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5 清河八郎
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日暮れどきの町を、新八が三味線堀の藩邸にかえりつくと、ばったり市川宇八郎に出くわした。
いかにも江戸の侍らしい、いつもの着流しではなく、珍しく、ぱりっとした仙台平の袴を穿いている。
「おい、市っちゃん。どうした、めかしこんだりして。
ははあ……わかったぞ。おまえ、どこぞに、いいコレでも出来やがったな」
「馬鹿言ってんじゃねえ。これから攘夷の話で、ひとに会いにいくんだ」
宇八郎は、ペリー来航以来、攘夷熱にとりつかれていた。
熱心のあまり、二年ほど前に、薬研堀にある私塾に、通っていたぐらいである。
「ああ、そういえば、一昨年は、神無月(十月)の大地震でつぶれた塾に通ってたっけな」
安政二年の大地震。武江年表に『元禄十六年以来の大地震なるべし……』とある。
「その塾の先生が今年の夏に、また駿河台下で塾を開くってんで、江戸に出てきたんだ。挨拶せぬわけにはゆくまい」
「へえ。そうなんだ……でもよ、その先生、二年もの間なにをやっていたんだ?」
「それが……御母堂を、日本全国の名所旧跡に、案内していたそうだ」
「ふうん。そいつはまた、ずいぶんと親孝行な先生がいたもんだな」
あまり関心がないのか、新八が上の空でこたえる。
「――と、いうのは、世を忍ぶ仮の姿で」
宇八郎は、声をひそめ、続ける。
「どうやら御母堂を隠れ蓑に、各藩の攘夷仲間と、緊密に連絡を取っていたらしい」
「ほう、なかなかやるな」
「それだけじゃあねえ。攘夷は口だけではないことを示すため、千葉道場で、北辰一刀流をみっちり修行して、目録をとったそうだ」
「へえ。そりゃ大したもんだ」
北辰一刀流ときいて、新八が身を乗りだした。
「ふふふ、やっぱり八つぁんは、剣術馬鹿だね。北辰一刀流ときいたとたんに、急に話に乗ってくるんだから」
「俺は、頭が悪いから尊王だとか攘夷だとか、難しい話は、よくわからねえ。だけどよ……夷戎を追っ払うのに、剣術のひとつも出来ないようじゃあ、どうしようもねえからな」
「八つぁんらしいなあ。――どうだい、八つぁんも、ひとつ、その先生に会ってみるかい?」
「嫌だよ。そんな先生と話したって、俺には、むずかしいことなんか、わかりゃあしねえよ」
新八が頭を掻きながら言った。
「まあ、そう言わず付き合えよ。じつは先生以外にも、先生がこっちで宿屋がわりに泊まりこんでる、旗本の家主がいっしょにくるらしくて、そいつがまた、一刀流の使い手なんだぜ」
「へえ。一刀流か……そいつの名前は?」
「えーと、たしか小普請組の……山岡鉄太郎ってんだ。そいつの友達の松岡万には会ったことがあるが、山岡とは、すれ違いばかりで、今日はじめて顔を合わせるんだけど……」
「山岡……鉄太郎? きいたことあるな。たしか、もともとは、浅利先生のところにいたが、いまは、お玉が池(千葉道場のこと)の客分になってるって話だ」
「さすが八つぁんだ。剣術界には、滅法界詳しいね」
「道場の師範代なんてやってると、嫌でもいろんな話が入ってくるものさ……
しかし、その先生は、なんで宿屋をとらないんだ?」
新八の疑問は、もっともだった。
「ああ、八つぁんは、あんまり宿屋のことなんかにゃあ、関心がねえからな。じつは……」
江戸の宿屋というのは、大部分が馬喰町、小伝馬町にあった。
その宿屋は、大きく百姓宿と旅人宿に分けられる。
このうち百姓宿は、いわゆる公事宿専門で、一般客は泊まれない。
そして、旅人宿も公事宿を兼ねており、訴訟などが長引いてもいいように、サービスを廃した、ごく安い宿屋なのだ。
したがって、現代の旅館と同じような、京や大阪の宿屋に慣れているものにとって、とても耐えられるものではなかった。
近ごろは高級な宿屋もできはじめているが、そうした宿屋には、例外なく岡っ引きが出入りしているので、清河のように隠密に行動する者には向いていなかった。
「まあ、あの先生は、二年前に地震で塾が潰れる前にも、江戸に住んでいたから、とてもじゃねえが、そんな宿屋は、願い下げだろうよ」
「へっ、なんだい。ずいぶん傲ってやがるな」
「先生のご実家は、出羽の分限者らしいからなあ……金はいくらでもある。そりゃあ、少しは、傲ろうってもんさ」
「なんだか、会う前から、そいつのことが嫌いになりそうだぜ」
「まあ、そう厳しいことを言わず、いっぺん会ってみてくれよ」
新八は、宇八郎に引きずられるように、池之端仲町までやってきた。
「おい、市っちゃん。こいつは驚いた。本当にこの店にご招待かい? その先生は、どこのお大尽だ」
連れて行かれたのは、細い路地を入ったところにある、黒板塀の小粋な料理屋『はなぶさ』である。
不忍池に面した池之端仲町は、江戸でも高級な店が軒を連ねることで知られており、この店などは、ちょっと飲み食いすれば、一両や二両の金は、たちまち飛んでゆく。
「だから言ったじゃねえか……先生のご実家は資産家だって」
「それにしてもよ、もし、割り勘だなんて言われても、俺は知らねえからな」
などと、声高にしゃべっていると、店の扉が開き、女将らしき小股の切れあがった三十路の大年増が顔をだし、艶然と微笑んだ。
「いらっしゃいませ。市川さまですか? お連れ様がお待ちです。どうぞお通りください」
間口は狭いが、店はかなり広かった。築山に池を配した中庭をすぎ、案内されたのは、奥の離れである。
障子を開くと、上座に四角い顔をした男が座っていた。眉も鼻もごつごつした造りで、目だけが妙に光っている。
座敷にはその男の以外にも、すでに三人の男がいた。
二人は、どこにでもいそうな武士だが、ひとりは、驚くほど身体が大きい。
その男は、ただそこに座っているだけなのに、じわじわと、のしかかるような圧迫感がある。
不自然なほど肩が盛りあがり、袖口からはみ出した腕は、節くれだち、松の根っこのようだ。
さらに厳ついのが、その顔である。
男は、無愛想に口を結び、挑みかかるような視線を、新八と宇八郎におくった。
「先生。お久しぶりです。その節は、大変お世話になりました」
宇八郎が挨拶する。
「やあ。市川君! 君とは二年ぶりだったね。元気そうでなによりだ。
こちらの、山のように大きな男が、山岡鉄太郎君。そして、松岡万君。こちらの色男が、薩摩の益満休之介君だ。ところで君の連れは……」
「はじめまして。拙者、永倉新八と申します。以後、お見知りおきを」
男は、永倉に視線を送り、
「永倉君。まあ、座りたまえ。僕は、出羽浪人清河八郎というものだ」
と、挨拶した。いささか尊大な態度である。
清河は、浪人と名乗ったが、じつはそうではない。
その生家は、造り酒屋の事業を成功させた、庄内藩領・清河村の裕福な郷士である。
本名は斎藤だが、村の名を姓にしていた。浪人を自称しているのは、郷士と名乗るより、話の通りがよいからにすぎない。
「永倉君も、市川君と同じように松前家中ですか?」
「ええ。宇八郎とは、同じ長屋に暮らしております」
「見たところ、かなり剣術を修行したようですな」
清河の話す言葉は、字面だけ追うと、江戸のしゃべり方のようだが、語尾が上がり、まるで、鼻をつままれたかのように、明瞭さに欠けていた。
「新八は、神道無念流岡田道場の免許皆伝です」
宇八郎が自分のことのように、得意げに言った。
「ほほう。それは大したものですなあ。僕は、剣術の腕前は半人前で、しょっちゅう弟に撃ちこまれて、閉口しとります」
と言って笑う。
笑うとふしぎと尊大さは影をひそめ、人懐こい表情にかわった。
「――がむしゃら新八。通称がむしん……たしか、そう呼ばれておりましたな」
山岡が、はじめて口を開いた。
「ほう。よくご存知で……そういうそこもとは、鬼の鉄太郎……通称、鬼鉄と呼ばれていましたっけ」
新八がそう言うと、山岡が笑った。
人懐こい清河の笑顔とちがい、その目は、まったく笑っていない。
「そう呼ぶやつもいます。ところで永倉殿……
貴殿からは、血腥い気配が漂っておりますな」
「ふふふ……俺は剣術遣いだからね。よく血の気が多いと言われていますよ。なんなら、いま、ここで立ち合ってもいい……」
新八が、不敵な微笑みを浮かべた。
しかし山岡は、新八の挑発には乗らず、呵々と大笑いする。
「はっはっは……戯れ言でござる。赦されよ。貴殿には、とても敵う気がしない。勝負は遠慮しておこう」
と、口では言ったが、山岡の目付きはかわらない。敵う気がしない、などとは欠片も思っていないことは、明らかだった。
「わっはっはっは」
いきなり清河が笑い声をあげた。
「おふた方。まあ、そんな野暮な話は、やめましょう。君たちに集まってもらったのは、もめ事を起こすためじゃない」
清河は、いったん間をあけ、
「――攘夷の話をするためです」
と、重々しく続けた。
清河の言葉には、北国特有の訛りがあり、そのユーモラスな抑揚が、場の空気を和ませた。
「おふたりは、松前家中だからご存知でしょう。
今回のペルリだけでなく、ロシアも、我が皇国を狙って、しきりに挑発を繰り返していることを……先だっても、やつらは樺太を襲撃して、皇国を蹂躙する気配を見せている」
文化三年のロシアによる、樺太襲撃事件のことである。
襲撃は、翌年も続き、ロシアは樺太のシャナに陸戦隊を上陸させ、村を焼き払い、略奪を行っている。
このさい、盛岡、弘前藩の大砲が奪われ、両藩は、撤退を余儀なくされた。
さらに、礼文島にて幕府の船や、松前藩の商船が襲われている。
この報は、松前藩にもたらされ、危機感を抱いた幕府は、弘前、盛岡、庄内、秋田などから、約三千名もの兵を、北方の防備に派遣していた。
この事件のおかげで、幕府の信頼を失い国替えになったことは、松前藩では、いまだに禁忌になっている。
しかし、この事件を重く見た幕府は、極力この事実を世間から隠蔽していた。
したがって、この事件を知っているのは、幕閣の要人や、各藩の首脳部に限られている。
つまり、こうした事件を知っているということは、清河が有力者に、何らかのコネクションを持っていることを意味していた。
「清河先生。その件は、我が家中でも、めったに口外してはいけないことになっています……どうか、あまり、おおっぴらに、しないでいただけませんか」
宇八郎が珍しく真剣な口調で言うと、清河が居ずまいを正した。
「市川君! 愚かなことを言ってはいかん。いまは、そんな些細な事柄にこだわっている場合ではない!
いいかね……ペルリは、武力を持って、我が皇国を恫喝してきたのだよ。
畏れ多くも天帝が治められる我が皇国を、紅毛碧眼の夷狄奴らに汚されて、君は、黙って手をこまねいているつもりか!」
話しているうちに、清河の頬は紅潮し、目にはうっすらと涙すら浮かべている。
新八は、なかば呆れ顔できいていたが、山岡や、松岡、益満の三人も興奮した顔つきで身を乗りだしていた。
「先生。拙者は、座してこれを見過ごすつもりなどは、毛頭ござらん!
だからこそ、こうして呼びだしに応じたのです」
そして、宇八郎までもが清河の言葉に乗せられ、気持ちを昂らせている。
一方で、政治には、まったく関心のない新八は、なにか取り残されたような気分で、その様子を呆然と見ていた。
(なんだい。市っちゃんまで、すっかりこの清河って男に乗せられてやがる……)
「市川君。よくぞ言った! それでこそ、我等が同士だ!」
清河が北国訛で宇八郎に言った。
訥々としたしゃべりかたが、かえって、誠実そうな印象をあたえている。
しかし、あくまでも新八は、剣客である。だから、清河のこうした書生論には、まるで気をひかれなかった。
その前に、攘夷は、理解できるとして、尊王ということがよくわからない。
だがそれは、無理もないことであった。というのも、そもそも尊王というのは、江戸中期の水戸学から出た観念的な思想で、この時期、それほど一般的とはいえなかったのだ。
また、尊王イコール倒幕という図式が出来あがるには、ある事件を待たねばならない。
少なくとも、安政四年の時点では、幕府の支配力は、磐石とはいえないまでも、かろうじて効力を失ってはいなかったからだ。
「しかし……攘夷、攘夷というが、いったいその言葉を、どのようにして実行するんだい? 俺にはそれが、さっぱりわからねえ」
会話の流れについていけない新八が、思わず口をはさんだ。
「永倉君。それは、大変よい質問です……そう、いくら攘夷を叫んでも、行動が伴わければ、単なる机上の空論にすぎない。我等は、夷狄奴らが再び皇国を汚すとき、敢然と行動に出る所存だ!」
清河の声が高くなる。
聞き手は、しゃべり始めは、こもって聞き取りにくい清河の話を理解しようとして、思わず耳をかたむける。
そうやって注意を引くことで、次第に話の内容に引きこむのが、清河の話術だった。
清河は、天皇がいかに畏れ多く高貴な存在なのかについて、熱く語る。新八を除く皆は、すっかり感心して、話に聞きいっている。大日本史などを引用した話は、含蓄にとみ、教養の深さをしのばせた。
(それにしても、この男……さっぱり肚を見せねえ)
話の内容についていけない新八は、清河の別の部分に注目していた。それは、やけに大袈裟な清河の身ぶりであった。
ところが、新八も清河のその身ぶりを注目しているうちに、知らぬ間に、すっかり話術に惹きこまれていた。
清河は、話が肝心な部分にさしかかると、必ず身ぶりで、話の内容を強調する。
たとえば、夷狄を斬るという台詞には、必ず斬る動作を入れた。
さらに、そのときには、まるで真剣に斬りあいをしているかのような、殺気すら孕ませる。
そして、天帝、皇国、尊王といった言葉を随所にはさみ、何度も口にした。
単純な山岡や益満はともかく、大げさなことが嫌いな宇八郎や、松岡までもが、淘然とそれに聞きいっている。
これは、ナチスの総統ヒトラーが用いた、人心掌握のテクニックと共通する、演説の高等技術だった。
もちろん、清河は、ある程度それを意識はしてはいたが、ほとんどは、その場の空気に合わせ、思いつきでしゃべっているにすぎないが、聞き手は知らず知らずのうちに、その話術にとりこまれてしまう。
まさに、生まれついての、稀代のアジテーターと言ってよいだろう。
「さて……諸君は、ペルリの脅迫に、なす術もなく、右往左往する弱腰で日和見な幕閣をどう思うかね。僕は、やつらの態度に、我慢がならんのだ!」
そして、話に強弱をつけ、主張したい部分では、激したように声を高くした。しゃべりはじめの吶々とした語り口が嘘のような、なめらかな弁舌だ。
(こいつは……とんだ食わせ者かと思ったが……)
新八は、当初、清河を信用の置けない詐欺師と見ていたが、少なくとも清河の言葉には、まったく嘘がないと思いはじめていた。
もちろん、山岡や松岡などのように、清河を完全に信じたわけではないが、その眼に燃えあがる炎のような情熱は、たしかに本物だった。
「市川君。そして、永倉君……いますぐとは言わん。いずれ、我ら憂国の士が、夷狄奴らに攘夷の天誅を下すときには、ぜひとも同士として、加盟してくれることを期待している」
店を出たあとも宇八郎は、上気した顔をしていた。元々、攘夷の意思が強かったので、すっかり清河の弁舌に酔っているようだ。
一方、新八は、珍しく眉間に皺を寄せ、真剣な表情をしていた。
「八っつぁん……どうした。黙りこんだりして。ははあ。さては、先生を疑っているのか?」
「いや、そういうわけじゃねえ。あまり、いけすかねえが、清河の言葉に、嘘はないと思う」
「なら、なんだい? 山岡と、もめたことに、こだわってるのか?」
「ちがう……俺は、攘夷よりも清河という男に、眼を開かされた思いがする。やっぱり、狭い世界に閉じこもっていたんじゃあ、それなりの人間にしか、なれないような気がしてきた……」
「へっ? どういう意味だい」
「市っちゃん……俺は、今度の試合が終わったら、武者修行の旅に出るぜ」
新八が宇八郎に向きなおり、真剣な表情で言った。
「本気か? 八っつぁんは跡取りだぜ。上が許可するかどうか……」
「なあに。許しがでなければ、いさぎよく欠落《かけおち》するまでだ」
「おい。本気で言ってるのか?」
「もちろんさ。講武所の窪田先生にも言われたんだ……小さくまとまるなって。俺は、俺の剣を、もっと深めてみたいんだ。
いまのままじゃあ、いずれ、伊庭の若先生にも、抜かれちまうような気がしてならねえ」
「どうやら本気みたいだな」
新八は、宇八郎の言葉にはこたえず黙念と歩き続けた。
いかにも江戸の侍らしい、いつもの着流しではなく、珍しく、ぱりっとした仙台平の袴を穿いている。
「おい、市っちゃん。どうした、めかしこんだりして。
ははあ……わかったぞ。おまえ、どこぞに、いいコレでも出来やがったな」
「馬鹿言ってんじゃねえ。これから攘夷の話で、ひとに会いにいくんだ」
宇八郎は、ペリー来航以来、攘夷熱にとりつかれていた。
熱心のあまり、二年ほど前に、薬研堀にある私塾に、通っていたぐらいである。
「ああ、そういえば、一昨年は、神無月(十月)の大地震でつぶれた塾に通ってたっけな」
安政二年の大地震。武江年表に『元禄十六年以来の大地震なるべし……』とある。
「その塾の先生が今年の夏に、また駿河台下で塾を開くってんで、江戸に出てきたんだ。挨拶せぬわけにはゆくまい」
「へえ。そうなんだ……でもよ、その先生、二年もの間なにをやっていたんだ?」
「それが……御母堂を、日本全国の名所旧跡に、案内していたそうだ」
「ふうん。そいつはまた、ずいぶんと親孝行な先生がいたもんだな」
あまり関心がないのか、新八が上の空でこたえる。
「――と、いうのは、世を忍ぶ仮の姿で」
宇八郎は、声をひそめ、続ける。
「どうやら御母堂を隠れ蓑に、各藩の攘夷仲間と、緊密に連絡を取っていたらしい」
「ほう、なかなかやるな」
「それだけじゃあねえ。攘夷は口だけではないことを示すため、千葉道場で、北辰一刀流をみっちり修行して、目録をとったそうだ」
「へえ。そりゃ大したもんだ」
北辰一刀流ときいて、新八が身を乗りだした。
「ふふふ、やっぱり八つぁんは、剣術馬鹿だね。北辰一刀流ときいたとたんに、急に話に乗ってくるんだから」
「俺は、頭が悪いから尊王だとか攘夷だとか、難しい話は、よくわからねえ。だけどよ……夷戎を追っ払うのに、剣術のひとつも出来ないようじゃあ、どうしようもねえからな」
「八つぁんらしいなあ。――どうだい、八つぁんも、ひとつ、その先生に会ってみるかい?」
「嫌だよ。そんな先生と話したって、俺には、むずかしいことなんか、わかりゃあしねえよ」
新八が頭を掻きながら言った。
「まあ、そう言わず付き合えよ。じつは先生以外にも、先生がこっちで宿屋がわりに泊まりこんでる、旗本の家主がいっしょにくるらしくて、そいつがまた、一刀流の使い手なんだぜ」
「へえ。一刀流か……そいつの名前は?」
「えーと、たしか小普請組の……山岡鉄太郎ってんだ。そいつの友達の松岡万には会ったことがあるが、山岡とは、すれ違いばかりで、今日はじめて顔を合わせるんだけど……」
「山岡……鉄太郎? きいたことあるな。たしか、もともとは、浅利先生のところにいたが、いまは、お玉が池(千葉道場のこと)の客分になってるって話だ」
「さすが八つぁんだ。剣術界には、滅法界詳しいね」
「道場の師範代なんてやってると、嫌でもいろんな話が入ってくるものさ……
しかし、その先生は、なんで宿屋をとらないんだ?」
新八の疑問は、もっともだった。
「ああ、八つぁんは、あんまり宿屋のことなんかにゃあ、関心がねえからな。じつは……」
江戸の宿屋というのは、大部分が馬喰町、小伝馬町にあった。
その宿屋は、大きく百姓宿と旅人宿に分けられる。
このうち百姓宿は、いわゆる公事宿専門で、一般客は泊まれない。
そして、旅人宿も公事宿を兼ねており、訴訟などが長引いてもいいように、サービスを廃した、ごく安い宿屋なのだ。
したがって、現代の旅館と同じような、京や大阪の宿屋に慣れているものにとって、とても耐えられるものではなかった。
近ごろは高級な宿屋もできはじめているが、そうした宿屋には、例外なく岡っ引きが出入りしているので、清河のように隠密に行動する者には向いていなかった。
「まあ、あの先生は、二年前に地震で塾が潰れる前にも、江戸に住んでいたから、とてもじゃねえが、そんな宿屋は、願い下げだろうよ」
「へっ、なんだい。ずいぶん傲ってやがるな」
「先生のご実家は、出羽の分限者らしいからなあ……金はいくらでもある。そりゃあ、少しは、傲ろうってもんさ」
