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MISERABLE SINNERS
最後の晩餐 四章三節
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雨の音がする。
いつかのような大雨である。
窓に光が走ったかと思うと、雷鳴が轟いた。
ジュリアは夜の教会で一人、掃除をしている。床を掃いて、長椅子を拭き、十字架を磨いた。助祭の言いつけ通りの手順である。彼は今朝方、故郷に向けて出立した。しばらくの間、家事はジュリアと司祭で分担することになった。司祭館の掃除、皿洗いは神父様が。教会の清掃と調理はジュリアが受け持った。洗濯は共同作業である。週に二度、ゴミ捨てを兼ねた買い出しに行く取り決めをした。今日はその一日目だ。
簡素な夕食を済ませ、司祭は書斎へ引きこもった。ジュリアはこうして、本日最後の仕事にとりかかっているわけだ。改めて従事してみると、これらの作業をほとんど一人で行っている助祭には頭が上がらない。ジュリアも手伝ってはきたが、彼の半分も働いていなかったことを痛感した。
――二人きり。
エハヴ神父と、ジュリアの。
僅かばかりの――休息が。
「知らなければ良かった」
こんこん、と教会の扉がノックされた。ジュリアは布巾を置いて、来客に応じた。扉を開けると、雨が吹き込み、ジュリアの足元を濡らした。びしょ濡れの男が立っていた。白い祭服を身に纏っている。頭から爪の先までびしょ濡れだ。胸に提げた十字架が物言いたげに黒ずんでいる。
「旅の者です。巡礼の最中に、雨に降られてシまって……一晩、屋根を貸していただけませンか。このままではふやけてシまいそうでね」
妙な訛りのある男だった。
ジュリアは何も言わず、顎を引いた。
ジュリアの広げた傘に、男は入ろうとしなかった。全身をずぶ濡れにしながら、文句も言わずに後ろに従った。教会を迂回し、司祭館へと戻った。
ノブに手を掛け、僅か躊躇した。
振り返る。
男はにこやかにジュリアを見下ろしている。
年は三十半ばから四十前半といったところか。頑健な肉体とは裏腹に、顔の皮膚には老いが見える。東洋的な顔立ちだが肌は浅黒く、出身は不明である。
一抹の不安が過ぎった。
――見知らぬ男を招き入れて、神父様は何と言うだろうか。
しかし――いくら何でも、この嵐の中、追い返すのは非常識であろう。ジュリアはそうやってこの館に招かれたのだ。息を吸って、吐いた。意を決して玄関扉を開けた。
「どうぞ――お入りなさい」
用意してあったタオルを男に貸した。男は爽やかに礼を言って、体を拭いた。客間に通す前に、司祭にお目通り願うべきだろう。二階へ案内しようと思ったが、その必要はなかった。司祭は一階の居間にいた。相も変わらず本を読んでいるようだった。こちらに背を向けて、ソファに腰掛けている。
「神父様」
ジュリアが呼ぶと、彼は窓越しにこちらを見た。
所在無く佇むジュリアの後ろに、素性の知れぬ笑顔が映っている。
「お、お客様です。雨に、降られてしまった、そうで。その……聖職者の方と、お見受けした、ものですから、お通しに」
「ああ、構わんよ」司祭は腰を上げた。「今、家人が家を空けていてね。ロクなもてなしもできないが、休んでいくといい。すぐに客間を――」
雷だ。
その時、雷が走った。
目が眩んだ隙に、男は銃を取り出していた。立ち竦むジュリアの目の前で、男は引き金を引いた。爆発音は雷鳴に掻き消された。司祭は弾けるようにして床に倒れた。
ジュリアは悲鳴を上げた。
「お静カに。次に声を上げたら君も殺シます」
慇懃ではあったが、優しさは欠片も存在しない。ジュリアは後退り、尻もちをついた。頭をテーブルの脚にぶつけたが、痛みは感じなかった。
「……とんだ、ご挨拶じゃないか」
司祭が体を起こした。肩を押さえている。右肩だ。赤黒い血が手にべっとりと付着していた。
「これはあんたの故郷の風習か? 世話になる屋敷の主人に、鉛玉を打ち込む作法でもあるのか」
「何でも――」男は拳銃の背を撫で、一方的に語り始めた。「この家には、悪魔が棲んでいるという噂がありまシて。踏み込もうにも、結界が張られていて入れナい。中から招くシかないと調査員を差シ向けまシたが、定時連絡も絶たれて久シい。こいつは喰われたかと案じていたところに――ようやく赤い薔薇の一報が舞い込んできたわけです。さて真実は如何なもノかと、勇み足で訪れた所存でシて」
司祭がジュリアを見た。
ジュリアは口を手で押さえたまま、全身を震わせていた。
言葉にしなくたって伝わってしまっただろう。
ジュリアのこの恐怖は、罪の証。裏切りのユダ。
銀貨三十枚で、ジュリアは愛する人を売ったのだ。
「……抵抗シませんのか」
「我々は罪のない人間には手を出せん」司祭は言った。「教会の祓魔師殿」
「その呼び方は大仰で、あまり好きではありませン。私はただの教会奉仕者。下級叙階の一人に過ぎンのです」
「口振りの割には、お前の面相には驕りが見えるぞ」
悪魔祓い師は司祭の足にもう一発打ち込んだ。彼は体を跳ねさせて、床にもんどりうった。
「ぐ……っ」
「先の発言は、自らを受肉した悪魔と、認めたと思ってよろシいか」
「ノーコメントだ」
男は更に司祭の左足を潰した。
「い、些か、乱暴すぎやしないか。最近の若いのは、随分と直截的なようだ。昔は良かった。悪魔を祓うにも、わざわざ結界を張り祈祷を捧げて――」
下腹部を。
「あ……っ、はは……聖従事者の癖に……嬲るのがお好みか、」
腹に二発目を埋め込まれると、さしもの司祭も静かになった。
「……」
「減らナい口だ」
悪魔祓い師は動いた。ゆっくりと、追い詰めるように一歩一歩距離を縮めていく。
