新選組外伝 永倉新八剣術日録

橘りゅうせい

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48 八王子千人同心

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 新八は昼前に稽古を切りあげ、蔵六に断ってから、子安宿に足を向けた。
 かまってやれないと、おつるには言ったが、同じ八王子宿にいる以上、やはり、行く末が気になっていたからだ。
 千人町から、おつるが身を寄せる子安村の百姓代の松村家までは、一里もない距離なので、さして時間はかからない。
 途中の横山宿にあるうどん屋『武相庵』で、昼飯を食べてからゆくことにして、新八は暖簾をくぐる。
 新八が店に入ったまさにそのとき、山口が店の前にさしかかるが、新八に気づくことなく通りすぎ、宿をとった伊勢屋に向かった。

 時分どきのせいか、店は混んでいた。新八は、うどんを大盛りで注文する。
 武蔵野のうどんは、つるりとした讃岐や上方のものと違い、角ばって固い。これは武蔵野の水が硬水だからだ。
 箸でつまんでも垂れ下がらないような固いうどんを、冷たい水で締め、だしの効いた温かい醤油味の汁をくぐらせて食べる。
 汁のなかには、季節の野菜やキノコ、網の上でこんがりと炙った油揚げが入っていた。
 旺盛な食欲でうどんを、ゆっくりと平らげると、新八は子安宿に向かった。

 横山宿を抜けて、山田川にさしかかると、川沿いの土手の脇に、なにやらひとだかりができている。
 それを見たとたん、新八の脳裏を、悪い予感がよぎり、急ぎ足で駆けつけた。
 野次馬をかき分け、土手に向かうと、上半身を朱に染めた浪人者が横たえられており、十手持ちと手下らしき男が、その浪人者を検分していた。
「おい。こりゃあ、いったい、なんの騒ぎだ」
 その言葉に振り向いた十手持ちが、怪訝な眼差しで新八を見る。
「いや、俺は怪しい者じゃねえ。千人同心の増田蔵六師範のところで食客を……」
 とたんに、十手持ちの表情が和んだ。
「ああ、存じ上げております……たしか、松前藩を致仕なすったという、永倉さまでございますね」
「こいつぁ驚いた。十手持ちの親分さんてえのは、なにもかもご存知なのかい」
 
 目を丸くする新八に、十手持ちが笑いかける。
「いえ……誤解なさらないでください。手前は、八幡の伊之助と申しまして、増田蔵六師範から柔《やわら》と棒を習っております。かねてより永倉さまのことは、師範から、うかがっておりました」
「ははあ、なんだ、そういうことだったのか。言われてみれば、天然理心流には、柔術もあったんだっけ……」
「へえ。ご高齢ですが、油平村には、来住野単語きしの先生という、柔術専門の師範もおります」
「なるほどねえ、それで親分も天然理心流を……」
「あっしだけじゃあございません。日野宿の十手持ち、山崎兼助などは、剣術と柔術の目録をいただいておりやす」
「やはり蔵六師匠の?」
「いえ、兼助の地元の砂川村には、蔵六師範の弟弟子の井滝伊勢五朗師範がいらっしゃいます」
「そいつは知らなかった。そのうち訪ねてみるかな」
「残念ですが、井滝師範は、いまは病の床についているそうで……」
「それは残念だな……ところで、この仏さんだ。いい着物を着てるし、どう見ても食いつめ浪人にはみえねえ。いったい、どんな経緯で斬られたんだ?」

「へえ。目撃したやつもいねえし、あっしにもさっぱりで」
「斬り口を見ると、肩先をバッサリ。とどめも首筋を一刀だ……斬った野郎は、かなりの腕前だろうな」
「ふしぎなのが、この刀なんですが……」
 そう言うと伊之助は、きっちりと鞘におさめられた刀を指した。
「ふむ。たしかに変だな……斬った相手が、わざわざ納刀したのかな?」
「あっしもそう思ったんですが、ちょっと抜いてみてください」
 新八が刀を抜くと、拭ってはあるが、明らかに血曇りがあり、これだと斬った相手も、相当の深手を負っているはずである。
 しかし、あたりを見回しても、斬られた浪人ひとりぶんの血痕以外は、見当たらなかった。

「斬った相手と刀をとりかえたのか……いや、そんなことをする意味がわからねえ」
 新八も伊之助も、平田と山口のやり取りを知らないので、これは当然の反応だった。
 新八が言葉を続ける。
「しかし、この刃を見てみろ。じつに念入りに寝刃ねたばをあわせてやがる。こいつを使っていた野郎は、に、手慣れているにちげえねえ」

 刀というのは、実際に使用する場合、寝刃をあわせる必要があった。というのは、研いだばかりの刃は、鋭すぎて食いこみが悪いのだ。
 だから剣客は、常に寝刃あわせのための、小さな砥石を持ち歩いていた。
 急いで戦場に駆けつける必要があった乱世のころは、素早く寝刃をあわせるため、武家屋敷には、たいてい砂が盛ってあった。
 砂の山に、何度か刀を刺して、刃先を、ひとの目には見えない細かさで、ギザギザにしたわけだ。
 ついでに言っておくと、二、三人も斬ると、血脂で刀は斬れなくなる。などというのは、粗悪な軍刀を使った帰還兵がひろめた話で、一種の都市伝説にすぎない。
 その話を真に受けた作家が、リアリティーがあると勘違いして、ひろがったのだ。
 たったの数人斬ったら、役にたたなくなるような刀で、合戦の場に挑むはずはないし、それでは何本刀があっても足りないことは、明白であろう。

 ある抜刀術の修行者が、斬ったときに付着する脂が人間に近い、豚の肉塊を吊るし、脂によって斬れ味が落ちるのか実験してみたところ、五体斬ろうが、十体斬ろうが、一向に斬れ味は落ちなかったそうだ。
 もっとも実際に戦場に行った武者は、万が一折れたときのため、従者に、何本も予備の刀を持たせたそうだが。
 新八は、しばらく伊之助と話していたが、結論など出るはずもなく、再会を約して、松村家に向かった。

 近所の松村家では、早くもひと殺しの噂が伝わっており、おつるが、血の気が失せた真っ青な顔で、新八を出迎えた。
「新八さま。よくいらしてくださいました……わたくし、もう恐ろしくて、ご飯も喉を通りません」
「おつるさん。そう怯えなさんな。まだ盗賊一味に関わると、決まったわけじゃあなし……」
 新八が宥めにかかると、おつるは、激しく首を振り、新八にうったえる。
「いいえ。新家の差し金にちがいありませんわ。さっき名主さんのご新造さまが、そこの物置小屋で、怪しい侍を見たと……」
「ふうむ……」
 新八は、おつるが指さした、松村家とは道をはさんで反対側の、廃屋じみた小屋に足を踏み入れた。

 小屋のなかには、がらくたがうず高く積まれている。ふと足元を見ると、明らかに最近印された足跡が残っていた。
 竈に目を向けると、四分の一ほどの大きさに切られた戸板が乗せてあり、その上には蓙が敷かれている。
 戸板の切断面は新しく、まるで名人の大工が切断したような、滑らかな切り口だった。

 松村家に戻った新八の顔は、心なしか蒼ざめて見えた。その顔を、おつるが心配そうに見つめる。
「あ、あの……新八さま。やはり小屋には……」
「ああ。誰かがこの家を見張っていやがったに、ちげえねえ……
なあ、おつるさん。あんた、ここ以外に、どこか身を隠せる場所に、心当たりはあるか? なければ、俺が蔵六師範にたのんで……」
 おそらく甲府から尾けられていたにちがいないという、自責の念で、新八の表情が歪んだ。
「あります。最初は、そこに身を寄せるつもりだった場所が」
「本当か。そいつはよかった」
「はい……わたしの父は、八王子千人同心・石坂弥次衛門組に属しておりました。その石坂組の同僚に、父の友人だった、井上松五郎さんという方がおられます。
松五郎さんは、困ったときには、いつでも来なさいと、おっしゃってくれていました」
「なるほど。で、その井上さんの家の場所は?」
「日野宿でございます」
「日野か……隣の宿場だな。それは好都合だ。しかし、千人同心ってのは、みんな八王子にいるのかと思ってたよ」
「昔は、ほとんどの同心が八王子周辺にいました。でもいまは、同心株の売り買いが盛んで、武蔵の国の一帯から、相模の国にもいるときいております」

 千人同心は、もともと武田家の遺臣の処置に困った家康が、遺臣たちを召し抱え、八王子の守備につかせたのがはじまりである。
 『千人頭』と呼ばれる十氏(東窪田、西窪田、東萩原、西萩原、志村、山本、中村、原、石坂、河野)は、武田の家臣でも、親衛隊の役目だった小人頭がつとめた。
 千人頭は、御槍奉行配下。旗本待遇で、千人町に拝領屋敷を構えていた。その下には「組頭」が百人。「平同心」が八百人。かつては「持添抱(もちぞえがかえ)同心」という役目も百人いたが、それは寛政四年に廃止されている。
 同心の組は、各千人頭の名前をとって「原組」「河野組」などとよばれた。
 しかし、その切米高は低く、組頭で五十から三十俵一人扶持程度。平同心にいたっては、平均すると十二俵一人扶持と、最下級の幕臣と言えよう。したがって、与えられた扶持だけでは生活できず、ほとんどの同心は、農業で生活の糧を得ていた。

 しかも、日光火の番という任務につかねばならなかった(一時期は、江戸城の警備にもあたったが、さすがに負担が大きすぎると、その任務は廃止された)。そのことが、さらに家計を圧迫し、世襲率は年々下がり、さかんに同心株の売買がなされるようになっていた。
 
 そのことによって、当初、八王子の周辺に居住していた同心の分布範囲がひろがり、北は現在の埼玉県飯能市黒指、南は横浜市の都筑区東山田、西は相模原市の佐野川、東は東京都三鷹市北野にまでおよんだ。

「神君家康公の御世がはじまったころ……日野は重要な守りの拠点として、二十人ほどの同心が配備されていたそうですが、次第に重要性が薄れ、いまでは井上さんのほか、数名が残るだけとなった……という話を、父からきいたことがあります」
「なるほどなあ。徳川の直参とはいえ、それじゃあ、なかなか生活くらしも大変だ……しかし、いったい、なんだって、そんな大変な役目に甘んじているのか、それが俺には、よくわからねえ」

 新八が、同情気味に嘆息すると、
「武田家が滅びたとき……主君を失い、行き場をなくしたわたしたちの先祖は、神君家康公のご恩を受けました。その恩に報いるのは、武士として当たり前のことではないでしょうか。新八さま。違いますか」
 おつるが、それまで見せたことのない、燃えるような真剣な眼差しで、新八を見つめる。
 その目は、まぎれもなく武家のものだけが持つ矜持に満ちていた。

 千人同心たちには、武士としての誇りがあった。しかし、幕府はそのことに対して、冷遇を持ってこたえた。
 同心としての扶持を与える一方、その身分は曖昧で、任務中以外の名字帯刀は許されず、宗門人別帳に記載される身分は、あくまでも百姓にすぎなかった。
 彼らが人別帳に名字を記載することを、名主などは快く思っておらず、何度も論争が行われ、結局、以前から名字を記載していたものだけが、正式に名字を名乗れることになり、多くの平同心は、任務に就くときのほかは、名字帯刀は許されなかった。
 だが、彼らは最後まで、その武士としての本分を貫くのである。

 千人同心最後の日光火の番をつとめた、井上松五郎が所属していた組頭、石坂弥次衛門は、日光を戦火から守るため、新政府軍の板垣退助に、無条件で日光を明け渡した。
 しかし、交戦派の多かった同心たちから非難され、切腹することによって、その責任を果たした。
 腹を召して責任をとる。それは、武士にとって名誉ある死であった。彼らは滑稽なまでに、誇り高く武士たらんとしたのである。


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