彼岸の傾城傾国

高嗣水清太

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第一章 偽りの皇帝

第二十話*

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 紅焔こうえんの唇は柔らかく、掠めるようなものだったが、触れられたまぶたが熱くなる。
 確かに神経の通った瞼が、自分のものではないような感覚に煌威こういは襲われた。眠くもないのに瞼が開かない。
 かと言って、無理に開けようとは思わなかった。紅焔こうえんが無体な真似を働く男ではないと知っていたのもあるが、紅焔こうえんが望むならそれに応えたいと思う自分がいたのだ。

 閉じた瞼の向こうで、紅焔こうえんの喉が鳴る音を聞く。その気配から、煌威こういは顔を覗き込まれていることを察した。
 熱く、震える吐息が頬にかかり、そのまま喉仏をねぶるように首筋に吸いつかれる。
 今度は煌威こういが喉を鳴らす番だった。

 式典用の冕冠べんかんに合わせて用意された袞衣こんえの、きっちりと締められていた帯を紅焔こうえんの手によって解かれる。
 煌威こういが思わず瞼を開けば、帯の下の蔽膝へいしつ刺繍ししゅうされた、とぐろを巻く雄大な龍の尾が、寝台の縁を泳ぐように落ちていった。
 緩やかな衣ずれの音が、静かな部屋の中ではやけに官能的に響く。

「……なぜ、抵抗しないのですか」
「抵抗して欲しいのか?」
「……」

 煌威こういが微かに笑いながら返せば、紅焔こうえんは黙り込んだ。
 抵抗されないのは嬉しいが、抵抗されなければ心配になる。紅焔こうえんはそんな顔をしていた。
 理性と本能がせめぎ合っているのだろう。それを承知で、煌威こういは挑発するように紅焔こうえんの耳元でささやいた。

「わたしが、いいと言っているんだ」
「――ッ!」

 吐息を吹きかけるように、耳朶じだに舌をわせるように、誘惑する。

紅焔こうえん。お前の望みは?」
「……この状況でそれを聞きますか?」

 紅焔こうえんが皮肉げに笑った。


「……紅焔こうえん、わたしは皇帝になった」
「はい。おめでとうございます」
「ああ、だから……分かるだろう?」

 ――わたしのすることに口出し出来る人間は居ないし、その気になればわたしに逆らえるものはもう誰一人として居ない。

 お前の望むことを、と。
 紅焔こうえんが望むなら何でも叶えよう、と。

 そう煌威こういが言外に告げれば、紅焔こうえんは顔をしかめた。

「そのようなことを言ってはいけない……」
「お前がそれをわたしに言うか?」

 苦笑して返す。

 此処ここは皇帝の寝殿だ。皇帝以外の男は立ち入り禁止と決まっている後宮だ。その男である紅焔こうえんを、この場所に留めていることが既に罪にあたる。即位して早々罪を犯しているのは申し訳ないと煌威こういも思うが、自分にそうさせたのは紛れなく紅焔こうえんだ。

「紅え……、!」

 煌威こういは腕をその首に回そうと持ち上げて、しかし目的は果たされず、紅焔こうえんに捕えられた手首が寝台の上に柔らかく押さえつけられる。

「……自分は、武官ぶかんです」
「知っている」
「……貴方より、七つも下の若輩じゃくはいです」
「それが?」
「……俺は、女でもない」
「今更か? お前が女だったら、わたしは押し倒されてないぞ?」
「……もし、俺が女だったら?」
「わたしが押し倒してた」

 明け透けで、あられもない告白だ。
 ふと、紅焔こうえんが笑った。つられて、煌威こういも笑う。

 そっと唇に触れてきた紅焔こうえんの指の腹は、硬いものの滑らかだった。人差し指と中指を使って、端からスルリと撫でられる。
 煌威こういが反射で半開きだった口を閉じれば、紅焔こうえんはその上唇に人差し指を添え固定し、中指で下唇を強引に押し開いてきた。
 カツン、と。煌威こういは自分の歯と、紅焔こうえんの爪がぶつかる音を聞く。

「……ン、」

 口腔こうこう愛撫あいぶするように紅焔こうえんに撫でられ、お返しにと煌威こういは彼の指の腹を舐め上げた。
 ピクリ、と反応した紅焔こうえんの下半身を太腿ふとももに感じる。
 煌威こういはそれに、可愛い反応をしてくれる、と内心思いながら、押さえつけられた手首はそのままに、首だけを動かして眼前の紅焔こうえん鼻梁びりょうに口付けた。 

「……繰り返すぞ?紅焔こうえん

 揺れる熱情を持て余す、獣のように瞳孔どうこうが開いた紅焔こうえんの瞳を間近に微笑む。

紅焔こうえん、お前の望みは?」

 紅焔こうえんの瞳の中に、酷く醜悪しゅうあくな顔で笑う自分を煌威こういは見た。


 ――わたしは、もう紅焔こうえんを皇帝には望めない。

 煌威こういは、自分が先帝の血を引いていないと知ったとき、ぬか喜びすらなくその意味がなくなってしまった。煌威こういが皇帝でいてこそ意味がある。そんな状況になってしまった。
 煌威こうい我儘わがままを通せば、帝国が滅ぶ。そんな可能性が無いとは言いきれない。

 先帝の血を引いていない男が、皇帝になりたくないと望むことを我儘と言う状況が、煌威こういも正常だとは言わない。いや、おかしい。異常だ。
 だが、いくら煌威こういでも分別はある。それでも自分の望みを優先させるほど、愚かではない。

 だから、紅焔こうえんの望みだけでも、煌威こういはすべて叶えようと思った。
 かつて主にと望んだ、唯一の人間。
 なぜこれほどに心惹かれるかは未だ分からない。ただ自分にとって、紅焔こうえん以上の存在はないと思わせた事実だけが確かで不変ふへんだった。
 その紅焔こうえんの望みを叶えることが出来る地位。それが皇帝なのだと。それだけが、煌威こういに残された最後の希望だった。


「……初めてお会いしたときから、お慕いしておりました」

 押さえつけていた煌威こういの手首を離し、紅焔こうえんがゆっくりと身を起こした。

「うん」 

 寝台の上で膝を折る紅焔こうえんに、向き合う形で煌威こういも上半身を起こす。

「俺は、貴方に仕えたい」
「そうか」
「貴方だけを……主と仰ぎたい。貴方の、一番そばりたい。貴方の全てが、知りたい」
「…………」

 その意味を、正しく理解して言っているのだろうかと煌威こういは思う。
 煌威こういだけを主とすることは、煌威こういが死した後も追従ついじゅうするということだ。
 煌威こういの一番傍にと望むのは、どんなに汚い泥も共にかぶるということだ。
 煌威こういの全てを欲するのは、自分の全ても捧げることだ。
 一蓮托生いちれんたくしょう。運命共同体。煌威こうい紅焔こうえんを皇帝としたいと同時に望んだもの。それとまったく同じものを、まさか紅焔こうえん本人から求められるとは思ってもみなかった。
 煌威こういの唇が、自然とつり上がる。

「……わかった。お前が一番そばで、わたしにはべることを許そう」
「! ありがたき……」

 興奮に顔を紅潮こうちょうさせる紅焔こうえんに、投げ出していた左足をうやうやしく取られ、その爪先に口付けられた。忠誠を誓うという意味なのだろう。

 爪先から足の甲、すね紅焔こうえんの唇が移動するのを、淫靡いんびになる雰囲気と共に煌威こういは享受する。

 夜のとばりが上がるまで、それは続いた。
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