「なんだか、会う前から、そいつのことが嫌いになりそうだぜ」
「まあ、そう厳しいことを言わず、いっぺん会ってみてくれよ」
新八は、宇八郎に引きずられるように、池之端仲町までやってきた。
「おい、市っちゃん。こいつは驚いた。本当にこの店にご招待かい? その先生は、どこのお大尽だ」
連れて行かれたのは、細い路地を入ったところにある、黒板塀の小粋な料理屋『はなぶさ』である。
不忍池に面した池之端仲町は、江戸でも高級な店が軒を連ねることで知られており、この店などは、ちょっと飲み食いすれば、一両や二両の金は、たちまち飛んでゆく。
「だから言ったじゃねえか……先生のご実家は資産家だって」
「それにしてもよ、もし、割り勘だなんて言われても、俺は知らねえからな」
などと、声高にしゃべっていると、店の扉が開き、女将らしき小股の切れあがった三十路の大年増が顔をだし、艶然と微笑んだ。
「いらっしゃいませ。市川さまですか? お連れ様がお待ちです。どうぞお通りください」
間口は狭いが、店はかなり広かった。築山に池を配した中庭をすぎ、案内されたのは、奥の離れである。
障子を開くと、上座に四角い顔をした男が座っていた。眉も鼻もごつごつした造りで、目だけが妙に光っている。
座敷にはその男の以外にも、すでに三人の男がいた。
二人は、どこにでもいそうな武士だが、ひとりは、驚くほど身体が大きい。
その男は、ただそこに座っているだけなのに、じわじわと、のしかかるような圧迫感がある。
不自然なほど肩が盛りあがり、袖口からはみ出した腕は、節くれだち、松の根っこのようだ。
さらに厳ついのが、その顔である。
男は、無愛想に口を結び、挑みかかるような視線を、新八と宇八郎におくった。
「先生。お久しぶりです。その節は、大変お世話になりました」
宇八郎が挨拶する。
「やあ。市川君! 君とは二年ぶりだったね。元気そうでなによりだ。
こちらの、山のように大きな男が、山岡鉄太郎君。そして、松岡万君。こちらの色男が、薩摩の益満休之介君だ。ところで君の連れは……」
「はじめまして。拙者、永倉新八と申します。以後、お見知りおきを」
男は、永倉に視線を送り、
「永倉君。まあ、座りたまえ。僕は、出羽浪人清河八郎というものだ」
と、挨拶した。いささか尊大な態度である。
清河は、浪人と名乗ったが、じつはそうではない。
その生家は、造り酒屋の事業を成功させた、庄内藩領・清河村の裕福な郷士である。
本名は斎藤だが、村の名を姓にしていた。浪人を自称しているのは、郷士と名乗るより、話の通りがよいからにすぎない。
「永倉君も、市川君と同じように松前家中ですか?」
「ええ。宇八郎とは、同じ長屋に暮らしております」
「見たところ、かなり剣術を修行したようですな」
清河の話す言葉は、字面だけ追うと、江戸のしゃべり方のようだが、語尾が上がり、まるで、鼻をつままれたかのように、明瞭さに欠けていた。
「新八は、神道無念流岡田道場の免許皆伝です」
宇八郎が自分のことのように、得意げに言った。
「ほほう。それは大したものですなあ。僕は、剣術の腕前は半人前で、しょっちゅう弟に撃ちこまれて、閉口しとります」
と言って笑う。
笑うとふしぎと尊大さは影をひそめ、人懐こい表情にかわった。
「――がむしゃら新八。通称がむしん……たしか、そう呼ばれておりましたな」
山岡が、はじめて口を開いた。
「ほう。よくご存知で……そういうそこもとは、鬼の鉄太郎……通称、鬼鉄と呼ばれていましたっけ」
新八がそう言うと、山岡が笑った。
人懐こい清河の笑顔とちがい、その目は、まったく笑っていない。
「そう呼ぶやつもいます。ところで永倉殿……
貴殿からは、血腥い気配が漂っておりますな」
「ふふふ……俺は剣術遣いだからね。よく血の気が多いと言われていますよ。なんなら、いま、ここで立ち合ってもいい……」
新八が、不敵な微笑みを浮かべた。
しかし山岡は、新八の挑発には乗らず、呵々と大笑いする。
「はっはっは……戯れ言でござる。赦されよ。貴殿には、とても敵う気がしない。勝負は遠慮しておこう」
