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第1章 東京脱出
01-011 食料
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一切の護岸を失った隅田川は、まるで砂漠の大河のように悠々と流れていた。川幅は1.5倍ほどに広がり、所々に池を形成している。
その姿は美しくもあり、同時に恐ろしくもあった。
彼らは、隅田川に沿って9キロ北上し、隅田川東岸と荒川西岸が最接近する荒川区南千住の汐入公園付近に達した。所要時間は1時間45分。
すでに夕暮れが迫っており、今夜の野営地を探す必要がある。
付近一帯はまったくの平地で、起伏に乏しく、身を隠す場所、雨露を避ける場所が見当たらない。夜には雨が降るので、川の近くは危険だし、川の近くにいるのならば、高台に移動したい。
しかし、そんな場所はどこにもない。
仕方なく、付近で一番高いと思われる高いとは言えない程度の丘に移動し、軽トラの荷台にブルーシートを張る準備を始めた。
地表には枯れ木一本ないので、ブルーシートの支柱になりそうなものはない。
そこで、荷台のキャビン側、鳥居を前部支柱、荷台の後方後あおりの直前に三角形になるようにバイクの積み卸し用ラダーを置き、それを後部支柱にした。
ブルーシートの留め具には、靴紐を使った。ブルーシート自体は大きく、荷台の上面と側面のほとんどを覆うことができた。後方は開放されている。
日中、夜間とも、日に日に気温が下がっており、寒冷に対する恐怖を抱き始めていたので、ブルーシートは、実利だけでなく彼らの大きな精神的な助けとなった。
香野木恵一郎と葉村正哉で荷台にブルーシートを張っている間、花山真弓と金平彩華は〝缶詰のパン〟と〝毛布〟と書かれた軽い箱の点検をしている。
表記〝缶詰のパン〟のダンボール箱には、円筒形のパン入り缶詰が二四個入っていた。味は四種類で、チョコレート、イチゴ、ハチミツ、ミルククリームだ。
由衣はとても喜び、花山に缶から出してもらい、すぐに食べ始めた。ケンちゃんも頬張っている。
彩華が香野木と正哉に、缶を開けて渡してくれた。彼らも空腹で、今後のことは考えずかなりの速さで食べた。
近くには膝ほどの深さの池がいくつかあり、花山と彩華が「身体を洗いたい」といい、香野木がその護衛、正哉が軽トラの警備で残った。このとき、正哉に初めて自衛隊の九ミリ拳銃が渡された。
使い方は花山が教えたが、香野木は正哉がヒトを撃てるかを心配した。手槍を持つ男だが、内面は優しい。
花山、彩華、由衣、ケンちゃんの四人は七日ぶりに身体と髪を洗い、サイズの合わない服に着替えた。
香野木と正哉は、四人の着替えが終わった後、暗くなる前に別の池で身体を洗った。
大げさではなく、生き返った気持ちになった。
闇が近付いていたが、紐1本に至るまで残存物資の点検をした。
表記〝毛布〟のダンボール箱には、円筒形にまとめられた毛布が四つ入っていた。
今夜から、四人は毛布を被って寝られる。当然のように、香野木と正哉はそれを辞退し、四人に譲った。
正哉が最後に回収してきたアルミのケースには、レミントンM700ボルトアクションライフルが納められていた。
この銃が本物か、玩具かが少し問題になったが、花山は実銃と即断した。
実弾もあり、7.62×51ミリNATO弾の民間向けである.308ウィンチェスター弾の20発入り紙箱が2つある。
M700のストック(銃床)は樹脂製で、銃身は光沢のある銀色、材質はステンレスらしい。フォアエンドの先端に小さな二脚がある。スコープが取り付けられていて、フロントサイトとリアサイトはない。スコープがなければ照準できない。
花山はスコープを点検してから、四発の弾を弾倉に入れた。
「使いたくはないけれど、嫌な予感がするの」
花山と同様に、香野木も嫌な予感がしていた。
由衣とケンちゃんがキャビンで寝て、香野木と正哉が11時まで休み、12時から花山と彩華が眠ることになった。
香野木はM39自動拳銃を携帯したが、正哉は手槍を持つだけであった。
彼らは暗くなる前に、すべての発光を止め、地上に出てから3度目の夜を迎えた。
その夜は、19時頃から雨が降り始め、日付が変わる時刻にゲリラ豪雨が小雨に感じるほどの雨脚となった。風も雷もなく、ただの降雨で、これほどの恐怖を感じたことは過去一度もなかった。
キャビンにいた由衣とケンちゃんが怯え、小雨となった一瞬の間隙を縫って、2人を花山と彩華がいる荷台に乗せ、香野木と正哉がキャビンに入った。
