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25 御子神紋多
しおりを挟む新家の道場は、味噌醤油問屋を改装したものである。
店舗部分と一階のほとんどは、板張りの道場に造り変えられているが、奥の居間や客間、土間などはそのままで、二階部分には、まったく手がつけられていない。
二階にある布団部屋や、女中部屋の三畳間は、食客のための寝床になっており、いちばん広い二階の居間では、その食客のひとり、御家人の前澤慎之助が、肘枕で絵草紙をめくっている。
襖が開いたので、いかにも面倒くさそうに、前澤が目をやると、そこには、御子神紋多が立っていた。
「よお、おぬし……町人の姿などして、いったいなんのつもりだ」
「前澤殿、拙者これから、ちと江戸まで出向いてくる。留守をたのみましたぞ」
「留守はよいが、仕事の話はどうした。退屈で死にそうだ」
あくびをしながら、前澤が言った。
「その仕事の打ち合わせに、ゆくのでござる。拙者が戻れば、早速仕事を手伝っていただこう」
「わかった。まあ、せいぜい急いで行ってきてくれ」
「あまり飯売女などに、うつつを抜かさんように、たのみます」
「ふん、そんな銭があったら、とっくにうつつを抜かしておるわ」
「ふふふ。では、御免」
御子神が去ると、前澤は、もう一度、大きなあくびをした。
まさか、自分が寝転がっている畳の真下に、仇と狙う新八がいると知ったら、前澤も、あくびどころではなかったであろう。
御子神紋多は、大きな荷物を背に、菅笠をかぶり、紺の筒袖の着物の裾を端折り、鼠色のパッチに、手甲脚絆の商人の旅姿で、甲州道中をゆく。
荷物の脇に結びつけられた、細長い菰包みのなかには、大刀がしのばせてある。
甲州道中駒木野関は、男の調べはないが、酒折で青梅道に逸れたのは、やはり、あまりひとに見られたくないからだろう。
御子神は、ひとが見ているときは、いかにも商人らしい足取りで歩んでいたが、青梅道に入り、通行人の姿が見えなくなると、疾風のような速さで走りだした。
当時の日本人は、飛脚や猟師、あるいは武芸者など、走る必要がある者以外は、素早く走ることができなかった。
現在のような走り方は、明治以降に西洋から導入されたものだからだ。
したがって、商人姿の御子神が走る姿を見た者は、一目でただの商人ではないと気付いてしまうだろう。
なにしろ御子神の足は、江戸と上方を、三日で結ぶ速飛脚を凌ぐ速さなので、後ろの心配はない。前方に注意してひた走る。
幸い山道なので、見通しが悪いぶん、あまりひとに見られる心配はなかった。
御子神紋多は、房州夷隅郡の国吉村で生まれた。
生家は水呑みではなく、自分の土地を持った百姓であった。
とはいえ、さほど豊かだったわけではなく、かといって貧しくもない、いたって普通の農家で、先祖は、大和十市の豪族の出身だ……ということが、唯一の矜持であった。
御子神というのは、同じ房州の朝夷郡の地名だが、子を持つ神、もしくは、親子ともどもの神という意味だ。
この御子神の一族で、もっとも有名なのが、朝夷郡で生まれた、神子上典膳、のちの小野次郎衛門忠明である。
忠明は、一刀流の創始者、伊藤一刀斎に学び免許皆伝。小野派一刀流の開祖となり、将軍家の指南役として、二百石で召しかかえられた。
一方、紋多の先祖は、戦国末期に、この地に帰農しており、名字は私称にすぎない。
紋多は幼いころから、父親の多助に「うちの先祖は、れっきとした武士だった」と、きかされて育った。
いまは百姓をしているが、先祖は武士で……などというのは、よくある話だが、紋多は、本気でそれを信じていた。
なぜらば、そうでなければ、己に備わった特異な能力が、納得できなかったからだ。
紋多は、周りの子どもに比べ背が低く、痩せた身体の小さな子どもだった。
しかし、その身体には、恐るべき能力が秘められていた。
紋多が七歳のときである。
ある秋の日、多助が畑を耕していると、裏庭に佇む紋多に眼がとまった。
紋多は、柿の木を見上げていた。秋も深まり、柿の木には、たわわに柿が実り、烏が一羽とまっている。
柿の木は、いつ植えられたのかも定かではない古木で、茅葺きの屋根に覆いかぶさるほど大きかった。
その烏を憎々しげに睨んでいた紋多は、落ちていた棒を拾うと、放たれた矢のごとく、いきなり跳ねあがり、烏の首を薙いだ。
烏が、ぎゃあ、と鳴いた瞬間に、その首が跳ね飛ぶのが見えた。
紋多が手に持つ棒っきれが、一閃、二閃すると、烏の両羽が、千切れて飛んだ。
紋多は、この所業を、空中にいるあいだに、やってのけたのだ。
多助は、腰を抜かしていた。なぜならば、紋多が烏を叩き殺した枝は、優に大人の背丈の倍ほどの高さにあったからだ。
それは、とても子どもの為せる技とは、思えなかった。
紋多は、幼いころから、ひとりで野山を駆け回ってばかりいたが、だからといって、このような、驚異的な身体能力が養われたわけではなく、それは、生来備わったものにちがいない。
多助はこの光景を見て、紋多に剣術を習わせようと考えた。
しかし、いちばん近い剣術道場は、大多喜の城下町にある、久慈佐馬之助の甲源一刀流の道場だった。
大多喜までは、二里もあり、とても七歳の子どもが、通えるような距離ではない。
ところが、多助が話を切りだすと、紋多は喜んで飛びついた。
それから毎日、朝も暗いうちから、大多喜通いがはじまった。
大多喜に向かって夜明けの田舎道を、疾風のような速さで駆け抜ける紋多を見た農夫は、魔物があらわれたと勘違いして、腰を抜かしたそうだ
そして、久慈道場でも、紋多の特異な才能が発揮された。
田舎道場とはいえ、十二歳にして師匠以外は、誰ひとり、紋多にうちこめる者がいなくなってしまったのだ。
久慈は、紋多を跡継ぎに……と、考えていたが、それは、思わぬ事件から、叶わぬ夢となった。
国吉村の名主・川島喜右衛門には、又七という息子がいた。
又七は、子どものころから我が儘放題に育てられ、十五の歳には、すっかりグレて、いっぱしの悪になっていた。
名主の息子ということで、村人たちも、おおっぴらに注意することもできず、又七の悪行は、エスカレートする一方で、やがて、博徒などとも付き合いはじめた。
上総や安房の国は、海が近いこともあり、漁師が多い。
漁師には、荒くれ者が多い上に、日銭が入るので、当然のように賭場が立ち、房州には、博徒が横行していた。
国吉村は、内陸部ではあるが、比較的豊かな村なので、大原に居を構える、白浜の伊佐吉という親分の舎弟で、縄手の辰三という博徒が賭場を開いていた。
又七は、辰三と組んで多助の所有する土地を、狙っていた。
というのも、多助の土地が、名主の川島家の所有する土地に、飛び地のようにくい込んでいるので、常々、邪魔だと思っていたからだ。
又七は、多助に近づいて気安い仲になり、辰三の賭場に誘いこんだ。
それまで、ろくに遊んだこともなく、真面目に百姓をしていた多助は、たちまち博打の泥沼に首までつかった。
博打の玄人である辰三が、素人の多助を手玉にとるのは、じつに容易いことであった。
最初のうちは、三回負けても、次の勝負で大きく勝たせる……などと、辰三のやり方は巧妙で、次第に負けがこむように仕組み、半年もしないうちに多助の借金は、五十両にも達した。
そのころ紋多は、元服を済ませ、久慈道場の内弟子になって、御子神紋多と名乗り、住み込みで修行をしていた。
そんなある日、父親が母を道連れに心中した。という知らせが届いた。
二里の道のりを飛ばして家に帰ると、両親は、すでに冷たくなって居間に横たえられていた。
紋多は、両親の死を悼むよりも、常々、武家の子孫だと言っていた父親が、自刃ではなく、首を吊って死んでいたことに、無性に腹をたてていた。
(――武士ならば、なぜ腹を召さぬ! 親父は、心根が百姓になり下がってしまった……だが、拙者は断じて違う!)
近しい親類も兄弟もいなかったので、葬儀を終えると、紋多は、ひとりぼっちになっていた。
後片付けも済み、紋多が道場に戻ろうと、荷物を整理しているところに、辰三と又七が訪れた。
「おう、ごめんよ。おいら縄手の辰三という者だが、あんたが多助の倅の紋多さんかい?」
縄手の辰三といえば、地元でも聞こえた暴れ者。そして、名主の息子の又七という、ほかの村人なら、腰が退けるふたりに対して、わずか十五歳の紋多は、とくに恐れを抱くこともなかった。
「さようでござる」
「へっ、小僧っ子が、ござるときたぜ」
辰三と又七が、下卑た声で嘲笑した。
「おい、紋多さんよ。てめえの親父は、おいらにたんと借金があってな。ほら、このとおり証文に、金五十両とある」
辰三がそう言うと、その言葉を又七が引きとる。
「いますぐ払え……と、言いたいところだが、どうせ、五十両なんて金はあるまい。この家と畑を譲れば、この借金は、帳消しにしてやろう。わかったら、さっさと沽券状をわたしな」
おとなしく正座してきいていた紋多が、いきなり哄笑した。
「その借金は、博打の負けときいておる。博打といえば、天下の御法度。拙者が払う筋など、毛頭ござらん」
十五歳という年齢よりも、幼く見える紋多が、まるで、大人のような武家の言葉で話すのは、生意気をとおりこして、滑稽で、どこか不気味ですらあった。
「おい、小僧! つべこべぬかしてんじゃねえ、さっさと出さねえと、簀巻きにして、海にほうりこむぞ!!」
又七が凄むと、紋多の口が、にいっと、笑顔のかたちに吊りあがった。
「ふふふ、脅かせば大人しく言うことを、きくとでも思ったか……下郎めが」
「小僧、なめるなっ!!」
又七が目の前に正座していた、紋多の顔面に、拳を叩きこんだ。
と、思った瞬間、太い木の枝が折れるような鈍い音が響き、又七の腕が、あらぬ方向に曲がっていた。
「あ、ああぁぎぃっ!」
又七が悲鳴をあげたが、それは長続きしなかった。
殴りつけた又七の腕を、抱えこむように、素早くへし折った紋多が、人差し指と中指をつきだし親指で固めた、独特の二本拳で、又七の喉仏を、素早く突いたからだ。
又七が、口から血の塊を吐いた。
それは、気管を潰して窒息死させる、必殺の拳だった。
「このクソガキっ!!」
辰三が懐から、素早く短刀を抜いて、紋多の首筋に斬りつける。
紋多は、正座したまま、身体の向きを微妙にかえて、それをかわす。
かわしたときには、紋多の二本拳が、脇腹の急所に入っていた。
「がっ、げふっ」
一瞬、あまりの痛みに辰三は咳こむが、痛みは、その一瞬だけだった。
次の瞬間、紋多が辰三の顎に手をかけ、素早く脛椎をへし折り、乾いた音が鳴った。
おかしな方向に首を曲げた辰三が、崩れ落ちると、紋多は立ちあがり、先祖から伝わった、二尺八寸の長大な刀を腰に差した。
紋多の身長は、五尺に満たないので、身長の半分以上の長さである。
「さて、残った塵も掃除しなければ……」
紋多は、そのまま辰三の一家にのりこむと、留守居をしていた五人の子分を全員斬り殺し、房州から姿を消した。
御子神紋多は、普通の旅人が丸一日かかる、難所である大菩薩峠越えの山道を、一刻もかからず踏破した。
これは、明治初期には失われてしまった早道、早足という特殊な術で、この当時は、術を伝えるものが何人もいた。
京都で矢野守佑という人物が、「神足歩行術」という早足術を教えていた。
その矢野の弟子に、竹川竹斎という御用両替商がいた。
竹斎は、伊勢を拠点に、大阪や江戸にも支店を構え、勝海舟の後援者としても知られる豪商であった。
ある日竹斎は、急用で江戸に至急手紙を届けなければならなくなり、早飛脚をたのむと、飛脚屋は三日かかると言う。
「なんだ……それならば、俺の方が速い」
竹斎は、なんと三日で、伊勢と江戸を往復した。そのとき、ついでに勝海舟の家に寄ったが、あいにくと留守だったと、家族に話したと言われている。
まるで、お伽噺のような話であるが、この早足術というのは、明治まで残っていた。
柔道の創始者・嘉納治五郎は、急速な近代化によって、日本の伝統的な体術が滅ぶことに危機感を抱き、有能な弟子を選んで、古武術を習得させている。
治五郎は、滅びたと思っていたこの術を、いまだに継承している人物がいるときいて、早速、弟子を派遣したが、訪ねあてたときには、残念ながら、すでに亡くなってしまっていたそうだ。
こうして早足術は、わが国から永遠に失われたのである。
その気になれば、紋多も夜までには、江戸にたどり着けたが、約束の刻限は、翌日の夕方なので、早めに宿をとることにした。
青梅道は、酒折から青梅まで宿場はなく、大菩薩峠の先、丹波、小菅、河内(小河内ダムの下に水没)、氷川(現在の奥多摩駅周辺)などの山あいの村落があるばかりであった。
日向和田をすぎ、御子神が青梅宿に、さしかかったときである。
前方から、見覚えのある男が、気忙しく歩いてくるのが目に入った。
「やあ、光岡殿ではないですか。なぜ、このような場所におられるのです?」
男は、光岡又三郎だった。
「あっ、御子神殿……」
光岡は、八郎を振りきったあと、甲府を目指していた。
「これはよいところで出会った。じつは、用心棒をしているところを、恩師のご子息に見られてしまい、仕事を辞退すると告げるため、甲府に向かっておったのだ」
「ふうむ。急な話ですな……ここだと人目につきます。そこな神社で話をしましょう」
御子神は、宿場の外れにある熊野神社の境内に、光岡を誘った。
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