12 / 51
11 神道無念流
しおりを挟む
「あっ……い痛ててっ、――糞っ!」
新八は、思わず井戸を蹴っとばした。ひどい筋肉痛である。釣瓶から水を汲み、身体に浴びせるだけで、ひと苦労だった。
手拭いで身体を拭いていると、後ろから、笑い声が降ってきた。
「はははっ、新八さん。慣れない畑仕事は、剣術よりきついでしょう」
「あ、満次郎さん……わかってたら、蔵六先生に、手加減するように、言ってくれよな」
「なあに、じきに慣れますよ。それに、畑仕事で弱ってくれないと、わたしが一本取りにくくなるしね」
笑ったのは、山本満次郎だ。下原刀(現在の八王子市下恩方)の御用鍛冶の棟梁を務める、増田蔵六の高弟である。
いまは、下原刀で道場を開いているが、月に何度か、蔵六の元で剣を磨いていた。
山本は、こだわりのない快活な性格で、新八とは真っ先に仲良くなった。
新八が、蔵六の道場に居候するようになって、早くも、ふた月がすぎている。
増田道場では、練習のほとんどが型稽古で、試合のように打ちあうのは、切紙以上の弟子だけである。
山本は、その弟子のなかで、五本の指に入る実力で、新八より優れた技量を持っていた。
「それにしても、あの木刀が重いのには、なかなか慣れねえなあ……」
天然理心流では、通常の木刀よりはるかに重い、まるで棍棒のような木刀で型を練る。
それは、一見すると、腕力を鍛えるのが目的のように思えるが、じつは、そうではない。
蔵六の言葉によれば、腕力で振っているうちは下等で、肚《はら》で振れるように、しなければならないのだそうである。
とはいえ、慣れない畑仕事に、慣れない重い木刀を使い、新八の筋肉は、悲鳴をあげていた。
「臍下丹田で振れるようになれば、真剣を持ったときの手の内がちがってきます。新八さん、あと少々の辛抱ですよ」
「俺は、腕ぢからと気合いには、ちったあ自信があったんだが、天狗の鼻は、真っ二つだ……」
「しかし、新八さんが来てくれてよかった……やはり、実力が近いものと練習をせねば、上達は難しいですからね」
もちろん、格下と練習したからといって、進歩がないわけではないが、同格あるいは、格上と稽古するのとでは、その進歩に、格段の差があった。
山本満次郎は、増田道場・四天王と言われるだけあって、技量は突出しており、言い換えると、それは、実力が近い相手が少ない。という、ことである。
そこにあらわれた、撃剣館の免許皆伝の新八は、比較的近い実力を持った貴重な練習相手であった。
新八が満次郎と話していると、若い男がやってきて、
「永倉さん、大先生がお呼びです」
と、ぶっきらぼうに告げた。
「承った……いまゆくと、伝えてください」
「わかりました」
その薄い眉の男は、整った顔立ちだが、不遜な目付きをしていた。新八の返事をきくと、そそくさと道場に戻っていった。
「いまのは?」
「ああ、わたしの道場の門弟で、中島峯吉という男です。まだ入門して間もないのですが、剣才は相当なものです」
「ふうん……」
新八は、峯吉の後ろ姿を見送った。
「なかなか、いい目付きをしていやがった。ありゃあ俺と同類だな……」
「同類とは?」
「ふふん、きかん気のワルってことさ」
新八が、楽しそうに笑う。
「このあたりでは、そういうやつのことを、バラガキといいます」
「バラガキ?」
「そう、棘の垣ように、尖ったガキって意味です」
「はははっ、そいつはいいや。でも、俺は、そんなにちくちくしたりしないぜ」
新八が、母家の居間へゆくと、どうやら客人のようで、蔵六は、五十年配の男と話していた。
客人は、上等な着物を身につけており、このあたりの百姓には見えなかった。
「おお、まいったか……紹介しよう。こちらは、八王子八木宿の名主で、岩田甚助殿だ」
新八が挨拶すると、蔵六が続ける。
「岩田殿は、新八が、神道無念流の岡田門下ということで、訊ねたいことがあるそうじゃ」
蔵六に紹介され、頭を下げ、
「手前は、八木宿名主の岩田甚助と申します。じつは……」
