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IDEA of IDENTITY
エス 四章四節
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♰
「連れ帰りましょうか」
冷えた声が言った。
といっても、こいつはこれが平常であって、激しようが悲嘆に暮れようが、声色の変わらぬ質である。表情筋は微笑みで固定され、心は常に人里離れた湖面の如く凪いでいる。
数多の視点と、全ての解を得た存在。
だからこそ狡いというのだ。
唯々と与えられる叡智など、如何ほどの価値もない。
悩まなくていいというのはそれだけで特権だ。人型としては欠陥と言えようが。こいつの脳は動物のそれと変わらぬ。いや――犬畜生未満と言えよう。本能すら、この男は持ち得ない。あるのはただ使命のみ。
調和も混沌もこの男にとっては同じことだ。
ただ視、音を聴き、記録することだけが、男の役割である。
司祭はかつての友に胡乱な視線を投げた。
薄笑いが歪んでいるのか、蝋燭の作る影が揺らいでいるのか、微妙なところである。
「ジュリアくんは引きずられています。イッシュの傍に置くには、負担が大きいかと」
「……」
司祭は黙って、煙草に火をつけた。
気絶するように眠ったジュリアは、自室へと移した。少女はそれに付き添っているはずだ。一緒にしておくのは善くないと司教は言ったけれど、ならどうすると問うたら黙り込んでしまった。結局、考える頭がないのだ、こいつは。真実だけ突きつけたところで、人は動けぬ。それがわからない。嘘の内包する優しさも。真の纏う棘の鋭さも。
ずっと考えている。
引き際はどこか。この局面を、自分は過たず乗り切ることができるだろうか。
たとえば、故あって家族と離れ離れになった子供は、その理由がどんなに必然的なものだとしても、見捨てられたと無意識で感じるらしい。
それはつらい。現実であれ妄想であれ、心に深い傷跡が残ることは間違いない。イッシュに関して言えば、子供などという歳では毛頭ないが。今のあいつの感受性は剥き出しだ。全てを受け止め、全てを吸収している。やり方を間違えたら壊れてしまうかもしれない。そうなったら、どんな行動に出るかわかったものじゃない。
イッシュは優秀だ。
――オレなど比べ物にならないほど。
だからこそ、持て余してはいけないのだ。
「連れ帰ったとして」司祭は煙草の先を司教に向けた。「どうする。お前に何がしてやれる?」
「……何も」珍しく、司教は歯切れが悪かった。「しかし、何があろうとも、私は最後まであの子の兄です」
申し訳ないことだが、司祭は笑ってしまった。
「そう造られただけのことだろうが」
家族。
目指してみようと思ったこともある。我々の曖昧な関係を一言で表すには、便利で体のいい名称だった。
けれど、あいつは違ったのかもしれない。
――これは抗議か。
気付かぬ間に、蔑ろにしていたのだろうか。
見ないふりをしていたのか、それとも本当に自覚がなかったのかは定かではないが、夢に見るほどの葛藤をあいつは生みだしていたことになる。かくいう自分は奴の異変には気付いていた。しかし、暗黙の了解として目を伏せた。互いに強く干渉しないことが、いつの間にか我々の規則になっていた。だが、こんな言い訳が成立するだろうか? あいつが触れないから、オレも触れません、などと。ならあいつが踏み込めばオレも踏み込んだのか。違うだろう。
割れたティーカップの破片を袋に捨てていくのと同じだ。
こぼした食事は生ごみになる。
必要とされていたものも、ふとした瞬間に廃棄物に変わる。
あいつが発した声なき声を、オレは拾わなかったのだ。
――また捨てるのか。
あんなに楽しそうに笑っているのに?
煩悶する。いつも通りと言えばそうだが、他人のことで頭が占められているとなると、解決は望めまい。自分のことなど知れないが、他所様のことはもっとわからないからだ。他者をどうにかしようなど不可能だ。自分と外は違うのだ。その区別がおそらく、ジュリアはまだついていない。だからこそ同調し、共に沈んでしまうのだろう。
「おれ……もう一度、潜りましょうか」
じっと柱時計を眺めていたアルフが言った。
「ずっと気がかりなんです。あの時、追いかけてきた、影……みたいな。あれって、もしかして――」
「もういいんだよ」
司祭は投げやりに遮った。
「そっとしておいてやれ。あれはあれで……気楽そうじゃないか」
渇望していたシンパシーを手に入れたのだ。
もしかしたら、あれはあいつが望んだ姿なのかもしれない。
箱の中の自分を殺し。
手に入れた――新しい生。
自分で考えて面白くなってしまった。司祭は一人、肩を震わせた。アルフは困惑して口を噤んでいるし、司教は硝子玉のような瞳でこちらを凝視している。
識るためだ共有するためだと嘯くが、実際のところ、あれは色を好んでいるだけだ。
男を捨てるくらいなら感受性などいりませんと、きっぱり答えそうな気がする。
さっさと認めてしまえばいいものを。
欠けていようが歪んでいようが、本当は構わないのだ。
幸せを決めるのは、自分で自分を受け入れられるかどうかに尽きる。
父はイッシュを人として創ったが。
人でないものが出来上がったからといって、捨てたりはしなかった。
完成は強要されてなどいないのだ。役割を課したのは――あいつ自身なのである。
虚しい笑い声が薄暗い室内に響いていた。
ひとしきり笑った後、司祭は煙草を盆に載せ、言った。
「とにもかくにもだ。今すぐに決断を下す必要はあるまいよ。精々、経過を見守ろうじゃないか」
「手遅れになりますよ」
嫌に断定的な物言いだ。司祭はげんなりと手を振ってみせる。
「視えているのなら具体的な忠告をしてくれ」
「私に未来はわかりません」
「なら何の話をしているんだ」
「現在と、可能性、といったところですかね」
「そんなこと言いだしたらキリがないよ。その大層な書物に書いてあることだけ教えてくれ」
「私は貴方がたを案じているのです」
「答えになってないぞ」司祭は語気を荒げた。このままでは埒が明かない。押し問答ほど不愉快なものはない。「どいつもこいつもオレを甘く見てはいないか? イッシュを見ろ。あの子は飢えている。そしてそうなれば、これはオレの分野だ」
「……だからこそと、私は言っているんですがね」司教の声色が僅か濁った。珍しいことだった。「いいでしょう。あの子も随分、ジュリアくんを気に入っているようですから。ここに置いていただけるのは助かります。ただし――いつでもご連絡を。手に負えないと感じたならば、すぐにでも手放すことです」
二つは選べませんよ。
嫌な忠告を残して、司教は古本屋を連れて帰っていった。
司祭はしばらく居間でじっとしていた。考えることは山ほどあった。そしてそのどれもが、くだらぬ虚妄であることは承知していた。二つは選べない。そうなのだろうか。だとしたら、何と何から選べばいいのだろうか。そうして、選ばれなかったほうはどうなってしまうのか。
揺れる炎は不安を表しているようで、煩わしくなった司祭は手で火を消した。暗闇の中、目を閉じた。閉じているのに、開いているような気になった。一度どちらかわからなくなるとそればかりが気にかかって、こんなことで発狂するのも馬鹿らしいから、手の平で顔を覆った。頭の中はしばらく蝿の羽音で満ちていた。少しでも休みたかったが、どうにも叶いそうにない。このまま夜が明けるのを待つことにする。
「連れ帰りましょうか」
冷えた声が言った。
といっても、こいつはこれが平常であって、激しようが悲嘆に暮れようが、声色の変わらぬ質である。表情筋は微笑みで固定され、心は常に人里離れた湖面の如く凪いでいる。
数多の視点と、全ての解を得た存在。
だからこそ狡いというのだ。
唯々と与えられる叡智など、如何ほどの価値もない。
悩まなくていいというのはそれだけで特権だ。人型としては欠陥と言えようが。こいつの脳は動物のそれと変わらぬ。いや――犬畜生未満と言えよう。本能すら、この男は持ち得ない。あるのはただ使命のみ。
調和も混沌もこの男にとっては同じことだ。
ただ視、音を聴き、記録することだけが、男の役割である。
司祭はかつての友に胡乱な視線を投げた。
薄笑いが歪んでいるのか、蝋燭の作る影が揺らいでいるのか、微妙なところである。
「ジュリアくんは引きずられています。イッシュの傍に置くには、負担が大きいかと」
「……」
司祭は黙って、煙草に火をつけた。
気絶するように眠ったジュリアは、自室へと移した。少女はそれに付き添っているはずだ。一緒にしておくのは善くないと司教は言ったけれど、ならどうすると問うたら黙り込んでしまった。結局、考える頭がないのだ、こいつは。真実だけ突きつけたところで、人は動けぬ。それがわからない。嘘の内包する優しさも。真の纏う棘の鋭さも。
ずっと考えている。
引き際はどこか。この局面を、自分は過たず乗り切ることができるだろうか。
たとえば、故あって家族と離れ離れになった子供は、その理由がどんなに必然的なものだとしても、見捨てられたと無意識で感じるらしい。
それはつらい。現実であれ妄想であれ、心に深い傷跡が残ることは間違いない。イッシュに関して言えば、子供などという歳では毛頭ないが。今のあいつの感受性は剥き出しだ。全てを受け止め、全てを吸収している。やり方を間違えたら壊れてしまうかもしれない。そうなったら、どんな行動に出るかわかったものじゃない。
イッシュは優秀だ。
――オレなど比べ物にならないほど。
だからこそ、持て余してはいけないのだ。
「連れ帰ったとして」司祭は煙草の先を司教に向けた。「どうする。お前に何がしてやれる?」
「……何も」珍しく、司教は歯切れが悪かった。「しかし、何があろうとも、私は最後まであの子の兄です」
申し訳ないことだが、司祭は笑ってしまった。
「そう造られただけのことだろうが」
家族。
目指してみようと思ったこともある。我々の曖昧な関係を一言で表すには、便利で体のいい名称だった。
けれど、あいつは違ったのかもしれない。
――これは抗議か。
気付かぬ間に、蔑ろにしていたのだろうか。
見ないふりをしていたのか、それとも本当に自覚がなかったのかは定かではないが、夢に見るほどの葛藤をあいつは生みだしていたことになる。かくいう自分は奴の異変には気付いていた。しかし、暗黙の了解として目を伏せた。互いに強く干渉しないことが、いつの間にか我々の規則になっていた。だが、こんな言い訳が成立するだろうか? あいつが触れないから、オレも触れません、などと。ならあいつが踏み込めばオレも踏み込んだのか。違うだろう。
割れたティーカップの破片を袋に捨てていくのと同じだ。
こぼした食事は生ごみになる。
必要とされていたものも、ふとした瞬間に廃棄物に変わる。
あいつが発した声なき声を、オレは拾わなかったのだ。
――また捨てるのか。
あんなに楽しそうに笑っているのに?
煩悶する。いつも通りと言えばそうだが、他人のことで頭が占められているとなると、解決は望めまい。自分のことなど知れないが、他所様のことはもっとわからないからだ。他者をどうにかしようなど不可能だ。自分と外は違うのだ。その区別がおそらく、ジュリアはまだついていない。だからこそ同調し、共に沈んでしまうのだろう。
「おれ……もう一度、潜りましょうか」
じっと柱時計を眺めていたアルフが言った。
「ずっと気がかりなんです。あの時、追いかけてきた、影……みたいな。あれって、もしかして――」
「もういいんだよ」
司祭は投げやりに遮った。
「そっとしておいてやれ。あれはあれで……気楽そうじゃないか」
渇望していたシンパシーを手に入れたのだ。
もしかしたら、あれはあいつが望んだ姿なのかもしれない。
箱の中の自分を殺し。
手に入れた――新しい生。
自分で考えて面白くなってしまった。司祭は一人、肩を震わせた。アルフは困惑して口を噤んでいるし、司教は硝子玉のような瞳でこちらを凝視している。
識るためだ共有するためだと嘯くが、実際のところ、あれは色を好んでいるだけだ。
男を捨てるくらいなら感受性などいりませんと、きっぱり答えそうな気がする。
さっさと認めてしまえばいいものを。
欠けていようが歪んでいようが、本当は構わないのだ。
幸せを決めるのは、自分で自分を受け入れられるかどうかに尽きる。
父はイッシュを人として創ったが。
人でないものが出来上がったからといって、捨てたりはしなかった。
完成は強要されてなどいないのだ。役割を課したのは――あいつ自身なのである。
虚しい笑い声が薄暗い室内に響いていた。
ひとしきり笑った後、司祭は煙草を盆に載せ、言った。
「とにもかくにもだ。今すぐに決断を下す必要はあるまいよ。精々、経過を見守ろうじゃないか」
「手遅れになりますよ」
嫌に断定的な物言いだ。司祭はげんなりと手を振ってみせる。
「視えているのなら具体的な忠告をしてくれ」
「私に未来はわかりません」
「なら何の話をしているんだ」
「現在と、可能性、といったところですかね」
「そんなこと言いだしたらキリがないよ。その大層な書物に書いてあることだけ教えてくれ」
「私は貴方がたを案じているのです」
「答えになってないぞ」司祭は語気を荒げた。このままでは埒が明かない。押し問答ほど不愉快なものはない。「どいつもこいつもオレを甘く見てはいないか? イッシュを見ろ。あの子は飢えている。そしてそうなれば、これはオレの分野だ」
「……だからこそと、私は言っているんですがね」司教の声色が僅か濁った。珍しいことだった。「いいでしょう。あの子も随分、ジュリアくんを気に入っているようですから。ここに置いていただけるのは助かります。ただし――いつでもご連絡を。手に負えないと感じたならば、すぐにでも手放すことです」
二つは選べませんよ。
嫌な忠告を残して、司教は古本屋を連れて帰っていった。
司祭はしばらく居間でじっとしていた。考えることは山ほどあった。そしてそのどれもが、くだらぬ虚妄であることは承知していた。二つは選べない。そうなのだろうか。だとしたら、何と何から選べばいいのだろうか。そうして、選ばれなかったほうはどうなってしまうのか。
揺れる炎は不安を表しているようで、煩わしくなった司祭は手で火を消した。暗闇の中、目を閉じた。閉じているのに、開いているような気になった。一度どちらかわからなくなるとそればかりが気にかかって、こんなことで発狂するのも馬鹿らしいから、手の平で顔を覆った。頭の中はしばらく蝿の羽音で満ちていた。少しでも休みたかったが、どうにも叶いそうにない。このまま夜が明けるのを待つことにする。
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