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IDEA of IDENTITY
純愛 五章五節
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♰
覚悟を決めたわ、ともう一人の私が申告しにきたのが、おおよそ一時間前のことだ。
――わたしは私になる。
――あなたができなかったことをしてみせる。
なんとも不穏な宣告である。何をするつもりかと私は問うた。それは正しい事柄か。胸を張って父の前に立つことができるか。教えに背いてはいないか。今一度、己の胸に問いかけるようわたしは説いた。少女は一笑に付した。お前にだけは言われたくないそうだ。最もである。
そうして、今。
私の前には、聖職者が佇んでいる。
教誨にでも来たつもりだろうか。どうやら私は、これから死刑になるらしいのだ。絞首刑だか斬首刑だか磔刑だかは知らないが、生憎と私には恐怖は存在しない。大人しく祈りを捧げるつもりはないし、今更、何を説き伏せるというのだろう。
それも。
――よりによって、なぜ。
神父の顔色は青白く、まるで生気が感じられなかった。それでいて知性の獰猛なぎらつきを宿した瞳は、私でさえ見惚れるほど澄み切った青。鬱陶しい長髪は夢の中でも健在であった。暑苦しいことに祭服を着込んだ正装だ。まさしく説教モードである。
私は救いを求めているというのか。
この男に。
「これはこれは、どうも。エハヴ神父じゃないですか」私は陽気に呼びかけた。「遠路はるばるご苦労様です。雨にでも降られたような不機嫌顔で何より。どうか哀れな子羊のために、一つ詩ってくださいな」
ただでさえ高身長なのに、こちらが座っているとなると、感じる圧はひとしおであった。じっと視線を注がれる。この男が去った時、私は終わるのだろう。どうせいつもの長広舌だろうが、今はあまり頭を使いたくはなかった。
適当に聞き流すつもりでいた司祭の説教は、思いの外、核心的なものだった。
男は訊いたのだ。
「答えは出たのか」
「答え?」
「箱の中身だよ」
「――――……」
おかげで、私は考える羽目になってしまった。
「……奇異なことを」
私は目の前の男を観察した――私の深層意識が紡ぎ出した像だとするならば、この男との会話は自問自答に値するのだろうか。
「出ていたらこんなことにはなっていませんよ。そもそも解答が存在するのかも怪しい」
「謎である限り答えはあるさ。それは例えば、謎ではなかったという答えの場合もあるけれど」
「頓智ですか? やめてくださいよ……貴方は僕のイドにおいても回りくどいんですね」
「それはお前がオレのことをそう認識しているからだろう」
それもそうだ。私は嗤った。
「だって、ここは僕の世界だもの。こんなに暗くて、薄汚い、寂しい場所――ねえ、神父。どうせ僕が紡いだ幻だというのなら、僕の告白を聞いていってくださいませんか。貴方はかつて、あの教会を檻だと表現しましたけれどね。やはり――違うと思うのですよ」
淡々と、何でもないように語るつもりであったのに、私の声は段々と打ち沈んでいった。
死ぬ前に懺悔も何もないだろうと思っていたが。
これはこれで、整理がついていいかもしれない。
「檻は――私だったんだ。私こそが、監獄だった。無実の人々を誘惑し、誑かし、謂れのない罪を与えた。父様はそれを知っていたはずなのに――僕の羽を毟ってはくれなかった。どうしてでしょう。どうして、誰も……止めてくれなかったのでしょう……」
「それは自問か。それともオレに訊いているのか」
「定義が難しいところですが、答えられるのであれば聞きたいですね」
「創ったものには責任が生じる」
「義務、ということですね。全ては疑似的な関係であったわけだ。父に造られたから息子であり、そうあるべく定められたから弟である……僕は、愛されるべき存在であっただけで。僕自体には、如何ほどの価値もないと」
なら、あの子は?
あの子はどうだったのだろう。
自らの意志であの家に残り、僕達に寄り添うことを決めたあの子。
泣き顔ばかりが印象に残っている。強張った表情から、ようやく気が抜けてきたところだった――殻を破った少年は、一回りも二回りも強くなった。私はその成長に心惹かれる反面、また羨ましくもあったのだ。矛盾と葛藤。衝突から生まれた正義と純真。露わになった気高さ。
かつて僕は、少年を操縦しようとした。
そして失敗した。初めての経験だった。彼の頭の中は、私には馴染みのない構造をしていた。最上級の慧眼と感受性を持ち合わせながら、能力に見合わない小さな器を持っていた。今はそれを広げる努力をしている。そうして、その努力は実を結びつつある。
優しさが、少年の覚醒を妨げているのだ。
彼は自分がどこまでも残酷になれるのを知っているのだろう。
知ることが正しいこととは限らない。
見えてはならないものも、この世には多くあるのだ。
あの子はすでに私の底を見抜いている。欺瞞を。無感動を。空白を。
盲目であった少年ならば、如何様にもできただろうが。
――一度吐いた嘘は、消えないのだ。
消してしまえば良かったのかもしれないが。
できなかった。
それは少年の涙を否定することに繋がるから。私は嬉しかったのかもしれない。彼に縋られた事実が。裏切りを謗られたことが。
私は彼に人間の秘めたる可能性を見たのだ。
私に足りなかったのは、この、不安定であり、激しく変動する情緒であり、学習する素養であり、涙だったのではないかと。
銃口を自らに突きつける彼の姿は美しかった。そのまま時を止めてしまいたいと思ったほどだ。その時、同時に味わった胸を締め付けられるような感動を、僕は二度と味わえないだろうと予感した。
そして、その通りになった。
出会えて良かったと一方的に思う。このまま僕の自我は消滅するとしても。
初めて理想を描くことができたのだ。
なんだかそれだけで――全てを手に入れられたような気分だ。
「もういいかなって、思ってるんです」
「……何?」
「それなりに楽しめました。父の命を全うできなかったのは、悔やんでも悔やみきれないけれど――それも彼女が引き継ぐのでしょう。僕はもう、満足です。欠けた真ん中はついぞ埋まることはありませんでしたが、他は満ちた。僕は――不完全で構わない。誰にも、望まれていないことが、わかったんですから」
「――本気か」
煮えたぎる湯のごとき声だった。
僕は意外に思って、面を上げた。友は見たことのない顔をしていた。全身から発せられるそれらは、怒気というものだった――見慣れぬはずだ。僕は呆れられることや叱られることはあっても、彼に怒られたことは一度もないのだった。
彼は荒々しく鉄格子を殴りつけた。
「こいつに感謝するんだな。これがなければ、お前を殴っていたところだ。なぜ諦める。なぜ赦す。誰にも望まれないだと? 百歩譲って、オレやラジエルがお義理でお前と付き合っていたとしてもだ。ジュリアは違う。お前の嘘を、薄情な精神を、目の当たりにしておきながら、あいつはお前を受け入れたろう。何度も絶望しながら、それでもお前を探しているよ。恨みもしなければ愚痴一つ零さない。あれは欺瞞でも自己満足でもない」
献身だ、と聖職者は言った。
「主に仕える身であるお前が、神の御使いである天使が、その健気な姿を否定すると言うのか。あいつはオレ達が引き込んだんだ。オレ達にはあいつを助ける義務がある! それを放棄するというのであれば、オレは――怒る」
至極簡潔な結論であった。僕は笑おうとして、失敗した。さぞかしへんてこな顔をしていたことだろう。自分でも、泣きたいんだか笑いたいんだか、わからなかったのだから。
「怒るぞって言う人は、もう怒ってるんですよ……経験則です……僕、知ってますよ……」
「誰よりも人に寄り添ってきたお前が言うのだから、そうなんだろうな」
「……こんなこと言ったら、馬鹿にされちゃうかもしれませんが」
僕は。
「僕は……」
一体、どうしたらいいのでしょうか。
最後の言葉は呑み込んだ。
素直に救いを求めることができなかったのは、この男が悪魔であり、腐れ縁であり、最も意地を張りたい相手であったからだ。下唇を噛む僕を、さぞかし不安な面持ちで眺めているのだろう。だって僕がしっかりしていなければ、もともと揺らぎの中にある彼を誰が導ける? 僕達は、みんな、迷っているのだ――。
「早く出て来い」
エハヴは言った。
「酌をさせてやる」
「無理ですよ。鍵がかかっているんです」
「ここはお前の中だろう。どうして出られないことがある。出口が見つからないのは、見つけたいと真には望んでいないからだ。お前は、お前の意志で、お前を殺せ。イッシュ。どちらかしか選べないのであれば、オレはお前を取る。それがどれだけ悲しいことだとしてもだ。だから、お前も選べ。あの――家を」
そう。ここは私の中だ。私の根に潜む深層心理の顕れであり、根源的な欲望や情動を押し込める場所。
だというのに、貴方は何だ。
私の中で、私の中にない言葉を操り、心を上向かせてしまった。初めて見る怒り顔は、整っている上にあまりに不健康が滲み出ていて、全然怖くなかった。僕を選ぶと言う貴方を、僕もまた選んできたのだ。拍子抜けだ。
変なの、と僕は吹き出した。
「こんなところまで来てお説教だなんて――貴方、本当に夢ですか?」
視界がせり上がった。
まるで手足を切り取られたような心地だ。肘から先の感覚は失われた。内臓が圧迫され、呼吸が困難になっている。
磔刑で死ぬには三日は必要らしい。
磔にされた救世主は三日後に復活を果たすが、案外、気絶していただけなのかもしれぬ。事実、司祭は数時間の間、気を失っていた。教会の祭壇奥に建てられた十字架に、今、司祭はぶら下がっている。本来なら手の平の付け根にある手根骨の間には釘を刺すところだが、さすがに用意が間に合わなかったらしい、笑えることに突き刺されたのはアイスピックと果物ナイフである。くの字に曲げた足を巻くのは洗濯紐だ。服を剥かれなかっただけマシだが、せめて恰好だけは付けさせて欲しかったなどと、回らぬ頭で喘ぐように考えた。酸素が足りない。苦しい。さっさと槍でも何でも刺してくれ――。
ぼやけた視界に、光り輝く輪が見えた。
気のせいだった。輝いて見えたのは金色の髪だ。
イシャーは退屈そうに長椅子に腰かけている。
遅いわね、と大儀そうに言った。
「何しているのかしら、ジュリア……恐い人に絡まれていないといいのだけれど」
「お前よりは、マシだろう」
「そうかしら。わたし、これでも淑女たらんとしているのよ。妻は貞淑でないと」
雷鳴が轟いた。
外は大雨らしい。
開放された教会の扉から、雨風が吹きすさんでいる。
そんな最中、少女の様子は普段と変わらない。パイが焼けるまでの暇を持て余しているかのようだ――大振りのナイフを手で遊ばせてさえいなければの話である。
司祭はこうなった経緯を振り返ってみたが、靄がかかったように思い出せなかった。自室で資料を読みふけっていたように思う。確か、ジュリアは――イシャーと隣町まで出てくると、言っていなかっただろうか――。少女がここに残っているということは、そうはならなかったということだろう。催眠? 洗脳? こいつにそんな能力があったのか? 大抵のことはこなせる奴だが、こうもあっさりと自分が引っかかるとは思えない。それとも、それほど弱っていたということなのだろうか。ああ、わからない。
少女にこんなことをさせてしまった理由が。
「何が、したい」司祭は泡混じりに訊いた。「お前は……未熟では、あったかも、しれないが……愚かでは、なかったはずだ」
我慢が利かなくなったといったところか。それとも何がしかの入れ知恵でもあったのか。とにもかくにも、彼女は全て壊してしまうことにしたらしい。冷静に見えるが、やけっぱちなのだ。
選んでもらおうと思ったの、と少女は幼さの抜けきらない声で言った。
「選ぶ……?」
司祭は間抜けに問い返す。
「何を、何に」
「あの子によ。わたしか、あなたか。あなたを選べば、わたしは自分の喉を掻き切るわ。わたしを選ぶなら――あなたを殺してもらう」
「そんなことではオレ達は死ねない」
「どうかしら。あの子の中で死んだことになったら、死んだのと変わらないと思わない?」
「ジュリアは賢いよ」
これは慰めではない。忠告である。おどおどした大人しい性質に騙されて近付くと、思いの外、腹をすかせているのだ、あれは。噛みつかれたが最後、こちらが根を上げたところで離してはくれない。
「順調に事が運んでいる間が危ないんだ。足元をすくわれる」
「……ご忠告どうも」
「殺したいなら殺せ。それでお前の気が済むなら好きにしろ。ただジュリアにはもう血を見せたくない。済ますなら今だ」
すでに蜂の巣になった己は見られている。これ以上、醜態を晒したくはないという思いもある。屍を乗り越えて歩いてきたあの子は、血みどろごときで狼狽える少年ではないが、それでもまだ子供なのだ。たった十数年しか生きていないあの子に、無用な刺激は与えたくなかった。
イシャーは口ごもり、不満げというよりは、悔しそうに言った。
「本当に……愛しているのね、あの子を」
「お前のことだってそうだよ」
少女は沈黙した。
「なあ、イシャー」
この名に口があまり慣れていないものだから、今の過酷な状況も相まって、うまく発音できたか怪しかった。それでも、込もった感情は伝わったらしい。少女は聡い。この言葉が嘘ではないことはわかっているはずだ。しかし、理解するのと受け入れるのはまた別の領域である。彼女はいやいやをするように頭を振った。
「いけないの……主の御前で、嘘を吐くなんて……」
「嘘なものか」
「だって、わたしとジュリアの間を妨げようとしたわ」
「それはあの子の中でまだ整理がついていなかったからだ」
「わたしを捨てようとした」
司祭は苦渋に歪んだ眉根を更に険しくする。
「何の話だ?」
「兄様に電話したんでしょう? もう手に負えないって。わたしを手離すって!」
司祭は一度、自身を疑った。よもや失った記憶の中で、自分がそのような行動を取ったのではないかと思ったのだ。だが、必死に思い返してみても、そのような世迷言を口走った覚えはない。先日、自分は確かに司教へ連絡を入れたが、定時のようなものだ。海へ行ったと言ったら、泳げるんですかと訊かれてキレた程度のものである。
部屋の外で聞き耳でも立てていたのだろうか。それにしては、食い違っているように思う。
「聞いていたのか? いなかったのか? 確かに一報は入れたが、オレは――」
「もういい。やめて。聞きたくない」
「イシャー。お前、何か勘違いを――」
がた、と物音がした。開け放された入り口に、小柄な影が立っていた。落とした紙袋から、果物や野菜や小箱が散らばった。
呆然と立ちすくんでいるのかと思いきや。
少年は、鋭い眼光で冷静に状況を分析しているようだった。
最悪のタイミングである。
覚悟を決めたわ、ともう一人の私が申告しにきたのが、おおよそ一時間前のことだ。
――わたしは私になる。
――あなたができなかったことをしてみせる。
なんとも不穏な宣告である。何をするつもりかと私は問うた。それは正しい事柄か。胸を張って父の前に立つことができるか。教えに背いてはいないか。今一度、己の胸に問いかけるようわたしは説いた。少女は一笑に付した。お前にだけは言われたくないそうだ。最もである。
そうして、今。
私の前には、聖職者が佇んでいる。
教誨にでも来たつもりだろうか。どうやら私は、これから死刑になるらしいのだ。絞首刑だか斬首刑だか磔刑だかは知らないが、生憎と私には恐怖は存在しない。大人しく祈りを捧げるつもりはないし、今更、何を説き伏せるというのだろう。
それも。
――よりによって、なぜ。
神父の顔色は青白く、まるで生気が感じられなかった。それでいて知性の獰猛なぎらつきを宿した瞳は、私でさえ見惚れるほど澄み切った青。鬱陶しい長髪は夢の中でも健在であった。暑苦しいことに祭服を着込んだ正装だ。まさしく説教モードである。
私は救いを求めているというのか。
この男に。
「これはこれは、どうも。エハヴ神父じゃないですか」私は陽気に呼びかけた。「遠路はるばるご苦労様です。雨にでも降られたような不機嫌顔で何より。どうか哀れな子羊のために、一つ詩ってくださいな」
ただでさえ高身長なのに、こちらが座っているとなると、感じる圧はひとしおであった。じっと視線を注がれる。この男が去った時、私は終わるのだろう。どうせいつもの長広舌だろうが、今はあまり頭を使いたくはなかった。
適当に聞き流すつもりでいた司祭の説教は、思いの外、核心的なものだった。
男は訊いたのだ。
「答えは出たのか」
「答え?」
「箱の中身だよ」
「――――……」
おかげで、私は考える羽目になってしまった。
「……奇異なことを」
私は目の前の男を観察した――私の深層意識が紡ぎ出した像だとするならば、この男との会話は自問自答に値するのだろうか。
「出ていたらこんなことにはなっていませんよ。そもそも解答が存在するのかも怪しい」
「謎である限り答えはあるさ。それは例えば、謎ではなかったという答えの場合もあるけれど」
「頓智ですか? やめてくださいよ……貴方は僕のイドにおいても回りくどいんですね」
「それはお前がオレのことをそう認識しているからだろう」
それもそうだ。私は嗤った。
「だって、ここは僕の世界だもの。こんなに暗くて、薄汚い、寂しい場所――ねえ、神父。どうせ僕が紡いだ幻だというのなら、僕の告白を聞いていってくださいませんか。貴方はかつて、あの教会を檻だと表現しましたけれどね。やはり――違うと思うのですよ」
淡々と、何でもないように語るつもりであったのに、私の声は段々と打ち沈んでいった。
死ぬ前に懺悔も何もないだろうと思っていたが。
これはこれで、整理がついていいかもしれない。
「檻は――私だったんだ。私こそが、監獄だった。無実の人々を誘惑し、誑かし、謂れのない罪を与えた。父様はそれを知っていたはずなのに――僕の羽を毟ってはくれなかった。どうしてでしょう。どうして、誰も……止めてくれなかったのでしょう……」
「それは自問か。それともオレに訊いているのか」
「定義が難しいところですが、答えられるのであれば聞きたいですね」
「創ったものには責任が生じる」
「義務、ということですね。全ては疑似的な関係であったわけだ。父に造られたから息子であり、そうあるべく定められたから弟である……僕は、愛されるべき存在であっただけで。僕自体には、如何ほどの価値もないと」
なら、あの子は?
あの子はどうだったのだろう。
自らの意志であの家に残り、僕達に寄り添うことを決めたあの子。
泣き顔ばかりが印象に残っている。強張った表情から、ようやく気が抜けてきたところだった――殻を破った少年は、一回りも二回りも強くなった。私はその成長に心惹かれる反面、また羨ましくもあったのだ。矛盾と葛藤。衝突から生まれた正義と純真。露わになった気高さ。
かつて僕は、少年を操縦しようとした。
そして失敗した。初めての経験だった。彼の頭の中は、私には馴染みのない構造をしていた。最上級の慧眼と感受性を持ち合わせながら、能力に見合わない小さな器を持っていた。今はそれを広げる努力をしている。そうして、その努力は実を結びつつある。
優しさが、少年の覚醒を妨げているのだ。
彼は自分がどこまでも残酷になれるのを知っているのだろう。
知ることが正しいこととは限らない。
見えてはならないものも、この世には多くあるのだ。
あの子はすでに私の底を見抜いている。欺瞞を。無感動を。空白を。
盲目であった少年ならば、如何様にもできただろうが。
――一度吐いた嘘は、消えないのだ。
消してしまえば良かったのかもしれないが。
できなかった。
それは少年の涙を否定することに繋がるから。私は嬉しかったのかもしれない。彼に縋られた事実が。裏切りを謗られたことが。
私は彼に人間の秘めたる可能性を見たのだ。
私に足りなかったのは、この、不安定であり、激しく変動する情緒であり、学習する素養であり、涙だったのではないかと。
銃口を自らに突きつける彼の姿は美しかった。そのまま時を止めてしまいたいと思ったほどだ。その時、同時に味わった胸を締め付けられるような感動を、僕は二度と味わえないだろうと予感した。
そして、その通りになった。
出会えて良かったと一方的に思う。このまま僕の自我は消滅するとしても。
初めて理想を描くことができたのだ。
なんだかそれだけで――全てを手に入れられたような気分だ。
「もういいかなって、思ってるんです」
「……何?」
「それなりに楽しめました。父の命を全うできなかったのは、悔やんでも悔やみきれないけれど――それも彼女が引き継ぐのでしょう。僕はもう、満足です。欠けた真ん中はついぞ埋まることはありませんでしたが、他は満ちた。僕は――不完全で構わない。誰にも、望まれていないことが、わかったんですから」
「――本気か」
煮えたぎる湯のごとき声だった。
僕は意外に思って、面を上げた。友は見たことのない顔をしていた。全身から発せられるそれらは、怒気というものだった――見慣れぬはずだ。僕は呆れられることや叱られることはあっても、彼に怒られたことは一度もないのだった。
彼は荒々しく鉄格子を殴りつけた。
「こいつに感謝するんだな。これがなければ、お前を殴っていたところだ。なぜ諦める。なぜ赦す。誰にも望まれないだと? 百歩譲って、オレやラジエルがお義理でお前と付き合っていたとしてもだ。ジュリアは違う。お前の嘘を、薄情な精神を、目の当たりにしておきながら、あいつはお前を受け入れたろう。何度も絶望しながら、それでもお前を探しているよ。恨みもしなければ愚痴一つ零さない。あれは欺瞞でも自己満足でもない」
献身だ、と聖職者は言った。
「主に仕える身であるお前が、神の御使いである天使が、その健気な姿を否定すると言うのか。あいつはオレ達が引き込んだんだ。オレ達にはあいつを助ける義務がある! それを放棄するというのであれば、オレは――怒る」
至極簡潔な結論であった。僕は笑おうとして、失敗した。さぞかしへんてこな顔をしていたことだろう。自分でも、泣きたいんだか笑いたいんだか、わからなかったのだから。
「怒るぞって言う人は、もう怒ってるんですよ……経験則です……僕、知ってますよ……」
「誰よりも人に寄り添ってきたお前が言うのだから、そうなんだろうな」
「……こんなこと言ったら、馬鹿にされちゃうかもしれませんが」
僕は。
「僕は……」
一体、どうしたらいいのでしょうか。
最後の言葉は呑み込んだ。
素直に救いを求めることができなかったのは、この男が悪魔であり、腐れ縁であり、最も意地を張りたい相手であったからだ。下唇を噛む僕を、さぞかし不安な面持ちで眺めているのだろう。だって僕がしっかりしていなければ、もともと揺らぎの中にある彼を誰が導ける? 僕達は、みんな、迷っているのだ――。
「早く出て来い」
エハヴは言った。
「酌をさせてやる」
「無理ですよ。鍵がかかっているんです」
「ここはお前の中だろう。どうして出られないことがある。出口が見つからないのは、見つけたいと真には望んでいないからだ。お前は、お前の意志で、お前を殺せ。イッシュ。どちらかしか選べないのであれば、オレはお前を取る。それがどれだけ悲しいことだとしてもだ。だから、お前も選べ。あの――家を」
そう。ここは私の中だ。私の根に潜む深層心理の顕れであり、根源的な欲望や情動を押し込める場所。
だというのに、貴方は何だ。
私の中で、私の中にない言葉を操り、心を上向かせてしまった。初めて見る怒り顔は、整っている上にあまりに不健康が滲み出ていて、全然怖くなかった。僕を選ぶと言う貴方を、僕もまた選んできたのだ。拍子抜けだ。
変なの、と僕は吹き出した。
「こんなところまで来てお説教だなんて――貴方、本当に夢ですか?」
視界がせり上がった。
まるで手足を切り取られたような心地だ。肘から先の感覚は失われた。内臓が圧迫され、呼吸が困難になっている。
磔刑で死ぬには三日は必要らしい。
磔にされた救世主は三日後に復活を果たすが、案外、気絶していただけなのかもしれぬ。事実、司祭は数時間の間、気を失っていた。教会の祭壇奥に建てられた十字架に、今、司祭はぶら下がっている。本来なら手の平の付け根にある手根骨の間には釘を刺すところだが、さすがに用意が間に合わなかったらしい、笑えることに突き刺されたのはアイスピックと果物ナイフである。くの字に曲げた足を巻くのは洗濯紐だ。服を剥かれなかっただけマシだが、せめて恰好だけは付けさせて欲しかったなどと、回らぬ頭で喘ぐように考えた。酸素が足りない。苦しい。さっさと槍でも何でも刺してくれ――。
ぼやけた視界に、光り輝く輪が見えた。
気のせいだった。輝いて見えたのは金色の髪だ。
イシャーは退屈そうに長椅子に腰かけている。
遅いわね、と大儀そうに言った。
「何しているのかしら、ジュリア……恐い人に絡まれていないといいのだけれど」
「お前よりは、マシだろう」
「そうかしら。わたし、これでも淑女たらんとしているのよ。妻は貞淑でないと」
雷鳴が轟いた。
外は大雨らしい。
開放された教会の扉から、雨風が吹きすさんでいる。
そんな最中、少女の様子は普段と変わらない。パイが焼けるまでの暇を持て余しているかのようだ――大振りのナイフを手で遊ばせてさえいなければの話である。
司祭はこうなった経緯を振り返ってみたが、靄がかかったように思い出せなかった。自室で資料を読みふけっていたように思う。確か、ジュリアは――イシャーと隣町まで出てくると、言っていなかっただろうか――。少女がここに残っているということは、そうはならなかったということだろう。催眠? 洗脳? こいつにそんな能力があったのか? 大抵のことはこなせる奴だが、こうもあっさりと自分が引っかかるとは思えない。それとも、それほど弱っていたということなのだろうか。ああ、わからない。
少女にこんなことをさせてしまった理由が。
「何が、したい」司祭は泡混じりに訊いた。「お前は……未熟では、あったかも、しれないが……愚かでは、なかったはずだ」
我慢が利かなくなったといったところか。それとも何がしかの入れ知恵でもあったのか。とにもかくにも、彼女は全て壊してしまうことにしたらしい。冷静に見えるが、やけっぱちなのだ。
選んでもらおうと思ったの、と少女は幼さの抜けきらない声で言った。
「選ぶ……?」
司祭は間抜けに問い返す。
「何を、何に」
「あの子によ。わたしか、あなたか。あなたを選べば、わたしは自分の喉を掻き切るわ。わたしを選ぶなら――あなたを殺してもらう」
「そんなことではオレ達は死ねない」
「どうかしら。あの子の中で死んだことになったら、死んだのと変わらないと思わない?」
「ジュリアは賢いよ」
これは慰めではない。忠告である。おどおどした大人しい性質に騙されて近付くと、思いの外、腹をすかせているのだ、あれは。噛みつかれたが最後、こちらが根を上げたところで離してはくれない。
「順調に事が運んでいる間が危ないんだ。足元をすくわれる」
「……ご忠告どうも」
「殺したいなら殺せ。それでお前の気が済むなら好きにしろ。ただジュリアにはもう血を見せたくない。済ますなら今だ」
すでに蜂の巣になった己は見られている。これ以上、醜態を晒したくはないという思いもある。屍を乗り越えて歩いてきたあの子は、血みどろごときで狼狽える少年ではないが、それでもまだ子供なのだ。たった十数年しか生きていないあの子に、無用な刺激は与えたくなかった。
イシャーは口ごもり、不満げというよりは、悔しそうに言った。
「本当に……愛しているのね、あの子を」
「お前のことだってそうだよ」
少女は沈黙した。
「なあ、イシャー」
この名に口があまり慣れていないものだから、今の過酷な状況も相まって、うまく発音できたか怪しかった。それでも、込もった感情は伝わったらしい。少女は聡い。この言葉が嘘ではないことはわかっているはずだ。しかし、理解するのと受け入れるのはまた別の領域である。彼女はいやいやをするように頭を振った。
「いけないの……主の御前で、嘘を吐くなんて……」
「嘘なものか」
「だって、わたしとジュリアの間を妨げようとしたわ」
「それはあの子の中でまだ整理がついていなかったからだ」
「わたしを捨てようとした」
司祭は苦渋に歪んだ眉根を更に険しくする。
「何の話だ?」
「兄様に電話したんでしょう? もう手に負えないって。わたしを手離すって!」
司祭は一度、自身を疑った。よもや失った記憶の中で、自分がそのような行動を取ったのではないかと思ったのだ。だが、必死に思い返してみても、そのような世迷言を口走った覚えはない。先日、自分は確かに司教へ連絡を入れたが、定時のようなものだ。海へ行ったと言ったら、泳げるんですかと訊かれてキレた程度のものである。
部屋の外で聞き耳でも立てていたのだろうか。それにしては、食い違っているように思う。
「聞いていたのか? いなかったのか? 確かに一報は入れたが、オレは――」
「もういい。やめて。聞きたくない」
「イシャー。お前、何か勘違いを――」
がた、と物音がした。開け放された入り口に、小柄な影が立っていた。落とした紙袋から、果物や野菜や小箱が散らばった。
呆然と立ちすくんでいるのかと思いきや。
少年は、鋭い眼光で冷静に状況を分析しているようだった。
最悪のタイミングである。
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