからだ。この穀物袋が、アークティカの軍服だった。
純白のシャツとズボン、深紅の長衣を着たアトリア兵が前進してくる。
アークティカ兵たちは、敵が発砲するまで「撃つな」と命じられている。全員が塹壕の中に身を隠し、身動きしない。
アトリア軍の戦列歩兵百人隊長は、どうしていいかわからなかった。
アークティカ人は、丘から一人も出てこない。姿さえ見せない。
彼の後ろには、百人隊九隊が続いている。丘は全面茶色で、軍服を着た人影は見えない。丘の最深部から三〇〇メートルの位置まで進んだが、アークティカ軍の戦列歩兵は姿を見せない。
一〇〇メートルまで近づいた。それでも何も反応がない。
五〇メートルまで近づく。ここで最前列三〇人に丘に向かって、一斉射撃をさせた。続いて、第二列、第三列と次々に撃ちかけた。
何も反応がない。
先鋒隊が後退し、百人隊第二隊と第三隊が前面に出て、第一列が斉射した。
銃声が消えると同時に、丘から「撃て!」という号令とホイッスルの甲高い音が響いた。
丘の横一列が美しく輝いたが、そのときには百人隊第二隊と第三隊で生存しているアトリア兵はいなかった。
その様をローリア王ベルナル九世は、南側の丘から見ていた。凄まじい数の銃弾が、アトリア兵に浴びせられたことはわかるが、どうしてそれができるのかはわからなかった。
彼は一瞬呆然としたが、すぐに眼を大きく見開いて、戦況を見逃すまいと心に決めた。
アトリア王トゥルー三世は、事態を理解していなかった。百人隊第二隊および第三隊全滅の報を聞き激怒し、砲兵隊指揮官の野砲攻撃の進言を聞かず、次々に戦列歩兵を進撃させた。
結果、百人隊一〇隊がほぼ壊滅した。その時間は三〇分もかからなかった。
アークティカ兵は戦列歩兵の射程外から発砲し、アトリア兵を次々と撃ち殺していく。
それどころか、隊列を組んだばかりの後方に控える部隊の将校までもが、狙撃された。
アークティカ兵の火力は圧倒的で、特にバリバリという音を立てて弾丸を無限に吐き出す武器は恐ろしかった。
アトリア軍の全兵が機関銃を東方騎馬民が名付けたバリバリ砲と呼ぶまで、数分しかかからなかった。
アトリア軍の第二陣の千人隊長は、愚かではなかった。第一陣が壊滅する様子を間近で見て、通常の戦闘形態ではアークティカに太刀打ちできないことを悟った。
彼は、すべての兵に着剣させ、兵全員を走らせて一気にヌールドの丘に駆け上がる戦法を選んだ。
戦列歩兵たちは、そんな戦い方を訓練されてはいなかったが、散兵や騎兵は似たような戦術をとることがある。
そこで第二陣の千人隊長は、乗馬している将校、騎兵、散兵をかき集め、戦列歩兵の前面で戦うよう命じた。
この作戦に第三陣の千人隊長も賛同。兵力二〇〇〇で一気に押しつぶすことにした。
夜が明ける前、地下空間では滑走路にWACO複葉機が引き出された。
フェイトはすでにコックピットにいて、キッカは胴体の下に懸架されている六〇キロ爆弾に自分の名前を木炭で書いていた。
ヴェルンドの工房で作られた爆弾で、弾頭は固い鋼鉄製、信管は投下後三〇秒で爆発する時限装置付だ。
この爆弾で、帝国の陸上戦艦を仕留めるのだ。
六〇キロの爆弾を積むため、キッカは同乗できない。だから、キッカは自分の替わりに敵地に行く爆弾に自分の名を書いた。
爆弾の懸架は不慣れなこともあって、一時間近くかかってしまった。
すっかり夜が明け、少しだけ日差しが暖かい。
フェイトは上翼に向かって、白い息を吐いた。そして、ヘルメットのバイザーを降ろし、離陸の準備に入る。
セルモーターが回り、エンジンが始動する。一〇分間ほど暖機運転を行い、ゆっくりと滑走に入った。
神聖マムルーク帝国の陸上戦艦では、帝国軍指揮官がいらついていた。陸上戦艦の主砲で、ヌールドの丘を粉砕すれば簡単に勝利できるのに、アトリア軍が次々に戦列歩兵を投入する愚行に我慢できなかった。
次の攻撃が失敗したら、アトリア兵がいてもいなくても関係なく、主砲の巨弾を丘に叩き込むつもりだ。
フェイトは、丘の前面に死体が折り重なっている様を見て、強い怒りを感じていた。
彼女はおそらく、誰よりもこの惨状を正確に把握している。それを自分自身で理解しているからこそ、このような戦いを仕掛ける指揮官の愚かさに腹が立つのだ。
フェイトは、西側の陸上戦艦の主砲が旋回するのを見ていた。主砲は操向を受け持つ先頭車輌の甲板上にあり、口径は二〇センチもあるという。
フェイトは「一発も撃たせない」と空に向かって大声で叫び、陸上戦艦先頭に向かって緩降下攻撃に移った。
誰も上空に注意を払ってはいなかった。だが、パノリア王レーモン二世は、たまたま見上げた空の雲間から、ゆっくりと降りてくる黄色の巨大な鳥がいることに気が付いた。
それが何だかわからぬまま、その鳥から目が離れない。
その鳥は陸上戦艦を獲物と勘違いしているようで、まっすぐに向かっていく。
そしてなぜだか、陸上戦艦の上で卵を産んだ。
フェイトは、何度も緩降下爆撃の訓練を重ねていた。アークティカに砲がない以上、飛行機からの爆撃でその代用をしなければならない。
爆弾の数には限りがある。一撃必中でなければ、アークティカは勝てない。そう自分に言い聞かせていた。
射爆照準器のレクチルの中に、陸上戦艦の先頭が捉えられている。
フェイトが爆弾投下レバーを引くと、機体は一気に軽くなり、機体が跳ね上がる。操縦桿を必死に押さえて、機体を制御し、北に向かって飛んだ。
戦果を確認したかったが、上昇して戦闘区域から離れた。
パノリア王は、鳥が空中で卵を産むところを初めて見た。そして、その卵が陸上戦艦に当たって大爆発を起こすところを、なぜ卵が爆発するのだろう、と呆けたように考えていた。
ローリア王は、羽ばたかない黄色い鳥が灰色の何かを落とす様子を見逃さなかった。
その鳥は南から飛んできて、その途中で陸上戦艦の側面に何かをぶち込んだ。
そして、大爆発が起きた。
巨大な陸上戦艦が跳ね上がったように感じた。
アークティカ人は、恐るべき兵器を持っている。その恐ろしさは帝国に勝る。
「この戦、我らの負け。今夜、闇に紛れて撤収する。味方に悟られぬよう準備せよ」
彼は参謀にそう命じた。
パノリア王は陣中で、軍司令官の当惑した顔を見ていた。
軍司令官は王には何らの権限がないことを知りながら、それを尋ねたかった。
「国王陛下、いかがすべきでしょうか?」
パノリア王も動揺していたが、自分には権限も責任もないので、重圧は感じていなかった。
「私が一軍を率いていたとするならば、理解不能な状況に陥った以上、逃げますね。
これ以上、ここにいては兵を失うだけと思いますが……」
「それでは、緊急事態ということにいたします。我が兵の間に流行病が発生しましたので、他国軍に迷惑をかけぬよう、これより撤収いたします」
ジャベリンはフェイトの爆撃を見て、参謀たちに「凄いものだ!」を連発していた。
