20 / 51
19 甲府柳町
しおりを挟む
新八が、強瀬の全福寺で、秀全和尚と会っていたころ……。
山口と前澤は、甲州裏道(青梅街道)との分岐点である、酒折宿を通りすぎたところだった。
甲斐善光寺をすぎると、甲州道中は、甲府城を攻めにくくするため、曲尺手と呼ばれる、鉤の手に曲がりくねった造りになっており、その先で、甲府・柳町宿に入る。
柳町宿は、甲府城下の宿場で、本陣一、脇本陣一、旅籠は二十一軒。町の長さは、四丁四十七間と、あまり大きな規模ではない。
というのも、甲府は城下町なので、繁華街は別にあるため、柳町宿は、あくまでも宿駅として機能していたからだ。
甲府城は、もともと甲府にあった武田家の居城、躑躅ヶ崎館にかわり、家康を牽制する目的で、秀吉が現在の場所に築城した。
その後、徳川が政権を掌握すると、徳川譜代の城主が四代続き、浅井長政に城主がかわり、のち柳沢吉保が転封されると直轄領にされ、城主不在の城となった。
そして、そのかわりに置かれたのが、追手、山ノ手の、二名の勤番支配である。
勤番支配は、諸大夫役。大身旗本から選ばれ、知行三千石に役料千石がつく。
遠国奉行の筆頭で、駿府城代と並ぶ幕臣のエリートコースであった。
一方、その配下の勤番士は、設置当初こそ、武田の遺臣の者が勤めたが、寛政の改革以降、幕府の手に負えない、不良旗本、御家人の左遷先という性格にかわった。いわゆる島流しというやつだ。
甲府勤番を命じられた御家人は、悲嘆に暮れたそうである。
勤番士の役宅は、甲府城二ノ堀郭内に設けられており、郭内には、薬園や、学問所の微典館などがあった。
郭外にあるのが甲府の中心街で、魚町、柳町、緑町などがあり、高札場は、八日町にあった。
山口と前澤は、荷馬が行き交い、旅人や商人でごった返す八日町をすぎ、南側にある緑町に入る。
緑町の中心には、芝居小屋の亀屋座があり、色とりどりの幟がはためき、辻ごとに芝居、見世物、寄席などがならび、大変なにぎわいであった。
「まるで、両国か上野の広小路のようだな……」
思わず山口がつぶやいた。
「甲府勤番島流し……この世の終わりみたいに思っていたが、思いのほか、楽しそうな町じゃないか」
前澤がこたえると、
「ふふふ、じゃあ、おまえやってみるか?」
山口が混ぜかえした。
ふたりは、芝居や見世物には興味がないので、横丁を曲がり、旅籠や料理屋、居酒屋が建ちならぶ裏道に入った。
このあたりの旅籠は、金次第で酌婦が寝る、俗にいう食売旅籠だ。
道ばたでは、女が客に媚びを売り、目付きの悪い男たちが、あちこちで目を光らせている。おそらく地廻りのたぐいだろう。
紅殻格子を冷やかしながら、ぶらぶら歩いていると、まだ早い刻限にも関わらず、客引きがまとわりつくが、山口が怖い顔で一瞥すると、一様に顔をひきつらせて引きさがる。
「――もし。そこのお武家様。よろしかったら、ひとつ、こいつで遊んでいきませんか?」
そんなふたりを恐れるでもなく、やけに腰の低い尻っ端折りの男が、賽子を転がす真似をしながら声をかけた。客引きである。
「ふん、どうやらこの町には、博徒が多いって噂は、本当らしいな」
前澤が楽しそうに言った。
「わざわざ甲府まできて、博打でもあるまい」
山口がぶっきらぼうに言うと、前澤は、
「俺は、いささか懐が寂しい。運試しに、ひと勝負もいいかもしれぬ……おい、おまえらの貸元は誰だ」
「へえ。祐天仙之介でございます」
「祐天……仙之介だと? このあたりは、三井の卯吉の縄張りなんじゃなかったのか」
かつて甲府を訪れたことがある山口が、口をはさんだ。
「三井の親分は、正月に殺られちまいました」
「なるほど……その、祐天仙之介とやらが、殺ったんじゃないだろうな」
山口が皮肉な調子で言う。
「め、滅相もございません。うちの貸元は、仏の仙之介と呼ばれているぐらいでございます」
三下が、しどろもどろにこたえると、前澤が笑った。
「まあいい。どれ、ちょっとひと勝負してみるか」
「俺はゆかぬぞ。博打を打つなら、おまえひとりで打て」
山口の懐には、江戸で奪った五十両のほかに、用心棒で稼いだ二十両近い金があり、博打をする気分には、ならなかった。
「なんだ、付き合いが悪いな。ならば、倉本のところで待っていてくれ」
「わかった……あまり深入りするなよ」
前澤は、洒落た造りの黒板塀の料理屋に案内された。入り口の脇に『まさご』と書かれた軒行灯がしつらえられている。
下足番に刀を預け、前澤がなかに入ると、奥の座敷から鉄火場らしい熱気が伝わってきた。
「ずいぶん流行っているようじゃないか」
「へえ。おかげさまで」
「ふふふ。やっぱり三井の卯吉は、祐天が殺ったんじゃないのか」
前澤が楽しそうに言うと、
「お武家様、勘弁してください……」
なにか文句を言おうにも、相手が凶暴そうな武家なので、三下が、困ったように、頭を掻いた。
甲府には、江戸から島流しにあった悪御家人がたくさんいるので、下手に怒らせて暴れられたら、たまったものではないから、武家には注意しているようだ。
その前に、この男と先ほどの男には、博徒の自分から見ても、ぞっとするような、ただならぬ気配が漂っており、声をかけてしまったことに、今さら後悔していた。
「まあ、そう心配するな。こう見えても俺は、仏の慎之助と呼ばれているんだ」
前澤の下手な冗談に、三下が顔をひきつらせた。
前澤と別れた山口は、二ノ堀郭内の錦町にある、倉本の役宅を訪ねた。
山口の顔を見ると、倉本は、喜色満面の表情を浮かべて出迎えた。
「おお、山口じゃないか。よくきてくれた。久しぶりだなあ……」
「二年ぶりか……おぬし、すっかり太ったな」
江戸で山口や前澤と連れだって悪さをしていたころ、倉本は、深酒と夜遊びで、いつも病人のような青白い顔色に、飢えた野犬のような、荒んだ目付きをしていた。
それが、たった二年会わないうちに、すっかり健康そうな顔色になっていた。
「こんな田舎では、夜遊びもつまらんし、釣りぐらいしかすることがない……
遊びといえば、たまに緑町まで、芝居を見に行くぐらいだからな」
「変われば変わるもんだ……いっしょにきた前澤など、さっさと祐天一家の賭場に行きやがった」
「こんな田舎の遊びなんぞ、俺たち江戸の水で育ったものには、泥臭くていけねえ。じきに飽きるさ……
ところで、おまえ……俺が懐かしくて、わざわざ甲府くんだりまで、きたわけではあるまい」
「さすがに鋭いな。じつは、江戸でひとを斬った。念のため、こっちでしばらく、ほとぼりを冷まそうと思ってな……」
「ふん。おまえは、相変わらずだな……俺は、いっこうにかまわん。どうせ退屈を持て余していたのだ。好きなだけいてくれ」
倉本が、やれやれという顔で言った。
「かたじけない。では、しばらく厄介になるぞ」
「つもる話もあるし……まあ、あがってくれ」
同じころ……。
前澤が三下に案内されたのは、奥の広い座敷であった。
座敷は、十二畳の部屋と、隣部屋との間の襖がとり外されて盆蓙が設けられ、十数人の客が博打に熱中している。
さらに、その隣の八畳の部屋が、休息用の部屋になっており、渡世人ふうの男が茶を一服していた。その脇では、紺の筒袖を着た職人ふうの男が、ごろりと横になり煙草を吹かしている。
前澤は、すぐに博打には参加せず、壁に貼られた出目表を眺めつつ、しばらく勝負の成り行きを見物していた。
どうやら、勝っているのは、お店者ふうの若い男で、その男の前には、うず高く駒札が積まれている。
ほかの連中は、あまりツキがないのか、一様に渋い顔をしていたが、端に座った猫背の小男だけは、にやにやと気味の悪い笑顔を浮かべていた。
小男は、役者のような整った顔立ちに、愛想のよさげな笑顔を浮かべているが、なにやら底知れぬ、不気味な空気を纏っていた。
前澤は、江戸でさんざん悪さをしてきたので、自分と同類の悪いやつは、ひとめ見ただけで、だいたい見当がつく。
(こやつ……何人も斬っていやがるな……)
