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13 横網町 六軒長屋

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 両国橋からほど近い横網町の外れに、軒が傾いた六軒長屋があった。壁の下見板があちこちで剥がれ、内壁の泥が覗いているような古い建物だ。
 長屋と道をはさんだ向かい側には、藤堂和泉守の広大な下屋敷の塀が続き、その脇には、柳の古木が不気味に枝を揺らす空き地がある。
 空き地の向こうには、屋号もついていない薄汚れた居酒屋が、長屋と向かいあうかたちで建っていた。軒先にぶら下がっている、ところどころ破れた提灯だけが、それが居酒屋だという唯一の目印である。

 夜更けにも関わらず、その居酒屋の二階の障子が、細く開けられている。
 部屋には、五人の男たちがいた。
 障子の隙間から、隣の長屋をうかがっているのは、鍋屋の辰二。通称・鍋辰とよばれる岡っ引きであった。
 壁に寄りかかり、尊大な態度でふんぞり返っているのは、寄合席、三千石の大身旗本、本多佐度守である。
「やつは、いつもこんな刻限にかえってくるのか?」
 そう言ったのは、先日、入江町で山口に、顔を踏み潰された本多佐渡守の、取り巻きの男だ。
「へえ。野郎は、二日店に詰めると三日休む……というのを、きちんと繰り返しています。破落戸ごろつき浪人にしては、律儀な野郎なんで、もうすぐ仕事が明けて、かえってくるはずでさ」
「必ず仕止めるのだぞ。上手くいったら、ひとりに十両ずつ、つかわそう」
 本多佐渡守が、憎々しげにつぶやいた。
「しかし鍋辰。よく突き止めたな。見事な働きだ……やつは、佐渡守様に無礼をはたらいた狼藉者。身の程を思い知らせてやらねば、直参旗本の面目が立たん」
 取り巻きの男が、さも義憤にたえない様子で言った。

「ありがとうございます。野郎がいくら武芸者だろうと、あっしら玄人から、逃れることなどは、できやしません」
 男は、両国広小路で山口を見つけると、下手に自分で探ったりはせず、鍋辰に見張りを依頼した。
 辰二のような岡っ引きは、事件の捜査などそっちのけで、奉行所への呼び出しを握り潰す(引き合いを抜くという)かわりに、金品を要求するのが本業のような、腐った岡っ引きである。
 また、大店や、大名、旗本などの屋敷に出入りして、こういったトラブルも飯の種にしていた。
 部屋には、佐渡守と取り巻きの男、鍋辰のほかに、ふたりの無頼浪人がいた。
「先生方……やつがかえってきたら、ひと思いに殺っちまってください。なあに、騒ぎになっても、辰二が、上手く片付けますんで、安心です」
 佐度守の取り巻きが、浪人に声をかけた。
「まかせておけ。多少遣えるからといって、ひけをとる俺たちじゃない。その痩せ浪人の命も、今宵限りだ」
 そのとき、藤堂和泉守の屋敷の塀の前で、商いをしていた屋台の蕎麦屋が、そそくさと店をたたみはじめた。
 この蕎麦屋は、鍋辰の手下の銀次という下っ引きである。
 銀次が店をたたむのが、山口がかえってきた。という、合図だった。

「野郎が、けえってきましたぜ」
「よし、では行くか」
「あっ、ちょいとお待ちを……」
 立ちあがりかけた、ふたりの浪人を、鍋辰があわてて制した。
「どうした?」
「まずいな……野郎に、連れがいます」
「ちっ、しかたねえ……ならば、やつが寝るのを待つまでだ」
「しかし、家んなかには、やつの女もいますぜ」
「なあに、もろとも串刺しにするだけの話だ」
 それから小半刻ほど時間を潰すと、佐渡守を除いた男たちが、静かに外に忍び出た。
 鍋辰は、離れたところから、その様子をうかがう。
 もし騒ぎになった場合、いかにも事件の現場に駆けつけてきたふりを装い、上手く誤魔化すのが、鍋辰の役目だ。
 佐渡守は、部屋から高みの見物である。

 山口は、目を覚ますと、枕元に置いた刀を引き寄せ、鯉口を切った。

(明らかな殺気……ふたり、いや三人か……)

 横では女が、安らかな寝息をたてて眠っている。
 どこかに匿いたいが、その余裕は、なさそうだ。
 山口は、気付くのが遅れた自分を罵った。
 そのとき、いきなり戸が打ち破られ、抜刀したふたりの浪人が飛びこんできた。
 ふたりは、山口がすでに刀を抜いて、待ちうけていたことに、愕然としたが、勢いは止まらない。
 ひとりが、猛然と突きを入れる。
 ――が、山口は、横に転がりながら、難なくそれをかわし、男の脇を斬り裂いた。
「ぐえっ!」
 倒れた男を無視して、もうひとりの浪人が、首を薙ごうと、刀を横に払い、それを、山口が弾き飛ばして火花が散った。
「ひっ!」
 女が低い悲鳴をあげ、庭から逃げようと障子を開けたとたん、
「――きゃっ」
 断末魔の声をあげ、ばたりと倒れ、あたりに血が飛び散る。
 様子をうかがっていた、取り巻きの男が、庭から飛びこみ、女を斬ったのだ。

 浪人は立て続けに、山口に鋭い突きを繰りだすが、ことごとくが、よけられ、弾かれる。
 焦った浪人の振りかぶった刀が柱に当たり、一瞬、攻撃に間ができた。
「やっ!」
 その隙を見逃す山口ではない。浪人は、喉を貫かれ、ごぼごぼと血を巻き散らしながら倒れこんだ。
 取り巻きの男は、形勢不利とみて、あわてて逃げようとしたが、山口は、倒れた浪人の刀を奪うと、その背中に投げつけた。
 首筋を狙った刀は大きく的を外れ、男の腰に刺さり、男が悲鳴をあげながら畳に尻をついた。
「ま、待て、俺は、命令されてやっただけだ……た、助けてくれ」
 山口は、男の顔を見て、命令したやつの見当はついたが、その名前が知りたかった。
「誰の命令だ?」
「ほ、本多佐渡守だ……」
「――で、そいつは、いまどこにいるんだ?」
「向かいの居酒屋の二階から見ているはずだ」
「わかった」
「助けてくれるのか?」
 山口は、息絶えた女を、ちらりと見て、
「おぬし……本気で言ってるのか?」
 無造作に男の胸を突き刺した。

 そこに、入り口から鍋辰が顔をだし、
「先生がた。片付きましたか? 両隣には、捕物だから、顔をだすんじゃねえと脅して……」
 と、早口でまくし立てたところで、山口に気付き、ぎょっと固まった。
「あわわ、わ……」
そして、走りだした瞬間には、山口の投げた刀が、今度はしっかり首筋に突き立っていた。
 即死した鍋辰には一瞥もくれず、もう一度、血塗れで琴切れている女に視線を向けると、山口は、赦せ。と、小さくつぶやいた。
 
 山口は、怒っていた。
 頭の芯が痺れ、血の気がひいて、身体じゅうが震えるような激しい怒りだ。
 その怒りは、この男たちよりも、むざむざ女を死なせてしまった、自分への怒りであった。
 矢場の女と、御家人の息子が結ばれるはずもないし、その前に、この女を、愛していたかどうかも定かではない。
 だが、女が、どれほど荒んだ生活の救いになってくれていたのか、今さらながらに気付き、それに愕然としていた。

(――そして、この女を死なせてしまったのは、俺の油断からだ)

 山口は、居酒屋に向かって走りだした。
 障子の隙間から、外の様子をうかがっていた本多佐渡守は、物音が絶えたのに、浪人が長屋から出てこないことを不審に思った。
 しかし、差し向けたのは、腕利きのふたりである。さらに、取り巻きの男と岡っ引きまでいるのだ。
 万が一にも失敗するとは思えなかった。

 そのとき、長屋のなかの様子をうかがっていた岡っ引きが、あわてて走りだすのが見えた。
 と、思ったら、首筋に刀が刺さり、地面に倒れる。
 襲撃の失敗をさとった佐渡守は、脱兎の勢いで部屋を出ると、階段を駆け降りるが、足がもつれて尻を打ちながら転落した。
 激しい痛みに呻いていると、目の前には、いつの間にか、あの男が立っていた。
「ま、待ってくれ、これは何かの間違いだ……か、金か? 金ならいくらでもだす。いまは、これしかないが、ほら」
 懐から切り餅をふたつ取りだし、山口に突きだす。男たちへの報酬のため用意した五十両だ。

 山口は、冷ややかに笑い、
「そうか。くれるものなら、もらっておこう……」
 小判を奪うと懐に入れた。
「――どうせ、あの世では、使い道がないだろうからな」
「ま、待ってくれ、屋敷にかえれば、もっ」
 佐渡守の言葉は、そこで途絶えた。
 抜く手も見せぬ速さで抜刀し、山口が頸動脈を跳ね斬ったからだ。
 長い吐息をつくと、山口は、刀を指先でくるりと回し、きぃーんと、音をたてて納刀した。
 女の仇は討ったが、胸の奥に、澱のように沈んだ、行き場のない怒りを、山口は、もてあましていた。

 入江町に住む前澤慎之助のもとを、山口が訪ねたのは、もう、夜が明けようかという時刻だった。
 本所の町には、早出の職人や、下総からでてきた物売りなどが、ちらほら歩いている。
 前澤は、朝早くから起こされて、不機嫌な顔をしていた。
「なんだ、こんな朝っぱらから……」
 と、そこまで言って、口をつぐむ。
 山口の身体にまとわりついている、なんとも言いようのない虚無感と、血腥い気配に気付いたからだ。
「五人殺った……誰にも見られてはいないとは思うが、念のため江戸からけるつもりだ。例の男の件、手伝えなくてすまんな」
 山口は、蕎麦屋が下っ引きだったことに気付いていない。
「ちょっと待て、おまえ……五人は、ただ事じゃねえぞ。いったい何があった?」
 山口は、簡潔に経緯いきさつを話した。
「ふうむ、こないだの切見世の酔っぱらいか。まあ、死んだのは自業自得だな……だが、例の男の件なら、どちらにせよ、しばらくは、お預けだ」
「どういうことだ?」
「ふん、昨日、政吉が知らせてきた……あの野郎、欠落して、武者修行の旅にでたそうだ」

 それをきいて、山口がくすりと笑った。
「今どき武者修行だと? それも、わざわざ欠落までして……そいつは、とんだ大馬鹿野郎だな」
「ああ、まったくだ。どうやら俺たちと同じ、はぐれ者のようだ」
「おもしろい……ますますそいつが斬りたくなった」
「そんなことより、おまえ、これからどうするんだ?」
「久しぶりに、安次郎のところにでも、顔を出そうかと思っている」
「ふふふ。安次郎か……あやつも、甲府で退屈を持て余しているだろうからな……」
 安次郎とは、山口たちの遊び仲間で、以前は、よくつるんで、本所あたりを肩で風を切っていた御家人の不良息子、倉本安次郎のことである。
 安次郎は、家督を継いだあとも素行が改まらず、酒と喧嘩が原因で、甲府勤番を申しつけられてしまった。

 甲府勤番は、一種の懲罰人事で、これを言い渡された幕臣は、もはや改易寸前で、あとがなかった。
「とりあえず、一年ぐらい様子を見て、ほとぼりが冷めたら、また江戸に舞い戻るつもりだ」
「ちょっと待て。甲府か。俺もいっしょに行くぞ。安次郎にも久しぶりに会ってみたいしな……」
「ふん。おまえなら、わざわざ行かなくても、そのうち甲府勤番の沙汰が下りそうだがな……」
 山口が鼻で笑う。
「馬鹿野郎。縁起でもねえことを言うな。もっとも俺は次男坊だ。たとえ甲府勤番でも、家督を継げればだが……」
「おい。行くのなら、さっさと支度しろ。もう七つを回ったぞ」
「わかった。ちょっと待っててくれ」
 前澤は、あわてて旅支度をはじめる。あたりは、うっすらと明るくなり、一日が始まろうとしていた。
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