上 下
7 / 38
第1章 東京脱出

01-007 ドラゴン

しおりを挟む
 警察官と自衛官の殺害という事実が、彼らを用心深くさせていた。
 花山真弓は、ゴミは捨てずに穴を掘って埋めることを提案した。
 花山が提案したこの行為に対して、誰も否をいわず、むしろ積極的に従った。ヒトの遺伝子の中に組み込まれた、原初的な生命維持本能が起動しつつあった。
 香野木恵一郎は地下街から回収した焦げ茶色のジップパーカーを羽織り、花山は男物の濃いグレーのウインドブレーカーを重ね着した。
 彼らは、時間を追って気温が下がっていることを肌で感じていた。大気中を舞う大量の塵が、太陽光の地上への到達を妨げているのだ。

 香野木には、行く当てがあるわけではなかった。今夜のねぐらを探すには、どこに向かえばいいのかを思案していた。
 だが、考えはまとまらない。立ち止まってはいられないので、自然と足は大手町方向に向かっていた。

 何もない大地に彫像が建っていた。
 香野木には最初、そのように見えた。
 鳥が翼で顔を覆うような格好で、うずくまっている。
 全体に灰色で、大地の赤とのコントラストが奇妙なほど強い。
 うずくまってはいるが、ヒトの背丈ほどの高さがある。
 最初は鳥だと思ったが、翼はコウモリに近く羽毛がない。
 最前を歩く正哉が気付き、歩みを止め、その場で全員が彫像を凝視する。
 誰も一声さえ発しない。
 灰色の彫像の下で、長い何かが動いた。
 尾だ!
 彫像はゆっくりと翼を広げた。
 翼の構造は、鳥よりもコウモリに似ている。
 頭部は恐竜を連想させる。鋭い歯と大きな眼。長い吻部。
 由衣が「ドラゴンだ」と呟く。
 確かにドラゴンかもしれない。イギリスが紋章に多用するワイバーンが最も近い。
 ドラゴンが我々を見詰める。花山がゆっくりと拳銃を構える。
 彼我の距離は300メートルを超える。拳銃の射程外だが、用心に越したことはない。
 ドラゴンが羽ばたき、かなりの高速で上昇していく。2メートルはありそうな長い尾が、ヘビのように動いている。
 そして、北に飛び去った。
 花山が拳銃を下ろし、警戒を解く。
 喉がひどく渇く。
 ありえないものを見た。驚きと恐怖と混乱が同時に脳を支配する。

 ドラゴンがいた場所には、足跡があった。
 金平彩華が「恐竜だったのかな?」と問うた。
 香野木は「違うね。指が五本ある。恐竜ならば三本だ」と応じた。
 花山が「行きましょ」と促した。声が震えている。香野木は花山の動揺を空気の振動で感じた。
 
 彼らは1時間以上かけて、わずか1キロ強しか離れていない大手町付近とおぼしき地点まで移動した。地面は乾燥しているが柔らかく、場所によっては踝あたりまで埋まる。歩きにくく、由衣には辛い。また、ケンちゃんを背負う香野木も、非常な疲労を感じた。ベビーバギーの小さなタイヤでは、土に埋もれてしまい進行が困難なのだ。
 大手町に着いた時点で、すでに15時を過ぎていた。今夜、身を隠す場所を探さねばならない時刻になっていた。
 大手町付近は、八重洲よりも地面が深くえぐれているらしく、建造物の痕跡が足下にもない。
 人類文明の痕跡は地上には皆無だが、地下には幾ばくかは残っている。特に東京の中心はそうだ。彼らは文明の痕跡から、少しの物資の回収ができた。
 彼らは、まだ生き残っているし、あと数日間、生きていく資源を持っている。

 夕方になると、黒い雲が空を覆い始める。空全体が黄土色に染まっているのだが、その黄土色が黒く変色し始める。
 雨が降り出す予兆だ。
 小さなな窪地を見つけ、そこで小休止した。身を隠せるほどの深さはないが、それでも貴重な地形の変化だ。
 疲労しきっていた香野木に代わり、葉村正哉が周囲の監視に当たった。
 花山と彩華も、かなり疲れている。2人とも座り込み、ケンちゃんが花山に心配そうに寄り添っている。
 しばらくすると、正哉と由衣が偵察に行くといい出した。二人は、彼らがいる窪地から見える範囲を偵察するという。だが、周囲は平坦な荒野。視界が悪いとはいえ、どうにか50メートル先まで見通せる程度はある。周囲半径50メートルを偵察したところで、何かが見つかるとは思えない。
 だが、他に案などなかった。正哉は由衣の手を引いて、窪地を出て行った。

 2人が出て行き、2人の様子を観察していた彩華が10分と経たず、「何か見つけたみたい!」と花山に報告する。
 見ると、50メートルと離れていない場所で、正哉と由衣が両手を大きく振っている。
 彩華が「見てくる」といって窪地を飛び出した。
 彩華と由衣が残り、正哉が戻ってきた。
「穴があります。かなり大きな穴です。幅は6メートル、高さは2メートル。彩華さんが地下駐車場の入口じゃないかと」
 香野木と花山は、荷物をまとめ、窪地からベビーバギーを引き上げた。
 花山がケンちゃんを抱き、正哉が三往復してスーパーカゴを穴まで運んだ。
 穴の開口部は土と砂で覆われているが、ぶ厚いコンクリートで囲われていた。そのコンクリートの屋外天井部分は、巨大なヤスリで削られたような損傷を受けており、自然石のようにも見えた。その上にかなり厚く砂が積もっている。上空を舞っていた砂が降ったのだ。
 穴の開口部は真上を向いておらず、斜め下方に続いている。開口部付近は、風が運んだのか大量の砂で覆われていた。開口部が窪地の反対側を向いていたので、彼らからはまったく見えなかったのだ。

 香野木は今後、偵察が無駄とは一切思うまい、と決心した。

 コンクリートは十分な強度を保っているようで、内部は安全に感じた。少なくとも、開口部付近なら崩れそうには思えない。
 香野木と正哉が、開口部付近に吹き溜まった砂の小山を踏み越えて、内部に入った。
 正哉が懐中電灯で照らした右側の壁に、黄色の帯に黒文字で大きく〝最徐行〟と書かれている。明らかに地下駐車場の自動車用通路だ。正哉が左側の壁を照らすと、開口部方向を指す大きな矢印に続いて〝B2〟と書かれている。
 ということは、この地下のスロープは地下2階と3階の中間ということになる。地表は5~6メートルも削られたということだ。
  地下3階に降りると、スロープの終点の直近を除いて、すべて崩れていた。崩落したというのではなく、地表と同じように削られて、その後に砂に埋まったような景色だ。
 何とも異様で、背筋が凍る。

 地下3階の駐車場には、乗用車4台分程度のスペースだけが残っていた。クルマは3台ある。
 正哉が「動くといいんですが……」といったが、国産コンパクトカーらしいクルマは横転して腹を見せていて、フロントが砂に埋まっているし、もう1台はベンツのEクラス。荒野と化した東京を走れるわけはない。
 もう1台が軽トラック。懐中電灯の明かりで見る限り、無傷のようだ。
 白い軽トラは、駐車スペースではなく、スロープを降りきった直後の通路に止まっていた。軽トラの3メートル先は砂で埋まっている。
 香野木は正哉から懐中電灯を受け取り、車内を覗いた。誰も乗っておらず、キーが差し込まれたままだ。ドアを開けると、わずかだがアルコールの臭いがした。
 キーはイグニッションがONの位置で止まっている。キーをOFFにした。エンストした後、イグニッションがONであるのだから、確実にバッテリーはあがっている。
 荷台にめぼしい物はなく、アルミ合金製のラダーが一本積まれていた。バイクを積載するための道具だ。
 香野木が「ここは、少しだが太陽の光が届いている。夜になれば暗闇だろうが、雨宿りはできる。
 花山さんたちを呼んでこよう」と提案すると、正哉は香野木から懐中電灯を受け取り、「俺はあの砂山を登ってみます。裏口があれば安心でしょ」と応えた。
 そのとおりだ。ここは袋小路で逃げ場はない。非常時の脱出路は大事だ。
 花山たちは、スロープの途中まで降りてきていた。身を隠すためと、空に黒い雲が現れ始めていたからだ。
 香野木がベビーバギーを押し、花山がケンちゃんを抱き、彩華が由衣の手を引いて、駐車場まで降りた。
 正哉が砂山の上部を手堀して、地上への小さな穴を開けていた。そこから光が差し、地下駐車場は幾分か明るくなっていた。

 その後、香野木と彩華の2人で、スーパーカゴ6個を地下に運び込んだ。
 土埃まみれだが、この寒さでずぶ濡れよりはいい。
 今日1日をどうにか乗り切れそうだ。
しおりを挟む

処理中です...