この豪雨を除けば、何事もなく朝を迎えた。
夜が明けると、周囲にはたくさんの水たまりができており、また地面は粘性を増して、軽トラが容易に走れる状況ではなくなった。
太陽が昇り、地面が乾くまでは足止めされた。この想定外の状況に、全員が呆然とした。
朝食は、由衣とケンちゃんは缶詰のパンを食べ、他は固形の栄養補助食品を口にした。飲み物は水だけだ。
その後はすることがなかった。
この状況を正哉と彩華は朝寝という形で利用した。2人とも疲労は極限に達しており、ある意味、休息をとる格好の理由であった。
2人は、軽トラの荷台に毛布が入っていたダンボールを敷いて、毛布を被って寝ている。
香野木は、由衣とケンちゃんのどろんこ遊びにつきあった。
花山は、M700を抱えて歩哨に立った。
最初に異変に気付いたのは香野木で、隅田川・荒川方向からエンジン音がする。
エンジン音は非常に小さいが、鳥のさえずりはもちろん昆虫の声まで一切の音がしない静寂の中では、消音されたエンジン音でも遠方まで聞こえる。
建物はおろか木立1本ない空間では、音を吸収するものがなく、遠方まで響くことを、このとき初めて体感した。
「川まで行ってみる」と香野木がいうと、花山が「気をつけて」とM700のスコープを取り外して渡した。双眼鏡の代わりだ。
由衣とケンちゃんがキャビンに乗せられ、彩華と正哉は起こされた。
地面は泥濘というほど酷くはないが、香野木の体重でも踝まで確実に沈む。その泥から足を抜く動作は、腿の筋肉を異常に疲れさせた。
軽トラは周囲よりも高い場所に止めていたが、それでも1メートルほどの差しかない。軽トラの地点からは、隅田川と荒川の状況を観察することはできなかった。
ただ、水流が堤防の残滓を超え、氾濫をしたようには感じなかった。香野木の足下の水は、排水されなかった雨水だ。
隅田川の河畔までの五〇〇メートルが、数十キロに感じるほどの歩きにくさだ。
意識を足に集中しすぎて、香野木の聴覚は停止していた。
気付くと香野木の耳は、エンジンの停止を察知した。多種多様種々雑多な音の中で数十年生きてきたので、音があるより、音がない方が違和感を感じる。
エンジン音には警戒感よりも安心感が勝っていたが、静寂が戻ると香野木はある種の悪寒を感じた。
エンジン音が遠ざかれば、それは危険か安全かではなく、何らの変化がなかったということだ。
しかし、エンジン音が消えたということは、その発生源が停止したことを意味する。
発生源は敵か味方か。危険か安全か。それが近くにいる。
花山は、香野木が河畔に向かった直後、彩華、正哉、由衣の力を借りて、エンジンを始動せずに手押しでささやかな高台から低地に移動した。河畔の反対側にあたり、わずか一メートル高いだけの丘が彼らの存在を隠した。
香野木が河畔に近付くと、隅田川方向から四人の男が現れた。
双方の視認はほぼ同時で、香野木は身を隠す窪地さえない平地にいる。
遠すぎて表情はわからないが、彼らの素振りに驚きと動揺が見て取れる。2人の男が香野木を指さしている。
彼らはやや急ぎ足で、香野木はゆっくりと彼らに近付いていく。
4人と1人の男は、泥と水たまりしかない荒野で距離5メートルを隔てて立ち止まった。
身長180センチ級のがっしりとした体格の4人の男が、香野木の眼前にいる。二人は腰にホルスターを下げ、2人は64式小銃を装備している。
指揮官らしい男が問いかけた。
「ここで何を?」
「エンジン音がしたので、確認に来た」
「1人ですか?」
「あぁ」と曖昧な返事を返す。
「我々は海上自衛隊ですが……」
「で?」
「あのぅ、生存者がいれば助けようと思って」
指揮官は香野木の素っ気ない態度に動揺していた。
「あんたたちは、なぜ助かった?」
指揮官は一瞬躊躇したが、答えた。
「太平洋にいたので」
「潜水艦か?」
香野木は、この状況では海上も無事だとは思えなかった。川を遡上できるような小型船が、無事であるわけはない。
自分たちは地下にいて助かった。ならば、もう1カ所考えられるとすれば、水中だ。
香野木の推測は当たった。
「潜水艦です。潜航中だったので、被害はまったく受けませんでした。
貴方は……?」
「地下鉄だ。地下鉄の駅構内にいて助かった。で、あんたたちは、いつ東京に?」
「昨夜です。河口から荒川を遡上してきたのですが、荒川と隅田川の間がつながっていて、南千住方面に向かおうと思って……」
「それで上陸したのか。
東京はどこもこんな感じらしい」といって、香野木は周囲を見回した。
「静岡や伊豆、神奈川なども同じ状況です」
「世界のどこかと交信はできるの?」
「無線ですか?
