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23 日野宿 佐藤彦五郎
しおりを挟む「八郎さん。あの光岡という浪人とは、どういう知り合いなんですか?」
甲州道中を歩きながら、歳三がきいた。
「光岡又三郎は、練武館の内弟子で、義父もかわいがっていたのですが……
岡場所の女にいれあげて、義父の金に手をつけ、半年ほど前に、逐電してしまったのです」
「金を……そんなやつは、うち捨てておけば、よいのではないですか?」
「誰にでも過ちはあります。老練な遊女の手練手管に、正気を失っただけで、本来は、とても真面目な男なのです。わたしには、ほうっておくことなど、できません」
「それにしても、祐天一家とは、また、厄介なやつらに関わったもんだ……」
ふたりは、東の地蔵を通りすぎ、日野宿に入った。
日野宿は、八王子と府中という、甲州道中きっての大きな宿場にはさまれている。
人口は約千六百人。町並は、九町四間(約一キロ)ほどで、本陣、脇本陣のほか、旅籠は二十軒。家数は四百軒。商店が八十軒。
茶屋はあったが、飯売女(めしもりおんな)、芸者などはいなかった。甲州道中で、四番目の規模の宿場である。
この日野宿の脇本陣の主人が、歳三の義兄で名主・佐藤彦五郎だ。
日野の本陣、脇本陣は、珍しく並んで建っており、ふた棟並んだ長屋門が、異彩を放っていた。
さらに異彩を放つのは、その屋敷である。宿場町の名主の屋敷には異例の瓦屋根で、一見すると、まるで武家屋敷のようだ。
名主は、二軒の佐藤が交代で務め、甲州道中の江戸寄りに建っているのが、下佐藤こと、彦五郎の屋敷だった。屋敷の裏からは、竹刀をうちあう音がきこえてくる。
「ほう……噂どおり、剣術が盛んなようですね」
思わず八郎の頬がほころぶ。
「まだ、普請が終わっていないので、近所の神社や庭で稽古をしていますが、いずれ、この長屋門が、道場になる予定です」
「師範代を務めているのは、名主の彦五郎殿ですか?」
「そうですね。宗家は、月に二度ぐらい、市ヶ谷の試衛館から出稽古にきますが、普段は免許の義兄や、千人同心の井上松五郎が稽古をつけています」
「どれ……それでは、わたしもひとつ、稽古をつけていただくとしましょううか」
「いや、まともに八郎さんと、うちあえる者など、ここに、いるかどうか……」
歳三が八郎を引きあわせると、剣術に執心の彦五郎は、感激の面持ちであった。
なにしろ、江戸でも名流との呼び声の高い、伊庭道場『練武館』の御曹司が、日野くんだりまで、やってきたのだ。喜ぶなというのが無理であろう。
しかし稽古のほうは、歳三の予想どおり、八郎が一方的に稽古をつける様相を呈した。
歳三は、どれだけ自分に情熱があっても、剣によって身を立てられるなどとは思っていない。剣は、生き甲斐であり、あくまでも武士として必要不可欠だから、修行しているのにすぎない。
しかし、八郎の稽古を見ていると、血が騒ぐ気持ちを抑えることは、できなかった。
「八郎さん……つぎは、手前に稽古をつけていただけますか」
「ええ。構いませんよ」
八郎がにっこりと笑った。八郎とうちあっていた千人同心の井上松五郎が、息があがり、汗だくなのに対して、八郎には、一滴の汗すら浮かんでいない。
松五郎は、決して弱い剣客ではない。
いや、むしろ、近藤周助から天然理心流の免許を授かった、どこにだしても恥ずかしくない腕前である。近ごろの腑抜けた武士などは、松五郎の足元にもおもぶまい。
その松五郎ですら、まるで相手になっていなかった。
(天才だという噂だったが、これほどとは……惣次郎とやったら、どちらが勝つか……)
八郎の剣には、無駄なものが一切なかった。必要最小限の動きで、相手の攻撃をかわし、必要最小限の力で、相手を撃つ。
惣次郎の華麗な剣技とは、また異なった凄味があった。
防具をつけると、歳三は久しぶりに、緊張で身体が引き締まるのを感じた。
歳三が八郎と向かいあうと、松五郎をはじめ全員が、一斉にふたりに注目し、固唾を飲んだ。
「では、勝負一本……はじめっ!」
審判を買ってでた彦五郎が、宣言する。
その声が終わるか、終わらぬかのうちに、歳三が鋭く竹刀を突きだした。
ただの突きではない。惣次郎から技を盗んだ、膝を抜くことを推進力にかえた、動きの起こりを捉えにくい突きだ。
八郎は、竹刀を立てながら、歳三と同じように、膝を抜く落下運動を利用して体を開き、なんなくそれをかわす。
かわしたときには、歳三の竹刀を抑えこむような動きと、振りおろす動きを同時に使い、歳三の面を撃った。
歳三は、後ろに倒れこむようにして、かろうじてそれを外す。
ほっとしたのもつかの間、振りおろした竹刀を止めずに、鋭い突きにかえて、八郎は、一歩間合いを詰めた。
八郎の竹刀の先端が、歳三の喉に突き刺さる、瞬間……。
歳三は身体をのけぞらしながら腰を落とし、間一髪で突きをかわしたが、バランスを崩して、不様に尻餅をついた。
しかし八郎は、倒れた歳三に追い打ちをかけず、残心の構えをとって、すっと、一歩下がる。
(――ちっ、読まれたか)
歳三が内心で、舌打ちする。それを見透かしたかのように、彦五郎が顔をしかめた。
尻餅は、歳三の罠だった。八郎が不用意に、追い打ちをかけた瞬間、脛を刈るつもりだったのだ。
彦五郎に促され、ふたりは再び向かいあう。
「はじめっ!」
八郎が竹刀を下段正眼にとると、歳三は、八相につけて、じりじりと間合いを詰める。
不意に歳三が、竹刀を鋭く袈裟懸けに振りおろした。
――と、同時に、右足を滑らせながら、膝と腰を同時に落とし、左右の脚を交差させながら、しゃがむような格好で、八郎の脛に斬りこむ。
柳剛流の脛刈りだった。
(よし! 決まった!)
しかし八郎は、その動きを予想していたかのように、ひょいと足を上げ、歳三の竹刀は空を切る。
同時に八郎の竹刀は、歳三の面を捉えていた。
「一本! それまで!」
彦五郎は、判定をくだすと、歳三に向き直り、非難の声をあびせる。
「おい、トシ……おまえ、脛ばかり狙うなんて、やり方が汚いぞ」
「義兄さん。敵は伊庭の小天狗。オレがまともにやって、歯が立つ相手じゃあ、ないですよ」
「まともにやらなくても、ちっとも歯が立たなかったけどな」
松五郎が言うと、一斉に笑いが起こった。ツボに入ったのか、彦五郎が腹をかかえて笑った。
陽が暮れて、松五郎や門弟たちが帰ると、彦五郎は、八郎に宿泊を勧め、夕食の用意をさせた。歳三も付き合いで残っている。
もっとも、商いの休みに歳三は、ほとんどこの屋敷で生活しているのだが……。
「さあ、八郎殿……下りものではなく、地元多摩郡の中村という蔵元の地酒ですが、これが、なかなか飲ませます。ぜひ一献……」
彦五郎が、牛沼にある中村酒造の銘酒を勧める。
高名な伊庭の御曹司と稽古ができて、彦五郎は上機嫌だった。
八郎は、現在でいうと未成年だが、まるで水のように酒をのむ。
どうやら、のんでも酔わない体質らしい。
「ところで、トシさん……先ほどの柳剛流は、とても真似事とは思えなかったのですが、どこかで習ったのですか?」
八郎が疑問に感じるのは、もっともだった。
柳剛流といえば、フィクションのおかげで、“脛を攻撃する邪道な剣”という印象があるが、決してそんなことはない。
柳剛流は、流祖・岡田惣右衛門が、心形刀流三代目・伊庭軍兵衛直保から心形刀流を習い、三和無敵流、東軍新当流などの技法を加え、創始したものだ。
つまり、その技法の根幹には、心形刀流の技術があったのだ。
「習ったのは、商いで川越に行ったときです……」
歳三がこたえる。
武州川越は、譜代の藩だけに、剣術も盛んだった。なかでも知られているのが、神道無念流の大川平兵衛である。
しかし、大川には、傲岸不遜との評判があり、歳三は、道場を訪ねる気にならなかった。
ほかにも、小野派一刀流、甲源一刀流の道場があったが、歳三がいつも稽古に立ち寄ったのは、町外れの新河岸川に近い場所にある、柳剛流の道場であった。
柳剛流は、武州一帯、現在の埼玉県全域に勢力を誇った流派で、北辰一刀流や神道無念流を凌ぎ、関八州では、道場の数がもっとも多い。
「新河岸川の近く……では、岡田惣右衛門の高弟、小倉縫之介殿の道場ですか」
「八郎さん、よくご存知ですね」
「うちの道場は、門弟が千人以上いるので、入門する以前に、ほかの流派を習ったものが、かなりいます。そのなかには、小倉縫之介殿の弟子もいます」
「なるほど、そういうわけですか」
「そうそう、川越といえば……」
彦五郎が、口をはさんだ。
「三日前の夜に、またしても、例の盗賊があらわれたらしいぞ。生糸問屋の吉見屋が、二百両ごっそり、やられたそうだ」
(――三日前!)
歳三の表情が、たちまち険しくなった。
というのも、一昨日の夜中に、峯吉と陣場道を走る、怪しい集団を見ていたからだ。
深夜に川越で盗みに入り、甲州に戻るには、一晩では時が足りない。おそらく八王子に着く前に、夜が明けてしまうだろう。
盗賊一味は、日中は、川越と八王子の間のどこかに潜み、翌日の夜に移動を再開したとしたら……。
(どうやらオレらが見たのは、やはり例の盗賊らしい。しかし、腑に落ちないのは、甲州に戻るなら、途中の箱根ヶ崎から、青梅道を使うほうが、よっぽど早いはずだが……)
宴は、夜遅くまで続き、知識人の彦五郎は、同じくインテリである八郎の話をききたがったが、四つごろには、すっかり酔いつぶれていた。
彦五郎が寝室にさがり、歳三とふたりきりになると、八郎は杯を置き、膝をすすめた。
思いつめたような、真剣な表情である。
「トシさん……じつは、たのみごとがあるのですが……」
八郎と視線をあわせると、歳三は、一気に杯を干した。
「わかってます……祐天一家の賭場の件ですね」
「荒事は、わたしが引き受けます。だからトシさんには、横山宿の案内を……」
「八郎さん……いくら八郎さんが強くても、祐天一家に、ひとりで押しかけるなんて、無茶がすぎます。嫌だって言っても、オレも行かせてもらいますよ」
八郎は、何か言いかけたが、歳三の真剣な表情を見ると、黙って頭を下げた。
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