「別に悪魔でなくともいいんでスがね。私はどうにも、この銃弾というやつが好きでネえ――ところが、普通の人間を殺スと、神様に叱られるというじゃありませンか? 私は旧き約束を重んじていまスから。戒律は一度たりとも破れませン……故に、魑魅魍魎、悪鬼異形の相手をスる。生きていないものを殺シたところで、罪には問われナいでしょう」
「合理的だね……親近感が、湧くよ……」
司祭は血を吐いた。もはや指一本、動かせないようだ。床に血だまりが広がっていく。
投げ出された本の端が、赤く染まっていた。
――ああ。
ジュリアは見た。
見てしまった。
――ああ、そんな。
本の表題は。
“標準言語聴覚障害学”。
「神父、様……」
告白します。
自分は端から、絆されるつもりでこの教会へと足を踏み入れたのです。
雨に濡れそぼり、庇護を求めました。彼らの慈悲を仰ぐためでした。この地には、長く悪魔信仰の噂があったようですが、私にとって、そんなことはどうでもいいことでした。生きていく術を与えてくれるのなら、それに縋るほかなかったのです。
いい仕事があるぞ、と男は言いました。
家族を失い、孤児院を追い出され、途方に暮れた自分を拾ったのは、この悪魔祓い師だったのです――。
異端者の懐に潜り込み、素性を引き出すよう命令された。尻尾を掴んだ時点で、合図を送ることになっていた。家の中に招き入れるのもジュリアの役目だった。これは殉教だ、と奴はジュリアに教え込んだ。罪を犯したジュリアは地獄に堕ちるだろうが、少しでも神の慈悲を請いたいのであれば、努力しろと。
どうせ先はなかった。養護施設で得た口止め料は、さっさとごろつきに巻き上げられた。宿を求めれば、見返りを要求された。そうやってジュリアは黒く染まっていった。悪魔だ、阿婆擦れだと罵られても、もう何も感じなかった。
それを。
彼は。
彼だけは。
俺を――天使でも悪魔でもないと。
哀れな子羊だと。
言ってくれたのだ。
――嘘だったとしても。
ちゃんと、騙してくれているなら、それで――良かったのに。
垣間見える数多の違和感に、ジュリアは目をつぶった。見て見ぬふりをし続けた。なぜ? 幸せだったからだ。どうして? 愛していたからだ。
心の底から、二人を。
この人を。
「あ……」
ジュリアは這うようにして彼に近付いた。血はすでに冷えていた。虫の息どころか、呼吸をしているように見えなかった。もう、死んでしまったのかもしれない。
「あんたが、悪いんだ……」
愛に捨てられた?
いや、違う。
俺が――捨てたんじゃないか。
ガキン、と頭の後ろで金属音がした。どうやら詰まったらしい。悪魔祓い師は舌打ちをして、弾を込め直した。撃鉄を起こしたところで、ジュリアは声を上げた。
「待って」
胡乱な視線を感じる。
それに、後ろ手を寄越すことで応える。
「俺がやります」
肩を竦めた気配がした。左手に重力がかかった。考えていたよりも、拳銃はずっと重かった。命の重みなのだろうと思った。手が震えた。青い唇を噛んで、銃口を定めた。愛した男の、心臓に。
「……ジュリア……」
司祭が、薄く目を開けた。
ジュリアは肩を強張らせ、銃を落としそうになった。いけない。しっかりとグリップを握り直す。両手で以て、しっかりと包む。一度落としてしまったら、もう持ち上がらない――そんな恐怖があった。
司祭の腕が上がった。ジュリアは肩をいからせた。
彼は銃の腹を握ると、ぐっと手前に引き寄せた。
笑っている。
「撃つならここだ。そっちじゃない」
示したのは――額だ。
「……なんで」
「うん……まあね。長いこと、生きてきたから……」咳き込むと、どす黒い赤が斑に散った。乱れた黒い髪によく映えた。綺麗だと、ジュリアは思った。「あまり、恐ろしくはないんだ」
「お……怒らないの」
「怒る? なぜ?」
「なぜ、って」
「お前は正しい。そうさ、オレは人の皮を被った悪魔だ。神に背き地に堕とされた裏切り者だよ。異端を摘発するのはお前達の仕事だろう? それは神に殉じる信徒として正当な行為だ」
「そ……そうじゃ、なくて」
もどかしい。
伝わらない。
言葉にならないのが、こんなにも苦しいことだと、ジュリアは初めて知った。結局、自分は誰かに本気で向き合ったことなどなかったのだ――父にも、母にも、養護施設で出会った皆にも、あの教師にも。仕方がないと自分を諦めることで、逃げ続けてきた。抗うことをしてこなかった。言葉に。思想に。意志に。だけど二人は――エハヴ司祭とイッシュ助祭は、ジュリアにこもることを許さなかった。彼らは安い殻を剥がし、俺を外へと連れ出した。空っぽの腕の中を、知恵や、感情や、安心でいっぱいにしてくれた。
それが嘘だったと知った時。
ジュリアは悲しかったのだ。
彼らを憎んだのだ。
そうして最悪の結末を引き当ててしまった。
それなのに、この人は――ジュリアを責めるどころか、受け入れるというではないか。
信じられなかった。信じなかった。そんな自分が酷く惨めだった。ジュリアは泣いた。
透明な涙は、決して血の赤とは交わらない。
「そうじゃ、ないんだよぉ……っ」
――結局、自分はどうなりたかったのだろう。
どうしたかったのだろう。
裏切ることで、裏切られた事実を打ち消そうとしたのだろうか。
それとも、裏切られたことで、裏切りを正当化しようとしたのだろうか。
ただの報復か。
復讐か。
さっきから、自分は――いがみあう父と母の元を、去らなければ良かったのにと――無理やり触れてきた先生の手を、払うことができていたらと――初めから。
こんなうらぶれた教会になんか足を運ばなければと。
そんなことばかり考えている。
――全部、消してしまいたい。
自分の足跡を。軌跡を。思考を存在を。何もかも、なかったことにできたら――愛も、恋も、希望も、絶望も、悲しみも、喜びも、怒りも、憎しみも、何も知らなかった真っ新な魂に、戻ることができたら。
どんなに。
押し潰そうとする幸せを。
あの時、跳ねのけることができていたら。
こんなに――苦しまなくて、すんだのに。
俺は。
