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33 勝沼町 松岡新三郎
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歳三たち三人は、宿役人と名主の立ち会いで、光岡の検視を終えた新町の粂蔵らとともに、仮通夜を行うと、その夜は、石川良介の家に泊まることになった。
身寄りのない光岡の遺体は、付き合いの古い、石川家の墓所の傍らに葬られることに決まり、八郎は、のちほど供養料を送ることを約した。
その晩は光岡を偲び、道場で酒盛りになったが、暗くなりがちな雰囲気を、陽気な師範代の木村佐太郎や、脳天気な峯吉が盛り上げた。
やがて宴も終わり、それぞれが床につく。
酔いつぶれた佐太郎と峯吉を居間に残し、歳三と八郎は、普段は武者修行で訪れる客を泊める、長屋門の四畳の部屋で床を並べた。
布団に入って小半刻あまり。歳三は、八郎が寝つけずにいることに、気付いていた。
「八郎さん……このたびは、とんだ旅でしたね」
「わたしが、気まぐれで旅にでて、あのとき光岡に、出会いさえしなければ、彼はまだ生きていたかもしれません……」
「それは、言ってもしかたのないことでしょう」
「そうですね……つい弱音を吐きました」
「ところで、八郎さんは、義兄の句会に出席するわけでもないのに、なぜ市河先生と日野にきたのですか?」
気まずい雰囲気に、歳三が話題を変えた。
「あのときは、武州の剣術道場を……などと、こたえましたが、じつは、気持ちが切り替われば、どこでもよかったのですよ」
「なにか気が鬱ぐ単語ぐようなことが、あったのでしょうか」
「いえ。気が鬱いだわけではありません……わたしにはいま、どうしても勝ちたい剣客がいます。
だから、毎日、毎日型を練り、義父にしごかれ……なのに、その勝ち筋が見えてこない。
有り体に言って、煮詰まってしまったのです。そこで、気分を一新するため、市河先生の旅に、わたりに舟と、便乗したわけです」
「八郎さんほどの者が、そこまでして勝ちたい相手とは、いったい何者ですか?」
「特に有名な剣客ではありません。名前を言ってもわからないでしょうが、そのかたは、神道無念流岡田十松門人、永倉新八さんといいます」
「な、永倉新八! そりゃ、本当ですか!? 新八っつあんなら、よく知ってますよ」
歳三が、思わず身体を起こした。
「それは、まことですか!?」
驚いたのは、八郎も同じだった。
歳三は、八王子横山宿でやっつけた、祐天一家の代貸を、それ以前に、小仏峠で懲らしめた話を、八郎に語った。
「ははは、新八さんらしいなあ……しかし驚きました。まさかトシさんが、永倉さんと知り合いになっていたとは……」
「なにやら、因縁を感じる話ですね……それよりも、新八っつあんが強いのは知ってましたが、八郎さんより上だとは、意外でした」
「新八さんの試合を見て、義父が言っていました。
“八郎。おまえの剣は剃刀だ。鋭いが脆い。だが、永倉殿の剣は、鉈だ。剃刀など粉々に撃ち砕くだろう”と……」
「なるほど、鉈か……新八っつあんの剣は、豪快だからなあ……」
歳三は、新八が小仏峠で見せた、天然理心流の龍尾剣を、思い出していた。
「それにしても、鉈とぶつかったら、剃刀はバラバラですね。なにか攻略する思案は浮かびましたか?」
「これも義父の言葉です。
“正面からぶつかる必要はない。鉈だとて必ず割れる筋がある”と……
わたしは、それを考え続けています」
「さすが、伊庭の軍兵衛先生だ。おっしゃることが深い」
歳三が、感心したように言った。
「言葉にすれば簡単です……しかし、それを実践するのは、至難の技なのです」
「八郎さんが日野で見せたやり方は、八郎さんの性質にぴったりだったと思いますよ。いまさら、それを変えたって、付け焼き刃のような気がします」
歳三は、井上松五郎を相手に、八郎が見せた、必要最小限の動きで相手をするさまを、頭に浮かべながら続ける。
「だから、新しくなにかをはじめるよりは、剃刀をさらに鋭く研ぎ、軍兵衛先生のおっしゃるとおり、正面からぶつからない方策を考える。それが近道でしょう」
