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「Ask, and it will be given to you」
「Vanity of vanities, all is vanity 空の空。一切は空」 一章一節
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書斎の模様替えをした。
窓を自由にしたかったのだ。ぐるりと書棚に囲まれるだけでは飽き足らず、足の踏み場もないほど本が積まれた室内。家具といえばローテーブルとソファのみだが、それも本来の用途を果たしているかというととても怪しい。窓についても、ほんの少し開けられる程度の隙間しかなく、空気の入れ替えはほとんどできない始末であった。その閉塞的な空間で煙草をふかすのだから、当然、空気は淀み沈殿する。
そんな折、副流煙は体に良くないそうです、と鬨の声が上がった。
イッシュ助祭である。
彼はこのところテレビに齧りついて熱心に世間の情報を集めているのだが、とりわけ印象に残ったのが、煙草は人体に有害というトピックだったようだ。そんなことは百も承知で嗜んでいる愛煙家も、隣人に及ぼす害を盾に取られては頷く他なかった。何でも、煙草は直接吸うより、付随して吐き出される煙のほうが有毒らしいのである。つまりイッシュ様は、いつも隣で本を読むジュリアの健康を主張したわけだ。
渋々とはいえ、司祭は重い腰を上げた。
司祭館には自分を含めて三人の人間が住んでいる。陰気な研究家のエハヴ司祭と、彼の補佐を担うイッシュ助祭。そして一年半ほど前にそこへ転がり込んだ、ジュリア・オルビー。二人とは違い、聖職者でもなんでもない自分は、未成年なのを良いことに保護という名目で居候を決め込んでいたわけだが、そんな言い訳も今年の頭で通用しなくなってしまった。
この国での成人は十八歳。
ジュリアも遂に、大人の仲間入りを果たしたわけである。
目先の仕事や将来について、いよいよ考え始めなくてはならない――いや、むしろ遅すぎるくらいなのだ。
いつまでも自堕落に飼われているわけにはいかないのである。
しかし、そんな憂慮も白紙に戻すかのように、彼らは夜毎、ジュリアに口付け、肌を撫で回し、秘められたる奥の奥まで犯すのだった。考えることは許さないと言わんばかりに。離れようものなら、きっと自分は無事ではいられない。そんな予感さえ植えつけられる。
自立と別離が同義だとは思わない。
ジュリアにはお二人の元から離れる意志はない。
それなのにどうにも――彼らは人間の自由への渇望を過信しているきらいがある。人は旅立つものだと決めつけている。
ジュリアが欲しいのは、ここに居るための手段だ。
例えば、お二人の仕事の手伝いができるような。
例えば、お二人の研究の一助になれるような。
――それはもう、一つの答えになっているわけだけど。
模様替えの話に戻ろうか。結論から言えば、書棚を一つ減らし、ジュリアの部屋に移動した。お気に入りのSF小説と様々な学問の入門書付きだ。おかげで狭かった書斎は僅かばかり物が減ったが、その空いたスペースにまた本が積まれることになるのだろうと思う。窓辺は下に横たわれるくらいの広さは確保できたので、二人並んで紫煙を楽しむことができるようになった。イッシュ様の懸念が払拭されたかどうかに関しては、自分から言えることはない。
しかし、外が臨めるだけで開放的な気分になる。
鬱々とした書斎は、自然の明かりが取れるようになっただけで、がらりと雰囲気を変えた。
……とはいえ、やることは変わらないのだけど。
「あぅ、う、……い、いっかい、とま、とまって、……あぐ、ぁ、い、イってる、イってるからぁ、あ」
「たまには、いいだろ。乱暴なのも」
「たまにじゃ、ない……ッ」
開放的になったのは気分ばかりではないらしい。窓を開け放ち、春の麗らかな陽気に誘われて、本能もまた刺激されたようだ。激しい運動のおかげで熱を取り戻した手が、ジュリアの腰をがっちりと固定して、暴力的な快楽を逃す術を奪っている。ジュリアの陰茎は萎えているにも拘らず透明な液を垂れ流していた。絶え間なく溢れてしまう感覚は放尿のそれと似ていて、羞恥と困惑で頭がいっぱいになる。とても悪いことをしているような気がする。年季の入った指先が、まるで揶揄うようにジュリアのものを触った。体の芯を貫く性急な律動とは裏腹に、少し濁った液を指にからめるようして性器の表面を捏ねる。どくんと心臓が大きく跳ねた。死んでしまうとすら思う。喉から漏れ出る言葉にならない呻きは、より現実を曖昧にさせる。早く終われとも思うし、もっとしてほしいとも思う。きもちいいのは大好きだけれど堪えがたい。このまま穿たれ続ければ、自分を見失ってしまう気がする。臨界点の先には、尊厳など糞くらえと笑い飛ばせるほどの極地が待っているのだけれど、キマるとなかなか抜け出せないし、やはり自失するのは怖い。いや、己を失うというよりも、何かに取って代わられるような感覚と言ったほうが近いかもしれない。
本能、というやつなのだろう。
意識を凌駕する、生命の本質。
理性で操作しがたい深層の心理。
綺麗なセックスなんてないなと思う。どんな美丈夫だって、お尻丸出しでへこへこ腰を振っている様というのは、安い笑いを誘う。また、大の男が懸命に腰を反らし身を捩り、足を開いて相手を誘うのも滑稽だ。
曝け出し、暴かれる。これこそが、コミュニケーションの真髄……なのかもしれない。
「はんっ、ぁふ、あ、あ、あッ、……ふ、ふぅ、も、や、やだ、い、息、できな」
「ジュリア……」
「ん……」
耳元で囁かれると、それだけでどんな横暴さも許せてしまうのだった。
ソファに四つん這いになった足はすっかり震えている。ちなみに幾度も調度を買い替える羽目になったイッシュ様が業を煮やし、常に厚手のタオルを敷くようになったわけだが、よりエハヴ様の悪戯の頻度は増したので、イッシュ様の行動はことごとくが空振りに終わっている。本だけは汚すまいとジュリアは気を遣っているけれど、部屋の主はどうもその手のこだわりはないらしい。本はあくまで情報媒体、表紙が汚れようがページが折れようが、読めればそれでいいようだ。精液でパリパリの哲学書を読むのは、さすがに気が引けるようだけど。
悩まし気な吐息と共に、ジュリアの中に種が吐き出された。ぐっと連結を深め、これでもかというほど奥に放出された熱は、泡立つコールタールのように襞に纏わりついた。戒めのようだ。皮膚に呪いを刻み付けるように、この人はジュリアを抱く。そんな蹂躙される感覚も、愛の一言で片づけてしまえるのだから――自分も大概か。
司祭はジュリアの首筋に噛み付いた後、耳にふうと吐息を吹きかけた。
「は、ん……」
膝から力が抜けた。彼はジュリアの体をすくって、自身の胸にもたれさせる。とんとんと自らの顎の窪みを指で叩くものだから、ジュリアは笑って、色の悪い唇に吸い付いた。存外、甘えたなのである。
「ん……」
「ふ、……ん」
「それ、悪くない」唇を離すと、司祭はおもむろに言った。
「どれ……?」ジュリアは訊き返す。
「その、ふにゃっと笑うやつ」
「ふふ。なにそれ」
司祭は応えずに、ジュリアの汗で濡れた前髪を掻き上げた。生え際をぺろりと舐める。
「風呂に入れてやる」
なんて、少しばかり視線を外して言うのだ。一応、昼から盛り上がってしまった引け目はあるらしい。気難しい彼の顔立ちに、そんな殊勝な態度は似つかわしくない。けれど、そうやってあどけない表情を見せてくれるのが、ジュリアはとても嬉しいのだ。
彼に好きだと言われた笑みを浮かべ、ジュリアは言った。
「ドライヤーもしてくれますか」
「ああ。伸びたからやりがいがある」
ジュリアは自分の首筋に触れた。襟足の長さは、もう一つに縛れるほどだ。
「切ろうかと、思ってるんですけど……」
「なぜ?」
「だって……女の子みたいだし」
これでも己の女々しさというか、女らしさのようなものを嫌厭してはいるのだ。なんといっても、ジュリアには自分が男だという自覚がある。綺麗でありたいとは思うけれど、少女のようになりたいと望んだことはない。
「イッシュが悲しむぞ」
「あの人はちょっと変わったプレイがしたいだけです」
「飽きを厭うからなあ」イッシュ助祭は衣装や場面設定において並々ならぬこだわりをお持ちなのである。
ふと、思いついたことがあって、ジュリアは訊いてみた。
「あなたは?」
「ん?」
「エハヴ様は、どっちが好きですか。髪が長いのと、短いのと」
彼はうーんと唸った。
「あまり差があるようには思えん」
「ほら……好みの、タイプとか」
「好み?」
「強いて言うならでいいんです」
「ならウェーブでもかけろよ」
お揃いの感が出るだろう、と言う。
ジュリアは天井を睨み、頭の中に自分達を並べてみた。緩いパーマをかけた自分と、元から犬みたいにくるくる頭のエハヴ様。
残念ながら、友達にも親子にも恋人にも見えなかった。
そのどれもが当てはまりそうな二人なのに。
ジュリアはたっぷり三十秒は考えた末、それもいいかも、なんて曖昧な結論に達した。訊いてはみたものの、結局、どちらでも構わないのだった。煩わしくないうちは、このまま伸ばしてみようと思う。
――可愛くいられる間は、それに縋っていよう。
どうせ人間なんてすぐに老いて醜くなるのだ。可憐だなんだともてはやされているうちが華なのだ。彼らがジュリアの容姿を好ましいと言うのであれば、それに越したことはない。
ジュリアは未だ自身を貫いていた彼からゆっくりと腰を引き上げると、今度は正面から彼の股座に跨った。勢い衰えず、怒張するそいつを再び尻の谷間に沈めていく。
「は、ぁ……」
痩せた腿の上にぺたんと座り込む。前から抱き合うと、司祭は背が高いから、ジュリアのおでこは丁度相手の首筋に埋もれる恰好になる。とても据わりがいいので、そのまましばらくじっとしていた。司祭はジュリアのするに任せた。口では何と言おうと、この人に乱暴なんてする勇気はないのだ。たまに苛立ちが抑えきれないと思いもよらぬ皮肉が飛び出したりするけれど、そこに働いているのはついつい吠えてしまう子犬と同じ原理であって、根本は繊細で感情に敏感なお人なのである。ジュリアに嫌われようものなら塞いで部屋から出てこなくなるだろう。惚れた欲目もあるだろうが、ジュリアはそう断言できる。
このまま――。
時間が止まってしまえばいい。そう思った。進化と退化を投げ出す代わりに、愛する人との永遠を手にする。ロマンチックじゃないか。ロマンとは、得てして願望を含むものだけれど。
エハヴ様は普通とは違う。
人間ではない。なら何なのかと問われたら、ジュリアは未だ、うまく説明することができない。彼自身は、そう特別なものではないと言う。ただ、神に被造され、人よりも長い寿命を得ているというだけで。イッシュ様とエハヴ様の役目は人の繁栄を見守ること。そして、その終末を見届けることだ。
人ならざるものであるこの人を置いて、自分は先に死ぬ。
それは抗いようのない事実だ。厳然と目の前に聳え立つ壁。ジュリアの前にだけそれはある。この人の行く先にそれはない。手に入れば手に入るだけ、その先のモノが欲しくなる――平穏と愛の次は、時間というわけだ。
欲深さは罪らしい。
神様が言うのだからそうなのだろう。執着も依存も渇望も、魂を貶める大罪だ。宗派によっては念じることさえ直接の罪になりうるという。きっと罪を犯した魂は、たくさんの鎖にがんじがらめになって、たとえ肉体から解き放たれたとしても、重い楔のせいで天には昇ることができないのだ。ここに留まることができるのならばそれもいい。けれど、その限りでないのなら――ジュリアにできることとは何なのだろう?