「俺は……そ、そんなんじゃ、ないんだよお……か、か、か――神様なんて、どうでも良かったんだ……! 俺は……お、俺は……」
好きだった。
髪を優しく撫でてくれる母も。
熱を孕んだ瞳で見つめる父も。
無償の愛を与えてくれるのなら、神様にも縋った。
足りなかった。飢えていた。生まれた時から。生まれ堕ちた瞬間から。
言葉にならないほどの欠落を。
ずっと――埋めたかった。
「愛されたかった、だけなんだ……」
そんな自分を。
愛してあげたかった。
「――聞き届けました」
声がした。
ここにいるはずのない声だ。
「それこそが、貴方の奥深くにしまわれた、欲望の要だったのですね」
ジュリアは振り返った。涙でぐずぐずの視界に、硬直する悪魔祓い師の顔が見えた。頬は土気色、目は恐怖に見開かれている。突然の変容も、致し方ないことであった。大きな体で見えなかっただけで――彼の背後には、恐ろしい何かが潜んでいたのである。
悪魔祓い師は後ろ首を掴まれていた。
強大な力が働いて、悪魔祓い師は暖炉の中へと放り込まれた。奇怪な悲鳴が上がり、男の髪に火がついた。濡れているせいで延焼は遅いが、それでもこのままでは火達磨になってしまう。男は暴れたが、不思議なことに、家の中に火は燃え移らなかった。
「おかしいなあ」
いつの間にか、ジュリアの隣に助祭が立っていた。
いつもの祭服。いつもの困り眉。
顎を頻りに摩って、首を傾げている。
「こんな置物、レイアウトした覚えないんですけどねえ。邪魔だから片付けちゃいました。いいですよね、エハヴ」
「グッジョブだ」
「な、なンだ貴様ァ!」
悪魔祓い師が声を荒げた。火は消えていたが、額が爛れていた。肩で息をして、助祭を睨みつける。
「おや? マネキンかと思いきや、生きた人間でございましたか! これはこれは、失礼を働きました。ご挨拶が遅れて申し訳ありません。私、イッシュ助任司祭と申します。以後、お見知りおきを」
「どういうことだ!」
悪魔祓い師が歯を剥きだした。
「……お、お前……騙したンだな!」
ジュリアは怯えて後退る。
司祭館に暮らす聖職者は二人。無実ならば白い花を、悪しき印が表れたなら赤い花を、いずれも本数で示す手筈になっていた。どちらか一方だけが魔のものである可能性も存在したからだ。だからジュリアは、赤い薔薇を一輪、遣いに手渡したのだ。あなたのような悪魔にはなりたくないという、助祭の言葉にならったのである。
悪魔とは、司祭だけを指すものだと思っていた。
だけどジュリアは今、助祭のすっきりとした横顔に、言い表しようのない恐怖を覚えている――彼は何も知らずに今朝、帰郷したはずだ。まさか雨に立ち往生したのか? 降り始めたのは夜になってからだ。帰って来るにしても早すぎる。
「彼は無実ですよ。無用なトラウマを植え付けるのはよしていただきたい」
「お、お前も、悪魔なノか。なぜ、私に」
「ふふふふふ」
助祭は片手で顔を覆い、げらげらと笑った。
「ふふははははははははは! なぜ私が貴方に手出しができるのかと、そう聞いていらっしゃるのですか? まあ、そこの腐れ悪魔程度になら、その頭の悪い規則も通用するでしょうがね。私には無意味ですよ。だってお前達人間は、すでに原初の時代に罪を犯している。無実の命など、すでにこの世には存在しないのです」
「あ……あ……貴方は、一体」
「あーだめだめ。それ以上は聞かないほうがよろしいかと。世の中には識ってはいけないことがたくさんあるんですよ。好奇心で首を突っ込むと痛い目を見る……ああ」助祭は腕で自身を抱きしめた。「それとも、見たいのですか……?」
悪魔祓い師は素早く腰に手をやり、もう一丁、拳銃を取り出すと、容赦なく発砲した。弾丸は助祭の額を貫通し、血と脳漿を飛び散らせた。ジュリアは思わず顔を手で覆った。生温かい血が、降りそそいだ――あわや発狂するところであった。しかし、それ以上の衝撃がジュリアを襲った。
反動でよろけた助祭の体が、倒れることなく持ち上がったのである。
ゆっくりと、筋肉の力だけで起き上がり――つう、と流れてきた血を、真っ赤な舌が舐めとった。
「……悪い子だ。天使に傷をつけるなど――大罪ですよ」
「ひ、ひィっ、く、来るな、来るなあああアアアアア」
眼前に迫る底知れぬ微笑みが、悪魔祓い師の見た最後の光景になっただろう。助祭が頬に触れると、まるで電気が走ったように痙攣し、男は動かなくなった。
「ぎゃあぎゃあと喧しい。これだから中年は嫌なのです。大した経験もないくせに思想だけは凝り固まって、まるで柔軟性を失っている……うう、それにしても痛いなあ」助祭は額の傷を押さえた。血は未だ止まっていない。ジュリアの姿をみとめると、晴れやかな表情になる。「じゃじゃーん。呼ばれなくても飛び出てきました。驚きました? 実は朝、玄関に何者かが足を踏み入れる痕跡が視えたものですから。出掛けたふりをして潜んでいたんです」
唖然とするジュリアの前を、助祭は平然と歩いてみせた。
「ほら、あなたもいつまで寝ているんですか、エハヴ。全くもう……この程度の輩になすがままなど情けない」
「……それが動けんのだな」
「は?」
「どうやら特殊な弾丸だったらしい。見事に治らん」
「そんな馬鹿な。ジュリアの気を引こうったってそうは問屋が――」
助祭が言葉を切った。
「ジュリア?」
目の前が――霞んだ。
ジュリアは拳銃を握る手に力を込めて、立ち上がった。
そうして、動けずにいる司祭を見下ろした。ジュリアは後退った。背中を壁にぶつけた。動こうとした二人を銃で牽制する。
助祭が名を呼んだ。
「ジュリア。どうしたんですか。もう終わったんですよ、怖がる必要なんて――」
「違う」
ジュリアは首を振った。
司祭が痛む体を起こす。力むと銃創から血が零れた。その顔は苦渋に歪んでいる。
ジュリアはグリップを握り直し、銃口を自分に向けた。
深淵のような穴を覗き込む。
覗き返してくるものは、いなかった。