小男が漂わせているのは、明らかに殺人者だけが持つ、独特の臭気だった。
自分も、何人かのひとを斬ってはいるが、それは、喧嘩の行き掛かりか、あるいは、剣の勝負の上での結果で、殺人そのものが目的ではない。
(だが、こやつは……)
前澤は警戒心から、小男とは、離れた位置に座った。
しかし、小男が気になり、どうにも勝負に集中できず、いまひとつ奮わない。
結局、小半刻あまり勝負したが、一両近く負けて、いったん盆蓙を離れて隣の部屋に移り、煙管をとりだし一服つけた。
前澤が、ふと小男に目を向けると、小男は、ちらりと視線を合わせ、にやりと笑った。
さらに四半刻ほど博打を続けたが、勝負をあきらめて、駒札を精算した。結局、負けを取り戻せず、二分と一朱の損だった。
下足番から刀を受けとり外に出ると、あたりは、すっかり薄暗くなっていたが、あちこちの店から漏れる灯りで、提灯が必要なほどではない。
前澤は、倉本の屋敷がある錦町に向かって、ぶらぶらと歩きだした……が、一町ほど歩いたところで、ぴたりと足を止めた。
「おい貴様。なぜ俺のあとを尾ける……用事があるなら、さっさと言え」
「ふっふふ……貴殿は、ツキがなかったようだな。ずいぶん負けておった」
前澤が、ゆっくりと振り向くと、そこに立っていたのは、あの不気味な小男であった。
小男は、青白い整った顔に、皮肉な笑みを浮かべているが、敵意や殺気は、感じられず、むしろ前澤に、興味を持っているようだ。
「負けていたのは、おぬしも同様だろう……で、要件はなんだ?」
「貴殿は、かなり剣を使うと見た……おそらく、何人もひとを斬っているにちがいない」
「その言葉、そっくり返そう。おぬしからは、血腥い臭いが漂っておるぞ」
「――いい儲け話がある。なに、貴殿ほどの腕を持っていれば、危ないことなどはない。楽に稼げて、ひと仕事で十両になる話だ」
小男は、前澤の言葉にはこたえず、一方的に言った。
「おい、見くびるなよ。いくら落ちぶれても、俺は、関わりのない者を、金で斬ったりはしねえ。俺が斬るのは、気に喰わない野郎だけだ。
――たとえば、おぬしのような」
前澤が凄味のある声でそう言うと、小男は可笑しそうに、くつくつと笑った。
「勘違いするな。ひと斬りならば、拙者の得意とする芸だ。わざわざ、貴殿に話を持ちかけたりなどはせぬ」
「なに……どういうことだ?」
「興味があったら、明日、柳町にある神道無念流の道場に、拙者を訪ねろ」
「おぬしの名前は?」
「房州浪人。御子神紋多」
小男はそう言うと、くるりと背を向け、闇のなかに歩み去った。
まるで、闇からあらわれ、闇に消えるかのような不気味さに、思わず前澤が顔をしかめた。
山口と前澤は、甲州裏道(青梅街道)との分岐点である、酒折宿を通りすぎたところだった。
甲斐善光寺をすぎると、甲州道中は、甲府城を攻めにくくするため、曲尺手と呼ばれる、鉤の手に曲がりくねった造りになっており、その先で、甲府・柳町宿に入る。
柳町宿は、甲府城下の宿場で、本陣一、脇本陣一、旅籠は二十一軒。町の長さは、四丁四十七間と、あまり大きな規模ではない。
というのも、甲府は城下町なので、繁華街は別にあるため、柳町宿は、あくまでも宿駅として機能していたからだ。
甲府城は、もともと甲府にあった武田家の居城、躑躅ヶ崎館にかわり、家康を牽制する目的で、秀吉が現在の場所に築城した。
その後、徳川が政権を掌握すると、徳川譜代の城主が四代続き、浅井長政に城主がかわり、のち柳沢吉保が転封されると直轄領にされ、城主不在の城となった。
そして、そのかわりに置かれたのが、追手、山ノ手の、二名の勤番支配である。
勤番支配は、諸大夫役。大身旗本から選ばれ、知行三千石に役料千石がつく。
遠国奉行の筆頭で、駿府城代と並ぶ幕臣のエリートコースであった。
一方、その配下の勤番士は、設置当初こそ、武田の遺臣の者が勤めたが、寛政の改革以降、幕府の手に負えない、不良旗本、御家人の左遷先という性格にかわった。いわゆる島流しというやつだ。
甲府勤番を命じられた御家人は、悲嘆に暮れたそうである。
勤番士の役宅は、甲府城二ノ堀郭内に設けられており、郭内には、薬園や、学問所の微典館などがあった。
郭外にあるのが甲府の中心街で、魚町、柳町、緑町などがあり、高札場は、八日町にあった。
山口と前澤は、荷馬が行き交い、旅人や商人でごった返す八日町をすぎ、南側にある緑町に入る。
緑町の中心には、芝居小屋の亀屋座があり、色とりどりの幟がはためき、辻ごとに芝居、見世物、寄席などがならび、大変なにぎわいであった。
「まるで、両国か上野の広小路のようだな……」
思わず山口がつぶやいた。
「甲府勤番島流し……この世の終わりみたいに思っていたが、思いのほか、楽しそうな町じゃないか」
前澤がこたえると、
「ふふふ、じゃあ、おまえやってみるか?」
山口が混ぜかえした。
ふたりは、芝居や見世物には興味がないので、横丁を曲がり、旅籠や料理屋、居酒屋が建ちならぶ裏道に入った。
このあたりの旅籠は、金次第で酌婦が寝る、俗にいう食売旅籠だ。
道ばたでは、女が客に媚びを売り、目付きの悪い男たちが、あちこちで目を光らせている。おそらく地廻りのたぐいだろう。
紅殻格子を冷やかしながら、ぶらぶら歩いていると、まだ早い刻限にも関わらず、客引きがまとわりつくが、山口が怖い顔で一瞥すると、一様に顔をひきつらせて引きさがる。
「――もし。そこのお武家様。よろしかったら、ひとつ、こいつで遊んでいきませんか?」
そんなふたりを恐れるでもなく、やけに腰の低い尻っ端折りの男が、賽子を転がす真似をしながら声をかけた。客引きである。
「ふん、どうやらこの町には、博徒が多いって噂は、本当らしいな」
前澤が楽しそうに言った。
「わざわざ甲府まできて、博打でもあるまい」
山口がぶっきらぼうに言うと、前澤は、
「俺は、いささか懐が寂しい。運試しに、ひと勝負もいいかもしれぬ……おい、おまえらの貸元は誰だ」
「へえ。祐天仙之介でございます」
「祐天……仙之介だと? このあたりは、三井の卯吉の縄張りなんじゃなかったのか」
かつて甲府を訪れたことがある山口が、口をはさんだ。
「三井の親分は、正月に殺られちまいました」
「なるほど……その、祐天仙之介とやらが、殺ったんじゃないだろうな」
山口が皮肉な調子で言う。
「め、滅相もございません。うちの貸元は、仏の仙之介と呼ばれているぐらいでございます」
三下が、しどろもどろにこたえると、前澤が笑った。
「まあいい。どれ、ちょっとひと勝負してみるか」
「俺はゆかぬぞ。博打を打つなら、おまえひとりで打て」
山口の懐には、江戸で奪った五十両のほかに、用心棒で稼いだ二十両近い金があり、博打をする気分には、ならなかった。
「なんだ、付き合いが悪いな。ならば、倉本のところで待っていてくれ」
「わかった……あまり深入りするなよ」
前澤は、洒落た造りの黒板塀の料理屋に案内された。入り口の脇に『まさご』と書かれた軒行灯がしつらえられている。
下足番に刀を預け、前澤がなかに入ると、奥の座敷から鉄火場らしい熱気が伝わってきた。
「ずいぶん流行っているようじゃないか」
「へえ。おかげさまで」
「ふふふ。やっぱり三井の卯吉は、祐天が殺ったんじゃないのか」
前澤が楽しそうに言うと、
「お武家様、勘弁してください……」
なにか文句を言おうにも、相手が凶暴そうな武家なので、三下が、困ったように、頭を掻いた。
甲府には、江戸から島流しにあった悪御家人がたくさんいるので、下手に怒らせて暴れられたら、たまったものではないから、武家には注意しているようだ。
その前に、この男と先ほどの男には、博徒の自分から見ても、ぞっとするような、ただならぬ気配が漂っており、声をかけてしまったことに、今さら後悔していた。
「まあ、そう心配するな。こう見えても俺は、仏の慎之助と呼ばれているんだ」
前澤の下手な冗談に、三下が顔をひきつらせた。
前澤と別れた山口は、二ノ堀郭内の錦町にある、倉本の役宅を訪ねた。
山口の顔を見ると、倉本は、喜色満面の表情を浮かべて出迎えた。
「おお、山口じゃないか。よくきてくれた。久しぶりだなあ……」
「二年ぶりか……おぬし、すっかり太ったな」
江戸で山口や前澤と連れだって悪さをしていたころ、倉本は、深酒と夜遊びで、いつも病人のような青白い顔色に、飢えた野犬のような、荒んだ目付きをしていた。
それが、たった二年会わないうちに、すっかり健康そうな顔色になっていた。
「こんな田舎では、夜遊びもつまらんし、釣りぐらいしかすることがない……
遊びといえば、たまに緑町まで、芝居を見に行くぐらいだからな」
「変われば変わるもんだ……いっしょにきた前澤など、さっさと祐天一家の賭場に行きやがった」
「こんな田舎の遊びなんぞ、俺たち江戸の水で育ったものには、泥臭くていけねえ。じきに飽きるさ……
ところで、おまえ……俺が懐かしくて、わざわざ甲府くんだりまで、きたわけではあるまい」
「さすがに鋭いな。じつは、江戸でひとを斬った。念のため、こっちでしばらく、ほとぼりを冷まそうと思ってな……」
「ふん。おまえは、相変わらずだな……俺は、いっこうにかまわん。どうせ退屈を持て余していたのだ。好きなだけいてくれ」
倉本が、やれやれという顔で言った。
「かたじけない。では、しばらく厄介になるぞ」
「つもる話もあるし……まあ、あがってくれ」
同じころ……。
前澤が三下に案内されたのは、奥の広い座敷であった。
座敷は、十二畳の部屋と、隣部屋との間の襖がとり外されて盆蓙が設けられ、十数人の客が博打に熱中している。
さらに、その隣の八畳の部屋が、休息用の部屋になっており、渡世人ふうの男が茶を一服していた。その脇では、紺の筒袖を着た職人ふうの男が、ごろりと横になり煙草を吹かしている。
前澤は、すぐに博打には参加せず、壁に貼られた出目表を眺めつつ、しばらく勝負の成り行きを見物していた。
どうやら、勝っているのは、お店者ふうの若い男で、その男の前には、うず高く駒札が積まれている。
ほかの連中は、あまりツキがないのか、一様に渋い顔をしていたが、端に座った猫背の小男だけは、にやにやと気味の悪い笑顔を浮かべていた。
小男は、役者のような整った顔立ちに、愛想のよさげな笑顔を浮かべているが、なにやら底知れぬ、不気味な空気を纏っていた。
前澤は、江戸でさんざん悪さをしてきたので、自分と同類の悪いやつは、ひとめ見ただけで、だいたい見当がつく。
(こやつ……何人も斬っていやがるな……)
小男が漂わせているのは、明らかに殺人者だけが持つ、独特の臭気だった。
自分も、何人かのひとを斬ってはいるが、それは、喧嘩の行き掛かりか、あるいは、剣の勝負の上での結果で、殺人そのものが目的ではない。
(だが、こやつは……)
前澤は警戒心から、小男とは、離れた位置に座った。
しかし、小男が気になり、どうにも勝負に集中できず、いまひとつ奮わない。
結局、小半刻あまり勝負したが、一両近く負けて、いったん盆蓙を離れて隣の部屋に移り、煙管をとりだし一服つけた。
前澤が、ふと小男に目を向けると、小男は、ちらりと視線を合わせ、にやりと笑った。
さらに四半刻ほど博打を続けたが、勝負をあきらめて、駒札を精算した。結局、負けを取り戻せず、二分と一朱の損だった。
下足番から刀を受けとり外に出ると、あたりは、すっかり薄暗くなっていたが、あちこちの店から漏れる灯りで、提灯が必要なほどではない。
前澤は、倉本の屋敷がある錦町に向かって、ぶらぶらと歩きだした……が、一町ほど歩いたところで、ぴたりと足を止めた。
「おい貴様。なぜ俺のあとを尾ける……用事があるなら、さっさと言え」
「ふっふふ……貴殿は、ツキがなかったようだな。ずいぶん負けておった」
前澤が、ゆっくりと振り向くと、そこに立っていたのは、あの不気味な小男であった。
小男は、青白い整った顔に、皮肉な笑みを浮かべているが、敵意や殺気は、感じられず、むしろ前澤に、興味を持っているようだ。