他国の潜水艦とは交信可能ですが、世界中どこも同じような状況らしいです」
香野木は予測していたとはいえ、実際の情報に接して、穏やかな気持ちではいられなかった。
そんなわずかな心の隙を突かれ、言わなくてもいいことを言ってしまう。
「なぜ東京に?」
「防衛省の指示で。行政の一部は健在なようですが、その場所がわからなくて」
「防衛省の誰?」
指揮官は少し警戒した。
「直接の連絡は篠塚という方です」
「その男なら、たぶん死んだ。俺が腹と腕に1発ずつぶち込んだから」
64式小銃を持つ2人が、同時に安全装置外して、構えようとする。
「やめとけ。俺も銃は構えない。だが、あんたたちは照準器付きのライフルで狙われている」
香野木は花山から照準器を受け取ってきたことを酷く後悔していたし、そのとき花山も同様だった。
香野木は続けた。
「地上に出て最初の死体は、制服を着た1人の警察官だった。身体を切断されるという、奇妙な殺されようだった。
次は6人。警察官4人と迷彩服を着た自衛官2人。この6人も同じような殺され方だった。
その次が飯岡という警視庁のヒト。このヒトが死ぬ前に防衛省の篠塚という男に撃たれたと教えてくれた。
そして、俺は篠塚に会った。篠塚は、俺の食い物を奪おうとしたので、俺が撃った。
それだけだ」
指揮官は驚いていた。他の3人は、相互に顔を見合わせている。
指揮官は質問を続けた。
「生存者には会いましたか?」
「あぁ、篠塚が4人の迷彩服を着た自衛官を連れていた。
お互いに威嚇発砲はしたが、それだけだ。俺は無事だし、自衛官側にも怪我はないはずだ。
ほかに10歳代前半の女の子を連れた女性がいた」
「その女性は……」
「御茶ノ水駅付近以降、姿を見ていない」
「その女性を保護しなかったのですか!」
将校は初めて、内面的感情を見せた。
「あぁ、俺を殺して、食い物を奪おうとしたんで、逃げたんだ」
香野木は嘘をついた。そして、指揮官は絶句した。
「東京で何が……」
「俺にもわからない。
ただ、この異常な状況で、その気のある連中が本能で動き始めたんじゃないか?
篠塚は〝日本の再興〟とかいっていたよ」
「貴方はこれから……」
「とりあえず内陸に向かう。
食っていくことを考えなきゃならないからね」
「我々に同行しませんか?」
「いや、あんたたちも、最大で数カ月後には食うに困ることになる。この状況では、少人数のほうが生き残れるチャンスがある。
誘いはありがたいが、断るよ」
「名前、聞いてもいいですか?」
「香野木恵一郎」
「自分は早瀬隆一です。
幸運を祈ります」といって敬礼してくれた。
香野木は「何もしてあげられず、すまない。ただ、悪い予感がする。警察官1人と警察官4人に自衛官2人は、何かと戦った。
自衛官の小銃は切断されていた。遺体もだ。警察官4人のリボルバーは、すべて発射されていた。
死体を見る限り、ヒトの仕業とは思えない。
避難民の戯言と思うだろうが、警戒したほうがいい。
この状況自体が夢物語なのだから、何でもありだ」
早瀬と名乗った自衛官は、足を取られながら隅田川に戻っていった。
香野木はエンジン音がするまで、その場を動かなかった。
その姿は美しくもあり、同時に恐ろしくもあった。
彼らは、隅田川に沿って9キロ北上し、隅田川東岸と荒川西岸が最接近する荒川区南千住の汐入公園付近に達した。所要時間は1時間45分。
すでに夕暮れが迫っており、今夜の野営地を探す必要がある。
付近一帯はまったくの平地で、起伏に乏しく、身を隠す場所、雨露を避ける場所が見当たらない。夜には雨が降るので、川の近くは危険だし、川の近くにいるのならば、高台に移動したい。
しかし、そんな場所はどこにもない。
仕方なく、付近で一番高いと思われる高いとは言えない程度の丘に移動し、軽トラの荷台にブルーシートを張る準備を始めた。
地表には枯れ木一本ないので、ブルーシートの支柱になりそうなものはない。
そこで、荷台のキャビン側、鳥居を前部支柱、荷台の後方後あおりの直前に三角形になるようにバイクの積み卸し用ラダーを置き、それを後部支柱にした。
ブルーシートの留め具には、靴紐を使った。ブルーシート自体は大きく、荷台の上面と側面のほとんどを覆うことができた。後方は開放されている。
日中、夜間とも、日に日に気温が下がっており、寒冷に対する恐怖を抱き始めていたので、ブルーシートは、実利だけでなく彼らの大きな精神的な助けとなった。
香野木恵一郎と葉村正哉で荷台にブルーシートを張っている間、花山真弓と金平彩華は〝缶詰のパン〟と〝毛布〟と書かれた軽い箱の点検をしている。
表記〝缶詰のパン〟のダンボール箱には、円筒形のパン入り缶詰が二四個入っていた。味は四種類で、チョコレート、イチゴ、ハチミツ、ミルククリームだ。
由衣はとても喜び、花山に缶から出してもらい、すぐに食べ始めた。ケンちゃんも頬張っている。
彩華が香野木と正哉に、缶を開けて渡してくれた。彼らも空腹で、今後のことは考えずかなりの速さで食べた。
近くには膝ほどの深さの池がいくつかあり、花山と彩華が「身体を洗いたい」といい、香野木がその護衛、正哉が軽トラの警備で残った。このとき、正哉に初めて自衛隊の九ミリ拳銃が渡された。
使い方は花山が教えたが、香野木は正哉がヒトを撃てるかを心配した。手槍を持つ男だが、内面は優しい。
花山、彩華、由衣、ケンちゃんの四人は七日ぶりに身体と髪を洗い、サイズの合わない服に着替えた。
香野木と正哉は、四人の着替えが終わった後、暗くなる前に別の池で身体を洗った。
大げさではなく、生き返った気持ちになった。
闇が近付いていたが、紐1本に至るまで残存物資の点検をした。
表記〝毛布〟のダンボール箱には、円筒形にまとめられた毛布が四つ入っていた。
今夜から、四人は毛布を被って寝られる。当然のように、香野木と正哉はそれを辞退し、四人に譲った。
正哉が最後に回収してきたアルミのケースには、レミントンM700ボルトアクションライフルが納められていた。
この銃が本物か、玩具かが少し問題になったが、花山は実銃と即断した。
実弾もあり、7.62×51ミリNATO弾の民間向けである.308ウィンチェスター弾の20発入り紙箱が2つある。
M700のストック(銃床)は樹脂製で、銃身は光沢のある銀色、材質はステンレスらしい。フォアエンドの先端に小さな二脚がある。スコープが取り付けられていて、フロントサイトとリアサイトはない。スコープがなければ照準できない。
花山はスコープを点検してから、四発の弾を弾倉に入れた。
「使いたくはないけれど、嫌な予感がするの」
花山と同様に、香野木も嫌な予感がしていた。
由衣とケンちゃんがキャビンで寝て、香野木と正哉が11時まで休み、12時から花山と彩華が眠ることになった。
香野木はM39自動拳銃を携帯したが、正哉は手槍を持つだけであった。
彼らは暗くなる前に、すべての発光を止め、地上に出てから3度目の夜を迎えた。
その夜は、19時頃から雨が降り始め、日付が変わる時刻にゲリラ豪雨が小雨に感じるほどの雨脚となった。風も雷もなく、ただの降雨で、これほどの恐怖を感じたことは過去一度もなかった。
キャビンにいた由衣とケンちゃんが怯え、小雨となった一瞬の間隙を縫って、2人を花山と彩華がいる荷台に乗せ、香野木と正哉がキャビンに入った。
この豪雨を除けば、何事もなく朝を迎えた。
夜が明けると、周囲にはたくさんの水たまりができており、また地面は粘性を増して、軽トラが容易に走れる状況ではなくなった。
太陽が昇り、地面が乾くまでは足止めされた。この想定外の状況に、全員が呆然とした。
朝食は、由衣とケンちゃんは缶詰のパンを食べ、他は固形の栄養補助食品を口にした。飲み物は水だけだ。
その後はすることがなかった。
この状況を正哉と彩華は朝寝という形で利用した。2人とも疲労は極限に達しており、ある意味、休息をとる格好の理由であった。
2人は、軽トラの荷台に毛布が入っていたダンボールを敷いて、毛布を被って寝ている。
香野木は、由衣とケンちゃんのどろんこ遊びにつきあった。
花山は、M700を抱えて歩哨に立った。
最初に異変に気付いたのは香野木で、隅田川・荒川方向からエンジン音がする。
エンジン音は非常に小さいが、鳥のさえずりはもちろん昆虫の声まで一切の音がしない静寂の中では、消音されたエンジン音でも遠方まで聞こえる。
建物はおろか木立1本ない空間では、音を吸収するものがなく、遠方まで響くことを、このとき初めて体感した。
「川まで行ってみる」と香野木がいうと、花山が「気をつけて」とM700のスコープを取り外して渡した。双眼鏡の代わりだ。
由衣とケンちゃんがキャビンに乗せられ、彩華と正哉は起こされた。
地面は泥濘というほど酷くはないが、香野木の体重でも踝まで確実に沈む。その泥から足を抜く動作は、腿の筋肉を異常に疲れさせた。
軽トラは周囲よりも高い場所に止めていたが、それでも1メートルほどの差しかない。軽トラの地点からは、隅田川と荒川の状況を観察することはできなかった。
ただ、水流が堤防の残滓を超え、氾濫をしたようには感じなかった。香野木の足下の水は、排水されなかった雨水だ。
隅田川の河畔までの五〇〇メートルが、数十キロに感じるほどの歩きにくさだ。
意識を足に集中しすぎて、香野木の聴覚は停止していた。
気付くと香野木の耳は、エンジンの停止を察知した。多種多様種々雑多な音の中で数十年生きてきたので、音があるより、音がない方が違和感を感じる。
エンジン音には警戒感よりも安心感が勝っていたが、静寂が戻ると香野木はある種の悪寒を感じた。
エンジン音が遠ざかれば、それは危険か安全かではなく、何らの変化がなかったということだ。
しかし、エンジン音が消えたということは、その発生源が停止したことを意味する。
発生源は敵か味方か。危険か安全か。それが近くにいる。
花山は、香野木が河畔に向かった直後、彩華、正哉、由衣の力を借りて、エンジンを始動せずに手押しでささやかな高台から低地に移動した。河畔の反対側にあたり、わずか一メートル高いだけの丘が彼らの存在を隠した。
香野木が河畔に近付くと、隅田川方向から四人の男が現れた。
双方の視認はほぼ同時で、香野木は身を隠す窪地さえない平地にいる。
遠すぎて表情はわからないが、彼らの素振りに驚きと動揺が見て取れる。2人の男が香野木を指さしている。
彼らはやや急ぎ足で、香野木はゆっくりと彼らに近付いていく。
4人と1人の男は、泥と水たまりしかない荒野で距離5メートルを隔てて立ち止まった。
身長180センチ級のがっしりとした体格の4人の男が、香野木の眼前にいる。二人は腰にホルスターを下げ、2人は64式小銃を装備している。
指揮官らしい男が問いかけた。
「ここで何を?」
「エンジン音がしたので、確認に来た」
「1人ですか?」
「あぁ」と曖昧な返事を返す。
「我々は海上自衛隊ですが……」
「で?」
「あのぅ、生存者がいれば助けようと思って」
指揮官は香野木の素っ気ない態度に動揺していた。
「あんたたちは、なぜ助かった?」
指揮官は一瞬躊躇したが、答えた。
「太平洋にいたので」
「潜水艦か?」
香野木は、この状況では海上も無事だとは思えなかった。川を遡上できるような小型船が、無事であるわけはない。
自分たちは地下にいて助かった。ならば、もう1カ所考えられるとすれば、水中だ。
香野木の推測は当たった。
「潜水艦です。潜航中だったので、被害はまったく受けませんでした。
貴方は……?」
「地下鉄だ。地下鉄の駅構内にいて助かった。で、あんたたちは、いつ東京に?」
「昨夜です。河口から荒川を遡上してきたのですが、荒川と隅田川の間がつながっていて、南千住方面に向かおうと思って……」
「それで上陸したのか。
東京はどこもこんな感じらしい」といって、香野木は周囲を見回した。
「静岡や伊豆、神奈川なども同じ状況です」
「世界のどこかと交信はできるの?」
「無線ですか?
