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「Ask, and it will be given to you」
罪と罰
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なぜ自分は生きているのか。
考えこそすれ、訊くのは憚られた。
誰も何も言わないからだ。
暴くのは恐ろしい。
気付いてしまえば、もう何も知らなかった頃には戻れない。
俺は本当に俺のままなのか。
俺として生まれただけの、俺とは別の生き物なのではないか。
俺は沼男か。
どうだ。
判断してくれる人はどこにもいない。
かつては賑やかだったこの屋敷にも、もう――俺一人だ。
誕生日会があるの、と電話がかかってきたのは、初雪の、それも珍しく五センチも積もった日のことだった。
そうか、君は冬に生まれたのかと、透き通った緑の瞳を思い出す。
似ている似ていると言われるが、君の目つきのほうがよほど柔らかいし、形も優しい。だから、並んで人前に出るのは本当に勘弁だ。適当に一括りにする発言が耳に入ろうものなら、どんな悪口雑言がこの口から飛び出るか、自分でもわからない。
忙しいとだけ言い放って、俺は仮称甥からの電話を切った。切ってから、少しだけ後悔した。日時は来月の第二金曜日だそうだ。二月の半ばである。余裕をもって誘ってきた辺り、こちらが年始で忙しないのは見越していたようだ。もっと言い方があったかもしれないと、小指の先ばかり考える。
誕生日、か。
十九になるのか。
初参加が十九回目とは、なんともまあ、薄情なことだろう。
いや――俺は頭を振る。仕事に戻ろう。くだらない思考に時間を費やした。机に戻って腰を落ち着けて、万年筆を持ったはいいが、何を書けばいいかわからない。変に集中力が削がれてしまった。気分転換でもするかと、俺は三階に上がった。
しばらく封じていた部屋の鍵を開ける。
当たり前だが中の空気は冷え切っていて、長らく人の手が入っていないものだから、うっすらと埃が積もっていた。酷いものである。許しがたい。控室でのんびりしている家政婦を呼びつけようとも思ったが、なんとなく、ここには他の誰も入れたくなかった。
これを機に、改めて――。
遺品を整理するのもいいかもしれない。
そのついでにまあ、形見の一つや二つ出てきたら、捨てるのも縁起が悪いし、押し付けてやってもいいだろう。俺は持ち帰りの仕事は諦めて、掃除道具を探しに行った。
年を取ると時間の流れが速くなるらしい。
一般論だ。学ぶべきことが多い少年青年時代に比べて、段々と真新しいことが減っていくからという論である。加えて学習機能も衰えていく。減少する一方の脳細胞の代わりに各分野の結合が強くなり、涙脆くなったり突然の出来事にも動じなくなったりする。
ところが、俺はあまり変わらない。
少なくとも自覚はない。
醒めているのは幼少の頃からだ。俺は容易く信じることのできない世界で育った。それが本当か幻か、常に見極めねばならなかった。第三者的視点はどうしたって鍛えられた。一歩引いて物事を見る癖がついた。疑うよりも先に、受け流す他なかった。そうしてこの俺が出来上がった。かなり早い段階で、俺は俺になっていたように思う。
物心がつく瞬間と言うのは本当にある。
真我が芽生えたその時、俺達は自分というものを得るのだ。
誰しも最初の記憶を持っているだろう。
捏造されていようが思い込みだろうが何だって構わない。それが自分の始まりだと思える、一番初めの記憶。何も羊水の中に戻れというのじゃない。一、二歳児の頃の記憶がないのは当然のことだ。
俺にとっては、“綺麗”がそれだ。
隣で眠る少女の寝顔を見て、ふいに覚えた感情。
――綺麗だな。
そう思った。
あの時、俺は始まったのだ。そうして、停滞した。長いこと。最愛の女性を喪って、俺は進化も変化も拒絶した。
身体が衰えても内面が成長しないのは、きっとそのせいなのだろう。
他人を欺く術ばかり会得して。面白くもないのに笑うのが上手くなって。
心は空っぽのまま。
今に至るというわけだ。
そんな俺が、どうしたことだろう。ろくな報酬も期待できないのに、こんな辺鄙な土地まで遠路はるばるバイクを走らせている。なんだってこんな地図の端っこに居を構えるものかと考える。布巾一つ買うのだって車を出さなけりゃならないだろう。俺には雇いの家政婦がいるが、向こうはそうもいかないはずだ。ライフラインが整備されているだけマシだが、ムショ暮らしのほうがまだ利便性は高そうだ。
果たして神に帰依したはずの奴らは、大した仕事をしているのだろうか。こんな田舎じゃ教区も何もないように思える。ちょっと移動すれば港町には立派な聖堂があるし、わざわざこんな寂れた場所に祈りにきても、天に届けてくれるかどうか怪しい。訓戒を垂れることばかりは得意そうな司祭の、教訓でこそあれ生きていくのには必要ない説教を、聞きに来る物好きもいないだろう。興味が惹かれないといえば嘘になるが、色々あって気まずいから聴衆に紛れるならまだしも一対一に持ち込まれたらトラウマで精神が死ぬ。
雨まで降ってきやがった。
引き返すなら今だと言われている気がする。
仕事を早退して馬鹿みたいにバイクで走り、それでも開始時刻には間に合わなかった。約束の十八時はとうに過ぎている。こんなことなら迎えを寄越させれば良かった。列車は嫌いだから端から選択肢にはない。
やがて見覚えのある木立の流れに呑み込まれる。
森に差し掛かれば、目的地はすぐそこだ。
こう静かでは兎の鳴き声だって風に乗るだろう。駆動音で気付かれるのも面白くないから、途中でバイクから降りて、押していった。
ますます馬鹿らしい。
それなりに賢いと自負していた俺だが、今ばかりは自信がない。
雨脚が強くなってきた。
すぐにはやまなそうだ。
天気の変わりやすい国だから、多少濡れるのくらいは気にしちゃいられない。鞄さえ無事ならそれで良かった。サドルの中にまで染み込むほどの大雨でもない。
歩いていると、すっと空気の冷える瞬間があった。
俺はこの手の雰囲気が苦手だ。信仰の持つ厳格さは、俺の神経を逆撫でする。口やかましく言う奴ほど、裏では下衆な蛮行に励んでいるのを俺は身を以て知っているのだ。
それとも、と思う。
案外、罠でも仕掛けられているのかもしれない。
この教会は、ちょっとばかしずれた奴らが潜んでいるからだ。
自然に溶け込むようにして、ひっそりと佇むその建物。どこぞの民話のお菓子の家を想起させる。訪ねるわけでも、招かれるわけでもない。迷い込む――その表現が、一番しっくりくる場所。
噂の司祭館はこの裏手を進んだところにある。
獣道に見えるが、きちんと整備されている。
なんとなく俺はバイクを止めて、なんとなく教会の中へと足を向けた。ヘルメットをハンドルにおざなりに引っ掛けて、庇の下まで潜り込むと、濡れたレザーを脱ぎ、中に入った。
体がだいぶ冷えている。堂内も案の定、冷え切っていた。誰もいない。けれど、鍵は開いている。不用心なことだ。
長椅子に腰掛け、しばらくぼーっとした。
暗がりに沈む十字架を、何をすることもなく眺めた。
心洗われるというが、まさしくそんな感じであった。
祈ってみようかと思ったが、祝詞すらも思い浮かばなくて。
――帰るか。
気が済んでしまったのだった。一つをやり遂げたような充足感がある。これじゃ校門まで辿り着いて引き返す不登校児と一緒だ。頑なな児童と一つ違うとすれば、だから何だっていうんだと言い返すだけの高慢さを俺は持ち合わせているということだ。ここまで足を運んでやっただけいいだろう。何で来てくれなかったのと詰られても、ほとんど行ったも同然だと言い返せるし。
――それに。
俺みたいなのが途中から参加したって、皆で作り上げた空気を壊すだけだろう。俺は自分が変わり種であることを理解している。だからといって、気を遣って馴染ませるのも阿保らしい。
腰を上げると同時に、雷鳴が轟いた。
意外と近くである。気付けば外は土砂降りだ。豪雨と言って差し支えない雨量と暴風である。最悪だと吐き捨てて、俺はレザーを羽織り、教会を出た。ヘルメットを取り上げる時、指が滑って泥濘に落っことした。無性に腹が立って蹴っ飛ばす。どうせ取りに行くのはわかってる。わかっててもままならないのが人生だ。
ところがである。
「――犬?」
毛足の長い大型犬が、雨にも負けず風にも負けず、雄々しく駆けていって、ヘルメットに齧りついた。散々っぱら転がした挙句、ベルトに齧りつく。許しがたい所業である。小柄な狼サイズだが濡れそぼってしまえばただの痩せ犬だ。何してると怒鳴りつけようとしたところ、
犬畜生は猛然とこちらに駆けてきた。
文武両道を謳ってきた俺も、さすがに反応できなかった。
「なんだ、お前。おい、よせ、来るな、おい!」
俺のヘルメットはフリスビーでも骨っ子でもないぞ!
人語を主張したところで獣に通じるはずもない。所詮、本能の前では理性など紙くずに等しい。どれだけ節制を誓ったって、あ、これいけるぞと思えば人間は目の前の餌に飛びつく生き物だ。大脳新皮質を獲得した人類がその有様なのだから、辺縁系止まりの動物に自制など働くわけもない。
超質量に飛びかかられ、自転車に轢かれたくらいの勢いで俺は吹っ飛んだ。
どす黒い雲と、稲光が見えた。ヘルメットを放り出したわんころは、俺の頬を舐めくさる。おかげで小さな雨宿りにはなったが、唾液塗れなのでむしろ状態は悪化している。
何もかも諦めた脳髄に、こらーと叫ぶ声が沁み渡った。
「だめだろ、ガーリィ! 勝手に出たりしたら!」
青い合羽を着た青年が現れる。子供に見えるがこれで成人しているというのだから詐欺に近い。おまけにぱっと見では性別の判別が不能だ。
一番見られたくない相手にあられもない姿を目撃されてしまった。俺は天に向かって中指を立てた。本当、覚えてろよ、神とやら。迂闊にも俺の前に姿を現してみろ。人間だって一矢報いることができるのだと教えてやる。
「お――おじさん?」
「……」
「来てくれたの!? う、嬉しい、やったあ」
嬉しい嬉しいと繰り返しながら、犬と一緒になって群がってくる甥っ子くん(仮)。
しつこく舐る舌を押しのけながら、俺は言った。
「いいから、こいつをどかしてくれ……」
泥まみれのまま玄関を潜るのは憚られた。裏口から案内してもらい、そのまま風呂場へと直行する。ちなみにあれだけ汚れたはずの犬はいつの間にか綺麗になっていて、薄汚い俺を横目に何食わぬ顔で二階へと上がっていった。ざっとシャワーを浴びて廊下に出ると、運ばせた鞄と畳まれた着替えが床に置いてあった。着てきた服は洗濯を頼んである、つまりは――。丁寧にアイロン掛けされたシャツとスラックスを身に着けて俺は複雑な面持ちになる。持ち主についてはあまり考えたくはない。まあ、体格の近さから鑑みて、十中八九、あの聖職者兼学者兼人でなし野郎だろうが。意外といいもん着てやがると俺は一人悪態を吐いた。鏡に向かって喋る癖は外では出さないほうがいいだろうか。
廊下に出て、和気藹々とした空気を目指して歩いた。
扉を開けると居間に出た。
おい、と俺はぶっきらぼうに声を掛ける。
「ドライヤーどこだ」
中央のテーブルを囲んで、六人ほどがひしめき合っている。誕生会だというのになんともまあ倹しいものだと思う。見たことない顔がいくつかある。鳥っぽい奴とかいやに顔の良い王子様然とした奴とか。大勢の視線に晒されたものの、まあ負けじと劣らず眉目秀麗の俺が何を引け目に思う必要もないので、掻き上げた髪の富士額を存分に見せつけてやるべく、斜に構えて見せたわけだが。
「ヨシュア!」
真っ先に立ち上がったのはシェイマスである。両腕を広げて熊みたいな巨体を近付けて来る。「何だお前、遅かったじゃないか。来ないのかと思ったぞ」
背中ばんばんだ。こいつは会うといつもそう。
「仕事が長引いたんだよ」時間配分をミスしたなんて口が裂けても言えない。
「まあ何にせよ、良かったよ。元気そうじゃないか。ん? 雨の中、駆け付けるなんて、いやに熱心じゃないか。可愛い甥っ子のためだものなあ」
「うるさいよ。声でかいんだから自重しろ」
「ままま、座れよ。特別にジュリアの横を譲ってやる」
「はあ?」俺はむさくるしい腕を除けようと四苦八苦する。「いいよ。俺は髪乾かすもの借りに来ただけで、」
「いいからいいから。ほら。大丈夫だセットしたみたいだぞ」
「あのな」
呆れて物も言えないまま、強引に体を持っていかれた。
「機嫌が良いじゃないか。もう出来上がってるのか?」
「いんや」
旧友は口をへの字に曲げた。こいつはほんとすぐ顔に出る。
「今、酒は控えてるんだ」
「お前があ?」信じられない。「なんだ、奥方に小言でも言われたか」
「いやなあ。それがな」
「なんだよ。勿体ぶるなって」
おれは覚えがないんだがと言う。
「半年くらい前かな。もうちょっと前かもしれない。酒瓶持って道路で眠りこけてたことがあってよ。それからちょっとばかし自戒してるのさ。不思議だよなあ。その日は何の予定もなかったはずなんだが……」
どうにも記憶が曖昧でと、シェイマスは首を捻った。
半年程前。
極めつけに、曖昧模糊とした――記憶。
俺は思わず聖職者どもを見やった。
司祭のほうは何でもなさそうにしているが、助祭のほうは目が合うや否やあからさまに顔を逸らしやがる。
――何かしたな。
シェイマスの記憶の欠落には気付いている。とある事件で入院した俺の元に見舞いに来たこの男は、俺の告白の一切を覚えていなかったのだ。おかげで余計な口を滑らせそうになった。いつの間にか自死に失敗したことになっているし。いや、事実、死にぞこないではあるのだが。
節制を美徳とするシェイマスが、酒に溺れるとは考えられない。酒は好きだしやめられないようだが、呑まれた姿は一度も見たことがない。それが酔っ払って道路で大の字になって一夜を明かしただと? いやまあそこまで詳細に描写されちゃいないが、なんとなく想像できたのだ。
典型的だからだ。
イェシュア教会の司祭と助祭が人ならざるものであることは聞き及んでいる。さる人物からの情報である。今となってはあまり思い出したくない話だが、俺の明晰な頭脳ではそうもいかない。
あの、騒ぎの後、おそらく何らかの方法で意識を操作して――適当にその辺に捨てたのだ。
雑過ぎだろ。
俺ならとことんまで疑問を抱いてる。大雑把なこの男だからこそ通用した荒業だ。
とはいえ、俺も自身の問題から目を逸らしていることは確かだ。これは――いい機会なのかもしれない。思い切って問い質してみるのはありだ。勿論、人目は憚らねばならないが、頼めば司祭のほうは無下には扱わないだろう。多少の時間は作ってくれると予想する。
俺は一度死んで、生き返ったのか?
