MISERABLE SINNERS

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「Ask, and it will be given to you」

「Vanity of vanities, all is vanity 空の空。一切は空」 一章三節

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 門から邸宅まで車で移動した。周囲を森で囲まれた、だだっ広い丘にぽつねんと在るその建造物の外観は、見ようによっては小さな城である。近付くと思いの外、大きくて圧倒される。中央の尖塔は時計台になっていて、車庫に車を入れた際、丁度十七時の鐘が鳴り渡った。春風に乗って何処まで届くものかと想いを馳せる。執事が現れて、ジュリア達を玄関ホールへと誘導した。
 シェイマス・ノーリントン伯爵のお屋敷である。
 再会、と表現していいのだろうか。とにもかくにも、ジュリアは父親だったかもしれない男と邂逅を果たした。勿論、はじめましてさようならで済むわけもなかった。どうか食事だけでもと懇願され、頭を真っ白にしているうちに、イッシュ様が段取りをつけてくださったらしい。ほとんど呆然自失の間に、気付けばジュリアは車に揺られていたというわけだ。エハヴ様が運転をし、隣にはイッシュ様がいるいつもの車内の風景だけれど、行き先は我が家ではなかった。
 広いホールは寒々としている。なんだか突然、地面が抜けたような心地がして、ジュリアはイッシュ助祭に縋った。左腕に取りついたジュリアを、彼は邪険にするでも揶揄うでもなく、黙って誘導してくれた。
 案内されたのは食堂だろうか。応接間かもしれない。とにかく白いグロスの掛けられた丸テーブルの席に座らされる。ジュリアの審美眼ではどれも同じに見える油彩画に取り囲まれて、落ち着かない気分になる。執事が去ると、入れ替わりでお召替えをした伯爵がやってきて、ジュリアの正面に座った。
「すぐに食事を用意させます。どうかおくつろぎください。神父様方は、見たところ改革派? それとも保守派でしょうか。ご要望があればどのようにも致しますが」
「如何様にも。食事に関して特に規定は設けておりませんので」
「ではコーシェルにて失礼致します。しかしまあ、今日限りは天に目を瞑ってもらうことにして。ワインなど開けさせていただければと」
「願ったり叶ったりですな」
 何か通じ合うものがあるのだろうか。伯爵と司祭は互いの顔を見て含み笑った。ジュリアはそれを、絵画を眺めるように茫と眺めている。いや、むしろ見つめられているのは、こちらのほうなのかもしれない。ワゴンが運ばれてきて、人の手やグラスが行きかう。静かな祈りの言葉と共に、皆は酒を煽った。ジュリアは温めたミルクである。ちびと口に含むと、蜂蜜の香りがした。
 まずは簡潔な自己紹介と相成った。
 ノーリントン伯爵は、議会に席を持つ傑物で、神学校を経営しており、先の街には新たに運営することになった児童養護施設の下見に足を運んでいたのだそうだ。孤児院の経営を引き継いだのは彼の企業だったのである。奇異な縁もあるものだ。
 伯爵に比べ、こちらの言えることとなると簡素なものである。司祭と助祭のそれぞれの位と、ジュリアが二人の教会に身を寄せていることなどを説明すると、伯爵はジュリアの帰依を大いに喜んだ。正しい選択だと褒めそやしたのだった。
 母が亡くなっていることは最初に伝えておいた。
 期待をさせても悪いと思ったからだ。
 天涯孤独の身に陥ったジュリアは、どことは明言しなかったが養護施設に入居し、卒業してからエハヴ司祭達に拾われたということにした。今は家事手伝いのようなもので、教義に関しても日々勉強させてもらっていると。話している間に前菜やらスープやらでテーブルは埋め尽くされて、あまり喉を通らぬままに入れ替わってしまうのだった。エハヴ様は酒にしか口をつけないし、伯爵の長広舌に対する相槌はもっぱらイッシュ様の仕事になっており、消費はなかなか捗らないでいる。
「それでだな、ジュリアくん……」伯爵は距離感の掴めぬ様子で頬をかいた。「その……言いづらければ、無理強いするつもりはないんだが。もし良ければ、君のお母さんのことについて、聞かせてはもらえないだろうか」
 どきりとした。
 ああとかううとか唸っていると、イッシュ様が助け舟を出す。
「その前にあなたとマリアさんの関係についてお話を、ノーリントン伯爵。疑うわけではありませんが、私は未だ、この状況をよく呑み込めていないのです。それはジュリアにとっても同じでしょう」
「う、うん。そうだな」誤魔化すような咳払いだ。「わたしはだな、その……かつての、婚約者、だったわけだ。マリアとは幼馴染で、家ぐるみの付き合いがあって、学生の頃かな、婚約が決まったのは。勿論、形骸化したものではなく、わたしは彼女を愛していたし、彼女もだな、憎からず思ってくれていたと、今でも考える。しかしまあ、幻想かもしれない。結局は、逃げられてしまったわけだから」
「逃げた?」ジュリアは思わず顔を上げた。「……母さんが?」
 ううん、と伯爵は唸る。どうやら彼、意外にも口下手のようだ。「それだと語弊があるな。いやすまん。端的に言うとだな、突然、向こうさんが婚約の破棄を申し出たんだな。ええと――」
「平気です」
 言い淀む様子だったので、ジュリアは先を促した。
 伯爵は厳かに頷いて、たっぷり蓄えた顎髭を一撫でした。
「――マリアが不妊症だということがわかったんだと」
 ジュリアは目を瞬いた。
 教会組で顔を見合わせる。
「……俺は?」
 まさか拾い子だとでもいうのだろうか。衝撃の事実である。
「いやそれはないだろう」伯爵は手を振った。「だって君はマリアと瓜二つだ。血の繋がりは疑いようがない。だから嘘だったのは――病気だったことだろう」
「なるほど」イッシュ様が柏手を打った。
 ジュリアはどうにも納得できないでいる。
 伯爵は続けた。「わたしは長男だからな。爵位を継いで、子孫を残していかにゃならん。体面的にも良くないってことでな、一族総出で頭を下げてきた。親父は勿論、承諾したよ。というか、そうするしかなかったわけだ。わたしが彼女に会ったのは、その会合が最後だ。彼女が勘当されてこの街を出たと知ったのも、随分と経ってからだった」
「勘当? 何故です?」
「これはわたしの当て推量なんだが。なぜ、病気だなどと嘘を吐いたかと――考えてみるとだな」伯爵は言葉を濁した。「その……他に男がいたんじゃないかと、そう思うわけだな。噂じゃ異教を持ち込んで家を追い出されたなんて聞いたが、親族はその辺り明言しないしな。あいや、責めるつもりはないんだ、ジュリア。君が生きていてくれたことは非常に喜ばしいことだ。会えて嬉しいと、心から思っている」
 一所懸命にフォローを入れる様は、とても紳士で友好的だ。ジュリアは彼の言葉を皮肉には捉えなかった。真面目な人なのだろう――過剰なほどに。
