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29 上州 倉賀野宿
しおりを挟むそれはまだ、御子神紋多が、名栗の文平一味を抜けてすぐ、清河八郎が藤本鉄石の影響によって、勤王思想に目覚め、攘夷のために動きはじめて、間もないころ……。
上州倉賀野宿は、中山道と日光例幣使街道の分岐点である。
家数は三百軒。本陣一、脇本陣二。人口は二千人をこえ、旅籠は三十二軒の繁華な宿場町だ。
町は、烏川、利根川の水運によって、関東と甲信越を結ぶ、物流の拠点として、たいへんな、にぎわいをみせていた。
すぐ隣には、家数八百三十軒、人口三千二百人を数える、さらに大きな城下町、高崎があったが、もともと高崎城を築いた井伊家に遠慮するかたちで、高崎の町には、本陣、脇本陣が置かれていなかった。
城下町ということで、高崎には、遊廓は造られず、旅籠は十五軒しかなかったので、遊興の場は、倉賀野宿が一手に担っていた。
したがって、倉賀野宿の旅籠の多くは食売旅籠であり、居酒屋の酌婦も金で寝る。そして、やくざ者が、いくつもの賭場を開帳する……という、上州の一大歓楽街でもあった。
そんな倉賀野宿でも『井筒屋』は、飯盛女を、置かない浪花講の旅籠として、商人に知られていた。
この宿は、素泊まりでも一泊六百文と、料金が、通常の旅籠の倍もするので、宿泊するのは、上州に絹を買いつけにきた大店の番頭など、裕福な者にかぎられていた。
御子神紋多は、名字帯刀を許された越後村上の豪農の三男、渡辺蔵之介と名乗り、井筒屋に宿泊していた。
豪華な絹物をぞろりと着こなし、三尺近い大刀をたばさんだ、小男だが気品のある顔立ちは、言われてみれば、豪農の三男というのが、ぴたりとはまり、疑う者はいなかった。
帳場に預けられた御子神の財布は、小判でずっしりと重く、番頭や手代、子女にも、惜しみなく心づけを与えるので、宿屋の者たちは、下にも置かないもてなしをした。
御子神が旅装をといたとき、隣は空き部屋だったが、ひとっ風呂浴びて、帰りがけに通りかかると、ちょうどその部屋に、客が入るところが目に入った。
その客は、堂々たる体格に、いかつい顔の、ぎょろりとした目が印象的な男だった。
身なりは、絹物に博多献上帯と、いかにも裕福な武家に見える。
しかし、その背中に、振り分け荷物の旅支度にそぐわない、大きな風呂敷包みを背負っていた。
男は、宿の女将に案内されると、どっかりと座りこみ、背中の風呂敷を畳におろした。
「あら、まあ。たいへん!」
女将が奇声をあげた。
どういうはずみか、風呂敷の結び目がほどけ、巻物が、雪崩をうって転がりだしたのだ。
その巻物のひとつが、ころころと御子神の足元にも転がってくる。
御子神は、すうっ……と、蹲踞するかたちに腰を沈め、巻物を拾い、男に手渡した。
「いや、かたじけない。たいへんご無礼をいたしました」
頭を下げながら、照れたように男が言った。
御子神が挨拶を返して、その場を立ち去ろうとすると、男が続ける。
「――もし。よろしかったら、一献差しあげたいが、ご都合は、よろしいでしょうか?」
いつもなら断るところだが、御子神は、この男の持つ雰囲気に、妙に惹きつけられて、つい、馳走になる羽目になった。
男は、女将に小粒を握らせ、酒肴をたのんで下がらせると、
「お初にお目にかかります。出羽の浪人で、清河八郎と申します。以後、よろしくお見知りおきを願います」
「拙者は、越後村上の郷士、渡辺蔵之介でござる。よしなに……」
「渡辺殿は、剣術が達者とお見うけしましたが、ご流儀は?」
「なにゆえ、拙者が剣術をたしなむと、おわかりに、なったのでござろうか?」
「渡辺殿は、先ほど巻物を拾うさいに……」
通常、目の前に落ちたものを、咄嗟に拾おうとする場合、膝を曲げ、背中を丸めるように、手を伸ばして拾う。
この姿勢は、バランスが悪く、全身隙だらけといってよい。
ところが御子神は、清河や女将に一切隙を見せることなく、背筋を伸ばしたまま、蹲踞のかたちで、落ちた巻物を拾ったのだ。
「ふふふ。よくご覧になっておられる……さよう。拙者、甲源一刀流を、少々たしなんでおります」
「やはりそうでしたか……咄嗟の場合、ああいった動きは、なかなかできぬものです。いや、たいしたものです」
「ところで、拙者は、清河殿がお持ちの……」
御子神は、そこで一旦言葉を切ると、数十本の巻物を見ながら続ける。
「その巻物が気になります。清河殿は、書画のたぐいをお集めなのでしょうか」
「ははあ、これですか。さて、どこから話したらよいものやら……」
清河は、考えこむように腕を組み、天井を仰ぎ嘆息した。
「渡辺殿は、強引に開国を要求する、紅毛碧眼の夷狄めを、どう思われますか?」
御子神は、唐突な質問の真意がつかめず、返答に窮したが、かまわず清河が続ける。
「――僕は、あのような野蛮な獣どもに、わが神国の尊厳が、汚されるかと思うと、いてもたってもいられません」
「それは、拙者も同感です。断固、追い払うべきでござろう」
御子神は、盗賊なので、世間の噂には耳ざとく、ペリーが来航し、開国を強要したことは、知っていたし、弱腰の幕府に、ひそかに怒りをつのらせてもいた。
「ふむ。僕と同じ考えですね」
「ところで清河殿は、いま世間を騒がせている、尊皇攘夷の浪士なのでござろうか?」
「いえ。たしかに僕は、攘夷論者ではありますが、彼のものたちとはちがいます」
「ちがうとは?」
「さよう……たとえば、血気にまかせて、夷狄の一匹を血祭りにあげたとして、その一事をもって、世の中が変わりましょうか?」
「少なくとも夷狄どもめが、我が同朋を軽んじることは、少なくなると思うのだが、如何?」
「たしかに、そういう効果はあるでしょう……しかし、彼奴らは狡猾です。むしろ嵩にかかって、より無理難題を、我々に押し付けてくるだけでしょうね」
「ならば、どのようにすれば……」
「いくら雑兵を斬ろうとも、物事の根本は、何ら解決しません。
やるならば、効果的に、かつ徹底的にやらねば無意味です。そのためには、周到な計画と、多くの同士が必要です」
「同士……ですか」
「さよう。夷狄を屠り去るだけではなく、国論を攘夷に統一し、弱腰の幕閣の体制も変えねば、いずれ同じ問題の繰り返しになるでしょう。
――そのためには、組織が、そして、組織を動かす資金が必要です」
「しくみ……資金……」
御子神は、完全に、清河の話術に惹きこまれていた。
全国を盗み歩いて、攘夷を声高に叫ぶ浪士には、何度もお目にかかったが、そのほとんどが、ヒステリックに攘夷を叫び、実のない空論を繰り返すばかりであった。
そういうやからに比べて、清河の思考は、明らかに冷静で、現実を見ているように思われた。
「――さて、ここでようやく渡辺殿の問いに戻ります。これをご覧ください」
そう言うと清河は、御子神から受けとった巻物を、はらりと、ひろげて見せた。
なにやら、ひなびた山村が描かれた絵のようだ。
「……?」
「池大雅です。これはいま、江戸や上方で、非常に高値で取り引きされています。
ところが、出羽においては、いまだ狩野派などの保守的な画が人気で、さほどではありません。
つまり、こうした画を、出羽や越後などで安く買って江戸で売れば……」
「それでは、ただの商人ではないですか」
「いえ、ちがいます。商人は、儲けが目的ですが、僕は全国をめぐり、同士たる人物を探しながら、そのついでに、軍資金も稼いでいるというわけです」