それとも、死の間際で引き戻されたのか?
両者は似ているようで異なる。もし前者だった場合――やはり俺は苦しまねばならない。
果たして俺は連続しているのか?
ここにいる俺は、死ぬ前の俺と同一の存在なのか――?
ふと視線を感じて目を上げると、例の金髪王子が俺とジュリアの間に立ってこちらを見つめていた。
真っ直ぐすぎる眼差しに恐怖すら感じる。
ジュリアくん、と王子は呼んだ。
「この方は?」
「あ、お――おじさんです。俺の」
一睨みきかせると、ジュリアは慌てて言い繕った。
それはそれはと王子はなぜか顔を綻ばせ、
「わたくし、ラジエル・マルアハと申します。イッシュやエハヴ殿と同じく、聖職に従事しております。以降、お見知りおきを」
「ああ、どうも。ヨシュア・シュルズベリーです」
偉い空気を感じ取ったので、俺は慇懃に応じた。
差し出された手を握る。
冷たかった。
すると男は整った容貌をずいと突き出して、
「友達の友達は友達と伺いました」
「は?」
虚を突かれた俺は気の利いた返しもできずに呆けた。
「というわけで我々は友達です。よろしいか?」
「はあ……」
なんだよこいつ。
相手の都合を鑑みない暴論だ。友達の友達を介していけば地球の裏側まで到達できるかなチャレンジでもしているのか。そんな。ネット掲示板のネタ集めじゃあるまいし……昨今、普及し始めたインターネットにのめり込み気味の俺である。
兄さん兄さんと、飲み物を渡しに来た助祭が困ったふうに諫めた。
「普通に友人になればいいんですよ。縁はここで結ばれているのです」
「なるほど。そう言われてみれば、そう思えます」
はははははと笑い合う。その無機質なやり取りを俺は引き気味で眺めている。助祭の兄というからには、こいつもやっぱり只物ではないのだろう。人外どもの纏う空気は意外とわかりやすい。なぜどいつもこいつも違和感を覚えないのか俺からしてみれば謎だ。マネキンが喋っているような違和感。
司祭のほうはまあ、まだ柔軟性があるというか、人間味を獲得しているように思える。
――こいつらほんとに人じゃないんだな。
改めて考えてみると――恐ろしい会合だ、ここは。狼の群れに放り込まれた羊の気持ちを、この歳になって理解できるとは。ろくな奴がいないのか、ジュリアの周りには。
大丈夫なのか、こんな環境で。
満たされては、いるようだが――。
俺は助祭の持ってきたグラスを少し呷った。かっと胃が熱くなる。
一通り自己紹介をすませると、またやいのやいのと各々で盛り上がり始めて、寄る辺ない俺はふんぞり返ってテーブルの木目を数えたりしていたのだが、隣のジュリアがあれ食べてこれ食べてと皿に食い物を載せてくるものだから、まあ毒味程度はしてやろうかと一口貰ってやった。
うまかった。
何か悔しい。
どう、とジュリアが恥ずかしそうに訊く。
「イッシュ様と一緒に作ったんだ」
うまいもんだと――一言くれてやれば、こいつは素直に頬を綻ばせるのだろう。しかし、その顔を見るためには、羞恥という名の障害物を力づくで捻じ伏せる努力をしなければならない。こいつはなかなか手強くて、俺はいつも、根負けしてしまうのだ。
今回もそうだった。
うんまあ、なんて捻りのない答えを返す。
それでもジュリアは嬉しそうにして、俺の世話を焼いた。悪い気分ではなかった。
案外、後を引かないものだなと。
俺は楽観した。今ではどうかしていると思うが、俺はこいつに、かなり思い切った仕打ちをしているのだ。顔も見たくないと蔑まれて当然の行為に走った。それなのに、気楽そうに見舞いなんか来やがって、容易く――俺の越えられなかった壁を越えて見せる。
それとも大したことではなかったのだろうか。
ここの聖職者は変態揃いのようだから、俺程度の所業など、痛くも痒くもなかったのかもしれない。暗闇に閉じ込めたのは非人道的行為に過ぎたと反省している。なんてったって自我の崩壊を促したのだ。無気力症候群も狙った。ああ――やはりそう簡単に許せるものじゃないはずだ。
それともそれほどまでに飢えているのだろうか。
恐怖を簡単に捻じ伏せられるほど――家族というものに?
「おじさん、どうかした?」
あどけない眼差し。
だがこいつはこいつなりに、物事を考えている。
向けられる欲望に唯々諾々と従うだけの人形ではない。
不思議なものだ。命というのは。男女の遺伝子が混じり合い、ポップコーンが膨らむみたいにぽこぽこ成長して、気付けば一個の意志を獲得しているなんて。
これは確かに俺の一部から派生した分身のはずなのに、俺の思う通りには動かず、俺の知らない言葉を喋ったりする。
新鮮だ。そしてそれが――楽しい。
楽しかった。
今更、自覚するなんて愚かなことだが。求めるのに遅いことはないと、俺は教わったから。
肉付きの柔らかい頬を両手で摘まんで、横に引っ張った。甥もどきは本気で困惑しているようで、うにゃうにゃ言いながら目を瞬かせる。俺はほとんど無表情でそれを眺めている。傍から見たら異様な光景だろう。疲れているのと訊かれたらはいそうですと答えるしかない。
生きているのだと実感した。
物を喰い、物を考え、物を作る、生きた人間。
――生まれてきてくれてありがとうを伝えるための、この場に相応しい表現があるけれど。
口にする勇気は――なかった。
「しっかし、よく似てますねえ、お二人さん」
向かいに腰掛ける鳥顔が感心するように言った。申し訳ないが興味がなさすぎて名前を聞いていなかった。
「親戚ってよりは親子っすね」
「――――……」
空気が凍った。
何も知らない奴らだけが視線を右往左往させる。
「あ、あれ? おれ、なんか変なこと言いました?」
「いやあ、とんでもないですよ。わたしも思っていたんです、このところ益々似てきたなと」
こりゃ誤魔化せるのも時間の問題かなと俺は思い始める。眼鏡に独自の色を重ねまくるシェイマスでさえ違和を覚えるのだから相当だ。
どう切り抜けるかと思考を巡らせていると、呑気な調子でジュリアが小首を傾げた。
「そんなに似てるかなあ」
お前まで乗っかるのかよと俺は内心舌打ちする。早いところ切り上げるべきだろこういう話題は。それとも危機感がないのか。やはりまだガキだなと侮ってみたが――どうもそうではないらしい。
「おじさん、かっこいいもん。ねえ?」
なるほどその路線かと、俺は誘いに応じた。こいつ、天然を装うとはなかなか嘘吐きの素質がある。
当然だな、と俺は眉を上げた。「俺だぞ」
「俺もおじさんみたいになれる?」
「お前が? はは、無理だろ。そんな、女みたいな顔して」
酷いと自称甥っ子は喚いた。
「気にしてるのに!」
「そうなのか? てっきり、売りにしているんだと思ったが」
苦笑や笑いがぽつぽつと湧いた。よしまずまずの流れだこのまま当たり障りのない話題に移行してと、考えていた矢先、
「なれますね」
と、マルアハが薄味に言った。
俺は怪訝な顔をする。「どういう意味だ?」
「ジュリアくんです。もう三年もすれば、かなり女性性が抜けるかと」
男の――膝の上には。一冊の書物が置いてある。ページの丁度半分辺りを開いて、何やら細かく記された文字を読んでいる。覗いてみようとしたが、文字が書いてあるのはわかるのに、モザイクがかかったように読み取れない。
俺の血の気は失せた。
気付いてしまったからだ。
人でないもの。
七大天使の名を冠した男の、イコン――。
「セファー・ラジエールか!」
俺はつい椅子を蹴倒して立ち上がってしまった。
「あ、あなたは、まさかそんな」
「お、おじさん?」
「お、お前、よくそんな平然としていられるな。何ですぐに気付かなかったんだ、俺はおおぼけか」
「落ち着け、子爵」
ぞんざいな口調で戒めたのは例の司祭である。俺の狼狽にきょとんとする皆と違って、奴だけは白けた顔をしている。
「神秘とは騒ぎ立てていいものではない」
「そう……かも、しれないが」
無暗やたらに神秘の書を開くのはどうなんだ。
めちゃめちゃくだらないことに使ってないか、こいつ。
ラジエルの書とは、この世全ての知識、秘儀が記されているという書のことである。楽園を追放された原初の男に与えられたが、紆余曲折を経て最後にはソロモン王の手に渡ったとされる。預言書の機能があるとは伝えられていないが、こいつら人外に時間の概念がないとすれば、全ての中に未来が含まれている可能性は十分にある。
司祭は神の人の血を飲み干すと、まるで教師のような顔をして、言った。
「識らない振りというのも賢さのうちだぞ。あなたはこの場の誰よりもそれを知っているだろう。なあ――沼男」
俺は唖然として立ち尽くした。
今――今、こいつ。
俺を、スワンプマンだと。
「今、何て言った」
机も人も迂回して詰め寄った。おい喧嘩はよせよと野次が聞こえるが気にしない。司祭のほうも両手を見せて苦笑している。
「冗談に決まっているだろう。祝いの席だぞ、そう目くじらを立てるな」
「ち――違うんだ」ちがう、と俺は馬鹿みたいに繰り返す。「かんに障ったわけじゃない。むしろ恥を忍んで教えを乞うているんだ。お、俺は、やっぱり――」
雷鳴が轟いた。
俺は、今まさに沼から這い出たような気になった。
死んだ男寸分違わぬその人間は、果たして死んだ男そのものなのだろうか。
「俺は――」
しかし、その先は続かなかった。この場でするべき話じゃないということは、なんにせよ明白だった。俺は一度死んだのかなど言い出しては、また病院送りにされてしまう。頭の悪いカウンセラーの相手をするのはもう疲れた。奴らは自分の引き出したい情報しか耳に入れない。
言い淀む俺を見て、司祭は得心したようだった。
そうか、むしろ逆なのかと言う。
「君は何も知らないんだな」
悪寒が走った。
それはもう、今にも卒倒しそうな顔色をしていたに違いない。司祭は幾らか表情を和らげて、丸い声で言った。
「さっきのは揶揄だ。すまなかったよ、気にするんじゃない」
「つまり――」
「ああ。君のそれは、思考実験ではなく、奇跡だよ」
「き、奇跡?」
救世主は磔にされて死んだ後、三日後に復活を果たしたという。
俺の二度目の生は。
復活?