「ジュリア? 何をしてるんです?」助祭の声は未だにのんびりとしたものだ。「さっきエハヴが言った通り、僕達はあなたを恨んでなどいませんよ。これは予定調和だったんです。遅かれ早かれこうなっていたんだ。むしろ僕らは、あなたに感謝しているんですよ。ああ、あなたは優しいから、責任を取ろうとしてくれているんですか? その必要はありません。銃をこちらに渡して。そんな無骨な鉄の塊はあなたには似合いませんよ。共に可憐な花を愛でましょうよ。ね?」
「だ、だ……黙れ」
「ジュリア、」
「お前らの言うことなんかもう信じない!」
全身全霊の叫びだった。内向的だった少年におよそ似つかわしくない暴言に、二人は瞠目し、口まで開けた。ジュリアだけが肩で息をしている。大声に慣れない喉が痛んだ。
「ジュリア」
何度もこちらの名前を呼ぶ様は、まるで飼い犬を諭すみたいだと、ジュリアは思った。
「何があったんです。この男に何か吹き込まれたのですか? 肥溜めから生まれたような人間だ、耳を貸す必要はありません。もう嘘を吐かなくていいんですよ。大丈夫、これは不可抗力だったと、僕達はちゃんとわかっていますから――」
「だ、騙されないぞ。あ……悪魔の、言葉になんか」
「天使です」
「どっちでも、同じだよ!」
咽びながら、ジュリアは吠えた。
「は、腹の中は、ま、ま、真っ黒、なんだからな……!」
頭の中がぐらぐらする。
目に映る何もかも壊して回りたい衝動に駆られる。助祭の顔も、司祭の顔も、もう見たくなかった。
終わったのだ。
ジュリアの役目は。
どうせ最初からこうするつもりだった。この家を去った後、ジュリアは命を絶つつもりでいたのだ。神など知るものか。地獄だってこわくない。むしろ、これで良かったのだ――憎しみを憎しみで、裏切りを裏切りで清算する術は失われた。けれど、ジュリアは自覚することができた。
捨てきれなかった恋慕の情。
――また、裏切られるくらいなら。
荒野の果てまで、持っていくのだ――。
「まさか」
神父様が顔色を変えた。
取り乱した表情すら、愛おしいと思った。
自分はまだ、この人を愛している。
愚かにも、真っ直ぐに――この人が好きだと。
できることなら、愛してほしかったと。
思っているのだ。
「ジュリア、お前――聞いてたのか――」
「もう……嫌なんだ」
声が震える。情けない。こんな時でさえ、自分は弱い。力強く言い切ることができたら、どんなに良かっただろう。吐露すればするほど、涙も溢れて止まらない。
「わかってるよ……悪いのは、俺だよ。あんた達の優しさに付け込もうとして、しっぺ返し喰らって恨み言吐くなんて、都合の良い話だよ。お、俺は、自分の贖罪のために、あんた達を利用しようとしたんだよ。で、でも、でも俺はさあ、ば、馬鹿だからさあ、もう……いいかなって。神様とか、お役目とか、そんなものうっちゃって、あ、あなた達と、いられたらなって、思ってたんだよ、子供みたいに! ……信じて、たんだ……」
「なんと……」助祭は遂に色を失った。
「笑えるよ……あんなに怖かった、目に映る何もかもが、今じゃ全部くだらないものに思える……。何か、変なんだ。不思議なくらい、頭がすっきりしてて……自分が今、どうするのが一番いいか、よくわかる……こういうのを、あなた達は、天啓って呼ぶのか? はは……」
冷たい銃口を唇に触れさせる。冷めやらぬ火薬の匂いに、頭がどうにかなってしまいそうだった。
「ジュリア」
司祭が呼んだ。苦しそうな声だった。
「うるさい」
ジュリアは跳ねのける。
「聞いてくれ」
「うるさいって」
「あれは、間違いだ」
「どれの話だ!」
「お……オレは……」
司祭の目が泳いだ。そら見ろ、とジュリアは思う。真実なんてその口からは出てこないのだ。全てが嘘偽りだったのだ。今更、取り繕う必要もないということだろう。
いい。
――それでいい。
貴方はなんにも悪くない。
空っぽの愛だろうが何だろうが、心が満ちたのは事実だ。腹が膨れれば何でも構わない、それほどまでにジュリアは飢えていた。恐ろしいのは、全て流れ出てしまうこと。今ならまだ間に合う。ジュリアは満腹のまま逝ける。それが一番の幸せだとわかっている。
ただ、疲れただけなんだ。
何が悪いとか、誰のせいとか、どうでもよくなってしまった。
ただただ眠りたい。
忘れたくない。
――貴方のことだけは。
殺したく、ないのだ。
引き金に指をかけた。口を開けると、歯の間で銃がかたかた鳴った。それがまた恐怖を増長させる。ああ、こわいよ。死ぬのはこわい。恐ろしくてたまらない。だけどもう――後が、ない。
「待て……待てジュリア、頼む」
「……」
「いかないでくれ」
ジュリアは頭を振った。涙声を振り切るように、大きく息を吸う。
「もう、一人じゃ歩けません」
ごめんなさい、とジュリアは笑った。
銃口を呑み込む。
きつく目を瞑る。
指に、力を――。
「――愛してるんだ!」
弓を引き絞るような慟哭に。
誰も彼もが、我を失った。
ジュリアと助祭は、呆然と司祭を見た。神父自身も同じような顔をしていた。茫然自失。自分が何を口走ったのか。彼が何を告白したのか。理解するのに、みんな、時間が必要なのだった。
やがて――まるで空が零れるように、その澄んだ色の瞳から雫が溢れた。
司祭は顔を腕で覆い、泣き崩れた。ジュリアはといえば、全身の力が吸い取られていくようで、その場にぺたんと尻もちをついてしまった。銃口はすでに下がっていた。こんな重たいもの、きっと二度と持ち上がらない。どうやって自分に向けていたのか、わからないくらいだ――啜り泣く声を聞いていたら、なんだか無性に悲しい気分になった。
結局のところ。
御託をつらつらと並べたところで、隠しようのない願望が、ジュリアの中には根を張っていた。
俺は、彼のただその一言が。
――欲しかった。
次の瞬間、ジュリアは天を仰ぐようにしてわんわん泣きはじめていた。