前置きもなしに、さっそく岩田が語りだした。
八王子を中心とした多摩地方には、絹の商売で財をなしたものが多い。
そういった資産家を狙って、この地方に、三年ほど前から、盗賊がたびたび出没していた。
もちろん、お上にも訴えたが、この地方は、天領、旗本領、大名領、寺社領など、支配権が複雑に錯綜していて、効果的な取り締まりができなかった。
こういった夜盗のたぐいや、無宿渡世人、無頼浪人の増加を危ぶんだ幕府は、文化年間より関八州取締出役を設けたが、その人数は、年によって数は変動するが、広大な関八州に、たったの十人足らずしかいなかった。
これでは、いくら各地に道案内(江戸でいう岡っ引。十手持ち)がいるとはいえ、その人数で、治安を維持するなど、できようはずもなく、盗賊の活動は、一向におさまらなかった。
それだけにとどまらず、近ごろでは、徒党を組んだ博徒などの荒くれ者、脱藩して食いつめ、攘夷を口実に暴れる浪人が、数多く流入して、多摩地方の治安は、確実に悪化していた。
ここで、その一例をのべると、これは多摩の話ではないが、格好の例なので記しておく。『海老名市史』によると……。
文化十四年の一年間だけで、矢倉沢往還の海老名宿の周辺の集落にやって来て、無理難題を押しつけ、合力銭を要求した浪人体の悪党者の数が、三百二十四人に達したという記録が残っている。ほとんど毎日、どこかで浪人が恐喝していたことがわかる。
この地域に、剣術が隆盛を極めていたのは、尚武の気風もあるが、そういった背景もあったのである。
「――それが、神道無念流と、どうつながるんです?」
思わず新八がきいた。
「はい。そこでございます。先日、八木宿の生糸問屋・大野屋に、盗賊が押し入りました……」
盗賊が入ったのは、家人が寝静まった、九つを回ったころである。
大野屋では、こうした事態に備え、店主みずから、蔵六に天然理心流を習ったりしていたが、さほど危機感は抱いていなかった。
というのも、大野屋には、遠縁にあたる腕の立つ浪人が、居候していたからだ。
浪人の名は、作田謙之介、北辰一刀流の免許皆伝である。
――その夜。
作田は、尋常ではない気配に目を覚ました。
常人では気がつかない微かな気配だが、剣客の持つ鋭い感覚が、敏感にそれを察知したのだ。
起きあがると、素早くたすきを回して刀を手に取り、店頭に向かった。
そして、店内をうかがうと……。
いつの間にか、店の大戸には、小さな丸い穴が穿たれ、そこから手が差しこまれて、錠が外されるところであった。
どうやら、特殊な道具を使っているようだ。
音もなく扉が開かれ、柿渋色の装束に覆面をつけた、ふたりの男が、素早く店内に滑りこむ。
作田は、ものも言わず、そのふたりを斬り捨て、店の外に飛びだし、
「火事だぁ、火事だぞー」
と、大音声で叫ぶ。
泥棒などと叫んだら、むしろ近所のひと人が、怯えて家から出てこないからだ。
あわてたのは、盗賊たちである。いま、まさに、大野屋に入りこもうとしていたのは六人。
そのうち五人が、後ろも見ずに走り去った。しかし、残ったひとりは、無言で大刀を抜いた。
作田も怯むことなく、その男と対峙する。
作田は正眼に構え、切っ先を男の喉元にピタリと据える。
一方、盗賊の男は、太刀をゆっくりと大上段に構えた。
「やあっ!!」
作田が得意の突きを放った。
それとほとんど同じタイミングで、男の刀が振りおろされる。
作田の突きは、男に紙一重でかわされ、男の覆面を半分に切り裂き、顔があらわになる。
男の頬には、三寸ほどの一直線の赤い線が刻まれ、顎に向けて血がしたたった。
一方、作田は、
「き、貴様は、まさか……」
と、口にしたとたんに崩れおちた。
そこに大野屋から、手に木刀を持った番頭や手代、太刀をかざした主人がとびだしてきた。
近所の家々からも灯りが漏れ、ざわめきが起こる。
男は、刀を手に持ったまま、一目散に走りだした。
さすがに跡を追うものは、誰もいない。