いかにも歳三らしい、理論的な思考だった。
「なるほど。トシさんの言うとおりかもしれません。わたしは、わたしの持ち味を活かす……ありがとう。少し迷いが晴れたような気分です」
「いや、なあに。他人のことは、よく見える……というだけのことですよ」
八郎の声が明るくなったことに、歳三は、胸を撫で下ろした。
「八郎さん。この青梅宿には、先代・岡田十松の門人で、松岡新三郎という師範が道場を構えています。明日訪ねてみませんか?」
「ほう……では、新八さんの兄弟子ですね。それは興味深い。ぜひ案内してください」
――翌朝。
ふたりは、峯吉をともない勝沼町の松岡道場を訪ねた。
「ひゃあ、こっちも立派な道場ですねえ」
峯吉が道場を見上げながら、思わず声をあげた。
松岡道場は茅葺きだが、日野宿脇本陣の佐藤彦五郎邸の長屋門を、一回り大きくしたような、じつに立派な造りだった。
「松岡師範の義理の親父は、青梅宿でも指折りの豪商だからな」
「トシさん、よく知ってますね」
峯吉が感心する。
「そりゃあ、知ってるさ。甲州屋さんは、うちの得意先なんだ」
歳三は、松岡の義理の父が主人の甲州屋にも、石田散薬を卸していた。
松岡の道場は、石川道場に負けず劣らず流行っていた。
ペリー来港以来、武州各地の剣術道場は、かつてない盛況を見せている。つまり、それだけ人びとに危機感があったのだ。
「江戸でも剣術は盛んですが、多摩郡ほどではありませんね」
八郎が言った。この時代、多摩郡などの郊外は、浪人や無宿人が増加し、治安が悪化していたが、江戸の町は、まだ騒乱とは無縁であった。
「おおっ、めずらしい御仁がきたなあ。トシさん、道場にくるのは久しぶりじゃないか。どおれ、今日はたっぷりと揉んでやるか」
歳三が案内を乞うと、松岡が豪快に笑った。
「師範、今日は武者修行の者を、引き合わせにきました」
「ほう……」
「はじめまして。わたしは、心形刀流、伊庭八郎と申します」
「天然理心流、中島峯吉です」
「伊庭! では軍兵衛先生のご子息であられるか」
「はい。先代・軍兵衛は、わたしの父です」
「そうか……俺がまだ岡田門下のころ、先代には、いろいろお世話になったものだ。まあ、上がってくれ」
挨拶を済ませると、八郎が早速松岡に、稽古をつけてもらうことになった。
江戸近郊で、伊庭八郎の名前を知らない剣術修行者はいない。
歳三や峯吉だけでなく、松岡の門人たちも、固唾を飲んで試合稽古の行方を追った。
しかし、その稽古を見ている者はみな、戸惑いを隠せなかった。
松岡は、新八との試合のときと同様に、闘志も殺気も一切表に出さず、穏やかな表情を浮かべており、むしろ、のんびりしているようにさえ見える。
対する八郎の構えにも、表だった闘志は見えない。静かに正眼に構えて、対峙するのみであった。
つまり、それは端から見れば、いたって迫力のない、穏やかな光景だったのだ。
しかし歳三は、ふたりの間に、見えない糸のように張りつめた、かすかな緊張感があることを見逃さなかった。
峯吉も、それに気付いているのか、拳を握りしめて、固唾を飲んでいる。
やがてふたりの間には、耐えがたいほど張りつめた空気が充ち、歳三は息をするのも忘れた。
そのころには、松岡の門人たちも、ようやく、徐々に高まるただならない緊張感に気づき、道場のなかには、ぴんと張りつめた空気が充ちていた。
「む……」
八郎から無声の気合いとともに、鋭い突きがだされた。
以前、義父に見せられた起こりの見えない、一刀流の突きである。
同時に、松岡が半身になりつつ、半歩足を踏みだし、ぴしりと八郎の籠手を撃った。
なんとも呆気ない、そして、素人には、なにが起こったのか、まったく理解できない攻防であった。
「参りました」
八郎が頭を下げた。
それは、まさに、一瞬の攻防であった。
ふたりは、相手の起こりを読みあっていた。その均衡を八郎が破り、それを見抜いた松岡が、後の先を制したのだ。
歳三には、八郎の突きが、いつだされたのか見切れなかった。
ところが、歳三には見えなかった、その突きの起こりを捉え、松岡は的確に反応していた。
(こいつは、すげえ……俺なんぞでは、到底、太刀打ちできまい)
歳三は自分の実力を、第三者の視点で、冷静に分析できる、数少ない人間である。
いまの試合を見て、彦五郎の道場で八郎と試合をしたとき、奇策ですら通用しなかったのも、頷ける思いだった。
武術の上達の段階は、スポーツや格闘技のように、坂道状ではない。
スポーツならば、その日の調子などによって、できたりできなかったりがあるが、武術ではそれが即刻死につながる。できねば無意味なのだ。
つまり、段階は坂道状ではなく、できる、できない、という階段状であり、そこには、曖昧な要素は一切なく、実力の上下には、確固たる格差があった。
(八郎さんは、俺などよりも、ひとつ上の段階にいるにちがいない……)
道場の奥にある居間では、歳三と八郎が、松岡に茶をふるまわれていた。
峯吉は、松岡と八郎のたちあいを見て、刺激を受けたのか、まだ道場で松岡の弟子たちと稽古をしている。
「伊庭の若先生。あんた、その若さで、たいした腕前だ」
「いえ。松岡師範には、手も足も出ませんでした」
「おいおい、若先生。なめてもらっちゃ困るぜ。こう見えても俺は、その昔、岡田十松門下・四天王と呼ばれた男だぞ」
「これは失礼しました」
「八郎さん。気にしなくていいですよ。師範は、いつもこんな調子なんです」
苦笑しながら歳三がとりなした。
「おまけに、両国の香具師の女房に手を出して、挙げ句の果てが刃傷沙汰。江戸を追われて、いまじゃ、こんな田舎の道場主だ」
自分で言って、松岡が豪快に笑う。
「なあ、若先生……あんた、自分の気持ちを、恐れていないかい?」
不意に松岡が、真面目な声で言った。
「恐れているのでしょうか」
「若先生……いや八郎さん。あんたのなかには、自分では、どうしようもない怪物が棲んでいる。
あんたは、それを抑えようとしているが、時々その怪物が、あんたの表面に顔を出そうと牙をむく……」
「なぜそれを……」
「あんたから、一瞬、たしかに殺気を感じたんだ。でも、おかしなことに、それは、試合相手の俺に向けられたものじゃない……」
松岡の言葉の意味がわからず、歳三が怪訝な表情を浮かべる。
しかし、八郎の顔は、一瞬で青ざめた。
「八郎さん……あんたには、どうしても斬りたいやつがいる。でも、その相手に斬られてもいい……とも思っている。――違うかい?」
八郎は、こたえない。だがその沈黙が、なによりも雄弁に、そのこたえを示していた。
「俺がまだ岡田門下だったころは、そりゃあ毎日、血を吐くような稽古をしたもんだ。試合じゃあ、誰にも負ける気がしなかった。でも、俺は、いつも心のどこかで思っていた。
――はたして、真剣で命を懸けて勝負したら、俺の剣は、どこまでやれるのだろうか――ってね」
「…………」
「あんたの想いが、俺と同じだとは言わない。しかしそれは、剣を究めようと志す者は皆、いつか必ず通る道だと言っておこう。俺があんたに教えてやれることは、それだけだ」
八郎が思わず松岡を凝視した。
「驚きました。あの短い時間で、そこまでおわかりになるとは……」
松岡が再び豪快に笑った。
「言っただろ。俺は岡田十松門下・四天王だって」
「師範。八郎さんがたちあいたい相手ってのは、永倉新八さんなんですよ」
「な、なんだって!?」
歳三の言葉に、松岡が唖然とする。
「トシさん……ひとが悪いぜ。それで八郎さんを、俺に引き合わせたのかよ」
「いや、まあ、青梅にきたのは偶然なんですが……」
「その新八なら、ついこないだ、ここにきたぜ」
「えっ、そうなんですか!」
今度は、歳三が驚くが、考えてみれば、歳三が新八と出会ったのは小仏峠。青梅から、さほど遠い場所ではない。
「ああ。なんでも八王子の名主にたのまれて、甲州まで盗賊一味のことを調べに行くって言ってたな」
「盗賊一味……!」
歳三の目が、すうっと細くなり、一瞬、強い光を放った。あの獲物を狙う、肉食獣の目であった。
身寄りのない光岡の遺体は、付き合いの古い、石川家の墓所の傍らに葬られることに決まり、八郎は、のちほど供養料を送ることを約した。
その晩は光岡を偲び、道場で酒盛りになったが、暗くなりがちな雰囲気を、陽気な師範代の木村佐太郎や、脳天気な峯吉が盛り上げた。
やがて宴も終わり、それぞれが床につく。
酔いつぶれた佐太郎と峯吉を居間に残し、歳三と八郎は、普段は武者修行で訪れる客を泊める、長屋門の四畳の部屋で床を並べた。
布団に入って小半刻あまり。歳三は、八郎が寝つけずにいることに、気付いていた。
「八郎さん……このたびは、とんだ旅でしたね」
「わたしが、気まぐれで旅にでて、あのとき光岡に、出会いさえしなければ、彼はまだ生きていたかもしれません……」
「それは、言ってもしかたのないことでしょう」
「そうですね……つい弱音を吐きました」
「ところで、八郎さんは、義兄の句会に出席するわけでもないのに、なぜ市河先生と日野にきたのですか?」
気まずい雰囲気に、歳三が話題を変えた。
「あのときは、武州の剣術道場を……などと、こたえましたが、じつは、気持ちが切り替われば、どこでもよかったのですよ」
「なにか気が鬱ぐ単語ぐようなことが、あったのでしょうか」
「いえ。気が鬱いだわけではありません……わたしにはいま、どうしても勝ちたい剣客がいます。
だから、毎日、毎日型を練り、義父にしごかれ……なのに、その勝ち筋が見えてこない。
有り体に言って、煮詰まってしまったのです。そこで、気分を一新するため、市河先生の旅に、わたりに舟と、便乗したわけです」
「八郎さんほどの者が、そこまでして勝ちたい相手とは、いったい何者ですか?」
「特に有名な剣客ではありません。名前を言ってもわからないでしょうが、そのかたは、神道無念流岡田十松門人、永倉新八さんといいます」
「な、永倉新八! そりゃ、本当ですか!? 新八っつあんなら、よく知ってますよ」
歳三が、思わず身体を起こした。
「それは、まことですか!?」
驚いたのは、八郎も同じだった。
歳三は、八王子横山宿でやっつけた、祐天一家の代貸を、それ以前に、小仏峠で懲らしめた話を、八郎に語った。
「ははは、新八さんらしいなあ……しかし驚きました。まさかトシさんが、永倉さんと知り合いになっていたとは……」
「なにやら、因縁を感じる話ですね……それよりも、新八っつあんが強いのは知ってましたが、八郎さんより上だとは、意外でした」
「新八さんの試合を見て、義父が言っていました。
“八郎。おまえの剣は剃刀だ。鋭いが脆い。だが、永倉殿の剣は、鉈だ。剃刀など粉々に撃ち砕くだろう”と……」
「なるほど、鉈か……新八っつあんの剣は、豪快だからなあ……」
歳三は、新八が小仏峠で見せた、天然理心流の龍尾剣を、思い出していた。
「それにしても、鉈とぶつかったら、剃刀はバラバラですね。なにか攻略する思案は浮かびましたか?」
「これも義父の言葉です。
“正面からぶつかる必要はない。鉈だとて必ず割れる筋がある”と……
わたしは、それを考え続けています」
「さすが、伊庭の軍兵衛先生だ。おっしゃることが深い」
歳三が、感心したように言った。
「言葉にすれば簡単です……しかし、それを実践するのは、至難の技なのです」
「八郎さんが日野で見せたやり方は、八郎さんの性質にぴったりだったと思いますよ。いまさら、それを変えたって、付け焼き刃のような気がします」
歳三は、井上松五郎を相手に、八郎が見せた、必要最小限の動きで相手をするさまを、頭に浮かべながら続ける。
「だから、新しくなにかをはじめるよりは、剃刀をさらに鋭く研ぎ、軍兵衛先生のおっしゃるとおり、正面からぶつからない方策を考える。それが近道でしょう」
いかにも歳三らしい、理論的な思考だった。
「なるほど。トシさんの言うとおりかもしれません。わたしは、わたしの持ち味を活かす……ありがとう。少し迷いが晴れたような気分です」
「いや、なあに。他人のことは、よく見える……というだけのことですよ」
八郎の声が明るくなったことに、歳三は、胸を撫で下ろした。
「八郎さん。この青梅宿には、先代・岡田十松の門人で、松岡新三郎という師範が道場を構えています。明日訪ねてみませんか?」
「ほう……では、新八さんの兄弟子ですね。それは興味深い。ぜひ案内してください」
――翌朝。
ふたりは、峯吉をともない勝沼町の松岡道場を訪ねた。
「ひゃあ、こっちも立派な道場ですねえ」
峯吉が道場を見上げながら、思わず声をあげた。
松岡道場は茅葺きだが、日野宿脇本陣の佐藤彦五郎邸の長屋門を、一回り大きくしたような、じつに立派な造りだった。
「松岡師範の義理の親父は、青梅宿でも指折りの豪商だからな」
「トシさん、よく知ってますね」
峯吉が感心する。
「そりゃあ、知ってるさ。甲州屋さんは、うちの得意先なんだ」
歳三は、松岡の義理の父が主人の甲州屋にも、石田散薬を卸していた。
松岡の道場は、石川道場に負けず劣らず流行っていた。
ペリー来港以来、武州各地の剣術道場は、かつてない盛況を見せている。つまり、それだけ人びとに危機感があったのだ。
「江戸でも剣術は盛んですが、多摩郡ほどではありませんね」
八郎が言った。この時代、多摩郡などの郊外は、浪人や無宿人が増加し、治安が悪化していたが、江戸の町は、まだ騒乱とは無縁であった。
「おおっ、めずらしい御仁がきたなあ。トシさん、道場にくるのは久しぶりじゃないか。どおれ、今日はたっぷりと揉んでやるか」
歳三が案内を乞うと、松岡が豪快に笑った。
「師範、今日は武者修行の者を、引き合わせにきました」
「ほう……」
「はじめまして。わたしは、心形刀流、伊庭八郎と申します」
「天然理心流、中島峯吉です」
「伊庭! では軍兵衛先生のご子息であられるか」
「はい。先代・軍兵衛は、わたしの父です」
「そうか……俺がまだ岡田門下のころ、先代には、いろいろお世話になったものだ。まあ、上がってくれ」
挨拶を済ませると、八郎が早速松岡に、稽古をつけてもらうことになった。
江戸近郊で、伊庭八郎の名前を知らない剣術修行者はいない。
歳三や峯吉だけでなく、松岡の門人たちも、固唾を飲んで試合稽古の行方を追った。
しかし、その稽古を見ている者はみな、戸惑いを隠せなかった。
松岡は、新八との試合のときと同様に、闘志も殺気も一切表に出さず、穏やかな表情を浮かべており、むしろ、のんびりしているようにさえ見える。
対する八郎の構えにも、表だった闘志は見えない。静かに正眼に構えて、対峙するのみであった。
つまり、それは端から見れば、いたって迫力のない、穏やかな光景だったのだ。
しかし歳三は、ふたりの間に、見えない糸のように張りつめた、かすかな緊張感があることを見逃さなかった。
峯吉も、それに気付いているのか、拳を握りしめて、固唾を飲んでいる。
やがてふたりの間には、耐えがたいほど張りつめた空気が充ち、歳三は息をするのも忘れた。
そのころには、松岡の門人たちも、ようやく、徐々に高まるただならない緊張感に気づき、道場のなかには、ぴんと張りつめた空気が充ちていた。
「む……」
八郎から無声の気合いとともに、鋭い突きがだされた。
以前、義父に見せられた起こりの見えない、一刀流の突きである。
同時に、松岡が半身になりつつ、半歩足を踏みだし、ぴしりと八郎の籠手を撃った。
なんとも呆気ない、そして、素人には、なにが起こったのか、まったく理解できない攻防であった。
「参りました」
八郎が頭を下げた。
それは、まさに、一瞬の攻防であった。
ふたりは、相手の起こりを読みあっていた。その均衡を八郎が破り、それを見抜いた松岡が、後の先を制したのだ。
歳三には、八郎の突きが、いつだされたのか見切れなかった。
ところが、歳三には見えなかった、その突きの起こりを捉え、松岡は的確に反応していた。
(こいつは、すげえ……俺なんぞでは、到底、太刀打ちできまい)
歳三は自分の実力を、第三者の視点で、冷静に分析できる、数少ない人間である。
いまの試合を見て、彦五郎の道場で八郎と試合をしたとき、奇策ですら通用しなかったのも、頷ける思いだった。
武術の上達の段階は、スポーツや格闘技のように、坂道状ではない。
スポーツならば、その日の調子などによって、できたりできなかったりがあるが、武術ではそれが即刻死につながる。できねば無意味なのだ。
つまり、段階は坂道状ではなく、できる、できない、という階段状であり、そこには、曖昧な要素は一切なく、実力の上下には、確固たる格差があった。
(八郎さんは、俺などよりも、ひとつ上の段階にいるにちがいない……)
道場の奥にある居間では、歳三と八郎が、松岡に茶をふるまわれていた。
峯吉は、松岡と八郎のたちあいを見て、刺激を受けたのか、まだ道場で松岡の弟子たちと稽古をしている。
「伊庭の若先生。あんた、その若さで、たいした腕前だ」
「いえ。松岡師範には、手も足も出ませんでした」
「おいおい、若先生。なめてもらっちゃ困るぜ。こう見えても俺は、その昔、岡田十松門下・四天王と呼ばれた男だぞ」
「これは失礼しました」
「八郎さん。気にしなくていいですよ。師範は、いつもこんな調子なんです」
苦笑しながら歳三がとりなした。
「おまけに、両国の香具師の女房に手を出して、挙げ句の果てが刃傷沙汰。江戸を追われて、いまじゃ、こんな田舎の道場主だ」
自分で言って、松岡が豪快に笑う。
「なあ、若先生……あんた、自分の気持ちを、恐れていないかい?」
不意に松岡が、真面目な声で言った。
「恐れているのでしょうか」
「若先生……いや八郎さん。あんたのなかには、自分では、どうしようもない怪物が棲んでいる。
あんたは、それを抑えようとしているが、時々その怪物が、あんたの表面に顔を出そうと牙をむく……」
「なぜそれを……」
「あんたから、一瞬、たしかに殺気を感じたんだ。でも、おかしなことに、それは、試合相手の俺に向けられたものじゃない……」
松岡の言葉の意味がわからず、歳三が怪訝な表情を浮かべる。
しかし、八郎の顔は、一瞬で青ざめた。
「八郎さん……あんたには、どうしても斬りたいやつがいる。でも、その相手に斬られてもいい……とも思っている。――違うかい?」
八郎は、こたえない。だがその沈黙が、なによりも雄弁に、そのこたえを示していた。
「俺がまだ岡田門下だったころは、そりゃあ毎日、血を吐くような稽古をしたもんだ。試合じゃあ、誰にも負ける気がしなかった。でも、俺は、いつも心のどこかで思っていた。
――はたして、真剣で命を懸けて勝負したら、俺の剣は、どこまでやれるのだろうか――ってね」
「…………」
「あんたの想いが、俺と同じだとは言わない。しかしそれは、剣を究めようと志す者は皆、いつか必ず通る道だと言っておこう。俺があんたに教えてやれることは、それだけだ」
八郎が思わず松岡を凝視した。
「驚きました。あの短い時間で、そこまでおわかりになるとは……」
松岡が再び豪快に笑った。
「言っただろ。俺は岡田十松門下・四天王だって」
「師範。八郎さんがたちあいたい相手ってのは、永倉新八さんなんですよ」
「な、なんだって!?」
歳三の言葉に、松岡が唖然とする。
「トシさん……ひとが悪いぜ。それで八郎さんを、俺に引き合わせたのかよ」
「いや、まあ、青梅にきたのは偶然なんですが……」
「その新八なら、ついこないだ、ここにきたぜ」
「えっ、そうなんですか!」
今度は、歳三が驚くが、考えてみれば、歳三が新八と出会ったのは小仏峠。青梅から、さほど遠い場所ではない。
「ああ。なんでも八王子の名主にたのまれて、甲州まで盗賊一味のことを調べに行くって言ってたな」
「盗賊一味……!」
歳三の目が、すうっと細くなり、一瞬、強い光を放った。あの獲物を狙う、肉食獣の目であった。
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橋本洋一
歴史・時代
時は寛政五年。長崎奉行に呼ばれ出島までやってきた江戸の版元、蔦屋重三郎は囚われの身の異国人、シャーロック・カーライルと出会う。奉行からシャーロックを江戸で世話をするように脅されて、渋々従う重三郎。その道中、シャーロックは非凡な絵の才能を明らかにしていく。そして江戸の手前、箱根の関所で詮議を受けることになった彼ら。シャーロックの名を訊ねられ、咄嗟に出たのは『写楽』という名だった――江戸を熱狂した写楽の絵。描かれた理由とは? そして金髪碧眼の写楽が江戸にやってきた目的とは?
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