 わたしはな、と伯爵は打って変わって滑らかに語りだす。「超正統派だが、現代の自由を愛する潮流には逆らうべきではないと考えているんだ。何事にも流れというものはある。時代は変わる。伝統を守るのは大切だが、それで滅んじゃしょうがない。謂わば保守派と迎合するような形でだな、新たな宗派を作り上げるべく活動していて――老者ろうさは否定的だが、これからを生きる若者達のために歴史は紡がれていくべきであり――学校や養護施設の経営はその第一歩として、教育を足掛かりに老若男女区別なく主の教えを広めていきたいと――」
「……」
 伯爵には申し訳ないが、小難しい話はほとんど頭に入ってこなかった。
 ジュリアは母のいつまでも色褪せぬ笑顔を思い出していた。母の移り気を伯爵は指摘したが、真実はどうだろう。ジュリアは母が義父と結婚するまで、ずっと二人きりで暮らしていた。だが、ジュリアが生まれる前のことは、何も知らないのだ。残されていた面影といえば、モノクロの写真一枚である。そこに写っていたのは、紛れもなく今ジュリアの目の前にいるこの男だ。記憶の中の彼は精気に満ち溢れた精悍な若者だが、勇敢な精神を湛えたその瞳は間違えようもない。
 ところが、シェイマス・ノーリントン伯爵は、ジュリアの父親ではなかった。
 そうだったかもしれないだけの、赤の他人だったのだ。
「未練たらしく意地を張っていた時期もあったんだが。今じゃ三人の娘がいる。だから、寂しくはあっても、恨んだことはなかったし――ただ、悔しいんだな。彼女のために何もしてやれなかったことが。辛かったろうさ。愛する家族に見放され、一人きりで放り出されて。誰か共にある人があったんだとしても――頼ってくれれば、良かったのになあ」
「俺が覚えてるのは、母さんのことだけです」
「父親を知らないのか」
 ジュリアは頷いた。
「ああ……まさかそんな」伯爵は呻き、天を仰いだ。「神よ……」
「でも結婚しました。俺が十の時です」
「そう……なのか」
「お義父さんは――」ジュリアは込み上げてきた自嘲を堪えた。「悩ましく、繊細で、優しい人でした。二人とも、事故で死んじゃった。俺を置いて、土に眠ってしまったんです」
「……そう、か」
 伯爵は感極まったように瞳を潤ませると、手の平で目頭を覆った。何に感動しているのかはわからなかった。母の不憫な生涯を憂えたのかもしれないし、最期は孤独でなかったことに安堵したのかもしれない。
 実際のところ、義父は色欲の地獄行きだし、母のそれは自死に近いだろう。かつての家は火事で全焼したわけだが、火を放ったのは母なのではないかと、ジュリアは思っている。あれは浄化の火だった。紛れもなく。焼け跡の中に、ジュリアは神の啓示にも似た安らぎを見たのだ。
 二人の命を奪った赤い炎は、そのまま咎人の行く先を暗示していた。
 姦淫に耽る自分もまた、死後は同じような場所に堕ちるのだろうと思った。
 沈黙が支配した。誰も、何も言わなかった。司祭は彼にしか解せぬ思索を巡らせているのだろうし、助祭はジュリアの様子をじっと観察しているだろう。伯爵は感情の整理をつけるので精一杯だ。ではジュリアは? 自分はテーブルから濛々と立ち上る湯気を手で払ったりしている。肉の香気を場違いに感じたからだ。
 そんなわけだから、廊下のほうで起きた騒ぎが近付いてくる様子が、面白いくらいよく伝わった。
 喧騒が膨れ上がってくる。ジュリア達は皆、扉のほうに注目した。お待ちくださいとかお客様が云々といった声がする。伯爵はしまったという顔をして手を擦り合わせると、椅子を蹴倒す勢いで立ち上がった。と同時に、応接間の扉が開いた。
 入ってきた人影を、伯爵の大きな体がすっぽりと隠してしまう。
「シェイマス!」若い声ががなった。どうやら相当お冠のようだ。「人を呼びつけておいて迎えもないとはどういう了見だ。のらくらしてるお前と違って、俺は忙しいんだよ!」
「悪かったって、落ち着けよ。特別ゲストの前だぞ。とりあえずコート脱げ、ほら」
「ゲストぉ? お前まさか、また余計な気を回したんじゃないだろうな。女なぞに興味はないと俺はさんざ明言して――」
 伯爵の巨躯を押しのけ、痩身が前に出た。
 鮮やかな緑の瞳がジュリアを縫い留める。
 その瞬間、世界は停止した。
 ジュリアと彼は、まるで磁力に引き寄せられるように、互いの視線を射止め合っていた。言葉にならない衝撃が全身を貫いた。自分は彼を知っていると思ったし、彼は自分を知っていると思った。似ているというのなら、母よりよほど、ジュリアはこの人に似ている。
 現れた男は亜麻色の髪をしていた。
 疲れた顔をしているが、端麗な面立ちだ。綺麗の一言では足りない。さりとて華美な容貌でもない。そこには慎ましやかな美しさがある。祈りを捧げる修道女のような。
 ところが性質に関しては、そう清浄なものでもないらしい。男は僅か目を見開いた後、こちらを――ジュリアを指差して、吐き捨てるように叫んだのだった。なんだこいつ、と。
「よくぞ訊いてくれた!」伯爵は両腕を開いた。「ジュリアくんだ。いいかヨシュア、気を確かにもてよ――お前の、甥っ子だ」
 甥。
 ジュリアが三親等に値するということは、この人はジュリアの――伯父、もしくは叔父ということになる。
 美しい男は一歩後退すると、口を手で覆った。
 眼球が忙しく動いている――先の伯爵のように感極まったという感じではなさそうだ。考えているのだろう。隅から隅まで思考を巡らせているに違いない。ジュリアの糸は、そうしてこんがらがってしまうけれど――この人に限っては、紐を解くのが得意のようだ。彼はすぐに、ああと独り言ちた。何か得心がいったようである。
「そうか。ふうん……」
 おじはテーブルに歩み寄ると、縮こまるジュリアを舐め回すように観察した。翡翠の瞳はぎらついて、とてもじゃないが正視していられない。メイドがやってきて彼のコートを預かっていった。
 伯爵が席に戻った。隣に用意された椅子に、おじはどっかと斜めに腰掛け、長い脚をこれ見よがしに組む。そうして、シニカルに頬を歪めると、言った。「証拠は?」
 面食らった伯爵が訊き返す。「な、何だって?」
「こいつがマリアの子供だという証拠はあるのか」
「お前って奴ぁ」呆れた息を吐くと、伯爵はジュリアや司祭に向かって釈明した。「どうかお気を悪くしないでいただきたい。こいつは歯に衣を着せる方法を知らんのです」
「俺のことはどうでもいいんだ。今はこれの話をしてる、そうだろう。なあ、どうなんだ? あんた達でもいい。説明してくれ」
 横柄な態度である。司祭も助祭も口を開かなかった。ジュリアにおいては言わずもがな、親戚だという男のほうを見ることもできなかった――自分を落ち着けるので手一杯だったのである。
 こわい。
 なぜだろう。自分はこの人に、怯えている。
「必要なら戸籍でも何でも提示できるだろうさ。でもそんなものなくても、火を見るより明らかだ。ヨシュア、お前、わかってて言ってるんだろう? 見ろよ、生き写しだ。どこもかしこもマリアにそっくりだ。おれは初め、主の奇跡を目にしたのかと思ったほどだよ。疑う余地なんかないだろう」
「シェイマス……」おじは揶揄するように嗤う。「哀れな男だな、お前も。その目は節穴らしい。マリアの瞳は赤の差す鳶色だった――全然、違う」
