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03.
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真性半陰陽と判明する前は俺も男とは言え高校生だったから、保健体育の授業で妊娠にはつわりが付き物だということは知識だけだけど知っていた。
「……でもこんなにキツいとは思わなかった」
ぐぅっと喉を鳴らして、奥からせり上がってくるものを何とか堪える。
「……大丈夫? 樹」
便器に縋る俺の背中を擦る姉さんの手が、次いで脂汗が浮かぶ額を優しくハンカチで拭った。
「……っん、だいじょぶ……」
口の中が酸っぱいやら苦いやらで吐き気を誘発してきて、あまりよろしくない状態だけど心配させたくなくて無理矢理笑う。
「……ばか」
姉さんはくしゃりと顔を歪めた。
四週間に一回の診察で、最近妊娠3ヶ月目だって判明した今日この頃。
俺は触診に続き、男だったら絶対経験することはなかっただろう、妊婦特有のつわりに悩まされていた。
特に俺は3ヶ月目はピークらしく、何を食べても吐き気が酷い。
よく妊娠中は酸っぱい物が食べたくなるっていうけど、あんなの嘘だ。俺は酸っぱい物どころかゼリーさえ食べれなくて、お腹の子に栄養を送る為にも無理してでも食べないといけない状況なのに、全く受け付けなくなった身体に四苦八苦していた。
「……ごめん姉さん、ありがとう。もう大丈夫だから」
ようやく落ち着きを見せた胃に、安堵のため息を吐き立ち上がる。
瞬間、ぐらりと霞んだ視界に思わず上体を折り曲げた。
「樹! ああっ、急に立ち上がるから……っ」
姉さんが慌てて自分の身体を使って俺を押し留める。
「っ……ごめ」
「いいからっ、ほら掴まって!」
咄嗟に謝って身体を離そうとしたら、逆に姉さんに叱咤されてしまった。何だか申し訳ない。
これも男だった俺が本来ありえない妊娠をしたせいなのか、今までなったことのない貧血まで発症して、全く踏んだり蹴ったりだった。
上手く歩けなくてフラつく身体を、姉さんに支えられながら台所でうがいをした後、二階の自分の部屋に向かう。
心なしか重くなったように感じる下腹部を手で押さえ、一歩一歩細心の注意を払いながら階段を上った。
何とか自室に辿り着き、ベッドに腰を下ろす。
姉さんから口直しにミネラルウォーターのペットボトルを受け取り一息ついた後、ゆっくりと横たわった。
もう本当、この体調不良だけは勘弁して欲しい。
「……うぅ」
まだモヤモヤする胸を撫でた時だ。ドアを軽くノックする音が静かな部屋の中に響き、ふと顔を上げた。
「兄貴……」
ドアの隙間から顔を覗かせたのは、友達と遊びに行くと言っていた筈の弟、 綴で思わず目を丸くしてしまう。
「? どうしたんだ?」
「あ、のさ……」
チラチラと階下を気にしながら、綴が俺の部屋に足を踏み入れた。何故か足音を殺して、そっと俺の座るベッドに歩み寄る。
内緒話しをするように、声を落として綴は口を開いた。
「 昂志さんが……来てるって」
「!」
『昂志』の名前に、反射的に息を呑む。
―― 五十風が来てる?
何で、どうして……。疑問ばかりが頭を廻る。
「母さんがどうする? って……」
「……」
五十風が来てるのに、俺の部屋に姿を見せないのは、どうやら母さんが引き止めてくれてるおかげらしかった。
母さんが五十風から目を離すわけにはいかないから、綴に伝言を頼んだんだろう。
「……どうするの、樹」
姉さんがベッド脇から気遣わしげにこっちを窺う。
「…………」
妊娠が分かってからLINEの返信もしてないし、受験を理由にあまり外出もしてなかったから、五十風が心配して家まで来たとしてもおかしくはない。
しかも本来なら今日が一般入試日で、五十風と違ってスポーツ推薦をとれなかった俺が、それでも同じ大学に行く為受ける入試だったことを考えると、会場付近で待ち伏せでもしていたアイツに、俺が現れないことで大学受験を止めたことがバレたのかもしれない。
……いつまでも避けていられるわけがないのも分かってる。
つわりだけじゃない。今は辛うじて以前と変わらない男の形を留めてはいるけど、身体はだいぶ変化してきている。
もしかしたら、これが五十風と直接話せる最後の機会かもしれないと思えば、自然と口は答えを出していた。
「……通して」
しっかりと姉さんと綴を見つめて言えば、2人は苦痛を耐えるように顔をしかめて頷いた。
「……久しぶり」
第一声は俺からだった。
「……おう」
やっとのことで、といった感じで五十風は言葉を返す。
当然と言えば当然だ。今の俺は寝間着でベッドの上だ。しかもつわりのせいでさっき戻したばかりだから、顔色も良いとは言えないだろう。
「……何だよ、何で言ってくんなかったんだよ」
そんな状態なんて聞いてねェ、と五十風が唇を尖らせる。
「ごめん」
俺は、ただ苦笑するしかなかった。
「まあ、そんなとこに突っ立ってないで座りなよ」
部屋の入り口ドア付近で立ち尽くす五十風に、自分の勉強机備え付けの椅子を指差す。
「……」
五十風は無言で椅子をベッドのすぐ横まで引き寄せると腰を下ろした。
「……お前、何で今日試験会場に居なかったんだよ」
「ごめん。ちょっと体調崩しちゃって……。受験だったのに情けないよな」
「……風邪か?」
「うん?まあ、そんなとこ」
ポツリ、ポツリと五十風が口を開く。
「いつからだ」
「一ヶ月くらい前かな」
「……ンだ、そりゃ。何で俺にLINEもメールも電話も何もなかったんだよ」
「だって受験勉強の邪魔になるじゃないか」
「そんなの関係ねーだろ。俺はお前の恋人じゃねーのかよ」
「!」
久しぶりの五十風の声は、優しく俺の耳を刺激して身体の中に浸透していった。
「……うん。ごめん。大したことないと思
ってたんだ。ただの風邪だと思って放っておいたら、ちょっと長引くことになっちゃって」
「それで留年してたら世話ねーぞ」
「そうだね。恥ずかしいよ」
苦笑いして、そっと俺の頬を撫でてくる五十風の手に目を閉じる。
労るように触れてくる五十風の指に、俺は全神経を集中させた。
これが最後になるかもしれないと思うと、何とかして五十風の感触を匂いを、身体に覚えさせたかった。教え込みたかった。
俺は大丈夫だろうか? 普通に喋れているだろうか? いつも通りに笑えているだろうか。
「来年、また同じ大学受験するとしたら、お前は俺の後輩になるな」
悪戯っぽく、五十風が笑う。
「何言ってんだよ、まだ五十風だって合格したか分かんないだろ? 不合格だったら、また同じ同期生だ」
「あ! お前、受験がやっと終わって晴れ晴れとした気持ちの俺にそういうこと言うか!?」
軽口を叩き合いながら、密かに痛む胸を押さえる。
一緒に大学へ通うなんて、今じゃ夢物語だ。
正直、こんなに胸が締め付けられるほど辛いなんて思わなかった。
こうやって五十風と顔を合わせるのも、喋るのも、触れるのも触れられるのも、もう出来なくなるんだと思うと泣きたくなった。
でも五十風にバレるわけにはいかないから、油断すると震える唇を引き結ぶ。
「な、大学合格したら俺、一人暮らしすること許してもらってんだ」
楽しげに喋る五十風が眩しくて、愛しくて、辛い。
「……? ああ、知ってるよ?」
以前、五十風の家に泊まった時に、五十風とおばさんが目の前で話していたのを聞いている。
だから何?と首を傾げれば、五十風はサッと顔を赤く染めた。
「だ、だからっな、……その……一緒、に……住まないか?」
「へ?」
「だっ、だから! 2人で暮らさないかって言ってんだよ!!」
「!!」
……ああ、それが出来るならどんなにいいだろう。
「……うん、一緒に暮らせたらいいね」
心からそう思う。
でも俺の返答が五十風には不満だったのか、ムッとした顔をして強引に俺の腕を引いた。
「暮らせたら、じゃなくて暮らすんだよ!」
「ぁ!」
強く、抱きしめられる。
五十風の匂いに包まれて、思わず赤面した。
俺の、大好きな匂い。
ゆっくりと五十風の手が俺の後頭部から背中へ、背中から腰へと下りる。
このまま時間が止まればいいのに、なんて少女マンガみたいなことを考えた刹那、
「……あれ?お前……何か太った?」
まるで冷水を浴びせられたかのようだった。
「は? 何言ってんだよ、そんなわけないじゃん」
早くなる鼓動を誤魔化す為に、早口で言い重ねる。
確かに妊娠して体重は増えたが、そんなに大幅な変化じゃない。そもそも五十風の中で俺は男なんだから、妊娠に行き着く筈がない。まだ男らしい骨格を保っているんだから、女になりつつあるこの身体に気がつく筈がない。大丈夫、誤魔化せる筈…
「いや、何か……小さくなったっつーか……細くなった? いや、丸く? なったような?」
「!」
背筋が、凍った。
「……筋肉が落ちたって言いたいのか?そりゃ仕方ないよ。1ヶ月体調崩してたんだから」
怒ったふりをして五十風の身体を突き放す。
「あー……まあ、そうなんだが」
不思議そうに、五十風は俺の身体に触れていた自分の手を見ていた。
やっぱり無理だ。女になりつつあって、妊娠していることがバレるのなんて、時間の問題だ。
「な、悪いんだけどそろそろ帰ってくれないか?」
震える身体を押さえ込んで、笑う。
「ん? あ、ああ……悪い。体調良くないんだもんな」
五十風は身体の震えを体調不良のせいだと捉えてくれてらしい。優しく背中を撫でてくる。隠せなかった分、その勘違いは助かった。
「……ごめんな?」
嘘ついてごめん。でもお前の為なんだ。
心の中でだけ密かに告げる。
「謝んなよ。また来るから」
当たり前だけど、俺の心中なんか思いもよらないんだろう五十風の優しげな笑みが、鋭く胸を刺して抉った。
「……うん」
その時には俺は此処に居ないかもしれず、また、なんてないかもしれない現実はどうしようもない。五十風の幸せの為に、俺にできることはこれ以外思いつかない。
でもだからこそ、この言葉だけは、直接言うのを許してくれ。
「大好きだよ五十風」
本当に。お前という存在がなければ、自分がこんなにも人を好きになれるなんて、気がつかなかっただろう。
何度言っても言い足りないほどに、言い尽くせないほどに。
「大好きだ」
昂志。お前が俺のすべてだ。
「…………っ!?」
五十風は目を丸くして、その一瞬後、顔を真っ赤に染めた。
「な、何だよいきなり……っ」
「別に知ってただろ?」
「知ってるのと改めて聞かされるのとじゃ違うだろ!」
「そう?」
でもその態度なら、一生覚えててくれそうで嬉しいよ。
そう言えば、五十風は更に顔を赤くして踵を返した。
「もう帰る!」
荒々しく回されるドアノブ。
照れているらしい。
「ごめんね?」
「……お前、全然悪いと思ってねーだろ」
据わった目で、五十風はじっとりと俺を見る。
「そんなことないよ? 一番大好きだ昂志」
「……っの、覚えてろよお前!」
バンっ! と派手な音を立てて、五十風はドアの向こうに消えた。
階段を下りる五十風の足音が遠くで響く。
「…………っぅ、く」
五十風の居る前では堪えていた涙が、堰を切って溢れ出した。
「っく……ふ、ぅう……たか、たかし……っひっく……昂志……昂志ッ」
ボロボロ零れる涙が寝間着をベッドを濡らす。
「好き、だよ……っ、ぅ……大好き……昂志好きだ……っひっく、ぅ……ぅあ、ぁあぁああああぁっ」
俺はその日、喉が枯れるまで声を上げて泣いた。
「……でもこんなにキツいとは思わなかった」
ぐぅっと喉を鳴らして、奥からせり上がってくるものを何とか堪える。
「……大丈夫? 樹」
便器に縋る俺の背中を擦る姉さんの手が、次いで脂汗が浮かぶ額を優しくハンカチで拭った。
「……っん、だいじょぶ……」
口の中が酸っぱいやら苦いやらで吐き気を誘発してきて、あまりよろしくない状態だけど心配させたくなくて無理矢理笑う。
「……ばか」
姉さんはくしゃりと顔を歪めた。
四週間に一回の診察で、最近妊娠3ヶ月目だって判明した今日この頃。
俺は触診に続き、男だったら絶対経験することはなかっただろう、妊婦特有のつわりに悩まされていた。
特に俺は3ヶ月目はピークらしく、何を食べても吐き気が酷い。
よく妊娠中は酸っぱい物が食べたくなるっていうけど、あんなの嘘だ。俺は酸っぱい物どころかゼリーさえ食べれなくて、お腹の子に栄養を送る為にも無理してでも食べないといけない状況なのに、全く受け付けなくなった身体に四苦八苦していた。
「……ごめん姉さん、ありがとう。もう大丈夫だから」
ようやく落ち着きを見せた胃に、安堵のため息を吐き立ち上がる。
瞬間、ぐらりと霞んだ視界に思わず上体を折り曲げた。
「樹! ああっ、急に立ち上がるから……っ」
姉さんが慌てて自分の身体を使って俺を押し留める。
「っ……ごめ」
「いいからっ、ほら掴まって!」
咄嗟に謝って身体を離そうとしたら、逆に姉さんに叱咤されてしまった。何だか申し訳ない。
これも男だった俺が本来ありえない妊娠をしたせいなのか、今までなったことのない貧血まで発症して、全く踏んだり蹴ったりだった。
上手く歩けなくてフラつく身体を、姉さんに支えられながら台所でうがいをした後、二階の自分の部屋に向かう。
心なしか重くなったように感じる下腹部を手で押さえ、一歩一歩細心の注意を払いながら階段を上った。
何とか自室に辿り着き、ベッドに腰を下ろす。
姉さんから口直しにミネラルウォーターのペットボトルを受け取り一息ついた後、ゆっくりと横たわった。
もう本当、この体調不良だけは勘弁して欲しい。
「……うぅ」
まだモヤモヤする胸を撫でた時だ。ドアを軽くノックする音が静かな部屋の中に響き、ふと顔を上げた。
「兄貴……」
ドアの隙間から顔を覗かせたのは、友達と遊びに行くと言っていた筈の弟、 綴で思わず目を丸くしてしまう。
「? どうしたんだ?」
「あ、のさ……」
チラチラと階下を気にしながら、綴が俺の部屋に足を踏み入れた。何故か足音を殺して、そっと俺の座るベッドに歩み寄る。
内緒話しをするように、声を落として綴は口を開いた。
「 昂志さんが……来てるって」
「!」
『昂志』の名前に、反射的に息を呑む。
―― 五十風が来てる?
何で、どうして……。疑問ばかりが頭を廻る。
「母さんがどうする? って……」
「……」
五十風が来てるのに、俺の部屋に姿を見せないのは、どうやら母さんが引き止めてくれてるおかげらしかった。
母さんが五十風から目を離すわけにはいかないから、綴に伝言を頼んだんだろう。
「……どうするの、樹」
姉さんがベッド脇から気遣わしげにこっちを窺う。
「…………」
妊娠が分かってからLINEの返信もしてないし、受験を理由にあまり外出もしてなかったから、五十風が心配して家まで来たとしてもおかしくはない。
しかも本来なら今日が一般入試日で、五十風と違ってスポーツ推薦をとれなかった俺が、それでも同じ大学に行く為受ける入試だったことを考えると、会場付近で待ち伏せでもしていたアイツに、俺が現れないことで大学受験を止めたことがバレたのかもしれない。
……いつまでも避けていられるわけがないのも分かってる。
つわりだけじゃない。今は辛うじて以前と変わらない男の形を留めてはいるけど、身体はだいぶ変化してきている。
もしかしたら、これが五十風と直接話せる最後の機会かもしれないと思えば、自然と口は答えを出していた。
「……通して」
しっかりと姉さんと綴を見つめて言えば、2人は苦痛を耐えるように顔をしかめて頷いた。
「……久しぶり」
第一声は俺からだった。
「……おう」
やっとのことで、といった感じで五十風は言葉を返す。
当然と言えば当然だ。今の俺は寝間着でベッドの上だ。しかもつわりのせいでさっき戻したばかりだから、顔色も良いとは言えないだろう。
「……何だよ、何で言ってくんなかったんだよ」
そんな状態なんて聞いてねェ、と五十風が唇を尖らせる。
「ごめん」
俺は、ただ苦笑するしかなかった。
「まあ、そんなとこに突っ立ってないで座りなよ」
部屋の入り口ドア付近で立ち尽くす五十風に、自分の勉強机備え付けの椅子を指差す。
「……」
五十風は無言で椅子をベッドのすぐ横まで引き寄せると腰を下ろした。
「……お前、何で今日試験会場に居なかったんだよ」
「ごめん。ちょっと体調崩しちゃって……。受験だったのに情けないよな」
「……風邪か?」
「うん?まあ、そんなとこ」
ポツリ、ポツリと五十風が口を開く。
「いつからだ」
「一ヶ月くらい前かな」
「……ンだ、そりゃ。何で俺にLINEもメールも電話も何もなかったんだよ」
「だって受験勉強の邪魔になるじゃないか」
「そんなの関係ねーだろ。俺はお前の恋人じゃねーのかよ」
「!」
久しぶりの五十風の声は、優しく俺の耳を刺激して身体の中に浸透していった。
「……うん。ごめん。大したことないと思
ってたんだ。ただの風邪だと思って放っておいたら、ちょっと長引くことになっちゃって」
「それで留年してたら世話ねーぞ」
「そうだね。恥ずかしいよ」
苦笑いして、そっと俺の頬を撫でてくる五十風の手に目を閉じる。
労るように触れてくる五十風の指に、俺は全神経を集中させた。
これが最後になるかもしれないと思うと、何とかして五十風の感触を匂いを、身体に覚えさせたかった。教え込みたかった。
俺は大丈夫だろうか? 普通に喋れているだろうか? いつも通りに笑えているだろうか。
「来年、また同じ大学受験するとしたら、お前は俺の後輩になるな」
悪戯っぽく、五十風が笑う。
「何言ってんだよ、まだ五十風だって合格したか分かんないだろ? 不合格だったら、また同じ同期生だ」
「あ! お前、受験がやっと終わって晴れ晴れとした気持ちの俺にそういうこと言うか!?」
軽口を叩き合いながら、密かに痛む胸を押さえる。
一緒に大学へ通うなんて、今じゃ夢物語だ。
正直、こんなに胸が締め付けられるほど辛いなんて思わなかった。
こうやって五十風と顔を合わせるのも、喋るのも、触れるのも触れられるのも、もう出来なくなるんだと思うと泣きたくなった。
でも五十風にバレるわけにはいかないから、油断すると震える唇を引き結ぶ。
「な、大学合格したら俺、一人暮らしすること許してもらってんだ」
楽しげに喋る五十風が眩しくて、愛しくて、辛い。
「……? ああ、知ってるよ?」
以前、五十風の家に泊まった時に、五十風とおばさんが目の前で話していたのを聞いている。
だから何?と首を傾げれば、五十風はサッと顔を赤く染めた。
「だ、だからっな、……その……一緒、に……住まないか?」
「へ?」
「だっ、だから! 2人で暮らさないかって言ってんだよ!!」
「!!」
……ああ、それが出来るならどんなにいいだろう。
「……うん、一緒に暮らせたらいいね」
心からそう思う。
でも俺の返答が五十風には不満だったのか、ムッとした顔をして強引に俺の腕を引いた。
「暮らせたら、じゃなくて暮らすんだよ!」
「ぁ!」
強く、抱きしめられる。
五十風の匂いに包まれて、思わず赤面した。
俺の、大好きな匂い。
ゆっくりと五十風の手が俺の後頭部から背中へ、背中から腰へと下りる。
このまま時間が止まればいいのに、なんて少女マンガみたいなことを考えた刹那、
「……あれ?お前……何か太った?」
まるで冷水を浴びせられたかのようだった。
「は? 何言ってんだよ、そんなわけないじゃん」
早くなる鼓動を誤魔化す為に、早口で言い重ねる。
確かに妊娠して体重は増えたが、そんなに大幅な変化じゃない。そもそも五十風の中で俺は男なんだから、妊娠に行き着く筈がない。まだ男らしい骨格を保っているんだから、女になりつつあるこの身体に気がつく筈がない。大丈夫、誤魔化せる筈…
「いや、何か……小さくなったっつーか……細くなった? いや、丸く? なったような?」
「!」
背筋が、凍った。
「……筋肉が落ちたって言いたいのか?そりゃ仕方ないよ。1ヶ月体調崩してたんだから」
怒ったふりをして五十風の身体を突き放す。
「あー……まあ、そうなんだが」
不思議そうに、五十風は俺の身体に触れていた自分の手を見ていた。
やっぱり無理だ。女になりつつあって、妊娠していることがバレるのなんて、時間の問題だ。
「な、悪いんだけどそろそろ帰ってくれないか?」
震える身体を押さえ込んで、笑う。
「ん? あ、ああ……悪い。体調良くないんだもんな」
五十風は身体の震えを体調不良のせいだと捉えてくれてらしい。優しく背中を撫でてくる。隠せなかった分、その勘違いは助かった。
「……ごめんな?」
嘘ついてごめん。でもお前の為なんだ。
心の中でだけ密かに告げる。
「謝んなよ。また来るから」
当たり前だけど、俺の心中なんか思いもよらないんだろう五十風の優しげな笑みが、鋭く胸を刺して抉った。
「……うん」
その時には俺は此処に居ないかもしれず、また、なんてないかもしれない現実はどうしようもない。五十風の幸せの為に、俺にできることはこれ以外思いつかない。
でもだからこそ、この言葉だけは、直接言うのを許してくれ。
「大好きだよ五十風」
本当に。お前という存在がなければ、自分がこんなにも人を好きになれるなんて、気がつかなかっただろう。
何度言っても言い足りないほどに、言い尽くせないほどに。
「大好きだ」
昂志。お前が俺のすべてだ。
「…………っ!?」
五十風は目を丸くして、その一瞬後、顔を真っ赤に染めた。
「な、何だよいきなり……っ」
「別に知ってただろ?」
「知ってるのと改めて聞かされるのとじゃ違うだろ!」
「そう?」
でもその態度なら、一生覚えててくれそうで嬉しいよ。
そう言えば、五十風は更に顔を赤くして踵を返した。
「もう帰る!」
荒々しく回されるドアノブ。
照れているらしい。
「ごめんね?」
「……お前、全然悪いと思ってねーだろ」
据わった目で、五十風はじっとりと俺を見る。
「そんなことないよ? 一番大好きだ昂志」
「……っの、覚えてろよお前!」
バンっ! と派手な音を立てて、五十風はドアの向こうに消えた。
階段を下りる五十風の足音が遠くで響く。
「…………っぅ、く」
五十風の居る前では堪えていた涙が、堰を切って溢れ出した。
「っく……ふ、ぅう……たか、たかし……っひっく……昂志……昂志ッ」
ボロボロ零れる涙が寝間着をベッドを濡らす。
「好き、だよ……っ、ぅ……大好き……昂志好きだ……っひっく、ぅ……ぅあ、ぁあぁああああぁっ」
俺はその日、喉が枯れるまで声を上げて泣いた。
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