「負けていたのは、おぬしも同様だろう……で、要件はなんだ?」
「貴殿は、かなり剣を使うと見た……おそらく、何人もひとを斬っているにちがいない」
「その言葉、そっくり返そう。おぬしからは、血腥い臭いが漂っておるぞ」
「――いい儲け話がある。なに、貴殿ほどの腕を持っていれば、危ないことなどはない。楽に稼げて、ひと仕事で十両になる話だ」
小男は、前澤の言葉にはこたえず、一方的に言った。
「おい、見くびるなよ。いくら落ちぶれても、俺は、関わりのない者を、金で斬ったりはしねえ。俺が斬るのは、気に喰わない野郎だけだ。
――たとえば、おぬしのような」
前澤が凄味のある声でそう言うと、小男は可笑しそうに、くつくつと笑った。
「勘違いするな。ひと斬りならば、拙者の得意とする芸だ。わざわざ、貴殿に話を持ちかけたりなどはせぬ」
「なに……どういうことだ?」
「興味があったら、明日、柳町にある神道無念流の道場に、拙者を訪ねろ」
「おぬしの名前は?」
「房州浪人。御子神紋多」
小男はそう言うと、くるりと背を向け、闇のなかに歩み去った。
まるで、闇からあらわれ、闇に消えるかのような不気味さに、思わず前澤が顔をしかめた。
0
お気に入りに追加
21
あなたにおすすめの小説
裏長屋の若殿、限られた自由を満喫する
克全
歴史・時代
貧乏人が肩を寄せ合って暮らす聖天長屋に徳田新之丞と名乗る人品卑しからぬ若侍がいた。月のうち数日しか長屋にいないのだが、いる時には自ら竈で米を炊き七輪で魚を焼く小まめな男だった。


アブナイお殿様-月野家江戸屋敷騒動顛末-(R15版)
三矢由巳
歴史・時代
時は江戸、老中水野忠邦が失脚した頃のこと。
佳穂(かほ)は江戸の望月藩月野家上屋敷の奥方様に仕える中臈。
幼い頃に会った千代という少女に憧れ、奥での一生奉公を望んでいた。
ところが、若殿様が急死し事態は一変、分家から養子に入った慶温(よしはる)こと又四郎に侍ることに。
又四郎はずっと前にも会ったことがあると言うが、佳穂には心当たりがない。
海外の事情や英吉利語を教える又四郎に翻弄されるも、惹かれていく佳穂。
一方、二人の周辺では次々に不可解な事件が起きる。
事件の真相を追うのは又四郎や屋敷の人々、そしてスタンダードプードルのシロ。
果たして、佳穂は又四郎と結ばれるのか。
シロの鼻が真実を追い詰める!
別サイトで発表した作品のR15版です。
【新訳】帝国の海~大日本帝国海軍よ、世界に平和をもたらせ!第一部
山本 双六
歴史・時代
たくさんの人が亡くなった太平洋戦争。では、もし日本が勝てば原爆が落とされず、何万人の人が助かったかもしれないそう思い執筆しました。(一部史実と異なることがあるためご了承ください)初投稿ということで俊也さんの『re:太平洋戦争・大東亜の旭日となれ』を参考にさせて頂きました。
これからどうかよろしくお願い致します!
ちなみに、作品の表紙は、AIで生成しております。

どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
鎌倉最後の日
もず りょう
歴史・時代
かつて源頼朝や北条政子・義時らが多くの血を流して築き上げた武家政権・鎌倉幕府。承久の乱や元寇など幾多の困難を乗り越えてきた幕府も、悪名高き執権北条高時の治政下で頽廃を極めていた。京では後醍醐天皇による倒幕計画が持ち上がり、世に動乱の兆しが見え始める中にあって、北条一門の武将金澤貞将は危機感を募らせていく。ふとしたきっかけで交流を深めることとなった御家人新田義貞らは、貞将にならば鎌倉の未来を託すことができると彼に「決断」を迫るが――。鎌倉幕府の最後を華々しく彩った若き名将の清冽な生きざまを活写する歴史小説、ここに開幕!
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる