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11 神道無念流

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「あっ……い痛ててっ、――糞っ!」
 新八は、思わず井戸を蹴っとばした。ひどい筋肉痛である。釣瓶から水を汲み、身体に浴びせるだけで、ひと苦労だった。
 手拭いで身体を拭いていると、後ろから、笑い声が降ってきた。
「はははっ、新八さん。慣れない畑仕事は、剣術よりきついでしょう」
「あ、満次郎さん……わかってたら、蔵六先生に、手加減するように、言ってくれよな」
「なあに、じきに慣れますよ。それに、畑仕事で弱ってくれないと、わたしが一本取りにくくなるしね」
 笑ったのは、山本満次郎だ。下原刀(現在の八王子市下恩方)の御用鍛冶の棟梁を務める、増田蔵六の高弟である。
 いまは、下原刀で道場を開いているが、月に何度か、蔵六の元で剣を磨いていた。
 山本は、こだわりのない快活な性格で、新八とは真っ先に仲良くなった。

 新八が、蔵六の道場に居候するようになって、早くも、ふた月がすぎている。
 増田道場では、練習のほとんどが型稽古で、試合のように打ちあうのは、切紙以上の弟子だけである。
 山本は、その弟子のなかで、五本の指に入る実力で、新八より優れた技量を持っていた。
「それにしても、あの木刀が重いのには、なかなか慣れねえなあ……」
 天然理心流では、通常の木刀よりはるかに重い、まるで棍棒のような木刀で型を練る。
 それは、一見すると、腕力を鍛えるのが目的のように思えるが、じつは、そうではない。
 蔵六の言葉によれば、腕力で振っているうちは下等で、肚《はら》で振れるように、しなければならないのだそうである。

 とはいえ、慣れない畑仕事に、慣れない重い木刀を使い、新八の筋肉は、悲鳴をあげていた。
「臍下丹田で振れるようになれば、真剣を持ったときの手の内がちがってきます。新八さん、あと少々の辛抱ですよ」
「俺は、かいなぢからと気合いには、ちったあ自信があったんだが、天狗の鼻は、真っ二つだ……」
「しかし、新八さんが来てくれてよかった……やはり、実力が近いものと練習をせねば、上達は難しいですからね」

 もちろん、格下と練習したからといって、進歩がないわけではないが、同格あるいは、格上と稽古するのとでは、その進歩に、格段の差があった。
 山本満次郎は、増田道場・四天王と言われるだけあって、技量は突出しており、言い換えると、それは、実力が近い相手が少ない。という、ことである。
 そこにあらわれた、撃剣館の免許皆伝の新八は、比較的近い実力を持った貴重な練習相手であった。
 
 新八が満次郎と話していると、若い男がやってきて、
「永倉さん、大先生がお呼びです」
 と、ぶっきらぼうに告げた。
「承った……いまゆくと、伝えてください」
「わかりました」
 その薄い眉の男は、整った顔立ちだが、不遜な目付きをしていた。新八の返事をきくと、そそくさと道場に戻っていった。
「いまのは?」
「ああ、わたしの道場の門弟で、中島峯吉という男です。まだ入門して間もないのですが、剣才は相当なものです」
「ふうん……」
 新八は、峯吉の後ろ姿を見送った。
「なかなか、いい目付きをしていやがった。ありゃあ俺と同類だな……」
「同類とは?」
「ふふん、きかん気のワルってことさ」
 新八が、楽しそうに笑う。
「このあたりでは、そういうやつのことを、バラガキといいます」
「バラガキ?」
「そう、いばらの垣ように、とんがったガキって意味です」
「はははっ、そいつはいいや。でも、俺は、そんなにしたりしないぜ」

 新八が、母家の居間へゆくと、どうやら客人のようで、蔵六は、五十年配の男と話していた。
 客人は、上等な着物を身につけており、このあたりの百姓には見えなかった。
「おお、まいったか……紹介しよう。こちらは、八王子八木宿の名主で、岩田甚助殿だ」
 新八が挨拶すると、蔵六が続ける。
「岩田殿は、新八が、神道無念流の岡田門下ということで、訊ねたいことがあるそうじゃ」
 蔵六に紹介され、頭を下げ、
「手前は、八木宿名主の岩田甚助と申します。じつは……」
 前置きもなしに、さっそく岩田が語りだした。

 八王子を中心とした多摩地方には、絹の商売で財をなしたものが多い。
 そういった資産家を狙って、この地方に、三年ほど前から、盗賊がたびたび出没していた。
 もちろん、お上にも訴えたが、この地方は、天領、旗本領、大名領、寺社領など、支配権が複雑に錯綜していて、効果的な取り締まりができなかった。
 こういった夜盗のたぐいや、無宿渡世人、無頼浪人の増加を危ぶんだ幕府は、文化年間より関八州取締出役を設けたが、その人数は、年によって数は変動するが、広大な関八州に、たったの十人足らずしかいなかった。
 これでは、いくら各地に道案内(江戸でいう岡っ引。十手持ち)がいるとはいえ、その人数で、治安を維持するなど、できようはずもなく、盗賊の活動は、一向におさまらなかった。

 それだけにとどまらず、近ごろでは、徒党を組んだ博徒などの荒くれ者、脱藩して食いつめ、攘夷を口実に暴れる浪人が、数多く流入して、多摩地方の治安は、確実に悪化していた。
 ここで、その一例をのべると、これは多摩の話ではないが、格好の例なので記しておく。『海老名市史』によると……。
 文化十四年の一年間だけで、矢倉沢往還の海老名宿の周辺の集落にやって来て、無理難題を押しつけ、合力銭を要求した浪人体の悪党者の数が、三百二十四人に達したという記録が残っている。ほとんど毎日、どこかで浪人が恐喝していたことがわかる。

 この地域に、剣術が隆盛を極めていたのは、尚武の気風もあるが、そういった背景もあったのである。
「――それが、神道無念流と、どうつながるんです?」
 思わず新八がきいた。
「はい。そこでございます。先日、八木宿の生糸問屋・大野屋に、盗賊が押し入りました……」

 盗賊が入ったのは、家人が寝静まった、九つを回ったころである。
 大野屋では、こうした事態に備え、店主みずから、蔵六に天然理心流を習ったりしていたが、さほど危機感は抱いていなかった。
 というのも、大野屋には、遠縁にあたる腕の立つ浪人が、居候していたからだ。
 浪人の名は、作田謙之介、北辰一刀流の免許皆伝である。

――その夜。
 作田は、尋常ではない気配に目を覚ました。
 常人では気がつかない微かな気配だが、剣客の持つ鋭い感覚が、敏感にそれを察知したのだ。
 起きあがると、素早くたすきを回して刀を手に取り、店頭に向かった。
 そして、店内をうかがうと……。

 いつの間にか、店の大戸には、小さな丸い穴が穿たれ、そこから手が差しこまれて、錠が外されるところであった。
 どうやら、特殊な道具を使っているようだ。
 音もなく扉が開かれ、柿渋色の装束に覆面をつけた、ふたりの男が、素早く店内に滑りこむ。
 作田は、ものも言わず、そのふたりを斬り捨て、店の外に飛びだし、
「火事だぁ、火事だぞー」
 と、大音声で叫ぶ。
 泥棒などと叫んだら、むしろ近所のひと人が、怯えて家から出てこないからだ。
 あわてたのは、盗賊たちである。いま、まさに、大野屋に入りこもうとしていたのは六人。

 そのうち五人が、後ろも見ずに走り去った。しかし、残ったひとりは、無言で大刀を抜いた。
 作田も怯むことなく、その男と対峙する。
 作田は正眼に構え、切っ先を男の喉元にピタリと据える。
 一方、盗賊の男は、太刀をゆっくりと大上段に構えた。
「やあっ!!」
 作田が得意の突きを放った。
 それとほとんど同じタイミングで、男の刀が振りおろされる。
 作田の突きは、男に紙一重でかわされ、男の覆面を半分に切り裂き、顔があらわになる。
 男の頬には、三寸ほどの一直線の赤い線が刻まれ、顎に向けて血がしたたった。

一方、作田は、
「き、貴様は、まさか……」
 と、口にしたとたんに崩れおちた。
 そこに大野屋から、手に木刀を持った番頭や手代、太刀をかざした主人がとびだしてきた。
 近所の家々からも灯りが漏れ、ざわめきが起こる。
 男は、刀を手に持ったまま、一目散に走りだした。
 さすがに跡を追うものは、誰もいない。

 大野屋の主人が、作田のもとに駆けつけ、
「もし、しっかりしてください!――しっかり!」
 と、声をかけた。作田は、微かに首を起こし、
「し、神道無念流……」
 言い残し、そのまま息を引きとってしまった。

「――なるほど。いまわのきわの言葉が、神道無念流か……やはり、斬ったやつの流儀のことだろうな」
 新八がつぶやいた。
「はい。わたくしも、そうではないかと思います」
「しかしよ……神道無念流といっても、江戸の撃剣館、練兵館、それに、うちの道場を合わせたら、門人の数は、軽く二千人は越えるぜ。
それだけじゃねえ。中山道や、奥州、日光街道沿いには、五十近い道場がある。
つまり、それだけじゃあ、下手人を探す手がかりにはならねえ……ってことだ」
 新八は、武者修行に先立ち、武州、上州の道場について調べていたので、そのあたりの事情には通じていた。

 この当時、剣術道場の数は、黒船来航などによる政情不安によって、増加の一途をたどっていた。
 関八州では、柳剛流を筆頭に、神道無念流、北辰一刀流、直心影流などの流派の道場は、おびただしい数にのぼっていた。武蔵国だけでも、その数は軽く百を越える。
「ええ。もちろん存じております……しかし、この多摩郡においては、いささか事情が異なっておりまして……」
「というと?」
「はい。八王子を中心にして、この付近には、甲源一刀流、北辰一刀流、柳剛流、千人同心の大平真鏡流の道場が、それぞれ一軒ずつあるだけで、剣術道場は、ほとんどが、天然理心流なのです」
「へえ、そうだったのか。そいつは知らなかった」
 新八が感心する。
「ところが数年前、甲州裏道の青梅宿に、神道無念流の道場が、看板を掲げました」
 名主の岩田がこたえた。
「ふうむ。青梅宿に、うちの流儀の道場があるなんて、まったく知らなかった。その道場の師範は誰だい?」
「はい。青梅宿の豪商、甲州屋の娘婿で、松岡新三郎という名前でございます。
撃剣館で修行して、武者修行中に甲州屋に立ち寄り、娘と恋仲になり、甲州屋の主人が後ろ楯となって、道場を開いたとか……」
「ちょっと待て。撃剣館っていったら、俺がいた道場じゃねえか。松岡なんて名前は、聞いたことがないぞ!」

 新八は、十年以上撃剣館で修行したが、その名前は記憶になかった。
「松岡は、甲州屋の姓でござりまする。残念ながら婿入りする前の姓は、手前には、わかりかねます……」
「しかし、新三郎という名前にも、きき覚えがねえなあ……もっとも、俺がガキのころの門人なら、それも道理だが」
「もし永倉殿がよろしければ、その松岡道場に出向いて、様子を見てきていただくわけには、いかないでしょうか」
「ふむ……たしかに撃剣館ってのは、きき捨てならねえ。よし、俺が行って、この眼で、たしかめてこようじゃないか」
「まことでございますか。ありがとうございます。――些少ではございますが、これは旅費の足しに……」
 名主の岩田が、新八に、紙に包んだ金をわたす。

 あっさりと新八が承諾したのは、きき覚えのない、松岡という剣客に、興味をもったからだ。
「ところで、その青梅宿ってのは、どこにあるんだい?」
「えっ?」
 新八の台詞に、岩田が茶を噴きそうになり、あわてて飲みこみ咳こんだ。
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