いや――そうじゃないと思い直す。昨今の研究によれば、救世主は失神状態だったという推測がなされている。気を失って、三日後に目を覚ましたのだ。それならば――地続きか。
この男がその手の話題に暗いはずがない。
急に肩が軽くなった気がした。
荷というのは下りる時は簡単に下りるものだと思う。
ぼんやりしていると、痺れを切らしたシェイマスが横槍を入れてくる。
「なあ、さっきから何の話をしているんだ? 今じゃなきゃダメなのか?」
「駄目だ。哲学というのはそういうものだ」
「あーそうかい。じゃ、学者さん達はそっちで議論でもしてろよ。よしジュリア、こっちにおいで。昔話をしてあげよう。ヨシュアの恥ずかしい話も聞かせてやるぞ」
司祭に空いている椅子を勧められて、俺は腰を下ろした。
こうして向かい合ってみると、なんてことはない。あの時、感じた畏怖も、恐怖も、湧いてきやしない。背は高いが体格は弱く、痩せている。
普通の人間に見える。
助祭やその兄貴とは、この人は何かが違った。
「……謝りたいと思っていたんだ。あなたには」
俺が言うと、司祭は体を斜めにし、右の眉を上げた。
「君が、オレに? 見違えたな、殊勝なことだ。よほどカウンセリングの効果があったらしい」
「それ本気で言ってるのか?」
俺達は忍び笑う。
「よく来たな」
俺は肩を竦める。「実は前もって準備をしていたんだが。思ったより遠かったんだ」
「はは。なんだそうか。ジュリアに言ってやれよ。喜ぶぞ」
「別に喜ばせに来たわけじゃない」
「そうだな。これは祝福の儀だ。見返りは必要ない」
俺は一拍置いて、早口に言った。
「なあ。俺に口を挟む権利があるとは思わない。だが、他に頼める相手もいない。あいつのことだ。泣かせても怒らせても構わない。幸福かどうかは奴が決めることだしな。ただ――裏切らないでやってくれ。もう二度とだ。いいか。頼んだぞ。頼んだからな」
司祭は空のグラスを掲げ、
「神に誓って」
と、受諾した。
その時、電話のベルが鳴った。居間に据え置いているものだ。はいはいと受話器を取りにいった助祭が、俺のほうを振り返る。
「シュルズベリー子爵宛てだそうですが」
「すまん。仕事の電話だ」
俺は席を辞して、助祭から受話器を奪い取った。
「お電話代わりました、シュルズベリーです。ああどうもオケリー夫人、こんばんは。いえ、お手数お掛けして申し訳ありません。今、親戚の家に滞在しているものですから。私宛てに電話があればこちらを紹介するようにと、召使いに言いつけておいたんです。いいえぇ、平気です。ただ様子を見に来ただけですから。それほど大層な用事では。ええはい」
取引先の社長の奥方である。家族ぐるみで俺を気に入っているらしく、プライベートも食事の誘いを掛けてくる。意地でも体は売らないが、この程度のコミュニケーションならお安い御用だ。信頼を勝ち取るためなら努力は惜しまない。
案の定、今週都合の良い日はないかと訊いてくる。ついでに旦那のほうが来月の仕事の相談をしたいと言う。俺は愛想よく相槌を打ちながら、スケジュールを確認しようとして、鞄がないことに気付いた。
しまった、風呂場の前に置き去りだ。
少々お待ちをと断り、俺は受話器の口を塞いで、小姓を呼びつける。
「ジュリア!」
「なあに」
ぴょこんと跳ねて、甥に当たるらしい青年は小走りで駆け寄ってきた。
「鞄だ。取ってこい。風呂場の前だ」
「えー」
「えーじゃない、行け」
暫定甥っ子くんは頬を膨らませながら居間を出て行った。俺はその間、雑談で間を誤魔化す。戻ってきたそいつに鞄を床に置くよう促し、電話コードを最大限まで伸ばしながら、俺は鞄の中を漁った。
「そうだ、お体の調子はその後いかがですか。そうですか、良かった。歩けなくなるとどうしても足腰が弱りますからね。どうです、気分転換にご旅行など行かれては。ええ、勿論。御伴させていただきますとも。はい、はい」
あれも違うこれも違うで、ぽいぽい中身を床に放りまくった。一刻も早く切り上げたいところである。なぜなら助祭がすぐ横で聞き耳を立てているからだ。
何してんだよ、こいつ。
物珍しそうに俺を見下げやがる。
「――なるほど、でしたら明後日はいかがでしょうか。ええ、かしこまりました、では十七時にお伺い致します。私などでよろしければ、御相伴に与らせていただきます。いつもありがとうございます。いえ、迎えは結構ですよ。自分で車を出しますので。はい、はい。明後日はよろしくお願い致します。はい、どうも。失礼します」
音を立てないように受話器を置いた。
助祭と目が合う。
「……なんだ、さっきっから」
「それ、どういう仕組みですか?」
「はあ?」
「声は笑顔なのに顔はまるで笑っていなかったので」
「対面していないのになぜ顔を作る必要が?」
汚物でも踏んだような顔をされた。困るなあ、そういうのと言う。申し訳ないがお前にだけは非難されたくない。
「あの――これ」
と、ジュリアが俺の袖を引いた。
小包を手に立っている。焦げ茶色の包装紙で、一分の隙もなく梱包されている。当然だ、俺が手ずから仕上げたのだから。リボンがちょっとよれてるのが気になるが、まあ及第点だろう。貰ったら嬉しいに違いない。
問題はなぜ渡す前にそいつがそれを持っているのかだ。
俺、顔面蒼白である。
「か――返せ!」
適当に放り出した鞄の中身から拾い当てたのだろう。ひったくろうとすると、生意気にもジュリアは避けた。
俺達は奇妙な姿勢のまま睨み合う。
「……何のつもりだ」
「これ、プレゼントでしょ」
厚かましくもそう宣言しやがる。効果は抜群だ。俺はわざとらしいくらい口ごもった。
「な、何を」
「俺に持ってきてくれたんでしょ?」
悪戯っぽく笑う。
可愛いと少しでも思ってしまった自分に――。
「腹が立つ!」
「な、なに?」
「うるさいお前には関係ない返せ!」
「やだ!」
「こんの、くそガキがぁ……っ」
きゃーと叫びながらテーブルを回り込む。当然、俺は追うが、これがなかなかにすばしっこい。軽く部屋を三周した辺りで俺の息が上がった。平然としている綺麗な面が恨めしい。
シェイマスが笑いながら言った。
「ジュリア、あまりいじめてやるな。そいつ来年で四十だから」
「お前も、だろうが……」
息も絶え絶えである。デスクワークの運動不足ぶりを舐めないでほしい。
「今に見てろよ……俺の手を煩わせたこと、後悔させてやるからな……」
「あなたって、結構典型的ですよね」
「お前は埒外だ、糞見習い」
「助祭だって立派な聖職ですよ。僕はこの不精に代わって色々やってますし」
「オレに飛び火したか?」
「うふふふふ」
「なああんた、近くで見ると男前だなあ。娘に面食いがいるんだが一人どうだ?」
「いやあ、人間の女の子はちょっと。何考えてるかわかんないんでハードル高いっていうか」
「伯爵。そんなことよりもっと話を聞かせてください」
「司教様の頼みとあっちゃ無下にはできませんね。では、ハイスクール時代の小話を一つ。ヨシュアの奴、在学中に三人の教師を登校拒否にさせてるんですよ。教師をですよ。授業中にそりゃもうこてんぱんに言い負かしちまってね。大人のプライドってやつを理解できなかったんだな。それでね、その尻ぬぐいとして――」
「おおい、お前、何を吹き込んでるんだ、その話はやめてくれ!」
「ねえ、ヨシュア。どうしても課題でわからないところがあるの。勉強を見てほしくて――」
「ああ、今立て込んでるんだ。後にしてくれ、マ――」
振り返ると、そこには誰もいなかった。
一気に汗が噴き出す。
や――。
やっちまった。
室内がしんと静まり返る。
危なかった。名前を出さなかっただけまだ良い。だが依然、危機的状況である。やばいぞこれは結構やばい。
動けない。
自分がどこにいるのかわからなくなる。
恥ずかしくて死にそうだ。
なんとか――なんとか場所だけでも移動しなければと。キレた振りでもして部屋を飛び出せ。ほら。ここで乱心するよりはいいだろう。動け。動けよ、足。
やめて、と誰かが遠くで叫んでいる。
青年の声にも、女の声にも聞こえる。
ああ駄目だ。もう手遅れだ。
耳を塞いで目を閉じた。
情けなくその場に蹲る。
俺は。
きっと腕をちょっと机の端にぶつけたくらいで死にたくなるような精神をしていて、良く言えば繊細、悪し様に表現するなら愚かだ。攻撃的なのは自衛の手段であり、ほいほい他人に近寄られては心休まる暇がないから、できるだけ人を遠ざけようとする。それなのに。
なんだって俺はこの家にやってきたのだろう。
一体、何を期待したのだろう。談笑か嘲笑か。赦しか罰か。愛か憎悪か。胸の高鳴りを抑えたはずだ。草原を走りながら、期待に胸を躍らせたはずなのだ。俺は――ジュリアに。
認めてほしかったのだ。
間抜けめ。
結局、寂しかっただけじゃないか。
祝福されたかったのは俺だ。
身内に引き入れてもらったような面をして――。
力強く肩を叩かれた。
シェイマスがうるさい顔をしてこちらを覗き込んでいる。
「落ち着け。ほら。深呼吸しろ」
「な……なんだよ……さわ、るな」
「いつものやつだろ? 静かにしてろって」
すみませんねえと皆に向かって謝る。
「こいつ、変な癖があるんです。気が緩むと出るんだよな? 子供の頃からのやつでねえ、起きたまま夢見るんだ。なあ?」
玉のような汗を浮かべた俺は口も利けない。
――夢。
夢、か。
なるほどそうかもしれないと、腑に落ちた。記憶障害なんて大したものではなかったのかもしれない。
人は一度見たもの聞いたものは忘れないという説がある。
思い出せるかどうかだけなのだそうだ。シナプスの伝達がうまくいくかどうか。そうした経験は記録として積み重なり、引き出すことができるものだけを記憶というのだと――そして、眠る時に見る夢が、走馬灯のようなものだと仮定するなら、思い出とは起きたまま見る夢とも言い換えることができる。屁理屈ではあるが、俺にとっては心地いい結論だった。
俺は少し離れたソファに座らされた。じっと床を覗き込むようにして耐えた。ふと顔を上げると、隣にいるのはやかましい友人ではなく、この世で唯一の分身だった。
ごめんなさい、とジュリアは陰鬱に言う。
「疲れちゃった?」
これ返すと包みを差し出す。
「ふざけたりしてごめんなさい」
「……」
俺は一つ息を吐いて、開けてみろと言った。
いいの、とジュリアは訊ねる。いいよ、と俺は頷く。
中に入っていたのはアルバムだ。
A5サイズの小ぶりなものだが、厚みはある。重厚な装丁はマリアの趣味だ。
何気なく開いてみて、ジュリアは硬直した。
「おかあさん」
「……笑えるだろう」
容量の割に収まる写真の数は一割にも満たない。精々がところ十数枚である。
「家中搔き集めてみたんだが。あの子はそれしか残っていなかった。所詮、その程度のものだったんだ。俺の執着なんて」
ううん、とジュリアは頭を振った。
右手にあたたかさが灯る。
やっぱり人間の温もりは良い。
「すごく嬉しい。ありがとう――お父さん」
うん、と俺は頷き、
「十九歳の誕生日、おめでとう」
ようやく、その言葉を口にすることができたのだった。
泣きそうだった。
泣かないけど。
「これ、ほんとに貰っちゃっていいの?」
「いい。お前が持ってろ」
「でも、大切でしょう」
「いいんだって。必要ないなら捨てろ」
「捨てたりしないよ」
「そうかい。なら、好きにしろって」
「じゃあ、一緒に見よ。今辛いなら、明日でもいいよ」
「なんで泊まってくことになってるんだ」
「でもお洋服のお洗濯終わってませんし」と、丁度、飯の追加を持ってきた助祭が、顔を覗かせて行った。「この雨と暗闇ではバイクは危険でしょう。大事なお体のようですし? 泊まられていくのが賢明かと」
「……」正論である。正論を返されると俺は黙り込む習性がある。認めるのは癪だし、されど言い返せば詭弁になるからだ。
「みなさん、第二弾できましたよー」
パイの香ばしい匂いに歓声が沸く。いやに野太いのは主に騒いでいるのがシェイマスだからである。立場を考慮しなくていい場所柄だからといって羽目を外しすぎだと思う。ほんとに酒が入っていないのか疑わしい。
おーい、とこちらに向かって手を振った。
「落ち着いたか? なら、もっかいハッピーバースデー歌おうぜ!」
ジュリアは行こうと言ったが、俺は断った。
「先に休ませてもらう。お前はみんなと楽しんでおいで」
「あ――」
ジュリアは痛ましい顔をした。
こういう時、マリアは意地でも俺を連れて行こうとしただろう。気の強い女だったのだ、あれは。
でも、ジュリアはそうしない。
マリアとは違うからだ。
その、と言い淀むので、俺は微笑んでやった。
「つまらないからじゃないよ。大体、俺は俺が来たくてここにいるんだ。強引に誘ったわけでもないだろ、お前」
「そう、なんだけど」
無理してるのかなと思ってと言う。
「痛い思い、いっぱいしたから」