大野屋の主人が、作田のもとに駆けつけ、
「もし、しっかりしてください!――しっかり!」
と、声をかけた。作田は、微かに首を起こし、
「し、神道無念流……」
言い残し、そのまま息を引きとってしまった。
「――なるほど。いまわのきわの言葉が、神道無念流か……やはり、斬ったやつの流儀のことだろうな」
新八がつぶやいた。
「はい。わたくしも、そうではないかと思います」
「しかしよ……神道無念流といっても、江戸の撃剣館、練兵館、それに、うちの道場を合わせたら、門人の数は、軽く二千人は越えるぜ。
それだけじゃねえ。中山道や、奥州、日光街道沿いには、五十近い道場がある。
つまり、それだけじゃあ、下手人を探す手がかりにはならねえ……ってことだ」
新八は、武者修行に先立ち、武州、上州の道場について調べていたので、そのあたりの事情には通じていた。
この当時、剣術道場の数は、黒船来航などによる政情不安によって、増加の一途をたどっていた。
関八州では、柳剛流を筆頭に、神道無念流、北辰一刀流、直心影流などの流派の道場は、おびただしい数にのぼっていた。武蔵国だけでも、その数は軽く百を越える。
「ええ。もちろん存じております……しかし、この多摩郡においては、いささか事情が異なっておりまして……」
「というと?」
「はい。八王子を中心にして、この付近には、甲源一刀流、北辰一刀流、柳剛流、千人同心の大平真鏡流の道場が、それぞれ一軒ずつあるだけで、剣術道場は、ほとんどが、天然理心流なのです」
「へえ、そうだったのか。そいつは知らなかった」
新八が感心する。
「ところが数年前、甲州裏道の青梅宿に、神道無念流の道場が、看板を掲げました」
名主の岩田がこたえた。
「ふうむ。青梅宿に、うちの流儀の道場があるなんて、まったく知らなかった。その道場の師範は誰だい?」
「はい。青梅宿の豪商、甲州屋の娘婿で、松岡新三郎という名前でございます。
撃剣館で修行して、武者修行中に甲州屋に立ち寄り、娘と恋仲になり、甲州屋の主人が後ろ楯となって、道場を開いたとか……」
「ちょっと待て。撃剣館っていったら、俺がいた道場じゃねえか。松岡なんて名前は、聞いたことがないぞ!」
新八は、十年以上撃剣館で修行したが、その名前は記憶になかった。
「松岡は、甲州屋の姓でござりまする。残念ながら婿入りする前の姓は、手前には、わかりかねます……」
「しかし、新三郎という名前にも、きき覚えがねえなあ……もっとも、俺がガキのころの門人なら、それも道理だが」
「もし永倉殿がよろしければ、その松岡道場に出向いて、様子を見てきていただくわけには、いかないでしょうか」
「ふむ……たしかに撃剣館ってのは、きき捨てならねえ。よし、俺が行って、この眼で、たしかめてこようじゃないか」
「まことでございますか。ありがとうございます。――些少ではございますが、これは旅費の足しに……」
名主の岩田が、新八に、紙に包んだ金をわたす。
あっさりと新八が承諾したのは、きき覚えのない、松岡という剣客に、興味をもったからだ。
「ところで、その青梅宿ってのは、どこにあるんだい?」
「えっ?」
新八の台詞に、岩田が茶を噴きそうになり、あわてて飲みこみ咳こんだ。
新八は、思わず井戸を蹴っとばした。ひどい筋肉痛である。釣瓶から水を汲み、身体に浴びせるだけで、ひと苦労だった。
手拭いで身体を拭いていると、後ろから、笑い声が降ってきた。
「はははっ、新八さん。慣れない畑仕事は、剣術よりきついでしょう」
「あ、満次郎さん……わかってたら、蔵六先生に、手加減するように、言ってくれよな」
「なあに、じきに慣れますよ。それに、畑仕事で弱ってくれないと、わたしが一本取りにくくなるしね」
笑ったのは、山本満次郎だ。下原刀(現在の八王子市下恩方)の御用鍛冶の棟梁を務める、増田蔵六の高弟である。
いまは、下原刀で道場を開いているが、月に何度か、蔵六の元で剣を磨いていた。
山本は、こだわりのない快活な性格で、新八とは真っ先に仲良くなった。
新八が、蔵六の道場に居候するようになって、早くも、ふた月がすぎている。
増田道場では、練習のほとんどが型稽古で、試合のように打ちあうのは、切紙以上の弟子だけである。
山本は、その弟子のなかで、五本の指に入る実力で、新八より優れた技量を持っていた。
「それにしても、あの木刀が重いのには、なかなか慣れねえなあ……」
天然理心流では、通常の木刀よりはるかに重い、まるで棍棒のような木刀で型を練る。
それは、一見すると、腕力を鍛えるのが目的のように思えるが、じつは、そうではない。
蔵六の言葉によれば、腕力で振っているうちは下等で、肚《はら》で振れるように、しなければならないのだそうである。
とはいえ、慣れない畑仕事に、慣れない重い木刀を使い、新八の筋肉は、悲鳴をあげていた。
「臍下丹田で振れるようになれば、真剣を持ったときの手の内がちがってきます。新八さん、あと少々の辛抱ですよ」
「俺は、腕ぢからと気合いには、ちったあ自信があったんだが、天狗の鼻は、真っ二つだ……」
「しかし、新八さんが来てくれてよかった……やはり、実力が近いものと練習をせねば、上達は難しいですからね」
もちろん、格下と練習したからといって、進歩がないわけではないが、同格あるいは、格上と稽古するのとでは、その進歩に、格段の差があった。
山本満次郎は、増田道場・四天王と言われるだけあって、技量は突出しており、言い換えると、それは、実力が近い相手が少ない。という、ことである。
そこにあらわれた、撃剣館の免許皆伝の新八は、比較的近い実力を持った貴重な練習相手であった。
新八が満次郎と話していると、若い男がやってきて、
「永倉さん、大先生がお呼びです」
と、ぶっきらぼうに告げた。
「承った……いまゆくと、伝えてください」
「わかりました」
その薄い眉の男は、整った顔立ちだが、不遜な目付きをしていた。新八の返事をきくと、そそくさと道場に戻っていった。
「いまのは?」
「ああ、わたしの道場の門弟で、中島峯吉という男です。まだ入門して間もないのですが、剣才は相当なものです」
「ふうん……」
新八は、峯吉の後ろ姿を見送った。
「なかなか、いい目付きをしていやがった。ありゃあ俺と同類だな……」
「同類とは?」
「ふふん、きかん気のワルってことさ」
新八が、楽しそうに笑う。
「このあたりでは、そういうやつのことを、バラガキといいます」
「バラガキ?」
「そう、棘の垣ように、尖ったガキって意味です」
「はははっ、そいつはいいや。でも、俺は、そんなにちくちくしたりしないぜ」
新八が、母家の居間へゆくと、どうやら客人のようで、蔵六は、五十年配の男と話していた。
客人は、上等な着物を身につけており、このあたりの百姓には見えなかった。
「おお、まいったか……紹介しよう。こちらは、八王子八木宿の名主で、岩田甚助殿だ」
新八が挨拶すると、蔵六が続ける。
「岩田殿は、新八が、神道無念流の岡田門下ということで、訊ねたいことがあるそうじゃ」
蔵六に紹介され、頭を下げ、
「手前は、八木宿名主の岩田甚助と申します。じつは……」
前置きもなしに、さっそく岩田が語りだした。
八王子を中心とした多摩地方には、絹の商売で財をなしたものが多い。
そういった資産家を狙って、この地方に、三年ほど前から、盗賊がたびたび出没していた。
もちろん、お上にも訴えたが、この地方は、天領、旗本領、大名領、寺社領など、支配権が複雑に錯綜していて、効果的な取り締まりができなかった。
こういった夜盗のたぐいや、無宿渡世人、無頼浪人の増加を危ぶんだ幕府は、文化年間より関八州取締出役を設けたが、その人数は、年によって数は変動するが、広大な関八州に、たったの十人足らずしかいなかった。
これでは、いくら各地に道案内(江戸でいう岡っ引。十手持ち)がいるとはいえ、その人数で、治安を維持するなど、できようはずもなく、盗賊の活動は、一向におさまらなかった。