エハヴ様を一人にはしたくない。
残されたこの人のことを思うと胸が締め付けられる。これまでも、そうやって傷ついてきたのだと、想像がつくから。
平べったい体をぎゅっと抱きしめると、司祭は首を傾けてジュリアの顔を覗き込もうとした。
「泣いてるのか」
「いいえ」
「ならこれから泣くんだな」
司祭の喉が鳴った。お腹に響くいい音だ。
「誤魔化すのと慰めるの、どちらが入り用か」
「……どっちも」
「いいぞ」彼は不敵に笑い、ジュリアの顎を持ち上げた。「それでこそ人間というものだ」
この人の言うこういう理屈が、ジュリアにはいまいち理解できない。人間らしさはむしろ歓迎しがたい要素に思える。エハヴ様は人の醜い部分こそを愛しているかのように振る舞う。怠惰、強欲、色欲、高慢……ただ、人様に迷惑を掛けるのは、ちょっと違うらしい。彼は個人的な堕落が大好物なのだ。内に滾らせ、煮詰めに煮詰めた感情の泥こそが、エハヴ様だけが見ることのできる人間の真の姿なのだろう。
「あ、ん」
司祭が腰を揺らし、ジュリアはよれたシャツにしがみつく。時間が経ったせいで接合部の粘着きが増している。引き付ける僅かな痛みと、それを上回る浮遊感。昼も夜もこれだけ酷使しているのに、よく壊れないものだと思う――ジュリアはできるだけお尻に力を込めて、微細な振動を寄越すそいつが楽しめるように努力した。
激しいセックスも好きだけど、緩やかな刺激も大好きだ。少しずつ高まっていく情欲が骨の髄まで火照らせる。
「はぅ、あっ、あー……っは、お、おく、きもちぃ、です、んんッ」
「よしよし」
「う、ふふ……」
厭世家の彼にしては、意外と――可愛らしい慰め方であった。
こんこん、と彼はジュリアの中をノックする。ジュリアは扉を開く準備を始める。ぞわぞわと這い上がる快楽は酩酊に似ている。眩暈が、した――思考が白に侵略されて、神父様の計らい通り、ジュリアは考えることを忘れた。ああ、愛されている。この人の一番を、自分は今、独り占めにしている。その悦びは興奮を高め、嬌声を抑えきれないものにし、ジュリアの体の奥の奥まで詳らかにしてしまった。
「あ……っ」
その瞬間、訪れる快感を、ジュリアはいつも、波が押し寄せてくるように感じる。呼吸が苦しくて、溺れそうになる。けれどそれ以上に、最高にキマるのだ。律動が激しさを増す。恐ろしいほどの幸福から逃れようと反った腰に、丁度良く司祭の両腕が収まる。突き当たりを詰られた時、あまりの衝撃に意識が飛びかけた。緩んだ口元からジャンキーみたいな声が漏れる。恋愛中毒なんて呼称は生温い。きっとジュリアは重度の依存症なのだ。この人に心酔している。ジュリアの目には、神にも等しく映る。そんなことを言っても戸惑わせてしまうだけだから、絶対に口にしてやらないけれど。
ジュリアは今、神様に愛されている。
それってすごいことだ。
エハヴ様でなければできないことだ。
この人で、なければ――。
「あー……あう、ううう」
「――ジュリア」
愛しているよ、と言う。
ジュリアは達した。
不規則に痙攣する肢体と、野生じみた吐息。朦朧とする視界の中で、何かが――。
蠢いている。
「――――……」
そいつは開け放たれた窓枠に身を乗り出し、腕を振りかぶっていた。
手の平には拳大の石を握っている。
「え……!?」
どうやらその人物は外の壁をよじ登ってきたらしい。目的はわからずとも、何をしようとしているかは明らかであった。無茶な体勢ではあるが、ソフトボールなんかで見る投球の姿勢である。
司祭は気付いていない。
背中に目でも付いていなければ気付くまい。
「あ、駄目……!」
「なに――」
ジュリアは咄嗟に後ろ足に力を込めて、司祭を思い切り押し倒した。ソファに仰向けになった彼の上に跨った恰好になる。
直後、地震にでも見舞われたかのように目の前が回転し、頭部に受けた痛みを覚える間もなく、ジュリアは昏倒した。
目が覚めて、居間に降りると、旧友が椅子に縛り付けられていた。
ジュリアの驚き具合といったら、また軽く失神しかけたほどだ。青年の緩んだ笑顔はアンティークの調度に毛ほども馴染んでなくて、ベースボールキャップを被りポップコーンでもかっくらっていそうな様子だった。そんなのが縄でぐるぐる巻きにされているのだから、現実感が剥離したって仕方がないことだ。
ジュリアは何度も瞬き、目元を擦って、ようやくその名を口にすることができた。
「……ハウエル……?」
同じ孤児院で暮らした仲間である青年は、どもー、と目を細めて朗らかに笑んだ。
まるで状況が呑み込めない。
なぜ彼がここにいるのだろう。イェシュア教会の司祭館なんかに? それも悪事を働いたかのように拘束されて――。ふと、甦ってくる場面がある。窓枠にへばりつき、腕を振りかぶる闖入者。
ジュリアは混乱して文法を失った。
「石……」と、ハウエルの胸の辺りを指差して言う。「投げた、君?」
彼はにかっとがちゃ歯を見せて、「投げた!」
「え……? 何で……?」
理由が思い当たらなかった。そもそもあの場に居合わせたこと自体が不可解だ。わざわざ石を投げに遠路はるばるやってきたわけでもないだろう。
目を白黒させていると、他の椅子に腰かけていた司祭が立ち上がって、ふらつくジュリアを座らせた。
「本来なら極刑ものです」
イッシュ様がハウエルの周りを回りながらぴしゃりと言い放つ。
「ジュリアに傷をこさえるなんて……それも、よりによって顔! まぢ許せません。あなたが知己でなければ煮て焼いて喰っているところです。骨まで砕いて飲んでやります。ええ、塵一つ残しませんとも」
「だから、無理矢理してるように見えたんだって。そりゃ止めるでしょ」
ハウエルは苦そうに言った。
応える司祭も似たような顔である。
「止め方というのだがだな……まあオレに言えることは何もないが」
「合意の上ならそう言ってくれよなー」
弁明する余地もなかったはずだが。つまりこの子は、ジュリアがエハヴ司祭に服従させられていると早とちりしたらしい。悪辣な雰囲気を醸していたつもりはないのだけれど。端から覗いていたとは考えにくいから、おそらく外を歩いている時に、開いた窓から声を聞きつけたのだろう。改装までして窓を開放したことが仇となったわけだ。
そうして、身を挺して壁を登ってきたと。
勘違いとはいえ――俺を助けるために?
「だって随分、嫌がってたじゃないか」ハウエルは憤然と言った。「やだ、やだぁ、とまってえってさあ」
「や、やめろよ!」ジュリアは真っ赤になって身を乗り出した。そういうのは方便なのだ。なんというかこう、雰囲気に呑まれると自然と口をついて出るものなのだ……背もたれに手を掛けていた司祭がくつくつと笑った。
なんだよこれじゃ出歯亀だよとハウエルは嘆く。
「体張って損した」まあでも、と眉尻を下げる。「ごめん。つい、かっとなっちゃってさ。怪我させるつもりなんてなかったんだ」
ジュリアは額を擦った。
包帯が巻いてある。右目の上辺りを押さえると、鈍く痛んだ。
「いいけどさ、別に……」
怪我などよりもよほど重大な問題が残っている。
ジュリアはハウエルへと疑惑の目を向けた。
じっとりと青年のそばかす顔を眺めてみせる。いつもあっけらかんとした印象があった彼を、どことなくうらぶれて見せるのは、薄汚れた衣服のせいだ。明るく努めてはいるけれど、隠しきれない疲れのようなものが窺える。ハウエルはやつれていた。
問い質そうにも、上手い言葉が見つからない。
考えあぐねていると、物憂げな溜め息が場の空気を動かした。イッシュ様だ。
「全く。外から奇襲をかけるとは……千年の驕りを見せつけられた気分です。色々、見直さないとな……」
あなたもあなたですよ、と怒りの矛先を司祭へと変えた。
「こんな子供一人に後れを取るなんて。耄碌したのでは?」
「ああ――」エハヴ様は床を見つめた。「そのようだ」
助祭は閉口した。
奇妙な沈黙が下りた。
ジュリアは三人の間で視線をうろつかせる。イッシュ助祭は親の仇でも見るように司祭を睨んでいるし、エハヴ様はエハヴ様で心ここにあらずのようだし、ハウエルは我関せずとばかりに呑気に欠伸している。
傾いた陽が、部屋の半分を橙色に染めていた。
スリッパを脱いで、迫りくる境界線にジュリアは裸の爪先を浸した。ほんのりと暖かい。勇気を貰ったわけではないけれど、思い切って面を上げることができた。
何してたの、と震える声で訊ねる。
「あんなところで」
「……え? おれ?」
「君しかいないだろ」
ううん、とハウエルはわざとらしく唸ってみせる。「いやあ、遊びに来たんだけどさ。教会には誰もいないし、裏に回ってみたらおっきな家があったけど、なんとなくノックしづらくて、うろうろしてたら、声が聞こえたからさあ。心配んなって」
「嘘はやめろよ」
「……入りづらかったのはほんとだよ」
「何か用があるんじゃないの?」
「うん。だから、ジュリアに会いに来たんだよ」
「何のために?」
ハウエルは困ったように眉根を寄せた。「なんだよ。顔見るのにいちいち理由が必要か?」
「何度も質しているのですが、先からこんな調子なのです」助祭が呆れた様子で腕を組んだ。「いい加減に白状なさい。でないと追い出しますよ――それは困るのでしょう?」
私の鼻は誤魔化せません、ともったいつけて言う。
ハウエルは憮然として、唇を尖らせた。
「……なんか、あんた――厭だな」
「嫌で結構。招かれざる客に選択の自由など与えるものですか」
同族嫌悪、と司祭がジュリアの頭の上に呟いた。似たようなことを思ったジュリアと、司祭の視線がかち合う。
「全部お見通しなら話す必要もないでしょ」ハウエルが言う。
助祭は肩を竦めた。「偽っていることそれ自体は匂いで知れましょう。しかし、明かすほどの価値がそこにあるとは思えません。黙っているのならもう結構。この私がいる限り、こちらに影響はないのですから」
ふうん、とハウエルは考える素振りを見せた。
ややあって、にんまりと両の口端を上げた。
「実はさ――匿ってほしいんだよね」
「匿う? 何を言っているのですか、あなたは」
「そのまんまの意味だけど?」
イッシュ様はぽかんとした。
「逃げてきたというのですか? ジュリアを寝取りに来たわけではなくて?」
「………………」
毎度思うのだが、この人は自負しているほど人読みがうまくない。
「何から匿えと言うんだ」無視した司祭が訊ねた。この人は何かを察したようだ。「お前――何をした」
ハウエルは、見ているこっちの力が抜けそうな、人好きのする笑みを浮かべて、
「おれさ、人殺しちゃったんだよね」
と、言った。
ハウエルはこちらを見ていた。彼はジュリアに向けて告白したのだ。
人を。
殺すと一口に言っても、例えば社会的にとか、精神的にとか、何らかのメタファーである可能性だってあるけれど。ジュリアは友の発言を、殺害の方向で解釈した。そしてそれを間違っているとも思わなかった。二の句が継げなかったのは、想像を巡らせていたからだ。ハウエルはどうやってそれを成し遂げたのだろう。刺した? 殴った? 燃やした? 絞めた? 計画されたものなのだろうか。それとも突発的に魔が差したのか?
うんともすんとも言えずにいるジュリア達に向かって、ハウエルは頭を下げた。まるで項垂れているような形になる。
逃げ切ろうとは思っていません、と彼らしからぬ口調で言う。
「ただ、少しだけ時間が欲しいんです。全て終わったら自首します。それまでどうか――ここに置いてください」
染み出す闇に夕陽は呑まれ始めている。
じわりじわりと侵食する。
そうして、ようやく――妄想が現実へと波及したのだった。ジュリアは頭を振った。冗談、と零す。
「よせよ……ふざけるのは」
「ふざけてないよ」
「だって、そんな……」
はっきりしたハウエルの声と、霞のようなジュリアの声。どちらが真実かは明々白々であったというのに、ジュリアは認めることができなかった。見抜く力などなくともわかった。ハウエルが嘘を言っていないということ。
共に過ごしたのは精々が半年。ハウエルもジュリアも互いのことは時折目の端に入る装飾品程度の認識だったはずだ。趣味も好物も知らない。誰とつるんでいたかも定かじゃない。だが、それほど面識のない相手であっても、悲しきかな、人は人を感じることができる。声のトーンや表情からその真意を汲み取れる。特に今のハウエルには、誤魔化そうと言う気が一切ないようだった。不審な挙動も下手に取り繕う様子も見当たらない。彼の瞳には真摯さすら存在した。だからこそ余計に、ジュリアは拒絶する他なかったのだ。
信じられなかった。
人が人を殺せるという事実が。
ましてや、それを相識の人間が行えてしまったことが。
ジュリアは消え入りそうな声で続けた。「そんな、こと……できないだろ……君に……」
「おれだってそう思ってたよ」ハウエルは落ち着いた声で言った。「殺したいくらい憎くたってさ。そうそう手なんか出せるもんじゃないよ。すっごいムカついたって、殴るのも勇気いるくらいだもん……。でもさ、できちゃったんだよ。それって曲げようがなくない?」
「い……一体、誰を。どうして」
「それは内緒」
「そ、そんな……虫の良い話があるか!」
突然家を訪ねてきて、厚かましく時が来るまで匿ってほしいなんて頼んでおいて、詳細は省きますだって? 知る権利くらいはあるはずだろう。それでなくても、何か協力できることがあるかもしれないのに。
椅子から立ち上がろうとしたジュリアを、エハヴ様の冷たい手が抑えた。
「もう腹は決まっているんだな」
司祭の問いに、ハウエルは「はい」と顎を引いた。
「なら思う通りにするといい。その代わり、ろくな面倒は見れんぞ。我々に害為すと判断した場合は即刻切り捨てる。構わんな」
「わかってます」ハウエルは頷いた。「絶対に――ジュリアに悪いようにはしません」
「か、関係ないだろ、俺は」
まるで自分を言い訳に使われているような気分になった。時間が欲しいとハウエルは言う。つまり、何かやり残したことがあるのだ、こいつには――けれどきっと、教えてはくれないのだろう。
実はというほどの話ではないが、ジュリアはハウエルに感謝していることがある。
もう一年も前になろうか。ジュリアは一度、孤児院に帰る機会を得ているのである。施設側がゲストとして招いたエハヴ司祭の説教に、ジュリアもおまけとしてついていったのだ。計らずも卒業生として壇上に登ることになったジュリアは、本番にも拘らず極度の緊張で頭が真っ白になり、かといって助けを求めることもできず、ただただ子供達の前で口を泳がせるばかりだった。その時、一早くこちらに気付いてくれたのが、ハウエルだったのだ。今でこそ、大した障害もなく発話できるジュリアだけれど、当時のどもり具合はそれはもう酷いものだった。もし、あの場で失意に塗れながら退場していたら、二度と人の前に出ることができなくなっていたかもしれない。とはいえ一方的な感謝である。向こうは何とも思っていないだろうし、もう覚えてもいないだろう。それでも、ジュリアにとっては、大切な契機を与えてくれた出来事だった。顔見知り程度の間柄かもしれないが――ちゃんとした友達に、なれていたかもしれないなんて、今更ながら思うのだ。能力が低かろうと、ジュリアがもっと、勇気のある性格だったなら。
だから、困っているというのなら、力になりたい。恩を返すなんて仰々しい話ではなくて、純粋に助けてやりたい。逃亡先にこの家を選んだのだから、ハウエルにだって何か考えがあるはずなのだ。
ジュリアは司祭の手を逃れ、ハウエルに迫った。説明しろと捲し立てる。
「ちゃんと、詳しく話せよ。納得がいかないよ」
「ジュリア、落ち着いて」
「無理です。ここは、譲れません」宥めようとしたイッシュ様の手を、ジュリアは抑えた。「だって、だって……信じられないもの。そんな……罪を……犯して、逃げてきたなんて、ひ、人を、馬鹿にしてるのか。嘘じゃないって言うなら、何があったのか、教えてよ。じゃないと、こっちだって……どうしたらいいのか、わからない……」
ハウエルは、取り乱すこちらをじっと見つめていた。
硝子玉みたいな瞳には、何も映っていないように見える。それが酷く恐ろしくて、まるで、まるで――この世のものではないようで――ジュリアは彼の前に立ちはだかり、それなりの剣幕で怒鳴りながら、しかしこの場の誰よりも気弱に、腹の前で組んだ指を落ち着きなく動かしている。本当――情けない。
ついにジュリアは顔を伏せてしまった。
それを受けたハウエルが、諦めたように息を吐く。
「ジュリアさ」
「な……なに」
「きれいんなったね」
ジュリアは失語した。取り留めがないせいで、すぐに意味を頭の中に結べなかったのである。きれえになったね。綺麗に――なったね。訳がわからなくて、は、と音にならない声が漏れる。
ハウエルは嬉しそうだった。
「一年前と全然、印象違うや。良かったな。きっと、ここがそうさせたんだな」
幸せそうで良かったあ、と言う。
「綺麗だよ、ほんと」
揶揄っているようにも、煙に捲こうとしているようにも見えなかった。それが心からの言葉だと、ジュリアにはわかった。彼が今にも泣きだしそうな目をしていたからだ。そんな儚さ、君には似合わない――いつも輪を乱しては、先生達を困らせ、みんなを笑わせていた君には。そっちこそ、全くイメージにそぐわないじゃないか。
怒りなのか、悲しみなのか、戸惑いなのか、ジュリアの知る言葉だけでは言い表しがたい様々な想いが去来して、ジュリアを散り散りにしてしまった。結局、涙交じりに、もういいとだけ返した。「もういい……」
肩をいからせ足音高く部屋を出ることができたら、いくらか気分も晴れただろうか。しかしジュリアは、肘を張るどころかどんよりと項垂れ、腕で顔を隠しながら居間を出た。馬鹿みたいに裸足で裏口を出て、庭を突っ切り、森へと入る。誰も追って来なかった。それはそれで、寂しかった。
――きっと。
ジュリアだけが、何もわかっていないのだ。
ハウエルがここへ来た理由も、その決意も、目的も。みんな何かを察知し、黙認や静観を決め込んだ中で、ジュリアだけが不安定な足場の上にいる。それはつまり、関係がないということではないか。ジュリアがふわふわしていたところで、ハウエルにとっては何の支障もないのだ。必要ならば、相応しい役割を与えてくれたはずだ。同情を引くでも協力を煽るでも、理解を求めるだけでも良かったのに。お前は無為だから引っ込んでいろと言われた気がした。何が、綺麗だねだ――ジュリアは綺麗だね。皆が口を揃えて言うのだからそうなんだろう。自分はこんな顔、母に似ていること以上の価値はないけれど。
例えばあの日、散策になど出掛けず、義父に会うことがなかったなら。
――まだ母さんと共に暮らしていたのだろうか。
愛も知らず、知も得ずに。
愚鈍で鈍間。真面に喋ることもできない、社会不適応者。
義父さん。母さん。愚かさを盾に付け込んできた優しい人達。無垢故に残酷な孤児院のみんな。出会うことも喪うこともなく、その優しさも不気味さもうっちゃって。
イッシュ様も。
エハヴ様も。
誰の目にも止まらないまま――。
のろのろと歩いているうちに、足の先が花を踏んだ。
ジュリアは慌てて後退る。視線の先に木で組んだ十字架が立っている。ここは誰とも知れぬ墓。いつの間にか花が咲き乱れるようになった場所。ジュリアは気分が落ち着かなくなるとよくここを訪れる。だから今日も、適当な木の根元に腰掛けて、なんとはなしに十字を眺めた。この場所に来ると、誰かに嗤われているような気持ちになる――そのくせ、心は鎮まるのだ。
辺りは暗い。
一寸先は闇だ。
明かりもなしに出てくるのは無謀だったかもしれない。
目を閉じて、息を殺した。
指の先から闇に溶けていく気がする。
暗いのは怖いが、冷たいものではないのかもしれない。
夜は全てを隠してくれる。見られたくないもの。見たくないもの。全てだ。
うっすらと開けた視界に、花びらが滑り込んだ。
いや――違う。花弁ではない。
拾い上げてみる。
闇色に染まって見間違えたが、これは――。
「羽根だ」
目を凝らした向こう側で、山がむくりと起き上がった。驚いて顔を上げる。気のせいじゃない。十字架の足元に、何かが――いる。
「――え?」
そいつはすっくと起き上がると、ジュリアに向かって一直線に突き進んできた。
「え? え? え? え……!?」
花弁が小麦粉のように巻き上がる。無防備なジュリアの上に、巨大な毛玉が伸し掛かった。思わず目を閉じた瞬間、べろんと頬を生温いものが拭った。ふさふさの、熱の塊。おやと思う間に顔中を舐め回される。後ろに樹がなければ押し倒されていただろう。あっぷあっぷとしているうちに、そいつは引き剥がされた。
イッシュ様が大型犬を懸命に抱えて押しとどめている。
「貴方――こんなところで何をしているんですか」
そう問われても、自分でもよくわからない。ジュリアは焦った。しどろもどろになって釈明する。
「い、いや、その、突然襲われて」
「こら、ちょっと。大人しくしなさいよ、全く……」
結局、どこぞの犬は助祭の手を逃れ、へたり込むジュリアの脚の間へと頭を突っ込んだ。
「わーっ、やめてよどこ舐めてるの‼」
獣姦だ獣姦だと助祭が囃し立てる。いや止めてくださいよほんとにもう。
「待て、待てだよ」
必死になって手を突き出すと、ようやく犬は静かになった。
光源がほとんどないせいで色までわからないが、おそらく濃い赤か茶色の毛をしている。首が長く、すらりとした体型だが、伸し掛かられた時の重量感は人間とそう大差なかった。体高は七十センチ近いのではないだろうか。垂れた耳や尻尾にくるくるの飾り毛が生えている。足元など、まるで服を着ているみたいだ。はしゃいだおかげで落ち着いたのか、今はしっかりとお座りをしている。先とは打って変わって不動である。どうやら躾はされているようだ。首輪の類は見つからないが、野犬には思えない。
「アイリッシュ・セッターですね」
イッシュ様が柔らかな毛並を撫でながら言った。犬は体勢を崩し、地面に横たわると、行儀よく前足を重ね合わせる。
「犬種ですか」
「そう。猟犬です」
「猟……」下手に抵抗しなくて良かった。この暗闇では獲物と間違えられてもしょうがない。
「基本的に温厚で、人間ともコミュニケーションが可能な種ですよ。まあちょっと、元気すぎるのが玉に瑕ですけど」
「迷い込んできちゃったのかな」おそるおそる顎の下を撫でてみる。彼だか彼女だかは心地良さそうに目元を細めた。「ねえ。お前、どこから来たの」
わう、と犬は吠えた。
ばうわうと続ける。しばらく耳を傾けてみたけれど、犬の言葉はわからなかった。手を挿し込んだ毛の中は暖かくて、ジュリアは状況も忘れてしばらくその温もりに浸っていた。
「……まさか猟師が来ているわけじゃないですよね?」
ふと思い立って訊ねてみる。ううん、と唸ってイッシュ様は立ち上がると、森の奥を睨むようにした。「……少なくとも、人の気配はありませんね。でもほら、異分子なら、とうに現れているではないですか」
「ハウエルが連れてきたっていうんですか?」
「さあ。それは本人に訊いてみないと」とにもかくにも、とジュリアの腕を取る。「戻りましょう。暖かくなってきたとはいえ、体を冷やします。今日は月明りも頼りない」
「はい……」
ジュリア達が歩き出すと、犬もその後ろをのそのそとついてきた。
帰る場所もなさそうなので放っておく。言い聞かせたところで伝わるとも思えなかった。イッシュ様が何も言わないのであれば、ジュリアは構わない。
白い羽根のことを思い出した。
この暗闇の中で、なぜかジュリアは、それを純白の羽根だと直感したのである。
立ち止まると、イッシュ様が振り返った。どうしましたと訊く。
「羽根が」
「羽根? 鳥でもいましたか」
「いえ……何でも……ないです」
彼には伝えないほうがいい気がした。
勘と呼ぶほどの代物でもない、ただの予感である。
ジュリアが歩き出したのを見計らって、イッシュ様が口火を切った。
「そうだ。ハウエルのことですが」
「な――何か、わかったんですか」
イッシュ様は頭を振る。
「いいえ。相変わらずの調子です。ただ、害があるとも思えないので解放しました。居間からは出ないように言いつけてあります。エハヴが見ているから大丈夫でしょう。もっとも、ここを出ていくつもりはないようなので、気を揉んだところで杞人天憂でしょうが」
「何を隠してるんだろう。一体」
今更になって恐ろしくなってきた。
ハウエルは人殺しなのである。
その真意は計れないが、少なくとも破顔しながら罪を告白できるような奴なのだ。
それが諦めなのか、無感動なのかは、ジュリア達にはわからない。
「どう……思います?」
「そうですねえ……」
ジュリアの取り留めのない問いにも、イッシュ様は真剣に答えてくれる。足元に絡んできた犬を避けながら、彼は言った。
「私には見極めは困難です。人間は常に罪を重ねて生きていますから。罪科に重さなどなく、それ故に、一つを取り上げるのは一等星を指差すようにはいきません。どうしても視たいというのなら、兄様を呼びましょう」
「ラジエル様ですか」
生命を超越したその人には、天から視る力と聴く力が与えられているという。ラジエル司教の持つ書にはこの世の全てが記されているとも聞く。もしかしたら、そこには過去だけでなく未来についても描かれているのかもしれない。
ジュリアは悩んだ。人智を越えた存在は飛び道具のようなものだ。早期解決は望めるだろうが、それで本当に――いいのだろうか。
「どうします。判断はあなたに委ねます。ハウエルはあなたを頼ってきたのですから」
その一押しで自信がついた。
ジュリアは頷いた。
「お願いします。あいつは多分、最後まで……教えてくれないと思うから」
「わかりました。では、家に戻ったらすぐに連絡を入れますね」
ところが、司教をお呼びする必要はなくなった。
我らが孤児院出身のある女性から、ジュリア宛に電話が掛かってきていたのである。
窓を自由にしたかったのだ。ぐるりと書棚に囲まれるだけでは飽き足らず、足の踏み場もないほど本が積まれた室内。家具といえばローテーブルとソファのみだが、それも本来の用途を果たしているかというととても怪しい。窓についても、ほんの少し開けられる程度の隙間しかなく、空気の入れ替えはほとんどできない始末であった。その閉塞的な空間で煙草をふかすのだから、当然、空気は淀み沈殿する。
そんな折、副流煙は体に良くないそうです、と鬨の声が上がった。
イッシュ助祭である。
彼はこのところテレビに齧りついて熱心に世間の情報を集めているのだが、とりわけ印象に残ったのが、煙草は人体に有害というトピックだったようだ。そんなことは百も承知で嗜んでいる愛煙家も、隣人に及ぼす害を盾に取られては頷く他なかった。何でも、煙草は直接吸うより、付随して吐き出される煙のほうが有毒らしいのである。つまりイッシュ様は、いつも隣で本を読むジュリアの健康を主張したわけだ。
