新選組外伝 永倉新八剣術日録

橘りゅうせい

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46 甲州道中 黒野田宿

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 笹子峠を越えて、山口が黒野田宿に入ったころには、すでに真夜中を回っていた。
 黒野田宿は、本陣一、脇本陣一、旅籠は十四軒、人口は三百三十人ほどで、あまり大きな宿場ではない。
 しかし、隣の阿弥陀海道宿まで、わずか十二町。その隣の白野宿は、そこから十八町と、三つの宿場でひとつのようになっており、合わせると、人口は九百人を越える。

 甲州道中は、山あいの狭い往還なので、総じて宿場間の距離が短かかった。
 もっとも短いのは、意外なことに、江戸からすぐの布田五宿の国領と下布田(現在の調布市)の間で、わずか二町というから、220メートルしか離れていない。
 黒野田は、笹子峠を控えているため、足を止める旅人が多く、人口のわりには、にぎやかな宿場である。
 さすがにこの時間だと、常夜灯以外の明かりはなく、宿場は死んだように静まりかえっていた。

 一晩歩き通しで、山口は仮眠をとる場所を探していた。宿場の外れで、小さな山門を見つけて足を止める。
 境内に足を踏み入れると、正面に、茅葺きの大きな屋根の本堂が目に入った。
 山口は本堂に向かう。あたりを見回して、安全をたしかめると、賽銭箱の後ろにあるきざはしの裏側に潜りこんだ。
 大刀を抱くようにして横になると、たちまち眠りに落ちた。

――山口が眠りについたころ。
 捨五郎も黒野田宿に、足を踏み入れ、迷うことなく『三州屋』という荒物屋の戸を叩いた。
 すると、静かに潜り戸が開いた。室内は薄暗い。捨五郎は、懐から短刀を取りだし、頭上に掲げつつ左足から室内に入る。
「捨五郎さん。相変わらず用心深いね」
 嗄れた声で老人が言った。盗人宿の番人の友吉である。

「なに、友さんを疑っているわけじゃねえ。身についた習慣《ならい》ってやつさ」
「ふふっ。御子神の旦那仕込みだね……あんたは、昔からそうだったからな」
「朝まで世話んなるぜ。今夜は、肝を冷やしたんで、妙に疲れちまった」
「あんたでも、肝を冷やすことなんて、あるのかい?」
 友吉が笑ったので、捨五郎が笹子峠での経緯を話した。
「ふうん、そいつあ剣呑な野郎だな。でも、あんたを追っていたわけじゃあないだろうね」
 捨五郎が話し終えると、友吉が断定した。
「友さんもそう思うかい?」
「ああ。もしそうなら、あんた、いまごろ三途の川さ」
 そう言いながら、友吉が酒の支度をはじめる。
「おっかねえことは、言いっこなしだぜ……なんにせよ、あの侍には、ゾッとしたぜ。なんか、身体じゅうから、ひんやりとした殺気を放っていやがった」
「まあ、こうして無事だったんだ。楽しく一杯やろう」
 友吉は捨五郎に杯をわたすと、徳利から、なみなみと酒を注いだ。

 山口は、なにかをこするような物音で目を覚ました。
 空気が澄んでいた。あたりは、うっすらと明るくなり、小鳥の囀ずりが耳につく。
 音がした方を見ると、寺の小僧が境内の箒がけをしていた。

(少し寝過ごしたか……)

 小僧が視界から外れて見えなくなると、山口は、静かに立ちあがり、刀を腰に差す。
 そして着物についた砂ぼこりを払い、あたりを見回すと、おもむろに歩きだした。

――そのとき。
「ぐっすりとお休みでしたな」
 いきなり背後から声がかかり、山口は、反射的に腰を落とし、柄に手をかけた。瞬く間の速さである。
「おっと、驚かせてしまったようだな。わしは、この寺の住職で芳年と申す」
 振り向くと、後ろには、いつの間にか老いた僧侶が立っていた。

(俺が見回したときは、たしかに誰もいなかった。この坊主いつの間に……)

 山口の脇の下を、冷たい汗が流れた。
 芳年は、山口の殺気を孕んだ、険しい視線を気にする様子もなく、穏やかに続ける。
「腹は減っておらぬか? 朝餉は、いかがかな」
 断ろうと口を開きかけたとき、大きな音を響かせ腹が鳴り、山口が赤面する。
 甲府を出て以来、馴染みの茶店の団子を食べただけなので、無理もない。山口は、返事もきかず歩きだした芳年に従った。

 質素な膳である。麦飯に根深汁、そして古漬けの沢庵だけの食卓であった。
 しかし、これが驚くほど美味い。山口は江戸育ちなので、白米しか食べたことがなかった。麦飯などは、卑しい者の食べ物と、はなから決めつけていたからだ。
 江戸っ子は、麦飯を臭い飯と見下し、白い米を食すことを誇りにしていた。山口も麦飯を食べるなど、考えたこともなかった。
 ところが、臭いどころか香ばしい匂いが食欲をそそり、米に混ざった弾力のある麦の食感が楽しく、夢中で掻きこんだ。
 具が葱だけの根深汁も、山口には新鮮な驚きだった。よく火のとおった葱は、柔らかく甘い。その自然な甘さが、古漬けの塩気によって引き締まる。
 気がつくと飯を三杯もおかわりし、根深汁も二杯飲み干していた。

「飯を食べたら、殺気が消えましたな」
 芳年が微笑みを浮かべた。
「殺気? まさか……僧侶に手をかけるほど、俺は、落ちぶれてはおらぬ」
「その殺気は、わしに向けられたものではない。おぬしが、おぬし自身に向けたものだ。なにがあったのかは存ぜぬが、わしには、おぬしが抜き身の刀に見えた」
 怪訝な表情の山口に、芳年が続ける。
「だが、飯を食っただけで、その殺気は消えた……人間なんぞは、しょせんそんなものよ」
 言われてみれば、昨日までの心にあった、刺々しい気持ちが薄れているのに山口は気づいた。
 それは物理的に、空腹が満たされたからでは、決してなかった。
 山口は、親からも兄からも疎外されて育った。とはいえ、父親は裕福だったので、三食きちんと白い飯を食べさせてもらっていた。
 当時は、まず当主がひとりで飯を食い、そのあと家族が食べるのが武家の一般的な食事風景であった。
 しかし、山口は兄や母と同じ食卓につくことはなく、たったひとりの食事が常で、冷えきった台所で流しこむ食事を、美味いと思ったことは、一度もなかった。

 山口は、穏やかな表情の芳年から顔をそむけ、懐から小粒を取りだすと、素早く紙に包み、差しだした。
「すっかり馳走になった。少ないが喜捨を……」
「ありがたく頂戴いたす」
 麦飯に根深汁と沢庵の値には、過剰な金額だが、芳年は、当たり前のようにうけとった。
「いかい世話になった……では、御免」
 山口は、立ちあがると、作法どおり右側に置いた刀を腰に戻し、一礼すると、踵を返した。
「怒りや憎しみは、なにも生まず、身を滅ぼすのみ……飯を食べたあとの、あの気持ち。それを忘れずにいなさい」
 その言葉をきき流し、山口が部屋を出ようとした刹那、斬りつけるように芳年が続けた。
「――それは、剣術の極意でもある」
 一瞬、山口の動きが止まる。が、振り向いて一礼すると、そのまま歩み去った。
「さて、哀しきかな。修羅を背負った男よ……」
 芳年がつぶやいた。

 山口は山門を出ると、本堂に一瞥をくれて歩きだす。甲州道中は、すでに旅人が行きかっている。すぐ横を、僧侶が軽く会釈しながらすれ違う。
 振り向くと、僧侶が山門をくぐるのが目に入った。

(それにしても、あの芳年とかいう坊主……ただ者ではない。元は、名のある武芸者にちがいない)

 山口は、どんな人物に出会っても、その相手を斬れるかどうか、たしかめる癖がある。つい剣客の目で見てしまうのだ。
 しかし芳年には、そういう気持ちが起こらなかった。いや、正確には、そういう気持ちを起こす瞬間、見事にそうした気を逸らされていた。
 もし、これが剣の勝負なら、山口は、見事に攻撃の起こりを、捉えられていたことになる。
「――ちっ」
 鋭く舌打ちすると、山口は、憮然とした表情で、八王子に向かって歩きだした。

 芳年は、山口を見送ったあと、しばらくその方角を見つめていたが、ため息をつくと、食器を片付けはじめた。
 そのとき、小僧が呼ぶ声がきこえた。
「和尚様、全福寺の秀全住職がいらっしゃいました」
「すぐ参る」

 客間では、強瀬村の全福寺の住職・秀全が待っていた。
「さてさて……今日は朝から、剣術に取り憑かれた者共が、千客万来だな」
 芳年は、笑みを浮かべながら秀全に言った。
「先ほどすれ違ったあの若い男ですな……かなりの使い手と見ましたが、お知り合いですか?」
「いや……陛の下で眠っておった。空腹と見たので、朝餉を共にしただけにすぎぬ」
「さようでしたか……しかし、あの若者から、なにやら深い苦悩を感じました」

 秀全がそう言うと、芳年の目がかすかに見開かれた。
「ほう……それがわかれば、たいしたものだ。どうやらおぬしも、少しは大人になったようだ」
「やめてください。拙僧は、もう五十路ですぞ」
「早いものだ。おぬしを、今戸の潮江院に送ったのは、もう四十年も前のことか……」
「あのとき護ってくださったおかげで、いまの拙僧があります。感謝しております」
「あの子どもが、いまでは五十路か……わしも老けるわけだ」
「あのときの、芳年さまの見事な剣を、どうしても忘れることが、できません。だから、いつまでも剣術に執着するのかもしれませぬ」
「なに。村人は喜んでおるのだから、青空道場は、続けるがよい。物騒な世の中だからの。しかし、五十路にもなって、執着を捨てられぬとは、おぬしも、まだまだ青二才だのう……
すべての執着を捨ててこそ、剣術の極意が見えてくるのだ」
「拙僧には、まだその境地は、わかりかねます」
「よいではないか……もがき苦しむのもまた、修行のひとつ。わしのように枯れるには、まだ早い」
 芳年は笑い飛ばすが、不意に表情を引き締め、
「だが、あの若者……危うい。修羅道に堕ちねばよいが……」
 と、つぶやいた。










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