上 下
11 / 51

10 千人同心 増田蔵六

しおりを挟む
 新八が八王子横山宿に着いたのは、まだ朝の五つを回ったばかりの時刻であるが、驚いたことに、町はすでに喧騒にみちていた。
 八王子は、かつては北条氏の居城、八王子城の城下町として栄えたが、天正年間に、北条氏の滅亡とともに、いったん寂れてしまう。
 しかし場所を移し、徳川幕府が制定した五街道のひとつ、甲州道中の宿場町として、再び繁栄を取り戻していた。

 甲州道中沿いに、約一里、十五宿も続く繁華な宿場で、横山に本陣一、脇本陣二、八日市に脇本陣二(のち一軒焼失)、この時代、人口は約六千人あまり。これは、東海道の大きな宿場に匹敵する規模である。
 東海道や中仙道などのような、日本の動脈ならばいざ知らず、高尾山のふもとにある、いたって地味な立地に不相応なこの繁栄には、大きな理由があった。
 八王子を貫く甲州道中は、参勤交代に利用する大名家こそ三家と少なかったが、さまざまな街道が交差しており、甲斐と江戸を、そして、相模と武蔵、上野を結ぶ、物産の重要な中継地だったのだ。

 なかでも絹の取引が盛んに行われ、早朝から縞市と呼ばれる市がたち、街道沿いには、何軒もの大店が軒をつらねていた。
 通りには、荷馬や旅人、近隣から集まった農民、商いをする人びとが、せわしなく行きかっている。

 八日市、八幡、八木とすすみ、追分までやって来ると、新八は歩みを止めて道標を見た。
そこには『左・甲州道高尾道。右・あんげ(案下)道』とある。
 千人同心は、この追分付近に居を構え、そのあたりは千人町とよばれ、千人同心の屋敷が連なっている。左手には、敷地が五千百坪もある旗本格の千人頭・萩原頼母の拝領屋敷の長屋門がそびえていた。
 新八は、高尾道をゆき、馬場横丁の手前まで来ると、府中で書いてもらった地図を取りだした。
 家並みは続いているが、このあたりは、横山宿とはちがい、さすがに繁華ではなく、田舎じみた景色である。城下町でもないのに、広大な敷地の武家屋敷が並んでいることが、異彩を放っていた。

 ほどなくして新八は、風雅な腕木門を構えた茅葺きの建物の前で立ち止まった。地図によると、ここが増田蔵六の屋敷のはずだ。
 門の横には、道に沿って道場のような建物があるが、ひとの気配はなく静まりかえっていた。
 しかし、同心というからには、江戸にある、同心の組屋敷のようなものを想像していたのに、右手奥に見えるその家は、どう見ても、百姓の屋敷にしか見えなかった。
 念のため地図を見ても、この場所にまちがいはない。そこで、板塀越しになかを覗くが、屋敷にもひとがいる気配はなかった。

 板塀で囲われた敷地のなかには、茅葺きの家が建っているが、その周囲には畑がひろがっている。
 あたりを見回すと、その畑で、しきりに土を起こしている老人がいたので、声をかけた。
「もし、ご老人……ちと、ものを尋ねるが、千人同心の増田蔵六殿の屋敷は、こちらでよろしいのだろうか?」
 老人は、ゆっくりと振り向き、
「はあ……そうじゃが、それがなにか?」
 と、言った。
 老人は、継ぎのあたった、みすぼらしい野良着の裾を端折り、ねずみ色の股引きを穿いた、見るからに田舎臭い風体である。
「もし増田蔵六殿を、ご存知なら、取りついでいたたけませんか」
「いや、その必要はない」
「どういうことですか?」
「わしが、その増田蔵六じゃ」

 新八は、がらんとした、だだっ広い板敷きの道場に通された。
 正面には、神棚があり、壁に木刀や槍、棍棒などが並べられ、門弟の名札がかかっているだけで、いたって質素な佇まいだ。
 蔵六は、府中の茂平からの添え状に目を通し、
「ふん、あの爺い……まだ生きておったか」
 と、つぶやいた。
「茂平さんとは、どういう付き合いなんですか?」
「ふふっ。なあに、今からもう三十年以上も前に、剣勝負をした間柄さ」
「真剣勝負……」
 思わず新八が口にだした。
「さよう。あのころは、お互いに若かった」
「で、その勝負は……」
 蔵六は、にやりと笑うと、着物をはだけて、上半身を見せる。
 そこには、肩から胸にかけて、一直線に白い傷痕があった。
「茂平にも、似たような傷痕が残っているはずじゃ。まあ、若気のいたり……って、やつじゃな」
「どおりで、あの爺さん、ただ者ではないと思ったぜ……」
「ところで、おぬし、武者修行の旅だとか。流儀は神道無念流……岡田十松の門弟か?」
「はい。先代に入門し、当代に皆伝を許されました」
「ふふん。先代の教え子か。――どれ、新八とやら。早速たちあおうか」

 これには、新八もいささか驚いた。道場主ならば普通は、もっと警戒するか、もったいつけるものだと思っていたからだ。
 蔵六は、立ちあがると、防具をつけるのは面倒じゃ、と、つぶやきながら、壁にかかっていた朱色の袋竹刀を、新八にわたした。
 袋竹刀は、新陰流が使用する竹刀で、一般的な竹刀とは、大きくちがっている。
 戦国末から江戸初期にかけて、多くの剣術流派が勃興した。
 その当時は、稽古や試合でも真剣や木刀を使っていたので、怪我人はもとより、多数の死人がでた。
 そこで、新陰流の柳生家が、発明したのが袋竹刀である。
 袋竹刀は、ささらに割った竹を、馬の革で包み、それに漆を塗ったもので、昨今使われている竹刀よりも、はるかに柔らかい。
 だから、面籠手などの防具をつけなくても、痛い思いをするだけで、大怪我をすることはなかった。
 余談だが、柳生新陰流という流派は存在しない。正しい流派名は、である。新陰流の宗家が柳生家ということから、混同されてひろがったのだろう。

 蔵六は、下段晴眼。新八は正眼に構えて対峙する。
「いざ……」
 その瞬間、新八に戦慄が走った。
 そこに立っていたのは、先ほどまでの田舎臭い老人ではなく、紛れもない武人そのものだったからだ。
 蔵六の身体からは、ゆらゆらと炎のように、剣気が吹きあがる。その圧倒的な闘気に、新八の肌が粟立った。

(こいつは、まさに真剣勝負だぜ……)

 蔵六の手にあるのは、たとえ急所を、したたかに打たれても、怪我ひとつせぬ袋竹刀にすぎない。
 しかし、新八には蔵六の竹刀が、真剣と同じ圧力を持って迫っていた。いままで一度も味わったことのない重圧感に、早くも額に汗が伝わる。
 ふたりはまだ、攻防の間合いには、入っていない。
 それなのに、どうしても身体がひけてしまうことに、新八は戸惑っていた。
 三味線堀で、はじめて真剣でをしたときも、これほどの重圧は感じなかったからだ。 

(いかん、完全に呑まれている……)

 新八は、正眼に構えた竹刀を、ゆっくりと振りあげ、大上段にとって、気合いを入れた。
「やっ!」
 すると、それまで圧され気味だった気持ちが、みるみる平常心を取り戻した。
「――ほう」
 蔵六が感嘆の声をあげる。
「気を跳ね返しよったか……どうやら、ひとりやふたりは、斬ったことがあるようじゃな」
 蔵六が、じわじわと間合いを詰める。

 新八は、臍下丹田に気を下ろし、蔵六の起こりを捉えようと集中力を高めた。
「ゆくぞ!」
 蔵六がそう言ったとたん、暴風のような殺気が、新八を襲った。
 比喩ではなく実際に、暴風が、身体に叩きつけられたように感じた新八は、
「やあっ!!」
 思わず反射的に、竹刀を振りおろす。
 そのタイミングに合わせて、蔵六が下段の竹刀を振りあげると、新八の竹刀が跳ねあげられ、軌道を外された。

(――しまった!)

 と、思った瞬間、新八の竹刀は飛ばされ、蔵六の竹刀が、新八の肩先を打っていた。
「どうやら勝負あり、じゃな」
 蔵六が楽しそうに笑った。
「いまのは……」
「天然理心流、龍尾剣」
「参りました。完敗です」
「なあに、新八さん。その若さで、そこまで使えたら、なかなかのもんじゃ」

 試合を終えて、ふたりが道場の奥の、八畳の座敷で向かい合って茶を飲んでいると、ひとりふたりと、門弟たちが集まりはじめた。
「ずいぶん稽古がはじまるのが遅いのですね」
「わしの門人には、武士もおるが、千人同心や百姓が多い。稽古に来るのは、畑仕事がひと段落してからじゃ」
「なるほど……ところで、天然理心流には、剣術のほかに、柔術や棒術もあると耳にしましたが……」
「さよう……その三術ができぬものには、指南免許は与えられぬ。先代はもうひとつ、気合術も得意であったが、それを誰にも伝えないうちに、世を去ってしもうた」
「気合術……それは、いったい、どのような術なのですか?」
「口で言ってもわかるまい。どれ、わしも初歩だけは、かじったので、ひとつ披露しよう」

 蔵六は、立ちあがると、道場から出てゆく。新八が、あわててあとを追った。
 蔵六の屋敷がある、窪田岩之丞組の組屋敷の敷地は、四千坪近い広さがあり、道場の裏手には、のどかな田園風景が広がっている。
 庭の片隅で、大きな柿の木が枝をひろげ、その枝には、一羽のメジロがとまっていた。
「あの鳥を、よく見ておれ」
 蔵六は、そう言うと、
「えいっ!!」
 鳥をゆび差し、鋭く気合い声をかけた。
 すると、鳥は、なにかに撃たれたように、ぱたりと地面に落ちた。
「……!!」
 信じられない光景に、新八が目を丸くする。
「これが気合術……我が師・三助は、鉄砲を持った猟師と決闘になったとき、気合いをかけると、猟師は動けなくなり、引き金を引くことができずに、一刀のもとに斬られたそうじゃ……
馬の鞭で、ひと抱えもある岩を、気合いもろとも真っ二つにした、などという話も伝わっておる。
まあ、わしにできるのは、せいぜい小鳥を、落とすぐらいじゃがな」
「それは、ひとを相手にしても、効くものなのでしょうか?」
「おぬしが、思わず竹刀を振りおろしたのは、なぜじゃ?」

 新八は、蔵六から叩きつけられた、凄まじい殺気を思いだしていた。
「そう……倒せなくとも、あのように使えば、多少は、役にたつ」

(あの気合いをまともに受けたら、気の弱いやつなら失神ぐらいするかもしれねえな……)

 などと、新八が考えていると、
「なに糞! という気概があれば、あの程度の殺気は、跳ねかえすことができる。おぬしも、わしが最初に仕掛けたとき、見事に跳ね返したではないか。
我が流儀では、そういう気組きぐみを大切にしておる」
「気組……」
「気持ちは、常に戦場に在れ。――それが剣客の心得じゃ」
「しかし、気合いぐらいは、誰でもかけるのでは?」
「近ごろの撃剣の気合いなど、単なるかけ声にすぎん。本来の気合いは、己の能力ちからを高め、相手を畏怖させねばならん……天然理心流の気組とは、そういうものじゃ」
 新八は、激しく心を動かされていた。
 はじめて真剣の斬りあいをしたときも、山岡鉄太郎とたちあったときも、小手先の技術など消しとび、気合いの勝負だったからだ。
「蔵六師範。しばらく俺をこの道場に置いてもらい、稽古をつけていただけないでしょうか」
「ふん。それはかまわんが……そのかわり、畑仕事を手伝ってもらうからな。剣術より、よほど大変じゃ」
 そう言うと蔵六は、楽しそうに笑った。
 柿の木の根本に眼を向けると、気絶していたメジロが、ブルッと身を震わせ、あわただしく飛びたっていった。
しおりを挟む
感想 1

あなたにおすすめの小説

邪気眼侍

橋本洋一
歴史・時代
時は太平、場所は大江戸。旗本の次男坊、桐野政明は『邪気眼侍』と呼ばれる、常人には理解できない設定を持つ奇人にして、自らの設定に忠実なキワモノである。 或る時は火の見櫓に上って意味深に呟いては降りられなくなり、また或る時は得体の知れない怪しげな品々を集めたり、そして時折発作を起こして周囲に迷惑をかける。 そんな彼は相棒の弥助と一緒に、江戸の街で起きる奇妙な事件を解決していく。女房が猫に取り憑かれたり、行方不明の少女を探したり、歌舞伎役者の悩みを解決したりして―― やがて桐野は、一連の事件の背景に存在する『白衣の僧侶』に気がつく。そいつは人を狂わす悪意の塊だった。言い知れぬ不安を抱えつつも、邪気眼侍は今日も大江戸八百八町を駆け巡る。――我が邪気眼はすべてを見通す!  中二病×時代劇!新感覚の時代小説がここに開幕!

小童、宮本武蔵

雨川 海(旧 つくね)
歴史・時代
兵法家の子供として生まれた弁助は、野山を活発に走る小童だった。ある日、庄屋の家へ客人として旅の武芸者、有馬喜兵衛が逗留している事を知り、見学に行く。庄屋の娘のお通と共に神社へ出向いた弁助は、境内で村人に稽古をつける喜兵衛に反感を覚える。実は、弁助の父の新免無二も武芸者なのだが、人気はさっぱりだった。つまり、弁助は喜兵衛に無意識の内に嫉妬していた。弁助が初仕合する顚末。 備考 井上雄彦氏の「バガボンド」や司馬遼太郎氏の「真説 宮本武蔵」では、武蔵の父を無二斎としていますが、無二の説もあるため、本作では無二としています。また、通説では、武蔵の父は幼少時に他界している事になっていますが、関ヶ原の合戦の時、黒田如水の元で九州での戦に親子で参戦した。との説もあります。また、佐々木小次郎との決闘の時にも記述があるそうです。 その他、諸説あり、作品をフィクションとして楽しんでいただけたら幸いです。物語を鵜呑みにしてはいけません。 宮本武蔵が弁助と呼ばれ、野山を駆け回る小僧だった頃、有馬喜兵衛と言う旅の武芸者を見物する。新当流の達人である喜兵衛は、派手な格好で神社の境内に現れ、門弟や村人に稽古をつけていた。弁助の父、新免無二も武芸者だった為、その盛況ぶりを比較し、弁助は嫉妬していた。とは言え、まだ子供の身、大人の武芸者に太刀打ちできる筈もなく、お通との掛け合いで憂さを晴らす。 だが、運命は弁助を有馬喜兵衛との対決へ導く。とある事情から仕合を受ける事になり、弁助は有馬喜兵衛を観察する。当然だが、心技体、全てに於いて喜兵衛が優っている。圧倒的に不利な中、弁助は幼馴染みのお通や又八に励まされながら仕合の準備を進めていた。果たして、弁助は勝利する事ができるのか? 宮本武蔵の初死闘を描く! 備考 宮本武蔵(幼名 弁助、弁之助) 父 新免無二(斎)、武蔵が幼い頃に他界説、親子で関ヶ原に参戦した説、巌流島の決闘まで存命説、など、諸説あり。 本作は歴史の検証を目的としたものではなく、脚色されたフィクションです。

トノサマニンジャ

原口源太郎
歴史・時代
外様大名でありながら名門といわれる美濃赤吹二万石の三代目藩主、永野兼成は一部の家来からうつけの殿様とか寝ぼけ殿と呼ばれていた。江戸家老はじめ江戸屋敷の家臣たちは、江戸城で殿様が何か粗相をしでかしはしないかと気をもむ毎日であった。しかしその殿様にはごく少数の者しか知らない別の顔があった。

百合ランジェリーカフェにようこそ!

楠富 つかさ
青春
 主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?  ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!! ※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。 表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。

大日本帝国、アラスカを購入して無双する

雨宮 徹
歴史・時代
1853年、ロシア帝国はクリミア戦争で敗戦し、財政難に悩んでいた。友好国アメリカにアラスカ購入を打診するも、失敗に終わる。1867年、すでに大日本帝国へと生まれ変わっていた日本がアラスカを購入すると金鉱や油田が発見されて……。 大日本帝国VS全世界、ここに開幕! ※架空の日本史・世界史です。 ※分かりやすくするように、領土や登場人物など世界情勢を大きく変えています。 ※ツッコミどころ満載ですが、ご勘弁を。

幕末レクイエム―士魂の城よ、散らざる花よ―

馳月基矢
歴史・時代
徳川幕府をやり込めた勢いに乗じ、北進する新政府軍。 新撰組は会津藩と共に、牙を剥く新政府軍を迎え撃つ。 武士の時代、刀の時代は終わりを告げる。 ならば、刀を執る己はどこで滅ぶべきか。 否、ここで滅ぶわけにはいかない。 士魂は花と咲き、決して散らない。 冷徹な戦略眼で時流を見定める新撰組局長、土方歳三。 あやかし狩りの力を持ち、無敵の剣を謳われる斎藤一。 schedule 公開:2019.4.1 連載:2019.4.19-5.1 ( 6:30 & 18:30 )

剣客居酒屋 草間の陰

松 勇
歴史・時代
酒と肴と剣と闇 江戸情緒を添えて 江戸は本所にある居酒屋『草間』。 美味い肴が食えるということで有名なこの店の主人は、絶世の色男にして、無双の剣客でもある。 自分のことをほとんど話さないこの男、冬吉には実は隠された壮絶な過去があった。 多くの江戸の人々と関わり、その舌を満足させながら、剣の腕でも人々を救う。 その慌し日々の中で、己の過去と江戸の闇に巣食う者たちとの浅からぬ因縁に気付いていく。 店の奉公人や常連客と共に江戸を救う、包丁人にして剣客、冬吉の物語。

夜に咲く花

増黒 豊
歴史・時代
2017年に書いたものの改稿版を掲載します。 幕末を駆け抜けた新撰組。 その十一番目の隊長、綾瀬久二郎の凄絶な人生を描く。 よく知られる新撰組の物語の中に、架空の設定を織り込み、彼らの生きた跡をより強く浮かび上がらせたい。

処理中です...