渋々とはいえ、司祭は重い腰を上げた。
司祭館には自分を含めて三人の人間が住んでいる。陰気な研究家のエハヴ司祭と、彼の補佐を担うイッシュ助祭。そして一年半ほど前にそこへ転がり込んだ、ジュリア・オルビー。二人とは違い、聖職者でもなんでもない自分は、未成年なのを良いことに保護という名目で居候を決め込んでいたわけだが、そんな言い訳も今年の頭で通用しなくなってしまった。
この国での成人は十八歳。
ジュリアも遂に、大人の仲間入りを果たしたわけである。
目先の仕事や将来について、いよいよ考え始めなくてはならない――いや、むしろ遅すぎるくらいなのだ。
いつまでも自堕落に飼われているわけにはいかないのである。
しかし、そんな憂慮も白紙に戻すかのように、彼らは夜毎、ジュリアに口付け、肌を撫で回し、秘められたる奥の奥まで犯すのだった。考えることは許さないと言わんばかりに。離れようものなら、きっと自分は無事ではいられない。そんな予感さえ植えつけられる。
自立と別離が同義だとは思わない。
ジュリアにはお二人の元から離れる意志はない。
それなのにどうにも――彼らは人間の自由への渇望を過信しているきらいがある。人は旅立つものだと決めつけている。
ジュリアが欲しいのは、ここに居るための手段だ。
例えば、お二人の仕事の手伝いができるような。
例えば、お二人の研究の一助になれるような。
――それはもう、一つの答えになっているわけだけど。
模様替えの話に戻ろうか。結論から言えば、書棚を一つ減らし、ジュリアの部屋に移動した。お気に入りのSF小説と様々な学問の入門書付きだ。おかげで狭かった書斎は僅かばかり物が減ったが、その空いたスペースにまた本が積まれることになるのだろうと思う。窓辺は下に横たわれるくらいの広さは確保できたので、二人並んで紫煙を楽しむことができるようになった。イッシュ様の懸念が払拭されたかどうかに関しては、自分から言えることはない。
しかし、外が臨めるだけで開放的な気分になる。
鬱々とした書斎は、自然の明かりが取れるようになっただけで、がらりと雰囲気を変えた。
……とはいえ、やることは変わらないのだけど。
「あぅ、う、……い、いっかい、とま、とまって、……あぐ、ぁ、い、イってる、イってるからぁ、あ」
「たまには、いいだろ。乱暴なのも」
「たまにじゃ、ない……ッ」
開放的になったのは気分ばかりではないらしい。窓を開け放ち、春の麗らかな陽気に誘われて、本能もまた刺激されたようだ。激しい運動のおかげで熱を取り戻した手が、ジュリアの腰をがっちりと固定して、暴力的な快楽を逃す術を奪っている。ジュリアの陰茎は萎えているにも拘らず透明な液を垂れ流していた。絶え間なく溢れてしまう感覚は放尿のそれと似ていて、羞恥と困惑で頭がいっぱいになる。とても悪いことをしているような気がする。年季の入った指先が、まるで揶揄うようにジュリアのものを触った。体の芯を貫く性急な律動とは裏腹に、少し濁った液を指にからめるようして性器の表面を捏ねる。どくんと心臓が大きく跳ねた。死んでしまうとすら思う。喉から漏れ出る言葉にならない呻きは、より現実を曖昧にさせる。早く終われとも思うし、もっとしてほしいとも思う。きもちいいのは大好きだけれど堪えがたい。このまま穿たれ続ければ、自分を見失ってしまう気がする。臨界点の先には、尊厳など糞くらえと笑い飛ばせるほどの極地が待っているのだけれど、キマるとなかなか抜け出せないし、やはり自失するのは怖い。いや、己を失うというよりも、何かに取って代わられるような感覚と言ったほうが近いかもしれない。
本能、というやつなのだろう。
意識を凌駕する、生命の本質。
理性で操作しがたい深層の心理。
綺麗なセックスなんてないなと思う。どんな美丈夫だって、お尻丸出しでへこへこ腰を振っている様というのは、安い笑いを誘う。また、大の男が懸命に腰を反らし身を捩り、足を開いて相手を誘うのも滑稽だ。
曝け出し、暴かれる。これこそが、コミュニケーションの真髄……なのかもしれない。
「はんっ、ぁふ、あ、あ、あッ、……ふ、ふぅ、も、や、やだ、い、息、できな」
「ジュリア……」
「ん……」
耳元で囁かれると、それだけでどんな横暴さも許せてしまうのだった。
ソファに四つん這いになった足はすっかり震えている。ちなみに幾度も調度を買い替える羽目になったイッシュ様が業を煮やし、常に厚手のタオルを敷くようになったわけだが、よりエハヴ様の悪戯の頻度は増したので、イッシュ様の行動はことごとくが空振りに終わっている。本だけは汚すまいとジュリアは気を遣っているけれど、部屋の主はどうもその手のこだわりはないらしい。本はあくまで情報媒体、表紙が汚れようがページが折れようが、読めればそれでいいようだ。精液でパリパリの哲学書を読むのは、さすがに気が引けるようだけど。
悩まし気な吐息と共に、ジュリアの中に種が吐き出された。ぐっと連結を深め、これでもかというほど奥に放出された熱は、泡立つコールタールのように襞に纏わりついた。戒めのようだ。皮膚に呪いを刻み付けるように、この人はジュリアを抱く。そんな蹂躙される感覚も、愛の一言で片づけてしまえるのだから――自分も大概か。
司祭はジュリアの首筋に噛み付いた後、耳にふうと吐息を吹きかけた。
「は、ん……」
膝から力が抜けた。彼はジュリアの体をすくって、自身の胸にもたれさせる。とんとんと自らの顎の窪みを指で叩くものだから、ジュリアは笑って、色の悪い唇に吸い付いた。存外、甘えたなのである。
「ん……」
「ふ、……ん」
「それ、悪くない」唇を離すと、司祭はおもむろに言った。
「どれ……?」ジュリアは訊き返す。
「その、ふにゃっと笑うやつ」
「ふふ。なにそれ」
司祭は応えずに、ジュリアの汗で濡れた前髪を掻き上げた。生え際をぺろりと舐める。
「風呂に入れてやる」
なんて、少しばかり視線を外して言うのだ。一応、昼から盛り上がってしまった引け目はあるらしい。気難しい彼の顔立ちに、そんな殊勝な態度は似つかわしくない。けれど、そうやってあどけない表情を見せてくれるのが、ジュリアはとても嬉しいのだ。
彼に好きだと言われた笑みを浮かべ、ジュリアは言った。
「ドライヤーもしてくれますか」
「ああ。伸びたからやりがいがある」
ジュリアは自分の首筋に触れた。襟足の長さは、もう一つに縛れるほどだ。
「切ろうかと、思ってるんですけど……」
「なぜ?」
「だって……女の子みたいだし」
これでも己の女々しさというか、女らしさのようなものを嫌厭してはいるのだ。なんといっても、ジュリアには自分が男だという自覚がある。綺麗でありたいとは思うけれど、少女のようになりたいと望んだことはない。
「イッシュが悲しむぞ」
「あの人はちょっと変わったプレイがしたいだけです」
「飽きを厭うからなあ」イッシュ助祭は衣装や場面設定において並々ならぬこだわりをお持ちなのである。
ふと、思いついたことがあって、ジュリアは訊いてみた。
「あなたは?」
「ん?」
「エハヴ様は、どっちが好きですか。髪が長いのと、短いのと」
彼はうーんと唸った。
「あまり差があるようには思えん」
「ほら……好みの、タイプとか」
「好み?」
「強いて言うならでいいんです」
「ならウェーブでもかけろよ」
お揃いの感が出るだろう、と言う。
ジュリアは天井を睨み、頭の中に自分達を並べてみた。緩いパーマをかけた自分と、元から犬みたいにくるくる頭のエハヴ様。
残念ながら、友達にも親子にも恋人にも見えなかった。
そのどれもが当てはまりそうな二人なのに。
ジュリアはたっぷり三十秒は考えた末、それもいいかも、なんて曖昧な結論に達した。訊いてはみたものの、結局、どちらでも構わないのだった。煩わしくないうちは、このまま伸ばしてみようと思う。
――可愛くいられる間は、それに縋っていよう。
どうせ人間なんてすぐに老いて醜くなるのだ。可憐だなんだともてはやされているうちが華なのだ。彼らがジュリアの容姿を好ましいと言うのであれば、それに越したことはない。
ジュリアは未だ自身を貫いていた彼からゆっくりと腰を引き上げると、今度は正面から彼の股座に跨った。勢い衰えず、怒張するそいつを再び尻の谷間に沈めていく。
「は、ぁ……」
痩せた腿の上にぺたんと座り込む。前から抱き合うと、司祭は背が高いから、ジュリアのおでこは丁度相手の首筋に埋もれる恰好になる。とても据わりがいいので、そのまましばらくじっとしていた。司祭はジュリアのするに任せた。口では何と言おうと、この人に乱暴なんてする勇気はないのだ。たまに苛立ちが抑えきれないと思いもよらぬ皮肉が飛び出したりするけれど、そこに働いているのはついつい吠えてしまう子犬と同じ原理であって、根本は繊細で感情に敏感なお人なのである。ジュリアに嫌われようものなら塞いで部屋から出てこなくなるだろう。惚れた欲目もあるだろうが、ジュリアはそう断言できる。
このまま――。
時間が止まってしまえばいい。そう思った。進化と退化を投げ出す代わりに、愛する人との永遠を手にする。ロマンチックじゃないか。ロマンとは、得てして願望を含むものだけれど。
エハヴ様は普通とは違う。
人間ではない。なら何なのかと問われたら、ジュリアは未だ、うまく説明することができない。彼自身は、そう特別なものではないと言う。ただ、神に被造され、人よりも長い寿命を得ているというだけで。イッシュ様とエハヴ様の役目は人の繁栄を見守ること。そして、その終末を見届けることだ。
人ならざるものであるこの人を置いて、自分は先に死ぬ。
それは抗いようのない事実だ。厳然と目の前に聳え立つ壁。ジュリアの前にだけそれはある。この人の行く先にそれはない。手に入れば手に入るだけ、その先のモノが欲しくなる――平穏と愛の次は、時間というわけだ。
欲深さは罪らしい。
神様が言うのだからそうなのだろう。執着も依存も渇望も、魂を貶める大罪だ。宗派によっては念じることさえ直接の罪になりうるという。きっと罪を犯した魂は、たくさんの鎖にがんじがらめになって、たとえ肉体から解き放たれたとしても、重い楔のせいで天には昇ることができないのだ。ここに留まることができるのならばそれもいい。けれど、その限りでないのなら――ジュリアにできることとは何なのだろう?
エハヴ様を一人にはしたくない。
残されたこの人のことを思うと胸が締め付けられる。これまでも、そうやって傷ついてきたのだと、想像がつくから。
平べったい体をぎゅっと抱きしめると、司祭は首を傾けてジュリアの顔を覗き込もうとした。
「泣いてるのか」
「いいえ」
「ならこれから泣くんだな」
司祭の喉が鳴った。お腹に響くいい音だ。
「誤魔化すのと慰めるの、どちらが入り用か」
「……どっちも」
「いいぞ」彼は不敵に笑い、ジュリアの顎を持ち上げた。「それでこそ人間というものだ」
この人の言うこういう理屈が、ジュリアにはいまいち理解できない。人間らしさはむしろ歓迎しがたい要素に思える。エハヴ様は人の醜い部分こそを愛しているかのように振る舞う。怠惰、強欲、色欲、高慢……ただ、人様に迷惑を掛けるのは、ちょっと違うらしい。彼は個人的な堕落が大好物なのだ。内に滾らせ、煮詰めに煮詰めた感情の泥こそが、エハヴ様だけが見ることのできる人間の真の姿なのだろう。
「あ、ん」
司祭が腰を揺らし、ジュリアはよれたシャツにしがみつく。時間が経ったせいで接合部の粘着きが増している。引き付ける僅かな痛みと、それを上回る浮遊感。昼も夜もこれだけ酷使しているのに、よく壊れないものだと思う――ジュリアはできるだけお尻に力を込めて、微細な振動を寄越すそいつが楽しめるように努力した。
激しいセックスも好きだけど、緩やかな刺激も大好きだ。少しずつ高まっていく情欲が骨の髄まで火照らせる。
「はぅ、あっ、あー……っは、お、おく、きもちぃ、です、んんッ」
「よしよし」
「う、ふふ……」
厭世家の彼にしては、意外と――可愛らしい慰め方であった。
こんこん、と彼はジュリアの中をノックする。ジュリアは扉を開く準備を始める。ぞわぞわと這い上がる快楽は酩酊に似ている。眩暈が、した――思考が白に侵略されて、神父様の計らい通り、ジュリアは考えることを忘れた。ああ、愛されている。この人の一番を、自分は今、独り占めにしている。その悦びは興奮を高め、嬌声を抑えきれないものにし、ジュリアの体の奥の奥まで詳らかにしてしまった。
「あ……っ」
その瞬間、訪れる快感を、ジュリアはいつも、波が押し寄せてくるように感じる。呼吸が苦しくて、溺れそうになる。けれどそれ以上に、最高にキマるのだ。律動が激しさを増す。恐ろしいほどの幸福から逃れようと反った腰に、丁度良く司祭の両腕が収まる。突き当たりを詰られた時、あまりの衝撃に意識が飛びかけた。緩んだ口元からジャンキーみたいな声が漏れる。恋愛中毒なんて呼称は生温い。きっとジュリアは重度の依存症なのだ。この人に心酔している。ジュリアの目には、神にも等しく映る。そんなことを言っても戸惑わせてしまうだけだから、絶対に口にしてやらないけれど。
ジュリアは今、神様に愛されている。
それってすごいことだ。
エハヴ様でなければできないことだ。
この人で、なければ――。
「あー……あう、ううう」
「――ジュリア」
愛しているよ、と言う。
ジュリアは達した。
不規則に痙攣する肢体と、野生じみた吐息。朦朧とする視界の中で、何かが――。
蠢いている。
「――――……」
そいつは開け放たれた窓枠に身を乗り出し、腕を振りかぶっていた。
手の平には拳大の石を握っている。
「え……!?」
どうやらその人物は外の壁をよじ登ってきたらしい。目的はわからずとも、何をしようとしているかは明らかであった。無茶な体勢ではあるが、ソフトボールなんかで見る投球の姿勢である。
司祭は気付いていない。
背中に目でも付いていなければ気付くまい。
「あ、駄目……!」
「なに――」
ジュリアは咄嗟に後ろ足に力を込めて、司祭を思い切り押し倒した。ソファに仰向けになった彼の上に跨った恰好になる。
直後、地震にでも見舞われたかのように目の前が回転し、頭部に受けた痛みを覚える間もなく、ジュリアは昏倒した。
目が覚めて、居間に降りると、旧友が椅子に縛り付けられていた。
ジュリアの驚き具合といったら、また軽く失神しかけたほどだ。青年の緩んだ笑顔はアンティークの調度に毛ほども馴染んでなくて、ベースボールキャップを被りポップコーンでもかっくらっていそうな様子だった。そんなのが縄でぐるぐる巻きにされているのだから、現実感が剥離したって仕方がないことだ。
ジュリアは何度も瞬き、目元を擦って、ようやくその名を口にすることができた。
「……ハウエル……?」
同じ孤児院で暮らした仲間である青年は、どもー、と目を細めて朗らかに笑んだ。
まるで状況が呑み込めない。
なぜ彼がここにいるのだろう。イェシュア教会の司祭館なんかに? それも悪事を働いたかのように拘束されて――。ふと、甦ってくる場面がある。窓枠にへばりつき、腕を振りかぶる闖入者。
ジュリアは混乱して文法を失った。
「石……」と、ハウエルの胸の辺りを指差して言う。「投げた、君?」
彼はにかっとがちゃ歯を見せて、「投げた!」
「え……? 何で……?」
理由が思い当たらなかった。そもそもあの場に居合わせたこと自体が不可解だ。わざわざ石を投げに遠路はるばるやってきたわけでもないだろう。
目を白黒させていると、他の椅子に腰かけていた司祭が立ち上がって、ふらつくジュリアを座らせた。
「本来なら極刑ものです」
イッシュ様がハウエルの周りを回りながらぴしゃりと言い放つ。
「ジュリアに傷をこさえるなんて……それも、よりによって顔! まぢ許せません。あなたが知己でなければ煮て焼いて喰っているところです。骨まで砕いて飲んでやります。ええ、塵一つ残しませんとも」
「だから、無理矢理してるように見えたんだって。そりゃ止めるでしょ」
ハウエルは苦そうに言った。
応える司祭も似たような顔である。
「止め方というのだがだな……まあオレに言えることは何もないが」
「合意の上ならそう言ってくれよなー」
弁明する余地もなかったはずだが。つまりこの子は、ジュリアがエハヴ司祭に服従させられていると早とちりしたらしい。悪辣な雰囲気を醸していたつもりはないのだけれど。端から覗いていたとは考えにくいから、おそらく外を歩いている時に、開いた窓から声を聞きつけたのだろう。改装までして窓を開放したことが仇となったわけだ。
そうして、身を挺して壁を登ってきたと。
勘違いとはいえ――俺を助けるために?
「だって随分、嫌がってたじゃないか」ハウエルは憤然と言った。「やだ、やだぁ、とまってえってさあ」
「や、やめろよ!」ジュリアは真っ赤になって身を乗り出した。そういうのは方便なのだ。なんというかこう、雰囲気に呑まれると自然と口をついて出るものなのだ……背もたれに手を掛けていた司祭がくつくつと笑った。
なんだよこれじゃ出歯亀だよとハウエルは嘆く。
「体張って損した」まあでも、と眉尻を下げる。「ごめん。つい、かっとなっちゃってさ。怪我させるつもりなんてなかったんだ」
ジュリアは額を擦った。
包帯が巻いてある。右目の上辺りを押さえると、鈍く痛んだ。
「いいけどさ、別に……」
怪我などよりもよほど重大な問題が残っている。
ジュリアはハウエルへと疑惑の目を向けた。
じっとりと青年のそばかす顔を眺めてみせる。いつもあっけらかんとした印象があった彼を、どことなくうらぶれて見せるのは、薄汚れた衣服のせいだ。明るく努めてはいるけれど、隠しきれない疲れのようなものが窺える。ハウエルはやつれていた。
問い質そうにも、上手い言葉が見つからない。
考えあぐねていると、物憂げな溜め息が場の空気を動かした。イッシュ様だ。
「全く。外から奇襲をかけるとは……千年の驕りを見せつけられた気分です。色々、見直さないとな……」
あなたもあなたですよ、と怒りの矛先を司祭へと変えた。
「こんな子供一人に後れを取るなんて。耄碌したのでは?」
「ああ――」エハヴ様は床を見つめた。「そのようだ」
助祭は閉口した。
奇妙な沈黙が下りた。
ジュリアは三人の間で視線をうろつかせる。イッシュ助祭は親の仇でも見るように司祭を睨んでいるし、エハヴ様はエハヴ様で心ここにあらずのようだし、ハウエルは我関せずとばかりに呑気に欠伸している。
傾いた陽が、部屋の半分を橙色に染めていた。
スリッパを脱いで、迫りくる境界線にジュリアは裸の爪先を浸した。ほんのりと暖かい。勇気を貰ったわけではないけれど、思い切って面を上げることができた。
何してたの、と震える声で訊ねる。
「あんなところで」
「……え? おれ?」
「君しかいないだろ」
ううん、とハウエルはわざとらしく唸ってみせる。「いやあ、遊びに来たんだけどさ。教会には誰もいないし、裏に回ってみたらおっきな家があったけど、なんとなくノックしづらくて、うろうろしてたら、声が聞こえたからさあ。心配んなって」
「嘘はやめろよ」
「……入りづらかったのはほんとだよ」
「何か用があるんじゃないの?」
「うん。だから、ジュリアに会いに来たんだよ」
「何のために?」
ハウエルは困ったように眉根を寄せた。「なんだよ。顔見るのにいちいち理由が必要か?」
「何度も質しているのですが、先からこんな調子なのです」助祭が呆れた様子で腕を組んだ。「いい加減に白状なさい。でないと追い出しますよ――それは困るのでしょう?」
私の鼻は誤魔化せません、ともったいつけて言う。
ハウエルは憮然として、唇を尖らせた。
「……なんか、あんた――厭だな」
「嫌で結構。招かれざる客に選択の自由など与えるものですか」
同族嫌悪、と司祭がジュリアの頭の上に呟いた。似たようなことを思ったジュリアと、司祭の視線がかち合う。
「全部お見通しなら話す必要もないでしょ」ハウエルが言う。
助祭は肩を竦めた。「偽っていることそれ自体は匂いで知れましょう。しかし、明かすほどの価値がそこにあるとは思えません。黙っているのならもう結構。この私がいる限り、こちらに影響はないのですから」
ふうん、とハウエルは考える素振りを見せた。
ややあって、にんまりと両の口端を上げた。
「実はさ――匿ってほしいんだよね」
「匿う? 何を言っているのですか、あなたは」
「そのまんまの意味だけど?」
イッシュ様はぽかんとした。
「逃げてきたというのですか? ジュリアを寝取りに来たわけではなくて?」
「………………」
毎度思うのだが、この人は自負しているほど人読みがうまくない。
「何から匿えと言うんだ」無視した司祭が訊ねた。この人は何かを察したようだ。「お前――何をした」
ハウエルは、見ているこっちの力が抜けそうな、人好きのする笑みを浮かべて、
「おれさ、人殺しちゃったんだよね」
と、言った。
ハウエルはこちらを見ていた。彼はジュリアに向けて告白したのだ。
人を。
殺すと一口に言っても、例えば社会的にとか、精神的にとか、何らかのメタファーである可能性だってあるけれど。ジュリアは友の発言を、殺害の方向で解釈した。そしてそれを間違っているとも思わなかった。二の句が継げなかったのは、想像を巡らせていたからだ。ハウエルはどうやってそれを成し遂げたのだろう。刺した? 殴った? 燃やした? 絞めた? 計画されたものなのだろうか。それとも突発的に魔が差したのか?
うんともすんとも言えずにいるジュリア達に向かって、ハウエルは頭を下げた。まるで項垂れているような形になる。
逃げ切ろうとは思っていません、と彼らしからぬ口調で言う。
「ただ、少しだけ時間が欲しいんです。全て終わったら自首します。それまでどうか――ここに置いてください」
染み出す闇に夕陽は呑まれ始めている。
じわりじわりと侵食する。
そうして、ようやく――妄想が現実へと波及したのだった。ジュリアは頭を振った。冗談、と零す。
「よせよ……ふざけるのは」
「ふざけてないよ」
「だって、そんな……」
はっきりしたハウエルの声と、霞のようなジュリアの声。どちらが真実かは明々白々であったというのに、ジュリアは認めることができなかった。見抜く力などなくともわかった。ハウエルが嘘を言っていないということ。
共に過ごしたのは精々が半年。ハウエルもジュリアも互いのことは時折目の端に入る装飾品程度の認識だったはずだ。趣味も好物も知らない。誰とつるんでいたかも定かじゃない。だが、それほど面識のない相手であっても、悲しきかな、人は人を感じることができる。声のトーンや表情からその真意を汲み取れる。特に今のハウエルには、誤魔化そうと言う気が一切ないようだった。不審な挙動も下手に取り繕う様子も見当たらない。彼の瞳には真摯さすら存在した。だからこそ余計に、ジュリアは拒絶する他なかったのだ。
信じられなかった。
人が人を殺せるという事実が。
ましてや、それを相識の人間が行えてしまったことが。
ジュリアは消え入りそうな声で続けた。「そんな、こと……できないだろ……君に……」
「おれだってそう思ってたよ」ハウエルは落ち着いた声で言った。「殺したいくらい憎くたってさ。そうそう手なんか出せるもんじゃないよ。すっごいムカついたって、殴るのも勇気いるくらいだもん……。でもさ、できちゃったんだよ。それって曲げようがなくない?」
「い……一体、誰を。どうして」
「それは内緒」
「そ、そんな……虫の良い話があるか!」
突然家を訪ねてきて、厚かましく時が来るまで匿ってほしいなんて頼んでおいて、詳細は省きますだって? 知る権利くらいはあるはずだろう。それでなくても、何か協力できることがあるかもしれないのに。
椅子から立ち上がろうとしたジュリアを、エハヴ様の冷たい手が抑えた。
「もう腹は決まっているんだな」
司祭の問いに、ハウエルは「はい」と顎を引いた。
「なら思う通りにするといい。その代わり、ろくな面倒は見れんぞ。我々に害為すと判断した場合は即刻切り捨てる。構わんな」
「わかってます」ハウエルは頷いた。「絶対に――ジュリアに悪いようにはしません」
「か、関係ないだろ、俺は」
まるで自分を言い訳に使われているような気分になった。時間が欲しいとハウエルは言う。つまり、何かやり残したことがあるのだ、こいつには――けれどきっと、教えてはくれないのだろう。
実はというほどの話ではないが、ジュリアはハウエルに感謝していることがある。
もう一年も前になろうか。ジュリアは一度、孤児院に帰る機会を得ているのである。施設側がゲストとして招いたエハヴ司祭の説教に、ジュリアもおまけとしてついていったのだ。計らずも卒業生として壇上に登ることになったジュリアは、本番にも拘らず極度の緊張で頭が真っ白になり、かといって助けを求めることもできず、ただただ子供達の前で口を泳がせるばかりだった。その時、一早くこちらに気付いてくれたのが、ハウエルだったのだ。今でこそ、大した障害もなく発話できるジュリアだけれど、当時のどもり具合はそれはもう酷いものだった。もし、あの場で失意に塗れながら退場していたら、二度と人の前に出ることができなくなっていたかもしれない。とはいえ一方的な感謝である。向こうは何とも思っていないだろうし、もう覚えてもいないだろう。それでも、ジュリアにとっては、大切な契機を与えてくれた出来事だった。顔見知り程度の間柄かもしれないが――ちゃんとした友達に、なれていたかもしれないなんて、今更ながら思うのだ。能力が低かろうと、ジュリアがもっと、勇気のある性格だったなら。
だから、困っているというのなら、力になりたい。恩を返すなんて仰々しい話ではなくて、純粋に助けてやりたい。逃亡先にこの家を選んだのだから、ハウエルにだって何か考えがあるはずなのだ。
ジュリアは司祭の手を逃れ、ハウエルに迫った。説明しろと捲し立てる。
「ちゃんと、詳しく話せよ。納得がいかないよ」
「ジュリア、落ち着いて」
「無理です。ここは、譲れません」宥めようとしたイッシュ様の手を、ジュリアは抑えた。「だって、だって……信じられないもの。そんな……罪を……犯して、逃げてきたなんて、ひ、人を、馬鹿にしてるのか。嘘じゃないって言うなら、何があったのか、教えてよ。じゃないと、こっちだって……どうしたらいいのか、わからない……」
ハウエルは、取り乱すこちらをじっと見つめていた。
硝子玉みたいな瞳には、何も映っていないように見える。それが酷く恐ろしくて、まるで、まるで――この世のものではないようで――ジュリアは彼の前に立ちはだかり、それなりの剣幕で怒鳴りながら、しかしこの場の誰よりも気弱に、腹の前で組んだ指を落ち着きなく動かしている。本当――情けない。
ついにジュリアは顔を伏せてしまった。
それを受けたハウエルが、諦めたように息を吐く。
「ジュリアさ」
「な……なに」
「きれいんなったね」
ジュリアは失語した。取り留めがないせいで、すぐに意味を頭の中に結べなかったのである。きれえになったね。綺麗に――なったね。訳がわからなくて、は、と音にならない声が漏れる。
ハウエルは嬉しそうだった。
「一年前と全然、印象違うや。良かったな。きっと、ここがそうさせたんだな」
幸せそうで良かったあ、と言う。
「綺麗だよ、ほんと」
揶揄っているようにも、煙に捲こうとしているようにも見えなかった。それが心からの言葉だと、ジュリアにはわかった。彼が今にも泣きだしそうな目をしていたからだ。そんな儚さ、君には似合わない――いつも輪を乱しては、先生達を困らせ、みんなを笑わせていた君には。そっちこそ、全くイメージにそぐわないじゃないか。
怒りなのか、悲しみなのか、戸惑いなのか、ジュリアの知る言葉だけでは言い表しがたい様々な想いが去来して、ジュリアを散り散りにしてしまった。結局、涙交じりに、もういいとだけ返した。「もういい……」
肩をいからせ足音高く部屋を出ることができたら、いくらか気分も晴れただろうか。しかしジュリアは、肘を張るどころかどんよりと項垂れ、腕で顔を隠しながら居間を出た。馬鹿みたいに裸足で裏口を出て、庭を突っ切り、森へと入る。誰も追って来なかった。それはそれで、寂しかった。
――きっと。
ジュリアだけが、何もわかっていないのだ。
ハウエルがここへ来た理由も、その決意も、目的も。みんな何かを察知し、黙認や静観を決め込んだ中で、ジュリアだけが不安定な足場の上にいる。それはつまり、関係がないということではないか。ジュリアがふわふわしていたところで、ハウエルにとっては何の支障もないのだ。必要ならば、相応しい役割を与えてくれたはずだ。同情を引くでも協力を煽るでも、理解を求めるだけでも良かったのに。お前は無為だから引っ込んでいろと言われた気がした。何が、綺麗だねだ――ジュリアは綺麗だね。皆が口を揃えて言うのだからそうなんだろう。自分はこんな顔、母に似ていること以上の価値はないけれど。
例えばあの日、散策になど出掛けず、義父に会うことがなかったなら。
――まだ母さんと共に暮らしていたのだろうか。
愛も知らず、知も得ずに。
愚鈍で鈍間。真面に喋ることもできない、社会不適応者。
義父さん。母さん。愚かさを盾に付け込んできた優しい人達。無垢故に残酷な孤児院のみんな。出会うことも喪うこともなく、その優しさも不気味さもうっちゃって。
イッシュ様も。
エハヴ様も。
誰の目にも止まらないまま――。
のろのろと歩いているうちに、足の先が花を踏んだ。
ジュリアは慌てて後退る。視線の先に木で組んだ十字架が立っている。ここは誰とも知れぬ墓。いつの間にか花が咲き乱れるようになった場所。ジュリアは気分が落ち着かなくなるとよくここを訪れる。だから今日も、適当な木の根元に腰掛けて、なんとはなしに十字を眺めた。この場所に来ると、誰かに嗤われているような気持ちになる――そのくせ、心は鎮まるのだ。
辺りは暗い。
一寸先は闇だ。
明かりもなしに出てくるのは無謀だったかもしれない。
目を閉じて、息を殺した。
指の先から闇に溶けていく気がする。
暗いのは怖いが、冷たいものではないのかもしれない。
夜は全てを隠してくれる。見られたくないもの。見たくないもの。全てだ。
うっすらと開けた視界に、花びらが滑り込んだ。
いや――違う。花弁ではない。
拾い上げてみる。
闇色に染まって見間違えたが、これは――。
「羽根だ」
目を凝らした向こう側で、山がむくりと起き上がった。驚いて顔を上げる。気のせいじゃない。十字架の足元に、何かが――いる。
「――え?」
そいつはすっくと起き上がると、ジュリアに向かって一直線に突き進んできた。
「え? え? え? え……!?」
花弁が小麦粉のように巻き上がる。無防備なジュリアの上に、巨大な毛玉が伸し掛かった。思わず目を閉じた瞬間、べろんと頬を生温いものが拭った。ふさふさの、熱の塊。おやと思う間に顔中を舐め回される。後ろに樹がなければ押し倒されていただろう。あっぷあっぷとしているうちに、そいつは引き剥がされた。
イッシュ様が大型犬を懸命に抱えて押しとどめている。
「貴方――こんなところで何をしているんですか」
そう問われても、自分でもよくわからない。ジュリアは焦った。しどろもどろになって釈明する。
「い、いや、その、突然襲われて」
「こら、ちょっと。大人しくしなさいよ、全く……」
結局、どこぞの犬は助祭の手を逃れ、へたり込むジュリアの脚の間へと頭を突っ込んだ。
「わーっ、やめてよどこ舐めてるの‼」
獣姦だ獣姦だと助祭が囃し立てる。いや止めてくださいよほんとにもう。
「待て、待てだよ」
必死になって手を突き出すと、ようやく犬は静かになった。
光源がほとんどないせいで色までわからないが、おそらく濃い赤か茶色の毛をしている。首が長く、すらりとした体型だが、伸し掛かられた時の重量感は人間とそう大差なかった。体高は七十センチ近いのではないだろうか。垂れた耳や尻尾にくるくるの飾り毛が生えている。足元など、まるで服を着ているみたいだ。はしゃいだおかげで落ち着いたのか、今はしっかりとお座りをしている。先とは打って変わって不動である。どうやら躾はされているようだ。首輪の類は見つからないが、野犬には思えない。
「アイリッシュ・セッターですね」
イッシュ様が柔らかな毛並を撫でながら言った。犬は体勢を崩し、地面に横たわると、行儀よく前足を重ね合わせる。
「犬種ですか」
「そう。猟犬です」
「猟……」下手に抵抗しなくて良かった。この暗闇では獲物と間違えられてもしょうがない。
「基本的に温厚で、人間ともコミュニケーションが可能な種ですよ。まあちょっと、元気すぎるのが玉に瑕ですけど」
「迷い込んできちゃったのかな」おそるおそる顎の下を撫でてみる。彼だか彼女だかは心地良さそうに目元を細めた。「ねえ。お前、どこから来たの」
わう、と犬は吠えた。
ばうわうと続ける。しばらく耳を傾けてみたけれど、犬の言葉はわからなかった。手を挿し込んだ毛の中は暖かくて、ジュリアは状況も忘れてしばらくその温もりに浸っていた。
「……まさか猟師が来ているわけじゃないですよね?」
ふと思い立って訊ねてみる。ううん、と唸ってイッシュ様は立ち上がると、森の奥を睨むようにした。「……少なくとも、人の気配はありませんね。でもほら、異分子なら、とうに現れているではないですか」
「ハウエルが連れてきたっていうんですか?」
「さあ。それは本人に訊いてみないと」とにもかくにも、とジュリアの腕を取る。「戻りましょう。暖かくなってきたとはいえ、体を冷やします。今日は月明りも頼りない」
「はい……」
ジュリア達が歩き出すと、犬もその後ろをのそのそとついてきた。
帰る場所もなさそうなので放っておく。言い聞かせたところで伝わるとも思えなかった。イッシュ様が何も言わないのであれば、ジュリアは構わない。
白い羽根のことを思い出した。
この暗闇の中で、なぜかジュリアは、それを純白の羽根だと直感したのである。
立ち止まると、イッシュ様が振り返った。どうしましたと訊く。
「羽根が」
「羽根? 鳥でもいましたか」
「いえ……何でも……ないです」
彼には伝えないほうがいい気がした。
勘と呼ぶほどの代物でもない、ただの予感である。
ジュリアが歩き出したのを見計らって、イッシュ様が口火を切った。
「そうだ。ハウエルのことですが」
「な――何か、わかったんですか」
イッシュ様は頭を振る。
「いいえ。相変わらずの調子です。ただ、害があるとも思えないので解放しました。居間からは出ないように言いつけてあります。エハヴが見ているから大丈夫でしょう。もっとも、ここを出ていくつもりはないようなので、気を揉んだところで杞人天憂でしょうが」
「何を隠してるんだろう。一体」
今更になって恐ろしくなってきた。
ハウエルは人殺しなのである。
その真意は計れないが、少なくとも破顔しながら罪を告白できるような奴なのだ。
それが諦めなのか、無感動なのかは、ジュリア達にはわからない。
「どう……思います?」
「そうですねえ……」
ジュリアの取り留めのない問いにも、イッシュ様は真剣に答えてくれる。足元に絡んできた犬を避けながら、彼は言った。
「私には見極めは困難です。人間は常に罪を重ねて生きていますから。罪科に重さなどなく、それ故に、一つを取り上げるのは一等星を指差すようにはいきません。どうしても視たいというのなら、兄様を呼びましょう」
「ラジエル様ですか」
生命を超越したその人には、天から視る力と聴く力が与えられているという。ラジエル司教の持つ書にはこの世の全てが記されているとも聞く。もしかしたら、そこには過去だけでなく未来についても描かれているのかもしれない。
ジュリアは悩んだ。人智を越えた存在は飛び道具のようなものだ。早期解決は望めるだろうが、それで本当に――いいのだろうか。
「どうします。判断はあなたに委ねます。ハウエルはあなたを頼ってきたのですから」
その一押しで自信がついた。
ジュリアは頷いた。
「お願いします。あいつは多分、最後まで……教えてくれないと思うから」
「わかりました。では、家に戻ったらすぐに連絡を入れますね」
ところが、司教をお呼びする必要はなくなった。
我らが孤児院出身のある女性から、ジュリア宛に電話が掛かってきていたのである。
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