それだけにとどまらず、近ごろでは、徒党を組んだ博徒などの荒くれ者、脱藩して食いつめ、攘夷を口実に暴れる浪人が、数多く流入して、多摩地方の治安は、確実に悪化していた。
ここで、その一例をのべると、これは多摩の話ではないが、格好の例なので記しておく。『海老名市史』によると……。
文化十四年の一年間だけで、矢倉沢往還の海老名宿の周辺の集落にやって来て、無理難題を押しつけ、合力銭を要求した浪人体の悪党者の数が、三百二十四人に達したという記録が残っている。ほとんど毎日、どこかで浪人が恐喝していたことがわかる。
この地域に、剣術が隆盛を極めていたのは、尚武の気風もあるが、そういった背景もあったのである。
「――それが、神道無念流と、どうつながるんです?」
思わず新八がきいた。
「はい。そこでございます。先日、八木宿の生糸問屋・大野屋に、盗賊が押し入りました……」
盗賊が入ったのは、家人が寝静まった、九つを回ったころである。
大野屋では、こうした事態に備え、店主みずから、蔵六に天然理心流を習ったりしていたが、さほど危機感は抱いていなかった。
というのも、大野屋には、遠縁にあたる腕の立つ浪人が、居候していたからだ。
浪人の名は、作田謙之介、北辰一刀流の免許皆伝である。
――その夜。
作田は、尋常ではない気配に目を覚ました。
常人では気がつかない微かな気配だが、剣客の持つ鋭い感覚が、敏感にそれを察知したのだ。
起きあがると、素早くたすきを回して刀を手に取り、店頭に向かった。
そして、店内をうかがうと……。
いつの間にか、店の大戸には、小さな丸い穴が穿たれ、そこから手が差しこまれて、錠が外されるところであった。
どうやら、特殊な道具を使っているようだ。
音もなく扉が開かれ、柿渋色の装束に覆面をつけた、ふたりの男が、素早く店内に滑りこむ。
作田は、ものも言わず、そのふたりを斬り捨て、店の外に飛びだし、
「火事だぁ、火事だぞー」
と、大音声で叫ぶ。
泥棒などと叫んだら、むしろ近所のひと人が、怯えて家から出てこないからだ。
あわてたのは、盗賊たちである。いま、まさに、大野屋に入りこもうとしていたのは六人。
そのうち五人が、後ろも見ずに走り去った。しかし、残ったひとりは、無言で大刀を抜いた。
作田も怯むことなく、その男と対峙する。
作田は正眼に構え、切っ先を男の喉元にピタリと据える。
一方、盗賊の男は、太刀をゆっくりと大上段に構えた。
「やあっ!!」
作田が得意の突きを放った。
それとほとんど同じタイミングで、男の刀が振りおろされる。
作田の突きは、男に紙一重でかわされ、男の覆面を半分に切り裂き、顔があらわになる。
男の頬には、三寸ほどの一直線の赤い線が刻まれ、顎に向けて血がしたたった。
一方、作田は、
「き、貴様は、まさか……」
と、口にしたとたんに崩れおちた。
そこに大野屋から、手に木刀を持った番頭や手代、太刀をかざした主人がとびだしてきた。
近所の家々からも灯りが漏れ、ざわめきが起こる。
男は、刀を手に持ったまま、一目散に走りだした。
さすがに跡を追うものは、誰もいない。
大野屋の主人が、作田のもとに駆けつけ、
「もし、しっかりしてください!――しっかり!」
と、声をかけた。作田は、微かに首を起こし、
「し、神道無念流……」
言い残し、そのまま息を引きとってしまった。
「――なるほど。いまわのきわの言葉が、神道無念流か……やはり、斬ったやつの流儀のことだろうな」
新八がつぶやいた。
「はい。わたくしも、そうではないかと思います」
「しかしよ……神道無念流といっても、江戸の撃剣館、練兵館、それに、うちの道場を合わせたら、門人の数は、軽く二千人は越えるぜ。
それだけじゃねえ。中山道や、奥州、日光街道沿いには、五十近い道場がある。
つまり、それだけじゃあ、下手人を探す手がかりにはならねえ……ってことだ」
新八は、武者修行に先立ち、武州、上州の道場について調べていたので、そのあたりの事情には通じていた。