他国の潜水艦とは交信可能ですが、世界中どこも同じような状況らしいです」
香野木は予測していたとはいえ、実際の情報に接して、穏やかな気持ちではいられなかった。
そんなわずかな心の隙を突かれ、言わなくてもいいことを言ってしまう。
「なぜ東京に?」
「防衛省の指示で。行政の一部は健在なようですが、その場所がわからなくて」
「防衛省の誰?」
指揮官は少し警戒した。
「直接の連絡は篠塚という方です」
「その男なら、たぶん死んだ。俺が腹と腕に1発ずつぶち込んだから」
64式小銃を持つ2人が、同時に安全装置外して、構えようとする。
「やめとけ。俺も銃は構えない。だが、あんたたちは照準器付きのライフルで狙われている」
香野木は花山から照準器を受け取ってきたことを酷く後悔していたし、そのとき花山も同様だった。
香野木は続けた。
「地上に出て最初の死体は、制服を着た1人の警察官だった。身体を切断されるという、奇妙な殺されようだった。
次は6人。警察官4人と迷彩服を着た自衛官2人。この6人も同じような殺され方だった。
その次が飯岡という警視庁のヒト。このヒトが死ぬ前に防衛省の篠塚という男に撃たれたと教えてくれた。
そして、俺は篠塚に会った。篠塚は、俺の食い物を奪おうとしたので、俺が撃った。
それだけだ」
指揮官は驚いていた。他の3人は、相互に顔を見合わせている。
指揮官は質問を続けた。
「生存者には会いましたか?」
「あぁ、篠塚が4人の迷彩服を着た自衛官を連れていた。
お互いに威嚇発砲はしたが、それだけだ。俺は無事だし、自衛官側にも怪我はないはずだ。
ほかに10歳代前半の女の子を連れた女性がいた」
「その女性は……」
「御茶ノ水駅付近以降、姿を見ていない」
「その女性を保護しなかったのですか!」
将校は初めて、内面的感情を見せた。
「あぁ、俺を殺して、食い物を奪おうとしたんで、逃げたんだ」
香野木は嘘をついた。そして、指揮官は絶句した。
「東京で何が……」
「俺にもわからない。
ただ、この異常な状況で、その気のある連中が本能で動き始めたんじゃないか?
篠塚は〝日本の再興〟とかいっていたよ」
「貴方はこれから……」
「とりあえず内陸に向かう。
食っていくことを考えなきゃならないからね」
「我々に同行しませんか?」
「いや、あんたたちも、最大で数カ月後には食うに困ることになる。この状況では、少人数のほうが生き残れるチャンスがある。
誘いはありがたいが、断るよ」
「名前、聞いてもいいですか?」
「香野木恵一郎」
「自分は早瀬隆一です。
幸運を祈ります」といって敬礼してくれた。
香野木は「何もしてあげられず、すまない。ただ、悪い予感がする。警察官1人と警察官4人に自衛官2人は、何かと戦った。
自衛官の小銃は切断されていた。遺体もだ。警察官4人のリボルバーは、すべて発射されていた。
死体を見る限り、ヒトの仕業とは思えない。
避難民の戯言と思うだろうが、警戒したほうがいい。
この状況自体が夢物語なのだから、何でもありだ」
早瀬と名乗った自衛官は、足を取られながら隅田川に戻っていった。
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