と、口では言ったが、山岡の目付きはかわらない。敵う気がしない、などとは欠片も思っていないことは、明らかだった。
「わっはっはっは」
いきなり清河が笑い声をあげた。
「おふた方。まあ、そんな野暮な話は、やめましょう。君たちに集まってもらったのは、もめ事を起こすためじゃない」
清河は、いったん間をあけ、
「――攘夷の話をするためです」
と、重々しく続けた。
清河の言葉には、北国特有の訛りがあり、そのユーモラスな抑揚が、場の空気を和ませた。
「おふたりは、松前家中だからご存知でしょう。
今回のペルリだけでなく、ロシアも、我が皇国を狙って、しきりに挑発を繰り返していることを……先だっても、やつらは樺太を襲撃して、皇国を蹂躙する気配を見せている」
文化三年のロシアによる、樺太襲撃事件のことである。
襲撃は、翌年も続き、ロシアは樺太のシャナに陸戦隊を上陸させ、村を焼き払い、略奪を行っている。
このさい、盛岡、弘前藩の大砲が奪われ、両藩は、撤退を余儀なくされた。
さらに、礼文島にて幕府の船や、松前藩の商船が襲われている。
この報は、松前藩にもたらされ、危機感を抱いた幕府は、弘前、盛岡、庄内、秋田などから、約三千名もの兵を、北方の防備に派遣していた。
この事件のおかげで、幕府の信頼を失い国替えになったことは、松前藩では、いまだに禁忌になっている。
しかし、この事件を重く見た幕府は、極力この事実を世間から隠蔽していた。
したがって、この事件を知っているのは、幕閣の要人や、各藩の首脳部に限られている。
つまり、こうした事件を知っているということは、清河が有力者に、何らかのコネクションを持っていることを意味していた。
「清河先生。その件は、我が家中でも、めったに口外してはいけないことになっています……どうか、あまり、おおっぴらに、しないでいただけませんか」
宇八郎が珍しく真剣な口調で言うと、清河が居ずまいを正した。
「市川君! 愚かなことを言ってはいかん。いまは、そんな些細な事柄にこだわっている場合ではない!
いいかね……ペルリは、武力を持って、我が皇国を恫喝してきたのだよ。
畏れ多くも天帝が治められる我が皇国を、紅毛碧眼の夷狄奴らに汚されて、君は、黙って手をこまねいているつもりか!」
話しているうちに、清河の頬は紅潮し、目にはうっすらと涙すら浮かべている。
新八は、なかば呆れ顔できいていたが、山岡や、松岡、益満の三人も興奮した顔つきで身を乗りだしていた。
「先生。拙者は、座してこれを見過ごすつもりなどは、毛頭ござらん!
だからこそ、こうして呼びだしに応じたのです」
そして、宇八郎までもが清河の言葉に乗せられ、気持ちを昂らせている。
一方で、政治には、まったく関心のない新八は、なにか取り残されたような気分で、その様子を呆然と見ていた。
(なんだい。市っちゃんまで、すっかりこの清河って男に乗せられてやがる……)
「市川君。よくぞ言った! それでこそ、我等が同士だ!」
清河が北国訛で宇八郎に言った。
訥々としたしゃべりかたが、かえって、誠実そうな印象をあたえている。
しかし、あくまでも新八は、剣客である。だから、清河のこうした書生論には、まるで気をひかれなかった。
その前に、攘夷は、理解できるとして、尊王ということがよくわからない。
だがそれは、無理もないことであった。というのも、そもそも尊王というのは、江戸中期の水戸学から出た観念的な思想で、この時期、それほど一般的とはいえなかったのだ。
また、尊王イコール倒幕という図式が出来あがるには、ある事件を待たねばならない。
少なくとも、安政四年の時点では、幕府の支配力は、磐石とはいえないまでも、かろうじて効力を失ってはいなかったからだ。
「しかし……攘夷、攘夷というが、いったいその言葉を、どのようにして実行するんだい? 俺にはそれが、さっぱりわからねえ」
会話の流れについていけない新八が、思わず口をはさんだ。
「永倉君。それは、大変よい質問です……そう、いくら攘夷を叫んでも、行動が伴わければ、単なる机上の空論にすぎない。我等は、夷狄奴らが再び皇国を汚すとき、敢然と行動に出る所存だ!」
