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28 盗賊一味
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新家の道場で門弟たちに、ひととおり稽古をつけ終えると、いつの間にか、あたりには、夕暮れがせまっていた。
新八が、汗ばんだ身体を、道場の裏手にある井戸で流し、手拭いで身体をふいていると、勝手口から、新家の妻が顔をだした。
「永倉さま。主人がいっしょに、夕餉をどうかと申しておりますが、ご都合は、いかがでしょうか?」
「ああ……どうせ旅籠に帰って寝るだけだから、かまいませんよ」
「では、主人にそう伝えます。ところで、甲府には、いつまでご滞在なさるのでしょう?」
愁いがちの瞳が新八を、ひたと見つめる。
「明日の明け六つには、八王子横山宿に向かうつもりです」
新八は、一瞬いぶかしむが、深く考えることもなく、そうこたえた。
夕食を馳走になり、道場を辞したころには、すっかり夜になり、柳町には、ちらほらと灯りが点っている。
帰りがけ新八が何気なく、道場の奥にある平屋に目をやると、その家の窓をふさいだ板の隙間から、仄かな灯りが漏れているのに気づいた。
(はて……あのあばら家は、無人ではなかったのか?)
新家道場にも内弟子がいたが、彼らは、道場の二階に寝起きしていた。
新八は、あたりを見回し、誰もいないことをたしかめると、足音を消してあばら家に近づく。
すべての窓には、板が打ちつけられ、廃屋のように見えるが、その板の端が反りかえって、隙間から、微かな灯りが漏れていた。
息を殺すようにして隙間から覗くと、六畳ほどの板張りの床に、男たちが四人、車座になって酒を酌みかわしている。道場では、一度も見かけなかった面々だ。
室内の灯りは、蝋燭ひとつで薄暗いが、漂う剣呑な気配で、男たちが堅気の人間たちではないことは、明らかだった。
(くそっ、声が小さくて、話がきこえねえ……)
かろうじて声は届くが、内容まではわからない。しかし、男たちの会話だけに神経を集中しないよう気をつける。
(誰かくる……)
わずかな気配を感じ、新八が大きな樽の陰に、身をひそめると、道場の勝手口が開いた。
暗闇にまぎれ、しかとは見えないが、体型と油断のない身のこなしから、出てきたのは新家にちがいない。
新家は、あたりに気を配りながら、平屋の戸を叩く。続けて二回。少し間を明けて三回。おそらくなにかの合図であろう。
耳障りな音をたて扉が開くと、一瞬明かりがさし、新家の横顔が浮かび上がった。
だがその横顔は、道場で見せていた世慣れした、愛想のよい顔ではなかった。口元に冷たい微笑みを浮かべ、見るからに酷薄な雰囲気が漂っている。
(あの野郎……これが本性か)
扉が閉まると、再び闇が訪れる。
新八は、ここで探るのを切りあげることにして、物音をたてないように、ゆっくりと、その場を立ちさった。
新家が怪しいのは、じゅうぶんわかったし、これ以上は、自分の仕事ではなく、代官所や八州回りの領域だからだ。
それに、新八に話を振った八木宿の名主によると、甲府は、八州回りの管轄外、代官の支配地なので、これ以上探る意味はないし、気づかれたら元も子もない。
(お上にやる気があれば、名主殿から代官所に、話がゆくだろうしな……)
このとき新八は、のちに、こうした活動が、自分の仕事になるなどとは、もちろん思っていなかった。
新八が新家の道場の居間で、夕餉を振る舞われていたころ、前澤は、部屋を抜け出し、山口が居候を決めこんだ御家人の倉本の家で、酒をのんでいた。
「博打をうちに行ったかと思ったら、行方をくらまして、おまえは、糸の切れた凧のようなやつだ」
あきれたように、山口が言った。
「なに。賭場で知りあった奇妙な浪人者に誘われ、ちょっとした仕事をすることになってな。しばらくは、柳町にある神道無念流の道場に居候することになる」
「神道無念流……なんだおまえ、甲府くんだりまで来て、他流の道場の代稽古でもするのか?」
山口が、しらけた顔になった。
「いや、もそっと金になる話だ」
「ふふん。ということは、押し借りか恐喝のたぐいだな」
「そんなケチな話ではない。ひと仕事十両。いまのところ助けるのは三回。都合三十両の儲け話だ」
