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01 暗黒市
01-005 疑惑
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三代王特別市外の市民団体が市警の暴力を糾弾するデモを計画する。
もちろん、市警がデモを認めることはない。三代王特別市では一切のデモが認められていないし、市民運動などあり得ない。
そんな危険な行動をするなら、転居する。そのほうが住環境がよくなる。
この団体は市警の恐ろしさを理解していない。市外在住の市民運動家が主催する団体だから、市警の怖さがわからないのだ。
ゲリラ的に行えば、デモが成功すると考えてもいた。
成果はあったのか?
97人が射殺され、250人以上が負傷した。
市警はデモの鎮圧に軍用自動小銃を使った。
国会は閉会中だったが、この問題を審議するため閉会中審査が開かれる。
政府は「暴力的な抗議活動だった」との認識を崩さず、デモの様子を示す動画などの物証がないことから、野党が主張する「平和的なデモだった」証拠もない。
結局、結論が出ない。
しかし、死者・負傷者が多いことから、決着がつくはずがない。さらに、市警側には、死傷者がいないのだ。
市警側の一方的な暴力だと判断する材料は多いのだが、政府を擁護するネットの声も大きい。
食料事情悪化の心配が現実化しつつある中で、統制的食糧管理政策や強権的政策決定を推し進める政府を支持する層が一定数おり、その声は大きくなっていた。支持者が多いのではない。少数の支持者の声が大きいのだ。
与党の基幹支持層は固定しており、経済的成功者と市民運動や社会活動を憎む層が積極的に支持している。これに若干の無党派層、明治憲法回帰派、カルト的宗教信者が加わる。
与党側にも弱みがあった。コムギの流通差益で、莫大な利益を生み出すはずだったが、なぜかコムギの流通量が増大してしまい、まったく利権を享受できていない。むしろ、差損が出ている。
与党の私兵、正確には元幹事長である越後谷俊雄の私兵なのだが、民間軍事会社の隊員募集の応募者が激減していることも誤算だった。
市警に配属された隊員が、一方的に傷付けられる例が増えているからだ。しかも、多くは回復不能。
市長私邸の銃撃戦では、警護にあたっていた全員が殺された。しかも、市長はナイフで背中に文字のようなものを刻まれ、16歳だった末子は誘拐された。
末子は、一切の痕跡を残さず消えた。生死を含めて、何もわからない。国外に出たのか、国内にいるのか、それさえわからない。
我が子の行方がわからない市長の妻は半狂乱で、市長は復讐を誓っている。復讐を誓っても、相手が誰なのかわからない。
法蓮悠理亜は、市警が失った要員の補充ができていないことをネットニュースで知る。
それならば、分署でも襲おうかと考えていた。
月影紗良は、相変わらずネットの番組に出まくっている。市警としては鬱陶しいだろうが、いまさら殺しても益はない。
それでも、4回暗殺を計画した。だが、4人ともなぜか拳銃自殺している。
以後、暗殺を計画しても、実行できなかった。引き受け手がいないのだ。
残された手段は、住居である祖父母宅を襲撃すること。だが、警視庁管内なので、躊躇われる。
同時に成功させれば、警視庁への威嚇になる。
三代王特別市は面積180平方キロあり、北は埼玉県、南は東京都と接する。市の面積の半分は山間の原野だ。残りの半分が田畑、半分が市街地。
埼玉県警は三代王市警に手出ししない。だが、警視庁はそうでもない。
埼玉県知事は野党系で、機会があるごとに三代王特別市の行政を批判する。
東京都知事は与党系なのだが、三代王特別市を「あそこは魔界でしょ」などと嫌悪を示す発言を繰り返している。
しかし、言葉での批判は無意味。その点、隙を見せれば介入しようとする警視庁は、鬱陶しい存在だった。
月影紗良の殺害は、これらの理由から実施が決定する。
法蓮悠理亜は、父である晴彦が絶命した第12分署を監視していて、この計画を知った。
市警車輌の中で、署員が「第8分署のチームがネットで騒いでいる女を始末するそうだ」と語った。
すると、助手席の署員が「越後谷のせがれの命令で、ガキどもが殺したはずの女のことだろ。まさか、生きていたとはな」と答える。
運転席の署員が「いや、知り合いの私服が確認したんだ。厄介なことになりかねないから、遺体には触らなかったが、死んでいるようにしか見えなかった、と言っていた。呼吸もなかった。少なくとも、動けるような状態じゃなかったらしい」と教える。
助手席の署員は、明らかに困惑している。
「三代王は、おかしなことが多すぎる。
ナットで手足をもぎ取られたヤツが何人いると思う?
俺たちにも知らせないほど多い。
それと、殺しに行って、仲間同士で殺し合いをした件。どう考えたって、おかしいだろう」
運転席の署員がため息をつく。
「パン屋を襲撃したら、逆に襲われた件なんだが……。
足首を吹っ飛ばされたヤツは、勤務して3日目だったそうだ。足首がなくなったんで、退職。3日しか勤務していないから、傷害保険には未加入。退職金もないらしい」
助手席の署員が「俺は、無理しない」と呟いた。
その日の夜、悠理亜は紗良にLINEをした。
[狙われている。
第8分署が襲うそうだ]
紗良からは返信がなかった。
悠理亜は紗良を気にしていたが、援護はしなかった。
古くて強力な怨霊に援護は不要だ。
古くて強力な怨霊は残酷だ。
紗良は人の行動を制御できる。本人の意志とは無関係に、どんな行動でもさせられる。
紗良の住居、旧祖父母宅に侵入した4人の傭兵は両手を高く上げ、腰をくねらし、踊っていた。庭先で。
警視庁の警察官たちは、その姿を見て思わず笑った。黒い目出し帽を被り、黒い軍服に首からM4カービンを下げた姿で、両手を挙げて踊っているのだ。
しかし、滑稽だったのは一瞬だった。
彼らは自力で歩けない。腕も降ろせない。紗良宅から運び出したが、寝かせても、立たせても同じ動きをやめない。
3日目になり、さすがに危険と判断し、4人を入院させ、鎮静剤から麻酔まで、あらゆる手段を試すが、同じ動きを続ける。
何も飲めず、何も食べず。
7日後に衰弱していた1人が死亡。死体になっても動いている。
死後硬直となって、初めて動きを止めた。
このような奇怪な現象が起きる理由がわからない。科学では説明できないし、そもそも怨霊自体が科学とは対極の存在だ。
そして、月影紗良が怨霊を内在しているとは、法蓮悠理亜以外は誰も知らない。
紗良からのメールに悠理亜は笑った。笑うという心理が消えかけていたが、思い出した。
[学校の体育教師がうざい。
妙に絡んでくる]
紗良は特別目立つ生徒ではなかった。しかし、殺人の被害者として報道され、高校では誰もが知る存在となった。
しかも、生存しており、被害者自身が「誰からも危害を加えられていません。法蓮弁護士に殺されたなんて、完全なウソです」と機会あるごとに証言し、一躍有名になった。
その反動で、同じ高校の一部生徒から「図に乗っている」と目を付けられている。
同様の見方を一部教師からもされている。
[人として生きることはたいへんだ]
悠理亜は[そうだろうな]と返したが、彼女にはそれができないことを理解していた。彼女は、意外なことに悲しくなかった。
ネットでサイマル配信される放送系ワイドショーでは、政府がある問題に注目していると報じている。
女性アナウンサーが解説する。
「日本では、コムギの国内生産量が85万トン、各国からの輸入が485万トンありました。
気候変動による干ばつや洪水によって、農産物、とりわけ穀物の不作が深刻になり、輸入量が激減しています。
昨年の国内生産量は115万トンまで拡大しましたが、輸入は65万トンに激減しています。
当然、パンやうどんの原料となるコムギがまったく足りないのですが、なぜか決定的に不足していないんです。
どこからか、コムギが入っている。国内では生産していないし、外国も輸出するほどの余裕がないのです。
では、コムギはどこから?
謎なんです。
この疑問に迫ります」
その後の議論はワイドショーらしく、あまり論理的ではなかった。ただ、三代王特別市を舞台にしたコムギの密輸ではないかとの推測が紹介され、同時に三代王特別市で頻発する暴力事件や奇怪な事件に結びつけていった。
コムギが与党の利権と結びついていることは、多くのジャーナリストが気付いていた。しかし、確証がない。物証もない。単なる推測の域を出ない。
だから、報道できない。
議論の行方はグダグダだったが、結論としては「政府が何かを隠している」とか「与党が支配下にある民間軍事会社に密輸させている」などの見解が披露された。
議論の全体としては、オカルト的陰謀論みたいな荒唐無稽な印象だった。
ただ、ワイドショーが伝えた疑惑のコムギが、180万トンから250万トンに達するとの推測は正鵠を射ていた。
悠理亜には直接関係のないことだが、疑惑のコムギは悠理亜や紗良の存在を隠す効果があった。
与党の一部議員にとって、一番大切なことは利権であり、食料不足、穀物不足が世界的に深刻化している中で、コムギと大豆の取り引きが最重要案件だった。
コムギの価格を高騰させようとしても、どこからか大量に供給されてしまう。
この供給ルートを止めないと、与党は利権を極大化できない。
だから、ある意味、悠理亜や紗良の存在など、些末なことなのだ。
しかし、市警にとって、紗良は許しがたい存在だ。市警幹部には、小娘に嘲笑われている感覚がある。
市警幹部、つまり民間軍事会社の幹部たちは、暴力の信奉者だ。彼らの多くは、隣国の軍で訓練を受けている。多くがカルト宗教の信者で、思想的には新興宗教の原理主義に属している。
日本の警察を含む法執行機関と自衛隊の出身者はいない。極めて特異な組織だ。
警視庁は、組織暴力団とも、反グレ集団とも、左翼過激派とも、過激な右翼活動家とも異なる、第5の暴力的性向を内在している集団と見なしている。
都内で問題を起こせば、即時取り締まるが、市警もそれを知っている。ボロは出さない。
悠理亜と紗良は、一切相談していないが、どちらも荒事は三代王特別市内だけですますつもりだ。三代王特別市外での、他者に対する危害・迷惑は避けたいと考えている。
三代王特別市では、市の組織と無関係な人に被害がない限り、何でもするつもりだ。
ではあるが、人非ずものとなった悠理亜と紗良が、どれほど人を気遣うかは不明だ。
悠理亜は、越後谷一族の女性に頭を下げさせた人物が気になっていた。
彼女の身元はすぐにわかった。
ファミレス風レストランのはす向かいにある中古車店の従業員らしい。
20歳代前半、背が高く、筋肉質、剣豪のように身体の動きに無駄がない。
名前は音だけわかった。
レイリンアズサ。店長らしい。店にいるときは、いつもスパナを持っている。会議の席では、ホワイトボードの前で指示棒の代わりに長いスパナを使う。
客観的に女性の目線で美形なのだが、セクシーさはない。性的な魅力を暴力の匂いが打ち消している。
彼女からは、血管から体外に漏れ出た血の匂いを感じる。
店長だが経営者ではない。店内の会話から社長がいることがわかっている。
この社長が相当な遊び人らしく、どこかに行ったきり帰ってこない。
仕方なく、彼女が店を切り盛りしている。従業員は3人。3人とも男性だが、彼女とは異なりひ弱な感じがする。
悠理亜は、レイリンアズサを1週間ほど非連続的に観察していたが、不審な点はなく、おもしろいネタを見つけられなかった。
それで、注目することをやめた。
市警に目を付けられた市民は、震えることしかできない。可能ならば、すぐに市外へ逃げる。市外へ逃げれば、市警は追ってこない。
逆もある。
反社会的な組織と関わってしまったごく普通の人が、彼らから逃れるために三代王特別市にやって来ることがある。
市内で事件を起こせば、いや事件を起こさなくても、何らかの組織の関係者だと疑われただけで、過酷な拷問が待っている。
それは、政府系の公安機関や法執行機関の関係者も同じ。
市警は、自分たち以外の実力組織を極端に嫌う。
狭間倫子は、陸上自衛隊三代王出張所を出てから尾行されていることに気付いていた。尾行されることは珍しくないし、同時に市警が仕掛けてきた例はない。
陸上自衛隊陸幕直轄警務隊という仰々しい名前の部隊だが、狭間3佐以外は2尉がいるだけ。たった2人の部署で、2尉は三代王特別市には入らない。
あまりにも危険だからだ。ごく普通の自衛官である新婚の2尉を危険にさらすわけにはいかない。
倫子は尾行を警戒していたが、仕掛けてくることはないと考えていた。
市警は彼らのテリトリーにおいて、いかなる組織の介入をも好まない。自衛隊員募集の事務所である三代王出張所も同様だ。市警以外の他組織は、三代王特別市での存在と進入を許さない。
陸上自衛隊三代王主張所だけが、その例外になっていた。当初は女性自衛官3人、男性自衛官4人の態勢だったが、女性自衛官はいろいろと危険なので、自衛隊側から勤務を解いた。
男性自衛官も2人に減らし、残った2人は相当に厄介な人物だ。1人は旧軍では憲兵と呼ばれた警務隊のベテラン。1人は陸上総隊出身の猛者。
倫子は、三代王出張所に警務隊からの出張という名目で派遣されている。
倫子を含めて3人とも仕事は自衛官の募集ではなく、三代王特別市の監視だ。市警幹部と上部組織である民間軍事会社の経営層を、可能な限り監視している。
多くの場合、尾行は嫌がらせと退去させるための圧力が目的だが、この日は違った。
倫子は2人につけられている。複数人による尾行は、過去にない。
「何なの?」
肝の据わった倫子でも、不安になる。
月影紗良は、4人に尾行されていた。父と暮らした家まで、数分で到着する。三代王特別市に入ったら、市警がどんな反応を示すかおもしろ半分で自宅に向かったが、予想外の熱烈歓迎で戸惑っていた。
紗良は問答無用で人を操れる。本人の意志に関係なく、何でもさせられる。
しかし、対象があまりに多いと、行動に具体性を与えられなくなる。それでも、1000人程度なら、結界内の全員を棒立ちさせられる。
だが、長時間は無理だ。せいぜい1時間。
「結界の外にいる傭兵はどうしたら……」
生身の身体を持つ紗良は、不安になってきた。
紗良はスマートフォンを出す。法蓮悠理亜にLINEを送る。
[ヤバイ。
かなりの人数につけられている!]
倫子は、前方から歩いてくる高校生くらいの年齢の女性に気付く。スマートフォンを操作していて、前方への注意が散漫に感じる。
倫子の足が一瞬止まる。
女性の後方に市警が4人。
「挟まれた?」
倫子は本格的な危険を感じる。
紗良の眼前に20歳代後半の女性。彼女の背後に市警が2人。2人とも物騒な体格なので、市警でない可能性は低い。
紗良は咄嗟に結界を張り、空間内のすべての人を棒立ちにする。
紗良が20歳代後半の女性の手を握る。
「目を覚まして!
私と一緒に来て!」
紗良は、長年父と住んだ住宅地の戸建てにいた。三代王特別市内なので、住民がいなくなると転居者はない。居住者を失った住宅は、放置されるか取り壊される。
紗良の家は、背後は空き家、左右は空き地だった。
紗良は室内に最小の結界を張る。結界内に立ち入ると、身体が硬直して動けなくなる。
だが、結界外からの攻撃にはどの程度の対抗力があるのかわかっていない。すでに、玄関前には何台ものパトカーが集まっている。
倫子が紗良に尋ねる。
「あなた、月影紗良さん?」
紗良はOL風のお姉さんを助けたつもりだったが、肝が据わっているのか、度胸がいいのか、助けたはずの女性は落ち着いている。
「そう、だけど?
あなたは?」
「陸上自衛官」
倫子がそう答え、背面の腰からヘッケラー&コッホSFP9を抜く。
「自衛官なのに拳銃持ち歩いているの?」
紗良の問いに倫子は返答しない。
「応援を呼ぶ」
そう言って、倫子がスマートフォンを内ポケットから出す。紗良が失笑する。
「無駄だよ。
ここは市警の縄張り。戦車でも持ち出さない限り、自衛隊でもどうにもならない」
そんなことは、言われなくてもわかっている。ここで死ぬにしても、どこで死ぬのかを伝えておきたかった。その意味のほうが、大きかった。
三代王特別市での秘密任務を志願した際に、自分の身への最悪の事態は覚悟している。
倫子も紗良の落ち着きが気になった。
紗良の顔を見ると、彼女が微笑む。その笑顔は、なぜか背筋を凍らせた。
「私が応援を呼ぶ。
私の力では、周辺に影響を及ぼしてしまう」
倫子は紗良の言葉の意味が理解できなかったが、紗良が電話すると相手がすぐに出た。
音が漏れている。
「何の用だ。化け物」
「頼みがある。作り物。
家の前に市警が山ほどいる。好きなだけ殺してくれ」
「いいのか?
おまえの獲物だろう?」
「いや、ここでは力を使いたくない」
「化け物のくせに、仏心か?」
「頼む。
助けろ」
「10分ほど粘っていろ」
紗良が結界の半径を大きくする。結界はドーム型で、底面はほぼ真円。居間を中心に、玄関外までを範囲にする。
同時に身体の拘束だけでなく、生物が意識せずに機能させる部位、例えば心臓など、にも機能を停止させることにする。
古い建売住宅地は、騒然となっていた。市警車輌の主力は、塗色が黒か白のセダンで、いわゆるパトカーは少ない。車種はレクサスLSで、拳銃弾と散弾に耐える程度の防弾が施されている。
特別襲撃部隊も出動している。こちらは軍隊そのもの。警察には見えない。迷彩服、ボディアーマー、軍用自動小銃で武装している。催涙性発煙弾や発音弾などの制圧装備は使わない。
この種の武器は、ごく普通の手榴弾を使う。
女性2人を対象とした態勢ではない。確実に殺すことを考えている。
1人は鬱陶しい自衛官、もう1人はとっくに死んでいるはずの少女だ。
どちらも、生かしておいては三代王特別市のためにならない。
特別襲撃部隊の隊員が、紗良宅の玄関ドアノブに手をかける。
一切の前触れなく、瞬時に死ぬ。
ドアノブに手をかけたまま死んだ隊員を救助するため、2人の隊員が近付くと、2人とも死ぬ。
紗良宅の両隣空き地でも同じことが起きていた。
敷地内に突入した隊員が、突如として動かなくなる。救助はできないし、強攻しようとしたが死体が増えるだけだった。
現場を指揮している市警幹部は、予想外の展開にどうすべきか判断できなかった。
このまま引くわけにも行かず、なぜ人が死ぬのかもわからない。少なくとも既知の攻撃はされていない。
無色無臭のガスの可能性も考えて、対毒ガス装備の隊員を近付けたが、結果は同じだった。
死体は数体だけだが回収していた。
外傷がなく、突然死としか判断できない状態だった。
だから、包囲したまま少し待つことにする。
紗良は、お茶を入れた。
倫子は、拳銃を持ったまま動き回っている。
「私から5メートル以上離れないで。
死んじゃうよ」
紗良にそう言われた倫子が、怪訝な顔をする。
「突入してこない……」
倫子の疑問に紗良が答える。
「雨戸を閉めているから、外からは見えないだろうけど、サーモセンサーとかで監視しているんじゃないかな。
私たちのことは見えているでしょ。
でも、入ってはこれない。
たぶん、だけど、外は死体の山。
だから、様子を見ることにした、ってところかな」
「何をしたの?」
「何も、していないよ。
するのはこれから。
私じゃなくて、別の誰か」
「……」
「お姉さん、名前は?」
「狭間倫子……」
「私は……、知っているか?
月影紗良。
殺されたはずの女子高生」
「紗良さん……。
これから……」
「お茶、どうぞ」
紗良がローテーブルに湯飲みを置き、絨毯の上に座る。そして、お茶を飲む。その姿が老婆に見える。
倫子は迷ったが、紗良の向かいに座る。そして、熱い湯飲みを持つ。
紗良が話し始める。
「何十年でも、何百年でも、このまま持ちこたえられる。
だけど、私も狭間さんも生身。もうすぐ、電気、ガス、水道が止まる。この家に食べ物はないから、長くはもたない……。
だから、応援を呼んだ。
外から悲鳴や爆発音が聞こえ始めたら、ここから脱出する。絶対に私から5メートル以上離れないこと」
法蓮悠理亜は、月影紗良の家からだいぶ離れた3階建て民家の陸屋根にいた。
低い位置だが、玄関周りがよく見える。
手には重さ95グラムの六角ナットを握っている。この重量は、航空機搭載用20ミリ機関砲の弾頭重量に匹敵する。
このナットにバックスピンをかけて投擲すると、秒速800メートルの初速になる。現代の20ミリ機関砲の水準ではないが、第二次世界大戦時の威力に相当する。
悠理亜は彼女を殺した市警を攻撃すると、全身から歓喜が湧き上がる。この快感は押させがたく、理由の有無にかかわらず市警を殺したい衝動に駆られる。
そして、いまはその衝動を押さえる必要がない。
特別襲撃部隊の車輌から破壊を始める。
「始まった……」
紗良は、悠理亜の接近を感じていた。紗良は念の放出を押さえているが、悠理亜はあまり気にしない。
だから、探知できた。
ただ、生体ではない悠理亜の念は、非常に弱い。紗良のような古くて強力な怨霊でなければ、探知は不可能だ。
倫子は言葉にはしなかったが、20ミリ口径砲クラスの攻撃だと感じた。連射はされていないからM61バルカン砲の類いではない。
となると、対物ライフルか?
車輌が破壊さてていると思われる音が、木造家屋の室内に響く。
悠理亜は95グラムナットの破壊力に満足している。人も狙い始める。ボディアーマーの有無など、まったく関係ない。
市警の現場指揮官はすでに死んでいた。大型の市警車輌内で、モニターを見ながら無線で指揮していたが、この車輌は3回目の攻撃で狙われた。
上半身と下半身は分離していたが、顔に傷はない。しかし、腹と胸はなくなっていた。
すべての市警車輌が破壊され、生きているもの、死んでしまったもの、そのすべてが地に伏している。
紗良宅の玄関ドアが開く。
紗良が先頭、倫子が続く。
特別襲撃隊員が紗良につかみかかろうとした、瞬間に倒れる。
市警の私服が紗良を拳銃で狙うが、倫子が発射。倫子は動くものすべてに発射する。
悠理亜は紗良の後に続く、女性に不穏なものを感じる。
「人のようだが、市警に怨みでもあるのか?
容赦ないな」
拳銃を巧みに使う女性の素性に疑惑を感じる。
三代王特別市は、悪意の坩堝。この街に足を踏み込んだら、善悪はなくなる。あるのは、生死のみ。
それと、支配者と被支配者……。
そして、両者の立場が逆転し始めていた。
もちろん、市警がデモを認めることはない。三代王特別市では一切のデモが認められていないし、市民運動などあり得ない。
そんな危険な行動をするなら、転居する。そのほうが住環境がよくなる。
この団体は市警の恐ろしさを理解していない。市外在住の市民運動家が主催する団体だから、市警の怖さがわからないのだ。
ゲリラ的に行えば、デモが成功すると考えてもいた。
成果はあったのか?
97人が射殺され、250人以上が負傷した。
市警はデモの鎮圧に軍用自動小銃を使った。
国会は閉会中だったが、この問題を審議するため閉会中審査が開かれる。
政府は「暴力的な抗議活動だった」との認識を崩さず、デモの様子を示す動画などの物証がないことから、野党が主張する「平和的なデモだった」証拠もない。
結局、結論が出ない。
しかし、死者・負傷者が多いことから、決着がつくはずがない。さらに、市警側には、死傷者がいないのだ。
市警側の一方的な暴力だと判断する材料は多いのだが、政府を擁護するネットの声も大きい。
食料事情悪化の心配が現実化しつつある中で、統制的食糧管理政策や強権的政策決定を推し進める政府を支持する層が一定数おり、その声は大きくなっていた。支持者が多いのではない。少数の支持者の声が大きいのだ。
与党の基幹支持層は固定しており、経済的成功者と市民運動や社会活動を憎む層が積極的に支持している。これに若干の無党派層、明治憲法回帰派、カルト的宗教信者が加わる。
与党側にも弱みがあった。コムギの流通差益で、莫大な利益を生み出すはずだったが、なぜかコムギの流通量が増大してしまい、まったく利権を享受できていない。むしろ、差損が出ている。
与党の私兵、正確には元幹事長である越後谷俊雄の私兵なのだが、民間軍事会社の隊員募集の応募者が激減していることも誤算だった。
市警に配属された隊員が、一方的に傷付けられる例が増えているからだ。しかも、多くは回復不能。
市長私邸の銃撃戦では、警護にあたっていた全員が殺された。しかも、市長はナイフで背中に文字のようなものを刻まれ、16歳だった末子は誘拐された。
末子は、一切の痕跡を残さず消えた。生死を含めて、何もわからない。国外に出たのか、国内にいるのか、それさえわからない。
我が子の行方がわからない市長の妻は半狂乱で、市長は復讐を誓っている。復讐を誓っても、相手が誰なのかわからない。
法蓮悠理亜は、市警が失った要員の補充ができていないことをネットニュースで知る。
それならば、分署でも襲おうかと考えていた。
月影紗良は、相変わらずネットの番組に出まくっている。市警としては鬱陶しいだろうが、いまさら殺しても益はない。
それでも、4回暗殺を計画した。だが、4人ともなぜか拳銃自殺している。
以後、暗殺を計画しても、実行できなかった。引き受け手がいないのだ。
残された手段は、住居である祖父母宅を襲撃すること。だが、警視庁管内なので、躊躇われる。
同時に成功させれば、警視庁への威嚇になる。
三代王特別市は面積180平方キロあり、北は埼玉県、南は東京都と接する。市の面積の半分は山間の原野だ。残りの半分が田畑、半分が市街地。
埼玉県警は三代王市警に手出ししない。だが、警視庁はそうでもない。
埼玉県知事は野党系で、機会があるごとに三代王特別市の行政を批判する。
東京都知事は与党系なのだが、三代王特別市を「あそこは魔界でしょ」などと嫌悪を示す発言を繰り返している。
しかし、言葉での批判は無意味。その点、隙を見せれば介入しようとする警視庁は、鬱陶しい存在だった。
月影紗良の殺害は、これらの理由から実施が決定する。
法蓮悠理亜は、父である晴彦が絶命した第12分署を監視していて、この計画を知った。
市警車輌の中で、署員が「第8分署のチームがネットで騒いでいる女を始末するそうだ」と語った。
すると、助手席の署員が「越後谷のせがれの命令で、ガキどもが殺したはずの女のことだろ。まさか、生きていたとはな」と答える。
運転席の署員が「いや、知り合いの私服が確認したんだ。厄介なことになりかねないから、遺体には触らなかったが、死んでいるようにしか見えなかった、と言っていた。呼吸もなかった。少なくとも、動けるような状態じゃなかったらしい」と教える。
助手席の署員は、明らかに困惑している。
「三代王は、おかしなことが多すぎる。
ナットで手足をもぎ取られたヤツが何人いると思う?
俺たちにも知らせないほど多い。
それと、殺しに行って、仲間同士で殺し合いをした件。どう考えたって、おかしいだろう」
運転席の署員がため息をつく。
「パン屋を襲撃したら、逆に襲われた件なんだが……。
足首を吹っ飛ばされたヤツは、勤務して3日目だったそうだ。足首がなくなったんで、退職。3日しか勤務していないから、傷害保険には未加入。退職金もないらしい」
助手席の署員が「俺は、無理しない」と呟いた。
その日の夜、悠理亜は紗良にLINEをした。
[狙われている。
第8分署が襲うそうだ]
紗良からは返信がなかった。
悠理亜は紗良を気にしていたが、援護はしなかった。
古くて強力な怨霊に援護は不要だ。
古くて強力な怨霊は残酷だ。
紗良は人の行動を制御できる。本人の意志とは無関係に、どんな行動でもさせられる。
紗良の住居、旧祖父母宅に侵入した4人の傭兵は両手を高く上げ、腰をくねらし、踊っていた。庭先で。
警視庁の警察官たちは、その姿を見て思わず笑った。黒い目出し帽を被り、黒い軍服に首からM4カービンを下げた姿で、両手を挙げて踊っているのだ。
しかし、滑稽だったのは一瞬だった。
彼らは自力で歩けない。腕も降ろせない。紗良宅から運び出したが、寝かせても、立たせても同じ動きをやめない。
3日目になり、さすがに危険と判断し、4人を入院させ、鎮静剤から麻酔まで、あらゆる手段を試すが、同じ動きを続ける。
何も飲めず、何も食べず。
7日後に衰弱していた1人が死亡。死体になっても動いている。
死後硬直となって、初めて動きを止めた。
このような奇怪な現象が起きる理由がわからない。科学では説明できないし、そもそも怨霊自体が科学とは対極の存在だ。
そして、月影紗良が怨霊を内在しているとは、法蓮悠理亜以外は誰も知らない。
紗良からのメールに悠理亜は笑った。笑うという心理が消えかけていたが、思い出した。
[学校の体育教師がうざい。
妙に絡んでくる]
紗良は特別目立つ生徒ではなかった。しかし、殺人の被害者として報道され、高校では誰もが知る存在となった。
しかも、生存しており、被害者自身が「誰からも危害を加えられていません。法蓮弁護士に殺されたなんて、完全なウソです」と機会あるごとに証言し、一躍有名になった。
その反動で、同じ高校の一部生徒から「図に乗っている」と目を付けられている。
同様の見方を一部教師からもされている。
[人として生きることはたいへんだ]
悠理亜は[そうだろうな]と返したが、彼女にはそれができないことを理解していた。彼女は、意外なことに悲しくなかった。
ネットでサイマル配信される放送系ワイドショーでは、政府がある問題に注目していると報じている。
女性アナウンサーが解説する。
「日本では、コムギの国内生産量が85万トン、各国からの輸入が485万トンありました。
気候変動による干ばつや洪水によって、農産物、とりわけ穀物の不作が深刻になり、輸入量が激減しています。
昨年の国内生産量は115万トンまで拡大しましたが、輸入は65万トンに激減しています。
当然、パンやうどんの原料となるコムギがまったく足りないのですが、なぜか決定的に不足していないんです。
どこからか、コムギが入っている。国内では生産していないし、外国も輸出するほどの余裕がないのです。
では、コムギはどこから?
謎なんです。
この疑問に迫ります」
その後の議論はワイドショーらしく、あまり論理的ではなかった。ただ、三代王特別市を舞台にしたコムギの密輸ではないかとの推測が紹介され、同時に三代王特別市で頻発する暴力事件や奇怪な事件に結びつけていった。
コムギが与党の利権と結びついていることは、多くのジャーナリストが気付いていた。しかし、確証がない。物証もない。単なる推測の域を出ない。
だから、報道できない。
議論の行方はグダグダだったが、結論としては「政府が何かを隠している」とか「与党が支配下にある民間軍事会社に密輸させている」などの見解が披露された。
議論の全体としては、オカルト的陰謀論みたいな荒唐無稽な印象だった。
ただ、ワイドショーが伝えた疑惑のコムギが、180万トンから250万トンに達するとの推測は正鵠を射ていた。
悠理亜には直接関係のないことだが、疑惑のコムギは悠理亜や紗良の存在を隠す効果があった。
与党の一部議員にとって、一番大切なことは利権であり、食料不足、穀物不足が世界的に深刻化している中で、コムギと大豆の取り引きが最重要案件だった。
コムギの価格を高騰させようとしても、どこからか大量に供給されてしまう。
この供給ルートを止めないと、与党は利権を極大化できない。
だから、ある意味、悠理亜や紗良の存在など、些末なことなのだ。
しかし、市警にとって、紗良は許しがたい存在だ。市警幹部には、小娘に嘲笑われている感覚がある。
市警幹部、つまり民間軍事会社の幹部たちは、暴力の信奉者だ。彼らの多くは、隣国の軍で訓練を受けている。多くがカルト宗教の信者で、思想的には新興宗教の原理主義に属している。
日本の警察を含む法執行機関と自衛隊の出身者はいない。極めて特異な組織だ。
警視庁は、組織暴力団とも、反グレ集団とも、左翼過激派とも、過激な右翼活動家とも異なる、第5の暴力的性向を内在している集団と見なしている。
都内で問題を起こせば、即時取り締まるが、市警もそれを知っている。ボロは出さない。
悠理亜と紗良は、一切相談していないが、どちらも荒事は三代王特別市内だけですますつもりだ。三代王特別市外での、他者に対する危害・迷惑は避けたいと考えている。
三代王特別市では、市の組織と無関係な人に被害がない限り、何でもするつもりだ。
ではあるが、人非ずものとなった悠理亜と紗良が、どれほど人を気遣うかは不明だ。
悠理亜は、越後谷一族の女性に頭を下げさせた人物が気になっていた。
彼女の身元はすぐにわかった。
ファミレス風レストランのはす向かいにある中古車店の従業員らしい。
20歳代前半、背が高く、筋肉質、剣豪のように身体の動きに無駄がない。
名前は音だけわかった。
レイリンアズサ。店長らしい。店にいるときは、いつもスパナを持っている。会議の席では、ホワイトボードの前で指示棒の代わりに長いスパナを使う。
客観的に女性の目線で美形なのだが、セクシーさはない。性的な魅力を暴力の匂いが打ち消している。
彼女からは、血管から体外に漏れ出た血の匂いを感じる。
店長だが経営者ではない。店内の会話から社長がいることがわかっている。
この社長が相当な遊び人らしく、どこかに行ったきり帰ってこない。
仕方なく、彼女が店を切り盛りしている。従業員は3人。3人とも男性だが、彼女とは異なりひ弱な感じがする。
悠理亜は、レイリンアズサを1週間ほど非連続的に観察していたが、不審な点はなく、おもしろいネタを見つけられなかった。
それで、注目することをやめた。
市警に目を付けられた市民は、震えることしかできない。可能ならば、すぐに市外へ逃げる。市外へ逃げれば、市警は追ってこない。
逆もある。
反社会的な組織と関わってしまったごく普通の人が、彼らから逃れるために三代王特別市にやって来ることがある。
市内で事件を起こせば、いや事件を起こさなくても、何らかの組織の関係者だと疑われただけで、過酷な拷問が待っている。
それは、政府系の公安機関や法執行機関の関係者も同じ。
市警は、自分たち以外の実力組織を極端に嫌う。
狭間倫子は、陸上自衛隊三代王出張所を出てから尾行されていることに気付いていた。尾行されることは珍しくないし、同時に市警が仕掛けてきた例はない。
陸上自衛隊陸幕直轄警務隊という仰々しい名前の部隊だが、狭間3佐以外は2尉がいるだけ。たった2人の部署で、2尉は三代王特別市には入らない。
あまりにも危険だからだ。ごく普通の自衛官である新婚の2尉を危険にさらすわけにはいかない。
倫子は尾行を警戒していたが、仕掛けてくることはないと考えていた。
市警は彼らのテリトリーにおいて、いかなる組織の介入をも好まない。自衛隊員募集の事務所である三代王出張所も同様だ。市警以外の他組織は、三代王特別市での存在と進入を許さない。
陸上自衛隊三代王主張所だけが、その例外になっていた。当初は女性自衛官3人、男性自衛官4人の態勢だったが、女性自衛官はいろいろと危険なので、自衛隊側から勤務を解いた。
男性自衛官も2人に減らし、残った2人は相当に厄介な人物だ。1人は旧軍では憲兵と呼ばれた警務隊のベテラン。1人は陸上総隊出身の猛者。
倫子は、三代王出張所に警務隊からの出張という名目で派遣されている。
倫子を含めて3人とも仕事は自衛官の募集ではなく、三代王特別市の監視だ。市警幹部と上部組織である民間軍事会社の経営層を、可能な限り監視している。
多くの場合、尾行は嫌がらせと退去させるための圧力が目的だが、この日は違った。
倫子は2人につけられている。複数人による尾行は、過去にない。
「何なの?」
肝の据わった倫子でも、不安になる。
月影紗良は、4人に尾行されていた。父と暮らした家まで、数分で到着する。三代王特別市に入ったら、市警がどんな反応を示すかおもしろ半分で自宅に向かったが、予想外の熱烈歓迎で戸惑っていた。
紗良は問答無用で人を操れる。本人の意志に関係なく、何でもさせられる。
しかし、対象があまりに多いと、行動に具体性を与えられなくなる。それでも、1000人程度なら、結界内の全員を棒立ちさせられる。
だが、長時間は無理だ。せいぜい1時間。
「結界の外にいる傭兵はどうしたら……」
生身の身体を持つ紗良は、不安になってきた。
紗良はスマートフォンを出す。法蓮悠理亜にLINEを送る。
[ヤバイ。
かなりの人数につけられている!]
倫子は、前方から歩いてくる高校生くらいの年齢の女性に気付く。スマートフォンを操作していて、前方への注意が散漫に感じる。
倫子の足が一瞬止まる。
女性の後方に市警が4人。
「挟まれた?」
倫子は本格的な危険を感じる。
紗良の眼前に20歳代後半の女性。彼女の背後に市警が2人。2人とも物騒な体格なので、市警でない可能性は低い。
紗良は咄嗟に結界を張り、空間内のすべての人を棒立ちにする。
紗良が20歳代後半の女性の手を握る。
「目を覚まして!
私と一緒に来て!」
紗良は、長年父と住んだ住宅地の戸建てにいた。三代王特別市内なので、住民がいなくなると転居者はない。居住者を失った住宅は、放置されるか取り壊される。
紗良の家は、背後は空き家、左右は空き地だった。
紗良は室内に最小の結界を張る。結界内に立ち入ると、身体が硬直して動けなくなる。
だが、結界外からの攻撃にはどの程度の対抗力があるのかわかっていない。すでに、玄関前には何台ものパトカーが集まっている。
倫子が紗良に尋ねる。
「あなた、月影紗良さん?」
紗良はOL風のお姉さんを助けたつもりだったが、肝が据わっているのか、度胸がいいのか、助けたはずの女性は落ち着いている。
「そう、だけど?
あなたは?」
「陸上自衛官」
倫子がそう答え、背面の腰からヘッケラー&コッホSFP9を抜く。
「自衛官なのに拳銃持ち歩いているの?」
紗良の問いに倫子は返答しない。
「応援を呼ぶ」
そう言って、倫子がスマートフォンを内ポケットから出す。紗良が失笑する。
「無駄だよ。
ここは市警の縄張り。戦車でも持ち出さない限り、自衛隊でもどうにもならない」
そんなことは、言われなくてもわかっている。ここで死ぬにしても、どこで死ぬのかを伝えておきたかった。その意味のほうが、大きかった。
三代王特別市での秘密任務を志願した際に、自分の身への最悪の事態は覚悟している。
倫子も紗良の落ち着きが気になった。
紗良の顔を見ると、彼女が微笑む。その笑顔は、なぜか背筋を凍らせた。
「私が応援を呼ぶ。
私の力では、周辺に影響を及ぼしてしまう」
倫子は紗良の言葉の意味が理解できなかったが、紗良が電話すると相手がすぐに出た。
音が漏れている。
「何の用だ。化け物」
「頼みがある。作り物。
家の前に市警が山ほどいる。好きなだけ殺してくれ」
「いいのか?
おまえの獲物だろう?」
「いや、ここでは力を使いたくない」
「化け物のくせに、仏心か?」
「頼む。
助けろ」
「10分ほど粘っていろ」
紗良が結界の半径を大きくする。結界はドーム型で、底面はほぼ真円。居間を中心に、玄関外までを範囲にする。
同時に身体の拘束だけでなく、生物が意識せずに機能させる部位、例えば心臓など、にも機能を停止させることにする。
古い建売住宅地は、騒然となっていた。市警車輌の主力は、塗色が黒か白のセダンで、いわゆるパトカーは少ない。車種はレクサスLSで、拳銃弾と散弾に耐える程度の防弾が施されている。
特別襲撃部隊も出動している。こちらは軍隊そのもの。警察には見えない。迷彩服、ボディアーマー、軍用自動小銃で武装している。催涙性発煙弾や発音弾などの制圧装備は使わない。
この種の武器は、ごく普通の手榴弾を使う。
女性2人を対象とした態勢ではない。確実に殺すことを考えている。
1人は鬱陶しい自衛官、もう1人はとっくに死んでいるはずの少女だ。
どちらも、生かしておいては三代王特別市のためにならない。
特別襲撃部隊の隊員が、紗良宅の玄関ドアノブに手をかける。
一切の前触れなく、瞬時に死ぬ。
ドアノブに手をかけたまま死んだ隊員を救助するため、2人の隊員が近付くと、2人とも死ぬ。
紗良宅の両隣空き地でも同じことが起きていた。
敷地内に突入した隊員が、突如として動かなくなる。救助はできないし、強攻しようとしたが死体が増えるだけだった。
現場を指揮している市警幹部は、予想外の展開にどうすべきか判断できなかった。
このまま引くわけにも行かず、なぜ人が死ぬのかもわからない。少なくとも既知の攻撃はされていない。
無色無臭のガスの可能性も考えて、対毒ガス装備の隊員を近付けたが、結果は同じだった。
死体は数体だけだが回収していた。
外傷がなく、突然死としか判断できない状態だった。
だから、包囲したまま少し待つことにする。
紗良は、お茶を入れた。
倫子は、拳銃を持ったまま動き回っている。
「私から5メートル以上離れないで。
死んじゃうよ」
紗良にそう言われた倫子が、怪訝な顔をする。
「突入してこない……」
倫子の疑問に紗良が答える。
「雨戸を閉めているから、外からは見えないだろうけど、サーモセンサーとかで監視しているんじゃないかな。
私たちのことは見えているでしょ。
でも、入ってはこれない。
たぶん、だけど、外は死体の山。
だから、様子を見ることにした、ってところかな」
「何をしたの?」
「何も、していないよ。
するのはこれから。
私じゃなくて、別の誰か」
「……」
「お姉さん、名前は?」
「狭間倫子……」
「私は……、知っているか?
月影紗良。
殺されたはずの女子高生」
「紗良さん……。
これから……」
「お茶、どうぞ」
紗良がローテーブルに湯飲みを置き、絨毯の上に座る。そして、お茶を飲む。その姿が老婆に見える。
倫子は迷ったが、紗良の向かいに座る。そして、熱い湯飲みを持つ。
紗良が話し始める。
「何十年でも、何百年でも、このまま持ちこたえられる。
だけど、私も狭間さんも生身。もうすぐ、電気、ガス、水道が止まる。この家に食べ物はないから、長くはもたない……。
だから、応援を呼んだ。
外から悲鳴や爆発音が聞こえ始めたら、ここから脱出する。絶対に私から5メートル以上離れないこと」
法蓮悠理亜は、月影紗良の家からだいぶ離れた3階建て民家の陸屋根にいた。
低い位置だが、玄関周りがよく見える。
手には重さ95グラムの六角ナットを握っている。この重量は、航空機搭載用20ミリ機関砲の弾頭重量に匹敵する。
このナットにバックスピンをかけて投擲すると、秒速800メートルの初速になる。現代の20ミリ機関砲の水準ではないが、第二次世界大戦時の威力に相当する。
悠理亜は彼女を殺した市警を攻撃すると、全身から歓喜が湧き上がる。この快感は押させがたく、理由の有無にかかわらず市警を殺したい衝動に駆られる。
そして、いまはその衝動を押さえる必要がない。
特別襲撃部隊の車輌から破壊を始める。
「始まった……」
紗良は、悠理亜の接近を感じていた。紗良は念の放出を押さえているが、悠理亜はあまり気にしない。
だから、探知できた。
ただ、生体ではない悠理亜の念は、非常に弱い。紗良のような古くて強力な怨霊でなければ、探知は不可能だ。
倫子は言葉にはしなかったが、20ミリ口径砲クラスの攻撃だと感じた。連射はされていないからM61バルカン砲の類いではない。
となると、対物ライフルか?
車輌が破壊さてていると思われる音が、木造家屋の室内に響く。
悠理亜は95グラムナットの破壊力に満足している。人も狙い始める。ボディアーマーの有無など、まったく関係ない。
市警の現場指揮官はすでに死んでいた。大型の市警車輌内で、モニターを見ながら無線で指揮していたが、この車輌は3回目の攻撃で狙われた。
上半身と下半身は分離していたが、顔に傷はない。しかし、腹と胸はなくなっていた。
すべての市警車輌が破壊され、生きているもの、死んでしまったもの、そのすべてが地に伏している。
紗良宅の玄関ドアが開く。
紗良が先頭、倫子が続く。
特別襲撃隊員が紗良につかみかかろうとした、瞬間に倒れる。
市警の私服が紗良を拳銃で狙うが、倫子が発射。倫子は動くものすべてに発射する。
悠理亜は紗良の後に続く、女性に不穏なものを感じる。
「人のようだが、市警に怨みでもあるのか?
容赦ないな」
拳銃を巧みに使う女性の素性に疑惑を感じる。
三代王特別市は、悪意の坩堝。この街に足を踏み込んだら、善悪はなくなる。あるのは、生死のみ。
それと、支配者と被支配者……。
そして、両者の立場が逆転し始めていた。
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