 憎しみすら感じさせる声色である。正々堂々とぶつけられる悪意は、ジュリアの精神を少しずつ蝕んでいった。謂れがないとは言い切れないけれど、それにしても嫌われているようだ。
 伯爵、とイッシュ様が割りこんだ。
「この方は?」
「ああ、そうだよな。紹介が遅れてすまない。こいつはジュリアくんの伯父に当たる男だ。マリアの双子の兄で――」
「ヨシュア・シュルズベリー」伯父は素っ気なく名乗った。
「マリアと我々三人は幼馴染なんだ。傲岸不遜な態度からわかる通り、こいつも爵位持ちでね」
「曽祖父が金で買った爵位だ。大したもんじゃない」
「それだってお前が子爵様であることに変わりはないだろう。もっと貴族に相応しい振る舞いをだなあ……いや、小言はよそう。ヨシュア、彼はジュリア・オルビーくん。このお二方は、ジュリアが身を寄せている教会の神父様方だ」
「神父」何が可笑しいのか、伯父は肩を揺らした。「そりゃまた随分と俗っぽい聖職者もいたもんだな」
 司祭は動じずに軽く頭を下げた。イッシュ様もそれに倣う。
 それで、と子爵はテーブルに肘をついた。
「これは何の集まりなんだ。黒ミサでもしようってのか?」
「何って言い草はないだろう。再会……と呼んでいいのかはわからないが、これは回るべくして動き出した運命の歯車だ。出会いを祝して何が悪い」
「悪いなんて言ってない。ここに、俺が呼ばれた理由を俺は知りたいだけだ」
「そんなの勿論、お前達を引き合わせるために決まってる。だってマリアの息子だぞ。お前、何も思わないのか」
「マリアマリアって」伯父は心底呆れたというふうに息を吐いた。「迷惑だ。俺には何の関係もない」
「血の繋がった兄妹だろうが」
「かつてはな。だが縁ならもう切れている。俺に妹はいないよ」そもそも、と伯父はジュリアを見た。「肝心の女はどうした。使いだけ寄越して何のつもりだ? 無心にでも来たのかい。まさか今更庇護を求めようなんて、厚かましい真似――」
「死んだよ」
 顔色の悪い笑みが固まった。
「――は?」
「マリアは死んだ。この子は彼女の形見なんだ。ジュリアくんに会ったのはほんの偶然だよ、ヨシュア。おれもついさっき、知ったんだ……」
「――――……」
 ほんの少しの間だけ、伯父の瞳孔が揺れた。
 わかれよ、と突き放すように伯爵は言う。伯父は自身の手指を眺めると、唇を湿らせた。
「――なら尚更、関係ないじゃないか」
 帰らせてもらうと言って立ち上がる。伯爵がそれを押しとどめた。
「待て待て。何だってそう邪険にするんだ。お前は喜ぶとおれは思っていたんだがな。だっておれ達は、あの子がどこで何をしているのか、一つだって知らなかったんだから。彼女が遺してくれたものを、大切にするべきなんじゃないか。それが彼女にしてしまったことへの罪滅ぼしになる。そうだろう」
「お前と俺を同列に並べるな」伯父は親友の腕を振り払う。「信心深いお前には理解できないかもしれんがね。俺にとって家族は単なる記号だ。あれは妹という肩書きをもった他人でしかなかった。寄せてやる義理も人情もありはしないよ。それより……」じろりと睨みつける。「お前……何だ。義憤に駆られるのは結構だが、まさかこれの面倒を見るなんて言い出すつもりじゃないだろうな」
「そ」
 それは、と伯爵は言い淀んだ。おそらく、彼の中でもまだ考えが固まっていないのだ。突如現れたかつての婚約者の子供に対し、断ち切ったはずの罪悪感や未練が沸き上がり、同情じみた感情が去来しているに違いない。往々にして信仰に励む者は優しい感覚を持っている。隣人の、特に身内に対して施すのは当然のことなのだ。
「勿論、ジュリアくんの意志を尊重するさ。けれどもし彼が受け入れてくれるというのであれば、その……それなりの、援助をだな」
「シェイマス。偽善ぶるのはよせよ。なあおい、キミ。歳はいくつだ」
 おい、と再び強く呼びかけられるまで、ジュリアは自分が返答を求められていることに気付けなかった。変な感じだ。みんなの声はとてもクリアに聞こえるのに、その意味は遅れてついてくる。顔を上げて、目線を合わせても、瞬きすることしかできなかった。これじゃまるでそういう人形みたいだ。
 ――何かが違う。
 色が、動作が、文字が、状態が、あらゆる情報が錯綜し崩御する、普段の混乱とは似て非なる感覚である。周囲の出来事がどこか遠い世界の物事のように思えてならない。現実感が、乖離している。
「生まれ年もわからんのか。それとも口がきけないか?」
「十八ですよ」
 イッシュ様が見かねて言った。
 伯父は咳払いをした。
 失敬、と断る。
「聞いたかい、伯爵様。成人してる。世間的にも、もう子供じゃないんだよ。過度に干渉するべきじゃない。見れば孤独でもないようだ。今更、俺達が介入して何になる」
「だが」
「お前にとっては愛の対象かもしれないが。彼らからしたら、こちらは赤の他人もいいとこだ。そうだろう」
 伯爵は黙り込んでしまった。ゆったりと、言い含めるように言う伯父の語り口は、どこかカウンセラーじみている。
「こればかりは真面目すぎる己の性分を恨むんだな。さっさと手を出してしまえば良かったのに」
「や、やめろ。子供の前で」
「そこです」イッシュ様がよくできた生徒のように挙手をした。「気になっていたんです。本当に父親はあなたでないと言い切れるのですか? 恋仲だったのでしょう。病が嘘なのだとすれば、勘当された時には貴方の子を身ごもっていた可能性だって」
「慎め、イッシュ。彼は敬虔な教徒だ」
 司祭が苦言を呈したが、助祭はやめなかった。
「愛で腹が膨れるとでも?」
 伯父が忍び笑う。この手の下世話なジョークは好きそうだ。
「超正統派の戒律の厳しさは知っているだろう。婚姻前の姦通はご法度だ。そうですね」
 司祭の問いに熊のように唸った後、伯爵は頷いた。
 伯父が乾いた声で言う。「それどころか手も繋いだことがないよ。とんだ臆病者だよな」
「ヨシュア……今日ばかりはお前との縁を恨んだぞ」
「恥じることではありません」司祭はらしくもなく労わるような声色である。「私は貴方の清き信仰心に敬服申し上げる」
 バツが悪くなったのだろう。しきりに親指の爪をさすりながら、伯爵は弁解するように早口で捲し立てた。
「そんな立派なものではないのです。心は何度も揺らぎました。ジュリアくんを見ればわかるように、マリアはそれは美しく、可憐でしたからね……うかうかしていたら他の男に取られるのではないかと、猜疑したこともあります。念じるだけで、それは姦通と同じなのです。しかし誓って、わたしはマリアとは、その――」
「性交渉を持たなかったと」この手の話題に躊躇いのないイッシュ様が引き継いだ。
 うむ、と伯爵は額を赤く染めて、
「そうなんだ。ジュリア、彼らの言う通り、我々には禁忌タブーが多くてね。たとえ夫婦の契りを交わしたとしても、一年間は夫婦間でそういうことをしちゃいけない決まりになっていたんだよ。結婚前なら尚更なのさ。だから、本当に……これは残念なことなのだけれど、わたしは君の父親ではないんだ。君がマリアの子であってもね。それはわたしが、一番良くわかってる……君に向けるこの感情が、自己満足だってことも」
「自己満足ねえ」伯父は脚を組み替えると、顎を引いて下から伯爵をねめつけた。「誤魔化すじゃないか、シェイマス。お前は目を逸らしているだけだ――マリアはな、お前も信仰も裏切ったんだよ。神と愛との間で葛藤するお前を他所に、あの女はどこの馬の骨とも知れぬ男と同衾し、罰として死を与えられたわけだ。主に操を立てたお前は嫉妬するかい? 神に目をかけてもらった阿婆擦れに」
 薄緑の瞳がジュリアを見る。
 なあ、と彼は意地悪く畳みかけた。
「母の死に際はどうだった。ん? さぞや惨めで醜かったんだろうな。お前もその淫蕩の血を受け継いでいるんだろう。ろくなもんじゃない……こんなのに義理立てする必要はない。どうせ、そこの貧民共に体を売ってるんだろうさ。ふしだらな香りが駄々洩れてるぜ、カントボーイ」
「およしなさい」
 イッシュ様がテーブルを叩き、立ち上がった。
 ジュリアは意外な思いで彼の柔らかい輪郭を見上げる。
「それ以上の侮辱は赦しません」
 へえ、と伯父は嗤った。
「許さないとどうなるっていうんだ」
「――天罰が下ります」
「上等だ、やってみせろよ」
「いい加減にしないか、ヨシュア!」
 業を煮やしたのはノーリントン伯爵である。殴りかからんばかりの勢いで伯父の胸倉を掴み上げた。
「なあ。今日のお前、何か変だぞ。もっと思慮深い男だったろう、お前は。この子を侮辱する理由なんてないはずなのに……ほら、謝れよ。一時の気の迷いだったと教えて差し上げろ。これじゃ天にも示しがつかない」
「お前の見込み違いだったというだけの話じゃないのか」
「そんなわけがあるか。何年の付き合いだと思ってるんだ。でなければこれほどの不敬、許してはいない――」
 ――あ。
 いけない、と思った。
 極度の緊張や不安。過熱する口論と感情。当てられたのか、引きずられたのかは定かじゃない。しかし、ふとしたその瞬間に、保っていた意識の均衡が崩れた。
 ジュリアは時代を遡っていた。漂う甘いミルクのような香り。思わず口にしたくなるほど艶のある亜麻色の髪と、ジュリアの名前を呼ぶ深い声。ジュリア。ジュリア。顔をよく見せて。なんて綺麗な瞳でしょう。あなたは母さんの自慢の子よ。
 絶対に幸せにするから。
 母さんがまもるから。
 一人で歩けるようになるその時までは、どうか一緒にいさせてね――。
 どんな些細なことでも教えてあげることにしてるの、と言うのはシアシャだ。そのほうが情緒が育つんだって。
 情緒。
 ならば母は、この自由に動く体とは別に、心さえもジュリアに与えてくれたのかもしれない。
 母の愛に、頷くことしかできなかった幼い自分が恨めしい。今なら何度だって言える。何度だって応えられる。
 愛してるわに、愛してるよを、返せた、はずなのだ――。
 俄かに世界が騒がしくなった。野太い野次。擦れるテーブルクロス。冷えた脂の固まる音と、時折グラスの中で弾ける気泡。甘みにスパイス、香ばしい小麦の香気が混じり合って吐き気を催した。フォークの三叉のうち左端が僅かに歪んでいるのが気になった。紛れ込んだ小蠅がスープの中ほどで死んでいる。おーい、と何者かが叫んだ。おーい、ジュリア。
 こっちにおいで。
 座って。
 お母さんには、内緒だよ。
 ――ああ、俺は。
 穢れている。
 瞼をきつく閉じ、肩を小さくして、ジュリアは嵐が過ぎ去るのを待った。吹きすさぶ暴風の中には、たくさんの文字と、たくさんの声があった。息が苦しい。自分がどこにいるかわからない。全てが敵だ。目に映るもの耳に届くもの全てが。
 こわかった。皆が遠い。手を伸ばせば触れられる距離にいるはずなのに。これこそが真の孤独なのだ。人の中にありながら、繋がることができない恐怖こそが。
 久しぶりの錯乱だった。ジュリアはただじっと俯いて堪えた。周囲にはわかるまい。彼らから見たら、今のジュリアは電池の切れた時計だ。代わる代わる訪れる情動と、継ぎ接ぎの夢に似た記憶に、自分はこんなにも苦しめられているというのに。時々、ジュリアはこうして自失する。五感が鋭敏になり、何を何処から感じたらいいのか判断がつかなくなる。イェシュアの二人はこれを受容の容量超えオーバーキャパシティだと判じた。取り入れる情報と、その処理速度が釣り合っていないのだと。だがそれらはあくまで推測で、開頭し脳に電極でも差し込んでみない限りは、実際にどの分野が活動しているのかは認められないのだ。いや、測ったところで解明できるものかもわからない。ジュリアの頭の中で何が起こっているのか。心得た人は誰もいない。ジュリアでさえも、自分を信じることはできないのだ。――だけど。
 その人は言った。
 怜悧な瞳に、初めて憐れみの成りそこないを乗せて。
「目なんか瞑ったところで、何も変わらないよ」
 ジュリアはゆっくりと瞼を押し開く。
 視界が広がる。二つの明るい緑に意識が吸い寄せられる。まるで鏡を覗き込んでいるかのようだ――形も、色も、よく似ている。
 母の好きだと言った瞳だ。
 不機嫌露わに茶々を入れ続けた彼も、この時ばかりは機嫌が良いように見えた。隠しきれない口元の笑みを悟られぬよう、彼は手の平で隠してしまった。そうして、言った。
「俺はそうして擦り減った。お前は――どうかな」
「わ……わかるんですか。あなたには」
 伯父はジュリアの質問には答えなかった。彼にとって、ジュリアとの同調は褒められた事態ではなかったようだ。無遠慮な目は、ジュリアを見ていながら、ここにいない誰かを映していた。
「ようやく口を開いてくれたな」
 ああ、と悲しみに暮れるように彼は息を抜いて、
「穢い声だ」
 露骨に肩を落とすと、もう用は済んだとばかりに、さっさと席を立った。荷物を預かっていたメイドが慌てて後を追う。伯爵もまた追随しようと立ち上がったけれど、ふと目をやったジュリアが透明な涙をほろほろと流していたものだから、足が迷った。その空白は彼我の距離を開かせるのに十分だった。
「おいヨシュア、待て! ああくそ……なんとか玄関で引き留めておいてくれ」部屋の隅で指示を待っていた老僕にそう声を掛けると、ジュリアの前に膝をついた。「申し訳ない。ジュリア。こんなことになるなんて思わなかったんだ。許しておくれ」
 ジュリアは腕で顔を覆いながら、なんとか頷きだけを返した。益々、ジュリアに同情した伯爵は、涙ぐみながらこちらの膝を優しく摩った。
 正直、なぜ泣いているのかは自分でも見当がつかない。
 悲しくはない。散々詰られた限界が来たのとも違う。自分が地獄行きなのは自覚しているし、だからといって救われたいとも思わない。罵詈雑言など慣れっこだ。ジュリアは己の意志で現状に甘んじているのだから。
 じゃあなぜ俺は泣いているのだろう。
 案外、嬉しかったのかもしれない。
 今生において、唯一、ジュリアと血の繋がりを持つ人。
 場合が違えば、家族だったかもしれない人。
 背中に冷たい手が触れた。エハヴ様だ。いつの間にか、すぐ隣に立っている。
「ここはお任せを、伯爵。貴方はご友人を追うといい。彼もまた――迷っているようですから」
 伯爵は逡巡した後、そうさせていただきますと頭を下げた。
「せっかく足を運んでいただいたのに、本当に申し訳ない。軽蔑したでしょう」
「とんでもない。こちらこそ、若いのが非礼を働きました」
 すみません、とイッシュ様が低頭した。
「そんな、顔を上げてください。このお詫びは必ず致します。全く……司祭に対して邪淫を疑うなど恥ずべきことです」白々しい空気になったが、伯爵はそれどころではないようだ。「とにもかくにも、今はあいつと話し合ってきます。わからない頭ではないのです。今日はきっと、特別、虫の居所が悪かったに違いないのです。すぐに戻ります。お時間が許すのであれば、どうかそのままで」
 伯爵は丁寧に発話すると、颯爽と駆けて行った。廊下に待機していたメイドが一礼して扉を閉めた。
 部屋にはジュリア達だけが残される。
 人の目がなくなった途端、イッシュ様がさっそく姿勢を崩した。背もたれに寄りかかり床に足を投げ出す。
「なんかとんでもないことになっちゃいましたね。母親の元婚約者に身内の登場ときた。僕達、探偵の真似事をしに来たのではなかったですか? せっかくのフルコースも冷めちゃいましたし……踏んだり蹴ったりだな」
 それにしても、と真剣に指を組む。
「ヨシュア・シュルズベリーでしたか。力を持った人間というのは、どうして謙虚さを失ってしまうんだろう。勘違いも甚だしい。ねじれ切った性根を、こう、金槌で叩きまくって補正してやりましょう!」なんて拳を振り上げたかと思えば、「しかし調教のし甲斐がありそうな人物でした……あれはなかなかの逸材ですよ……横柄な態度に見え隠れする臆病さといい……狼の皮を被った羊の匂いがします……良い、実に良い、なにより顔がいい! 俄然、ジュリアの将来が楽しみになりましたとも!」
 司祭は溜め息を吐くことで彼に応えた。ジュリアもおんなじ気分だ。
 どさくさに紛れて抱き着いていたこちらの頭を動かして、エハヴ様はジュリアの目尻に溜まった涙を人差し指ですくった。口付けるようにして味わう。
「高タンパクだな」
 これには笑ってしまった。
「ほんとに?」
 感情に由来する涙は、刺激によるものよりも高濃度のタンパク質を含む。らしい。おおよその見解であり、判明しているのは感情と涙の成分の間には何らかの作用があるといった程度のものである。普段からあれだけ苦いコーヒーを摂取している舌に、そんな繊細な分析ができるとは思えない。この人なりの冗談だろう。
「貴方、あれをどう見ます?」
 イッシュ様が訊いた。目は扉の向こうを見つめている。
「オレには探っているように思えたが」
「ですね。ジュリアの出方を窺っていたのでしょうか」
「それほど器用な人物でもないだろう。狡猾だが、感情に振り回されている」
 ショックだったんだろうさ、と司祭は言った。
 ショック、と助祭が繰り返す。
「妹の死だよ。子爵は今しがたその現実を耳にしたわけだろう」
「ただの記号なのでは?」
「そんなわけあるまいよ。図像から肉を取り払いでもしなければ、正気を保っていられなかったのだ。愛した女が自分の元を去った事実から、目を逸らそうとしたんだよ。ジュリア、お前は謂わば、背信の証なわけだ。あの男は信じていた聖母に見捨てられてしまったんだな」
「だからといって、ジュリアを傷付けていい理由にはなりません」
「それはそうだ。その通りさ」
 だから思う存分、泣くといい。そう言って、神父はジュリアの二の腕を抱いた。
「まあ、鼻は利くようでしたね、伯父さんのほうは」イッシュ様がほくそ笑む。「ノーリントン伯爵については、適切な友好関係を保ちましょう。あの手の人物は不義を許せない。愛情が大きければ大きいほど、憎悪に塗り替わった時、闇は深さを増すでしょうから」
「ああ……潔癖な人間ほど、心の奥底では悪に惹かれているものだ」
「考えないようにすることで考えてしまう、というやつですね。思考のメタ化かあ。人間てのはほんと、理屈に不向きですねえ」
 勉強になるな、と助祭は独白した。
「ところでジュリア。貴方のその涙を、私は怒りと見ましたが如何か?」
 ジュリアは泣きながら笑った。「はずれです」
「むむ。では諦観? 傷心? それとも単なる困惑ですか」
「全部だろ」
「全部! 欲張りですね!」
 鐘が鳴った。時計を見る。長針は数字の七を指し示している。仕切り直して団欒というわけにもいかない空気だった。ジュリア達は帰ることにした。廊下に控えていた侍従にその旨を伝えると、伯爵はすぐにすっ飛んできた。どうやら伯父は捕まらなかったようだ。今日のところは諦めることにしたらしい。伯爵は重ね重ね丁重に詫びた。誰が悪いとも思わなかったから、どうか気にしないでくださいと答えた。後日改めて謝罪がしたいとのことで、連絡先を交換した。律義な人である。
 別れ際、伯爵は聖職者二人に握手を求めた。どうかジュリアをよろしくお願いしますと、祈ってくれたのである。
 その矢先なのだから――本当にこの人はどうしようもない。
「大人しく抱かれなさい……!」
「絶対に嫌です……!」
 帰りの車中である。ジュリアと助祭は後部座席で互いの矜持をかけた攻防を繰り広げていた。運転席の司祭は我関せずを決め込んだようである。
 助祭曰く、
「一度やってみたかったんですよね、カーセックス~~~~~~」
 最低だった。
 あまねく信仰に対する宣戦布告である。伯爵が耳にしたら泡を吹いて卒倒していたことだろう。
「そ、そんな気分じゃ、ないです」
 伸し掛かってくる体を足で押さえながら、ジュリアは息も絶え絶えに言う。
 対して、助祭は余裕な態度を崩さずに、こちらをせせら笑った。
「気分じゃないからこそでしょう、こういうのは。好きだなけ嫌がってもらって構いませんよ。それだけ私の昂ぶりは増し、またあなたの体勢は不利になるばかりです」
「うう……エハヴ様、助けて」
「助手席に座らなかったお前が悪い」
「なんだそれ!」理不尽極まりない。
 窓外を流れる景色は未だ街中である。橙色の明かりの点いた家々と、店仕舞いを始める露天の数々。大都市ともなれば、夜間でも人の数は多い。ノーリントン伯爵につれられて首都郊外まで来てしまったので、田舎も田舎、国土のほぼ南西端に位置する我らがイェシュア教会に帰り着く頃には、夜明けを迎えているだろう。人目もさながら、休みたいというのが正直なところだ。殺人事件といい、今回のことといい、立て続けに齎される情報の数々に頭の芯が痺れたようになっている。
「隙あり!」
「わあっ」
 狭いワゴン車である。座席に横になるには足を畳まなければならない。そこに絡まろうとすれば、身動きなんて取れるはずもないのだ。押し倒された時点でジ・エンド。脇を擽られて笑いながら身を捩る。イッシュ様の色素の薄い唇が、悪戯にジュリアの耳介を食んだ。頬に触れる髪がなんともこそばゆい。
「ん……っん」
「ふふ……」
 気付けばシャツの前が開かれている。見事な手際である。
 露わになった腹部を、イッシュ様の温かい手の平が、円を描くように撫でた。
「――このお腹から生まれ直せば、ジュリアのお乳が飲めるんでしょうか」
「それは……」
 ぞっとしない。
 不可能を可能にしてしまえるこの人のことだ。本気にならないことを祈るばかりである。胸の頂に吸い付いた彼の形のいいおでこを、ジュリアは複雑な心境で見守った。
 皮膚を舐め回されながら、緩むと感度が増すのはどういう仕組みなのだろうと考える。寒いより体が温まっているほうが感覚は鋭敏になる。緊張している時より相手に委ねている時のほうが快楽の波は高い。今だって、最初はこそばゆいだけだった愛撫が、徐々に官能的なものにすり替わっていく。舌の先でじっとりと嬲られればもう堪らない。舐められた箇所がじんと痺れて熱を持つ。頭の芯が蕩けて真っ白になる。突っ張った足の甲が空しく座席のシートを滑った。
「んっ……く、あぅ、っぅ」
「はぁ……んふふ、きもちよくなってきましたね」
「ふあ、あ」
 逃げる隙間がなくて、ジュリアはイッシュ様の二の腕に縋った。彼はジュリアのころんとした乳頭を甘噛みすると、音を立てて口付けた後、しがみつくジュリアの両手を取り、優しく指を絡めた。なんだかわからない磁力が発生して、二人はしばし互いの目を覗き込んだ。答え合わせをするような気分だった。
「続けても?」
 助祭が挑むように問う。
 やめてと言ったら、やめてくれる気がしたが。
「……はい」
 頷くやいなや、助祭はジュリアの唇に唇を重ねた。この人の唾液はほんのりと甘い。包み込まれるような優しい味がする。粘膜が触れ合う傍から一つになっていく心地がする。意外とキスって難しいものだ。呼吸のタイミングとか、舌を絡める強さとか、相手によってがらりと変わる。最初はジュリアがイッシュ様に合わせていたけれど、彼はこのところ待ってくれるようになった。受け身に捉えられがちだけれど、ジュリアも実は求めたがりなのだ。
 自分じゃあまり触れられない舌の裏側や、口蓋を溶かし合う。
 エンジンの蠕動も気にならないくらい互いを貪るのに夢中になる。
 髪を撫でられて涙が出そうになった。あれだけ泣いたのに、ジュリアの心はまだ震え足りないらしい。
 無意識に股座を彼の体に押し付けていたようだ。イッシュ様は澄ましていた相好を崩して、
「えっち」
 と、揶揄った。
 ジュリアは顔を真っ赤にして謝る。
「ご、ごめんなさい……」
「はしたないんだから」
 そう言って、彼は強い生地を押し上げる下肢の膨らみを撫ぜた。身震いするこちらを愉しそうに見下ろしている。
「でもそんなところも可愛い」もっと見たいな、と言う。「ねえ、良いでしょう? ここには僕達しかいないんだから。誰に義理立てする必要もありません。主もまた瞳を閉じ休息の最中だ。僕達だけが本当のあなたを視ることができる。この場所は何人にも譲りませんとも。ええ、本当――善い眺め」
 さあ、言って御覧なさい。助祭はジュリアの瞳の縁を指で抑える。
「僕にどうして欲しいですか」
 彼の温かい手に指を添え、ジュリアは応えた。
「触って……」
 返事を聞くが早いか、助祭はジュリアのベルトに手をかけた。ズボンを引き下げるのに合わせて腰を上げる。
 おいケダモノ、と野次が飛んできた。「絶対に汚すなよ」
 イッシュ様は盛大ににやける。「あんなこと言ってますけど、痛くてたまらないんですよ。どこがとは言いませんけど、」
 車体が急カーブした。
 助祭の生白い額が窓ガラスに勢いよく突っ込む。
「いたあっ」
「急な曲がり角だったな」
「嘘おっしゃい! この、盗人同然の大法螺吹きめ。地獄に堕ちるがいいっ」イッシュ様ははっとした。「……もう堕ちてた!」運転手は悪魔だった。
 ごほん、と改めて、
「さあ、吠えるだけの外野なんか無視して、続きとしゃれこみましょう」
 性急な手つきで下着を脱がす。助祭はお椀の形にした手の平に唾液を溜めると、指に絡めてジュリアの内側へと挿し込んだ。
「ひ……っ」
「じっとして。暴れると痣を作ります」
 入り口を広げる指はすぐに二本に増やされた。短く切った爪が悪戯に縁をなぞる。背筋が、ぞくぞくした――どうやら自分は、雑な抜き差しも気にならないくらい、飢えている。
「どうします。いきなり結腸責めてもいいですけど」
「だ、だめ……すぐイっちゃう……」
「じゃあベッドの中にとっておきましょう」脛に音を立てて口付けた後、イッシュ様は運転席に向かって言った。「ねえ、帰ったら3Pしません? 僕達、三人という特性を生かしきれていないと思うんですよね」
「帰ったら言え」
 助祭は肩を竦めた。
「腰上げれます? そうそう、足はシートに掛けちゃって……出る時は言ってね、受け止めるから」
「んん……っ」
 太く熱をもったそれが、蕾のような穴を押し潜り、襞をこすりながら奥へ奥へと突き進んでくる。目の前に火花が散った。ジュリアは手元にあったシートベルトをきつく握りしめる。接合部を脅かす僅かな痛みは、しかしやがて訪れる快楽への期待を高めた。
 最奥まで辿り着くと、イッシュ様は旗でも立てるみたいにジュリアの瞼に口付けた。無意識に逃げようとして扉にぶつけそうになるジュリアの後頭部に手を添えてくれる。
「はぁ……きっつ。それに狭いな。暑いし」
「でも、い、いつもより、近い、気がします」
「なるほどこれが車内プレイの醍醐味。ちょっとレイプっぽくなるのも興奮しますね?」
「それはいつも通り、ぃい、ぁ……そんな、きゅ、急に、うごかな、で」
「あー。けだもの最高」
「うッ、あ、あぁっ、は……はっ」
 ろくに慣らしてもいないのにガン突きである。視界に白い光が溢れ、意識が断絶する。嬌声は甲高くなり、手足のひきつりが増す。
 ――穢い声だ。
 あん、とまるで少女のように喘いだ時、ジュリアの脳裏にさげすみを湛えた翡翠の瞳がまざまざと甦った。
 きたない。
 何をもって、彼はジュリアを穢れているとしたのだろう。どんな声色ならば、彼のお気に召したのだろう。こんなの気にしたって詮無いことなのに、ジュリアは突然、声を出すのが怖くなった。
 それにしても、酷い言い草だった――。
 こちらが何も言い返さないのを良いことに、あの男、言いたい放題だったではないか。いくら血縁者だとしても許せないことはある。あまつさえ母まで侮辱した。自分の妹である女性を、もう死んでいると知りながら。先は混乱と緊張で感覚が鈍っていたけれど、思い返してみるとどうにも、納得がいかない。
「なんか――腹立ってきた」
「え!?」
 必死こいて腰を振っていたイッシュ様が瞠目した。
 ジュリアは続ける。「どうしてあんな言い方しかできないんですか。ねえ?」
「な、え?」珍しく虚を突かれたらしい彼は、狼狽えに狼狽えて、「ど、どれですか? でもほら、言葉責めってのは、雰囲気作りにも重要じゃないですか。そりゃちょっとさぶいことも言いますよ、といっても、敢えて、敢えてですよ? プラセーボ効果で可愛いと言えば可愛くなるでしょう。えっちだねって言ってればえっちになるでしょう!?」
「いえあの……伯父さんuncleの話です」
おじun――」イッシュ様は運転席に目をやりかけてから、「あ、ああ! 伯父ね! 年配のことではなくてね」
 おい、と不服そうな声が上がる。
「それで?」イッシュ様は無視をした。「シュルズベリー子爵がどうかしましたか」
「その……ほんとにお母さんのお兄さんなのか疑わしいくらいの人だったなと」
「……」イッシュ様は口をへの字に曲げた。「それって今、蒸し返すことですか?」
 司祭がわははと笑った。車の軌道がちょっとだけぶれる。「お前が下手糞過ぎて退屈だったのだろ」
「はー!?」助祭は人の上に跨ったまま猛烈な抗議を始めた。「そんなわけないでしょう! 全てフリだと言うのですか!? あなたと違ってジュリアは正直な子です、体にね! 散々あんあん言っておいて、そんな、嘘だなんて」
「それが言葉責めがどうのとほざく奴の言い分か。相手も雰囲気を大事にしているとはなぜ考えないんだ」
「そ――」
 イッシュ様の瞳が揺らいだ。この人は他者への想像力の欠如に並々ならぬ劣等感を抱いているのである。本当は手に持っているのに、ないないと探している。そんなことありませんと言ってあげるのは簡単だった。ジュリアはしばし思案する。
「そうなのですか……?」
 イッシュ様が自信なさげに問うた。
 ジュリアはいい加減焦らされるのも限界で、
「最後まで優しくしてくれたら教えてあげます」
「……そうきたかー」わかったわかりましたと彼は納得した。「そうしましょう。隅から隅まで丁寧に、愛して差し上げましょうとも」
 司祭の舌打ちは聞こえなかったことにする。ジュリア達は口付けを交わした。今日一番濃いやつを。甘くて柔らかい舌は、きっと噛み千切って咀嚼しても美味しいだろう。甘噛みすると、イッシュ様は嬉しそうに笑った。
「ゆっくり……ゆっくりね」
 ずるり――と緩慢に引き抜いた後、肉の感触を楽しむように挿し込む。彼の動きに合わせて、ジュリアは熱い息を吐く。
「はぁ……あ、ん、そ、そこ」
「ここ? いい?」
「はい、はい……」
「全くもう……ずるいんだから」助祭はジュリアの蒸気した頬に触れた。「顔立ちも、表情も、体も、心も、声も、何もかもよくできている。まるで天からの贈り物だ。改めて父に感謝しなければなりませんね」
「へ……変じゃ、ないですか……?」
「変とは? 一体、貴方の何をしておかしいなどと形容するのです?」
「……声、とか」
「とんでもない。もっと喘いで。もっと聞かせてください。こんなにも愛らしい嬌声を、抑えてしまうなんて勿体ない。心無い言葉になど耳を傾ける必要はありません。そこには文字通り、どんな情も宿っていないのですから。貴方が返さなければならないものもまた、存在しないのです」
 答えられず、ジュリアはただただ頷いた。宙ぶらりんだった足をねだるように彼の背中に回す。勢い任せでない緩徐な律動は、快楽の痺れを与えてくれる。興奮は限界を超え、融けてしまおうとしていた。
「あ、あっ、い、いっしゅさま、も、もう、いきそ、」
「じゃあ一緒にイきましょう」
「んん、んー……っは、はあ、あんっ、あ、あ……!」
 世界が真っ白に染まる一瞬の間隙だった。
 車が急停止した。
「わあっ」
「痛い!」
 天井にぶつけた助祭の後頭部から、西瓜が割れる時の音がした。
「ちょっと‼」
「赤信号だ」
「なんて人だ。これだから高齢者運転には反対なのです! 問題起こす前に潔く免許返上しなさいよ!」
 もう、とイッシュ様は汚れた手で髪を搔き乱す。
「なんなんだ、このコメディターンは! せっかくえろい感じになるように頑張っているのに! ただでは餌にありつかせないぞという強い意志と作為に満ちた波動を感じます。はーあ。もう気分は中折れ。すっかり萎えちゃったな」
「え……?」
 助祭はジュリアに覆い被さるようにして、動かなくなった。
 寸止め状態のジュリアは顔を真っ赤にして彼の肩を揺らす。
「あ、あの、イッシュ様」
「続きは帰ってからにしましょう。僕らに野外はまだ早すぎた」
「そ、そんな、この状態で? ねえってば。せめて一回――」
 このままでは内に熱がこもっていけない。官能を諦めるのは構わないが、事務的にでもいいから処理してほしいところである。
 ところがどっこい、助祭はすぐに寝息を立てはじめた。
 ジュリアは頬を引き攣らせる。
 この男、騒ぐだけ騒いで疲れ果てたとでもいうのか。そもそもまだ物はジュリアの中に入ったままである。どかそうにも、この狭いスペースでは力の込めようがない。
 ――重い。
 司祭に助けを求めようかとも思ったが、やめた。疲れているのはこちらも同様だった。色々と中途半端だが、瞼を閉じれば、どうしたことか睡魔は襲ってくる。家に着くまではまだかかるだろうし、この有様で意識があるというのも不都合だから、眠れるなら眠っておこうと思った。ジュリア達は後部座席で折り重なって眠りに落ちた。セックスの最中に銃撃されたみたいな恰好で。
 眠りは深かった。
 わん、という犬の鳴き声で目が覚めた。
 犬に伸し掛かられる夢を見たのである。気付けばジュリアは、自分の上で眠る助祭の頬を一生懸命に押しのけようとしていて、やっと襲い掛かるそれが眠る人間であることに気付いたのだった。ところが、またわんと犬が鳴く。夢現に、わんとは、と考える。どこから聞こえるものだろう。幻聴だとしたら、自分はよほど癒しを求めているに違いない。
 車は停止していた。
 紫煙の香りがした。暇を持て余した司祭が煙草をふかしているようだ。
 イェシュアには着いたのだろうか。
 イッシュ様、と滑らかな頬を抓る。
「起きてください。イッシュ様」
「……あら……」助祭は寝惚けた様子で身を起こした。ジュリアの顔をじっと見つめる。「天使がお迎えに来てくれたのかと思いました」
「冗談」
「ああ……しかし、そちらは歓迎ムードといった調子ではありませんね」
 窓の外に向かって言った。ジュリアは視線を上げて、
 色を失った。
 闇に染まった人影が中を覗き込んでいる。
 赤茶色の二つの眼球が、感情を殺した目でジュリア達を見ていた。
 こんこん、と指の背で窓をノックする。
 ジュリアは今一度、自身の姿を見下ろした。上衣ははだけ、下半身に至っては性器が表に出ている。下の穴は未だイッシュ様のもので塞がっていた。
 とてもじゃないが、人前に晒させる光景ではない。
「あ……う、うそ」
 車はとうに教会へと到着していた。
 犬の鳴き声がする。
 威嚇するみたいに吠えている。
 ハウエルは静かに立っていた。嫌悪も、憐憫も、その瞳には宿らない。
「ハ……ハウエル……あ!?」
 イッシュ様が無理矢理に動いた。抜こうとしたのではない、ジュリアの腰を揺さぶったのである。乾いた中が痛みに引き攣り、ジュリアは慌てて退こうとしたが、逃げる隙間などここにはないのだった。奥深いところをとんとんと突かれる。途絶させられた性欲が湧き上がり、悪戯にジュリアを励ました。
「嘘、やめて、やめてイッシュ様、んあッ、ねえ、ねえってば!」
 イッシュ様は攻撃の手を緩めずに、身を乗り出して窓を下げた。ジュリアは悲鳴を上げる。せめて声だけは聞かれぬようにと、口を必死で抑えた。
「何用ですか」
 イッシュ様は眉一つ上げずにそう言った。
 ハウエルはそれには応えず、ジュリアの痴態を醒めた目で見下ろして、どっち、と訊いた。
「それって――どっち?」
「え、え……?」
「ジュリアが好きでやってるの? それとも――」
「あ――」ジュリアは反射で答えた。肯定しなければならない気がした。「も……勿論……」
 好きで、と言う。同時に強く腰を打ち付けられて、堪えた甲斐もなく喘いだ。「ひあッ、あ、ぅあ、い……いっしゅさま、も、やめて、み、見られて、ぇ」
「だって教えてあげないと――僕達は愛し合っているんだって」
 証明して、と言う。ジュリアは羞恥と快感で回らない頭に鞭打つと、震える腕を伸ばして助祭の首を探り当てる。ぐっと引き寄せ、薄桃色の唇に口付けた。被さることで覆い隠してほしかったのもあるし、先の事件で友人のレイプに傷ついたハウエルの誤解を解きたい思いもあった。半分はやけくそであり、悪手でしかなかったが、弾けた思考ではこれが限界だった。夢中になってキスしている間に、ジュリアは達した。
 ハウエルはいつの間にかいなくなっていた。傍らに寄り添っていただろう猟犬と共に。

 二度と彼の前でああいうことはしないでくれと、散々助祭に言い聞かせ、不承不承ながら顎を引かせた後、ジュリアは気まずさをひた隠しながら自室の扉を叩いた。
 ハウエルはジュリアのベッドに横になっていた。空いた部屋が他にないから、ここを貸しているのだった。押し掛けとはいえ、友人をソファで寝かせるわけにはいかない。幸い、ジュリア達の寝室は別にもある。
 床に蹲っていたアイリッシュ・セッターが、長い毛を引きずりながら寄ってきた。
 頭を撫でてやると、鼻の先で鳴いた。名をガーリィという。やはりハウエルが拾ってきた犬らしい。
「ハウエル……」
 一拍遅れて、何、と返事がある。少々尖りのある言い方である。ジュリアは犬の温もりに頼りながら、さっきはごめんねと返した。
「び、びっくりしただろ……もう、しないから……」
「……ジュリアは二人と付き合ってるの?」
「え?」
 こちらに背を向けたハウエルの表情は窺えない。声色は固くもなく柔らかくもない。ただ、いつもの能天気さが欠けていることは事実だ。それだけで一大事のような気がする。
「わ、わからない……」ジュリアは正直に言った。「あの人達が、どういうつもりなのかは。お……俺は一応、エハヴ様と、その……恋人の、つもり……でもイッシュ様も大切だし……エハヴ様は、何も言わないし……」
「何だよそれ。どっちつかずじゃん」ハウエルは上体を捻り、ジュリアの顎の辺りに目をやった。「そういうのってはっきりしておいたほうがいいんじゃないの」
 思いがけない強い言葉にジュリアはたじろいだ。そんなの考えたこともなかったし、第三者に指摘されることもなかった。他人の入り込む領域が、これまでこの家にはなかったからだった。自分の部屋なのに逃げ出したい衝動に駆られる。犬の生温かい舌がジュリアの手指を舐めた。ジュリアはされるがままに任せていた。
「ほんとにそれでいいの」
 ハウエルは訊く。
「そう思わされてるんじゃなくて?」
「……なんだよ」
 自分は隠し事ばかりのくせに、人には開示を要求するのか。ジュリアにだって言いたいことはたくさんあるけど、我慢している。機嫌が悪いんだか何だか知らないが、八つ当たりのように不満をぶつけられても困る。殊勝に謝りにきた自分が馬鹿みたいだ。さっさと寝てしまえば良かった。
「も、問題を先送りにしてるのは、君のほうじゃ、ないのか。聞いたぞ、シアシャから」
「……」ハウエルは口先を尖らせた。「それで?」
 どう思った、と訊く。
「どう、って」
「怒った?」
「怒る?」どうだろう。少し考えてから、ジュリアはああと一人納得した。「怒ってるかもね。先生に対して」
「……どういう意味?」
「だって勝手に死ねば良かっただろ、あんな奴」
「――――……」
 ハウエルは驚いた顔でジュリアを見上げた。
「君が手を汚す必要なんてなかったんだ。いやそれ以前に――俺がもっと、しゃんとしていれば――」
 告発も叶ったことだろう。ジュリアの罪は考えることを放棄したことだ。大人達の勝手な言い分に流されて、抗うことをしなかった。その結果、エトネとハウエルを袋小路に追いやってしまった。世の中には残虐な事件が数多存在するが、加害者ばかりが悪いとは、ジュリアにはどうしても思えない。見て見ぬふりというのは、同罪とまでは言わないけれど、少なからず不幸を生み出す遠因ではある。たった一言が誰かの将来に繋がったかもしれないことを思えば、その努力を惜しむのは勿体ない。聖人君子を目指すつもりはないが、ジュリアの怠惰な行動の末、被害に遭ったのは友人だった。悔やんでも悔やみきれないとはこのことだ。
「ジュリア……それ本気?」
「……うん」
 ごめんね、と零す。
 ハウエルは瞳を光らせたかと思うと、がばと起き上がり、前触れなく飛びついてきた。退けられたガーリィが避難がましく吠えたてる。友の体重を支え切れなかったジュリアは、踏鞴を踏んで壁際まで後退した。がっしりとした背中を抱く。
「ちょっと、危ないよ」
「ジュリア」
 おれね、と言う。
 うん、とジュリアは頷く。
「なに」
「……」
 固い毛先がジュリアのうなじを擽った。
 彼はそれ以上先は口にしなかった。ジュリアもまた、怖くて聞くことができなかった。人殺しを憚りもせず明言できるようなこの青年が、一体何を言い淀んだのか、何を躊躇ったのか、想像するだに恐ろしかった。ジュリアなんかよりよっぽど気丈で、体も大きくて、人間を知っているだろう友が、何に怯えているのか――。
 勇気づけるようにハウエルの肩を叩き、ジュリアは顔を離した。お腹すいてない、と語尾を上げて訊ねる。
「パイ、包んでもらってきた。すっごい美味しいよ。食べない? もう、ほとんど朝だけど……」
「そうだよ、遅かったから心配した。どっか寄ってきたの?」
「うん……色々あったんだ、ほんとに。びっくりするようなことばっかりで。その辺の話も聞いてくれる……?」顔に熱が集中するのがわかった。これだけのことを切り出すにも、ジュリアは気力を振り絞らなければならない。「勿論、君に興味があればで、いいんだ……」
 あるある、すごいある、なんて適当に相槌を打ち、ハウエルは荒っぽくジュリアの二の腕を抱くと、階下へと誘導した。居間では助祭が紅茶を淹れていて、仲良く登場したジュリア達に憤慨すると、早々に引き剥がした。助祭の整った若々しい相貌を矯めつ眇めつし、あんたはいい、とハウエルが偉そうに言った。でもあんたは駄目だ。指差されたのは司祭である。彼は本に落としていた視線をもたげ、片眉を上げることで抗議した。
「嫉妬もされないんじゃジュリアが可哀想だ」
 男の風上にも置けないと、こう言うのである。面食らったジュリアはあのとかそのとか呻くことしかできず、そんなこちらの様子を窺ったエハヴ様は、少しだけ寂しそうに笑って、コーヒーカップに口をつけた。
「……善処する」
 僕はいいってどういうことですかとイッシュ様が声を上げたけれど、誰も取り合わなかった。
 どうでもいいってことだろうなと、なんとなく思ったからだ。
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