参謀たちも同じ思いで、兵たちの士気は盛り上がっていた。
アトリア兵は、なぜ陸上戦艦が爆発したのか理解できていなかった。ただ、上官からは事故だと教えられていた。
この大爆発で、敵の注意が逸れている間に、千人隊二隊同時突撃で、一気に勝利に導くことにした。
まず騎馬隊の突撃、続いて散兵の狙撃が加わり、歩兵の銃剣突撃が続いた。
アークティカ側はこの予想外の攻撃に動揺せず、すべての銃器を動員して防御戦闘を行った。
だが、敵の一隊は丘の麓にとりつき、射撃戦になった。アークティカ側は、手榴弾を大量に投げつけて、この攻勢を凌いだ。
アトリア軍の将校は、アークティカ兵に狙撃され、戦いの冒頭でほとんどが戦死していた。そのため、誰も撤退命令を出さず、結果として千人隊二隊は全滅してしまう。
戦場の遙か後方で飲食しながら戦況報告を聞いていたアトリア王トゥルー三世には、先鋒千人隊全滅、陸上戦艦爆発、千人隊二隊壊滅、という信じがたい報告が届けられていた。
アトリア王は暗愚ではなかったが、感情に支配されやすい傾向があった。
そのため、この戦いにのめり込んでいく。
ウルリアとユンガリアは、状況を把握しておらず、また戦況に興味はなかった。単につきあいで出てきただけで、勝とうが負けようが知ったことではないと考えている。
もちろん、真の戦場に赴くつもりはない。
そして、彼らは負けるなどとは可能性を含めて一切考えてはおらず、情報収集さえ行っていなかった。
ジャベリンは、残る陸上戦艦の主砲を無力化するため、志願兵六人による決死隊を編成した。
残りの陸上戦艦は、丘の北東側一五〇〇メートルの距離にあり、その主砲の砲口はヌールドの丘を指向していた。
陸上戦艦の最前部車輌上面に搭載されている主砲は、フェイトとキッカの偵察から口径二〇〇ミリ、砲身長一・四メートル、砲弾重量九キロ、砲口初速三〇〇メートル/秒の前装式ライフル砲と判定されていた。非常に強力で、アークティカの土嚢済み塹壕など一撃で粉砕されてしまう。
決死隊六人は、三輌の大型蒸気乗用車に分乗した。
一輌に四人が乗り、一名が操縦、二名がアリサカ小銃手、一名がブルーノ機関銃手であった。
この車輌は護衛車で、ボンネット上に土嚢が積まれ、助手席にはブルーノ軽機関銃が据えられている。
後部座席には二名のアリサカ小銃手が乗り、ブルーノ軽機の火力を援護する。
三列目最後部座席のドアは撤去されていてる。
他の二輌は、足で操作するアクセルペダルが廃されて、手で操作するスロットルレバーに改造され、ステアリングにはロック機構が追加されていた。
車体前面には三〇キロ爆弾が一発据えられ、後部座席二列には合計一〇〇キロの樽詰めの黒色火薬が積まれている。
三〇キロ爆弾が爆発すれば、連動して後部座席の黒色火薬に引火する構造になっている。
この二輌の攻撃車輌の操縦手は、陸上戦艦に指向したら車輌から飛び降りて、護衛車の最後部座席に飛び込んで生還する計画だ。
ジャベリンは、この攻撃を成功させるために全力を傾ける硬い意思であった。
三輌の攻撃隊は、丘の西側、赤い海の沿岸に向かう道から戦場に侵入した。
同時に、丘の上のマスケット擲弾銃から発煙弾が発射され、三輌を隠した。マスケット擲弾銃の射程は一五〇メートルほどが最大なので、ほんの一瞬だけ注意をそらす程度の効果しかない。
ルカナに向かう南側の道からも大型蒸気乗用車を進入させた。