荒れた部屋。夥しい血痕。燃えた男。泣きじゃくる大人と子供。そんな混沌の中で、ただ一人冷静だった助祭は、やれやれと首を振った。
いつかのような大雨である。
窓に光が走ったかと思うと、雷鳴が轟いた。
ジュリアは夜の教会で一人、掃除をしている。床を掃いて、長椅子を拭き、十字架を磨いた。助祭の言いつけ通りの手順である。彼は今朝方、故郷に向けて出立した。しばらくの間、家事はジュリアと司祭で分担することになった。司祭館の掃除、皿洗いは神父様が。教会の清掃と調理はジュリアが受け持った。洗濯は共同作業である。週に二度、ゴミ捨てを兼ねた買い出しに行く取り決めをした。今日はその一日目だ。
簡素な夕食を済ませ、司祭は書斎へ引きこもった。ジュリアはこうして、本日最後の仕事にとりかかっているわけだ。改めて従事してみると、これらの作業をほとんど一人で行っている助祭には頭が上がらない。ジュリアも手伝ってはきたが、彼の半分も働いていなかったことを痛感した。
――二人きり。
エハヴ神父と、ジュリアの。
僅かばかりの――休息が。
「知らなければ良かった」
こんこん、と教会の扉がノックされた。ジュリアは布巾を置いて、来客に応じた。扉を開けると、雨が吹き込み、ジュリアの足元を濡らした。びしょ濡れの男が立っていた。白い祭服を身に纏っている。頭から爪の先までびしょ濡れだ。胸に提げた十字架が物言いたげに黒ずんでいる。
「旅の者です。巡礼の最中に、雨に降られてシまって……一晩、屋根を貸していただけませンか。このままではふやけてシまいそうでね」
妙な訛りのある男だった。
ジュリアは何も言わず、顎を引いた。
ジュリアの広げた傘に、男は入ろうとしなかった。全身をずぶ濡れにしながら、文句も言わずに後ろに従った。教会を迂回し、司祭館へと戻った。
ノブに手を掛け、僅か躊躇した。
振り返る。
男はにこやかにジュリアを見下ろしている。
年は三十半ばから四十前半といったところか。頑健な肉体とは裏腹に、顔の皮膚には老いが見える。東洋的な顔立ちだが肌は浅黒く、出身は不明である。
一抹の不安が過ぎった。
――見知らぬ男を招き入れて、神父様は何と言うだろうか。
しかし――いくら何でも、この嵐の中、追い返すのは非常識であろう。ジュリアはそうやってこの館に招かれたのだ。息を吸って、吐いた。意を決して玄関扉を開けた。
「どうぞ――お入りなさい」
用意してあったタオルを男に貸した。男は爽やかに礼を言って、体を拭いた。客間に通す前に、司祭にお目通り願うべきだろう。二階へ案内しようと思ったが、その必要はなかった。司祭は一階の居間にいた。相も変わらず本を読んでいるようだった。こちらに背を向けて、ソファに腰掛けている。
「神父様」
ジュリアが呼ぶと、彼は窓越しにこちらを見た。
所在無く佇むジュリアの後ろに、素性の知れぬ笑顔が映っている。
「お、お客様です。雨に、降られてしまった、そうで。その……聖職者の方と、お見受けした、ものですから、お通しに」
「ああ、構わんよ」司祭は腰を上げた。「今、家人が家を空けていてね。ロクなもてなしもできないが、休んでいくといい。すぐに客間を――」
雷だ。
その時、雷が走った。
目が眩んだ隙に、男は銃を取り出していた。立ち竦むジュリアの目の前で、男は引き金を引いた。爆発音は雷鳴に掻き消された。司祭は弾けるようにして床に倒れた。
ジュリアは悲鳴を上げた。
「お静カに。次に声を上げたら君も殺シます」
慇懃ではあったが、優しさは欠片も存在しない。ジュリアは後退り、尻もちをついた。頭をテーブルの脚にぶつけたが、痛みは感じなかった。
「……とんだ、ご挨拶じゃないか」
司祭が体を起こした。肩を押さえている。右肩だ。赤黒い血が手にべっとりと付着していた。
「これはあんたの故郷の風習か? 世話になる屋敷の主人に、鉛玉を打ち込む作法でもあるのか」
「何でも――」男は拳銃の背を撫で、一方的に語り始めた。「この家には、悪魔が棲んでいるという噂がありまシて。踏み込もうにも、結界が張られていて入れナい。中から招くシかないと調査員を差シ向けまシたが、定時連絡も絶たれて久シい。こいつは喰われたかと案じていたところに――ようやく赤い薔薇の一報が舞い込んできたわけです。さて真実は如何なもノかと、勇み足で訪れた所存でシて」
司祭がジュリアを見た。
ジュリアは口を手で押さえたまま、全身を震わせていた。
言葉にしなくたって伝わってしまっただろう。
ジュリアのこの恐怖は、罪の証。裏切りのユダ。
銀貨三十枚で、ジュリアは愛する人を売ったのだ。
「……抵抗シませんのか」
「我々は罪のない人間には手を出せん」司祭は言った。「教会の祓魔師殿」
「その呼び方は大仰で、あまり好きではありませン。私はただの教会奉仕者。下級叙階の一人に過ぎンのです」
「口振りの割には、お前の面相には驕りが見えるぞ」
悪魔祓い師は司祭の足にもう一発打ち込んだ。彼は体を跳ねさせて、床にもんどりうった。
「ぐ……っ」
「先の発言は、自らを受肉した悪魔と、認めたと思ってよろシいか」
「ノーコメントだ」
男は更に司祭の左足を潰した。
「い、些か、乱暴すぎやしないか。最近の若いのは、随分と直截的なようだ。昔は良かった。悪魔を祓うにも、わざわざ結界を張り祈祷を捧げて――」
下腹部を。
「あ……っ、はは……聖従事者の癖に……嬲るのがお好みか、」
腹に二発目を埋め込まれると、さしもの司祭も静かになった。
「……」
「減らナい口だ」
悪魔祓い師は動いた。ゆっくりと、追い詰めるように一歩一歩距離を縮めていく。
「別に悪魔でなくともいいんでスがね。私はどうにも、この銃弾というやつが好きでネえ――ところが、普通の人間を殺スと、神様に叱られるというじゃありませンか? 私は旧き約束を重んじていまスから。戒律は一度たりとも破れませン……故に、魑魅魍魎、悪鬼異形の相手をスる。生きていないものを殺シたところで、罪には問われナいでしょう」
「合理的だね……親近感が、湧くよ……」
司祭は血を吐いた。もはや指一本、動かせないようだ。床に血だまりが広がっていく。
投げ出された本の端が、赤く染まっていた。
――ああ。
ジュリアは見た。
見てしまった。
――ああ、そんな。
本の表題は。
“標準言語聴覚障害学”。
「神父、様……」
告白します。
自分は端から、絆されるつもりでこの教会へと足を踏み入れたのです。
雨に濡れそぼり、庇護を求めました。彼らの慈悲を仰ぐためでした。この地には、長く悪魔信仰の噂があったようですが、私にとって、そんなことはどうでもいいことでした。生きていく術を与えてくれるのなら、それに縋るほかなかったのです。
いい仕事があるぞ、と男は言いました。
家族を失い、孤児院を追い出され、途方に暮れた自分を拾ったのは、この悪魔祓い師だったのです――。
異端者の懐に潜り込み、素性を引き出すよう命令された。尻尾を掴んだ時点で、合図を送ることになっていた。家の中に招き入れるのもジュリアの役目だった。これは殉教だ、と奴はジュリアに教え込んだ。罪を犯したジュリアは地獄に堕ちるだろうが、少しでも神の慈悲を請いたいのであれば、努力しろと。
どうせ先はなかった。養護施設で得た口止め料は、さっさとごろつきに巻き上げられた。宿を求めれば、見返りを要求された。そうやってジュリアは黒く染まっていった。悪魔だ、阿婆擦れだと罵られても、もう何も感じなかった。
それを。
彼は。
彼だけは。
俺を――天使でも悪魔でもないと。
哀れな子羊だと。
言ってくれたのだ。
――嘘だったとしても。
ちゃんと、騙してくれているなら、それで――良かったのに。
垣間見える数多の違和感に、ジュリアは目をつぶった。見て見ぬふりをし続けた。なぜ? 幸せだったからだ。どうして? 愛していたからだ。
心の底から、二人を。
この人を。
「あ……」
ジュリアは這うようにして彼に近付いた。血はすでに冷えていた。虫の息どころか、呼吸をしているように見えなかった。もう、死んでしまったのかもしれない。
「あんたが、悪いんだ……」
愛に捨てられた?
いや、違う。
俺が――捨てたんじゃないか。
ガキン、と頭の後ろで金属音がした。どうやら詰まったらしい。悪魔祓い師は舌打ちをして、弾を込め直した。撃鉄を起こしたところで、ジュリアは声を上げた。
「待って」
胡乱な視線を感じる。
それに、後ろ手を寄越すことで応える。
「俺がやります」
肩を竦めた気配がした。左手に重力がかかった。考えていたよりも、拳銃はずっと重かった。命の重みなのだろうと思った。手が震えた。青い唇を噛んで、銃口を定めた。愛した男の、心臓に。
「……ジュリア……」
司祭が、薄く目を開けた。
ジュリアは肩を強張らせ、銃を落としそうになった。いけない。しっかりとグリップを握り直す。両手で以て、しっかりと包む。一度落としてしまったら、もう持ち上がらない――そんな恐怖があった。
司祭の腕が上がった。ジュリアは肩をいからせた。
彼は銃の腹を握ると、ぐっと手前に引き寄せた。
笑っている。
「撃つならここだ。そっちじゃない」
示したのは――額だ。
「……なんで」
「うん……まあね。長いこと、生きてきたから……」咳き込むと、どす黒い赤が斑に散った。乱れた黒い髪によく映えた。綺麗だと、ジュリアは思った。「あまり、恐ろしくはないんだ」
「お……怒らないの」
「怒る? なぜ?」
「なぜ、って」
「お前は正しい。そうさ、オレは人の皮を被った悪魔だ。神に背き地に堕とされた裏切り者だよ。異端を摘発するのはお前達の仕事だろう? それは神に殉じる信徒として正当な行為だ」
「そ……そうじゃ、なくて」
もどかしい。
伝わらない。
言葉にならないのが、こんなにも苦しいことだと、ジュリアは初めて知った。結局、自分は誰かに本気で向き合ったことなどなかったのだ――父にも、母にも、養護施設で出会った皆にも、あの教師にも。仕方がないと自分を諦めることで、逃げ続けてきた。抗うことをしてこなかった。言葉に。思想に。意志に。だけど二人は――エハヴ司祭とイッシュ助祭は、ジュリアにこもることを許さなかった。彼らは安い殻を剥がし、俺を外へと連れ出した。空っぽの腕の中を、知恵や、感情や、安心でいっぱいにしてくれた。
それが嘘だったと知った時。
ジュリアは悲しかったのだ。
彼らを憎んだのだ。
そうして最悪の結末を引き当ててしまった。
それなのに、この人は――ジュリアを責めるどころか、受け入れるというではないか。
信じられなかった。信じなかった。そんな自分が酷く惨めだった。ジュリアは泣いた。
透明な涙は、決して血の赤とは交わらない。
「そうじゃ、ないんだよぉ……っ」
――結局、自分はどうなりたかったのだろう。
どうしたかったのだろう。
裏切ることで、裏切られた事実を打ち消そうとしたのだろうか。
それとも、裏切られたことで、裏切りを正当化しようとしたのだろうか。
ただの報復か。
復讐か。
さっきから、自分は――いがみあう父と母の元を、去らなければ良かったのにと――無理やり触れてきた先生の手を、払うことができていたらと――初めから。
こんなうらぶれた教会になんか足を運ばなければと。
そんなことばかり考えている。
――全部、消してしまいたい。
自分の足跡を。軌跡を。思考を存在を。何もかも、なかったことにできたら――愛も、恋も、希望も、絶望も、悲しみも、喜びも、怒りも、憎しみも、何も知らなかった真っ新な魂に、戻ることができたら。
どんなに。
押し潰そうとする幸せを。
あの時、跳ねのけることができていたら。
こんなに――苦しまなくて、すんだのに。
俺は。
「俺は……そ、そんなんじゃ、ないんだよお……か、か、か――神様なんて、どうでも良かったんだ……! 俺は……お、俺は……」
好きだった。
髪を優しく撫でてくれる母も。
熱を孕んだ瞳で見つめる父も。
無償の愛を与えてくれるのなら、神様にも縋った。
足りなかった。飢えていた。生まれた時から。生まれ堕ちた瞬間から。
言葉にならないほどの欠落を。
ずっと――埋めたかった。
「愛されたかった、だけなんだ……」
そんな自分を。
愛してあげたかった。
「――聞き届けました」
声がした。
ここにいるはずのない声だ。
「それこそが、貴方の奥深くにしまわれた、欲望の要だったのですね」
ジュリアは振り返った。涙でぐずぐずの視界に、硬直する悪魔祓い師の顔が見えた。頬は土気色、目は恐怖に見開かれている。突然の変容も、致し方ないことであった。大きな体で見えなかっただけで――彼の背後には、恐ろしい何かが潜んでいたのである。
悪魔祓い師は後ろ首を掴まれていた。
強大な力が働いて、悪魔祓い師は暖炉の中へと放り込まれた。奇怪な悲鳴が上がり、男の髪に火がついた。濡れているせいで延焼は遅いが、それでもこのままでは火達磨になってしまう。男は暴れたが、不思議なことに、家の中に火は燃え移らなかった。
「おかしいなあ」
いつの間にか、ジュリアの隣に助祭が立っていた。
いつもの祭服。いつもの困り眉。
顎を頻りに摩って、首を傾げている。
「こんな置物、レイアウトした覚えないんですけどねえ。邪魔だから片付けちゃいました。いいですよね、エハヴ」
「グッジョブだ」
「な、なンだ貴様ァ!」
悪魔祓い師が声を荒げた。火は消えていたが、額が爛れていた。肩で息をして、助祭を睨みつける。
「おや? マネキンかと思いきや、生きた人間でございましたか! これはこれは、失礼を働きました。ご挨拶が遅れて申し訳ありません。私、イッシュ助任司祭と申します。以後、お見知りおきを」
「どういうことだ!」
悪魔祓い師が歯を剥きだした。
「……お、お前……騙したンだな!」
ジュリアは怯えて後退る。
司祭館に暮らす聖職者は二人。無実ならば白い花を、悪しき印が表れたなら赤い花を、いずれも本数で示す手筈になっていた。どちらか一方だけが魔のものである可能性も存在したからだ。だからジュリアは、赤い薔薇を一輪、遣いに手渡したのだ。あなたのような悪魔にはなりたくないという、助祭の言葉にならったのである。
悪魔とは、司祭だけを指すものだと思っていた。
だけどジュリアは今、助祭のすっきりとした横顔に、言い表しようのない恐怖を覚えている――彼は何も知らずに今朝、帰郷したはずだ。まさか雨に立ち往生したのか? 降り始めたのは夜になってからだ。帰って来るにしても早すぎる。
「彼は無実ですよ。無用なトラウマを植え付けるのはよしていただきたい」
「お、お前も、悪魔なノか。なぜ、私に」
「ふふふふふ」
助祭は片手で顔を覆い、げらげらと笑った。
「ふふははははははははは! なぜ私が貴方に手出しができるのかと、そう聞いていらっしゃるのですか? まあ、そこの腐れ悪魔程度になら、その頭の悪い規則も通用するでしょうがね。私には無意味ですよ。だってお前達人間は、すでに原初の時代に罪を犯している。無実の命など、すでにこの世には存在しないのです」
「あ……あ……貴方は、一体」
「あーだめだめ。それ以上は聞かないほうがよろしいかと。世の中には識ってはいけないことがたくさんあるんですよ。好奇心で首を突っ込むと痛い目を見る……ああ」助祭は腕で自身を抱きしめた。「それとも、見たいのですか……?」
悪魔祓い師は素早く腰に手をやり、もう一丁、拳銃を取り出すと、容赦なく発砲した。弾丸は助祭の額を貫通し、血と脳漿を飛び散らせた。ジュリアは思わず顔を手で覆った。生温かい血が、降りそそいだ――あわや発狂するところであった。しかし、それ以上の衝撃がジュリアを襲った。
反動でよろけた助祭の体が、倒れることなく持ち上がったのである。
ゆっくりと、筋肉の力だけで起き上がり――つう、と流れてきた血を、真っ赤な舌が舐めとった。
「……悪い子だ。天使に傷をつけるなど――大罪ですよ」
「ひ、ひィっ、く、来るな、来るなあああアアアアア」
眼前に迫る底知れぬ微笑みが、悪魔祓い師の見た最後の光景になっただろう。助祭が頬に触れると、まるで電気が走ったように痙攣し、男は動かなくなった。
「ぎゃあぎゃあと喧しい。これだから中年は嫌なのです。大した経験もないくせに思想だけは凝り固まって、まるで柔軟性を失っている……うう、それにしても痛いなあ」助祭は額の傷を押さえた。血は未だ止まっていない。ジュリアの姿をみとめると、晴れやかな表情になる。「じゃじゃーん。呼ばれなくても飛び出てきました。驚きました? 実は朝、玄関に何者かが足を踏み入れる痕跡が視えたものですから。出掛けたふりをして潜んでいたんです」
唖然とするジュリアの前を、助祭は平然と歩いてみせた。
「ほら、あなたもいつまで寝ているんですか、エハヴ。全くもう……この程度の輩になすがままなど情けない」
「……それが動けんのだな」
「は?」
「どうやら特殊な弾丸だったらしい。見事に治らん」
「そんな馬鹿な。ジュリアの気を引こうったってそうは問屋が――」
助祭が言葉を切った。
「ジュリア?」
目の前が――霞んだ。
ジュリアは拳銃を握る手に力を込めて、立ち上がった。
そうして、動けずにいる司祭を見下ろした。ジュリアは後退った。背中を壁にぶつけた。動こうとした二人を銃で牽制する。
助祭が名を呼んだ。
「ジュリア。どうしたんですか。もう終わったんですよ、怖がる必要なんて――」
「違う」
ジュリアは首を振った。
司祭が痛む体を起こす。力むと銃創から血が零れた。その顔は苦渋に歪んでいる。
ジュリアはグリップを握り直し、銃口を自分に向けた。
深淵のような穴を覗き込む。
覗き返してくるものは、いなかった。
「ジュリア? 何をしてるんです?」助祭の声は未だにのんびりとしたものだ。「さっきエハヴが言った通り、僕達はあなたを恨んでなどいませんよ。これは予定調和だったんです。遅かれ早かれこうなっていたんだ。むしろ僕らは、あなたに感謝しているんですよ。ああ、あなたは優しいから、責任を取ろうとしてくれているんですか? その必要はありません。銃をこちらに渡して。そんな無骨な鉄の塊はあなたには似合いませんよ。共に可憐な花を愛でましょうよ。ね?」
「だ、だ……黙れ」
「ジュリア、」
「お前らの言うことなんかもう信じない!」
全身全霊の叫びだった。内向的だった少年におよそ似つかわしくない暴言に、二人は瞠目し、口まで開けた。ジュリアだけが肩で息をしている。大声に慣れない喉が痛んだ。
「ジュリア」
何度もこちらの名前を呼ぶ様は、まるで飼い犬を諭すみたいだと、ジュリアは思った。
「何があったんです。この男に何か吹き込まれたのですか? 肥溜めから生まれたような人間だ、耳を貸す必要はありません。もう嘘を吐かなくていいんですよ。大丈夫、これは不可抗力だったと、僕達はちゃんとわかっていますから――」
「だ、騙されないぞ。あ……悪魔の、言葉になんか」
「天使です」
「どっちでも、同じだよ!」
咽びながら、ジュリアは吠えた。
「は、腹の中は、ま、ま、真っ黒、なんだからな……!」
頭の中がぐらぐらする。
目に映る何もかも壊して回りたい衝動に駆られる。助祭の顔も、司祭の顔も、もう見たくなかった。
終わったのだ。
ジュリアの役目は。
どうせ最初からこうするつもりだった。この家を去った後、ジュリアは命を絶つつもりでいたのだ。神など知るものか。地獄だってこわくない。むしろ、これで良かったのだ――憎しみを憎しみで、裏切りを裏切りで清算する術は失われた。けれど、ジュリアは自覚することができた。
捨てきれなかった恋慕の情。
――また、裏切られるくらいなら。
荒野の果てまで、持っていくのだ――。
「まさか」
神父様が顔色を変えた。
取り乱した表情すら、愛おしいと思った。
自分はまだ、この人を愛している。
愚かにも、真っ直ぐに――この人が好きだと。
できることなら、愛してほしかったと。
思っているのだ。
「ジュリア、お前――聞いてたのか――」
「もう……嫌なんだ」
声が震える。情けない。こんな時でさえ、自分は弱い。力強く言い切ることができたら、どんなに良かっただろう。吐露すればするほど、涙も溢れて止まらない。
「わかってるよ……悪いのは、俺だよ。あんた達の優しさに付け込もうとして、しっぺ返し喰らって恨み言吐くなんて、都合の良い話だよ。お、俺は、自分の贖罪のために、あんた達を利用しようとしたんだよ。で、でも、でも俺はさあ、ば、馬鹿だからさあ、もう……いいかなって。神様とか、お役目とか、そんなものうっちゃって、あ、あなた達と、いられたらなって、思ってたんだよ、子供みたいに! ……信じて、たんだ……」
「なんと……」助祭は遂に色を失った。
「笑えるよ……あんなに怖かった、目に映る何もかもが、今じゃ全部くだらないものに思える……。何か、変なんだ。不思議なくらい、頭がすっきりしてて……自分が今、どうするのが一番いいか、よくわかる……こういうのを、あなた達は、天啓って呼ぶのか? はは……」
冷たい銃口を唇に触れさせる。冷めやらぬ火薬の匂いに、頭がどうにかなってしまいそうだった。
「ジュリア」
司祭が呼んだ。苦しそうな声だった。
「うるさい」
ジュリアは跳ねのける。
「聞いてくれ」
「うるさいって」
「あれは、間違いだ」
「どれの話だ!」
「お……オレは……」
司祭の目が泳いだ。そら見ろ、とジュリアは思う。真実なんてその口からは出てこないのだ。全てが嘘偽りだったのだ。今更、取り繕う必要もないということだろう。
いい。
――それでいい。
貴方はなんにも悪くない。
空っぽの愛だろうが何だろうが、心が満ちたのは事実だ。腹が膨れれば何でも構わない、それほどまでにジュリアは飢えていた。恐ろしいのは、全て流れ出てしまうこと。今ならまだ間に合う。ジュリアは満腹のまま逝ける。それが一番の幸せだとわかっている。
ただ、疲れただけなんだ。
何が悪いとか、誰のせいとか、どうでもよくなってしまった。
ただただ眠りたい。
忘れたくない。
――貴方のことだけは。
殺したく、ないのだ。
引き金に指をかけた。口を開けると、歯の間で銃がかたかた鳴った。それがまた恐怖を増長させる。ああ、こわいよ。死ぬのはこわい。恐ろしくてたまらない。だけどもう――後が、ない。
「待て……待てジュリア、頼む」
「……」
「いかないでくれ」
ジュリアは頭を振った。涙声を振り切るように、大きく息を吸う。
「もう、一人じゃ歩けません」
ごめんなさい、とジュリアは笑った。
銃口を呑み込む。
きつく目を瞑る。
指に、力を――。
「――愛してるんだ!」
弓を引き絞るような慟哭に。
誰も彼もが、我を失った。
ジュリアと助祭は、呆然と司祭を見た。神父自身も同じような顔をしていた。茫然自失。自分が何を口走ったのか。彼が何を告白したのか。理解するのに、みんな、時間が必要なのだった。
やがて――まるで空が零れるように、その澄んだ色の瞳から雫が溢れた。
司祭は顔を腕で覆い、泣き崩れた。ジュリアはといえば、全身の力が吸い取られていくようで、その場にぺたんと尻もちをついてしまった。銃口はすでに下がっていた。こんな重たいもの、きっと二度と持ち上がらない。どうやって自分に向けていたのか、わからないくらいだ――啜り泣く声を聞いていたら、なんだか無性に悲しい気分になった。
結局のところ。
御託をつらつらと並べたところで、隠しようのない願望が、ジュリアの中には根を張っていた。
俺は、彼のただその一言が。
――欲しかった。
次の瞬間、ジュリアは天を仰ぐようにしてわんわん泣きはじめていた。
荒れた部屋。夥しい血痕。燃えた男。泣きじゃくる大人と子供。そんな混沌の中で、ただ一人冷静だった助祭は、やれやれと首を振った。
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