それはお前のほうだろうと俺は思う。まあ確かに子供の前で脅されたり恥をかかされたり死にかけたりと色々あったが、生きているのだから不問だろう。司祭にあった苦手意識も今日で払拭された。話せば面白そうな奴だった。
「参加したくないわけじゃない。本当に、少し休みたいんだ」
なんだろう。妙に体が――怠い。
また明日なとジュリアの頭を撫でて、俺は立ち上がった。飲み物のおかわりを注ぎ終わった助祭に声を掛ける。
「おい、小マルアハ。俺はもう寝る。客間に案内しろ」
連れて来られたのは、地下室だった。
別に珍しい構造じゃないが、司祭館や教会となるといやに陰謀めいた何かを感じてしまう。
「……なんだ、ここは」
「何って。寝室ですけど」
「それは、見ればわかるさ……」
なんてったって、寝具一つしか置いていないのだ。
他には何もない。薄暗い照明によって、浮かび上がるようにその船は鎮座している。大人が三人転がってもまだ余るような巨大なベッドである。王族御用達といった風情だ。
空気が淀んでいるせいか、気分の悪くなるにおいが残留している。
入るのを躊躇う俺の背を、後ろから助祭が押した。
「お休みにならないのですか?」
「……普通……客間ってのは、上に作るもんだろう」
「誰かを泊めるようにはできていないんですって。それに、空いた部屋は今、ジュリアが使っているんです」
「ふん。一応、人間扱いはされているんだな」
「何言ってるんですか? 人間なんだから当然でしょう」
「そうじゃなくてだな……」
物申そうとしたところ、ぐらと視界が揺れた。地震かと思ったが違うようだ。揺れているのは、俺だ。崩れかけた俺を助祭が抱きとめる。
「大丈夫ですか」
しっかりしてくださいよと、笑う顔は、とてもちぐはぐで。
俺は怖くなった。
やっぱり帰ると言うと、助祭は苦笑いした。
「どの口が言うんですか。熱が出てるようですね。雨に打たれて、体を冷やしたんでしょう。運びますよ」
俺は引きずられるようにしてベッドの上に放り込まれた。
手慣れている。
「熱い……」
酩酊しているようだ。確かに酒は飲んだが、一杯も干していない。覚束ない手つきで胸元を楽にしようとすると、温い手がそれを手伝った。
気付けば助祭に馬乗りになられている。
俺は戦慄した。
「何、してる……」
「お休みになるお手伝いです」まあ、と付け加える。「眠れるかどうかは、わかりませんけど」
そう言って、ボタンを全部外してしまった。
はだけた薄い腹を、手で押すようにして身を乗り出す。
「腑抜けた顔だ。あの子は未だ、苦しんでいるというのに」
良く通る声は言った。
朦朧とする意識の中にも、突き刺さる声だ。
「楽しそうに見えましたか。何もかも忘れて笑っているように? それは健気なあの子の気遣いによるものです。夜は魘され、泣きながら目を覚まします。時にはほんの些細な物音で錯乱してしまうことがある。触れられるようになるまで随分と時間がかかりました。半年以上経った今でも、あの子は暗闇と振動する物が嫌いです」
鼠も忌避しているようですね、と言う。
俺は愕然とした。
「PTSD……」
そんな素振り、ジュリアは微塵も感じさせなかった。けどそれは、俺が見たくないと望んでいたからだったのではないか? 本当は、その視線は震えていたのかもしれない。怯えながらも、手を握ってくれたのかもしれない。それなのに俺は、許されたような気になって? 何の気なしに、頭を撫でたりした?
「我々が大事に大事に育ててきたものを、あなたは壊したんだ。それなのに……気安く触れ、話しかける……赦せませんねえ。ええ。赦しがたいですとも」
肌の上を這う指は、まるで変温動物のように感ぜられた。
抑えつけられているわけでもないのに、体が動かない。
「す――すまなかった」
俺は口走っていた。すまない、許してくれと、何度も繰り返した。そんな俺を、助祭は醒めた目で見下ろし、ふっと口元で笑った。
「責めるべきはあなたばかりではないのです。私もまた、楽観視しすぎたんだ。もっと簡単なトラウマを負って帰ってくるかと思ったんですけど。臆病なあなたにそこまで冷徹な行動に出る勇気はないだろうと踏んでいたんです。読みが――外れた」
「――何だって?」
「あの時、私はもっと早く駆け付けることもできたんですよ」
まるで――何が起きるかわかっていたような口振りだ。
「俺を、泳がせたのか」
助祭は微笑むことでそれに応えた。
信じられない面持ちで俺は彼を見つめる。
「矛盾、してる……お前は、ジュリアが大事なんじゃないのか」
「だからこそ静観したんです。なぜだかわかります? うふふ……生き贄として捧げられた子羊が、逃げ出そうとした時、神はどうするでしょう――試すのです。誕生を待ち望んだ息子を殺せと命じるのです。そうして、その信仰心が偽りないものか量るのです。ですが、所詮は真似事でした。父のように万事上手くは事を運べなかった」
あなたがなぜ失敗したかわかりますか、とそいつは訊く。
俺は答えられない。
「何の、ことだか……」
「洗脳ですよ。あなたの敗因は、待てなかったことだ。洗脳とは、解放した相手が自らこちらの腕の中に飛び込んできた時にこそ、完成したと言えるのです。あの子はあなたの屋敷に閉じ込められる間、こう願ったはずだ。帰りたい――と。例えば、仕事で何日も忙しい日が続いたり、馬の合わない人間と顔を突き合わせなければならないような時、あなたはこう思うのではないですか? ああ、早く家に帰りたいってね。そう。帰るべき場所とは、巣であるはずなのです。あの時、あの子は強く祈った。イェシュアに帰りたい。その瞬間、この場所は、あの子にとっての家になったんですよ」
これで安心です。助祭は頬を綻ばせた。
「聡明で貪欲なあの子は、外への刺激に憧れを抱いていた。そろそろ巣立ちの時が来るでしょう。だが必ず戻ってくる。渡り鳥が同じ場所に巣を作るように」
「化けの皮が剥がれたな」俺は手の平に爪を喰いこませながら、重い瞼をなんとか押し上げて、反駁してみせる。「一番狂っていたのはお前だったってことだ」
助祭は悲しそうな顔をして、いいえと首を振った。
「最たる狂人は、あの青年です」
「何?」
「ハウエル……最も効果的な方法で爪痕を遺していった男。してやられました。この、私が。思えば挑戦的な目をしたものでした。まるでお前にはできないことをしてみせると言っているようだった。そして、その通りになった。ジュリアはもうあいつを忘れることができない。一生。いや――永遠にだ」
「ハウエルって誰だ」
「あんたの身代わりになった男ですよ!」
助祭が噛み付くように叫んだ。
目前に迫る鬼のような形相に俺は身震いする。
「本当、何にも知らないんだから。人一人犠牲にしておいてよくもまあ呑気に息が吸えるものですねえ。厚かましいったらない。己の命に付加された価値にも気付かず、のうのうと生きている。ええはい、まあみんなそんなものです。自分が愚かだからといって落ち込むことはない。そんなあなたに朗報です。私が、この身を賭して、教えて差し上げましょう。本当の狂気というものを」
これから貴方に同じことをします。
と、助祭は言った。
「同じ、こと……?」
「そうです。貴方がジュリアに見せた世界を、私が貴方にも味わわせて差し上げます。まさか忘れてしまったなんてことないでしょう? 私、まだあなたの頭は弄ってませんし」
胸元を撫でる手。怖気が走った。俺は力の入らない腕でそれを遮る。
「よ――よせ、触るな」
「よさなかったでしょう」助祭は抑揚をなくした。「貴方は。触らないでと言われても触れたでしょう。やめてと言ってもやめなかったでしょう? ご安心ください。せっかく拾われた命だ。無駄にはしません。有効に活用しようじゃありませんか。惜しむらくは、時間が限られていることですね。なにせ一晩しかありませんから。そこは私の腕にお任せいただければと。あの子が幾日もかけて練り上げた恐怖を、今夜、耳を揃えてお返し致します」
ごめんなさいねと、天使の皮を被った悪魔は言った。
「これは意趣返しなんです。向ける相手のいなくなった、憎悪、嫉妬の矛先を、私は貴方に転嫁しています。しかし、倒錯と復讐は人間の専売特許ですから……さる復讐鬼は男の中の男とまで呼ばれたそうじゃありませんか……ふふ。男たるもの、愛する人を穢されて黙ってはいられませんでしょう? 可哀想ですが貴方には礎となっていただきます。私が、より、人間らしくあるための」
俺はようやく気付いた。
これは酩酊ではない。風邪でもない。
薬だ。
――盛られた。
「さあ、夜も更け、天もお鎮まりになりました――辱めのお時間です☆」
神様、と俺は口の中で祈ったけれど。
満ち満ちた暗黒が、それを掻き消した。
目覚めると、異様に体が重かった。新鮮な空気を求め、とにもかくにも俺は寝かされていた部屋を出た。
ふらつきながら居間に辿り着くと、ジュリアが紅茶を淹れていた。
おはよう、と綺麗に笑う。
「そろそろ起きてくると思ったんだ」
「……俺は……」
思い返そうとすると頭が痛む。なんだか記憶が曖昧だ。
「いつ、寝たんだ」
「十時くらいかなあ。そうだ、体調はどう? お仕事忙しいのに、無理して来てくれたんでしょう。疲れちゃったみたいだったから、それで先に休んだんだよ」
「ああ……そう、だったかな」
みんなはと訊くと、昨日のうちに帰ったよと答えた。
「顔色悪いよ。座って?」
テレビの前の長ソファまで手を引かれる。雪崩れ込むように座った。テレビを点けるかと言うので、断った。
「はい」
渡されたカップを包むように持った。いくらか冷まされていて、飲みやすかった。少しだけ目の奥がクリアになる。
あのねあのねと、隣に座る息子は身を乗り出した。
「薦めてもらった本、読んだよ。とっても面白かった。古典もいいねえ、長くて重厚で、すごい満足感がある。それでねそれでね、俺も、お礼におすすめしようと思ってね。エハヴ様も、これならあなたも満足するだろうってね、言う本があってね、良ければ持っていく? いつ返してくれてもいいから……」
俺は小さく笑った。
「カフカとか言うなよ」
「言わないよお。おじさん、もう大体読んでるでしょ、有名なのもそうじゃないのも。絶版の宗教学の本でね、聖典を綴った人物の背景から研究してて――」
瞳がきらきらと輝いている。趣味のことになると口が回るようになるのは、シュルズベリー家の血筋の証だ。美しい眦はあの子を彷彿とさせる。慧敏な眼差し。それでいてよく動く表情。
マリアの残してくれたもの。
今度こそ、俺は――守らなければ。
頭がちりと痛んだ。何かとてつもなく重要なことを忘れている気がする。焦燥ともとれる奇妙な感覚がせり上がってくる。
なぜだかわからないが、逃げなければと思った。俺はジュリアの腕を取って、唐突に言葉を失った。
その時だ。
居間に男が入ってきた。金色の髪が目に眩しくて苛々する。
イッシュ助祭である。
「おや。起きていらっしゃいましたか。朝一で干しておいた洗濯物が乾いたので、渡しに行こうと思っていたところです」
俺は男を見つめた。一瞬、その琥珀色の瞳が、爬虫類のように尖る幻覚を見た。
片足がない。
木で組んだ杖で左半身を支えている。
「おい……お前……足、どうした……」
え、とそいつは素っ頓狂に驚いて、それから人懐っこく笑った。
「ああ、これですか? ご心配なく。すぐに生えてきますから」
俺は何も言えなかった。
考えこそすれ、訊くのは憚られた。
誰も何も言わないからだ。
暴くのは恐ろしい。
気付いてしまえば、もう何も知らなかった頃には戻れない。
俺は本当に俺のままなのか。
俺として生まれただけの、俺とは別の生き物なのではないか。
俺は沼男か。
どうだ。
判断してくれる人はどこにもいない。
かつては賑やかだったこの屋敷にも、もう――俺一人だ。
誕生日会があるの、と電話がかかってきたのは、初雪の、それも珍しく五センチも積もった日のことだった。
そうか、君は冬に生まれたのかと、透き通った緑の瞳を思い出す。
似ている似ていると言われるが、君の目つきのほうがよほど柔らかいし、形も優しい。だから、並んで人前に出るのは本当に勘弁だ。適当に一括りにする発言が耳に入ろうものなら、どんな悪口雑言がこの口から飛び出るか、自分でもわからない。
忙しいとだけ言い放って、俺は仮称甥からの電話を切った。切ってから、少しだけ後悔した。日時は来月の第二金曜日だそうだ。二月の半ばである。余裕をもって誘ってきた辺り、こちらが年始で忙しないのは見越していたようだ。もっと言い方があったかもしれないと、小指の先ばかり考える。
誕生日、か。
十九になるのか。
初参加が十九回目とは、なんともまあ、薄情なことだろう。
いや――俺は頭を振る。仕事に戻ろう。くだらない思考に時間を費やした。机に戻って腰を落ち着けて、万年筆を持ったはいいが、何を書けばいいかわからない。変に集中力が削がれてしまった。気分転換でもするかと、俺は三階に上がった。