清河の声が高くなる。
聞き手は、しゃべり始めは、こもって聞き取りにくい清河の話を理解しようとして、思わず耳をかたむける。
そうやって注意を引くことで、次第に話の内容に引きこむのが、清河の話術だった。
清河は、天皇がいかに畏れ多く高貴な存在なのかについて、熱く語る。新八を除く皆は、すっかり感心して、話に聞きいっている。大日本史などを引用した話は、含蓄にとみ、教養の深さをしのばせた。
(それにしても、この男……さっぱり肚を見せねえ)
話の内容についていけない新八は、清河の別の部分に注目していた。それは、やけに大袈裟な清河の身ぶりであった。
ところが、新八も清河のその身ぶりを注目しているうちに、知らぬ間に、すっかり話術に惹きこまれていた。
清河は、話が肝心な部分にさしかかると、必ず身ぶりで、話の内容を強調する。
たとえば、夷狄を斬るという台詞には、必ず斬る動作を入れた。
さらに、そのときには、まるで真剣に斬りあいをしているかのような、殺気すら孕ませる。
そして、天帝、皇国、尊王といった言葉を随所にはさみ、何度も口にした。
単純な山岡や益満はともかく、大げさなことが嫌いな宇八郎や、松岡までもが、淘然とそれに聞きいっている。
これは、ナチスの総統ヒトラーが用いた、人心掌握のテクニックと共通する、演説の高等技術だった。
もちろん、清河は、ある程度それを意識はしてはいたが、ほとんどは、その場の空気に合わせ、思いつきでしゃべっているにすぎないが、聞き手は知らず知らずのうちに、その話術にとりこまれてしまう。
まさに、生まれついての、稀代のアジテーターと言ってよいだろう。
「さて……諸君は、ペルリの脅迫に、なす術もなく、右往左往する弱腰で日和見な幕閣をどう思うかね。僕は、やつらの態度に、我慢がならんのだ!」
そして、話に強弱をつけ、主張したい部分では、激したように声を高くした。しゃべりはじめの吶々とした語り口が嘘のような、なめらかな弁舌だ。
(こいつは……とんだ食わせ者かと思ったが……)
新八は、当初、清河を信用の置けない詐欺師と見ていたが、少なくとも清河の言葉には、まったく嘘がないと思いはじめていた。
もちろん、山岡や松岡などのように、清河を完全に信じたわけではないが、その眼に燃えあがる炎のような情熱は、たしかに本物だった。
「市川君。そして、永倉君……いますぐとは言わん。いずれ、我ら憂国の士が、夷狄奴らに攘夷の天誅を下すときには、ぜひとも同士として、加盟してくれることを期待している」
店を出たあとも宇八郎は、上気した顔をしていた。元々、攘夷の意思が強かったので、すっかり清河の弁舌に酔っているようだ。
一方、新八は、珍しく眉間に皺を寄せ、真剣な表情をしていた。
「八っつぁん……どうした。黙りこんだりして。ははあ。さては、先生を疑っているのか?」
「いや、そういうわけじゃねえ。あまり、いけすかねえが、清河の言葉に、嘘はないと思う」
「なら、なんだい? 山岡と、もめたことに、こだわってるのか?」
「ちがう……俺は、攘夷よりも清河という男に、眼を開かされた思いがする。やっぱり、狭い世界に閉じこもっていたんじゃあ、それなりの人間にしか、なれないような気がしてきた……」
「へっ? どういう意味だい」
「市っちゃん……俺は、今度の試合が終わったら、武者修行の旅に出るぜ」
新八が宇八郎に向きなおり、真剣な表情で言った。
「本気か? 八っつぁんは跡取りだぜ。上が許可するかどうか……」
「なあに。許しがでなければ、いさぎよく欠落《かけおち》するまでだ」
「おい。本気で言ってるのか?」
「もちろんさ。講武所の窪田先生にも言われたんだ……小さくまとまるなって。俺は、俺の剣を、もっと深めてみたいんだ。
いまのままじゃあ、いずれ、伊庭の若先生にも、抜かれちまうような気がしてならねえ」
「どうやら本気みたいだな」
新八は、宇八郎の言葉にはこたえず黙念と歩き続けた。
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