この当時、剣術道場の数は、黒船来航などによる政情不安によって、増加の一途をたどっていた。
関八州では、柳剛流を筆頭に、神道無念流、北辰一刀流、直心影流などの流派の道場は、おびただしい数にのぼっていた。武蔵国だけでも、その数は軽く百を越える。
「ええ。もちろん存じております……しかし、この多摩郡においては、いささか事情が異なっておりまして……」
「というと?」
「はい。八王子を中心にして、この付近には、甲源一刀流、北辰一刀流、柳剛流、千人同心の大平真鏡流の道場が、それぞれ一軒ずつあるだけで、剣術道場は、ほとんどが、天然理心流なのです」
「へえ、そうだったのか。そいつは知らなかった」
新八が感心する。
「ところが数年前、甲州裏道の青梅宿に、神道無念流の道場が、看板を掲げました」
名主の岩田がこたえた。
「ふうむ。青梅宿に、うちの流儀の道場があるなんて、まったく知らなかった。その道場の師範は誰だい?」
「はい。青梅宿の豪商、甲州屋の娘婿で、松岡新三郎という名前でございます。
撃剣館で修行して、武者修行中に甲州屋に立ち寄り、娘と恋仲になり、甲州屋の主人が後ろ楯となって、道場を開いたとか……」
「ちょっと待て。撃剣館っていったら、俺がいた道場じゃねえか。松岡なんて名前は、聞いたことがないぞ!」
新八は、十年以上撃剣館で修行したが、その名前は記憶になかった。
「松岡は、甲州屋の姓でござりまする。残念ながら婿入りする前の姓は、手前には、わかりかねます……」
「しかし、新三郎という名前にも、きき覚えがねえなあ……もっとも、俺がガキのころの門人なら、それも道理だが」
「もし永倉殿がよろしければ、その松岡道場に出向いて、様子を見てきていただくわけには、いかないでしょうか」
「ふむ……たしかに撃剣館ってのは、きき捨てならねえ。よし、俺が行って、この眼で、たしかめてこようじゃないか」
「まことでございますか。ありがとうございます。――些少ではございますが、これは旅費の足しに……」
名主の岩田が、新八に、紙に包んだ金をわたす。
あっさりと新八が承諾したのは、きき覚えのない、松岡という剣客に、興味をもったからだ。
「ところで、その青梅宿ってのは、どこにあるんだい?」
「えっ?」
新八の台詞に、岩田が茶を噴きそうになり、あわてて飲みこみ咳こんだ。
0
お気に入りに追加
21
あなたにおすすめの小説
真田幸村の女たち
沙羅双樹
歴史・時代
六文銭、十勇士、日本一のつわもの……そうした言葉で有名な真田幸村ですが、幸村には正室の竹林院を始め、側室や娘など、何人もの女性がいて、いつも幸村を陰ながら支えていました。この話では、そうした女性たちにスポットを当てて、語っていきたいと思います。
なお、このお話はカクヨムで連載している「大坂燃ゆ~幸村を支えし女たち~」を大幅に加筆訂正して、読みやすくしたものです。
甘ったれ浅間
秋藤冨美
歴史・時代
幕末の動乱の中、知られざるエピソードがあった
語り継がれることのない新選組隊士の話
https://www.alphapolis.co.jp/novel/852376446/419160220
上記の作品を書き上げてから、こちらの作品を進めたいと考えております。
暫しお待ち下さいませ。
なるべく史実に沿って書こうと考えております。
今回、初めて歴史小説を書くので拙い部分が多々あると思いますが、間違いがあった場合は指摘を頂ければと思います。
お楽しみいただけると幸いです。
調べ直したところ、原田左之助さんが近藤さんと知り合ったのは一八六二年の暮れだそうです!本編ではもう出会っております。すみません
※男主人公です
淡々忠勇
香月しを
歴史・時代
新撰組副長である土方歳三には、斎藤一という部下がいた。
仕事を淡々とこなし、何事も素っ気ない男であるが、実際は土方を尊敬しているし、友情らしきものも感じている。そんな斎藤を、土方もまた信頼し、友情を感じていた。
完結まで、毎日更新いたします!