「おい。その報酬は、怪しすぎるぞ。さては殺しか……」
「ふふふっ、それがな……おもしろいことに、殺しは絶対に、ご法度だそうだ」
前澤が、さも可笑しそうに笑った。
「うしろ暗い仕事なのに、殺しが絶対にご法度だと……」
前澤の不可解な台詞に、山口は、しばらく黙りこむが、なにかに思いあたったのか、盃を手にとり、にやりと笑った。
「わかった。ひと殺しは絶対にご法度……盗人の手伝いであろう」
「ほう。よくわかったな」
「両国で用心棒をしていたとき、雇い主の悪御家人の、小見山からきいたことがある……」
山口を雇っていた親子二代の悪御家人、小見山辰五郎は、さまざまな悪事に手を染めていた。
なかでも力を入れていたのは、裏の世界の口入屋だった。
賭場の経営、人身売買、売春宿、窃盗、恐喝、詐欺など悪事を上手く廻すには、それぞれの専門家が必要だ。
ところが、そういった特殊な技術と経験を持つものは、常に不足しており、新たに雇おうにも、その者が信用できるのかどうか、判断が難しい。
そこに目をつけた小見山は、賭場や売春宿の経営者、盗人や掏模の親方などに、人材を紹介し、高額の手数料を取る商売を思いついた。
「それが俺の話と、どうつながるのだ?」
もって回った山口の言い回しに、前澤が怪訝な表情を浮かべた。
「押しこみ強盗のように、盗みに入った先で、家人を傷つけたり、殺したりするような者は、のちのち、どのような塁がおよぶかわからないので、一流どころの盗人一味には、相手にされないそうだ。
一方、心得のある盗人。つまり、盗みに入った先では、決して荒っぽいことをしない、しっかりした者は、報酬も高いときいた」
「さすが山口だ。裏のしくみをよく知っているな」
「まあ、少しも自慢には、ならんがな」
山口が、自嘲気味に笑った。
「しかし、そのわりに、今度の雇い主の御子神とかいう、怪しげな小男は、やけに血の匂いが鼻につくが……」
「ふふん。せいぜい寝首をかかれないように、気をつけるのだな」
「ああ。いつでも逃げだせるよう、いろいろ手を打っておくつもりだ」
「もう一杯いくか?」
「いや、あまり抜け出していて、痛くもない腹を探られるのもなんだ。そろそろ道場に戻る」
盃を置き前澤が立ちあがった。
「そうか……」
山口は盃を干すと、肘枕で横になる。先ほどまでのしらけた表情は消え失せ、睨むような鋭い目付きであった。
池之端仲町の料理屋『はなぶさ』の離れでは、清河が男と酒を汲みかわしていた。
新八たちが小仏峠で出会ったあの男だ。
「下村殿。では、どうしても水戸に戻ると?」
相手を「君」づけで呼ぶ清河が「殿」とよぶのは、この男に対してだけかもしれない。
この「君と僕」という呼称は、長州の志士の間から流行りだしたものだ。もっとも、高杉晋作のように、決して使わなかった者もいるが……。
「国許のやつらは、どうにもまとまりがつかぬ……儂がゆくしかあるまい」
「連中の評判は、あまりよろしくありません。押し借りなどは、控えていただかないと……」
「そういうなら、早いところ約束のものを用意しろ。あれだけの人数を養わねばならぬのだ。多少の荒事は、しかたがあるまい。
それに商人どもは、不浄の金を稼いでおる。これは、見せしめでもあるのだ」
そう言うと下村は、一気に杯を干した。
「では、急ぐので、これで失礼する。儂のかわりには、新見という者をつかわす。せいぜい便利に使ってくれ」
下村は立ちあがり、悠々と座敷を出てゆく。その後ろ姿には、侵しがたい威厳が漂っていた。
清河は杯を手に、苦々しくそれを見送った。
杯に酒を注ぎたしていると、離れの戸が開く音がきこえた。
清河は、杯を箱膳に戻し、刀を引き寄せる。
「――紋多君か?」
音もたてず襖が開き、そこには、子どものような小男が立っていた。
整った青白い顔には、いつものように、不気味な笑みを浮かべている。
「あの男、ほうっておくと何をしでかすか、わかりませぬぞ。早いうちに斬ったほうが、よくありませんか?」
「それはできません。水戸の連中をまとめるには、あの男の威が必要なのです」
「しかし、あの男は危険すぎます……まるで、抜き身の太刀のごときでござる」
「ふふふ。紋多君がそこまで言うとは、よほどのことですな」
「冗談ごとではありません。それに、拙者は、いつもは刃は、鞘におさめております」
「いま、この国を治めてゆく器量のある者は、水戸の烈公を置いてほかにありません。烈公をつなぐ線としても、あの男は、欠かせないのです」
「あの男が、水戸の烈公とつながりが……?」
「下村は、ああ見えても、かつては常陸の芹沢城の城主の血筋。そして、地震でみまかった藤田東湖の教え子であり、神道無念流の免許皆伝……そこらの攘夷志士などとは、ものがちがいます」
「なるほど……あの貫禄は、生来の資質でござるか」
「そうです。学問や剣術は学べますが、威厳は天性のものです。将には器量が必要なのです。いくら僕が必死で修行を積んでも、小さな器はそのままでしょう……もっとも、あの男。酒乱の気があるのが、珠に傷ですが……
その点、紋多君には、全幅の信頼をおいています」
「いえ……この不肖、御子神紋多めは、清河先生のためなら、命をさしだす覚悟でござる」
ここで、このふたりの馴れそめを記さねばなるまい。
御子神紋多は、やくざ者を斬って、故郷を捨てると、たちまち貧窮に陥った。なにしろ取り柄といえば、剣術だけである。御子神が辻強盗に身を落とすのに、さして時間はかからなかった。
その御子神を拾ったのが、名栗の文平という盗賊であった。
名栗の文平は、御子神を気に入り、また御子神も、文平を尊敬した。
この時代、犯罪者とはいえ、彼らには、彼らなりのモラルというものが厳然と存在した。
たとえば、掏模には掏模の矜持があり、剃刀などの刃物を使って、安直に懐を狙う巾着切りなどは、決して仲間とは認めなかった。
それは盗賊も同様で、侵入した家の者に、暴力をふるったり、ましてや、殺したりする強盗は、盗賊仲間から軽蔑された。
これには、盗賊としてのプライドのほかにも、現実的な理由もあった。
同じ盗みをするにしても、押し入った先で、傷害や殺人を犯せば、捜査する捕方の気の入れ方もちがってくるし、だいいち、庶民は誰も味方しないだろう。
しかし、世間の評判の悪い金持ちの家に盗みに入り、誰も傷つけずに、煙りのように消えたとしたら、世間は「ざまあみやがれ」と、思いこそすれ、その盗賊を非難する者は、あまりいない。
名栗の文平は、そうした昔気質の盗賊だったのだ。
御子神は、その名栗の文平に見こまれ、盗賊の技術と心構えを厳しく仕込まれた。
しかし、そうやって、盗賊の一味に身をやつしても、御子神は剣術をあきらめたわけではなかった。
機会をみては、道場にも通ったし、たまには辻斬りをしたり、町で喧嘩を買ったりと、実戦でも鍛えていた。
転機が訪れたのは、名栗の文平の突然の病死であった。
文平が流行り病で亡くなると、小頭の夜嵐の又蔵が二代目を襲名し、三十人からなる一味の頭領になった。
もともと一匹狼の御子神が、一味に属していたのは、あくまでも文平が頭だったからだ。
御子神は、ほかの者の下につく気などは、さらさらなく、一味を抜けて、ひとり働きの盗人になった。
ひとり働きになると、千両単位の仕事などはできず、手に入る金は激減したが、その反面、気楽でもあり、また剣術に費やす時間も増えていった。
御子神は、盗みに入ってまとまった金が入ると、しばらく仕事はせず、剣術道場が多い上州や野州、房州、武州などを、武者修行しながら、気ままにめぐり歩いていた。
新八が、汗ばんだ身体を、道場の裏手にある井戸で流し、手拭いで身体をふいていると、勝手口から、新家の妻が顔をだした。
「永倉さま。主人がいっしょに、夕餉をどうかと申しておりますが、ご都合は、いかがでしょうか?」
「ああ……どうせ旅籠に帰って寝るだけだから、かまいませんよ」
「では、主人にそう伝えます。ところで、甲府には、いつまでご滞在なさるのでしょう?」
愁いがちの瞳が新八を、ひたと見つめる。
「明日の明け六つには、八王子横山宿に向かうつもりです」
新八は、一瞬いぶかしむが、深く考えることもなく、そうこたえた。
夕食を馳走になり、道場を辞したころには、すっかり夜になり、柳町には、ちらほらと灯りが点っている。
帰りがけ新八が何気なく、道場の奥にある平屋に目をやると、その家の窓をふさいだ板の隙間から、仄かな灯りが漏れているのに気づいた。
(はて……あのあばら家は、無人ではなかったのか?)
新家道場にも内弟子がいたが、彼らは、道場の二階に寝起きしていた。
新八は、あたりを見回し、誰もいないことをたしかめると、足音を消してあばら家に近づく。
すべての窓には、板が打ちつけられ、廃屋のように見えるが、その板の端が反りかえって、隙間から、微かな灯りが漏れていた。
息を殺すようにして隙間から覗くと、六畳ほどの板張りの床に、男たちが四人、車座になって酒を酌みかわしている。道場では、一度も見かけなかった面々だ。
室内の灯りは、蝋燭ひとつで薄暗いが、漂う剣呑な気配で、男たちが堅気の人間たちではないことは、明らかだった。
(くそっ、声が小さくて、話がきこえねえ……)
かろうじて声は届くが、内容まではわからない。しかし、男たちの会話だけに神経を集中しないよう気をつける。
(誰かくる……)
わずかな気配を感じ、新八が大きな樽の陰に、身をひそめると、道場の勝手口が開いた。
暗闇にまぎれ、しかとは見えないが、体型と油断のない身のこなしから、出てきたのは新家にちがいない。
新家は、あたりに気を配りながら、平屋の戸を叩く。続けて二回。少し間を明けて三回。おそらくなにかの合図であろう。
耳障りな音をたて扉が開くと、一瞬明かりがさし、新家の横顔が浮かび上がった。
だがその横顔は、道場で見せていた世慣れした、愛想のよい顔ではなかった。口元に冷たい微笑みを浮かべ、見るからに酷薄な雰囲気が漂っている。
(あの野郎……これが本性か)
扉が閉まると、再び闇が訪れる。
新八は、ここで探るのを切りあげることにして、物音をたてないように、ゆっくりと、その場を立ちさった。
新家が怪しいのは、じゅうぶんわかったし、これ以上は、自分の仕事ではなく、代官所や八州回りの領域だからだ。
それに、新八に話を振った八木宿の名主によると、甲府は、八州回りの管轄外、代官の支配地なので、これ以上探る意味はないし、気づかれたら元も子もない。
(お上にやる気があれば、名主殿から代官所に、話がゆくだろうしな……)
このとき新八は、のちに、こうした活動が、自分の仕事になるなどとは、もちろん思っていなかった。
新八が新家の道場の居間で、夕餉を振る舞われていたころ、前澤は、部屋を抜け出し、山口が居候を決めこんだ御家人の倉本の家で、酒をのんでいた。
「博打をうちに行ったかと思ったら、行方をくらまして、おまえは、糸の切れた凧のようなやつだ」
あきれたように、山口が言った。
「なに。賭場で知りあった奇妙な浪人者に誘われ、ちょっとした仕事をすることになってな。しばらくは、柳町にある神道無念流の道場に居候することになる」
「神道無念流……なんだおまえ、甲府くんだりまで来て、他流の道場の代稽古でもするのか?」
山口が、しらけた顔になった。
「いや、もそっと金になる話だ」
「ふふん。ということは、押し借りか恐喝のたぐいだな」
「そんなケチな話ではない。ひと仕事十両。いまのところ助けるのは三回。都合三十両の儲け話だ」
「おい。その報酬は、怪しすぎるぞ。さては殺しか……」
「ふふふっ、それがな……おもしろいことに、殺しは絶対に、ご法度だそうだ」
前澤が、さも可笑しそうに笑った。
「うしろ暗い仕事なのに、殺しが絶対にご法度だと……」
前澤の不可解な台詞に、山口は、しばらく黙りこむが、なにかに思いあたったのか、盃を手にとり、にやりと笑った。
「わかった。ひと殺しは絶対にご法度……盗人の手伝いであろう」
「ほう。よくわかったな」
「両国で用心棒をしていたとき、雇い主の悪御家人の、小見山からきいたことがある……」
山口を雇っていた親子二代の悪御家人、小見山辰五郎は、さまざまな悪事に手を染めていた。
なかでも力を入れていたのは、裏の世界の口入屋だった。
賭場の経営、人身売買、売春宿、窃盗、恐喝、詐欺など悪事を上手く廻すには、それぞれの専門家が必要だ。
ところが、そういった特殊な技術と経験を持つものは、常に不足しており、新たに雇おうにも、その者が信用できるのかどうか、判断が難しい。
そこに目をつけた小見山は、賭場や売春宿の経営者、盗人や掏模の親方などに、人材を紹介し、高額の手数料を取る商売を思いついた。
「それが俺の話と、どうつながるのだ?」
もって回った山口の言い回しに、前澤が怪訝な表情を浮かべた。
「押しこみ強盗のように、盗みに入った先で、家人を傷つけたり、殺したりするような者は、のちのち、どのような塁がおよぶかわからないので、一流どころの盗人一味には、相手にされないそうだ。
一方、心得のある盗人。つまり、盗みに入った先では、決して荒っぽいことをしない、しっかりした者は、報酬も高いときいた」
「さすが山口だ。裏のしくみをよく知っているな」
「まあ、少しも自慢には、ならんがな」
山口が、自嘲気味に笑った。
「しかし、そのわりに、今度の雇い主の御子神とかいう、怪しげな小男は、やけに血の匂いが鼻につくが……」
「ふふん。せいぜい寝首をかかれないように、気をつけるのだな」
「ああ。いつでも逃げだせるよう、いろいろ手を打っておくつもりだ」
「もう一杯いくか?」
「いや、あまり抜け出していて、痛くもない腹を探られるのもなんだ。そろそろ道場に戻る」
盃を置き前澤が立ちあがった。
「そうか……」
山口は盃を干すと、肘枕で横になる。先ほどまでのしらけた表情は消え失せ、睨むような鋭い目付きであった。
池之端仲町の料理屋『はなぶさ』の離れでは、清河が男と酒を汲みかわしていた。
新八たちが小仏峠で出会ったあの男だ。
「下村殿。では、どうしても水戸に戻ると?」
相手を「君」づけで呼ぶ清河が「殿」とよぶのは、この男に対してだけかもしれない。
この「君と僕」という呼称は、長州の志士の間から流行りだしたものだ。もっとも、高杉晋作のように、決して使わなかった者もいるが……。
「国許のやつらは、どうにもまとまりがつかぬ……儂がゆくしかあるまい」
「連中の評判は、あまりよろしくありません。押し借りなどは、控えていただかないと……」
「そういうなら、早いところ約束のものを用意しろ。あれだけの人数を養わねばならぬのだ。多少の荒事は、しかたがあるまい。
それに商人どもは、不浄の金を稼いでおる。これは、見せしめでもあるのだ」
そう言うと下村は、一気に杯を干した。
「では、急ぐので、これで失礼する。儂のかわりには、新見という者をつかわす。せいぜい便利に使ってくれ」
下村は立ちあがり、悠々と座敷を出てゆく。その後ろ姿には、侵しがたい威厳が漂っていた。
清河は杯を手に、苦々しくそれを見送った。
杯に酒を注ぎたしていると、離れの戸が開く音がきこえた。
清河は、杯を箱膳に戻し、刀を引き寄せる。
「――紋多君か?」
音もたてず襖が開き、そこには、子どものような小男が立っていた。
整った青白い顔には、いつものように、不気味な笑みを浮かべている。
「あの男、ほうっておくと何をしでかすか、わかりませぬぞ。早いうちに斬ったほうが、よくありませんか?」
「それはできません。水戸の連中をまとめるには、あの男の威が必要なのです」
「しかし、あの男は危険すぎます……まるで、抜き身の太刀のごときでござる」
「ふふふ。紋多君がそこまで言うとは、よほどのことですな」
「冗談ごとではありません。それに、拙者は、いつもは刃は、鞘におさめております」
「いま、この国を治めてゆく器量のある者は、水戸の烈公を置いてほかにありません。烈公をつなぐ線としても、あの男は、欠かせないのです」
「あの男が、水戸の烈公とつながりが……?」
「下村は、ああ見えても、かつては常陸の芹沢城の城主の血筋。そして、地震でみまかった藤田東湖の教え子であり、神道無念流の免許皆伝……そこらの攘夷志士などとは、ものがちがいます」
「なるほど……あの貫禄は、生来の資質でござるか」
「そうです。学問や剣術は学べますが、威厳は天性のものです。将には器量が必要なのです。いくら僕が必死で修行を積んでも、小さな器はそのままでしょう……もっとも、あの男。酒乱の気があるのが、珠に傷ですが……
その点、紋多君には、全幅の信頼をおいています」
「いえ……この不肖、御子神紋多めは、清河先生のためなら、命をさしだす覚悟でござる」
ここで、このふたりの馴れそめを記さねばなるまい。
御子神紋多は、やくざ者を斬って、故郷を捨てると、たちまち貧窮に陥った。なにしろ取り柄といえば、剣術だけである。御子神が辻強盗に身を落とすのに、さして時間はかからなかった。
その御子神を拾ったのが、名栗の文平という盗賊であった。
名栗の文平は、御子神を気に入り、また御子神も、文平を尊敬した。
この時代、犯罪者とはいえ、彼らには、彼らなりのモラルというものが厳然と存在した。
たとえば、掏模には掏模の矜持があり、剃刀などの刃物を使って、安直に懐を狙う巾着切りなどは、決して仲間とは認めなかった。
それは盗賊も同様で、侵入した家の者に、暴力をふるったり、ましてや、殺したりする強盗は、盗賊仲間から軽蔑された。
これには、盗賊としてのプライドのほかにも、現実的な理由もあった。
同じ盗みをするにしても、押し入った先で、傷害や殺人を犯せば、捜査する捕方の気の入れ方もちがってくるし、だいいち、庶民は誰も味方しないだろう。
しかし、世間の評判の悪い金持ちの家に盗みに入り、誰も傷つけずに、煙りのように消えたとしたら、世間は「ざまあみやがれ」と、思いこそすれ、その盗賊を非難する者は、あまりいない。
名栗の文平は、そうした昔気質の盗賊だったのだ。
御子神は、その名栗の文平に見こまれ、盗賊の技術と心構えを厳しく仕込まれた。
しかし、そうやって、盗賊の一味に身をやつしても、御子神は剣術をあきらめたわけではなかった。
機会をみては、道場にも通ったし、たまには辻斬りをしたり、町で喧嘩を買ったりと、実戦でも鍛えていた。
転機が訪れたのは、名栗の文平の突然の病死であった。
文平が流行り病で亡くなると、小頭の夜嵐の又蔵が二代目を襲名し、三十人からなる一味の頭領になった。
もともと一匹狼の御子神が、一味に属していたのは、あくまでも文平が頭だったからだ。
御子神は、ほかの者の下につく気などは、さらさらなく、一味を抜けて、ひとり働きの盗人になった。
ひとり働きになると、千両単位の仕事などはできず、手に入る金は激減したが、その反面、気楽でもあり、また剣術に費やす時間も増えていった。
御子神は、盗みに入ってまとまった金が入ると、しばらく仕事はせず、剣術道場が多い上州や野州、房州、武州などを、武者修行しながら、気ままにめぐり歩いていた。
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