清河は、全国を旅しながら、このような書画の転売で利益を得ていた。旅先から山岡鉄太郎に、転売の仲介を依頼する手紙が残されている。
御子神は盗賊である。いかに抜け目なく、効率的に物事を運ぶか……。
という点においては、常人より、はるかに合理的思考を持っている。なにしろ失敗したら、待っているのは獄門だ。
清河のしたたかさは、その御子神ですら、瞠目せしめていた。
「渡辺殿は、こづかい程度に思っているかもしれませんが、このひと担ぎが、少なくとも、百両にはなるでしょう」
「百両でござりますか!」
「ええ。何しろ元が捨て値です。そして今度は逆に、江戸や上方で狩野派の画を安く買って、権威に弱い僻地において、高い値段で売れば、また同士を探す旅にも出られるし、その一方で、さらなる資金も稼げるというわけです」
「なるほど……それは、よくわかり申した。しかし、夷狄を屠るために、そんなに資金が、必要なのでござろうか?」
「僕は、夷狄と刺し違えるつもりはないし、また、同士にもそうなってほしくはない。となると、道具はもちろん、逃走するにも偽物の手形、変装用の衣装や、隠れ家など、いろいろ入り用です。
事を起こすにしたって、十分下ごしらえせねばなりません。その間、同士は、いったい、どうやって生活しますか?
ひとが生きてゆくためには、嫌でもお金が必要なのです」
「金ですか……近ごろは、攘夷のためと称して、大店を恐喝する自称浪士も多いときいておりますが……」
「愚かな連中です。そのような目立つことをしたら、無駄に公儀に目をつけられるだけだし、攘夷の真意を疑われてもしかたがない。おおかたが、単に金が目当ての、浮浪の徒にすぎません」
清河が続ける。
「僕は、私利私欲で攘夷を決行するわけではありません。畏れ多くも帝のおわす神国の尊厳を守りたい。――ただ、それのみが、僕の使命だと思っています」
そう言い放つ清河が、まるで、光を放っているかのように眩しく、御子神は圧倒された。
「清河殿……いや、清河先生。拙者もその同士に、加えていただけませんか」
「喜んで。僕は、渡辺殿を、ひと目見たときから、そのつもりでした。
――と、その前に、そろそろ貴殿の本当のご尊名を、教えていただけますか?」
「偽名だと、お見通しでございましたか……」
「ふふふ。偶然ですよ……僕の実家は、庄内でも知られた裕福な造り酒屋です。越後村上の渡辺には、杜氏を紹介していただくため、父の使いで、何度も足を運んでおります」
「造り酒屋……ということは、清河殿は……」
「清河というのは、僕の故郷の村の名です。本名は、斎藤元司といい、庄内藩士ではなく、郷士にすぎません」
「では、清河先生は、武士ではないと?」
「いいえ。僕は、れっきとした、侍です」
「郷士でも侍ですか」
「貴殿は、誤解しておられるようですね。そもそも侍とは、貴人に、さぶらう者をさします。
僕にとって、つかえる貴人は、この世に唯ひとり――天帝のみです。酒井でも、ましてや徳川でもない。したがって、僕は帝にさぶろう者――すなわち侍です。帝に忠義を尽くし、誠を持ってつかえるなら、渡辺殿。貴殿も立派な侍と言えるでしょう」
御子神は、雷に撃たれたような衝撃を味わった。
――帝に忠義を尽くし、つかえるならば、それは侍。
そうだ。自分は、腹を召すこともできず首を括った、あの父親とはちがう。本物の武士なのだ。
そして剣を極め、それを活かす目的は、帝を敬い奉り、夷狄に天誅を下す攘夷にこそある。
――この男に。清河八郎という男に、ついてゆこう。
清河の言葉に酔い、御子神は、全身が痺れるような、かつてない至福を味わっていた。
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