しばらく封じていた部屋の鍵を開ける。
当たり前だが中の空気は冷え切っていて、長らく人の手が入っていないものだから、うっすらと埃が積もっていた。酷いものである。許しがたい。控室でのんびりしている家政婦を呼びつけようとも思ったが、なんとなく、ここには他の誰も入れたくなかった。
これを機に、改めて――。
遺品を整理するのもいいかもしれない。
そのついでにまあ、形見の一つや二つ出てきたら、捨てるのも縁起が悪いし、押し付けてやってもいいだろう。俺は持ち帰りの仕事は諦めて、掃除道具を探しに行った。
年を取ると時間の流れが速くなるらしい。
一般論だ。学ぶべきことが多い少年青年時代に比べて、段々と真新しいことが減っていくからという論である。加えて学習機能も衰えていく。減少する一方の脳細胞の代わりに各分野の結合が強くなり、涙脆くなったり突然の出来事にも動じなくなったりする。
ところが、俺はあまり変わらない。
少なくとも自覚はない。
醒めているのは幼少の頃からだ。俺は容易く信じることのできない世界で育った。それが本当か幻か、常に見極めねばならなかった。第三者的視点はどうしたって鍛えられた。一歩引いて物事を見る癖がついた。疑うよりも先に、受け流す他なかった。そうしてこの俺が出来上がった。かなり早い段階で、俺は俺になっていたように思う。
物心がつく瞬間と言うのは本当にある。
真我が芽生えたその時、俺達は自分というものを得るのだ。
誰しも最初の記憶を持っているだろう。
捏造されていようが思い込みだろうが何だって構わない。それが自分の始まりだと思える、一番初めの記憶。何も羊水の中に戻れというのじゃない。一、二歳児の頃の記憶がないのは当然のことだ。
俺にとっては、“綺麗”がそれだ。
隣で眠る少女の寝顔を見て、ふいに覚えた感情。
――綺麗だな。
そう思った。
あの時、俺は始まったのだ。そうして、停滞した。長いこと。最愛の女性を喪って、俺は進化も変化も拒絶した。
身体が衰えても内面が成長しないのは、きっとそのせいなのだろう。
他人を欺く術ばかり会得して。面白くもないのに笑うのが上手くなって。
心は空っぽのまま。
今に至るというわけだ。
そんな俺が、どうしたことだろう。ろくな報酬も期待できないのに、こんな辺鄙な土地まで遠路はるばるバイクを走らせている。なんだってこんな地図の端っこに居を構えるものかと考える。布巾一つ買うのだって車を出さなけりゃならないだろう。俺には雇いの家政婦がいるが、向こうはそうもいかないはずだ。ライフラインが整備されているだけマシだが、ムショ暮らしのほうがまだ利便性は高そうだ。
果たして神に帰依したはずの奴らは、大した仕事をしているのだろうか。こんな田舎じゃ教区も何もないように思える。ちょっと移動すれば港町には立派な聖堂があるし、わざわざこんな寂れた場所に祈りにきても、天に届けてくれるかどうか怪しい。訓戒を垂れることばかりは得意そうな司祭の、教訓でこそあれ生きていくのには必要ない説教を、聞きに来る物好きもいないだろう。興味が惹かれないといえば嘘になるが、色々あって気まずいから聴衆に紛れるならまだしも一対一に持ち込まれたらトラウマで精神が死ぬ。
雨まで降ってきやがった。
引き返すなら今だと言われている気がする。
仕事を早退して馬鹿みたいにバイクで走り、それでも開始時刻には間に合わなかった。約束の十八時はとうに過ぎている。こんなことなら迎えを寄越させれば良かった。列車は嫌いだから端から選択肢にはない。
やがて見覚えのある木立の流れに呑み込まれる。
森に差し掛かれば、目的地はすぐそこだ。
こう静かでは兎の鳴き声だって風に乗るだろう。駆動音で気付かれるのも面白くないから、途中でバイクから降りて、押していった。
ますます馬鹿らしい。
それなりに賢いと自負していた俺だが、今ばかりは自信がない。
雨脚が強くなってきた。
すぐにはやまなそうだ。
天気の変わりやすい国だから、多少濡れるのくらいは気にしちゃいられない。鞄さえ無事ならそれで良かった。サドルの中にまで染み込むほどの大雨でもない。
歩いていると、すっと空気の冷える瞬間があった。
俺はこの手の雰囲気が苦手だ。信仰の持つ厳格さは、俺の神経を逆撫でする。口やかましく言う奴ほど、裏では下衆な蛮行に励んでいるのを俺は身を以て知っているのだ。
それとも、と思う。
案外、罠でも仕掛けられているのかもしれない。
この教会は、ちょっとばかしずれた奴らが潜んでいるからだ。
自然に溶け込むようにして、ひっそりと佇むその建物。どこぞの民話のお菓子の家を想起させる。訪ねるわけでも、招かれるわけでもない。迷い込む――その表現が、一番しっくりくる場所。
噂の司祭館はこの裏手を進んだところにある。
獣道に見えるが、きちんと整備されている。
なんとなく俺はバイクを止めて、なんとなく教会の中へと足を向けた。ヘルメットをハンドルにおざなりに引っ掛けて、庇の下まで潜り込むと、濡れたレザーを脱ぎ、中に入った。
体がだいぶ冷えている。堂内も案の定、冷え切っていた。誰もいない。けれど、鍵は開いている。不用心なことだ。
長椅子に腰掛け、しばらくぼーっとした。
暗がりに沈む十字架を、何をすることもなく眺めた。
心洗われるというが、まさしくそんな感じであった。
祈ってみようかと思ったが、祝詞すらも思い浮かばなくて。
――帰るか。
気が済んでしまったのだった。一つをやり遂げたような充足感がある。これじゃ校門まで辿り着いて引き返す不登校児と一緒だ。頑なな児童と一つ違うとすれば、だから何だっていうんだと言い返すだけの高慢さを俺は持ち合わせているということだ。ここまで足を運んでやっただけいいだろう。何で来てくれなかったのと詰られても、ほとんど行ったも同然だと言い返せるし。
――それに。
俺みたいなのが途中から参加したって、皆で作り上げた空気を壊すだけだろう。俺は自分が変わり種であることを理解している。だからといって、気を遣って馴染ませるのも阿保らしい。
腰を上げると同時に、雷鳴が轟いた。
意外と近くである。気付けば外は土砂降りだ。豪雨と言って差し支えない雨量と暴風である。最悪だと吐き捨てて、俺はレザーを羽織り、教会を出た。ヘルメットを取り上げる時、指が滑って泥濘に落っことした。無性に腹が立って蹴っ飛ばす。どうせ取りに行くのはわかってる。わかっててもままならないのが人生だ。
ところがである。
「――犬?」
毛足の長い大型犬が、雨にも負けず風にも負けず、雄々しく駆けていって、ヘルメットに齧りついた。散々っぱら転がした挙句、ベルトに齧りつく。許しがたい所業である。小柄な狼サイズだが濡れそぼってしまえばただの痩せ犬だ。何してると怒鳴りつけようとしたところ、
犬畜生は猛然とこちらに駆けてきた。
文武両道を謳ってきた俺も、さすがに反応できなかった。
「なんだ、お前。おい、よせ、来るな、おい!」
俺のヘルメットはフリスビーでも骨っ子でもないぞ!
人語を主張したところで獣に通じるはずもない。所詮、本能の前では理性など紙くずに等しい。どれだけ節制を誓ったって、あ、これいけるぞと思えば人間は目の前の餌に飛びつく生き物だ。大脳新皮質を獲得した人類がその有様なのだから、辺縁系止まりの動物に自制など働くわけもない。
超質量に飛びかかられ、自転車に轢かれたくらいの勢いで俺は吹っ飛んだ。
どす黒い雲と、稲光が見えた。ヘルメットを放り出したわんころは、俺の頬を舐めくさる。おかげで小さな雨宿りにはなったが、唾液塗れなのでむしろ状態は悪化している。
何もかも諦めた脳髄に、こらーと叫ぶ声が沁み渡った。
「だめだろ、ガーリィ! 勝手に出たりしたら!」
青い合羽を着た青年が現れる。子供に見えるがこれで成人しているというのだから詐欺に近い。おまけにぱっと見では性別の判別が不能だ。
一番見られたくない相手にあられもない姿を目撃されてしまった。俺は天に向かって中指を立てた。本当、覚えてろよ、神とやら。迂闊にも俺の前に姿を現してみろ。人間だって一矢報いることができるのだと教えてやる。
「お――おじさん?」
「……」
「来てくれたの!? う、嬉しい、やったあ」
嬉しい嬉しいと繰り返しながら、犬と一緒になって群がってくる甥っ子くん(仮)。
しつこく舐る舌を押しのけながら、俺は言った。
「いいから、こいつをどかしてくれ……」
泥まみれのまま玄関を潜るのは憚られた。裏口から案内してもらい、そのまま風呂場へと直行する。ちなみにあれだけ汚れたはずの犬はいつの間にか綺麗になっていて、薄汚い俺を横目に何食わぬ顔で二階へと上がっていった。ざっとシャワーを浴びて廊下に出ると、運ばせた鞄と畳まれた着替えが床に置いてあった。着てきた服は洗濯を頼んである、つまりは――。丁寧にアイロン掛けされたシャツとスラックスを身に着けて俺は複雑な面持ちになる。持ち主についてはあまり考えたくはない。まあ、体格の近さから鑑みて、十中八九、あの聖職者兼学者兼人でなし野郎だろうが。意外といいもん着てやがると俺は一人悪態を吐いた。鏡に向かって喋る癖は外では出さないほうがいいだろうか。
廊下に出て、和気藹々とした空気を目指して歩いた。
扉を開けると居間に出た。
おい、と俺はぶっきらぼうに声を掛ける。
「ドライヤーどこだ」
中央のテーブルを囲んで、六人ほどがひしめき合っている。誕生会だというのになんともまあ倹しいものだと思う。見たことない顔がいくつかある。鳥っぽい奴とかいやに顔の良い王子様然とした奴とか。大勢の視線に晒されたものの、まあ負けじと劣らず眉目秀麗の俺が何を引け目に思う必要もないので、掻き上げた髪の富士額を存分に見せつけてやるべく、斜に構えて見せたわけだが。
「ヨシュア!」
真っ先に立ち上がったのはシェイマスである。両腕を広げて熊みたいな巨体を近付けて来る。「何だお前、遅かったじゃないか。来ないのかと思ったぞ」
背中ばんばんだ。こいつは会うといつもそう。
「仕事が長引いたんだよ」時間配分をミスしたなんて口が裂けても言えない。
「まあ何にせよ、良かったよ。元気そうじゃないか。ん? 雨の中、駆け付けるなんて、いやに熱心じゃないか。可愛い甥っ子のためだものなあ」
「うるさいよ。声でかいんだから自重しろ」
「ままま、座れよ。特別にジュリアの横を譲ってやる」
「はあ?」俺はむさくるしい腕を除けようと四苦八苦する。「いいよ。俺は髪乾かすもの借りに来ただけで、」
「いいからいいから。ほら。大丈夫だセットしたみたいだぞ」
「あのな」
呆れて物も言えないまま、強引に体を持っていかれた。
「機嫌が良いじゃないか。もう出来上がってるのか?」
「いんや」
旧友は口をへの字に曲げた。こいつはほんとすぐ顔に出る。
「今、酒は控えてるんだ」
「お前があ?」信じられない。「なんだ、奥方に小言でも言われたか」
「いやなあ。それがな」
「なんだよ。勿体ぶるなって」
おれは覚えがないんだがと言う。
「半年くらい前かな。もうちょっと前かもしれない。酒瓶持って道路で眠りこけてたことがあってよ。それからちょっとばかし自戒してるのさ。不思議だよなあ。その日は何の予定もなかったはずなんだが……」
どうにも記憶が曖昧でと、シェイマスは首を捻った。
半年程前。
極めつけに、曖昧模糊とした――記憶。
俺は思わず聖職者どもを見やった。
司祭のほうは何でもなさそうにしているが、助祭のほうは目が合うや否やあからさまに顔を逸らしやがる。
――何かしたな。
シェイマスの記憶の欠落には気付いている。とある事件で入院した俺の元に見舞いに来たこの男は、俺の告白の一切を覚えていなかったのだ。おかげで余計な口を滑らせそうになった。いつの間にか自死に失敗したことになっているし。いや、事実、死にぞこないではあるのだが。
節制を美徳とするシェイマスが、酒に溺れるとは考えられない。酒は好きだしやめられないようだが、呑まれた姿は一度も見たことがない。それが酔っ払って道路で大の字になって一夜を明かしただと? いやまあそこまで詳細に描写されちゃいないが、なんとなく想像できたのだ。
典型的だからだ。
イェシュア教会の司祭と助祭が人ならざるものであることは聞き及んでいる。さる人物からの情報である。今となってはあまり思い出したくない話だが、俺の明晰な頭脳ではそうもいかない。
あの、騒ぎの後、おそらく何らかの方法で意識を操作して――適当にその辺に捨てたのだ。
雑過ぎだろ。
俺ならとことんまで疑問を抱いてる。大雑把なこの男だからこそ通用した荒業だ。
とはいえ、俺も自身の問題から目を逸らしていることは確かだ。これは――いい機会なのかもしれない。思い切って問い質してみるのはありだ。勿論、人目は憚らねばならないが、頼めば司祭のほうは無下には扱わないだろう。多少の時間は作ってくれると予想する。
俺は一度死んで、生き返ったのか?
それとも、死の間際で引き戻されたのか?
両者は似ているようで異なる。もし前者だった場合――やはり俺は苦しまねばならない。
果たして俺は連続しているのか?
ここにいる俺は、死ぬ前の俺と同一の存在なのか――?
ふと視線を感じて目を上げると、例の金髪王子が俺とジュリアの間に立ってこちらを見つめていた。
真っ直ぐすぎる眼差しに恐怖すら感じる。
ジュリアくん、と王子は呼んだ。
「この方は?」
「あ、お――おじさんです。俺の」
一睨みきかせると、ジュリアは慌てて言い繕った。
それはそれはと王子はなぜか顔を綻ばせ、
「わたくし、ラジエル・マルアハと申します。イッシュやエハヴ殿と同じく、聖職に従事しております。以降、お見知りおきを」
「ああ、どうも。ヨシュア・シュルズベリーです」
偉い空気を感じ取ったので、俺は慇懃に応じた。
差し出された手を握る。
冷たかった。
すると男は整った容貌をずいと突き出して、
「友達の友達は友達と伺いました」
「は?」
虚を突かれた俺は気の利いた返しもできずに呆けた。
「というわけで我々は友達です。よろしいか?」
「はあ……」
なんだよこいつ。
相手の都合を鑑みない暴論だ。友達の友達を介していけば地球の裏側まで到達できるかなチャレンジでもしているのか。そんな。ネット掲示板のネタ集めじゃあるまいし……昨今、普及し始めたインターネットにのめり込み気味の俺である。
兄さん兄さんと、飲み物を渡しに来た助祭が困ったふうに諫めた。
「普通に友人になればいいんですよ。縁はここで結ばれているのです」
「なるほど。そう言われてみれば、そう思えます」
はははははと笑い合う。その無機質なやり取りを俺は引き気味で眺めている。助祭の兄というからには、こいつもやっぱり只物ではないのだろう。人外どもの纏う空気は意外とわかりやすい。なぜどいつもこいつも違和感を覚えないのか俺からしてみれば謎だ。マネキンが喋っているような違和感。
司祭のほうはまあ、まだ柔軟性があるというか、人間味を獲得しているように思える。
――こいつらほんとに人じゃないんだな。
改めて考えてみると――恐ろしい会合だ、ここは。狼の群れに放り込まれた羊の気持ちを、この歳になって理解できるとは。ろくな奴がいないのか、ジュリアの周りには。
大丈夫なのか、こんな環境で。
満たされては、いるようだが――。
俺は助祭の持ってきたグラスを少し呷った。かっと胃が熱くなる。
一通り自己紹介をすませると、またやいのやいのと各々で盛り上がり始めて、寄る辺ない俺はふんぞり返ってテーブルの木目を数えたりしていたのだが、隣のジュリアがあれ食べてこれ食べてと皿に食い物を載せてくるものだから、まあ毒味程度はしてやろうかと一口貰ってやった。
うまかった。
何か悔しい。
どう、とジュリアが恥ずかしそうに訊く。
「イッシュ様と一緒に作ったんだ」
うまいもんだと――一言くれてやれば、こいつは素直に頬を綻ばせるのだろう。しかし、その顔を見るためには、羞恥という名の障害物を力づくで捻じ伏せる努力をしなければならない。こいつはなかなか手強くて、俺はいつも、根負けしてしまうのだ。
今回もそうだった。
うんまあ、なんて捻りのない答えを返す。
それでもジュリアは嬉しそうにして、俺の世話を焼いた。悪い気分ではなかった。
案外、後を引かないものだなと。
俺は楽観した。今ではどうかしていると思うが、俺はこいつに、かなり思い切った仕打ちをしているのだ。顔も見たくないと蔑まれて当然の行為に走った。それなのに、気楽そうに見舞いなんか来やがって、容易く――俺の越えられなかった壁を越えて見せる。
それとも大したことではなかったのだろうか。
ここの聖職者は変態揃いのようだから、俺程度の所業など、痛くも痒くもなかったのかもしれない。暗闇に閉じ込めたのは非人道的行為に過ぎたと反省している。なんてったって自我の崩壊を促したのだ。無気力症候群も狙った。ああ――やはりそう簡単に許せるものじゃないはずだ。
それともそれほどまでに飢えているのだろうか。
恐怖を簡単に捻じ伏せられるほど――家族というものに?
「おじさん、どうかした?」
あどけない眼差し。
だがこいつはこいつなりに、物事を考えている。
向けられる欲望に唯々諾々と従うだけの人形ではない。
不思議なものだ。命というのは。男女の遺伝子が混じり合い、ポップコーンが膨らむみたいにぽこぽこ成長して、気付けば一個の意志を獲得しているなんて。
これは確かに俺の一部から派生した分身のはずなのに、俺の思う通りには動かず、俺の知らない言葉を喋ったりする。
新鮮だ。そしてそれが――楽しい。
楽しかった。
今更、自覚するなんて愚かなことだが。求めるのに遅いことはないと、俺は教わったから。
肉付きの柔らかい頬を両手で摘まんで、横に引っ張った。甥もどきは本気で困惑しているようで、うにゃうにゃ言いながら目を瞬かせる。俺はほとんど無表情でそれを眺めている。傍から見たら異様な光景だろう。疲れているのと訊かれたらはいそうですと答えるしかない。
生きているのだと実感した。
物を喰い、物を考え、物を作る、生きた人間。
――生まれてきてくれてありがとうを伝えるための、この場に相応しい表現があるけれど。
口にする勇気は――なかった。
「しっかし、よく似てますねえ、お二人さん」
向かいに腰掛ける鳥顔が感心するように言った。申し訳ないが興味がなさすぎて名前を聞いていなかった。
「親戚ってよりは親子っすね」
「――――……」
空気が凍った。
何も知らない奴らだけが視線を右往左往させる。
「あ、あれ? おれ、なんか変なこと言いました?」
「いやあ、とんでもないですよ。わたしも思っていたんです、このところ益々似てきたなと」
こりゃ誤魔化せるのも時間の問題かなと俺は思い始める。眼鏡に独自の色を重ねまくるシェイマスでさえ違和を覚えるのだから相当だ。
どう切り抜けるかと思考を巡らせていると、呑気な調子でジュリアが小首を傾げた。
「そんなに似てるかなあ」
お前まで乗っかるのかよと俺は内心舌打ちする。早いところ切り上げるべきだろこういう話題は。それとも危機感がないのか。やはりまだガキだなと侮ってみたが――どうもそうではないらしい。
「おじさん、かっこいいもん。ねえ?」
なるほどその路線かと、俺は誘いに応じた。こいつ、天然を装うとはなかなか嘘吐きの素質がある。
当然だな、と俺は眉を上げた。「俺だぞ」
「俺もおじさんみたいになれる?」
「お前が? はは、無理だろ。そんな、女みたいな顔して」
酷いと自称甥っ子は喚いた。
「気にしてるのに!」
「そうなのか? てっきり、売りにしているんだと思ったが」
苦笑や笑いがぽつぽつと湧いた。よしまずまずの流れだこのまま当たり障りのない話題に移行してと、考えていた矢先、
「なれますね」
と、マルアハが薄味に言った。
俺は怪訝な顔をする。「どういう意味だ?」
「ジュリアくんです。もう三年もすれば、かなり女性性が抜けるかと」
男の――膝の上には。一冊の書物が置いてある。ページの丁度半分辺りを開いて、何やら細かく記された文字を読んでいる。覗いてみようとしたが、文字が書いてあるのはわかるのに、モザイクがかかったように読み取れない。
俺の血の気は失せた。
気付いてしまったからだ。
人でないもの。
七大天使の名を冠した男の、イコン――。
「セファー・ラジエールか!」
俺はつい椅子を蹴倒して立ち上がってしまった。
「あ、あなたは、まさかそんな」
「お、おじさん?」
「お、お前、よくそんな平然としていられるな。何ですぐに気付かなかったんだ、俺はおおぼけか」
「落ち着け、子爵」
ぞんざいな口調で戒めたのは例の司祭である。俺の狼狽にきょとんとする皆と違って、奴だけは白けた顔をしている。
「神秘とは騒ぎ立てていいものではない」
「そう……かも、しれないが」
無暗やたらに神秘の書を開くのはどうなんだ。
めちゃめちゃくだらないことに使ってないか、こいつ。
ラジエルの書とは、この世全ての知識、秘儀が記されているという書のことである。楽園を追放された原初の男に与えられたが、紆余曲折を経て最後にはソロモン王の手に渡ったとされる。預言書の機能があるとは伝えられていないが、こいつら人外に時間の概念がないとすれば、全ての中に未来が含まれている可能性は十分にある。
司祭は神の人の血を飲み干すと、まるで教師のような顔をして、言った。
「識らない振りというのも賢さのうちだぞ。あなたはこの場の誰よりもそれを知っているだろう。なあ――沼男」
俺は唖然として立ち尽くした。
今――今、こいつ。
俺を、スワンプマンだと。
「今、何て言った」
机も人も迂回して詰め寄った。おい喧嘩はよせよと野次が聞こえるが気にしない。司祭のほうも両手を見せて苦笑している。
「冗談に決まっているだろう。祝いの席だぞ、そう目くじらを立てるな」
「ち――違うんだ」ちがう、と俺は馬鹿みたいに繰り返す。「かんに障ったわけじゃない。むしろ恥を忍んで教えを乞うているんだ。お、俺は、やっぱり――」
雷鳴が轟いた。
俺は、今まさに沼から這い出たような気になった。
死んだ男寸分違わぬその人間は、果たして死んだ男そのものなのだろうか。
「俺は――」
しかし、その先は続かなかった。この場でするべき話じゃないということは、なんにせよ明白だった。俺は一度死んだのかなど言い出しては、また病院送りにされてしまう。頭の悪いカウンセラーの相手をするのはもう疲れた。奴らは自分の引き出したい情報しか耳に入れない。
言い淀む俺を見て、司祭は得心したようだった。
そうか、むしろ逆なのかと言う。
「君は何も知らないんだな」
悪寒が走った。
それはもう、今にも卒倒しそうな顔色をしていたに違いない。司祭は幾らか表情を和らげて、丸い声で言った。
「さっきのは揶揄だ。すまなかったよ、気にするんじゃない」
「つまり――」
「ああ。君のそれは、思考実験ではなく、奇跡だよ」
「き、奇跡?」
救世主は磔にされて死んだ後、三日後に復活を果たしたという。
俺の二度目の生は。
復活?
いや――そうじゃないと思い直す。昨今の研究によれば、救世主は失神状態だったという推測がなされている。気を失って、三日後に目を覚ましたのだ。それならば――地続きか。
この男がその手の話題に暗いはずがない。
急に肩が軽くなった気がした。
荷というのは下りる時は簡単に下りるものだと思う。
ぼんやりしていると、痺れを切らしたシェイマスが横槍を入れてくる。
「なあ、さっきから何の話をしているんだ? 今じゃなきゃダメなのか?」
「駄目だ。哲学というのはそういうものだ」
「あーそうかい。じゃ、学者さん達はそっちで議論でもしてろよ。よしジュリア、こっちにおいで。昔話をしてあげよう。ヨシュアの恥ずかしい話も聞かせてやるぞ」
司祭に空いている椅子を勧められて、俺は腰を下ろした。
こうして向かい合ってみると、なんてことはない。あの時、感じた畏怖も、恐怖も、湧いてきやしない。背は高いが体格は弱く、痩せている。
普通の人間に見える。
助祭やその兄貴とは、この人は何かが違った。
「……謝りたいと思っていたんだ。あなたには」
俺が言うと、司祭は体を斜めにし、右の眉を上げた。
「君が、オレに? 見違えたな、殊勝なことだ。よほどカウンセリングの効果があったらしい」
「それ本気で言ってるのか?」
俺達は忍び笑う。
「よく来たな」
俺は肩を竦める。「実は前もって準備をしていたんだが。思ったより遠かったんだ」
「はは。なんだそうか。ジュリアに言ってやれよ。喜ぶぞ」
「別に喜ばせに来たわけじゃない」
「そうだな。これは祝福の儀だ。見返りは必要ない」
俺は一拍置いて、早口に言った。
「なあ。俺に口を挟む権利があるとは思わない。だが、他に頼める相手もいない。あいつのことだ。泣かせても怒らせても構わない。幸福かどうかは奴が決めることだしな。ただ――裏切らないでやってくれ。もう二度とだ。いいか。頼んだぞ。頼んだからな」
司祭は空のグラスを掲げ、
「神に誓って」
と、受諾した。
その時、電話のベルが鳴った。居間に据え置いているものだ。はいはいと受話器を取りにいった助祭が、俺のほうを振り返る。
「シュルズベリー子爵宛てだそうですが」
「すまん。仕事の電話だ」
俺は席を辞して、助祭から受話器を奪い取った。
「お電話代わりました、シュルズベリーです。ああどうもオケリー夫人、こんばんは。いえ、お手数お掛けして申し訳ありません。今、親戚の家に滞在しているものですから。私宛てに電話があればこちらを紹介するようにと、召使いに言いつけておいたんです。いいえぇ、平気です。ただ様子を見に来ただけですから。それほど大層な用事では。ええはい」
取引先の社長の奥方である。家族ぐるみで俺を気に入っているらしく、プライベートも食事の誘いを掛けてくる。意地でも体は売らないが、この程度のコミュニケーションならお安い御用だ。信頼を勝ち取るためなら努力は惜しまない。
案の定、今週都合の良い日はないかと訊いてくる。ついでに旦那のほうが来月の仕事の相談をしたいと言う。俺は愛想よく相槌を打ちながら、スケジュールを確認しようとして、鞄がないことに気付いた。
しまった、風呂場の前に置き去りだ。
少々お待ちをと断り、俺は受話器の口を塞いで、小姓を呼びつける。
「ジュリア!」
「なあに」
ぴょこんと跳ねて、甥に当たるらしい青年は小走りで駆け寄ってきた。
「鞄だ。取ってこい。風呂場の前だ」
「えー」
「えーじゃない、行け」
暫定甥っ子くんは頬を膨らませながら居間を出て行った。俺はその間、雑談で間を誤魔化す。戻ってきたそいつに鞄を床に置くよう促し、電話コードを最大限まで伸ばしながら、俺は鞄の中を漁った。
「そうだ、お体の調子はその後いかがですか。そうですか、良かった。歩けなくなるとどうしても足腰が弱りますからね。どうです、気分転換にご旅行など行かれては。ええ、勿論。御伴させていただきますとも。はい、はい」
あれも違うこれも違うで、ぽいぽい中身を床に放りまくった。一刻も早く切り上げたいところである。なぜなら助祭がすぐ横で聞き耳を立てているからだ。
何してんだよ、こいつ。
物珍しそうに俺を見下げやがる。
「――なるほど、でしたら明後日はいかがでしょうか。ええ、かしこまりました、では十七時にお伺い致します。私などでよろしければ、御相伴に与らせていただきます。いつもありがとうございます。いえ、迎えは結構ですよ。自分で車を出しますので。はい、はい。明後日はよろしくお願い致します。はい、どうも。失礼します」
音を立てないように受話器を置いた。
助祭と目が合う。
「……なんだ、さっきっから」
「それ、どういう仕組みですか?」
「はあ?」
「声は笑顔なのに顔はまるで笑っていなかったので」
「対面していないのになぜ顔を作る必要が?」
汚物でも踏んだような顔をされた。困るなあ、そういうのと言う。申し訳ないがお前にだけは非難されたくない。
「あの――これ」
と、ジュリアが俺の袖を引いた。
小包を手に立っている。焦げ茶色の包装紙で、一分の隙もなく梱包されている。当然だ、俺が手ずから仕上げたのだから。リボンがちょっとよれてるのが気になるが、まあ及第点だろう。貰ったら嬉しいに違いない。
問題はなぜ渡す前にそいつがそれを持っているのかだ。
俺、顔面蒼白である。
「か――返せ!」
適当に放り出した鞄の中身から拾い当てたのだろう。ひったくろうとすると、生意気にもジュリアは避けた。
俺達は奇妙な姿勢のまま睨み合う。
「……何のつもりだ」
「これ、プレゼントでしょ」
厚かましくもそう宣言しやがる。効果は抜群だ。俺はわざとらしいくらい口ごもった。
「な、何を」
「俺に持ってきてくれたんでしょ?」
悪戯っぽく笑う。
可愛いと少しでも思ってしまった自分に――。
「腹が立つ!」
「な、なに?」
「うるさいお前には関係ない返せ!」
「やだ!」
「こんの、くそガキがぁ……っ」
きゃーと叫びながらテーブルを回り込む。当然、俺は追うが、これがなかなかにすばしっこい。軽く部屋を三周した辺りで俺の息が上がった。平然としている綺麗な面が恨めしい。
シェイマスが笑いながら言った。
「ジュリア、あまりいじめてやるな。そいつ来年で四十だから」
「お前も、だろうが……」
息も絶え絶えである。デスクワークの運動不足ぶりを舐めないでほしい。
「今に見てろよ……俺の手を煩わせたこと、後悔させてやるからな……」
「あなたって、結構典型的ですよね」
「お前は埒外だ、糞見習い」
「助祭だって立派な聖職ですよ。僕はこの不精に代わって色々やってますし」
「オレに飛び火したか?」
「うふふふふ」
「なああんた、近くで見ると男前だなあ。娘に面食いがいるんだが一人どうだ?」
「いやあ、人間の女の子はちょっと。何考えてるかわかんないんでハードル高いっていうか」
「伯爵。そんなことよりもっと話を聞かせてください」
「司教様の頼みとあっちゃ無下にはできませんね。では、ハイスクール時代の小話を一つ。ヨシュアの奴、在学中に三人の教師を登校拒否にさせてるんですよ。教師をですよ。授業中にそりゃもうこてんぱんに言い負かしちまってね。大人のプライドってやつを理解できなかったんだな。それでね、その尻ぬぐいとして――」
「おおい、お前、何を吹き込んでるんだ、その話はやめてくれ!」
「ねえ、ヨシュア。どうしても課題でわからないところがあるの。勉強を見てほしくて――」
「ああ、今立て込んでるんだ。後にしてくれ、マ――」
振り返ると、そこには誰もいなかった。
一気に汗が噴き出す。
や――。
やっちまった。
室内がしんと静まり返る。
危なかった。名前を出さなかっただけまだ良い。だが依然、危機的状況である。やばいぞこれは結構やばい。
動けない。
自分がどこにいるのかわからなくなる。
恥ずかしくて死にそうだ。
なんとか――なんとか場所だけでも移動しなければと。キレた振りでもして部屋を飛び出せ。ほら。ここで乱心するよりはいいだろう。動け。動けよ、足。
やめて、と誰かが遠くで叫んでいる。
青年の声にも、女の声にも聞こえる。
ああ駄目だ。もう手遅れだ。
耳を塞いで目を閉じた。
情けなくその場に蹲る。
俺は。
きっと腕をちょっと机の端にぶつけたくらいで死にたくなるような精神をしていて、良く言えば繊細、悪し様に表現するなら愚かだ。攻撃的なのは自衛の手段であり、ほいほい他人に近寄られては心休まる暇がないから、できるだけ人を遠ざけようとする。それなのに。
なんだって俺はこの家にやってきたのだろう。
一体、何を期待したのだろう。談笑か嘲笑か。赦しか罰か。愛か憎悪か。胸の高鳴りを抑えたはずだ。草原を走りながら、期待に胸を躍らせたはずなのだ。俺は――ジュリアに。
認めてほしかったのだ。
間抜けめ。
結局、寂しかっただけじゃないか。
祝福されたかったのは俺だ。
身内に引き入れてもらったような面をして――。
力強く肩を叩かれた。
シェイマスがうるさい顔をしてこちらを覗き込んでいる。
「落ち着け。ほら。深呼吸しろ」
「な……なんだよ……さわ、るな」
「いつものやつだろ? 静かにしてろって」
すみませんねえと皆に向かって謝る。
「こいつ、変な癖があるんです。気が緩むと出るんだよな? 子供の頃からのやつでねえ、起きたまま夢見るんだ。なあ?」
玉のような汗を浮かべた俺は口も利けない。
――夢。
夢、か。
なるほどそうかもしれないと、腑に落ちた。記憶障害なんて大したものではなかったのかもしれない。
人は一度見たもの聞いたものは忘れないという説がある。
思い出せるかどうかだけなのだそうだ。シナプスの伝達がうまくいくかどうか。そうした経験は記録として積み重なり、引き出すことができるものだけを記憶というのだと――そして、眠る時に見る夢が、走馬灯のようなものだと仮定するなら、思い出とは起きたまま見る夢とも言い換えることができる。屁理屈ではあるが、俺にとっては心地いい結論だった。
俺は少し離れたソファに座らされた。じっと床を覗き込むようにして耐えた。ふと顔を上げると、隣にいるのはやかましい友人ではなく、この世で唯一の分身だった。
ごめんなさい、とジュリアは陰鬱に言う。
「疲れちゃった?」
これ返すと包みを差し出す。
「ふざけたりしてごめんなさい」
「……」
俺は一つ息を吐いて、開けてみろと言った。
いいの、とジュリアは訊ねる。いいよ、と俺は頷く。
中に入っていたのはアルバムだ。
A5サイズの小ぶりなものだが、厚みはある。重厚な装丁はマリアの趣味だ。
何気なく開いてみて、ジュリアは硬直した。
「おかあさん」
「……笑えるだろう」
容量の割に収まる写真の数は一割にも満たない。精々がところ十数枚である。
「家中搔き集めてみたんだが。あの子はそれしか残っていなかった。所詮、その程度のものだったんだ。俺の執着なんて」
ううん、とジュリアは頭を振った。
右手にあたたかさが灯る。
やっぱり人間の温もりは良い。
「すごく嬉しい。ありがとう――お父さん」
うん、と俺は頷き、
「十九歳の誕生日、おめでとう」
ようやく、その言葉を口にすることができたのだった。
泣きそうだった。
泣かないけど。
「これ、ほんとに貰っちゃっていいの?」
「いい。お前が持ってろ」
「でも、大切でしょう」
「いいんだって。必要ないなら捨てろ」
「捨てたりしないよ」
「そうかい。なら、好きにしろって」
「じゃあ、一緒に見よ。今辛いなら、明日でもいいよ」
「なんで泊まってくことになってるんだ」
「でもお洋服のお洗濯終わってませんし」と、丁度、飯の追加を持ってきた助祭が、顔を覗かせて行った。「この雨と暗闇ではバイクは危険でしょう。大事なお体のようですし? 泊まられていくのが賢明かと」
「……」正論である。正論を返されると俺は黙り込む習性がある。認めるのは癪だし、されど言い返せば詭弁になるからだ。
「みなさん、第二弾できましたよー」
パイの香ばしい匂いに歓声が沸く。いやに野太いのは主に騒いでいるのがシェイマスだからである。立場を考慮しなくていい場所柄だからといって羽目を外しすぎだと思う。ほんとに酒が入っていないのか疑わしい。
おーい、とこちらに向かって手を振った。
「落ち着いたか? なら、もっかいハッピーバースデー歌おうぜ!」
ジュリアは行こうと言ったが、俺は断った。
「先に休ませてもらう。お前はみんなと楽しんでおいで」
「あ――」
ジュリアは痛ましい顔をした。
こういう時、マリアは意地でも俺を連れて行こうとしただろう。気の強い女だったのだ、あれは。
でも、ジュリアはそうしない。
マリアとは違うからだ。
その、と言い淀むので、俺は微笑んでやった。
「つまらないからじゃないよ。大体、俺は俺が来たくてここにいるんだ。強引に誘ったわけでもないだろ、お前」
「そう、なんだけど」
無理してるのかなと思ってと言う。
「痛い思い、いっぱいしたから」
それはお前のほうだろうと俺は思う。まあ確かに子供の前で脅されたり恥をかかされたり死にかけたりと色々あったが、生きているのだから不問だろう。司祭にあった苦手意識も今日で払拭された。話せば面白そうな奴だった。
「参加したくないわけじゃない。本当に、少し休みたいんだ」
なんだろう。妙に体が――怠い。
また明日なとジュリアの頭を撫でて、俺は立ち上がった。飲み物のおかわりを注ぎ終わった助祭に声を掛ける。
「おい、小マルアハ。俺はもう寝る。客間に案内しろ」
連れて来られたのは、地下室だった。
別に珍しい構造じゃないが、司祭館や教会となるといやに陰謀めいた何かを感じてしまう。
「……なんだ、ここは」
「何って。寝室ですけど」
「それは、見ればわかるさ……」
なんてったって、寝具一つしか置いていないのだ。
他には何もない。薄暗い照明によって、浮かび上がるようにその船は鎮座している。大人が三人転がってもまだ余るような巨大なベッドである。王族御用達といった風情だ。
空気が淀んでいるせいか、気分の悪くなるにおいが残留している。
入るのを躊躇う俺の背を、後ろから助祭が押した。
「お休みにならないのですか?」
「……普通……客間ってのは、上に作るもんだろう」
「誰かを泊めるようにはできていないんですって。それに、空いた部屋は今、ジュリアが使っているんです」
「ふん。一応、人間扱いはされているんだな」
「何言ってるんですか? 人間なんだから当然でしょう」
「そうじゃなくてだな……」
物申そうとしたところ、ぐらと視界が揺れた。地震かと思ったが違うようだ。揺れているのは、俺だ。崩れかけた俺を助祭が抱きとめる。
「大丈夫ですか」
しっかりしてくださいよと、笑う顔は、とてもちぐはぐで。
俺は怖くなった。
やっぱり帰ると言うと、助祭は苦笑いした。
「どの口が言うんですか。熱が出てるようですね。雨に打たれて、体を冷やしたんでしょう。運びますよ」
俺は引きずられるようにしてベッドの上に放り込まれた。
手慣れている。
「熱い……」
酩酊しているようだ。確かに酒は飲んだが、一杯も干していない。覚束ない手つきで胸元を楽にしようとすると、温い手がそれを手伝った。
気付けば助祭に馬乗りになられている。
俺は戦慄した。
「何、してる……」
「お休みになるお手伝いです」まあ、と付け加える。「眠れるかどうかは、わかりませんけど」
そう言って、ボタンを全部外してしまった。
はだけた薄い腹を、手で押すようにして身を乗り出す。
「腑抜けた顔だ。あの子は未だ、苦しんでいるというのに」
良く通る声は言った。
朦朧とする意識の中にも、突き刺さる声だ。
「楽しそうに見えましたか。何もかも忘れて笑っているように? それは健気なあの子の気遣いによるものです。夜は魘され、泣きながら目を覚まします。時にはほんの些細な物音で錯乱してしまうことがある。触れられるようになるまで随分と時間がかかりました。半年以上経った今でも、あの子は暗闇と振動する物が嫌いです」
鼠も忌避しているようですね、と言う。
俺は愕然とした。
「PTSD……」
そんな素振り、ジュリアは微塵も感じさせなかった。けどそれは、俺が見たくないと望んでいたからだったのではないか? 本当は、その視線は震えていたのかもしれない。怯えながらも、手を握ってくれたのかもしれない。それなのに俺は、許されたような気になって? 何の気なしに、頭を撫でたりした?
「我々が大事に大事に育ててきたものを、あなたは壊したんだ。それなのに……気安く触れ、話しかける……赦せませんねえ。ええ。赦しがたいですとも」
肌の上を這う指は、まるで変温動物のように感ぜられた。
抑えつけられているわけでもないのに、体が動かない。
「す――すまなかった」
俺は口走っていた。すまない、許してくれと、何度も繰り返した。そんな俺を、助祭は醒めた目で見下ろし、ふっと口元で笑った。
「責めるべきはあなたばかりではないのです。私もまた、楽観視しすぎたんだ。もっと簡単なトラウマを負って帰ってくるかと思ったんですけど。臆病なあなたにそこまで冷徹な行動に出る勇気はないだろうと踏んでいたんです。読みが――外れた」
「――何だって?」
「あの時、私はもっと早く駆け付けることもできたんですよ」
まるで――何が起きるかわかっていたような口振りだ。
「俺を、泳がせたのか」
助祭は微笑むことでそれに応えた。
信じられない面持ちで俺は彼を見つめる。
「矛盾、してる……お前は、ジュリアが大事なんじゃないのか」
「だからこそ静観したんです。なぜだかわかります? うふふ……生き贄として捧げられた子羊が、逃げ出そうとした時、神はどうするでしょう――試すのです。誕生を待ち望んだ息子を殺せと命じるのです。そうして、その信仰心が偽りないものか量るのです。ですが、所詮は真似事でした。父のように万事上手くは事を運べなかった」
あなたがなぜ失敗したかわかりますか、とそいつは訊く。
俺は答えられない。
「何の、ことだか……」
「洗脳ですよ。あなたの敗因は、待てなかったことだ。洗脳とは、解放した相手が自らこちらの腕の中に飛び込んできた時にこそ、完成したと言えるのです。あの子はあなたの屋敷に閉じ込められる間、こう願ったはずだ。帰りたい――と。例えば、仕事で何日も忙しい日が続いたり、馬の合わない人間と顔を突き合わせなければならないような時、あなたはこう思うのではないですか? ああ、早く家に帰りたいってね。そう。帰るべき場所とは、巣であるはずなのです。あの時、あの子は強く祈った。イェシュアに帰りたい。その瞬間、この場所は、あの子にとっての家になったんですよ」
これで安心です。助祭は頬を綻ばせた。
「聡明で貪欲なあの子は、外への刺激に憧れを抱いていた。そろそろ巣立ちの時が来るでしょう。だが必ず戻ってくる。渡り鳥が同じ場所に巣を作るように」
「化けの皮が剥がれたな」俺は手の平に爪を喰いこませながら、重い瞼をなんとか押し上げて、反駁してみせる。「一番狂っていたのはお前だったってことだ」
助祭は悲しそうな顔をして、いいえと首を振った。
「最たる狂人は、あの青年です」
「何?」
「ハウエル……最も効果的な方法で爪痕を遺していった男。してやられました。この、私が。思えば挑戦的な目をしたものでした。まるでお前にはできないことをしてみせると言っているようだった。そして、その通りになった。ジュリアはもうあいつを忘れることができない。一生。いや――永遠にだ」
「ハウエルって誰だ」
「あんたの身代わりになった男ですよ!」
助祭が噛み付くように叫んだ。
目前に迫る鬼のような形相に俺は身震いする。
「本当、何にも知らないんだから。人一人犠牲にしておいてよくもまあ呑気に息が吸えるものですねえ。厚かましいったらない。己の命に付加された価値にも気付かず、のうのうと生きている。ええはい、まあみんなそんなものです。自分が愚かだからといって落ち込むことはない。そんなあなたに朗報です。私が、この身を賭して、教えて差し上げましょう。本当の狂気というものを」
これから貴方に同じことをします。
と、助祭は言った。
「同じ、こと……?」
「そうです。貴方がジュリアに見せた世界を、私が貴方にも味わわせて差し上げます。まさか忘れてしまったなんてことないでしょう? 私、まだあなたの頭は弄ってませんし」
胸元を撫でる手。怖気が走った。俺は力の入らない腕でそれを遮る。
「よ――よせ、触るな」
「よさなかったでしょう」助祭は抑揚をなくした。「貴方は。触らないでと言われても触れたでしょう。やめてと言ってもやめなかったでしょう? ご安心ください。せっかく拾われた命だ。無駄にはしません。有効に活用しようじゃありませんか。惜しむらくは、時間が限られていることですね。なにせ一晩しかありませんから。そこは私の腕にお任せいただければと。あの子が幾日もかけて練り上げた恐怖を、今夜、耳を揃えてお返し致します」
ごめんなさいねと、天使の皮を被った悪魔は言った。
「これは意趣返しなんです。向ける相手のいなくなった、憎悪、嫉妬の矛先を、私は貴方に転嫁しています。しかし、倒錯と復讐は人間の専売特許ですから……さる復讐鬼は男の中の男とまで呼ばれたそうじゃありませんか……ふふ。男たるもの、愛する人を穢されて黙ってはいられませんでしょう? 可哀想ですが貴方には礎となっていただきます。私が、より、人間らしくあるための」
俺はようやく気付いた。
これは酩酊ではない。風邪でもない。
薬だ。
――盛られた。
「さあ、夜も更け、天もお鎮まりになりました――辱めのお時間です☆」
神様、と俺は口の中で祈ったけれど。
満ち満ちた暗黒が、それを掻き消した。
目覚めると、異様に体が重かった。新鮮な空気を求め、とにもかくにも俺は寝かされていた部屋を出た。
ふらつきながら居間に辿り着くと、ジュリアが紅茶を淹れていた。
おはよう、と綺麗に笑う。
「そろそろ起きてくると思ったんだ」
「……俺は……」
思い返そうとすると頭が痛む。なんだか記憶が曖昧だ。
「いつ、寝たんだ」
「十時くらいかなあ。そうだ、体調はどう? お仕事忙しいのに、無理して来てくれたんでしょう。疲れちゃったみたいだったから、それで先に休んだんだよ」
「ああ……そう、だったかな」
みんなはと訊くと、昨日のうちに帰ったよと答えた。
「顔色悪いよ。座って?」
テレビの前の長ソファまで手を引かれる。雪崩れ込むように座った。テレビを点けるかと言うので、断った。
「はい」
渡されたカップを包むように持った。いくらか冷まされていて、飲みやすかった。少しだけ目の奥がクリアになる。
あのねあのねと、隣に座る息子は身を乗り出した。
「薦めてもらった本、読んだよ。とっても面白かった。古典もいいねえ、長くて重厚で、すごい満足感がある。それでねそれでね、俺も、お礼におすすめしようと思ってね。エハヴ様も、これならあなたも満足するだろうってね、言う本があってね、良ければ持っていく? いつ返してくれてもいいから……」
俺は小さく笑った。
「カフカとか言うなよ」
「言わないよお。おじさん、もう大体読んでるでしょ、有名なのもそうじゃないのも。絶版の宗教学の本でね、聖典を綴った人物の背景から研究してて――」
瞳がきらきらと輝いている。趣味のことになると口が回るようになるのは、シュルズベリー家の血筋の証だ。美しい眦はあの子を彷彿とさせる。慧敏な眼差し。それでいてよく動く表情。
マリアの残してくれたもの。
今度こそ、俺は――守らなければ。
頭がちりと痛んだ。何かとてつもなく重要なことを忘れている気がする。焦燥ともとれる奇妙な感覚がせり上がってくる。
なぜだかわからないが、逃げなければと思った。俺はジュリアの腕を取って、唐突に言葉を失った。
その時だ。
居間に男が入ってきた。金色の髪が目に眩しくて苛々する。
イッシュ助祭である。
「おや。起きていらっしゃいましたか。朝一で干しておいた洗濯物が乾いたので、渡しに行こうと思っていたところです」
俺は男を見つめた。一瞬、その琥珀色の瞳が、爬虫類のように尖る幻覚を見た。
片足がない。
木で組んだ杖で左半身を支えている。
「おい……お前……足、どうした……」
え、とそいつは素っ頓狂に驚いて、それから人懐っこく笑った。
「ああ、これですか? ご心配なく。すぐに生えてきますから」
俺は何も言えなかった。
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