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第1章 東京脱出
01-010 人殺し
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香野木恵一郎は、防災作業ズボンの男に弱々しく話しかけた。
「自衛隊の方ですか?
助かりました。本当に」
男の声は奇妙なほど甲高かく、命令口調であった。
「名前は!」
「香野木といいます。香野木恵一郎です。
あなたは?」
「防衛省の篠塚だ!」
香野木にとって、最も心配していた最高警戒人物だ。
「救助に来てくださってありがとう」
「貴様は食料を持っているか」
「少しだけですが……」
「出せ」
「え!」
「食料を出せ」
「あのぅ」
「命令に従わなければ、力尽くで供出させる。
それから女がいるだろう。
女も渡せ」
「どういうことですか」
香野木は可能な限り、弱々しく尋ねた。
怯えている方が、相手を油断させられる。
「貴様のような地方人(民間人に対する旧軍の呼び方)に教えるいわれはないが、特別だ。
我らは日本を再生するために戦っている。
そのために若い女がいる」
そして、香野木の襟首を捕まえて、喉を締め上げた。
香野木には一切の躊躇いはなかった。死んだ飯岡という男の言に嘘はないと確信した。
同時に香野木は、M39の銃口を篠塚と名乗った男の腹に向け、発射した。
篠塚を引き倒して遮蔽物にし、肘に一発追加して身を伏せた。肘を撃たれて篠塚が落としたP220を奪った。
50メートルほど離れて立ていた自衛官は、当初、篠塚が香野木を撃ったと思ったようだ。だから、香野木が篠塚を引き倒した後も、彼らは一瞬だが動かなかった。
香野木が彼らに向けて、2発発射する直前、彼らは地に伏した。そして2人が3点バーストで発砲してきたが、香野木の頭を下げさせると、すぐに立ち上がり後退した。
自衛官が香野木を制圧しようと思えば確実にできたが、彼らはそうしなかった。
彼らに、篠塚を守る意思はなかったようだ。
花山が走り寄ってきた。篠塚はまだ生きていた。
花山は無言で篠塚を見下ろしている。
花山の視線を感じながら、香野木は屈んで篠塚の装備を調べていた。水筒にはほとんど水はなく、食料もない。P220の予備の弾倉もない。空荷でこの荒野を歩いていたことになる。正気ではない。
いや、この異常事態に直面して、本当に正気を失っているのかもしれない。そう思うと、少しだが心が咎めた。
香野木は立ち上がり、花山に「ここを急いで離れよう」といった。
花山が「この人はどうする?」と尋ねたので、「このままにしよう。本人も『殺さないで』と泣いている」
花山は、かなり驚いた様子で香野木を見た。
「さっ、行こう」と香野木が促すと、花山は一度だけ篠塚を見て、香野木と一緒に地下駐車場に急いだ。
地下駐車場では、彩華が軽トラを地上まで移動しようとしていた。正哉が由衣とケンちゃんの面倒を見ていたが、二人とも声を出さずに泣いている。
軽トラが地上に出ると、由衣とケンちゃんをキャビンに載せ、香野木が運転することになった。花山、彩華、正哉は荷台だ。
軽トラは地面の陥没に注意しながら、自転車程度の速度で、北に向かって進んだ。方向は、太陽の位置を頼りに推測する。
徒歩よりは遙かに早い。
数分で日本橋川を渡ったが、昨日は川幅50センチ、水深10センチ程度の流れだったのに、今日は川幅1.2メートル、水深20センチになっていた。
渡河する際は細心の注意を払い、香野木自身で川底の状態を確かめてから渡る。
15分ほどで、神田川の南岸に着いた。彼らがこの川を渡った際は、川幅が1メートルほどだったが、いまでは3メートル、水深は30センチもある。
この川は本来のルートを流れてはいないと思うが、徐々に上流からの水の供給が増えていることは確かだろう。
川底を調べると、わずかに粘土化しており、踝近くまで潜る。大人は降りて、車体を押して渡ることにした。
由衣とケンちゃんは、キャビンに乗ったまま。
神田川の水はきれいだ。清流と言ってもいい。そして、心地いい冷たさだ。
軽トラを渡河させてから、全員が顔を洗った。
そして、飲み終えたペットボトルに神田川の水を汲んだ。
できるだけ早く立ち去りたかったが、由衣が軽トラの荷台から崩落場所を見つけた。
正哉が正確な場所を確認し、香野木と一緒に徒歩で向かうことにした。徒歩で3分ほどと至近だ。花山が運転して、ゆっくりとついてくる。
災害時の備蓄品は、地下の倉庫に保管されていることが多い。うまくすれば、非常食を見つけられる可能性がある。
大災厄以降、多くの非常用物資が使われてしまったが、まだまだ大量にあるはずだ。
だが、この5年間でほとんど消費してしまっている施設も多い。
それでも、可能性はあるし、最近でも配給を受けたことがある。
地表に目標物が全くない状況では、地下の物資を発見することは運頼みの宝探しと大差ない確率だが、生存にとっては重要な活動だ。
崩落の規模は大きくない。地下街ではなく、ビルの地階のようだ。そもそも神田川の北側、秋葉原界隈には大規模な地下街はない。
彼らは物資が欲しかった。水と食料だけでなく、針金やロープなど何でもいいから欲しかった。道具を何も持っていないのだ。
崩落はほぼ四角形で、地下に空間が残されているようには思えない。
だが、正哉が小さな穴を見つけた。香野木は用心深く、穴に近付く。香野木の体重で崩落する可能性があるからだ。
穴は腕が入る程度の大きさで、穴の周囲は非常に脆いように感じた。香野木は腹ばいになって、穴の中を覗いた。
穴の内部に太陽光は達せず、真っ暗だが空間があることはわかる。
正哉にLEDライトと、タイヤ交換用のレンチを持ってくるように頼んだ。
レンチで穴の周囲をたたくと、簡単に直径30センチほどまで広がる。
内部に懐中電灯を差し入れて照らすと、金属製のラックと大量の段ボール箱が見える。その段ボール箱の一つに、〝書類〟という文字が書かれている。
めぼしい物はなさそうだが、穴の直下に作業台のような机の上に置かれた長さ1メートル強のアルミ製ケースがある。
香野木は楽器のケースだと思った。
彼はいったん安全な位置まで後退する。
「書類入れらしいダンボール箱と楽器のケースがあるだけだ」と全員にいった。
由衣が「ご飯、なかったぁ」と尋ねたので、「ここにはないみたいだね」と答える。
穴の内部は六畳間ほどの広さで、周囲は完全に崩落しているが、1階の床を支えていた梁が崩れたものの、その梁が金属ラックの上に載った状態で、完全に崩れることを免れていた。
梁の一方は外壁にもたれかかっており、もう一方が金属ラックに載っている。きわめて不安定で、いつ崩れてもおかしくない。
内部に入ることはきわめて危険だ。
梁の周囲、つまり地下階の天井であり、上階の床に当たる部分、彼らの足下は非常に脆く、拳で叩いただけで崩れる。
彼らが見つけた穴は、梁と床・天井の接合部分にあった。香野木は偶然梁の上を歩いたので、踏み抜いて落下しなかった。
正哉が梁には乗らず、右足の踵で蹴りながら、足下の堅さを確かめ始めた。
すると、ボコッと片足が入り込む穴が開いた。正哉は勢い余り、その小さな穴に引きづり込まれそうになるが、彩華が正哉の身体を捕まえて防いだ。由衣も彩華を手伝った。正哉は尻餅をついて、それに二人も巻き込まれた。
その穴を拡張し、ライトを差し込むと、〝パンの缶詰〟のダンボール箱が金属ラックに載っている。〝24缶入り〟の印刷された文字も見える。
箱は開梱された痕跡があり、中にパンの缶詰が入っているかどうかはわからない。ダンボール箱の使い回しで、中身は書類ということもある。
正哉が〝毛布6枚〟とマジックで大書されたダンボール箱、ゴム長靴、スコップ、ザイルのようなロープ、ブルーシートが床に散乱しているのを見つけた。
そのことを正哉が報告すると、由衣が「パン、食べたいね」とポツリといった。
香野木は、パンの缶詰が確保できなくても、毛布が手に入らなくても、スコップやロープ、ブルーシートは欲しかった。
香野木は決断した。
正哉に「穴をできるだけ広げてくれ。俺が降りる。軽トラに積まれていたラダーを梯子代わりにする」
花山が「危険すぎる!」と反対した。
「花山さん、もし俺が埋まったら、捨てていってくれ。後は頼む」
それを聞いた正哉が「俺が降りますよ。香野木さんより、身軽です」
彩華が「私も葉村くんの意見に賛成」と正哉に同調した。
香野木は無言で軽トラの荷台から、バイクの積み卸し用アルミ合金製ラダーを運んできた。二つ折りになっていて、展開すると長さは二・五メートルほどになる。
正哉に「一度降りて、スコップだけを回収して戻れ」といった。
正哉は無言で頷いた。
ヒトの横断面の一・五倍ほどの穴の中に、ラダーを降ろした。ラダーは簀の子状にアルミ合金の横板が鋲接されており、この横板を梯子の横さんの代用にして、正哉が地下に降りていく。
彼は香野木の指示通り、スコップだけを手早く回収し、ラダーを上ってきた。
香野木はスコップを受け取ると、地下の天井を形成している薄くて脆い床面をスコップのすくい部で叩き始めた。
穴は急速に広がり、地下に光が差し込む。脆い部分はこの衝撃で自然に崩落し、これが収まるのに少しの時間を要した。
正哉が再び、地下に降りる。地下に降りると同時に、彼は〝防火〟と書かれた古めかしい赤いブリキのバケツを頭に被った。
由衣が笑ったが、香野木はいい判断だと思った。天井の崩落は完全には止まっていない。小石が頭に当たっただけでも、怪我をする可能性がある。バケツをヘルメット代わりにする発想は、この状況下では最善の策だ。
〝毛布〟と書かれた箱は棚の上段にあり、大きいが軽かった。
正哉は、まずこれを回収した。
次に、ゴム長靴とプラスチックのバケツを放り上げた。
ロープは長く重いので、香野木が半階あたりまで降り、正哉から受け取った。ブルーシートも同じ手順で回収する。
香野木のカンは危険の臭いを感じていて、正哉に「最後にしろ」と命じて、〝パンの缶詰〟のダンボール箱の回収を始めた。
〝パンの缶詰〟のダンボール箱は想像していたよりも大きく重く、回収したロープを使って運び上げた。正哉は、その箱の上に偶然目についた古い道路地図帳を載せた。
彼は戻りがけの駄賃とばかりに、長さ1メートルほどのアルミケースを左手にぶら下げて戻ってきた。
彼が地上に戻り、ラダーを引き上げ終えるとほぼ同時に、梁は載っていた金属ラックを潰しながら落ち、一帯にはもうもうと土埃が舞う。
この崩落の音は、遠方まで聞こえた可能性がある。
篠塚のような好ましくない連中を呼んだかもしれないので、この場をすぐに離れることにした。
彼らは神田川に沿って東進し、隅田川西岸を目指していた。
ランドマークが全くない現在の東京で、河川だけは痕跡を残している。神田川の残滓があるのだから、隅田川が消滅したとは考えにくい。
この仮説を頼りにしての行動であった。彼らが物資を回収した地点が秋葉原駅周辺だとすれば、両国橋西詰までは二キロから二・五キロほどのはずだ。
それと、香野木はあの地下室は万世橋警察署の跡ではないかと考えていた。そうだとするならば、隅田川西岸まではそう遠くはない。
香野木は軽トラの荷台で、正哉が回収してきた昭和62年発行の道路地図帳を見ていた。中央環状線が描かれていないが、そんなものは消滅してしまっている可能性が高いので、道路地図としての機能はどうでもいいこと。
川筋の大きな変更はないはずなので、これは役に立つ。正哉に感謝したい。
路面に注意しながら走ったので、隅田川西岸まで30分を要した。走行距離は、ダッシュボードのデジタル距離計で、3キロほど。徒歩よりもやや速い時速6キロだ。
この状況では、移動には想像以上の時間を要することがわかった。
香野木は、道の痕跡さえない荒野で原初的本能以外、頼るものがないことに戦慄していた。
「自衛隊の方ですか?
助かりました。本当に」
男の声は奇妙なほど甲高かく、命令口調であった。
「名前は!」
「香野木といいます。香野木恵一郎です。
あなたは?」
「防衛省の篠塚だ!」
香野木にとって、最も心配していた最高警戒人物だ。
「救助に来てくださってありがとう」
「貴様は食料を持っているか」
「少しだけですが……」
「出せ」
「え!」
「食料を出せ」
「あのぅ」
「命令に従わなければ、力尽くで供出させる。
それから女がいるだろう。
女も渡せ」
「どういうことですか」
香野木は可能な限り、弱々しく尋ねた。
怯えている方が、相手を油断させられる。
「貴様のような地方人(民間人に対する旧軍の呼び方)に教えるいわれはないが、特別だ。
我らは日本を再生するために戦っている。
そのために若い女がいる」
そして、香野木の襟首を捕まえて、喉を締め上げた。
香野木には一切の躊躇いはなかった。死んだ飯岡という男の言に嘘はないと確信した。
同時に香野木は、M39の銃口を篠塚と名乗った男の腹に向け、発射した。
篠塚を引き倒して遮蔽物にし、肘に一発追加して身を伏せた。肘を撃たれて篠塚が落としたP220を奪った。
50メートルほど離れて立ていた自衛官は、当初、篠塚が香野木を撃ったと思ったようだ。だから、香野木が篠塚を引き倒した後も、彼らは一瞬だが動かなかった。
香野木が彼らに向けて、2発発射する直前、彼らは地に伏した。そして2人が3点バーストで発砲してきたが、香野木の頭を下げさせると、すぐに立ち上がり後退した。
自衛官が香野木を制圧しようと思えば確実にできたが、彼らはそうしなかった。
彼らに、篠塚を守る意思はなかったようだ。
花山が走り寄ってきた。篠塚はまだ生きていた。
花山は無言で篠塚を見下ろしている。
花山の視線を感じながら、香野木は屈んで篠塚の装備を調べていた。水筒にはほとんど水はなく、食料もない。P220の予備の弾倉もない。空荷でこの荒野を歩いていたことになる。正気ではない。
いや、この異常事態に直面して、本当に正気を失っているのかもしれない。そう思うと、少しだが心が咎めた。
香野木は立ち上がり、花山に「ここを急いで離れよう」といった。
花山が「この人はどうする?」と尋ねたので、「このままにしよう。本人も『殺さないで』と泣いている」
花山は、かなり驚いた様子で香野木を見た。
「さっ、行こう」と香野木が促すと、花山は一度だけ篠塚を見て、香野木と一緒に地下駐車場に急いだ。
地下駐車場では、彩華が軽トラを地上まで移動しようとしていた。正哉が由衣とケンちゃんの面倒を見ていたが、二人とも声を出さずに泣いている。
軽トラが地上に出ると、由衣とケンちゃんをキャビンに載せ、香野木が運転することになった。花山、彩華、正哉は荷台だ。
軽トラは地面の陥没に注意しながら、自転車程度の速度で、北に向かって進んだ。方向は、太陽の位置を頼りに推測する。
徒歩よりは遙かに早い。
数分で日本橋川を渡ったが、昨日は川幅50センチ、水深10センチ程度の流れだったのに、今日は川幅1.2メートル、水深20センチになっていた。
渡河する際は細心の注意を払い、香野木自身で川底の状態を確かめてから渡る。
15分ほどで、神田川の南岸に着いた。彼らがこの川を渡った際は、川幅が1メートルほどだったが、いまでは3メートル、水深は30センチもある。
この川は本来のルートを流れてはいないと思うが、徐々に上流からの水の供給が増えていることは確かだろう。
川底を調べると、わずかに粘土化しており、踝近くまで潜る。大人は降りて、車体を押して渡ることにした。
由衣とケンちゃんは、キャビンに乗ったまま。
神田川の水はきれいだ。清流と言ってもいい。そして、心地いい冷たさだ。
軽トラを渡河させてから、全員が顔を洗った。
そして、飲み終えたペットボトルに神田川の水を汲んだ。
できるだけ早く立ち去りたかったが、由衣が軽トラの荷台から崩落場所を見つけた。
正哉が正確な場所を確認し、香野木と一緒に徒歩で向かうことにした。徒歩で3分ほどと至近だ。花山が運転して、ゆっくりとついてくる。
災害時の備蓄品は、地下の倉庫に保管されていることが多い。うまくすれば、非常食を見つけられる可能性がある。
大災厄以降、多くの非常用物資が使われてしまったが、まだまだ大量にあるはずだ。
だが、この5年間でほとんど消費してしまっている施設も多い。
それでも、可能性はあるし、最近でも配給を受けたことがある。
地表に目標物が全くない状況では、地下の物資を発見することは運頼みの宝探しと大差ない確率だが、生存にとっては重要な活動だ。
崩落の規模は大きくない。地下街ではなく、ビルの地階のようだ。そもそも神田川の北側、秋葉原界隈には大規模な地下街はない。
彼らは物資が欲しかった。水と食料だけでなく、針金やロープなど何でもいいから欲しかった。道具を何も持っていないのだ。
崩落はほぼ四角形で、地下に空間が残されているようには思えない。
だが、正哉が小さな穴を見つけた。香野木は用心深く、穴に近付く。香野木の体重で崩落する可能性があるからだ。
穴は腕が入る程度の大きさで、穴の周囲は非常に脆いように感じた。香野木は腹ばいになって、穴の中を覗いた。
穴の内部に太陽光は達せず、真っ暗だが空間があることはわかる。
正哉にLEDライトと、タイヤ交換用のレンチを持ってくるように頼んだ。
レンチで穴の周囲をたたくと、簡単に直径30センチほどまで広がる。
内部に懐中電灯を差し入れて照らすと、金属製のラックと大量の段ボール箱が見える。その段ボール箱の一つに、〝書類〟という文字が書かれている。
めぼしい物はなさそうだが、穴の直下に作業台のような机の上に置かれた長さ1メートル強のアルミ製ケースがある。
香野木は楽器のケースだと思った。
彼はいったん安全な位置まで後退する。
「書類入れらしいダンボール箱と楽器のケースがあるだけだ」と全員にいった。
由衣が「ご飯、なかったぁ」と尋ねたので、「ここにはないみたいだね」と答える。
穴の内部は六畳間ほどの広さで、周囲は完全に崩落しているが、1階の床を支えていた梁が崩れたものの、その梁が金属ラックの上に載った状態で、完全に崩れることを免れていた。
梁の一方は外壁にもたれかかっており、もう一方が金属ラックに載っている。きわめて不安定で、いつ崩れてもおかしくない。
内部に入ることはきわめて危険だ。
梁の周囲、つまり地下階の天井であり、上階の床に当たる部分、彼らの足下は非常に脆く、拳で叩いただけで崩れる。
彼らが見つけた穴は、梁と床・天井の接合部分にあった。香野木は偶然梁の上を歩いたので、踏み抜いて落下しなかった。
正哉が梁には乗らず、右足の踵で蹴りながら、足下の堅さを確かめ始めた。
すると、ボコッと片足が入り込む穴が開いた。正哉は勢い余り、その小さな穴に引きづり込まれそうになるが、彩華が正哉の身体を捕まえて防いだ。由衣も彩華を手伝った。正哉は尻餅をついて、それに二人も巻き込まれた。
その穴を拡張し、ライトを差し込むと、〝パンの缶詰〟のダンボール箱が金属ラックに載っている。〝24缶入り〟の印刷された文字も見える。
箱は開梱された痕跡があり、中にパンの缶詰が入っているかどうかはわからない。ダンボール箱の使い回しで、中身は書類ということもある。
正哉が〝毛布6枚〟とマジックで大書されたダンボール箱、ゴム長靴、スコップ、ザイルのようなロープ、ブルーシートが床に散乱しているのを見つけた。
そのことを正哉が報告すると、由衣が「パン、食べたいね」とポツリといった。
香野木は、パンの缶詰が確保できなくても、毛布が手に入らなくても、スコップやロープ、ブルーシートは欲しかった。
香野木は決断した。
正哉に「穴をできるだけ広げてくれ。俺が降りる。軽トラに積まれていたラダーを梯子代わりにする」
花山が「危険すぎる!」と反対した。
「花山さん、もし俺が埋まったら、捨てていってくれ。後は頼む」
それを聞いた正哉が「俺が降りますよ。香野木さんより、身軽です」
彩華が「私も葉村くんの意見に賛成」と正哉に同調した。
香野木は無言で軽トラの荷台から、バイクの積み卸し用アルミ合金製ラダーを運んできた。二つ折りになっていて、展開すると長さは二・五メートルほどになる。
正哉に「一度降りて、スコップだけを回収して戻れ」といった。
正哉は無言で頷いた。
ヒトの横断面の一・五倍ほどの穴の中に、ラダーを降ろした。ラダーは簀の子状にアルミ合金の横板が鋲接されており、この横板を梯子の横さんの代用にして、正哉が地下に降りていく。
彼は香野木の指示通り、スコップだけを手早く回収し、ラダーを上ってきた。
香野木はスコップを受け取ると、地下の天井を形成している薄くて脆い床面をスコップのすくい部で叩き始めた。
穴は急速に広がり、地下に光が差し込む。脆い部分はこの衝撃で自然に崩落し、これが収まるのに少しの時間を要した。
正哉が再び、地下に降りる。地下に降りると同時に、彼は〝防火〟と書かれた古めかしい赤いブリキのバケツを頭に被った。
由衣が笑ったが、香野木はいい判断だと思った。天井の崩落は完全には止まっていない。小石が頭に当たっただけでも、怪我をする可能性がある。バケツをヘルメット代わりにする発想は、この状況下では最善の策だ。
〝毛布〟と書かれた箱は棚の上段にあり、大きいが軽かった。
正哉は、まずこれを回収した。
次に、ゴム長靴とプラスチックのバケツを放り上げた。
ロープは長く重いので、香野木が半階あたりまで降り、正哉から受け取った。ブルーシートも同じ手順で回収する。
香野木のカンは危険の臭いを感じていて、正哉に「最後にしろ」と命じて、〝パンの缶詰〟のダンボール箱の回収を始めた。
〝パンの缶詰〟のダンボール箱は想像していたよりも大きく重く、回収したロープを使って運び上げた。正哉は、その箱の上に偶然目についた古い道路地図帳を載せた。
彼は戻りがけの駄賃とばかりに、長さ1メートルほどのアルミケースを左手にぶら下げて戻ってきた。
彼が地上に戻り、ラダーを引き上げ終えるとほぼ同時に、梁は載っていた金属ラックを潰しながら落ち、一帯にはもうもうと土埃が舞う。
この崩落の音は、遠方まで聞こえた可能性がある。
篠塚のような好ましくない連中を呼んだかもしれないので、この場をすぐに離れることにした。
彼らは神田川に沿って東進し、隅田川西岸を目指していた。
ランドマークが全くない現在の東京で、河川だけは痕跡を残している。神田川の残滓があるのだから、隅田川が消滅したとは考えにくい。
この仮説を頼りにしての行動であった。彼らが物資を回収した地点が秋葉原駅周辺だとすれば、両国橋西詰までは二キロから二・五キロほどのはずだ。
それと、香野木はあの地下室は万世橋警察署の跡ではないかと考えていた。そうだとするならば、隅田川西岸まではそう遠くはない。
香野木は軽トラの荷台で、正哉が回収してきた昭和62年発行の道路地図帳を見ていた。中央環状線が描かれていないが、そんなものは消滅してしまっている可能性が高いので、道路地図としての機能はどうでもいいこと。
川筋の大きな変更はないはずなので、これは役に立つ。正哉に感謝したい。
路面に注意しながら走ったので、隅田川西岸まで30分を要した。走行距離は、ダッシュボードのデジタル距離計で、3キロほど。徒歩よりもやや速い時速6キロだ。
この状況では、移動には想像以上の時間を要することがわかった。
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