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MISERABLE SINNERS
エデン 五章二節
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小さな部屋が、三つある。
そのうちの一番左の小部屋に、ジュリアは入った。ぽつんと置いてある椅子に腰かける。空気は清浄。目に見えぬ何かがこの部屋には住んでいて、厳かな呼吸によって静謐を保っているのだと思う。ジュリアは肺いっぱいに息を吸い込んで、止めてみた。澱んだ血液に冷やっこい酸素が染みわたる。
ここは荒野ではない。
ただの部屋だ。
――小窓のカーテンが開いた。
「父と子と精霊の御名によって」
低く、耳通りのいい声が呼びかける。
ジュリアは指を組み、エーメン、と絵の具を垂らすように呟いた。
「回心を呼びかけておられる、神の声に心を開いてください。神の慈しみに信頼して、貴方の罪を告白してください」
「……僕は……こうして罪を告白するのは、初めてです。洗礼を受けたのは、十一の時で、僕にはまだ、何が善いことで、何が悪いことか、区別がついていませんでした。僕は、たくさんの罪を、犯してきましたが、最初の罪は、そこにあると、思っています。僕は……考えることを、放棄して、自分も、周りも、見て、いなかった」
ジュリアは訥々と語った。女手一つで自分を育ててくれた母のこと。母と再婚した義理の父親と関係を持ってしまったこと。そうして、どちらも失ってしまったこと。
「僕は、愛されようとするあまり、愛すことを、忘れたのです。受け入れるばかりで、返すことを、怠ったのです。……一番可哀想なのは、母さんだ。やっと手に入れた幸せを、僕は壊してしまった。僕は、母から愛を奪った。きっと――恨んでいるでしょう」
「それはどうでしょうか」
やや軽薄な声が応えた。
告白の合間に贖罪司祭が口を挟むことは少ない。ジュリアは戸惑って、黙り込んだ。
明るい声は告げる。
「その解釈はおかしいと私は思います。お母様は貴方を恨んでなどいません。憎む理由もない。だって、お母様が殺めたのはお義父様なのでしょう? 貴方を恨めしく思っているのなら、貴方を殺めたはずだ。お母様は貴方を護ろうとしたのですよ。お義父様と契ったのだって、貴方のためだと私は推測します」
「そ……」ジュリアは俯いた。「そんな……だって……母さんは、義父さんを愛してた」
「愛にも種類があります。子宝なんて言葉があるくらいなんだから、母親にとって子供は何にも勝る宝なのでしょう」
「だけど」
だけど、と思う。
それならばなぜ、俺を置いて行ってしまったのか。
どうして、二人だけで逝ってしまったのか。
ジュリアを追い出した時、すでに母の心は決まっていたのではないかと、ジュリアは思うのだ。その決意に気付けなかったことが、ジュリアの罪だ。
だのに、御使いは言う。
ジュリアの罪を、洗い流してしまう。
「簡単ですよ――あなたを憎みたくなかったからでしょう」
「――――……」
呆然とした。
亜麻色の後れ毛が、はらりと零れた首筋を覚えている。
ジュリアが泣くと、痩せた腕で抱き上げて、背中をぽんぽんと叩いてくれた。掠れた音色で、福音の歌を歌ってくれた。
愛してるんだからね、と。
額に降る口づけを。
どうして、俺は今の今まで――忘れていたんだろう――。
音もなく涙が溢れた。ジュリアは静かに泣いた。そのうちに堪えきれなくなって、膝の間に顔を埋めた。
「名推理でしょう。正解に限りなく近いと思いますよ。これでも僕、長きに渡り、人間を観察してきたんです。目は確かですよ。今はないですけど」
「じゃじゃ馬はその辺りにしていただこうか、イッシュ助任司祭。これは彼の告白の場だ。どうしてもというから、特例として居合わせてやったのだ。それがなんだ。主に代わってこれを救ってしまうなど……貴方にも懺悔が必要なようだ」
「神様」
ジュリアは祈った。
これは願いではない。
主に捧げる苦悩である。
主に貢ぐ悔悟である。
ぽろぽろと零れる言葉達を、祈りというの名の綿毛に載せて、空へと放つのだ。
僕の神様。
「お赦しを。僕はまだ、何も償えていません。しかし、心から後悔し、悔やんでいます。僕は罪を犯すことによって、あなたを侮辱しました。僕は、もう罪の誘惑に負けないことを決心します。憐み深い主よ。僕をお赦しください。罪人の僕を、憐れんでください」
「――全能の神、憐み深い父は、罪の赦しのために聖霊を注がれました」厳かな声が、まるで頬を撫でるように、託宣した。「神が教会の奉仕の務めを通して、貴方に赦しと平和を与えてくださいますように。私は、父と子と聖霊の御名によって――貴方の罪を、赦します」
「……エーメン」
「貴方の善行と苦しみが、貴方の罪の償いとなりますように。恩恵を増し、永遠の生命として報いられますように。平和のうちに行きなさい。神に立ち返り、罪を赦された人は幸せです――御安心なさい」
「ありがとうございます」
ジュリアは顔を上げた。
「神父様――償いを」
「うむ……そうさな」
たっぷりと間を置いて、愛は答えた。
「羊を食え」
おしまい
そのうちの一番左の小部屋に、ジュリアは入った。ぽつんと置いてある椅子に腰かける。空気は清浄。目に見えぬ何かがこの部屋には住んでいて、厳かな呼吸によって静謐を保っているのだと思う。ジュリアは肺いっぱいに息を吸い込んで、止めてみた。澱んだ血液に冷やっこい酸素が染みわたる。
ここは荒野ではない。
ただの部屋だ。
――小窓のカーテンが開いた。
「父と子と精霊の御名によって」
低く、耳通りのいい声が呼びかける。
ジュリアは指を組み、エーメン、と絵の具を垂らすように呟いた。
「回心を呼びかけておられる、神の声に心を開いてください。神の慈しみに信頼して、貴方の罪を告白してください」
「……僕は……こうして罪を告白するのは、初めてです。洗礼を受けたのは、十一の時で、僕にはまだ、何が善いことで、何が悪いことか、区別がついていませんでした。僕は、たくさんの罪を、犯してきましたが、最初の罪は、そこにあると、思っています。僕は……考えることを、放棄して、自分も、周りも、見て、いなかった」
ジュリアは訥々と語った。女手一つで自分を育ててくれた母のこと。母と再婚した義理の父親と関係を持ってしまったこと。そうして、どちらも失ってしまったこと。
「僕は、愛されようとするあまり、愛すことを、忘れたのです。受け入れるばかりで、返すことを、怠ったのです。……一番可哀想なのは、母さんだ。やっと手に入れた幸せを、僕は壊してしまった。僕は、母から愛を奪った。きっと――恨んでいるでしょう」
「それはどうでしょうか」
やや軽薄な声が応えた。
告白の合間に贖罪司祭が口を挟むことは少ない。ジュリアは戸惑って、黙り込んだ。
明るい声は告げる。
「その解釈はおかしいと私は思います。お母様は貴方を恨んでなどいません。憎む理由もない。だって、お母様が殺めたのはお義父様なのでしょう? 貴方を恨めしく思っているのなら、貴方を殺めたはずだ。お母様は貴方を護ろうとしたのですよ。お義父様と契ったのだって、貴方のためだと私は推測します」
「そ……」ジュリアは俯いた。「そんな……だって……母さんは、義父さんを愛してた」
「愛にも種類があります。子宝なんて言葉があるくらいなんだから、母親にとって子供は何にも勝る宝なのでしょう」
「だけど」
だけど、と思う。
それならばなぜ、俺を置いて行ってしまったのか。
どうして、二人だけで逝ってしまったのか。
ジュリアを追い出した時、すでに母の心は決まっていたのではないかと、ジュリアは思うのだ。その決意に気付けなかったことが、ジュリアの罪だ。
だのに、御使いは言う。
ジュリアの罪を、洗い流してしまう。
「簡単ですよ――あなたを憎みたくなかったからでしょう」
「――――……」
呆然とした。
亜麻色の後れ毛が、はらりと零れた首筋を覚えている。
ジュリアが泣くと、痩せた腕で抱き上げて、背中をぽんぽんと叩いてくれた。掠れた音色で、福音の歌を歌ってくれた。
愛してるんだからね、と。
額に降る口づけを。
どうして、俺は今の今まで――忘れていたんだろう――。
音もなく涙が溢れた。ジュリアは静かに泣いた。そのうちに堪えきれなくなって、膝の間に顔を埋めた。
「名推理でしょう。正解に限りなく近いと思いますよ。これでも僕、長きに渡り、人間を観察してきたんです。目は確かですよ。今はないですけど」
「じゃじゃ馬はその辺りにしていただこうか、イッシュ助任司祭。これは彼の告白の場だ。どうしてもというから、特例として居合わせてやったのだ。それがなんだ。主に代わってこれを救ってしまうなど……貴方にも懺悔が必要なようだ」
「神様」
ジュリアは祈った。
これは願いではない。
主に捧げる苦悩である。
主に貢ぐ悔悟である。
ぽろぽろと零れる言葉達を、祈りというの名の綿毛に載せて、空へと放つのだ。
僕の神様。
「お赦しを。僕はまだ、何も償えていません。しかし、心から後悔し、悔やんでいます。僕は罪を犯すことによって、あなたを侮辱しました。僕は、もう罪の誘惑に負けないことを決心します。憐み深い主よ。僕をお赦しください。罪人の僕を、憐れんでください」
「――全能の神、憐み深い父は、罪の赦しのために聖霊を注がれました」厳かな声が、まるで頬を撫でるように、託宣した。「神が教会の奉仕の務めを通して、貴方に赦しと平和を与えてくださいますように。私は、父と子と聖霊の御名によって――貴方の罪を、赦します」
「……エーメン」
「貴方の善行と苦しみが、貴方の罪の償いとなりますように。恩恵を増し、永遠の生命として報いられますように。平和のうちに行きなさい。神に立ち返り、罪を赦された人は幸せです――御安心なさい」
「ありがとうございます」
ジュリアは顔を上げた。
「神父様――償いを」
「うむ……そうさな」
たっぷりと間を置いて、愛は答えた。
「羊を食え」
おしまい
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