彼らの任務は敵の注意を引きつけることと、攻撃隊三輌と敵陣の間に入って、発煙弾を投擲する陽動だ。
幸運にも穏やかな風が北北東に吹いている。陽動隊が投擲する発煙弾の煙が、敵陣に流れ込んでいく。
それでも大きな混乱の様子はなく、散兵が陽動隊に向けて狙撃してくる。
発煙弾の煙幕は意外と薄く、予定した効果を発揮していない。
攻撃隊三輌が突撃していく。攻撃隊にも敵散兵からの間断ない狙撃が加えられた。軽機関銃手は当初の予定とは異なり、軽機を抱えて車体側面から敵陣に向けて発砲した。
陽動隊と攻撃隊がすれ違った直後、予定通り爆弾搭載車から操縦手が飛び降りた。
護衛車は一旦停止し、操縦手を回収して再び全速力で戦場からの離脱を図る。
操縦手が右足を押さえてうめいているが、どうにかする余裕などない。
護衛車はルカナに向かう東側の道に全速で侵入し、全員が命を持ち帰った。
陽動隊は発煙弾を投げ切ると、ありったけの手榴弾を敵陣に向かって投げ付けながら沿岸に向かう西側の道に逃げ込んだ。
こちらは二人が散兵の狙撃で負傷したが、軽傷であった。ただ、陽動隊の二輌は、敵散兵が動力部に集中した射撃を加えたため、修理不能な状態で、うち一輌は東側の道の入口付近に遺棄された。
決死の攻撃は、爆弾車一輌が陸上戦艦先頭車輌の直前で横転爆発。もう一輌は後部二輌の連結部付近に衝突し爆発した。
陸上戦艦の損傷は大きく、機関は停止しているようだが、完全に破壊できたわけではない。
主砲の砲口はヌールドの丘とは全くの方向違いである真東を向いているが、重大な損傷を負っているようには見えなかった。
決死隊からジャベリンに「第二次攻撃の要あり」の意見具申が伝令によってもたらされた。
だが、直近の危機は回避された。
夜が明けてから五時間が経過していたが、ヌールドの丘のにわか兵士たちは、その時間が数カ月にも感じていた。
しかし、丘はまだ無傷だ。
ジャベリンは、この状況を予測していなかった。午前中に半分が死に、残りの半分で三日間守り切れるかどうか、と考えていた。
ジャベリンは、連発小銃と機関銃の威力を過小評価していたことを、大いに反省していた。
アトリア軍の本営は、狡猾なアークティカ軍の作戦に苛立ちを感じていた。
アトリア軍の指揮官たちは、近くにいながらアークティカ軍の戦いぶりを自身の目では見ていなかった。
彼らは、本営の豪華な天幕のなかで、豪勢な食事と酒に囲まれて作戦指揮を執っていた。
アトリア王は「アークティカの臆病者を踏み潰せ」と、千人隊三隊の出撃を命じた。彼は神聖マムルーク帝国の観戦武官の目を気にしていた。
帝国の観戦武官は、自慢の陸上戦艦がガラクタ寸前になっていることを、まだ知らなかった。
ローリア王は戦況を自身の目で見ながら、「たくさんの弾が出る銃」の威力に背筋が凍る思いがしていた。
この侵攻が成功するとすれば、アークティカ側が考えられないようなミスをする以外に可能性がない。
彼は側近に「夜まで、勇敢なアトリア国王陛下が頑張ってくれることを祈ろう」と言った。
パノリア王は、「あの不思議な銃はなんだろうね。予言の娘と関係があるのだろうか。どう思う?」と側近に尋ねた。
側近はその問いには答えず、「陛下、いかがいたしましょうか?」と尋ね返した。
「私にはパノリア軍を指揮する権限はないよ。ただ、王家のものがこの地にいても役には立たないので、国に帰ろう。
そのくらいの決定権はあるのかな?
もう少し、アークティカ人の戦いぶりを見ていたいけどね」
居合わせたパノリア軍の参謀が「司令には私から撤退の意見具申をいたします。国に戻り、国境を固く閉じましょう。
アークティカ軍、恐るべし。小官は敵将の剛胆な作戦に感服いたしております」
「そうしよう、それがいい。パノリアの一王族として、参謀殿の意見を支持するよ」
「それでは、夕暮れを待たずに西へ移動し、陽が沈む前に国境を越えましょう」
パノリア軍は密かに撤収を開始した。
同時刻、フェイトとキッカは、偵察飛行に出撃した。
戦場上空には一二時頃に到着し、遙か高空から全戦域を鳥瞰した。
陸上戦艦二編成は、擱座しているが息の根が止まったわけではなかった。二輌とも蒸気を吐き出しており、機関が死んでいないことを示していた。
アトリア軍の千人隊三隊が、戦場に向かって前進を開始していて、その後方には野砲隊が控えていた。
戦場の東側に布陣するローリア軍の陣形が奇妙であった。陣形は明らかに西の敵に対するものだ。だが、西にアークティカ軍はいない。
パノリア軍はさらに不可解な行動をしている。陣形はヌールドの丘を攻撃する態勢をとっているが、蒸気貨物車が荷を積んだまま北西に向かう体勢で車列を組んでいる。
フェイトとキッカは、この状況をジャベリンに伝える術を持っていた。
無線で呼びかけると、通信士官が応答した。フェイトが状況を伝え、通信士官がジャベリンにその場で口頭で伝達した。
ジャベリンはすぐに伝言ゲームの煩わしさに耐えられなくなり、通信士官からトランシーバーを奪った。
だが、使い方がわからず、しかも自分でも驚くほど緊張してしまった。
「もし、もし……」
「……」
「フェイト殿、聞こえますかぁ」
あまりのたどたどしさにフェイトは呆れたが、そこは堪えてジャベリンに付き合った。
「聞こえます」
「ローリア軍の陣形を教えてください」
フェイトは心のなかで[だ、か、ら!]と叫びながら「陣形が西からの攻撃に対する防御、または西への攻撃開始のような態勢に変わっています。明らかに昨日とは違います。それと輸送隊が準備されています。どこかに移動しようとしているのかもしれません」
「では、パノリア軍はどうなっていますかぁ」
フェイトは通信士官に変わってもらいたかったが、もう一度同じ説明をした。
「こちらも、移動の準備をしているように思えるのですが、もしかしたら丘の南側に回り込もうとしているのかもしれません」
ジャベリンはそのことを危惧していた。すでにアトリア軍の別動隊がヌールドの丘とルドゥ川北岸の地域に浸透しており、丘の全周に渡る散発的な攻撃が始まっていた。
ただ、別動隊にも弱みがあった。アークティカ軍は丘の全周に防御陣地を構築していて、小部隊での攻撃では引きつけられて反撃され、部隊が全滅した例があること、もし本隊が撤退するようなことになると、この地で孤立する可能性があることなどである。
これはバルティカ軍全体にいえることだが、将兵はこの戦いを神聖マルムーク帝国に丸め込まれたアトリア王の尻ぬぐいだと考えていた。
アトリア軍の将兵の中で、アークティカと戦端を開く理由を明確に語れるものはいなかった。
そのため、基本的に士気が低かったのだ。
フェイトはアトリア軍の千人隊三隊と野砲一二門が集結していることを伝え、燃料が続く限り戦場上空に留まることを約束した。
一三時、アトリア軍の千人隊三隊が戦場に現れた。
戦列歩兵の戦い方は、隊列を乱すことなく戦友の屍を踏み越えて前進することである。
いかなる攻撃にもひるむことなく、後退しないことが勇気を示すことであった。
そんな彼らの眼前に広がっていたのは、おびただしいアトリア将兵の死体だ。特に丘の手前直前には、幾層もの死体が折り重なっている。
千人隊三隊が全滅したという噂は、誇張ではなく本当だった。壊滅的な損害を受けたのではなく、全滅したのだ。
先鋒を務めるアトリア軍千人隊長は、野砲部隊の指揮官が申し出た援護射撃後の攻撃を断った。
この千人隊長は軍人の家系の出身で、係累は代々軍の高官を勤めていた。彼も千人隊長で終わるつもりはなかった。
この状況で、形勢を逆転できれば、名声が手に入ると計算した。そのためには、無名の兵士が何人死のうと彼にはどうでもいいことだった。
彼は戦列歩兵の流儀に則り、敵陣から一〇〇メートル付近で隊列を整え、太鼓の音に合わせて隊を前進させた。
戦場に銃声が響き渡り、馬に乗った将校、隊列の先頭を徒歩で進む下士官が次々に倒されていく。
しかも、敵は戦列歩兵を出してこない。
まだ、二〇メートルも進んでいないのに、アークティカ兵は一斉に射撃してきた。
千人隊長は射程外から発砲するアークティカ兵は、やはり烏合の衆だと思った。
烏合の衆がマスケット銃の射程外から発射した弾は、彼の周囲の将兵を次々と倒していく。
そして、機関銃からの攻撃が始まった。
彼は気が付くと踵を返して、自軍の前衛を突き抜けて後方に向かって馬を走らせていた。彼の野心は潰え、敵前逃亡の不名誉が残った。
この状況を野砲部隊の指揮官と二隊の千人隊長は冷静に分析していた。
彼らの野砲は口径一二〇ミリ、砲身長一・九メートル、総重量一二〇〇キロ、砲弾重量四・一キロ、有効射程一六〇〇メートルの前装式最新鋭砲だ。弾種は、榴弾、実体弾、キャニスター弾がある。
アークティカの野戦築城など、簡単に粉砕する威力がある。厄介なバリバリ砲の射程外から、陣地ごと吹っ飛ばすことができる。
野砲一二門が戦列歩兵の前面に移動し始めた。
その様子をフェイトとキッカが上空から見ていた。
キッカは耐えきれなくなり、「フェイト様!」と機内通話用マイクに向かって絶叫した。
フェイトは逡巡していた。まだ一四歳のキッカを後席に乗せているのに、爆撃をしていいものだろうか、と。
だが、キッカの絶叫を聞いて意を決した。安全な高空から緩降下して、高度の高い位置から三〇キロ爆弾を投下しようと決めた。
なるべく距離をとり、ゆっくりと降下し、射爆照準器に捉えた目標が小さく見えている距離から、胴体下面に吊した三〇キロ爆弾一発をリリースした。
爆弾は、重力に引かれて落ちていく。リリースした高度は八〇〇メートルだったが、地上まで一二秒、地上に到達する際の速度は時速四五〇キロに達する。
つまり、重量三〇キロの砲弾の威力に等しいのだ。
爆弾は、アトリア軍野砲部隊砲列のややヌールドの丘側に落ちた。
その威力は凄まじく、野砲一二門のうち六門は明らかに破壊されている。
フェイトとキッカの攻撃はこれで終わりではなかった。
キッカはフェイトに内緒で、一二発の円筒形手榴弾を持ち込んでいた。
そのことをキッカがフェイトに告白すると、フェイトはキッカに「あとでたっぷりと叱ってやる。だから、いまはそいつを地上に投げ捨てろ!」と命じた。
フェイトとキッカは、何度もアトリア軍野砲部隊砲列の上空を飛行し、手榴弾を投げ落とした。
フェイトは三回手榴弾攻撃を仕掛けたが、これ以上は危険と判断し戦場を離脱することにした。
戦場の空からアークティカの女神はいなくなった。
その間にジャベリンは、敵砲列に対する反撃の準備を整えていた。
アークティカにも大砲があった。アレナス造船所が作った三七ミリ砲だ。
アレナス造船所は、一・五メートルの鋼製円柱から一四八〇ミリの砲身を作り出した。この砲身をレールの上に載せ、発射と同時に後座させる機構を与えた。その後座した砲身を復座させる仕組みはなく、人力によって発射位置に戻す。
尾栓は螺旋式、つまりねじ込み式で、弾丸は薬莢と一体になっていた。薬莢は単純な筒型で、底部に縁のあるリム式である。薬莢の長さは二〇センチ、弾丸の長さは一〇センチある。見かけは巨大な拳銃弾だ。弾頭は鋳鉄製実体弾だ。
この砲を、ゴムを巻いた直径四〇センチの車輪付砲架に乗せていた。照準具は、小銃と大差ない簡単なものが付いていた。
この砲は復座機構があれば、近代的な後装式火砲の要件を整えていた。
シビルスはこの三七ミリ砲を開戦の前日に持ち込み、ジャベリンに預けた。
「一〇発以上は撃つな。砲身が割れる」と忠告していた。
だが、ジャベリンは鉛を鍋で溶かして弾頭を作り、薬莢の替わりに布袋に黒色火薬を詰めた薬嚢を二〇セット用意させた。雷管は小銃用の弾薬をそのまま利用するという荒っぽいものだ。
ジャベリンはこの砲に「狙撃砲」という名を与えた。狙撃に資するような照準器はないのだが、目標を直射照準による破壊ができることから付けた名だ。
敵は、WACO複葉機が去るとすぐに立ち直り始めた。
だが、アークティカ側も素早く対応している。
アトリア軍の前装式青銅製一二〇ミリ野砲とアークティカ軍の後装式鋼製三七ミリ砲のどちらが初弾を発射するか、その競争になっていた。
アークティカ軍の三七ミリ砲が発射され、アトリア軍の生き残っていた野砲一門の車輪を破壊した。これで、一門は無力になった。
アトリア軍の野砲が発射された。砲弾が丘の中腹に突き刺さる。榴弾ではなく実体弾だった。
アークティカ軍の三七ミリ砲が発射され、目標を大きく逸れ、砲弾が敵陣に飛び込んだ。実体弾なので炸裂はしない。
すぐさま復座し、照準をし直して次弾を発射する。今度は生き残り砲の砲身に当たって、大きな金属音がした。その砲はもう使えないだろう。
敵はあと二門に弾を込めている。
その後はアークティカ軍の三七ミリ砲が連続発射されて、敵の野砲は沈黙した。
アークティカ軍の砲手は、砲口を陸上戦艦に向けたが、実体弾では無益なので上官に制止された。
急増の二〇発を除いて、すべての弾を撃ち尽くしてしまった。
まだ、戦いは始まったばかりなのに……。
パノリア軍は、自陣にわずかな兵を残して、静かに、そして大胆に撤収を開始していた。
パノリア軍の強みは、機動力にあった。赤い海沿岸国らしく経済的に富国で、工業基盤は弱いが、他国から最新の工業製品を受け入れる進取の気風に富んでいた。
アークティカに侵攻したパノリア軍は、バルティカで唯一の完全な機械化部隊で、すべての兵は乗車での移動ができた。将校は馬に乗ったが、輸送隊は駄載や馬車輸送はなく大型の蒸気牽引車を使用していた。
この機動力と輸送力を最大動員して、一四時には一斉に後退し始めていた。
パノリア王は撤退に際し、バルティカ軍の実質的総司令部であるアトリア軍本営に対して、次の説明を行っている。
「隊内に流行病が発生しました」
元々、パノリア領内に伝染病が発生していることを口実に、派兵数を抑えてきたこともあり、アトリア王は深く考えずにパノリア軍の撤退に同意した。
私は、パノリア軍の撤退を草むらに身を潜めて見ていた。その距離は一〇メートルほどしかない。
私は、カラカンダとメルトとともにアトリア軍本営を目指していた。参謀クラスを狙撃して逃げるつもりだったが、運悪くパノリア軍の撤退に遭遇してしまったのだ。
位置と地形から、いつまでも隠れていられる状況ではなかったし、迂回するには隊列が長すぎる。
私の眼前に、金色に輝く胸甲を着た二〇歳代後半の偉丈夫が馬に乗って現れた。隊列から少し離れて、前後を深紅の胸甲を着けた屈強な下士官が護衛している。
最前部の下士官はパノリアの国旗を掲げている。王を守る近衛部隊のようだ。
私が無造作に草むらから立ち上げると、カラカンダとメルトが慌てた。私のポンチョを引っ張って、屈ませようとする。
私は、二人を無視した。
草の背丈は、一・二メートルほど。立ち上がれば胸から上が見える。
近衛兵の一人がすぐに私に気付き、抜剣した。
私は間をおかずに声をかけた。
「パノリア王か?」
剣を抜いた近衛兵が、「何者か!」と誰何した。
カラカンダが私の前で跪き、「このお方は……」というと、パノリア王がそれを遮り、「アークティカ王か?」と尋ねた。
このとき、近衛兵全員が剣を抜き、無数の銃口が我々を狙っていた。
パノリア王は「撃つな」と静かに命じた。下級将校が「撃つな!」と王の命令を伝播させる。だが、銃口が下げられることはない。
パノリア軍の本隊は、そのまま北西に向かっていく。
私は「アークティカに王はいない」と答えた。
「そうかな? 私には貴殿がアークティカ王に思えるが」
カラカンダが「こちらは、メハナト穀物商会の総帥にして、予言の娘のご夫君であります」と跪いたまま答えた。
メルトは銃を構えて私の隣に立っている。
私はメルトに銃を下げさせた。
パノリア王は「やはりな。その珍妙な格好でも一国の指導者、いや陰の指導者かもしれぬが、その気が放たれておる」
私はパノリア王に「喰うか?」と言って、パンを放り投げた。小さなロールパンだ。
この世界では、食を分ければ、それは友好の証となる。
パノリア王は「ほう、柔らかくて美味いな。アークティカ人は、飢えていると聞いたが、美味いものを食べているのだな」
「食い物は、諸国の配慮によって何とかなっている。当面の危機を乗り越えれば、アークティカは復活する」
「貴殿の名は?」
「シュン」
「親より授けられし私の名は、キュリアだ」
「キュリア殿、一つ頼みがある」
「何だ?」とパノリア王は少し笑った。
「この隊列を横切らせてくれないか」
「どこへ行く」
「アトリア王に挨拶に」
「よかろう、行くがいい」
我々三人は、パノリア軍隊列の間隙を縫って横切り、北に向かった。
パノリア王の「また会おう!」という声が私の背中に聞こえた。
日没まで一時間と少しの夕方、WACO複葉機が戦場上空に現れた。今日、三度目の出撃だ。
WACO複葉機は三回戦場上空を旋回すると、西側に残置されている陸上戦艦に向かって降下を始めた。
「フェイト様は、陸上戦艦を仕留めるおつもりだ」とメルトが言った。
メルトが予期したとおり、フェイトは西側の陸上戦艦の先頭車輌に六〇キロ爆弾を叩き込み、完全に沈黙させた。
火薬に引火し、凄まじい誘爆が起こり、最後尾車輌まで蛇が跳ね上がるように、宙に浮いた。
この爆発に帝国軍将兵だけではなく、アトリア軍兵士も多くが巻き込まれ、戦場は阿鼻叫喚に包まれた。
アークティカのにわか兵士たちは、その光景に震えた。
フェイトが最後の出撃から戻ると、地下空間はWACO複葉機の整備を開始した。
整備スタッフは一〇人しかおらず、徹夜の作業になる。
その間、フェイトとキッカは眠らなければならない。それが二人の任務だ。
開戦の日の午後、三人の女性が危険を承知でヌールドの丘に徒歩で向かっていた。
一人はマーリンの姉フェリシア。彼女らはヴェルンドたちが試作した六・五ミリ自動小銃二挺を手に、ヌールドの丘を目指していた。
だが、道を見失い、ヌールドの丘東側の丘陵に迷い込んでしまっていた。
フェリシアたちは銃声を頼りに戦場に向かったが、自分たちがヌールドの丘ではなく、その東側の丘に着いてしまったことを知ったのは、夕暮れの間際だった。
三人は、戦場が一望できる窪地に自動小銃を据え、石や枯れ木を集めて簡単な陣地を作った。
そして、擬装用の天幕を張り、そこで夜を明かすことにした。暖房はガソリンストーブ一つという、厳しい状況での真冬のビバークである。
ヌールドの丘の最初の一日が終わろうとしていた。
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