殺伐としたりほのぼのしたり、怪しげな雰囲気になったりしながら、二人の男が自分の道を歩いていくまでのお話。ほんのりコメディタッチ。
残酷な表現が時々ありますので(お侍さん達の話ですからね)R15をつけさせていただきます。
あッ、二人はあくまでも友情で結ばれておりますよ。友情ね。
★作品の無断転載や引用を禁じます。多言語に変えての転載や引用も許可しません。
新選組の漢達
宵月葵
歴史・時代
オトコマエな新選組の漢たちでお魅せしましょう。
新選組好きさんに贈る、一話完結の短篇集。
別途連載中のジャンル混合型長編小説『碧恋の詠―貴方さえ護れるのなら、許されなくても浅はかに。』から、
歴史小説の要素のみを幾つか抽出したスピンオフ的短篇小説です。もちろん、本編をお読みいただいている必要はありません。
恋愛等の他要素は無くていいから新選組の歴史小説が読みたい、そんな方向けに書き直した短篇集です。
(ちなみに、一話完結ですが流れは作ってあります)
楽しんでいただけますように。
★ 本小説では…のかわりに・を好んで使用しております ―もその場に応じ個数を変えて並べてます
永き夜の遠の睡りの皆目醒め
七瀬京
歴史・時代
近藤勇の『首』が消えた……。
新撰組の局長として名を馳せた近藤勇は板橋で罪人として処刑されてから、その首を晒された。
しかし、その首が、ある日忽然と消えたのだった……。
近藤の『首』を巡り、過去と栄光と男たちの愛憎が交錯する。
首はどこにあるのか。
そして激動の時代、男たちはどこへ向かうのか……。
※男性同士の恋愛表現がありますので苦手な方はご注意下さい
かくまい重蔵 《第1巻》
麦畑 錬
歴史・時代
時は江戸。
寺社奉行の下っ端同心・勝之進(かつのしん)は、町方同心の死体を発見したのをきっかけに、同心の娘・お鈴(りん)と、その一族から仇の濡れ衣を着せられる。
命の危機となった勝之進が頼ったのは、人をかくまう『かくまい稼業』を生業とする御家人・重蔵(じゅうぞう)である。
ところがこの重蔵という男、腕はめっぽう立つが、外に出ることを異常に恐れる奇妙な一面のある男だった。
事件の謎を追うにつれ、明らかになる重蔵の過去と、ふたりの前に立ちはだかる浪人・頭次(とうじ)との忌まわしき確執が明らかになる。
やがて、ひとつの事件をきっかけに、重蔵を取り巻く人々の秘密が繋がってゆくのだった。
強くも弱い侍が織りなす長編江戸活劇。
幕末レクイエム―誠心誠意、咲きて散れ―
馳月基矢
歴史・時代
幕末、動乱の京都の治安維持を担った新撰組。
華やかな活躍の時間は、決して長くなかった。
武士の世の終わりは刻々と迫る。
それでもなお刀を手にし続ける。
これは滅びの武士の生き様。
誠心誠意、ただまっすぐに。
結核を病み、あやかしの力を借りる天才剣士、沖田総司。
あやかし狩りの力を持ち、目的を秘めるスパイ、斎藤一。
同い年に生まれた二人の、別々の道。
仇花よ、あでやかに咲き、潔く散れ。
schedule
公開:2019.4.1
連載:2019.4.7-4.18 ( 6:30 & 18:30 )
降りしきる桜雨は、緋(あけ)の色
冴月希衣@商業BL販売中
歴史・時代
【原田左之助 異聞録】
時は幕末。ところは、江戸。掛川藩の中屋敷で中間(ちゅうげん)として働く十蔵(じゅうぞう)は、務めの傍ら、剣の稽古に励む日々を送っている。
「大切な者を護りたい。護れる者に、なりたい。今まで誰ひとりとして護れたことがない自分だからこそ、その為の“力”が欲しい!」
たったひとり残った家族、異母弟の宗次郎のため、鍛錬を続ける十蔵。その十蔵の前に、同じ後悔を持つ、ひとりの剣士が現れた。
息づく一挙一動に、鮮血の緋色を纏わせた男――。
◆本文、画像の無断転載禁止◆
No reproduction or republication without written permission.
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる