上 下
3 / 38
第1章 東京脱出

01-003 地下放浪

しおりを挟む
 5年前、突如として北アメリカのイエローストーンが噴火した。
 マントルが直接地上に噴き出す、スーパーホットプルームによって、地球史上最大級の溶岩噴出事変となった。
 同じことは、2億5100万年前のシベリアで起きていた。
 このときは、古生代ペルム紀と中生代三畳紀を分けるP-T境界となり、生物の大絶滅を引き起こしている。
 今回はそれを上回る規模だ。
 さらに世界各地の火山が次々と噴火。インドネシアのトバ湖、ニュージーランドのタウポ湖が火山爆発指数8の破局噴火。ギリシャのサントリーニ島、グァテマラのアティトラン湖が同7の巨大噴火。日本では鹿児島湾奥の姶良カルデラが噴火し、九州南部が被災。
 川内原発は大地ごと消滅した。
 阿蘇や九州南部海底の鬼界カルデラも噴火。九州、四国、兵庫以西の中国地方は壊滅する。
 大気中に散った噴出物のために、太陽光が遮られ、急速に寒冷化し始め、世界は一切の経済活動を停止する。
 そして、食物連鎖の頂点に立つヒトであっても、地球上の一生物でしかなかった。他の生物種と同様に、大絶滅に巻き込まれていく。

 この事変は、日本では〝大災厄〟と呼ばれた。

 多くの国で政府が消え、国境もなくなった。食料を求めて、紛争が頻発し、世界の安定は脆くも崩れ去った。

 それでも、日本は一定の安定を維持していた。
 だが、その日本からも政府が消え、いまは各自治体が辛うじて治安を維持している。

 3年前、まだ日本国政府が存在していた頃、2億年へ向かう計画が発表された。
 2億年後の地球ならば、人類は生きていけるという荒唐無稽なお話で、その2億年後に向かう〝ゲート〟が世界各国で作られた。
 このバカ話には落ちがあり、途中で下車すれば200万年後付近に行けるそうだ。
 で、2億年後に行くと誓約しながら、200万年後を目指すトンチキもいたらしい。
 香野木は、この計画を単なる口減らし、つまり食糧事情が悪化したことから、急激な人口減少を狙った合法殺人だと考えていた。
 彼自身は、2億年後も200万年後も、まったく興味なかった。

 この人口減少計画は、2年で終わった。ちょうど1年前、2億年後の出口側〝ゲート〟が閉じたそうで、大多数の人類が本来の時代に残った。
 最後の移送計画は、巨大船を用いるもので、香野木は心底からバカげていると感じていた。

 残ってはみたものの、食糧事情は日々悪化しており、香野木は東京からの脱出を考え始めていた。

 彼は大災厄の3カ月後、会社から解雇された。勤め先はIT機器のメーカーだったが、そんなものが売れる時代じゃなくなったのだ。
 自動車、電気、鉄鋼、造船、すべてが不要な時代になった。

 必要なのは食料。

 それでも、日本の内需経済は1年前までは何とか存在していた。
 しかし、いまはもうない。
 経済活動とは、いまでは物々交換のことだ。

 香野木は職を失ってから、何とか、どうにか生きてきた。
 しかし、もう限界に近かった。
 それは彼だけでなく、多くの日本人がそう感じていることであった。
 人々は飢餓を身近なこととして、心配し始めていた。
 一足先に、飢餓に苦しむ世界中の人々と同じように。

 香野木たち6人は暗闇の中で、肩を寄せ合っていた。
 由衣はあまり話をしない。声を出すと危険なことを知っている。
 健昭、ケンちゃんもおとなしい。この子は声を発するべき時を知っている。
 正哉は手槍を持つが、それを使ったことがあるかはわからない。
 彩華のほうが戦い慣れしている雰囲気がある。
 しかし、花山はすべてにおいて別格。口調は穏やかだが、その言は命令に等しい。彼女は、指示・命令に慣れている。

 香野木は次にすべきことを考えていた。ここは声が反響する。込み入った相談事はできない。

 正哉が上の階を見てくると、小声でいった。
 香野木は「俺も行く」といって立ち上がり、折り畳みナイフの刃を出して、ベルトに挟んだ。そして、手回し携帯ライトを、花山に渡した。
 正哉がLEDライトを持って先行し、その後を香野木が続く。

 由衣は花山から少し離れて座っている。花山が由衣にライトの光を当て「こっちに来なさい」というと、由衣は素早く花山の左隣に移動した。
 由衣の右隣には彩華が座る。
 この暗闇でも、ケンちゃんは臆することなく、泣きもしない。

 正哉が照らすLEDライトのか細い光は、すぐにC2とC3への方向を指し示した。
 地下1階には人のいる気配はないが、この暗闇では〝誰もいない〟と断言する根拠はない。
 地下鉄の駅構内は、人が隠れやすい場所が意外に多い。
 柱の陰や壁面の凹部に人が潜んでいないという確証はない。
 正哉はそのことをよく認識しているようで、油断する素振りは見せていない。だが、用心深くなりすぎると、脱出のチャンスもつかめない。
 香野木と正哉は、用心しつつC2とC3の出口方向に向かった。

 期待はしていなかったが、予想通りにC2の階段は全段が埋まっている。
 正哉がC3の登り口に移動する。
 そして、手槍で指し示した。
 フルサイズのミニバンがリアから滑り込んでいて、階段の中程で出口を塞いでいる。
 正哉が、「ここはあまり深くないんです。クルマを引っ張り出して、土砂を駅構内に落とせたら、ここから脱出できるかも?」と。
 香野木は「確かにその通りだ」と感じていた。ミニバンの長さは五メートル、おそらくミニバンが土留めの役目をしている。
 ミニバンを構内に落とせば、ミニバンの背後の土砂も一緒に落ちてくるかもしれない。
 ここは、脱出できる可能性が高い。
 そして、このフロアにはトイレや役務室がある。現在の場所よりも、有利かもしれない。
 正哉が小声でいう。
「このフロアに誰かがいた痕跡がないですね。
 普通はダンボールとかが散乱しているんですが……」
 香野木が答える。
「今日は、水道橋から飯田橋に向かって歩いてきたんだけど、この上は外堀通り沿いだと思うんだ。ちょうど飯田橋のハローワークがあったあたり、かな?
 だとしたら、大江戸線の出口はシャッターが閉まっていたよ」
「でも、クルマが落ちてきてますよ」
「そうだね。シャッターが壊れたか、周囲のビルが倒壊でもしたのか?」
「地震だと?」
「地震以外考えられる?」
「あまり揺れませんでしたよ」
「地下だったから、じゃないの?」
「ここからは出られないと?」
「いや、そうじゃないよ。可能性はあると思うけど……」
「どうします?」
「どちらにしても、ここにしばらく隠れていたほうが、安全でしょ」
「じゃ、みんなを呼んできます」
「一緒に行くよ。暗闇は苦手だ」

 6人が地下一階に集まり、駅務室のドアは開けられなかったが、改札脇の小部屋、改札の駅員さんがいた部屋、には入り込めた。
 ここの事務椅子に由衣とケンちゃんが座り、LEDライトを1つ残した。
 LEDライトは3つあったが、香野木の手回し発電ライトを除けば、点けっぱなしでは何日も持つはずはなかった。
 できるだけ早く脱出しないと、進退窮まる。
 それに、水と食料の確保も必要だ。

 香野木はデイパックに交換用商品の灯油2リットルと、非常用の水2リットルを入れている。そして、350ミリリットルのペットボトルに水が半分残っている。それに、栄養補助食品6食分と氷砂糖がある。
 正哉も水2リットルとチョコレートバー4本を持っている。
 彩華は水を少々、食料はラスクを1パック。
 花山は都内に食料を探しに来たそうで、水4リットルとレトルトパックの粥を10食分確保していた。
 だが、どう節約しても、6人で5日が限度。5日以内に脱出しなければ、死となる。

 子供が2人いては、思うように動けない。香野木は正哉に問うた。
「君が俺たちと一緒にいる理由はないだろう?」
「香野木さんにもないでしょ」
「いや、あるよ。無意味な殺生をしなくてすむ」
「それは、同じです」
 花山と彩華がそれを聞いている。
「私たち親子のことは、気にしないで。私は由衣ちゃんと一緒に出口を探します」
 彩華が間髪入れずに答える。
「私も花山さんと一緒にいていいですか?」
 花山が彩華を見て笑う。
 香野木が花山を見る。
「日本は老人が圧倒的に多い。その老人の大半は元気で、そして凶暴だよ。
 若者がしないことを老人は平気でする。女性や子供を襲って何でも取り上げている。
 10歳代の連中が徒党を組んだって、せいぜい10人程度だ。
 でも、老人は50人くらいあっという間に集まってくる。
 最後の首相だったあのバカを支持していたのも老人たちだし、経犯庁の片棒を担いで取締の実働を担ったのも老人たちだった。
 ジジイやババァを殺したくはないが、か弱い老人を装う連中に殺されたくもない。
 そして、あのクソどもに殺されるヒトを見たくもない」
 花山が香野木を見る。
「何かあったの?」
 香野木は答えず、正哉が受けた。
「何もないわけないでしょ。この5年間で、何もなかったヒトなんていませんよ」
 彩華がいった。
「私が住んでいるアパートの向かいが戸建てなんだけど……。
 その家に経犯庁の捜査員が踏み込んだの。
 若い女の人が髪の毛をつかまれて家の外に引きずり出された。
 政府が決めた量よりも少しだけ多く、赤ちゃんの粉ミルクを持っていたんだって。
 女の人、路上で捜査員たちに何度も殴られて……。
 捜査員の1人が、道路に赤ちゃんを叩きつけた……。
 その捜査員だけど、全員が60歳以下には見えなかった。
 私、その頃は怖くて助けてあげられなかったの……」
 彩華は少し泣いていた。
 正哉が彩華に問うた。
「いまなら……」
「もちろん、助けるわ。
 あいつらは、徒党を組んでいるだけで、仲間を助けたりしないから。
 1人ぶちのめせば、他は散り散りに逃げるでしょ」
 正哉が香野木に問うた。
「香野木さんは?」
「俺は君たちよりは年寄りだ。分別というものがある。
 でもね、ときどき分別よりも感情が優先することがある。
 そんなときでも、前後の帳尻はちゃんと合わせるよ。
 それが大人だ」
 香野木は、彼が経犯庁の捜査員を殺して、死体を隠したことをいわなかった。
 いうべきことではないし、聞かれたくもない。
 香野木は、この話を打ち切りたかった。
「交代で少し寝よう。脱出の相談は、目覚めてからでいいと思う」
 花山が同意した。そして、由衣とケンちゃんを抱き寄せた。

 目覚めたのは、日付が変わってからだいぶ時間が経過した午前5時だった。
 まだ、体内時計は生きているようだ。
 香野木と正哉は、東西線、有楽町線、南北線側の飯田橋駅の偵察に向かうことにした。 状況がよければ、東西線の線路をたどって、中野に向かえる。
 だが、その期待は裏切られた。
 東京メトロの連絡通路は、騒乱の坩堝だった。何を燃やしているのかわからないが、焚き火がいくつも焚かれ、血を流したヒトが複数倒れている。
 何があったのかはわからないが、焚き火に照らされた顔が若者ではなかったので、おそらく老人たちが占拠しているのだろう。
 すでに、地上への出口が確保できている可能性があるが、彼らが居座っているうちは、女性2人と子供2人を無事に地上へと出すことは難しい。
 物資を引き渡したとしても、無事に通しはしないだろう。連中は強欲だ。

 香野木と正哉は、姿を見られないようにゆっくりと大江戸線ホームに下がった。
しおりを挟む

処理中です...